蜂屋頼隆は、織田信長の精鋭部隊「黒母衣衆」の一員としてそのキャリアを開始し、信長の天下布武事業において軍事・行政の両面で重用された武将である。本能寺の変という未曾有の動乱を乗り越えた後は、巧みに時勢を読み豊臣秀吉に仕え、ついには越前敦賀を領する大名の地位を確立した。しかし、柴田勝家や羽柴秀吉といった時代の寵児たちの圧倒的な存在感の影に隠れ、彼の具体的な功績や人物像は、これまで断片的にしか語られてこなかった 1 。本稿は、現存する『信長公記』をはじめとする一次史料や各種記録を丹念に読み解き、彼の生涯を再構成することで、織田・豊臣という巨大な権力機構を実務能力で支え抜いた、有能にして見過ごされがちな武将の実像に迫ることを目的とする。
蜂屋頼隆の前半生は、多くの謎に包まれている。彼の出自は美濃国と伝わっており 2 、その姓である「蜂屋」は、美濃国加茂郡蜂屋庄に由来すると考えられている 7 。蜂屋氏は清和源氏土岐氏の支流とされ、同地を本拠とした土豪であった可能性が指摘されているが 8 、頼隆自身とこの蜂屋氏本流との具体的な系譜関係を直接示す史料は確認されていない 8 。
織田信長に仕える以前の経歴としては、美濃の守護であった土岐氏、次いでその地位を簒奪した斎藤道三・義龍親子に仕えていたとされている 2 。この説を補強するのが、信頼性の高い史料である『信長公記』の記述である。永禄2年(1559年)、信長が初めて上洛した際、美濃の国主・斎藤義龍は信長暗殺のために刺客を放った。この計画を事前に察知した信長方の丹羽兵蔵が、刺客の計画を阻止するための取次役として、金森長近と共に頼隆の名を挙げている 10 。この逸話は、頼隆が美濃の内部事情に極めて精通しており、斎藤氏に仕えた経験があったことを強く示唆するものである。
一方で、彼の生年についても確たる証拠はない。一般的に天文3年(1534年)生まれとされることが多いが 1 、これは天正17年(1589年)に56歳で死去したという記録からの逆算に過ぎない 3 。歴史研究者の谷口克広氏が指摘するように、この享年には史料的な裏付けが乏しく、信用の限りではないと考えるべきであろう 10 。
頼隆のキャリアの初期段階は不明瞭な点が多いものの、「美濃出身」「元斎藤家臣」という経歴は、彼の人物像を理解する上で極めて重要である。信長が尾張を統一し、次なる目標として美濃攻略を進める中で、頼隆のような美濃の在地情報に精通し、かつ一定の軍事的・政治的経験を積んだ人材は、戦略的に大きな価値を持っていた。彼が織田家中で頭角を現していく背景には、こうした信長の勢力拡大戦略と、能力を重視する実力主義の人材登用方針が密接に絡み合っていたと考えられる。彼は単に運良く登用されたのではなく、信長の戦略的ニーズに応える能力と経歴を持っていたからこそ、重用されるに至ったのである。
織田信長に仕官してからの頼隆は、早い段階でその才能を認められ、信長直属の精鋭部隊である「黒母衣衆」の一員に抜擢されている 1 。母衣衆とは、背中に母衣(ほろ)と呼ばれる布製の武具を背負うことを許された武士たちのことで、戦場では主君の周囲で伝令や使者、敵情視察、さらには味方の戦功を監察する目付役といった極めて重要な任務を担った 16 。その性質上、母衣衆に選ばれるのは、武勇と才覚を兼ね備えた、主君が最も信頼するエリート中のエリートであった。
信長は、この母衣衆を赤と黒の二組に分け、互いに競わせることで部隊の精強さを高めようとした。頼隆が所属した黒母衣衆には、後に筆頭となる河尻秀隆や、猛将として知られる佐々成政といった、織田政権の中核を担っていくことになる錚々たる顔ぶれが名を連ねていた 15 。一方で、赤母衣衆の筆頭は、後に加賀百万石の祖となる前田利家が務めていた 16 。
