菅沼忠久(すがぬま ただひさ)は、戦国時代の三河国(現在の愛知県東部)から遠江国(現在の静岡県西部)にかけて活動した武将である。彼の名は、単独で歴史の表舞台を飾ることは稀であるが、遠江井伊谷(いいのや)の地域秩序を担った「井伊谷三人衆」の一角として、また、徳川家康の遠江平定と、その後の徳川四天王・井伊直政の飛躍を支えた重要人物として、歴史に確かな足跡を残している 1 。彼の生涯は、駿河の今川氏、三河の徳川氏という二大勢力の狭間で、一族と領地の存続を賭けて主家を乗り換えた戦国時代の国衆(在地領主)の典型的な姿を映し出している。
本報告書は、ユーザー様によって提示された「今川家臣。井伊谷三人衆の1人。桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、徳川家に仕える菅沼定盈から離反の誘いを受けて追従。のち井伊直政の被官となった」という概要を基点としつつ、その背景にある複雑な人間関係、政治的計算、そして時代の大きなうねりを解き明かすことを目的とする。特に、諸説が入り乱れる出自の謎、主家乗り換えという重大な決断の裏側、そして彼の一族が最終的に辿った道筋を、現存する史料に基づき詳細に分析する。これにより、菅沼忠久という一人の武将のミクロな視点から、戦国時代から近世へと移行する時代のマクロな歴史的変遷を考察する。
近年では、2017年に放送されたNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』において、俳優の阪田マサノブ氏が菅沼忠久を演じたことで、その存在がより広く知られるようになった 3 。本報告書は、こうした現代的な関心にも応えつつ、学術的な視座から菅沼忠久の実像に迫るものである。
菅沼忠久の人物像を理解する上で、最初の、そして最大の障壁となるのが、その出自に関する記録の混乱である。江戸時代に編纂された複数の家譜史料は、彼の父親について異なる記述を残しており、単純な誤記とは考えにくい「揺れ」が見られる。この章では、諸説を比較検討し、なぜそのような錯綜が生じたのか、その背景にある戦国武家の「家」のあり方や、江戸時代の家譜編纂事業の政治的事情にまで踏み込んで分析する。
菅沼忠久が属した菅沼氏は、清和源氏土岐氏の支流を称し、室町時代に三河国額田郡菅沼郷(現在の愛知県新城市周辺)に土着したことに始まるとされる有力な国衆であった 6 。一族は三河各地に勢力を拡大し、宗家とされる島田菅沼氏のほか、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、野田菅沼氏といった多くの分家を形成し、それぞれが地域に割拠した 7 。
菅沼氏は、単一の指揮系統下に置かれた一枚岩の組織ではなく、地域ごとに独立した経営を行う一族連合体としての性格が強かった。彼らは一族としての連帯感を持ちつつも、それぞれの家の利害に基づいて行動していた。後に詳述するが、菅沼忠久が徳川家康に帰属するきっかけが、同族である野田菅沼家の菅沼定盈からの働きかけであったことは、この一族ネットワークの存在を如実に物語っている 9 。
忠久が属したとされる都田(みやこだ)菅沼家は、これらの分家の一つである長篠菅沼氏からさらに分かれた支流と位置づけられている 1 。都田は遠江国引佐郡にあり、井伊谷に近接する戦略的な要地であった。
江戸幕府が編纂した公式な系譜集である『寛政重修諸家譜』や『寛永諸家系図伝』において、菅沼忠久の出自に関する記述は統一されていない。これが、彼の経歴を複雑にしている最大の要因である。
主要な説は以下の通りである。
これらの錯綜する情報を整理するため、以下の表にまとめる。
史料名 |
記された父親 |
所属する菅沼家の系統 |
関係性 |
典拠 |
『寛政重修諸家譜』 |
菅沼元景 |
都田菅沼家(長篠菅沼氏支流) |
実子 |
1 |
『寛永諸家系図伝』 |
