戦国時代から江戸時代初期にかけての伊達家、その中でも勇将として名高い伊達成実の配下として、一人の武将の名が伝わっている。その名は萱場元時(かやば もととき)、通称を源兵衛。彼は鉄砲の名手として知られ、主君からの度重なる褒賞を固辞し、ただ一文のみを拝領したという廉潔な逸話によって、歴史愛好家の間で語り継がれてきた人物である 1 。
しかし、この「萱場元時」という人物像は、実は一つの大きな謎を内包している。史料を丹念に追うと、「萱場元時、通称源兵衛」を名乗った人物が、親子二代にわたって存在したことが明らかになるのである 1 。この事実の混同が、萱場元時という人物の実像を捉える上での複雑さの根源となっている。一般に知られる鉄砲の名手としての逸話は、主に「子」の元時に関するものであるが、その子の活躍の背景には、父の代からの伊達家への忠勤の歴史が存在した。
本報告書は、この親子二代の「萱場元時」を明確に区別し、それぞれの生涯と功績を再構築することを目的とする。信頼性の高い史料、特に亘理伊達家の家臣団の記録である『亘理世臣家譜略記』や、伊達政宗自身が筆を執った『伊達政宗文書』などを基に、萱場一族の出自から、父子の生涯、そして伊達家における彼らの役割までを、時系列に沿って詳細かつ徹底的に解明していく。
まず、本報告書全体の理解を助けるため、親子二代の元時の概要を以下の表にまとめる。これにより、両者の活動時期や功績の違いを明確にし、以降の章で詳述する内容の道標としたい。
表1:萱場元時 親子二代の比較概要
項目 |
父・元時(初代源兵衛) |
子・元時(二代源兵衛) |
活動時代 |
安土桃山時代 |
安土桃山時代~江戸時代前期 |
主君 |
伊達実元 → 伊達成実 |
伊達成実 |
主な功績 |
天正13年(1585年)の人取橋の戦いにおいて、伊達成実に従い奮戦し、戦功を挙げる 1 。 |
類稀なる鉄砲術で伊達政宗から直接賞賛され、鉄砲と小道具を拝領。主君・成実からの知行加増を固辞し続け、「一文」のみ拝領した逸話で知られる 1 。 |
特記事項 |
主君・伊達実元より「元」の一字と指小旗を賜る 1 。 |
陪臣(家臣の家臣)でありながら、藩主・伊達政宗から直接書状で名指しされ、その技量を高く評価されるという異例の待遇を受けた 1 。 |
この表が示す通り、父は武勇によって、子は卓越した技能と清廉さによって、それぞれ主家への忠誠を示した。本報告書は、この二人の人物像を丹念に紐解くことで、戦国の世を生き抜いた一人の武士、そしてその一族の実像に迫るものである。
萱場元時の人物像を理解するためには、まず彼の一族がどのような経緯で伊達家の家臣団に加わったのか、そのルーツを探る必要がある。史料には、萱場氏の出自に関する興味深い記述が残されている。
萱場一族の出自を記す史料として最も重要なものの一つが、亘理伊達家の家臣の来歴をまとめた『亘理世臣家譜略記』である。この家譜には、萱場氏の祖先について「其の先、平信長公の臣にて」との記述が見られる 4 。また、別の箇所では「元織田家の家臣との記載あり」と補足されているが、その詳細は不明とされている 1 。
この「織田家家臣」という伝承は、いくつかの点で考察を要する。萱場元時の父・元時のさらに父にあたる萱場時政が、伊達家14代当主・伊達稙宗に仕えたのは天文年間(1532年~1555年)のことである 1 。一方、織田信長が歴史の表舞台でその名を轟かせるのは、桶狭間の戦い(1560年)以降であり、時政が伊達家に仕官した時期とはずれが生じる。