このようなエリート部隊の一員に選ばれたという事実は、頼隆が信長の馬廻(直属の親衛隊)として早くからその能力を高く評価され、主君から厚い信頼を得ていたことの何よりの証左である。斎藤家から織田家へと主君を替えた彼が、譜代の家臣らと並んで信長の側近中の側近として認められたことは、彼が信長の「実力主義」という新たな価値観の中で、自らの才覚一つで道を切り拓いていったことを物語っている。この黒母衣衆への抜擢こそが、彼が織田政権の中枢へと駆け上がるための重要な足がかりとなったのである。
永禄11年(1568年)、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛を開始すると、蜂屋頼隆はもはや単なる親衛隊員ではなく、独立した部隊を率いる指揮官として歴史の表舞台に登場する。この上洛戦において、彼は柴田勝家、森可成、坂井政尚といった織田家中の宿将らと共に先鋒部隊を命じられた。彼らは桂川を渡り、三好三人衆方の一人、岩成友通が籠る勝龍寺城を果敢に攻め、50余りの首級を挙げるという軍功を立てた 10 。
信長の入京後、頼隆の役割は軍事行動に留まらなかった。彼は、先の上洛戦で先鋒を共にした柴田、森、坂井の三名(後に佐久間信盛らも加わる)と共に、京都および周辺畿内の行政を担当する奉行衆としての任も担ったのである。彼らは連署で寺社領への禁制を発布して治安維持を図り、年貢の徴収を命じ、さらには金剛寺が三好方に味方した罪を問い質して兵糧米を賦課するなど、軍政から民政に至るまで、新政権の基盤を固めるための幅広い政務を遂行した 10 。この事実は、頼隆が単なる武勇に優れた武将ではなく、統治に必要な実務能力をも兼ね備えた人物として、信長から高く評価されていたことを示している。
上洛後の頼隆は、信長の天下布武事業を支える遊軍的部隊の指揮官として、畿内を中心に各地の戦線を転戦した。
対浅井・朝倉戦: 元亀元年(1570年)以降、織田家を苦しめた北近江の浅井氏、越前の朝倉氏との戦いには繰り返し従軍した。姉川の戦いに繋がる小谷城攻めでは、城下の町を焼き払う作戦に参加 10 。また、浅井氏の居城・小谷城を圧迫するための重要拠点であった虎御前山に陣を構えるなど、常に最前線で活動した記録が残る 20 。天正元年(1573年)、ついに朝倉義景を滅ぼした一乗谷城の戦いでは、その後の追撃戦において、他の多くの諸将と共に朝倉勢の退却を見逃してしまい、信長から直々に叱責を受けるという逸話も『信長公記』に記されている 10 。これは、信長の戦に対する厳格な姿勢と、頼隆がその中核にいたことを示すエピソードである。
対一向一揆・諸勢力戦: 頼隆は、織田軍が最も長期にわたり苦戦を強いられた一向一揆との戦いにおいても、主力部隊の一員として重要な役割を果たした。伊勢長島 6 、越前 6 、そして石山本願寺 5 と、各地の一向一揆勢力との激戦に参加している。特に天正4年(1576年)、本願寺勢に包囲された天王寺砦を救援するために信長自らが出陣した天王寺の戦いでは、信長本隊の第二陣に組み入れられており、戦局を左右する重要な局面を任されていたことがわかる 10 。
足利義昭の追放: 元亀4年(1573年)、信長と対立した将軍・足利義昭が各地の反信長勢力に蜂起を促すと、頼隆は義昭方の拠点の制圧にも動員された。柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀らと共に、近江の石山城や今堅田城を攻略 10 。さらに、義昭自身が籠城した槙島城攻めにも加わり、室町幕府が事実上終焉を迎える歴史的な瞬間に立ち会ったのである 10 。
天正6年(1578年)、信長の信頼厚い重臣であった摂津の荒木村重が突如として謀反を起こした。この事件は織田政権を揺るがす一大危機であったが、頼隆はこの鎮圧戦において、信長への絶対的な忠誠心を示すことになる。
