伊予西園寺公家は、公家から戦国大名へ変貌した南予の領主。宇和郡を掌握し、巧みな外交と軍事で勢力を拡大。その生涯は激動の時代を象徴する。
戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)南部、いわゆる南予地方にその名を刻んだ伊予西園寺氏は、他の多くの戦国大名とは一線を画す特異な出自を持つ一族である。彼らの歴史は、単なる地方豪族の興亡史にとどまらず、中央の公家社会と地方の武家社会が交錯し、変容していく様を映し出す貴重な事例といえる。本報告書は、その伊予西園寺氏が戦国大名として飛躍する過渡期に当主であった西園寺公家(さいおんじ きみいえ)という人物に焦点を当て、その生涯と事績、そして彼が置かれた時代の力学を、現存する史料と伝承から徹底的に分析・考察するものである。
伊予西園寺氏の源流は、平安時代に摂関家と並ぶ権勢を誇った藤原北家、その中でも閑院流(かんいんりゅう)に属する公家の名門・西園寺家にある 1 。その家名は、鎌倉時代初期の公卿、西園寺公経(さいおんじ きんつね)が京都北山に造営した壮麗な別業「西園寺」に由来する 1 。西園寺家は、摂関家に次ぐ家格である清華家(せいがけ)の一つとして、太政大臣にまで昇ることが可能な最高級の公家であり、実際に明治時代に至るまで多くの太政大臣を輩出している 2 。
この華麗なる出自は、後に一族が伊予国で在地領主として支配を確立する上で、計り知れない価値を持つ「無形の資産」となった。戦国乱世において武力は領国支配の根幹をなすものであったが、西園寺氏が有した京都の朝廷や幕府との繋がり、そして公家としての高い権威は、他の在地国人領主に対して明確な優位性をもたらした。彼らの支配の正当性は、単なる武力による実効支配だけでなく、古くからの由緒と中央の権威に裏打ちされたものであり、この点が伊予西園寺氏の特質を形成する重要な要素となったのである。
西園寺氏が伊予国に深く関わるきっかけとなったのは、鎌倉時代中期の嘉禎2年(1236年)、当主であった西園寺公経が伊予国最大の荘園であった宇和荘(うわのしょう)を獲得したことに始まる 1 。この広大な荘園は、以降、西園寺家の重要な経済的基盤の一つとなった 4 。
この荘園獲得の背景には、公経の巧みな政治手腕があった。彼は当時、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経の祖父という立場にあり、また第3代執権・北条泰時とも懇意の間柄であった 2 。この中央における強力な政治力を背景に、本来この地を領有していた伊予橘氏から、半ば横領に近い形で地頭職を手に入れたと推測されている 2 。この事実は、西園寺氏の伊予進出が、軍事的な征服によるものではなく、中央の政治力学を利用した「経済的進出」という形であったことを示している。
当初、西園寺家は自ら現地に赴くことはなく、代官を派遣して荘園経営を行っていた 5 。しかし、この支配形態は、彼らの権威の源泉が在地社会の武力ではなく、京都の領家(りょうけ)としての法的権利にあったことを物語っている。この出自こそが、後に戦国大名化していく過程で、純粋な武士出身の豪族とは異なる独自の性格を伊予西園寺氏に与えることになる。彼らの支配の正当性は、武力のみならず、「古来の領主」という由緒にも支えられていたのである。
鎌倉時代を通じて代官支配を続けていた西園寺氏であったが、南北朝時代の動乱は、その支配形態に大きな転換を迫ることになる。中央の混乱は荘園からの年貢収入を不安定化させ、その経済基盤を維持するため、西園寺氏はついに一族の一部を現地に派遣する決断を下した 1 。この下向により、西園寺一族は宇和郡内の松葉(現在の西予市宇和町松葉)、立間(現在の宇和島市吉田町立間)、来村(現在の宇和島市来村)の三か所に土着し、それぞれが在地領主としての道を歩み始める 1 。
