蠣崎光広は蝦夷地統一の礎を築いた武将。父信広の跡を継ぎ、謀略と戦略で松前守護職を掌握。徳山館を築き、安東氏から交易独占権を得て、後の松前藩の経済基盤を確立した。
日本の戦国時代史において、蝦夷地(現在の北海道)の南端部を舞台に、後の松前藩の礎を築いた蠣崎氏。その権力基盤を実質的に確立した人物が、本報告書で詳述する蠣崎光広(かきざき みつひろ)である。彼は一般に、蠣崎家二代当主として徳山館を築き、アイヌの軍勢を撃退して安東家から支配権の追認を得た武将として知られている。しかし、その実像は、単なる一地方領主の枠を大きく超える、謀略家、統治者、そして経済戦略家としての多面的な顔を持つ。
光広の時代は、蝦夷地における和人社会が大きな変容を遂げる過渡期にあった。父・武田信広(たけだ のぶひろ)がコシャマインの戦いという存亡の危機を武勇と知略で乗り越え、和人社会の英雄として蠣崎氏の礎を築いた後、光広はその遺産を継承し、さらに飛躍させた。彼の生涯は、蝦夷地という辺境の地で、中世的な群雄割拠の状態から、近世的な統一権力へと移行するプロセスそのものを体現している。
本報告書は、蠣崎光広の生涯を、権力闘争、アイヌとの関係、そして経済基盤の確立という三つの主要な軸から徹底的に分析する。特に、彼の権力掌握の過程で繰り返し用いられた「謀略」、上ノ国から松前への拠点移転に見られる地政学的・経済的戦略、そしてアイヌとの関係を武力による制圧から経済的従属へと変質させていく端緒を、史料を基に解き明かすことを目的とする。
分析にあたっては、松前藩の正史である『新羅之記録(しんらのきろく)』を主要な典拠とするが、この史料が蠣崎(松前)氏の支配の正当性を強調する意図をもって編纂されたものである点を念頭に置く必要がある 1 。そのため、考古学的知見や他の記録と照らし合わせながら、その記述を批判的に検討し、蠣崎光広という人物の歴史的実像に迫る。
西暦(和暦) |
蠣崎光広・蠣崎氏の動向 |
アイヌ社会の動向 |
安東氏・津軽情勢 |
日本中央の情勢 |
1456年(康正2年) |
蠣崎光広、武田信広の嫡男として誕生 3 。 |
コシャマインの戦い(~1457年)。和人の鍛冶屋とアイヌの諍いが発端 5 。 |
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1457年(長禄元年) |
父・信広がコシャマイン父子を討ち取り、和人社会の英雄となる 6 。 |
コシャマインの戦いが終結。 |
安東政季が蝦夷地に渡海したとされる 7 。 |
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1470年頃 |
父・信広が上ノ国に勝山館を築城 8 。 |
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応仁の乱(~1477年)。 |
1494年頃(明応3年頃) |
父・信広の死により、家督を相続 7 。 |
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1496年(明応5年) |
松前守護・下国恒季の悪政を安東氏に訴え、排斥に成功 10 。 |
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安東氏が恒季を自害させ、後任に相原季胤を任命 10 。 |
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1512年(永正9年) |
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東部アイヌが蜂起し、箱館など三館が陥落したとされる 13 。 |
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1513年(永正10年) |