頼隆は信長本隊に従い、村重が籠る有岡城(伊丹城)の包囲戦に参加。滝川一益、明智光秀、丹羽長秀といった織田軍の主立った将らと共に、城を包囲するための付け城の普請や、その守備を担当し、一年以上にわたる長期の攻囲戦に従事した 10 。
戦況が膠着する中、村重は妻子や家臣らを城に残したまま、単身で城を脱出するという挙に出る。これに激怒した信長は、残された人々を見せしめとして処刑するよう、非情な命令を下した。天正7年(1579年)12月、頼隆は丹羽長秀、滝川一益と共に、この凄惨な任務の実行を命じられる。彼らは尼崎において、荒木方の家臣の妻子ら130名余りを磔に処した 3 。これは、主君への絶対的な忠誠心がなければ到底遂行不可能な任務であり、頼隆が信長の時に見せる「非情」な側面を深く理解し、それを実行する覚悟を持った武将であったことを物語っている。この汚れ役ともいえる任務を完遂したことは、信長からの信頼をより一層強固なものにし、後の大役への抜擢に繋がった可能性は高い。
頼隆の織田政権下でのキャリアは、単なる一武将から、特定の地域支配を担う統治者へと着実に昇格していく過程でもあった。天正5年(1577年)頃には、近江国愛知郡の肥田城主となっており 3 、紀州雑賀攻めに向かう総大将・織田信忠の軍勢に宿舎を提供するなど、方面における拠点領主としての役割を果たしている 10 。
そして天正8年(1580年)、織田家の筆頭宿老であった佐久間信盛が、石山本願寺攻めにおける不手際などを理由に突如追放されるという事件が起こる。この信盛の失脚に伴い、頼隆はその旧領の一部であった和泉国の支配権を与えられ、岸和田城主となった 10 。これは、彼が単なる一城主から、一国規模の統治を任される方面軍司令官クラスの地位へと昇格したことを明確に示している。翌天正9年(1581年)に信長が京都で挙行した大規模な軍事パレード「京都御馬揃え」では、頼隆は織田家中で重きをなす丹羽長秀に次ぐ二番手として、和泉・河内衆を率いて堂々と行進しており、その序列の高さがうかがえる 6 。
頼隆のキャリアパスは、織田政権が支配領域を拡大していく中で、中央の直轄軍団から方面軍団へと統治体制をシフトさせていった組織的発展と見事に一致している。彼は、信長の天下布武事業の各段階で必要とされる軍事と行政の両面の役割を的確にこなし、その能力を証明し続けることで自らの地位を向上させていった。その万能性は、柴田勝家のような猛将タイプとも、村井貞勝のような純粋な文官タイプとも異なる、頼隆独自の強みであったと言えるだろう。
天正10年(1582年)6月2日、日本史を揺るがす大事件、本能寺の変が勃発した。この時、蜂屋頼隆は織田信長の三男・信孝を総大将とする四国方面軍の副将格として、重臣・丹羽長秀と共に大坂・堺に滞在し、四国への渡海準備を進めていた 10 。この偶然が、彼を京都の惨劇から救うことになった。
主君信長の横死という報に接した後、頼隆はまず信孝・長秀と行動を共にする。彼らは、謀反人・明智光秀の女婿であった織田信澄を大坂で襲撃し、主君の弔い合戦に向けての意志を明確にした 10 。しかし、その後の情勢は誰もが予想し得ない速度で展開する。備中高松城で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉が、世に言う「中国大返し」によって驚異的な速さで畿内に帰還し、瞬く間に反明智勢力の中核となったのである。
秀吉が弔い合戦の主導権を握ると、頼隆ら四国方面軍は速やかにその軍勢に合流した。6月13日の山崎の合戦において、頼隆は信孝の配下として出陣し、明智軍の右翼部隊と激しく交戦。藤田行政らの攻撃を受ける場面もあったが、信孝隊の救援もあってこれを撃退し、秀吉軍の勝利に大きく貢献した 2 。
山崎の合戦後、織田家の後継者問題と遺領の再配分を決定するため、清洲会議が開催された。この会議で頼隆は3万石の加増を得たと『太閤記』には記されているが、これが史実であるかは定かではない 10 。会議の結果、織田家の実権は事実上、秀吉と筆頭家老の柴田勝家との二頭体制へと移行し、両者の対立は避けられないものとなった。