しかし、この土着化は平穏無事には進まなかった。中央の宗家から分かれた三家は、やがて宇和郡の主導権を巡って互いに対立・抗争するようになる 1 。この一族内の根深い対立は、室町中期の永享10年(1438年)の記録である『管見記』にも見ることができる。同書には、松葉西園寺家の西園寺教右(のりすけ、初名は熊満)と立間西園寺家の西園寺公広(きみひろ、戦国期の同名人物とは別人)が、所領争いの仲裁を求めてはるばる京都へ上洛したことが記されており、彼らの内紛が幕府の介入を必要とするほど深刻であったことを物語っている 1 。
このような一族間の抗争の末、やがて本稿の主題である西園寺公家が属する松葉西園寺家が、他の二家を凌駕し、宇和郡における主導的地位を確立するに至る 1 。西園寺氏の伊予における権力基盤確立の過程は、中央から派遣された支配者が現地に適応し、土着化していくという、中世から戦国期にかけての地方支配の典型的なパターンを辿っている。そして、一族間の内紛を制圧し、統一された領主権力を確立するこのプロセスは、まさしく戦国大名化への最終段階であり、西園寺公家の時代はその集大成の時期にあたるのである。
西園寺公家は、伊予西園寺氏が長きにわたる在地化の過程を経て、南予地方に確固たる勢力圏を築き上げる、まさにその転換期に生きた武将である。彼の治世は、戦国時代の本格的な到来と軌を一にしており、その統治手法や戦略は、後の伊予西園寺氏の命運を大きく左右することになった。
西園寺公家の正確な生年は不明であるが、近年の研究では文明8年(1476年)頃の生まれと推定されている 1 。父は、松葉西園寺家の当主であった西園寺公季(きんすえ)と伝えられる 1 。公家が歴史の表舞台に登場するのは15世紀末、応仁の乱後の混乱が全国に波及し、各地で国人領主が実力で勢力を拡大していた時代であった。彼は明応・文亀年間(1492年〜1504年)までには家督を継承し、宇和郡の松葉城を拠点とする松葉西園寺家の当主となったとみられる 1 。
公家の当主就任は、伊予西園寺氏の歴史における一つの画期であった。彼の時代に、それまで宇和郡内で並立し、時には対立してきた立間・来村の両西園寺家を実力で圧倒し、宇和盆地を中心とする地域支配を確固たるものにしたのである 1 。これにより、伊予西園寺氏は内紛の時代を終え、統一された領主権力として、周辺勢力と対峙していく体制を整えることができた。公家のリーダーシップの下、伊予西園寺氏は単なる荘園領主から、南予に覇を唱える小規模な戦国大名へと、その姿を大きく変貌させたのであった。
公家が確立した支配の根幹には、宇和盆地の経済力があった。山間部が多い南予地方にあって、宇和盆地は唯一と言ってよい広大な平野であり、豊かな水田地帯が広がっていた 1 。米が富と権力の象徴であった戦国時代において、この穀倉地帯を掌握することは、地域における絶対的な優位性を意味した 1 。公家は、この経済的基盤を背景に、宇和郡内外に割拠する在地土豪たちを巧みに組織化していく。
彼が麾下に収めた土豪たちは「殿原衆(とのばらしゅう)」と呼ばれ、宇和郡の御荘氏(みしょうし)、津島氏、河原淵氏(かわらぶちし)、さらには郡外の北之川氏(きたのかわし)や法華津氏(ほけつし)など、いずれも独自の系譜と領地を持つ有力者たちであった 1 。彼らは元来、互いに寸土を争う紛争を繰り返していたが、西園寺氏の権威に服することで、自領の安全を確保し、内紛に終止符を打つという実利を得たのである 1 。