アイヌ軍(一説には光広の軍勢)により松前大館が陥落し、守護・相原季胤が自害 4 。 |
松前大館を攻撃。 |
松前守護・相原季胤が戦死 4 。 |
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1514年(永正11年) |
上ノ国・勝山館から松前大館へ拠点を移し、「徳山館」と改名 3 。 |
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安東尋季に対し、松前守護職の追認を要求 4 。 |
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1515年(永正12年) |
ショヤコウジ兄弟の戦い。和睦と偽り、アイヌ首長兄弟を徳山館で謀殺 10 。 |
東部の首長ショヤコウジ兄弟が蜂起し、徳山館を攻撃 10 。 |
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1518年(永正15年) |
7月12日、死去。享年63 3 。長男・義広が家督を継ぐ。 |
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1529年(享禄2年) |
(義広の代) |
西部の首長タナサカシが蜂起。義広は謀略によりタナサカシを射殺 9 。 |
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1536年(天文5年) |
(義広の代) |
タナサカシの婿・タリコナが蜂起。義広は再び謀略を用い、タリコナ夫妻を斬殺 12 。 |
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1550年(天文19年) |
(季広の代) |
蠣崎季広、アイヌと和睦。「夷狄の商舶往還の法度」の原型が成立 9 。 |
安東舜季が渡道し、和睦を仲介 5 。 |
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蠣崎光広の生涯を理解する上で、その父である武田信広の存在は不可欠である。信広は若狭武田氏の庶流とされ、故あって若狭国から流浪し、享徳3年(1454年)頃に蝦夷地へ渡ったとされる人物である 5 。当時、上ノ国(かみのくに)を拠点としていた蠣崎季繁(すえしげ)の客将となった信広は、康正3年(1457年)に発生したコシャマインの戦いにおいて、その才覚を遺憾なく発揮する 23 。この戦いは、和人の鍛冶屋がアイヌの若者を刺殺した事件をきっかけに、アイヌの首長コシャマインが指導者となって蜂起した、和人社会の存亡をかけた大規模なものであった 5 。道南十二館のうち十館が次々と陥落する中、信広は数に劣る兵を率い、正面からの衝突を避けて敵将を誘い出すという巧みな計略を用いてコシャマイン父子を討ち取った 6 。この功績により、信広は和人社会の英雄として絶大な名声を得て、跡継ぎのいなかった蠣崎季繁の家督を継承し、蠣崎信広を名乗るに至った 5 。
その後、信広は上ノ国に勝山館を築き、蝦夷地における和人領主としての地位を固めた 3 。光広は、この英雄の嫡男として康正2年(1456年)に誕生し 3 、父が築き上げた武名と勢力を背景に、明応3年(1494年)頃、その家督を相続した 7 。しかし、この時点での蠣崎氏の力は、あくまで上ノ国周辺に限定されたものであり、蝦夷地全体の覇権を握るには程遠い、数多の和人領主の一人に過ぎなかった。
父・信広の成功譚には、後の光広の行動を理解する上で重要な示唆が含まれている。信広の勝利は、単なる武勇によるものではなく、敵の意表を突く「計略」によってもたらされた。この、目的達成のためには正攻法に固執しない柔軟かつ現実的な思考法は、辺境の地で少数派の和人が生き残るための術であり、光広へと確実に継承されていくことになる。
