最終更新日 2025-06-21

西園寺宣久

「西園寺宣久」の画像

伊予の文武両道―西園寺宣久の生涯と『伊勢参宮海陸記』の深層分析

序章:乱世に生きた教養人、西園寺宣久

戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)に、西園寺宣久(さいおんじ のぶひさ)という一人の武将がいた。彼は、伊予南部の宇和郡に勢力を張った戦国大名・伊予西園寺氏の一門であり、勇猛な武将たちを総称する「西園寺十五将」にもその名を連ねる 1 。しかし、彼の名を後世に最も強く刻み込んだのは、戦場での武功ではなく、彼自身が著した一冊の紀行文『伊勢参宮海陸記』であった。

宣久の生涯は、天正8年(1580年)に病によって若くして幕を閉じるという、短くも濃密なものであった 1 。その短い人生の中で、彼は武将として一族の防衛の要を担う一方で、優れた文人として旅の記録を通じて時代の息吹を後世に伝えた。この「武」と「文」の二面性こそ、西園寺宣久という人物を理解する上で不可欠な鍵となる。

本報告書は、宣久が生きた戦国末期の伊予国、ひいては日本全体の政治、軍事、文化の文脈の中に彼の生涯を位置づけ、武将として、そして文化人としての実像に多角的に迫ることを目的とする。なぜ戦乱のさなかに、一地方武将が伊勢参宮という大規模な旅を行い、それを類い稀な紀行文として残すことができたのか。その背景にある一族の出自、彼自身の教養、そして時代の要請を解き明かし、西園寺宣久という人物の歴史的価値を再評価する。

表1:西園寺宣久 関連年表

西暦(和暦)

西園寺宣久・伊予西園寺氏の動向

日本国内の主要な出来事

1537年(天文6年)

兄・西園寺公広、誕生 4

1546年(天文15年)

家藤監物が板島丸串城に入る 5

足利義輝が室町幕府第13代将軍に就任。西園寺氏も祝儀を進上 6

1560年(永禄3年)

豊後の大友義鎮(宗麟)が宇和郡に侵攻。西園寺公広は大友氏と和睦する 7

桶狭間の戦い。

1565年(永禄8年)

西園寺公広が家督を継承 8

1567年(永禄10年)

松永久秀の兵火により東大寺大仏殿が焼失 9

1572年(元亀3年)

西園寺公広、土佐一条氏と和睦 8

1575年(天正3年)

西園寺宣久 、亀が淵城から板島丸串城に移り、城主となる。「板島殿」と称される 1

長篠の戦い。

1576年(天正4年)

西園寺宣久 、伊勢神宮に参詣し、『伊勢参宮海陸記』を著す 1

石山合戦が激化。毛利氏が石山本願寺への兵糧輸送を開始 9

1580年(天正8年)

5月18日、 西園寺宣久 、病により死去 1

石山本願寺が織田信長に降伏。

1582年(天正10年)

本能寺の変。織田信長が死去。

1584年(天正12年)

西園寺公広、長宗我部元親の猛攻を受け降伏 7

小牧・長久手の戦い。

1585年(天正13年)

豊臣秀吉の四国平定。西園寺氏は領地を没収される 7

1587年(天正15年)

新領主・戸田勝隆により、西園寺公広が謀殺される。大名としての伊予西園寺氏は滅亡 7

九州平定。


第一部:武将・西園寺宣久の実像

第一章:伊予西園寺氏の血脈

西園寺宣久という個人の特質を理解するためには、まず彼が属した「伊予西園寺氏」という一族の成り立ちと性格を把握する必要がある。伊予西園寺氏は、戦国大名の中でも極めて特異な出自を持っていた。

公家から武家へ

伊予西園寺氏の祖は、京都の朝廷に仕える公家、それも摂関家に次ぐ高い家格を誇った清華家の一つ、西園寺家である 11 。その歴史は、鎌倉時代中期の嘉禎2年(1236年)、太政大臣であった西園寺公経が、鎌倉幕府との強固な関係を背景に伊予国宇和郡を自らの知行国(事実上の所領)としたことに始まる 12