しかし、この西園寺氏と殿原衆の関係は、近世的な強固な主従関係とは異なっていた。それはむしろ、西園寺氏の「公家としての権威」と「軍事的な実力」を共通の利益として結びついた、緩やかな連合体(アライアンス)と呼ぶべきものであった 1 。西園寺氏は、彼らの所領を保証(本領安堵)する見返りに、戦時における軍事協力を取り付けた。この構造は、西園寺氏の支配が決して盤石なものではなく 4 、常に内部からの離反のリスクを抱えた、巧みなバランスの上に成り立っていたことを示唆している。公家の統治者としての力量は、こうした半独立的な家臣団を、巧みな政治手腕でまとめ上げた点にこそ見出されるのである。
西園寺公家の治世における最も重要な戦略的決断の一つが、本拠地の移転であったと考えられている。伊予西園寺氏は長らく、宇和盆地の北方に位置する松葉城(まつばじょう)を居城としてきた 5 。しかし、公家の時代、あるいはその直後の時代に、より防御力に優れた黒瀬城(くろせじょう)へ本拠を移した、もしくはその計画に着手したとされる 1 。
この本拠地移転の背景には、西園寺氏を取り巻く戦略環境の大きな変化があった。松葉城は、北方の伊予守護・河野氏や、室町幕府の有力者であった細川氏との抗争を想定した、北向きの防御拠点であった 9 。しかし、戦国時代が深まるにつれ、西園寺氏にとっての主たる脅威は、北からではなく、南の土佐国から勢力を伸ばす一条氏や、西の豊後水道を越えて侵攻してくる豊後国の大友氏へと変化していった 9 。黒瀬城は、これらの南・西からの脅威に対応するために、より防御に適した立地に築かれた新拠点であった。また、籠城戦を想定した際、松葉城には水の手(水源)の確保に難があったことも、移転の大きな理由であったとされている 2 。
ただし、この黒瀬城への移転を誰が、いつ行ったのかについては、史料や伝承によって見解が分かれている。公家の代に築城・移転が行われたとする伝承 1 がある一方で、息子の西園寺実充(さねみつ)が天文年間(1532年〜1555年)に築城したという説 1 、さらには弘治年間(1555年〜1558年)に本格的な移転が完了したとする説 9 も存在する。
この年代のズレは、単なる記録の誤りとして片付けるべきではない。むしろ、本拠地の移転という一族の存亡をかけた大事業が、「一世代にわたる長期的なプロジェクト」であったことを示唆している。すなわち、まず父である公家が、新たな戦略的脅威の台頭をいち早く認識し、黒瀬城の基本構想を策定し、初期の建設に着手した。これが「公家が築いた」という伝承の源泉となったのであろう。そして、その事業を息子の実充が本格的に引き継ぎ、天文年間に主要な機能の移転を完了させた。さらに、弘治年間の記録は、その最終的な完成や、それに伴う城下町の整備完了を指していると解釈することができる。このように、本拠地の移転は、公家の先見性ある戦略的判断に始まり、次代の実充がそれを実行するという、二代にわたる事業だったのである。この決断は、伊予西園寺氏の戦略思想が、旧来の北方重視から南方・西方重視へと大きく転換したことを象徴する出来事であった。
戦国時代の南予地方は、伊予国内の勢力のみならず、土佐、豊後、周防といった周辺諸国の思惑が複雑に絡み合う、まさに群雄割拠の地であった。このような厳しい環境の中で、西園寺公家は巧みな外交戦略と軍事行動によって一族の存続と勢力拡大を図った。
公家の治世における最大の軍事的課題は、東に隣接する喜多郡(現在の伊予市、大洲市、内子町の一部)を本拠とする宇都宮氏との絶え間ない抗争であった 1 。宇都宮氏もまた、鎌倉時代に伊予守護を務めた名門の末裔であり、西園寺氏と同様に一群を支配する小規模な戦国大名としての性格を有していた 13 。