光広が家督を継いだ15世紀末の蝦夷地は、複数の勢力が複雑に絡み合う、権力の空白地帯ともいえる混沌とした状況にあった。
名目上の最高権力者は、津軽から秋田にかけて勢力を有する安東氏であった 5 。安東氏は「蝦夷管領」を称し、蝦夷地を自らの管轄地とみなし、同族の下国(しものくに)氏を代官として松前の大館(おおだて)に配置していた 13 。この大館の主は「松前守護」とも呼ばれ、蝦夷地の和人諸館を統括する立場にあったが、その支配は間接的であり、津軽海峡を隔てた本拠地からの影響力は限定的であった。蠣崎氏をはじめとする和人領主たちは、安東氏の家臣という立場を取りつつも、実質的には半独立の勢力を保持していた 10 。
渡島半島南部には「道南十二館」と呼ばれる和人の館(城砦)が点在し、各館主は交易の利益を巡って互いに協力し、また時には競合する関係にあった 16 。彼らは「渡党(わたりとう)」とも呼ばれ、津軽海峡を越えてきた武装した商人団のような性格も持っていた。この群雄割拠の状態は、特定の突出した権力が存在しないことを意味し、実力さえあれば誰でも覇権を狙える状況を生み出していた。
そして、最も重要な要素が、先住民族であるアイヌの存在である。和人とアイヌは、交易を通じて相互に依存する関係にあった。和人は米や酒、鉄製品、漆器などを持ち込み、アイヌは干魚や獣皮、鷲の羽などを提供した 21 。しかし、この交易は常に平和的だったわけではない。和人商人による不公正な取引や、和人漁師による漁場の独占など、和人側の横暴がアイヌの不満を蓄積させ、コシャマインの戦いに代表されるような大規模な武力衝突を幾度となく引き起こしていた 5 。
このような、宗主・安東氏の権威が揺らぎ、和人領主が相争い、さらにアイヌとの緊張関係が続くという三つの不安定要素を抱えた社会構造こそが、蠣崎光広という野心家が飛躍する舞台となった。彼は、この混沌とした状況を単なる脅威としてではなく、既存の秩序を打破し、自らが新たな支配者として君臨するための好機と捉えたのである。
家督を継いだ光広は、蝦夷地における覇権確立の第一歩として、安東氏の権威の象徴である「松前守護職」の地位に狙いを定めた。彼の権力掌握への道程は、法と暴力、そして外交を巧みに使い分ける、計算され尽くした三段階のプロセスとして展開される。
第一段階は、既存権力者の合法的な排除であった。当時、松前守護の地位にあったのは下国恒季(つねすえ)であったが、彼は粗暴な振る舞いが多く、領民の評判が極めて悪かった 11 。光広はこの状況を巧みに利用し、明応5年(1496年)、渡島半島の他の和人館主たちと連携して、恒季の悪政を宗主である安東忠季に訴え出た 10 。この訴えを受け入れた安東氏は、松前大館に討手を差し向け、恒季を自害に追い込んだ 10 。これは、光広が自らの手を直接汚すことなく、宗主の権威を利用して競争相手を排除した、見事な政治的勝利であった。
しかし、光広の思惑通りには進まなかった。安東氏は恒季の後任として、光広ではなく、相原季胤(すえたね)を新たな松前守護に任命したのである 5 。この人事に強い不満を抱いた光広は、第二段階として、より直接的かつ非情な手段に打って出る。永正9年(1512年)以降、渡島半島東部でアイヌが蜂起し、和人の館が攻撃される事件が相次いだ 13 。そして永正10年(1513年)、ついにアイヌ軍が松前大館を攻撃し、守護の相原季胤は戦死、大館は陥落した 4 。しかし、この一連の攻撃の背後には光広の策謀があったとする説が有力である。『松前累系』などの史料は、大館を攻めたのはアイヌに扮した光広の軍勢であったと記しており、光広が「アイヌの蜂起」という混沌状況を創出、あるいは最大限に利用して、邪魔者である相原氏を武力で排除した可能性が極めて高い 5 。
相原氏が滅び、主を失った松前大館。光広はこの好機を逃さなかった。翌永正11年(1514年)、彼は小舟180隻余りを率い、一族郎党を引き連れて本拠地を上ノ国・勝山館から松前大館へと移した 3 。そして、この地を改修し、新たに「徳山館(とくやまだて)」と命名した 11 。この拠点移転は、単なる引っ越しではなく、蠣崎氏の未来を決定づける極めて戦略的な一手であった。