この時代的な齟齬から、いくつかの可能性が考えられる。一つは、「平信長公」が必ずしも織田信長本人を指すのではなく、信長以前の織田一族、あるいは尾張・美濃地方に勢力を持った別の「平氏の信長」なる人物に仕えていた可能性である。当時、武士が自らの家系の権威付けのために、著名な氏族(この場合は平氏)を称することは珍しくなかった。また、信長自身も当初は「藤原信長」と署名しており、後に平氏を称するようになった経緯があるため、「平信長」という呼称には複雑な背景が考えられる 5 。
もう一つの可能性は、萱場氏が元々、美濃国や尾張国にルーツを持つ一族であったという点である。実際に、岐阜県や愛知県には「萱場(かやば)」という地名が現存しており、萱場氏がこの地域の出身であった可能性は十分に考えられる 6 。戦国時代は、主家が滅亡したり、あるいはより良い待遇を求めたりして、武士が諸国を流浪することは常であった。美濃・尾張地方の武士が、当時、奥州で急速に勢力を拡大していた伊達氏に新たな仕官の道を求めて北上したとしても、何ら不思議ではない。
したがって、「織田家家臣」説は、具体的な一次史料による裏付けには欠けるものの、萱場一族が伊達家にとって譜代の家臣ではなく、何らかの技能や武勇を携えて新たに仕官した「外様」の一族であったことを示唆する重要な伝承と位置づけることができる。
萱場一族が伊達家の歴史に明確に登場するのは、萱場時政(かやば ときまさ)の代からである。時政は官途名を但馬守、通称を内蔵助や宮内と称し、伊達家14代当主・伊達稙宗の家臣として仕えた 1 。
時政が伊達家中で早くから重用されていたことを示す象徴的な出来事が、天文17年(1548年)に起きる。この年、稙宗の子である伊達実元が越後上杉家へ養子として入嗣することが決まった。この極めて重要な外交的事業に際して、時政は実元の附家老(つけがろう)、あるいは足軽大将という重職に任じられたのである 1 。附家老とは、養子や嫁ぎ先に行く主君に付けられ、現地で補佐する役割を担う重臣であり、主君からの絶大な信頼がなければ務まらない役職である。この時、時政は主君・稙宗から、武威の象徴である鳥毛対鑓(とりげたいやり)と長刀を賜るという、この上ない栄誉に浴している 1 。
この時点で、萱場家は伊達郡徳江・上長井(現在の福島県伊達市周辺)に拝領地を得ており、伊達家臣団の一員として確固たる地位を築いていたことがうかがえる 1 。萱場時政の忠勤と、それに対する伊達家の厚遇が、その後の萱場一族の発展の礎となったのである。
萱場時政の子として歴史の舞台に登場するのが、初代「萱場元時」である。彼は父・時政が仕えた伊達実元、そしてその子である伊達成実という、伊達家の中でも特に武勇に優れた親子二代に仕え、その忠誠を戦場で示した。
父・元時は、主君である伊達実元から深い信頼を得ていた。その証として、彼は実元から偏諱(へんき)、すなわち主君の名前の一字を賜り、「元時」と名乗ることを許された 1 。武家社会において、主君から名の一字を与えられることは、家臣にとって最大の栄誉の一つであり、両者の間に強固な主従関係があったことを物語っている。さらに元時は、実元から戦場での個人の識別旗である指小旗(さしこばた)も賜っており、一人の武将として高く評価されていたことがわかる 1 。
父・元時の武名が最も輝いたのは、天正13年(1585年)11月に起こった「人取橋の戦い」においてであった。この戦いは、伊達政宗の父・輝宗が二本松城主・畠山義継に拉致され、その末に横死するという衝撃的な事件を発端とする 8 。父の仇を討つべく二本松城を包囲した政宗に対し、佐竹義重を総大将とする常陸、岩代、磐城の南奥州諸大名連合軍、約30,000が攻め寄せた 9 。対する伊達軍の兵力はわずか7,000。兵力差は4倍以上であり、伊達家は存亡の危機に立たされた 8 。