両氏の対立は、宇和郡と喜多郡の境界地帯における領土紛争を主因とし、小競り合いが頻発した 1 。この西園寺氏と宇都宮氏の対立は、南予地方における基本的な地政学的対立軸であり、周辺の有力大名たちは、この対立に介入することで伊予への影響力を行使しようとした。公家は、この宿敵との一進一退の攻防を通じて、領国の防衛と勢力圏の維持に腐心し続けたのである。永正・大永年間には、伊予守護・河野氏の調停によって一時的な和睦が成立した例もあるが 1 、根本的な対立関係が解消されることはなく、その緊張は公家の死後も長く続くことになった。
目前の宿敵である宇都宮氏に対抗するため、西園寺公家が採用したのが「遠交近攻」の外交戦略であった。これは、遠方の有力大名と手を結び、近隣の敵を牽制・攻撃するという、戦国時代の定石ともいえる外交術である 1 。
公家が特に重視したのが、南の土佐国に勢力を持つ一条氏との連携であった。一条氏もまた、応仁の乱を避けて京から土佐に下向した公家大名であり、西園寺氏とは同じ公家出身という共通点があった 12 。この同盟関係をより強固なものにするため、公家は自身の弟と推定される西園寺公宣(きんのぶ)と、土佐一条氏の当主・一条房家(ふさいえ)の娘との婚姻を成立させている 1 。この婚姻同盟は、単なる軍事的な協力関係以上の意味を持っていた。両家は「公家大名」という共通の出自と文化的背景を持ち、在地武士勢力とは一線を画すアイデンティティを共有していた。この文化的・血縁的な親近感が、両家の同盟関係をより強固なものにしたと推測される。
さらに西園寺氏は、中国地方の雄であった周防国の大内氏とも連携し、宇都宮氏とその背後にいる勢力に対抗する広域な外交ネットワークを構築しようと試みた 1 。公家の外交手腕は、南予という一地方にとどまらず、四国、中国、九州を巻き込んだ大きな視点で展開されていたのである。
西園寺氏の領国経営は、陸上での宇都宮氏との争いだけでなく、常に海の向こうの情勢にも大きく左右されていた。特に、九州北部に強大な勢力を誇った豊後国の大友氏は、その動向が南予のパワーバランスを揺るがす存在であった。
天文元年(1532年)、豊後の大友義鑑(よしあき)が周防の大内氏討伐を企図した際、西園寺氏の宿敵である宇都宮氏は、この大友氏や伊予守護の河野氏と連携して、西園寺氏に強い圧力をかけた 1 。大友氏に宛てられた書状には「宇和表の干戈(宇和方面での戦乱)」という記述が見られ、この時期、宇都宮氏が大友・河野連合の後援を受けて西園寺氏より優位に立っていた可能性が示唆されている 1 。さらに重要なのは、この時、宇和海の制海権も大友方に握られていたことである。
この事実は、西園寺氏の支配が、瀬戸内海西部の制海権と密接に連動していたことを物語っている。公家の統治は、自領内の問題だけでなく、九州の大大名の動向という、自らの力だけではコントロール不能な「国際情勢」の荒波の上に成り立っていた。彼の領国経営は、常に海の向こうの脅威を視野に入れた、極めて不安定で緊張を強いられるものであったことがうかがえる。
西園寺公家は、室町幕府から正式に守護大名に任命されたわけではなく、あくまで一介の地方国人領主という立場であった 1 。しかし、彼には他の国人領主にはない、京都の西園寺本家との強固なパイプが存在した。その繋がりを象徴する出来事が、永正17年(1520年)に起こる。この年、京都の西園寺本家から権中納言という高位の公卿であった西園寺実宣(さねのぶ)が、自らの所領である宇和荘の経営状況を視察するために伊予国へ下向したのである 1 。
この実宣の下向は、在地領主である伊予西園寺氏にとって、二重の意味で極めて重要な出来事であった。第一に、本家から現役の公卿が来訪したという事実は、在地社会に対して伊予西園寺氏の権威を改めて誇示する絶好の機会となった。これにより、麾下の殿原衆や周辺勢力に対し、自らが単なる地方豪族ではなく、中央の権威と直結した特別な存在であることを強く印象づけることができた。