その戦略的意義は、まず地政学的な優位性にある。旧来の拠点であった上ノ国は日本海側に面しており、交易ルートが限定されていた。一方、松前は津軽海峡に面し、日本海と太平洋を結ぶ海上交通の結節点に位置する。この地を押さえることは、蝦夷地に出入りする全ての交易船を掌握し、経済的な覇権を握ることを意味した 17 。
さらに、象徴的な意味も大きかった。松前大館は、長らく安東氏の代官である松前守護が拠点とした場所であり、蝦夷地における和人支配の中心地であった 11 。その地に自らが拠点を構えることで、光広は内外に対し、自分が事実上の蝦夷地の支配者であることを宣言したのである。
徳山館が築かれた場所は、松前町神明から福山にかけての丘陵が平野に突き出した舌状台地上であり、東をバッコ沢、西を小館沢に挟まれた天然の要害であった 11 。館は、先端部の「小館」と、堀切を挟んで北に広がる「大館」という二つの主要な郭で構成され、周囲には柵やさらなる堀が設けられていた 30 。この堅固な城砦は、蠣崎氏4代にわたる蝦夷地経営の中枢として、慶長11年(1606年)に福山館(後の松前城)へ移るまでの約90年間、その役割を果たし続けた 11 。
松前の地を実力で手中に収めた光広は、権力掌握の最終段階として、自らの地位を公的に認めさせるための外交交渉に乗り出す。彼は、宗主である安東尋季(ひろすえ)のもとに弁舌に長けた家臣を派遣し、自らを新たな松前守護として追認するよう、執拗に要求した 4 。
当初、安東氏は、陪臣である蠣崎氏のあまりに野心的な行動を警戒し、この要求を拒絶した 10 。しかし、光広はここで極めて現実的かつ画期的な提案を行う。それは、蝦夷地に来航する和人の商船や旅人から徴収する通行税(運上金)の過半を、宗主である安東氏に上納するというものであった 10 。
この提案は、安東氏にとって非常に魅力的であった。自ら直接蝦夷地を統治する負担を負うことなく、安定した経済的利益を享受できるからである。一方、光広にとっても、この経済的譲歩は大きな戦略的価値を持っていた。戦国時代の武士が主君に果たすべき最大の義務は「軍役」であるが、光広はそれを「上納金」という形で代替しようとした。これは、米が生産できず、交易こそが富の源泉である蝦夷地の特殊性を逆手に取った発想である。軍役の負担を免れることで、自らの軍事力を温存し、蝦夷地内での支配固めに集中できる。そして、安東氏には実利を与えることで、自らの支配の正当性、すなわち「お墨付き」を得ることができる。
この交渉は最終的に妥結し、光広の嫡男・義広の代に、蠣崎氏は正式に松前守護職を安堵された 10 。これにより、蠣崎氏は名実ともに蝦夷地における和人社会の支配者としての地位を確立した。この「支配のコストを金銭で解決する」という現実主義的な手法は、後の松前藩が石高を持たない「無高」の大名でありながら、交易利権を基盤として存続していくという、他に類を見ない統治モデルの原型となったのである。
徳山館へ拠点を移し、蝦夷地支配の第一歩を踏み出した光広の前に、新たな脅威が立ちはだかった。永正12年(1515年)、渡島半島東部を拠点とするアイヌの有力首長、ショヤとコウジの兄弟が大規模な軍勢を率いて蜂起し、徳山館に攻め寄せたのである 3 。この戦いは、蠣崎氏の支配に対するアイヌの最初の大きな抵抗であった。
兵力で劣勢にあった光広は、父・信広や自らが相原氏を排除した際と同様、正面からの決戦を避けた。彼は和睦を申し入れると偽り、ショヤコウジ兄弟とその主だった者たちを徳山館での酒宴に招き入れた 10 。これは、蠣崎氏がアイヌの指導者層を無力化する際に繰り返し用いることになる、非情な謀略の始まりであった。
