本報告書は、戦国時代の常陸国(現在の茨城県)にその名を刻んだ武将、菅谷勝貞(すげのや かつさだ、生年不詳 - 天正3年(1575年))の実像に、多角的な視点から迫るものである 1 。彼は、主家である小田氏、とりわけ「戦国最弱」の異名を持つ第15代当主・小田氏治を終生にわたり支え続けた忠臣として語られる一方で、霞ヶ浦の水運を掌握する戦略的要衝・土浦城(現在の茨城県土浦市)を拠点とした、半ば独立した強力な地域領主という側面も併せ持つ 2 。本報告では、この「忠実なる家臣」と「自立せる領主」という二つの顔を分析の軸とし、彼の生涯を深く掘り下げていく。
本報告の中心的な問いは、「なぜ『智勇兼備』と評されるほどの能力を持ちながら 6 、勝貞は度重なる敗戦で領地を失う主君・氏治に仕え続けたのか」という点にある。この一見矛盾した主従関係の謎を解き明かすことは、戦国時代における主君と家臣の複雑な力学、地域権力の経済的基盤の重要性、そして北条・上杉・佐竹という三大勢力が激突した関東の地政学的な実態を浮き彫りにするであろう。
勝貞の生涯を再構築する上で、『菅谷伝記』や『小田家風記』といった江戸時代に成立した軍記物語は、その物語性を豊かにする上で不可欠な史料群である 5 。しかし、これらの史料には後世の脚色や価値観が色濃く反映されており、その記述を無批判に受け入れることは歴史研究において許されない 9 。したがって、本報告書では、これらの物語的史料と、断片的に残存する一次史料、さらには土浦城跡の発掘調査などから得られる考古学的知見を丹念に比較検討し、歴史的事実と後世に創造された伝説とを峻別する、厳密な史料批判の視点を貫くことを基本方針とする。
まず、菅谷勝貞の生涯と彼を取り巻く情勢を概観するため、以下の年表を提示する。
表1:菅谷勝貞 関連年表
西暦(和暦) |
菅谷勝貞・菅谷一族の動向 |
小田氏の動向 |
関東の主要動向 |
1516 (永正13) |
土浦城を若泉氏から奪取 3 。 |
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1519 (永正16) |
古河公方の要請で上総へ出兵、水軍を提供 7 。 |
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古河公方と小弓公方の対立激化。 |
1524 (大永4) |
養父・信太範貞の死により土浦城主を正式に継承 13 。 |
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1548 (天文17) |
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主君・小田政治が死去、氏治が家督相続 6 。 |
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1556 (弘治2) |
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第一次山王堂合戦で敗北、氏治が土浦城へ退避 15 。 |
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1564 (永禄7) |
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第二次山王堂合戦で上杉・佐竹連合軍に大敗、氏治が土浦城へ退避 15 。 |
上杉謙信の関東出兵本格化。 |
1569 (永禄12) |
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手這坂の戦いで佐竹軍に大敗、小田城を永久に喪失。氏治は土浦城へ退避 12 。 |
佐竹氏の常陸における勢力拡大。 |
1575 (天正3) |
菅谷勝貞、死去。 子・政貞が跡を継ぐ 1 。 |
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1583 (天正11) |
子・政貞、主君に従い佐竹氏に臣従 4 。 |