第二に、実宣がわざわざ下向した目的が宇和荘の経営、すなわち財政確保にあったという点は、伊予の地が生み出す経済的価値が、遠く離れた京都の本家にとっても依然として重要であったことを示している。これは、伊予西園寺氏が本家の経済基盤の一翼を担うという、重要な役割を果たしていたことを意味する。公家は、現地当主として実宣を迎え入れ、その宇和荘経営に協力することで、本家との関係を強化し、その権威を自らの領国支配に巧みに利用したと考えられる。この中央とのパイプこそが、伊予西園寺氏が戦国乱世を生き抜くための、他にはない強力な武器だったのである。
戦国時代の武家にとって、一族の血脈を絶やさず、家を存続させることは至上命題であった。西園寺公家とその子孫たちもまた、度重なる危機に対し、婚姻や養子縁組といったあらゆる手段を駆使して、その命運を繋いでいった。
西園寺公家の血縁関係をたどると、その父は松葉西園寺家の先代当主であった西園寺公季(きんすえ)とされる 1 。公家には弟がおり、その名を西園寺公宣(きんのぶ)という 1 。この公宣は、前述の通り、土佐一条氏の当主・一条房家の娘を妻に迎えており、西園寺氏の外交戦略において重要な役割を果たした人物である 1 。一方で、公家の母や正室に関する具体的な史料は現存しておらず、その詳細は不明である 1 。
公家には、少なくとも二人の息子がいたことが確認されている。長男が、後に家督を継ぐことになる西園寺実充(さねみつ)である 1 。実充は永正7年(1510年)の生まれとされ、父・公家の死後、伊予西園寺氏の当主として家中を率い、黒瀬城への本拠地移転を本格化させるなど、父の政策を引き継いで領国経営にあたった 1 。
次男が、前述の弟・公宣である。公宣は兄・実充を補佐する一方で、自らの家系(黒瀬西園寺家の庶流)を築き、一族の有力な一翼を担った 1 。このように、公家の二人の息子は、それぞれが本家と分家という立場で、西園寺家の勢力維持と発展に貢献したのである。
公家が築いた安泰は、孫の代で大きな試練に直面する。公家の直系の嫡孫、すなわち嫡男・実充の長男であった西園寺公高(きんたか)は、天文7年(1538年)に生まれた、将来を嘱望された後継者であった 1 。しかし、弘治2年(1556年)、宿敵・宇都宮氏との合戦(飛鳥井坂の戦い)において、宇都宮勢の奇襲を受け、19歳という若さで討死してしまう 1 。
この公高の戦死は、西園寺氏にとって単なる後継者の喪失にとどまらない、一族断絶の危機であった。当主・実充には他に男子がおらず、公家の血を引く男系の直系が途絶えてしまったからである。
この絶体絶命の危機に対し、実充は一族の存亡をかけた大胆な決断を下す。彼は、弟である公宣の子、すなわち甥にあたる西園寺公広(きみひろ)を、自らの娘である西姫(にしひめ)の婿として迎え、さらに養嗣子として家督を継がせたのである 1 。これは、戦国武家の存続戦略の典型ともいえる巧みな手腕であった。まず、血縁的に最も近い分家(公宣の系統)から後継者を選ぶことで、家中の分裂を防ぎ、権力の継承を円滑に進めた。そして同時に、その養子と自らの娘(公家の孫娘)を結婚させることで、断絶したかに見えた本家の血統を女系という形で存続させ、継承の正当性を補強した。
公家の直系男子の血筋は公高の死によって途絶えたが、彼が築き上げた一族のネットワークと結束力は、この最大の危機を乗り越える原動力となった。公家の血は、娘たちを通じてその後の西園寺氏に受け継がれ、一族は滅亡の淵から蘇ったのである。
人物名 |
生没年 |
関係性・事績 |
西園寺公季 |
不明 |