宴席で兄弟らを酒に酔わせ、宝物を贈るふりをして完全に油断させたところで、光広は合図と共に襲いかかり、兄弟を斬殺した 18 。『新羅之記録』によれば、この時に光広が用いたのは、父・信広が蠣崎家を継承した際に受け継いだ家宝の名刀「来国俊(らいくにとし)」であったとされ、この謀殺が蠣崎氏の正統な権力行使であることを象徴づけている 15 。指導者を失ったアイヌ軍は混乱し、蠣崎の軍勢によってことごとく討ち取られた。この騙し討ちによる勝利は、蠣崎氏の武威と恐怖をアイヌ社会に深く刻み込む結果となった。
ショヤコウジ兄弟の戦いの後日談として、『新羅之記録』は興味深い伝承を記している。謀殺された兄弟をはじめとするアイヌの遺体は、徳山館の近くに埋められ、その墓は「夷塚(えぞづか)」と呼ばれた 15 。そして、後の時代に蠣崎氏がアイヌに出兵しようとするたびに、この塚からかすかに声が聞こえるなどの怪異が起こったというのである 15 。
この「祟り」の伝承は、単なる怪談として片付けるべきではない。むしろ、当時の和人社会の文化的背景、特に「御霊信仰(ごりょうしんこう)」の文脈で読み解くことで、その深い意味が明らかになる。日本本土では古来、政争に敗れて非業の死を遂げた者の怨霊が、疫病や天変地異といった災厄をもたらすと信じられてきた 34 。そして、その怨霊を神として祀り、「御霊」として丁重に鎮魂することで、祟りを鎮め、社会の平穏を願う信仰が広く存在した。菅原道真や平将門などがその代表例である 36 。
この視点から「夷塚」の伝承を捉え直すと、蠣崎氏側の巧みなイデオロギー操作が見えてくる。アイヌ側から見れば、ショヤコウジ兄弟は侵略者によって騙し討ちにされた悲劇の英雄である。彼らが「祟りをなす」という伝承を、支配者である蠣崎氏自らが編纂した史書に記録することは、彼らが鎮魂されるべき強力な「怨霊」となるほどの存在であったと、逆説的に認める行為に他ならない。これは、被征服民の怨霊伝承を支配者の物語に取り込むことで、自らが手を下した相手の力を誇張し、それを制圧した自分たちの武威をより一層高めるという効果を狙ったものと考えられる 39 。暴力的な支配という生々しい事実を、神話的な物語へと昇華させ、自らの支配を正当化する高度な文化的戦略であったといえよう。
和睦を装った謀殺という冷徹な手法は、光広一代で終わることはなかった。それは、蠣崎家がアイヌの有力者を排除するための、いわば確立された「統治マニュアル」として、次代へと継承されていった。
光広の子である三代当主・義広もまた、父の戦術を忠実に実行した。享禄2年(1529年)、西部の首長タナサカシが蜂起すると、義広は一旦和睦を申し入れ、賠償の品々を館の前に並べてタナサカシを誘き出した。タナサカシが宝物を手に取って喜んでいる無防備な瞬間を狙い、義広は強弓で彼を射殺した 9 。さらに天文5年(1536年)、亡きタナサカシの婿であるタリコナが復讐のために蜂起した際も、義広は再び偽りの和議を申し入れ、タリコナ夫妻を徳山館の酒宴に招いた。そして、宴もたけなわとなったところで自ら夫妻を斬殺したのである 12 。
これらの執拗なまでの謀殺の繰り返しは、蠣崎氏の統治スタイルの本質を物語っている。それは、①兵力の損耗を最小限に抑え、②敵対勢力の指導者層をピンポイントで、かつ確実に無力化し、③残された集団を恐怖によって支配するという、極めて合理的かつ冷徹な目的を持っていた。正々堂々とした合戦とは異なる、この辺境の地で独自の進化を遂げた戦術思想は、アイヌ社会に和人への拭い難い不信感を植え付けると同時に、蠣崎氏に対する大規模な組織的抵抗を長期間にわたって封じ込めるという、絶大な効果を発揮したのである。
蠣崎光広の功績は、軍事・政治的な側面に留まらない。彼は、蝦夷地という特殊な環境下で、交易を基盤とする独自の経済システムを創出し、それが後の松前藩の存立を支える屋台骨となった。その核心は、交易の「場」を支配し、そこから利益を上げるという、現代のプラットフォームビジネスにも通じる先見的な発想にあった。