この絶体絶命の戦いにおいて、萱場元時(父)は、主君・実元の子であり、当時まだ18歳の若武者であった伊達成実に従って出陣した 1 。伊達軍は連合軍の猛攻を受けてたちまち潰走し、政宗の本陣にまで敵兵が迫る大混戦となった 9 。そのような混乱の中、成実の部隊は奮戦し、政宗の退路を確保するために獅子奮迅の働きを見せた。元時はこの成実の指揮下で佐竹勢と激しく戦い、見事な戦功を挙げたと記録されている 1 。
この人取橋での戦功は、単なる一つの武功に留まらない。それは、主家が最大の危機に瀕した際に、命を懸けて若き主君(成実)を支え、忠義を尽くしたという事実を意味する。この父・元時が示した「命を懸けた忠誠」は、萱場家の家風として、その子へと受け継がれていくことになる。後に息子である二代元時が見せる「無欲の奉公」という清廉な姿勢は、この父の代から続く、主家への純粋な忠勤の精神という土壌の上に花開いたものと解釈できる。父から子へ、そして萱場一族へと受け継がれる忠誠の系譜は、この人取橋の激戦から始まったと言っても過言ではない。
父・元時が「武」によってその名を知らしめたとすれば、その子である二代目・萱場元時は、「技」と「徳」によって歴史にその名を刻んだ人物であった。彼は主君・伊達成実の家臣、すなわち伊達家から見れば陪臣(ばいしん)という立場でありながら、その類稀なる才能と高潔な人柄によって、当代随一の権力者である伊達政宗その人から直接、異例とも言える評価と信頼を勝ち得たのである。
子の元時を象徴する逸話として、最も広く知られているのが「一文拝領」の物語である 1 。主君である伊達成実は、元時の忠勤と功績に報いるため、何度も知行(所領)の加増を申し出た。しかし、元時はその都度、固辞し続けたという 1 。
武家社会において、主君からの「御恩(ごおん)」としての褒賞は、家臣の「奉公(ほうこう)」に対する対価であり、主従関係を維持する上で極めて重要な要素であった。家臣が褒賞を受け取ることは、主君の評価を受け入れ、さらなる奉公を誓うことを意味する。そのため、度重なる褒賞の辞退は、場合によっては主君の顔に泥を塗る行為と見なされかねない、非常に難しい対応であった。
しかし、元時は辞退ばかりを続けることに気が引けたのか、ある時、主君・成実に対して「しるしとして」と述べ、わずか一文銭のみを拝領したと伝えられている 1 。この行動は、単なる謙遜や無欲さの表れではない。それは、武士道における主従関係の機微を深く理解した、極めて洗練された意思表示であった。
「一文」という象徴的な最小単位の褒賞を受け取ることで、元時は「主君からの御恩、確かに拝領いたしました」という、家臣としての礼儀を尽くした。これにより、彼は主君・成実の面目を保ったのである。しかし同時に、その額を最小限に留めることで、「私の奉公は、知行や金銭といった物質的な見返りのために捧げているのではありません。あくまで主君への純粋な忠義心からでございます」という、自らの高潔な精神性を雄弁に示した。この「一文拝領」の逸話は、公正さを重んじ、家臣や領民から深く慕われたという主君・伊達成実 11 と、元時との間に築かれた深い信頼関係があって初めて成立する、武士の鑑として後世に語り継がれるべき物語なのである。
子の元時の名を不朽のものとしたのは、彼の卓越した鉄砲術であった。その腕前は、主家である亘理伊達家内にとどまらず、仙台藩主・伊達政宗の耳にまで達していた。通常、藩主が陪臣、すなわち家臣の家臣を直接名指しで評価したり、任務を与えたりすることは極めて異例である。しかし、政宗は二通もの書状の中で元時を名指しし、その技量を激賞している。これらの書状は、元時が単なる一介の武士ではなく、藩全体にとっての「宝」と見なされていたことを示す、第一級の史料である。