小田氏治、佐竹氏に臣従し、戦国大名としての独立性を失う 6 。 |
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1590 (天正18) |
孫・範政、主家の滅亡に直面。 |
小田原征伐に際し氏治が挙兵、秀吉により改易。 小田氏滅亡 2 。 |
豊臣秀吉、小田原征伐。後北条氏滅亡。 |
1596頃 (文禄5) |
孫・範政、その忠義を評価され徳川家康に仕える 21 。 |
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徳川家康の関東支配体制確立。 |
この年表は、勝貞の生涯が、主家である小田氏の浮沈、そして関東全体の激動と不可分に結びついていたことを明確に示している。彼の智勇は、時代の大きな潮流の中でどのように発揮され、また、どのような限界に直面したのか。次章以降で、その詳細を解き明かしていく。
菅谷勝貞が歴史の表舞台に登場するのは、16世紀初頭の常陸国である。彼の出自は複数の伝承に彩られ、その権力基盤は、水陸交通の要衝である土浦城の奪取によって盤石なものとなった。本章では、勝貞がいかにして常陸南部に確固たる地位を築いたのか、その出自の謎、土浦城支配の経緯、そして地域の有力国衆・信太氏との複雑な関係性を通じて明らかにする。
菅谷氏の出自については、単一の確定的な説はなく、複数の名門の系譜が伝えられている。これは、戦国時代において自らの支配を正当化し、権威を高めるために、由緒ある家系を称することが常套手段であったことを示唆している。
諸伝承によれば、菅谷氏は赤松氏、紀氏、あるいは菅原道真の後裔を称したとされる 4 。特に有力視されるのが赤松氏後裔説である。これは、南北朝時代の動乱で活躍した播磨の武将・赤松則村(円心)に連なる系譜であり、『菅谷系図』などの伝承によれば、赤松氏の一族が故あって常陸に下向し、菅谷を名乗ったとされる 23 。この説が事実であれば、菅谷氏は武門としての高い家格を持つことになり、他の国衆に対する優位性を示す強力な根拠となったであろう。
この出自の主張は、単なる家系の誇りを超えた、高度な政治的戦略と解釈できる。戦国時代、実力でのし上がった新興領主が、自らの支配を安定させるために伝統的な権威を纏うことは珍しくない。菅谷氏が複数の名門出自説を持つことは、彼らが常陸南部で勢力を拡大する過程で、状況に応じて最も効果的な権威を選択、あるいは創造していった可能性を示唆している。それは、実力主義の時代にあってもなお「家格」や「由緒」が持つ政治的価値がいかに重要であったかを物語っている。
また、菅谷氏の家紋は「亀甲に十二葉菊」と伝わっている 26 。亀甲紋は長寿や堅固さを象徴する吉祥紋であり、城郭の防御性を想起させる。一方、菊紋、特に十二葉菊は皇室との関連をも匂わせる高貴な紋であり、これもまた自らの権威を高めるための意匠であったと考えられる。
菅谷勝貞の名が歴史上、明確な形で登場するのは、永正13年(1516年)の土浦城攻略である。この年、勝貞は主君である小田氏の部将として、同じく小田氏の被官であった若泉五郎左衛門が城主を務める土浦城を攻め、これを奪取した 3 。
この事件の特異性は、敵対勢力からの領土拡大ではなく、主家である小田氏の支配圏内で起きた権力移動である点にある。史料には「小田氏の命であったともいわれる」との記述もあり 24 、その背景には二つの可能性が考えられる。一つは、主君・小田政治が、若泉氏の統治能力や忠誠心に何らかの問題を見出し、より有能で信頼の置ける勝貞に城を預け替えるという、公式な裁定としての性格である。もう一つは、勝貞が自らの実力で城を奪い、主君がその既成事実を追認せざるを得なかったという、一種の下剋上的な側面である。おそらく真相は、この両者が複合したものであろう。勝貞の武力と政治力を高く評価した小田政治が、彼の行動を黙認、あるいは事後承諾することで、家臣団内の実力者を巧みに活用し、領国支配の強化を図ったと推測される。この出来事は、菅谷勝貞という人物が、単なる一武将ではなく、小田家中の力学を動かすほどの実力者として台頭したことを示す画期的な事件であった。