光広は、安東氏との交渉を通じて、蝦夷地に来航する全ての和人商船から通行税や手数料(運上金)を徴収する権利を公的に認められた 10 。これは、特定の産品を独占するのではなく、交易活動そのものに課税する権利であり、蠣崎氏による交易独占体制の萌芽であった。このシステムの下で、和人商人は蠣崎氏の許可なくアイヌと直接取引をすることが禁じられ、全ての交易は蠣崎氏の管理下に置かれることになった 27 。
この交易で扱われた品目は、双方の社会の特質を色濃く反映している。アイヌ側からは、干鮭、干鱈、ニシンといった豊富な海産物をはじめ、熊やラッコ、オットセイの毛皮、そして武具の装飾などに用いられる鷲の羽といった、蝦夷地の自然の恵みが提供された 21 。一方、和人側からは、蝦夷地では生産できない米や酒、木綿や古着といった衣料品、そしてアイヌ社会の生活様式を大きく変えることになる鉄製品(鍋、刀、刃物など)や漆器などがもたらされた 21 。
この交易構造において、蠣崎氏は生産者ではなく、和人商人とアイヌという二つのプレイヤーをつなぐ「プラットフォーム」の提供者・管理者として振る舞った。そして、そのプラットフォームを通過する全ての取引から安定した利益を吸い上げることで、自らの権力を盤石なものとしていったのである。
日本本土の戦国大名にとって、その経済基盤は領地から収穫される米の量、すなわち「石高(こくだか)」であった 47 。しかし、寒冷な蝦夷地では米作が不可能であり、この農本主義的な経済モデルは通用しない 22 。光広の真の革新性は、この絶対的なハンディキャップを逆手に取り、土地支配ではなく交易利権の独占的管理を権力の源泉とする、全く新しい経済体制を構築した点にある。
この体制は、アイヌ社会に対する支配をより深化させる効果も持っていた。擦文文化からアイヌ文化へと移行する中で、アイヌの人々の生活は、土器や石器から、和人との交易によってもたらされる鉄鍋や鉄製の刃物へと大きく依存するようになっていた 45 。光広が交易の独占的管理権を握ったことは、単に経済的な利益を得るだけでなく、アイヌ社会の存立に不可欠な「鉄製品の供給」という生命線を掌握したことを意味した。
これにより、蠣崎氏はもはや大規模な武力を行使せずとも、交易の停止や、交換レートを意図的に操作するといった経済的な圧力を通じて、アイヌ社会に対して強力な影響力を行使することが可能となった。光広の時代に築かれたこの経済的従属関係は、武力による「ハードパワー」の支配から、経済支配という「ソフトパワー」への転換の端緒を開き、孫の季広の代に制定される「夷狄の商舶往還の法度」によって制度化され、後の松前藩の対アイヌ政策の根幹を成していくのである 9 。
蝦夷地における和人支配の礎を築いた蠣崎光広は、永正15年(1518年)7月12日、63年の生涯を閉じた 3 。彼の晩年に関する具体的な活動を記した史料は乏しいが、その死の時点で、蠣崎氏は上ノ国の一地方領主から、松前の徳山館を拠点に渡島半島南部の交易と政治を牛耳る、名実ともに最強の和人勢力へと変貌を遂げていた。
光広個人の墓所の所在地を明確に示す記録は現存していない 12 。しかし、蠣崎氏及び後の松前氏の菩提寺は、松前城下の寺町にある曹洞宗法幢寺(ほうどうじ)と定められている 51 。この法幢寺の裏手にある松前家墓所には、始祖・武田信広から四代・季広までを一つの墓碑に合祀したものが現存しており、光広もまたこの地に眠っていると考えるのが最も自然であろう 52 。この墓所には、北陸地方から北前船で運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)などが用いられており、蠣崎氏の権力が日本海交易と深く結びついていたことを物語っている 52 。
光広の死後、彼が築いた権力と統治手法は後継者たちに引き継がれ、蠣崎氏の支配をさらに強固なものとしていった。この継承の過程は、蠣崎家の統治スタイルが世代を経て進化していく様相を示しており、あたかも企業の成長段階になぞらえることができる。