この新たな権力闘争において、頼隆は極めて重要な選択を迫られる。彼は一貫して秀吉方に与し、その立場を明確にした。清洲会議の決定事項の一つであった、柴田勝家の甥・勝豊への長浜城引き渡しに際しては、丹羽長秀や前田利家と共にその役目を担うなど、秀吉派の重鎮として行動している 10 。
天正11年(1583年)、ついに両者の対立が武力衝突へと発展した賤ヶ岳の戦いでは、頼隆は秀吉本隊の一員として参戦。勝家方の重要拠点であった伊勢の峯城(城主・滝川一益)の包囲攻撃に参加し 10 、さらには勝家の同盟者であった織田信孝の居城・岐阜城攻めにも加わったとされ 10 、秀吉の天下統一事業の完遂に貢献した。
本能寺の変後の一連の頼隆の行動は、極めて冷静かつ現実的な政治判断に基づいている。彼は旧主信長の子である信孝に付き従うという義理を果たしつつも、畿内における軍事バランスと政治力学の変化を的確に見極め、最も勢いのある秀吉に与するという、生存と発展のための合理的な選択を行った。この決断には、長年の同僚であり、義理の兄でもあった丹羽長秀と歩調を合わせたという側面も大きい。彼らの選択は、単なる日和見主義ではなく、織田政権の「実務」を担ってきた者たちとして、混乱を収拾し新たな秩序を構築できる指導者は誰かを見極めた上での、必然的な帰結であったと評価できる。それは、織田家臣団内部における、旧来の重臣(勝家)から新興の実力者(秀吉)への「世代交代」と「路線変更」を、頼隆自身が体現した瞬間でもあった。
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利し、天下人への道を確固たるものにすると、蜂屋頼隆はその功績を認められ、新たな領地を与えられることになった。天正11年(1583年)、頼隆はそれまでの居城であった和泉国岸和田から、越前国敦賀へと移封され、4万石(一説には5万石)を領する大名となった 1 。
この移封は、単純な石高だけではその重要性を測ることができない。頼隆が支配していた和泉国は、石高が約14万石あったとも言われており、数字の上では減封であった可能性が高い 11 。しかし、移封先の敦賀は、古来より日本海と京・大坂を結ぶ物流の最重要拠点である敦賀湊を擁し、北陸道における陸上交通、そして軍事上の要衝でもあった 11 。秀吉がこのような戦略的価値の極めて高い地を頼隆に任せたという事実は、彼に対する深い信頼の表れに他ならない。それは、頼隆が豊臣政権下においても、軍事・経済の両面で重要な役割を担うことを期待されていたことの証であった。
敦賀に入部した頼隆は、早速この地の支配拠点として、敦賀で初となる本格的な平城、すなわち敦賀城の築城に着手した 27 。当時の敦賀城は、三層の天守を備えた壮麗な城であったと伝わっている 10 。
さらに頼隆は、城の建設と並行して、城下町の整備にも取り組んだと考えられている。彼の事業は、その死後に城主となった大谷吉継によって引き継がれ、川を基準とした本格的な町割りが行われた。これが後の「敦賀三十六町」と称されるほどの繁栄を誇った都市の基盤となったのである 29 。この点において、頼隆は近世都市・敦賀の礎を築いた「創始者」として、高く評価されるべきである。
残念ながら、頼隆が心血を注いで築いた敦賀城は、江戸時代に入ってからの一国一城令によって破却され、現在ではその直接的な遺構はほとんど残っていない。市内の来迎寺に本丸の中門が移築されたと伝わる門や、真願寺に残る礎石などが、往時の姿を偲ばせる数少ない貴重な痕跡となっている 27 。
居城名 |
所在地(当時) |
主な城主期間 |
推定石高/支配領域 |
備考 |
肥田城 |
近江国愛知郡 |