菅沼定則(あるいは定村) |
野田菅沼家 |
実子(「次郎右衛門」として) |
1 |
紀伊家附属家臣譜(異説) |
菅沼定俊あるいは定則 |
野田菅沼家 |
実父(元景は養父) |
2 |
前節で示した系譜の「混乱」は、単なる記録ミスや記憶違いとして片付けるべきではない。むしろ、それは戦国時代から江戸時代初期にかけての武家の生存戦略と、「家」のあり方の変遷を反映した、意図的な構築の結果である可能性が高い。
戦国時代、武家の家督相続は必ずしも長子相続が確立しておらず、一族の存続のためには他家からの養子縁組が頻繁に行われた 10 。特に、有力な一族との縁組は、自家の地位を安定させるための重要な外交戦略であった。
江戸時代に入り、幕府によって『寛永系図』や『寛政譜』といった系譜集が編纂されるようになると、各大名家や旗本は自家の由緒を幕府に提出する必要に迫られた。この時、家の格や歴史的正当性をより高く見せるため、系譜に「修飾」が加えられることは珍しくなかった。
この文脈で菅沼忠久の系譜を見ると、二つの異なる主張の裏にある戦略が浮かび上がってくる。
したがって、これらの系譜の揺れは、忠久の一族が、仕える主家である井伊家との関係性と、より大きな権威である徳川幕府との関係性の両方を意識し、それぞれの文脈で最も有利となるように自らの由緒を戦略的に構築、あるいは使い分けた結果の現れと解釈するのが最も合理的である。「野田菅沼家から都田菅沼家へ養子に入った」という説 2 は、これら二つの側面を両立させるための、最も整合性の高い説明と言えるかもしれない。
菅沼忠久の生涯における最大の転機は、長年従属してきた駿河の今川氏を見限り、勃興する三河の徳川家康に帰属したことである。この章では、桶狭間の戦いを契機に権力の空白地帯と化した遠江の政治情勢の中で、忠久が下したこの重大な決断の過程とその歴史的意義を詳述する。
菅沼忠久は、同じく遠江・三河の国衆である近藤康用(こんどう やすもち)、鈴木重時(すずき しげとき)と共に「井伊谷三人衆」と称される 1 。彼らは元々、三河国設楽郡の宇利(現在の新城市)や山吉田(同)などを拠点とする独立性の高い領主であった 2 。
彼らが井伊谷の政治に関与するようになった背景には、井伊家の衰退があった。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで当主・井伊直盛が戦死し、その後を継いだとされる井伊直親も、永禄5年(1562年)に今川氏真の猜疑によって謀殺されるなど、井伊家は当主を相次いで失い、極度に弱体化していた 12 。
このような状況下で、井伊家と縁戚関係にあった三人衆が、井伊谷の支配に関与するようになった。例えば、井伊直親の母は鈴木重時の父・重勝の娘であり、また重時自身も井伊一門の女性を妻に迎えるなど、複雑な婚姻ネットワークによって結ばれていた 1 。菅沼忠久の父・元景が井伊直親に仕えるようになったのもこの時期であり、永禄4年(1561年)から5年(1562年)頃に「井伊谷三人衆」という政治・軍事連合が形成されたと考えられている 12 。
彼らの立場は、井伊家の譜代家臣というよりは、弱体化した井伊家を後見し、井伊谷の地域秩序を共同で維持する「与力」や同盟者に近い、独立性の高い存在であったと推察される 2 。彼らは今川氏の支配体制(今川氏の陪臣である井伊家の、さらにその与力)の末端に位置づけられながらも、虎視眈々と自立の機会を窺っていたのである。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の権威は急速に失墜し、支配領域では動揺が広がった 13 。この機を捉え、徳川家康は三河統一を進め、次なる目標として遠江への進出を計画する。
永禄11年(1568年)、家康は遠江侵攻に先立ち、今川方の国衆の切り崩し工作を開始した。その白羽の矢が立ったのが、井伊谷三人衆であった。家康は、既に徳川方に属していた野田菅沼家の当主・菅沼定盈を調略の使者として派遣した 2 。