一通目の書状は、政宗が元時を呼び出し、その鉄砲の腕前を直々に試した際の感想を、元時の主君である成実に伝えたものである 1 。
原文:
「今度萱場源兵衛あい上らせられ候、鉄砲の様子、直にあい尋ね申し候。師匠これなく候えども、自然の鍛錬の上、必ずしかるべき様子これあるべしと、校量せしめ候ところ、その如くの様子ともに候。奇特に存じ候。稲富流にこれある事に候。万事源兵衛物語申すべく候あいだ、つぶさならず候。恐々謹言。(寛永二年)十月十一日 伊達安房守殿」
現代語訳:
「この度、萱場源兵衛を(こちらへ)参上させていただき、鉄砲の腕前について直接尋ねてみた。特定の師匠はいないとのことだが、独力での鍛錬によって、必ずや見るべきものがあるだろうと推察し、試させたところ、まさしくその通りであった。実に得難いことであり、感心している。その腕前は(高名な)稲富流の域に達していると言える。全てのことは源兵衛が(帰ってから)物語るであろうから、この書状では詳しく書かない。恐々謹言。 十月十一日 伊達安房守(成実)殿へ」
この書状からは、いくつかの重要な点が読み取れる。第一に、政宗が「師匠これなく候えども、自然の鍛錬の上」と、元時が独学でその技術を習得したことを特に強調している点である。これは、特定の流派の型を学んだ者以上に、天賦の才と独力での鍛錬によって高みに達した人間を高く評価する、政宗自身の価値観を反映している。元時が単なる「名人」ではなく、政宗の目には「天才」として映っていたことがうかがえる。
第二に、その腕前を当代最高峰の砲術流派であった「稲富流」に匹敵すると評価している点である 12 。稲富流は、細川忠興らに仕えた稲富祐直(一夢)を祖とする、全国にその名を知られた砲術の一大流派であった。政宗がその名を比較対象として用いたことは、元時の技術水準が陪臣の域をはるかに超え、全国レベルであったことを証明する、これ以上ない賛辞であった。
二通目の書状は、政宗が元時の腕前を具体的に必要とした場面を記しており、一通目の評価が単なる社交辞令ではなかったことを裏付けている 1 。
原文:
「名取笠島近所に、鶴6-7ござ候。鷹にて※候えども、大ふけにて、何ともなり申さず候。よきところへあけ候かと、追い立て候えども、ふけを離れず候。鉄砲にて打たせ申すべく候。此方にも上手どもそ候へども、鶴打ちつけ申し候。そなたの萱葉源兵衛お越しあるべく候。明日此方へ未明に給うべく候。さ候はば岩沼に案内者一人待たせもうすべく候。その者次第に打ち候と、仰せつけもっともに候。恐々謹言。…(以下、鷹狩りの成果に関する記述は略)…かしく。十月四日 政宗(花押)伊房州 御宿所」
現代語訳:
「名取の笠島近辺に、鶴が六、七羽いる。鷹で獲ろうとしたが、深い沼地なのでどうにもならない。良い場所へ出てくるようにと追い立ててみたが、沼地から離れようとしない。こうなれば鉄砲で撃たせるしかない。こちら(私の手元)にも名手はいるのだが、鶴を撃つことには手慣れている。ここは、そちらの萱場源兵衛をよこしてほしい。明日の未明にこちらへ到着するように手配されたい。そうしていただけるなら、岩沼に案内人を一人待たせておく。その者の指示に従って撃つようにと(源兵衛に)お申し付けになるのがよろしい。恐々謹言。…(以下略)…」
この書状の要点は、政宗が「此方にも上手どもそ候へども」と、自らの直臣にも鉄砲の名手はいると断った上で、あえて陪臣である元時を指名していることにある。これは、深い沼地にいる鶴を狙撃するという、極めて難易度の高い特殊な任務を遂行するためには、元時の並外れた技能が不可欠であると政宗が判断したことを意味する。彼の腕は、単に的に当てるというレベルではなく、複雑な環境下でこそ真価を発揮する、まさに「奇特に存じ候」と言わしめるだけの特殊技能であった可能性が高い。