勝貞が手に入れた土浦城は、単なる城砦ではなかった。この城は、古代には広大な内海「香取海」と呼ばれ、戦国時代においてもなお広大な水面を誇った霞ヶ浦に面しており、水陸交通の結節点というべき戦略的要衝であった 28 。この地を拠点としたことは、後の菅谷氏の経済的・軍事的活動に計り知れない利益をもたらすことになる。
土浦城の支配権を巡る経緯は、さらに複雑な様相を呈する。城の奪取後、勝貞がただちに城主となったわけではなく、一度は小田氏の重臣である信太範貞(しだ のりさだ)が城主として入った 13 。そして、子がいなかった範貞の養子として勝貞が迎えられ、大永4年(1524年)に範貞が病没すると、勝貞は「信太勝貞」として正式に土浦城主の地位を継承したのである 6 。その後、勝貞は信太姓から本来の菅谷姓に復しているが 6 、この一連のプロセスは、戦国時代の権力移譲の巧みさと非情さを示している。
この養子縁組は、主君・小田政治による周到な政治的配慮の結果と見るべきであろう。実力者である勝貞に土浦という要衝を支配させるという実利を確保しつつも、伝統的な権威を持つ信太氏を一時的に介在させることで、若泉氏を排除した後の家臣団内の動揺を抑え、権力移譲の正当性を演出したのである。急進的な改革が摩擦を生むことを避け、伝統と実力を融合させる巧みな手腕が窺える。勝貞が後に菅谷姓へと復したことは、もはや信太氏の権威に頼らずとも、自らの実力と実績によって土浦の支配を完全に掌握したという自信の表れに他ならない。
一方で、菅谷氏と信太氏の関係は、常に協力的なものではなかった。後年、勝貞あるいはその子・政貞が、主君・小田氏治の命を受けて木田余城主の信太範宗を謀殺したという伝承が、複数の軍記物に記されている 15 。この伝承は、謀殺の時期(天文23年説、永禄12年説など)、実行犯(勝貞説、政貞説)、さらには被害者の名前(範宗説、重成説)に至るまで諸説紛々としており、その史実性を確定することは困難である 31 。しかし、このような錯綜した伝承が残ること自体、小田家中の権力闘争の激しさと、菅谷氏と信太氏という二大重臣の間に、協力と対立が入り混じる緊張関係が存在したことを物語っている。特に、主君・氏治が劣勢に立たされる中で、家臣団の内部対立が先鋭化し、悲劇的な結末を迎えた可能性は否定できない。
菅谷勝貞の真価は、単に土浦城主という地位に留まらない。彼は、主家である小田氏が存亡の危機に瀕する中で、その類稀なる能力を発揮し、まさに「不沈艦」として機能した。その力の源泉は、霞ヶ浦の水運支配という強固な経済基盤と、敗戦続きの主君・小田氏治を支え続けた卓越した軍事・政治能力にあった。本章では、勝貞がどのようにして小田家を支え、北条、上杉、佐竹といった強大な敵と渡り合ったのかを検証する。
菅谷勝貞の権力の核心は、霞ヶ浦(古代の香取海)とそれに繋がる利根川・小貝川水系の水運を掌握していた点にある 7 。土浦は、常陸・下総の広大な後背地と江戸湾(古東京湾)を結ぶ水上交通網の結節点であり、この地を抑えることは、計り知れない経済的・軍事的利益をもたらした。
その具体的な証左が、永正16年(1519年)の軍事行動である。この年、古河公方・足利高基は、対立する小弓公方・足利義明とその支援勢力である真里谷氏を討伐するため、小田氏に協力を要請した。この際、勝貞は公方の要請に応じ、自ら水軍を率いて上総国へ出兵するための船団を提供し、従軍している 7 。この功績により、勝貞は足利高基から感状を与えられており 6 、彼が小田家臣という立場にありながら、関東公方の軍事作戦に直接動員されるほどの影響力を持つ、独立した水軍の統率者であったことがわかる。
この水運支配は、勝貞に二つの大きな力をもたらした。第一に、経済的自立性である。霞ヶ浦や河川を往来する舟から関銭(通行税)を徴収し、また「舟役」として物資輸送を請け負うことで、土地からの年貢収入(石高)とは別個の莫大な富を蓄積することができた 33 。この経済力こそが、主君・小田氏の度重なる敗戦と小田城奪還戦という、莫大な費用を要する軍事行動を財政的に支えることを可能にした。第二に、軍事的優位性である。水運を利用することで、兵員や兵糧、武具といった軍需物資を、陸路とは比較にならないほど迅速かつ大量に輸送することができた 36 。敵が陸路で進軍する間に、水路を用いて先回りし、あるいは側面を突くといった機動的な作戦展開が可能であった。