公家の父。松葉西園寺家当主。 |
西園寺公家 |
c.1476 - c.1535 |
本報告書の主題人物 。伊予西園寺氏の当主。実充・公宣の父。 |
├ 西園寺実充 |
1510 -? |
公家の長男・後継者。公高、西姫の父。 |
│ ├ 西園寺公高 |
1538 - 1556 |
公家の嫡孫(実充の長男)。弘治2年、宇都宮氏との戦いで戦死。 |
│ └ 西姫 |
不明 |
公家の孫娘(実充の娘)。従兄弟の公広の正室となる。 |
└ 西園寺公宣 |
不明 |
公家の次男(実充の弟)。土佐一条房家の娘を娶る。公広の父。 |
└ 西園寺公広 |
? - 1587 |
公家の孫(公宣の子)。伯父・実充の養嗣子となり、従姉妹の西姫を娶って家督を継承。伊予西園寺氏最後の当主。 |
西園寺公家という人物の実像に迫る上で、我々は大きな壁に直面する。それは、彼の活動を直接的に伝える一次史料が極めて乏しいという、史料上の制約である。彼の姿は、断片的な記録や後世の伝承の向こう側に、おぼろげに浮かび上がるに過ぎない。
西園寺公家個人の名が明記された、同時代の古文書や日記といった一次史料は、現在のところほとんど確認されていない 1 。そのため、彼の具体的な人物像や詳細な事績は、父祖や子孫の動向、周辺大名との関係を示す書状の断片、そして江戸時代以降に編纂された『清良記』などの軍記物や地誌から間接的に推測するほかないのが現状である 1 。
例えば、公家の祖父または曾祖父にあたる西園寺教右が所領争いで上洛した記録 1 や、公家の治世中に京都の本家から西園寺実宣が下向した記録 1 は、公家が生きた時代の状況を伝えてくれるが、彼自身の行動を直接示すものではない。
この史料的制約は、西園寺公家の歴史的評価を行う上で、常に念頭に置かねばならない重要な点である。彼の人物像は、直接的な証拠の積み重ねによって描かれるのではなく、様々な状況証拠を組み合わせ、論理的に構築された「推論の産物」としての側面が強い。彼は、具体的な行動の一つ一つが記録された人物としてではなく、伊予西園寺氏が荘園領主から戦国大名へと変貌を遂げる、まさにその時代の転換点を生きた「象徴的人物」として、歴史にその名を留めているのである。
西園寺公家の事績を調査する際、しばしば同時代やその直後の時代に活躍した、よく似た名前の一族の人物との混同が生じやすい。特に注意すべきは、以下の三名である。
これらの人物は、活動時期が近いことや、同じ「西園寺」姓と、一族の通字である「公」の字を持つことから混同されがちである。本報告書では、これらの人物の役割と経歴を明確に区別し、西園寺公家自身の事績を正確に浮かび上がらせることを目指した。
西園寺公家自身のものと特定できる墓所は、残念ながら現在では定かではない。晩年を過ごした黒瀬城の近辺、現在の愛媛県西予市宇和町卯之町周辺に葬られた可能性が考えられるが、それを裏付ける墓碑などは確認されていない 1 。
しかし、公家個人の墓は失われても、「西園寺氏」という一族の記憶は、この南予の地に深く根付いている。例えば、公家の子孫である西園寺宣久の墓は、宇和島市三間町に市の史跡として現存している 1 。また、伊予西園寺氏最後の当主となった孫の公広の墓所と木像は、西予市宇和町の光教寺に大切に残されている 1 。
さらに、西園寺氏の記憶は、城跡や墓所といった物理的な遺構だけに留まらない。彼らの支配が、地域の宗教や文化にも深く及んでいたことが、その記憶をより強固なものにしている。特に、四国八十八箇所霊場第四十三番札所である明石寺(めいせきじ)は、西園寺氏の祈願所として篤い保護を受けた 14 。公家の子・実充の娘が明石寺の住職(法印・尊栄)に嫁いだという伝承は 1 、西園寺氏が婚姻政策を通じて地域の有力寺院をも支配ネットワークに組み込んでいたことを示している。公家の時代に確立されたであろう、こうした地域社会との多層的な関係性こそが、一族が滅んだ後もなお、この地に「西園寺氏の時代」を語り継がせる礎となったのである。