定盈はまず、同族である菅沼忠久に接触し、今川家からの離反と徳川家への帰属を説いた 4 。忠久はこの誘いを受諾。さらに、主導的に近藤康用と鈴木重時にも働きかけ、三人衆として一体で徳川方へ寝返ることを決断させた 9 。彼らの決断は、今川氏の将来性を見限り、西から勢力を伸ばす徳川家康に自らの未来を賭けるという、冷徹な政治判断であった。
この決断は、単なる忠誠心の乗り換えではない。家康は永禄11年12月12日付で、三人衆に対し「遠江国井伊谷・高園・高梨・気賀など」の所領を安堵し、さらに加増をも約束する誓書(起請文)を発給している 1 。つまり、彼らの離反は、所領の保証という具体的な見返りに基づく、戦国国衆の典型的な生存戦略であった。忠久の決断は、個人的なものではなく、菅沼一族の広域ネットワークと、井伊谷三人衆という地域連合の総意に基づいた、高度に政治的な行動だったのである。
井伊谷三人衆の帰順を得た徳川家康は、永禄11年(1568年)12月、満を持して遠江への侵攻を開始した。この時、菅沼忠久ら三人衆は、遠江の地理に不案内な徳川軍の「先導役」という極めて重要な役割を担った 3 。
彼らの手引きによって、徳川軍は三河から陣座峠を越えて安全に遠江領内へ進軍し、井伊谷三人衆の拠点であった井伊谷城を無抵抗で接収した 9 。続いて、今川方の拠点であった刑部城(おさかべじょう)などを次々と攻略し、家康の遠江支配の拠点となる引馬城(後の浜松城)入城に大きく貢献したのである 3 。
翌永禄12年(1569年)3月には、浜名湖畔で抵抗を続ける今川方の重臣・大沢基胤が籠城する堀江城への攻撃にも参陣している 3 。この一連の戦いにおいて、菅沼忠久と井伊谷三人衆は、単なる道案内人ではなく、徳川軍の先鋒として軍事的に多大な貢献を果たし、家康の遠江平定を決定づける原動力となった。
徳川家康の家臣となった菅沼忠久とその一族は、新たな時代の秩序の中に組み込まれていく。それは、井伊直政という新たな主君の下での再出発であった。しかし、その道は平坦ではなく、戦国時代を生き抜いた国衆のプライドと、近世大名家の厳格な主従秩序との間で、見えざる軋轢が生じていくことになる。この章では、徳川家臣となった後の忠久の動向、特に井伊直政の配下に組み込まれてからの立場と、その死、そして子孫たちが辿った運命を追う。
天正3年(1575年)、井伊直親の遺児であり、長年不遇の時代を過ごしていた井伊直政(当時は虎松)が徳川家康に出仕し、井伊家の再興を許されると、家康は直政の家臣団形成に着手する。その核として、旧井伊家と縁の深い井伊谷三人衆が直政に付けられることになった 3 。
これは、家康による巧みな人事政策であった。遠江の国衆であった直政に、同じく遠江の地理や人脈に精通した在地領主である三人衆を「与力」として附属させることで、新興の直政家臣団に経験と安定感をもたらそうとしたのである 18 。菅沼忠久らは、徳川家康に直接仕えるという約束で帰順したが、結果として家康の家臣である井伊直政の配下、いわば「又家来」という立場に置かれることになった。
この主従関係の再編は、独立性の高い国衆が、近世的な大名の家臣団へと吸収されていく過渡期の典型的な事例である。三人衆は、井伊家の軍団「井伊の赤備え」の中核を担う存在となったが、元々は家康に忠誠を誓った独立領主であった彼らにとって、年若の直政の下に置かれることは、複雑な心境を伴うものであった可能性は否定できない。この立場が、後に彼らの子孫が井伊家を離れる遠因となったと考えられる 1 。
菅沼忠久の正確な死没年については、史料によって記述が異なり、確定していない。これは彼の晩年の活動を評価する上で重要な論点となる。