光広を「創業者」とするならば、その跡を継いだ長男の義広(よしひろ)は、創業者の手法を忠実に実行し、事業を拡大・強化する二代目に相当する 16 。彼は父の謀略的な統治スタイルをそのまま継承し、アイヌ首長のタナサカシやタリコナを騙し討ちにするなど、武力と恐怖による支配をさらに推し進めた 12 。
そして、義広の子、すなわち光広の孫にあたる四代・季広(すえひろ)は、「安定期」の経営者、あるいは「改革者」であった 56 。彼は、祖父と父が築いた盤石な権力基盤の上に立ち、これまでの際限ない武力抗争が長期的な支配にとって不利益であると判断した。そして天文19年(1550年)、宗主である安東舜季の仲介を得てアイヌとの大々的な和睦を成立させ、交易のルールを定めた「夷狄の商舶往還の法度」を制定した 9 。これは、光広が始めた交易管理システムを法制化し、より安定的で持続可能な支配体制へと転換させるものであった。光広という創業者がいなければ季広の改革はありえず、また季広の改革がなければ光広が築いた権力は安定しなかった。この世代間の巧みな役割分担こそが、蠣崎氏が蝦夷地で確固たる覇権を握り得た要因であった。
蠣崎光広という人物は、その評価が多岐にわたる、極めて複雑な歴史像を持つ。
一方では、目的のためには手段を選ばず、競合相手や抵抗勢力を和睦と偽って謀殺することも厭わない、冷徹非情な策略家であったことは疑いようがない 10 。アイヌの視点に立てば、彼は狡猾な侵略者であり、その支配の確立過程で多くの血が流された。彼の時代から、アイヌ社会の自立性は大きく損なわれ、和人による経済的・政治的支配が本格化していくことになる 50 。
しかし、もう一方では、優れた統治者・経営者としての一面も持つ。『上ノ国村史』には「よく民政に意を用いて蝦夷を懐柔し」たと記され、安定した政治を行ったとの評価も存在する 9 。この一見矛盾する二つの評価は、彼の統治対象を区別することで合理的に説明できる。すなわち、彼の「民政」の対象は、自らの支配下にある和人社会であり、その安定と繁栄が自らの権力基盤を強化することを知っていた。一方で「謀殺」の対象は、自らの支配に抵抗する外部勢力(アイヌの有力首長や和人のライバル)であった。これは、「内(支配圏)には善政を敷いて支持を固め、外(敵対勢力)には非情な手段でこれを排除する」という、極めてマキャベリズム的な統治を実践していたことを示唆している。
最終的に、光広は蝦夷地における和人支配の礎を築き、後の松前藩の「実質的な創業者」の一人として、その功績は極めて大きい。彼が確立した権力と経済基盤なくして、曾孫にあたる慶広の代における豊臣・徳川政権下での大名化はあり得なかったであろう。
蠣崎光広の生涯は、日本の北辺、蝦夷地における中世から近世への大きな歴史的転換点を力強く象徴している。彼は、父・武田信広が武勇によって獲得した一地方領主の地位を、その卓越した謀略と類稀な経済的先見性によって、蝦夷地全体の和人社会を束ねる統一的な支配権へと昇華させた。
彼が後世に残した遺産は、政治と経済の両面にわたる。政治的には、彼の容赦ない権力闘争の結果、道南に割拠していた和人領主たちは蠣崎氏の権威の下に実質的に統合され、後の松前藩の支配体制の原型が形成された。経済的には、彼が創始した交易利権の独占というビジネスモデルが、米の生産に依存しない松前藩独自の経済基盤となり、その後の二百数十年間にわたる支配を可能にした。この経済モデルは、孫・季広による「夷狄の商舶往還の法度」として法制化され、曾孫・慶広が豊臣秀吉や徳川家康から蝦夷地支配の公認を得る際の強力な後ろ盾となった 22 。
その手段の是非は、時代の倫理観や誰の視点に立つかによって大きく異なる評価を受けるであろう。しかし、蠣崎光広が、日本史の辺境とされてきた地で、既存の枠組みにとらわれない全く新しい形の権力構造を創造した革新者であったことは紛れもない事実である。彼の築いた礎なくして、その後の松前藩の歴史は語れない。蠣崎光広は、まさしく蝦夷地に新たな時代を開いた策源そのものであったと結論づけることができる。