勢力 |
本拠地 |
西園寺氏との関係 |
関係性の根拠・内容 |
西園寺氏 |
伊予国宇和郡 |
- |
- |
宇都宮氏 |
伊予国喜多郡 |
敵対 |
喜多・宇和郡境を巡る恒常的な領土紛争 1 |
土佐一条氏 |
土佐国幡多郡 |
同盟(婚姻) |
公家の弟・公宣が一条房家の娘を娶る。対宇都宮氏の共同戦線 1 |
周防大内氏 |
周防・長門国 |
同盟 |
対宇都宮・大友連合を想定した広域連携 1 |
伊予河野氏 |
伊予国中部 |
競合・協調 |
伊予国内の主導権を巡る競合関係。時に紛争の調停役となる 1 |
豊後大友氏 |
豊後国 |
間接的脅威 |
宇都宮氏を後援。宇和海の制海権を巡る脅威 1 |
西園寺公家という人物を歴史の中に位置づけるとき、彼はどのような役割を果たしたと評価できるだろうか。一次史料の乏しさからその人物像は断片的であるが、残された記録と彼が生きた時代の文脈を総合的に分析することで、その歴史的意義を明らかにすることができる。
西園寺公家は、伊予西園寺氏が、京都に本拠を置く公家の荘園領主という立場から、在地に根差した戦国大名へと完全に変貌を遂げる、まさにその過渡期を領導した人物として評価できる。彼の治世において、長年続いてきた一族の内紛は収束し、統一された領主権力が確立された。また、宇和郡内外の在地土豪を「殿原衆」として組織化し、緩やかではあるが実効性のある支配体制を構築した。対外的には、宿敵・宇都宮氏に対抗するため、土佐一条氏や周防大内氏と結ぶ広域な外交網を築いた。これらはすべて、次代以降の西園寺氏が、より激化する戦国乱世を生き抜くための不可欠な基盤となった。公家は、伊予西園寺氏の「戦国大名化」を決定づけた、極めて重要な指導者であったといえる。
公家が遺した戦略的遺産は、その後の伊予西園寺氏の基本政策を長く規定した。彼が着手したとされる黒瀬城への拠点移転は、南方・西方からの脅威を重視する戦略思想の転換を象徴するものであり、息子の実充、孫の公広の代まで続く西園寺氏の防衛戦略の根幹となった。また、同じ公家出身である土佐一条氏との婚姻同盟は、一族の存続を支える重要な外交カードであり続けた。
しかし、公家が心血を注いで築き上げた南予の勢力圏も、時代の大きなうねりには抗しきれなかった。彼の死後、四国では土佐の長宗我部元親が急速に台頭し、その圧倒的な軍事力の前に、伊予の諸勢力は次々と屈していく。伊予西園寺氏も、最後の当主・公広の代まで抵抗を続けたが、天正13年(1585年)、ついに元親に降伏し、その独立した歴史に幕を閉じた 3 。公家の奮闘と彼が築いた一時の栄華は、中央の動乱から離れた地方において、独自の力で自立を目指した権力の栄光と、より大きな時代の奔流に飲み込まれていく悲哀を、鮮やかに象徴している。
直接的な史料に乏しいというハンディキャップにもかかわらず、西園寺公家は、戦国時代初期の南予地方史を語る上で欠くことのできない重要人物である。彼は、京都の公家が持つ「権威」と、在地社会で培われた「武力」という二つの異なる要素を巧みに融合させ、南予の地に独自の勢力圏を築き上げた。
彼の存在を軸としてこの時代を考察することは、応仁の乱以降の中央政権の動乱が、いかにして地方社会へ波及し、在地の領主たちがそれにどう対応していったのか、その具体的な様相を解明するための、極めて貴重な事例研究となる。西園寺公家の軌跡は、戦国という時代の多様性と、その中で生き抜こうとした人々の知恵と苦闘を、我々に力強く語りかけてくれるのである。