このように、菅谷勝貞の強さは、陸の武士としての側面だけでなく、霞ヶ浦という「内なる海」を支配する「水の領主」としての側面にあった。この独自の経済的・軍事的基盤があったからこそ、彼は主家である小田氏が弱体化する中でも家中で突出した影響力を維持し、絶望的な状況下でも主君を支え続けることができたのである。
菅谷勝貞の主君である小田氏治は、その生涯において本拠地・小田城を9度も敵に奪われ、それでも8度は奪還に成功したと伝えられる 17 。この驚異的な粘り強さから「常陸の不死鳥」と称される一方で、その戦歴は敗北の連続であり、「戦国最弱の武将」という不名誉な評価も受けている 2 。この氏治の特異なキャリアは、菅谷勝貞・政貞父子を中心とする家臣団の並外れた忠誠心と実力なくしては到底成り立たなかった 2 。
では、なぜ「智勇兼備」と評される勝貞は、軍事的には明らかに才能に恵まれない主君・氏治に終生仕え続けたのか。この問いに対する答えは、戦国時代の主従関係が、単なる個人的な情愛や封建的な義務感だけではなく、極めて合理的な政治的判断に基づいていたことを示している。
第一に、小田氏が持つ「家格」の重要性である。小田氏は鎌倉時代以来の常陸守護の家系であり、室町時代には「関東八屋形」の一つに数えられる名門であった 17 。この伝統的な権威は、実力でのし上がった菅谷氏が自らの土浦周辺における支配を正当化し、他の国衆に対して優位に立つ上で、不可欠な政治的資産であった。つまり、小田氏という「看板」を掲げること自体に、大きな価値があったのである。
第二に、小田氏治自身が持っていた特異な「人望」である。多くの記録が、氏治が敗れて城を追われても、領民は彼を慕い続け、新たな支配者に従おうとしなかったと伝えている 2 。氏治が帰還すると、隠れていた領民たちが再び姿を現し、彼の統治を歓迎したという。この領民からの強い支持は、領国経営の安定に直結する。菅谷氏にとって、民心を掌握している氏治を主君として戴くことは、自らの支配地を安定させる上で最も現実的かつ合理的な選択であった。
したがって、菅谷氏の忠誠は、主君・氏治の軍事的才能の欠如を自らの武勇と経済力で補い、その代わりとして氏治が持つ「家格」と「人望」という無形の資産を利用するという、一種の戦略的な共生関係であったと分析できる。江戸時代に成立した『小田家風記』には、小田家臣団の序列が記されているが、そこでの菅谷氏の扱いは、この関係性を象徴している。
表2:『小田家風記』に見る小田家臣団の序列と菅谷氏の位置
家臣団の分類 |
武将名 |
拠点(城) |
伝承上の石高 |
史料に関する注記 |
外家大名 |
菅谷摂津守(勝貞) |
土浦城 |
七万八千石 |
江戸時代の編纂物であり、石高は後世の誇張と考えられるが、家臣団内での菅谷氏の序列の高さを示す 42 。 |
外家大名 |
菅谷隠岐守(貞次) |
宍倉城 |
四万三千石 |
同上。菅谷一族が複数の重要拠点を支配していたことを示唆する 42 。 |
小田四天王 |
赤松凝淵斎 |
手子生城 |
一万三千石 |
同上 43 。 |
小田四天王 |
平塚石見守 |
海老ケ島城 |
三千石 |
同上 43 。 |
外家大名 |
信田伊勢守(範宗) |
木田余城 |
二万二千石 |
同上。菅谷氏と密接な関係にあった信太氏も重臣として記されている 43 。 |
この表が示すように、菅谷勝貞は「外家大名」として、他の重臣とは一線を画す破格の待遇で記されている。石高の数字自体は信憑性に乏しいものの、彼が小田家中で筆頭家老、あるいはそれ以上の半独立的な地位にあったという後世の認識を反映している。
16世紀半ばの関東は、西から相模の後北条氏、北から越後の上杉謙信、そして常陸国内で急速に勢力を拡大する佐竹氏という三大勢力が覇を競う、まさに「三国志」の様相を呈していた 40 。この巨大なパワーゲームの狭間で、小田氏は生き残りをかけた絶え間ない戦いを強いられ、その中で菅谷勝貞は常に最前線に立ち続けた。