天正5年(1577)頃~天正8年(1580)頃 |
- |
織田信忠軍の宿舎となるなど、方面拠点として機能 10 。 |
岸和田城 |
和泉国 |
天正8年(1580)~天正11年(1583) |
和泉国(約14万石) |
佐久間信盛追放後に支配。方面軍司令官格へ昇進 10 。 |
敦賀城 |
越前国敦賀郡 |
天正11年(1583)~天正17年(1589) |
4万石~5万石 |
豊臣政権下で入封。日本海交通の要衝を支配 11 。 |
豊臣大名となった後も、頼隆は秀吉の天下統一事業の総仕上げとなる主要な軍事行動に参加し続けた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の富山の役(佐々成政攻め)、そして天正15年(1587年)の九州征伐と、主要な戦役には常に従軍している 10 。
こうした長年の功績と忠誠に対し、秀吉も厚い信頼と栄誉で応えた。頼隆は天正13年(1585年)頃に従四位下・侍従に叙任されると共に、秀吉の一門や腹心にのみ許される「羽柴」の姓を与えられ、「羽柴敦賀侍従」と称されるようになった 2 。さらに天正16年(1588年)には、最高の名誉である「豊臣」の本姓までも下賜されている 10 。
同年、秀吉がその権勢を天下に示すために催した後陽成天皇の聚楽第行幸では、頼隆は関白秀吉の行列に供奉し、徳川家康や前田利家ら全国の有力大名と共に、秀吉への忠誠を誓う起請文に「敦賀侍従豊臣頼隆」として署名している 10 。この事実は、彼が名実ともに関白豊臣秀吉を支える国持大名の一人として、確固たる地位を築き上げていたことを物語っている。
蜂屋頼隆は、戦場を駆け巡る武骨なだけの武将ではなかった。彼は、当時の武士の嗜みであった文化的な素養も豊かに持ち合わせていた。特に連歌には深く傾倒しており、当代随一の連歌師として知られた里村紹巴やその弟子・昌叱らと親しく交流を持っていたことが記録されている 10 。さらに和歌においても、当代きっての文化人であった細川幽斎(藤孝)や、茶人として名高い古田織部(重然)らと並び称されるほどの「好士」、すなわち優れた愛好家であったという 10 。こうした文化人との交流は、彼が単なる武人ではなく、洗練された教養を身につけた人物であったことを示している。
頼隆の人物像を語る上で欠かせないのが、天下人・豊臣秀吉が強力に推し進めた国家事業「太閤検地」に対して、公然と反対の立場を取ったという逸話である 5 。
太閤検地は、全国の田畑の面積と収穫量を統一された基準で測量し、それに基づいて年貢を徴収する画期的な政策であったが、一方で領主や農民にとっては従来の慣習を覆し、隠し田などを摘発される厳しいものであった。多くの大名が秀吉の意向に従う中で、頼隆は検地の問題点を指摘した三箇条の書状を秀吉に送り、その実施に苦言を呈したことが『戯言養気集』という書物に記録されている 10 。その書状の具体的な内容は現存しないため不明であるが 44 、絶対的な権力者である秀吉の政策に、正面から異を唱えるという行為は、大変な覚悟と勇気を要するものであり、彼の気骨と、自らの領地の民を思う為政者としての見識の高さを示すものと言える。
この頼隆の直言に対し、秀吉は「蜂屋出羽(頼隆の官名)検地ゆるせとさして(刺して)いへど そらうそぶひて聞ぬ関白」という、頼隆の官名と蜂の「刺す」をかけた皮肉めいた和歌で応じ、彼の意見を退けたと伝えられている 5 。結果として彼の「一刺し」は政策を覆すには至らなかったが、この逸話は頼隆の剛直な性格を後世に永く留めることとなった。
頼隆の行動原理や人間性を深く理解する上で、鍵となるのが『武家事紀』などに伝えられる彼の座右の銘、「五去七恐之図」である。彼はこの自らが定めた戒めを紙に書き記し、常に壁に貼って朝夕眺め、自らを省みていたという 5 。