その後、南北朝時代の動乱期に、本家から分かれた一族の一部が宇和郡に下向し、在地に根を下ろして武家化したのが伊予西園寺氏の直接の起源とされる 12 。守護代や国人領主が実力で成り上がることが多かった戦国時代において、彼らのような公家を祖とする武家は稀有な存在であった。この「公家」という出自は、単なる血筋の誇りにとどまらず、一族全体の気風や価値観に大きな影響を与え、武力だけでなく文化的な権威によって在地勢力を統率するという、独特の支配スタイルを形成する要因となったと考えられる。宣久の文芸活動も、こうした一族の「文化的DNA」と無縁ではないだろう。

当主の実弟という立場

西園寺宣久は、伊予西園寺氏の当主・西園寺公宣(きんのぶ)の子として生まれた 1 。兄には、伊予西園寺氏最後の当主となった西園寺公広(きんひろ)がいる 4 。公広は、男子のいなかった伯父・西園寺実充の養嗣子となり、その娘を娶って家督を継承するという経緯を辿った 8 。宣久は、その当主・公広の実の弟であり、「御連枝(ごれんし)」、すなわち血を分けた近親者として、一門の中で極めて重要な地位を占めていた 18

この血筋の良さは、彼が単なる一介の家臣ではなく、支配者層の中核を成す一員であったことを明確に示している。後述するように、彼が戦略的要衝である板島城を任され、また戦乱の最中に伊勢参宮という大規模な旅行を許可された背景には、こうした一門内での高い地位と信頼があったことは想像に難くない。彼の行動は、個人の趣味や気まぐれではなく、西園寺一門を代表する公的な性格を帯びていた可能性が高い。

第二章:宇和の守り、板島殿として

西園寺宣久の武将としてのキャリアは、居城の変遷と、彼がその一員であった「西園寺十五将」という存在から具体的に浮かび上がってくる。彼の軍事的な役割は、西園寺氏が置かれていた緊迫した対外情勢と密接に結びついていた。

来村殿から板島殿へ

宣久の家は、当初、宇和郡来村(現在の宇和島市宮下)を領有し、「来村殿」と称されていた 1 。彼の菩提寺が来村の来応寺であることも、この地との深いつながりを物語っている 1 。この頃の居城は、亀が淵城であったとされる 1

しかし、天正3年(1575年)、宣久の経歴に大きな転機が訪れる。彼は、それまで家藤監物という武将が守っていた板島丸串城(いたじままるぐしじょう)へ移り、以後は「板島殿」と称されるようになった 1 。この異動は、単なる配置転換ではなく、当時の西園寺氏が直面していた軍事的危機に対応するための戦略的な人事であった。

板島丸串城は、現在の宇和島城そのものであり、当時は宇和海に直接面した海城であった 18 。その地理的位置から、西の豊後国を本拠とする大友氏や、東から四国統一の勢いで迫る土佐国の長宗我部氏といった、外部勢力からの侵攻に対する最前線基地としての役割を担っていた 7 。西園寺氏が、この防衛の要衝に当主の実弟である宣久を送り込んだという事実は、彼らがいかに対外的な脅威を深刻に受け止めていたか、そして宣久が一門の重鎮として厚い信頼を寄せられていたかを如実に示している。

この天正3年(1575年)の板島城への赴任という出来事は、そのわずか1年後、天正4年(1576年)に行われる伊勢参宮の動機を考察する上で極めて重要である。対外防衛の最前線という重責を担った宣久が、一族の武運長久と領国の安寧を祈願するため、日本の最高神格である伊勢神宮への参拝を発願したと考えるのは、自然な推論であろう。それは、戦国武将が合戦の勝利を祈って寺社に寄進を行うのと同根の、信仰に裏打ちされた行動様式であったと解釈できる。

西園寺十五将の一角

宣久はまた、「西園寺十五将」の一人に数えられている 1 。この呼称は、伊予西園寺氏の支配体制を支えた中核的な武将たちを指すもので、当主の西園寺公広自身もその一人として名を連ねている 2 。十五将の構成員は、西園寺一門のほか、津島氏、法華津氏、土居氏といった宇和郡内の有力な国人領主たちであり、それぞれが城を持ち、独自の兵力を有していた 25