永禄7年(1564年)、小田氏治はそれまでの上杉方から北条方へと寝返った。これに対し、上杉謙信は佐竹義昭と連合軍を結成し、小田領へと侵攻する。氏治はこれを迎え撃つも、山王堂の戦いで大敗を喫した 16 。この時、命からがら戦場を離脱した氏治が逃れた先こそ、菅谷勝貞の守る土浦城であった 15 。
さらに永禄12年(1569年)、小田氏の命運を決定づける戦いが起こる。佐竹義重との手這坂の戦いである 18 。この戦いで小田軍は壊滅的な敗北を喫し、岡見治資といった一門の有力武将を失った 17 。氏治は再び敗走し、本拠地・小田城は佐竹方の手に落ち、以後、彼が小田城主に返り咲くことはなかった 15 。この絶体絶命の危機において、氏治の避難場所となり、その後の抵抗の拠点となったのも、またしても菅谷政貞・範政父子が守る土浦城や木田余城であった 12 。
これら一連の合戦は、戦国時代の厳然たる力関係を浮き彫りにする。いかに菅谷勝貞が智勇兼備の将であり、強固な経済基盤を持っていたとしても、一個の国衆の力では、上杉・佐竹といった大国の連合軍がもたらす巨大な軍事的圧力には抗しきれなかった。しかし、同時にこれらの敗戦は、土浦城の戦略的重要性を際立たせている。小田城が小田氏の「象徴的」な本拠地であるならば、菅谷氏の支配する土浦城は、度重なる危機を乗り越えるための「実質的」な戦略的根拠地、まさに小田家にとっての最後の命綱であった。菅谷勝貞は、敗北のたびに主君を迎え入れ、再起のための兵力と物資を提供し続けた。彼の存在がなければ、小田氏治の「不死鳥」伝説は生まれ得なかったであろう。
菅谷勝貞の死後も、彼が築いた基盤は一族によって受け継がれ、主家・小田氏の滅亡という激動の時代を乗り越える力となった。勝貞が土浦の地に残した足跡は、寺院や城跡として今なおその面影を留めている。本章では、勝貞の死から徳川の世に至るまでの菅谷一族の変遷と、彼らが後世に残した歴史的遺産について詳述する。
智勇をもって主家を支え続けた菅谷勝貞は、天正3年(1575年)にその生涯を閉じた 1 。彼の死は、すでに衰退の色を濃くしていた小田氏にとって、計り知れない打撃であったに違いない。家督は、父に劣らぬ忠臣として知られる子の菅谷政貞(1518-1592)が継承し、父の遺志を継いで小田氏治の補佐を続けた 4 。
しかし、勝貞という大きな柱を失った小田氏を取り巻く情勢は、ますます厳しさを増していく。北の佐竹義重による圧迫はとどまることを知らず、政貞らの奮闘も空しく、小田氏の勢力圏は徐々に蚕食されていった。そして天正11年(1583年)頃、ついに小田氏治は佐竹氏の軍門に降り、その支配下に入ることを余儀なくされる 6 。これに伴い、菅谷政貞も主君に従って佐竹氏に臣従した 4 。これは、長きにわたる常陸の覇権争いの事実上の終結であり、小田氏が戦国大名としての独立を失った瞬間であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、関東の勢力図を根底から塗り替えた。この天下統一の総仕上げともいえる大事業の最中、小田氏治は最後の抵抗を試みる。佐竹氏の支配下にあったにもかかわらず、北条氏に呼応する形で挙兵し、長年の悲願であった小田城の奪還を目指したのである 2 。しかし、この行動は秀吉の怒りを買い、結果として氏治は全ての所領を没収され、鎌倉時代から続いた名門・小田氏は、戦国大名として完全に滅亡した 2 。
主家は滅びたが、菅谷一族の物語はここで終わらなかった。勝貞の孫にあたる菅谷範政(のりまさ)の存在が、一族に新たな道を開いたのである。小田原征伐後、範政の主家に対する長年の忠勤は、豊臣家臣の浅野長政らによって高く評価された 22 。そして、新たに関東の支配者となった徳川家康に推挙されることとなる。
家康は、範政の忠義を認め、彼を家臣として召し抱えた。当初は上総国に千石の知行を与えられ、後には旧領に近い常陸国筑波郡に五千石余まで加増され、旗本としての地位を確立した 21 。こうして菅谷家は、徳川幕府の家臣として幕末まで存続することになる 13 。