これら二通の書状は、萱場元時(子)が、陪臣という身分を超越し、藩主・伊達政宗から「独学の天才」「国家(藩)の宝」として個人的に認識され、その特殊技能を絶対的に信頼されていたことを示す、動かぬ証拠と言える。この功績により、彼は主君・成実からだけでなく、政宗からも直接、鉄砲と小道具を拝領するという栄誉を得たのである 1 。
元時の活躍は、鉄砲術という専門技能に留まらない。彼は主君・伊達成実の忠実な家臣として、重要な局面でその役割を果たしている。
慶長7年(1603年)、成実がそれまでの居城であった角田城から亘理城へと移封された際、元時はこれに随行し、新たな城下である亘理に屋敷を拝領している 1 。これは、彼が成実の腹心の一人として認められていたことの証である。
さらに、元和8年(1622年)、出羽山形藩主であった最上義俊が幕府より改易処分を受けると、仙台藩がその城の接収を命じられた。この際、伊達成実が接収部隊の指揮官の一人として山形へ赴いているが、元時もこの重要な任務に従軍している 1 。城の接収は、軍事的な能力はもとより、規律や交渉能力も問われる繊細な任務であり、これに選ばれたことは、元時が鉄砲の腕前だけでなく、一人の武士として総合的に高い信頼を得ていたことを示している。
萱場元時親子の活躍は、萱場一族が伊達家、特に亘理伊達家の中で確固たる地位を築く礎となった。その忠勤は一代に留まらず、一族全体として主家を支え続け、戦国時代から幕末、そして明治の動乱期に至るまで、その名を歴史に留めている。
二代目元時には、萱場但馬守(かやば たじまのかみ)という弟がおり、その子(元時の甥)は萱場金兵衛(きんべえ)と名乗ったことが記録されている 1 。このように、元時の近親者もまた、武士として主家に仕えていた。
萱場一族が鉄砲術だけでなく、実戦部隊として藩の重要な戦力であったことを示すのが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣への従軍記録である。この天下分け目の決戦において、伊達成実が率いた部隊の中には、複数の萱場姓の武士の名が見られる。具体的には、徒歩衆(かちしゅう、歩兵部隊)として萱場養助(ようすけ)と萱場次郎兵衛(じろべえ)、そして騎馬武者として萱場治郎平(じろへい)が豊臣方と戦った記録が残っている 1 。このうち、萱場治郎平は、後の山形城接収にも同行しており 1 、一族が継続的に重要な任務に就いていたことがわかる。
これらの記録は、萱場家が単に「鉄砲の名人」を一人輩出した家ではなく、一族全体で武芸に励み、主家の軍事力を支える存在であったことを物語っている。以下の表は、史料に見られる萱場一族の人物を整理したものである。
表2:史料に見る萱場一族の人物
人物名 |
元時との関係・続柄 |
主な活動・役職 |
登場史料 |
萱場 時政 |
祖父 |
伊達稙宗家臣。伊達実元の附家老(足軽大将)。 |
『亘理世臣家譜略記』 1 |
萱場 元時(父) |
父 |
伊達実元・成実家臣。人取橋の戦いで戦功。 |
『亘理世臣家譜略記』 1 |
萱場 元時(子) |
本人 |
伊達成実家臣。鉄砲の名手。政宗から賞賛される。 |
『亘理世臣家譜略記』、『伊達政宗文書』 1 |
萱場 但馬守 |
弟 |
伊達成実家臣。 |
『亘理世臣家譜略記』 1 |
萱場 金兵衛 |
甥(但馬守の子) |
伊達成実家臣。 |
『亘理世臣家譜略記』 1 |
萱場 養助 |
不明(一族) |
伊達成実家臣(徒歩衆)。大坂夏の陣に従軍。 |
『蕨宍戸家文書』 1 |
萱場 次郎兵衛 |
不明(一族) |
伊達成実家臣(徒歩衆)。大坂夏の陣に従軍。 |
『蕨宍戸家文書』 1 |
萱場 治郎平 |
不明(一族) |