どちらの説が正しいかを断定する決定的な史料は現存しない。しかし、忠久の子である菅沼忠道が、天正12年の長久手の戦いに井伊直政の配下として出陣している記録があることから 1 、この時点で忠久は既に家督を譲って隠居していたか、あるいは死去していた可能性が高い。この点は、天正10年説を補強する状況証拠の一つと言える。現時点では、両論を併記し、今後の研究を待つのが妥当な姿勢であろう。
菅沼忠久の死後、家督は子の菅沼忠道が継ぎ、父と同じく「次郎右衛門」の通称を襲名した 3 。忠道は主君・井伊直政に従って各地を転戦し、関ヶ原の戦いにも参陣したが、慶長8年(1603年)に38歳の若さで早世してしまう 2 。
忠久の血筋と井伊家の関係は、ここで大きな転機を迎える。忠道の子、すなわち忠久の孫にあたる菅沼勝利は、幼少であることを理由に井伊家からの退去を願い出て、江戸へ赴き幕府直参の旗本(最終的な知行は200石)となった 2 。また、忠久の弟・定重の子である菅沼重吉(忠久の甥)も、当初は井伊直政に小姓として仕えていたが、関ヶ原の戦い後の恩賞に不満を抱き、井伊家を去って同族の伊勢長島藩主・菅沼定芳(定盈の子)に仕えた 1 。
注目すべきは、このような井伊家からの離脱が、菅沼家だけの現象ではなかったことである。井伊谷三人衆の他の二家、近藤氏と鈴木氏の子孫もまた、最終的には井伊家の家臣団から離れている 1 。この事実は、彼らの離脱が個人的な理由だけでなく、より構造的な背景を持っていたことを示唆している。
その背景とは、戦国時代の独立国衆としての気風と、近世大名家の厳格な主従秩序との間に生じた「軋轢」である。井伊直政は「人斬り兵部」の異名を持つほど気性が激しく、家臣団を強力に統制したことで知られる 18 。彼にとって、三人衆は譜代の家臣として完全に統制すべき対象であった。しかし、元々家康と直接主従関係を結んだ独立領主としての自負が強い三人衆の子孫たちにとって、井伊家の「家臣」として完全に組み込まれることは、耐え難い側面があったと考えられる。
特に、徳川家康に直接仕える「旗本」になるという道が開かれていたことは、彼らの選択に大きな影響を与えた。井伊家の家臣に留まるよりも、将軍家直参となる方が、家の格としては上であると見なされたからである。菅沼一族の井伊家からの離脱は、戦国時代の流動的で緩やかな主従関係から、江戸時代の固定的で厳格な幕藩体制へと移行する過程で、多くの国衆が経験したであろうアイデンティティの葛藤と、それに伴う苦渋の選択を象徴する出来事であった。
菅沼忠久の生涯は、戦国時代末期の遠江・三河という、まさに時代の転換点の中心で繰り広げられた。彼は、単なる一地方武将ではなく、今川氏の衰退と徳川氏の台頭という歴史の大きなうねりの中で、一族と地域の生き残りを賭けて的確な政治判断を下した、優れた国衆の指導者であった。彼が井伊谷三人衆を率いて下した徳川家への帰順という決断は、徳川家康の遠江平定を決定づける重要な一歩となり、ひいては後の井伊直政の飛躍の土台を築いたのである。
しかし、彼の歴史的意義はそれだけにとどまらない。忠久とその一族が辿った軌跡は、戦国時代の流動的で相互依存的な主従関係が、近世の固定的で絶対的な主従関係へと変質していくプロセスを、一つの家族の物語として鮮やかに示している。独立領主として家康に協力した栄光、そしてその結果として新たな主君・井伊直政の配下に組み込まれるという現実。最終的に彼の子孫たちが井伊家を離れ、幕府直参の道を選んだことは、多くの国衆が経験したであろう栄光と苦悩、そして新時代への適応と離脱の物語を凝縮している。それは、自らが作り上げることに貢献した新しい秩序の中に、かつての自分たちの居場所が見出せなくなるという、歴史の皮肉を体現しているかのようである。
菅沼忠久の遺骸は、遠江国引佐郡の龍潭寺に葬られたと伝えられる 3 。現在も同寺の墓地には、息子の忠道と共にその名を刻んだ供養塔が静かに佇んでおり 22 、彼がその生涯を賭けて守ろうとした井伊谷という土地に、今なお深く根を下ろしていることを物語っている。