この一連の経緯は、戦国時代から近世へと移行する時代の価値観の変化を象徴している。戦国乱世においては武勇や知略が武士の価値を決定づけたが、天下統一後の新たな秩序の中では、「忠誠」という資質が極めて重要な意味を持つようになった。菅谷氏が二代、三代にわたって「弱い」とされながらも正統な主君である小田氏に尽くし続けたという実績は、新たな天下人である家康にとって、家臣として最も信頼に足る経歴と映ったのである。菅谷氏は、武力闘争の時代には主家と共に敗北したが、その過程で培われた「忠臣」という無形の資産を武器に、新たな時代で生き残ることに成功した。これは、滅びの美学に終わらない、戦国武士のしたたかな生存戦略の一つの帰結と言えよう。
菅谷勝貞の活躍の中心地であった土浦には、今なお彼の遺産が息づいている。土浦市文京町にある曹洞宗の寺院、宝珠山神龍寺は、勝貞が開基となって創建されたと伝えられている 48 。この寺は、江戸時代に入ると土浦藩主・土屋家の菩提寺となり、地域の信仰の中心として重要な役割を果たした。勝貞の信仰心が、後世の土浦の精神文化の礎の一つとなったのである。
また、彼の居城であった土浦城は、現在、亀城公園として整備され、市民の憩いの場となっている 12 。近世以降、松平氏や土屋氏によって大規模な改修が加えられたため、中世、特に菅谷氏時代の城の縄張りや構造を完全に復元することは困難である 28 。しかし、発掘調査によって、近世城郭の遺構の下から中世の痕跡が発見される可能性は残されている 51 。霞ヶ浦の低湿地を巧みに利用した「水城」としての土浦城の基本的な構造は、水運を重視した勝貞の時代にその基礎が築かれたと考えられる。今後の考古学的調査の進展が、勝貞時代の土浦の実像を解明する上で大きな鍵を握っている。
菅谷勝貞の生涯を振り返るとき、我々は一人の武将の姿を通して、戦国という時代の複雑な力学と、そこに生きた人々の多様な生存戦略を垣間見ることができる。彼の歴史的評価は、単一の言葉で語り尽くせるものではない。
勝貞は、主君・小田氏治が幾度となく城を失い、領地を追われる中でも、滅亡の淵に至るまで付き従った、比類なき忠臣であった。しかし同時に、彼は霞ヶ浦の水運という独自の経済基盤を背景に、主家とは半ば独立した強大な権力を有する地域領主でもあった。この「忠臣」と「独立領主」という二面性こそが、菅谷勝貞という人物の実像であり、戦国時代の国衆が置かれた、大名と在地社会の狭間での絶妙なバランスの上に成り立つ立場を体現している。
彼の存在なくして、小田氏治の「常陸の不死鳥」伝説はあり得なかったであろう。勝貞とその一族は、軍事、経済、政治のあらゆる面で、傾きかけた主家を支え続けた最大の功労者であった。その奮闘は、ともすれば「戦国最弱」という逸話の陰に隠れがちだが、関東戦国史において特筆すべきものである。彼は、主君の軍事的欠点を補って余りある能力を発揮し、小田氏という名門の権威を最後まで守り抜こうとした。
勝貞の生涯は、単なる一地方武将の物語に留まらない。それは、戦国期における権力の源泉が、土地(石高)だけでなく、交通路や商業(水運)といった経済的基盤にもあったことを示す好例である。また、彼の主君・氏治との関係は、戦国時代の主従関係が、単純な上下関係ではなく、互いの利害と権威に基づいた戦略的な共生関係でもあり得たことを教えてくれる。そして、強大な隣国に翻弄されながらも、巧みな外交と地域に根差した力で存続を図る、地域権力のしたたかな生存戦略を解き明かすための、貴重な事例研究でもある。
最後に、我々が現在知りうる菅谷勝貞像の多くが、『菅谷伝記』や『小田家風記』といった後世の軍記物語によって形成されているという事実を改めて認識する必要がある 5 。これらの史料は、歴史的事実を伝える一方で、文学的な脚色や後世の価値観を色濃く含んでいる 10 。しかし、それらの物語の中に繰り返し描かれる「智勇兼備の忠臣」という人物像は、断片的に残る一次史料の記述と照らし合わせても、彼の本質から大きく逸脱しているとは思われない。史料の限界を認識しつつも、その向こう側にある一人の武将の類稀なる生涯に思いを馳せることこそ、歴史を探求する醍醐味と言えるであろう。菅谷勝貞は、常陸国の激動の時代を駆け抜けた、記憶されるべき名将である。