伊達成実家臣(馬上)。大坂夏の陣、山形城接収に従軍。 |
『蕨宍戸家文書』 1 |
萱場 源之助、左門之助など |
不明(後代の一族) |
明治期、亘理伊達家の北海道移住に参加。 |
亘理伊達家臣団名簿 14 |
萱場一族と主家・亘理伊達家との絆は、江戸時代を通じて揺らぐことなく、幕末の動乱期、そして明治維新という大きな時代の転換点を迎えてもなお、固く結ばれていた。
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加した仙台藩は敗北し、大幅な減封処分を受けた。その影響は一門である亘理伊達家にも及び、知行地を没収され、多くの家臣を養うことが困難な状況に陥った 16 。この窮地にあって、亘理伊達家当主・伊達邦成は、家臣団を率いて北海道の有珠郡(うすぐん)へ移住し、未開の地を開拓するという苦難の道を選択した。これが、現在の北海道伊達市の礎である 15 。
この主家の一大事業に、萱場一族もまた運命を共にしている。北海道伊達市に残る開拓移住者の名簿には、「萱場源之助」「萱場左門之助」など、複数の萱場姓の人物が記録されており、一族が主家に従って北の大地へ渡ったことが確認できる 14 。
さらに特筆すべきは、亘理伊達家の菩提寺であり、北海道伊達市に建立された大雄寺(だいゆうじ)に、現在も「萱場家資料」が所蔵され、学術的な調査研究の対象となっていることである 19 。これは、萱場家が戦国時代から明治に至るまで、約300年以上にわたって主家と苦楽を共にし、その歴史を後世に伝える重要な家として存続したことを物語る、何よりの証左と言えるだろう。
本報告書を通じて、これまで一つの人物像として語られがちであった「萱場元時」が、実際には親子二代にわたる忠臣の物語であったことが明らかになった。父・元時は、伊達家存亡の危機であった人取橋の戦いにおいて武功を立てた「武」の人物であり、その子・元時は、卓越した鉄砲術という「技」と、褒賞を固辞し続けた「徳」によって、主家のみならず藩主・伊達政宗からも認められた人物であった。この二代にわたる実直な奉公こそが、萱場家が亘理伊達家中において不動の評価を確立した要因であった。
特に、子の元時の存在は、戦国末期から江戸初期にかけての武士社会の価値観の多様性を示す、極めて興味深い事例である。彼の生涯は、武士の誉れが、必ずしも合戦における大将格としての華々しい活躍や、広大な領地を治めることだけではなかったことを示している。元時は、陪臣という身分でありながら、自らが磨き上げた専門技能(鉄砲術)によって、当代最高の権力者である伊達政宗にその存在を認めさせ、その能力を請われるまでに至った。これは、個人の「技」が、厳格な身分秩序の壁を越える力となり得たことを示す好例である。
伊達政宗が元時を評した「師匠これなく候えども、自然の鍛錬の上」という言葉は、彼の才能が天賦のものであり、かつ自己の努力によって磨き抜かれたものであることへの、最大限の賛辞であった。また、「一文拝領」の逸話は、彼の廉潔な精神性だけでなく、主君との関係性や武家社会の機微を深く理解した、知性あふれる人物であったことを物語っている。
萱場元時は、歴史の教科書に名を連ねるような著名な武将ではないかもしれない。しかし、その技能と精神性によって、勇将・伊達成実、そして独眼竜・伊達政宗という、戦国史に燦然と輝く二人の傑出した人物から深く信頼された、稀有な武士であった。彼の物語は、大名や将軍といった歴史の主役たちを支えた、無数の家臣たちの実像に光を当てることの重要性を、我々に改めて教えてくれる。華々しい戦功だけではない、もう一つの確かな武士の生き様を示した萱場元時の生涯は、歴史に埋もれた忠臣の実像を今に伝える、誠に貴重な一例であると言えるだろう。