**「五去」**とは、心から去らせるべき五つのことを指す。
**「七恐」**とは、常に畏れ敬うべき七つのことを指す。
この「五去七恐」は、頼隆の生き様そのものを映し出す鏡である。「主君を恐れよ」と説く一方で、「道理に暗い主君(闇君)からは去れ」と教えている点は特に示唆に富む。これは、彼の忠誠が決して盲従ではなく、自らの倫理観、すなわち「聖理」に基づいたものであることを明確に示している。この哲学に照らし合わせれば、先の太閤検地への反対も、単なる反抗ではないことが理解できる。彼は秀吉という「主君」を恐れ敬いつつも、その政策が「聖理」に反すると考えたが故に、諫言という行動に出たのである。この信条こそが、彼が信長からも信頼され、戦評定の際には必ず意見を求められた 5 という逸話の背景にあるのだろう。彼はイエスマンではなく、的確な意見を述べることができるからこそ、乱世の指導者たちに重用されたのである。
頼隆は、織田家臣団内での人間関係においても巧みな立ち回りを見せていた。彼の妻は、織田家の宿老として重きをなした丹羽長秀の妹(正確には父・長政の娘)であった 5 。この長秀との姻戚関係は、織田家臣団内での彼の地位を固める上で、極めて重要な意味を持っていたと考えられる。
しかし、頼隆は後継者に恵まれなかった。彼には実子がいなかったため、義理の甥にあたる丹羽長秀の四男・直政を養子として迎え、家督を継がせようとした 10 。ところが、この養子・直政は頼隆に先立って早世してしまい、彼は再び後継者を失うという悲運に見舞われた 10 。
一方で、公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』には、頼隆の死後、彼の未亡人が「梅南丸」という名の幼い男子の病気平癒を祈祷したという記録が残されている 10 。この梅南丸は歩行に障害があったと記されており、実は頼隆の実子であったが、身体的な障害のために家督を継ぐことが許されなかったのではないか、という説が存在する 10 。もしこれが事実であれば、輝かしい戦歴の裏にあった彼の私生活の悲運が一層際立つことになる。
蜂屋頼隆は、天正17年(1589年)9月25日、その波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。最後まで後継者を定めることができなかったため、彼が一代で築き上げた蜂屋家は、その死と共に断絶した 5 。
彼の死に際して、一つの象徴的な逸話が残されている。頼隆は遺言により、遺物として金30枚を秀吉に献上したが、秀吉はこれを受け取らずに返却したという 5 。この秀吉の行動は、かつて検地で直言した頼隆を快く思っていなかった一方で、その長年にわたる功績と忠誠心を認め、一人の大名としての矜持を最期に尊重したという、天下人の複雑な感情の表れとして解釈できる。
歴史的に見れば、蜂屋頼隆は、織田信長という革新的な主君に見出され、その実力主義の中で頭角を現し、軍事と行政の両面で非凡な実務能力を発揮して、織田・豊臣という二つの巨大政権の基盤を支え続けた武将であった。彼の生涯は、派手な武勇伝や劇的な下克上物語とは一線を画す、巨大な権力機構の中で着実に実績を積み上げていく、有能な「組織人」としての一面を強く持っている。太閤検地に反対した気骨や、「五去七恐」という独自の哲学に見られるように、彼は決して主君に盲従するだけの武将ではなかった。
しかし、後継者に恵まれなかったという不運により、彼の家名と功績は一代で歴史の表舞台から姿を消し、その存在は次第に忘れられていった。彼は、戦国乱世を生き抜き、天下統一という大事業に大きく貢献しながらも、その名を後世に永く留めることができなかった、有能な実務家武将の一つの典型と言えるだろう。彼の死後、その遺領である越前敦賀は、彼の後任として大谷吉継に引き継がれ、日本海交通の要衝としてさらなる発展を遂げることとなる 5 。