この構成からうかがえるのは、伊予西園寺氏の支配体制が、当主による強力な中央集権体制ではなく、盟主たる西園寺氏のもとに地域の有力領主たちが結集する連合政権的な性格を持っていたということである。宣久もまた、この連合体の中の有力な一員として、特に重要な沿岸防衛を担っていた。

ただし、宣久個人の具体的な戦功を詳細に記した一次史料は、現在のところ確認されていない 1 。このことは、彼が前線で槍を振るう猛将タイプの武将というよりは、戦略的要衝である板島城にあって方面全体の守りを固める、司令官としての役割を期待されていた可能性を示唆している。彼の価値は、個人の武勇よりも、一門としての血筋と、方面軍を統括する将としての器量にあったのかもしれない。


第二部:文化人・西園寺宣久の精神世界

西園寺宣久の名を不朽のものとしたのは、武将としての働き以上に、彼が残した一冊の紀行文であった。この紀行文は、彼の内面世界と、彼が生きた時代の空気を鮮やかに映し出す貴重な鏡である。

第三章:『伊勢参宮海陸記』の徹底解剖

宣久の最大の文化的功績は、天正4年(1576年)頃の伊勢神宮参詣の際に著した紀行文『伊勢参宮海陸之記』(いせさんぐうかいりくのき)である 1 。この作品は、江戸時代に編纂された伊予の地誌『宇和旧記』に収録される形で現代に伝わっており、戦国末期の武将が残した記録として極めて高い史料価値を持つ 9

表2:『伊勢参宮海陸記』推定旅程表

日付(月日)

行程・宿泊地

主要な出来事・見聞

詠歌など

天正4年6月

伊予 出発 → 鞆(とも)

鞆の沖で毛利氏の警固船団(50艘)に遭遇 9

帰途に鞆の宿で狂歌を詠む「ゆがみぬる二階に居れば下よりも焼ふすべられ狸にぞ成」 9

播磨国 姫路

姫路城主・黒田官兵衛尉(孝高)から旅の便宜を受ける 9

播磨国 三木

丹波屋に宿泊 31

祇園の一万句興行に参加。楚仙上人に促され発句を詠む 9

「花に出て月にかりねの都かな 宣玖」 9

大和国 奈良

永禄10年(1567年)に松永久秀の兵火で焼失した東大寺の焼け跡を見聞 9

伊勢国

伊勢神宮に参詣。相可(おうか)の宿(柘榴屋)などに宿泊 32

伊勢の西河原にて発句を詠む「幾仮寝今宵ぞ萩か花の宿」 9

同年8月

帰路(有馬温泉など)

湯山(有馬温泉か)の宿に宿泊。

湯山の宿で狂歌を詠む「世の中はただ米銭の扱ひに打かたぶける言の葉もなし」 9

伊予 帰着

歴史の目撃者として

『伊勢参宮海陸記』が単なる旅日記と一線を画すのは、宣久が道中で遭遇した出来事を、鋭い観察眼で記録している点にある。彼の筆は、戦国末期の日本の政治・軍事情勢の縮図ともいえる光景を活写している。

  • 毛利水軍との遭遇: 旅の途中、備後国鞆の浦(現在の広島県福山市)の沖で、宣久一行は毛利輝元が派遣した50艘もの警固船団と出会う 9 。これは、当時、織田信長と激しく対立していた石山本願寺を救援するため、毛利氏が瀬戸内海の制海権を駆使して送った兵糧輸送船団であった。この記述は、日本を二分した「石山合戦」という巨大な紛争の生々しい一断面を、当事者ではない伊予の武将の視点から記録した、他に類を見ない貴重な証言である。
  • 黒田官兵衛との交流: 播磨国では、姫路城主であった黒田官兵衛(後の如水)から「旅の便宜を図ってもらっている」 9 。当時、官兵衛は織田信長の家臣として中国地方攻略の最前線にあり、西園寺氏とは直接の主従関係にはない。このような敵味方の区別が流動的であった時代に、一地方領主である宣久が、織田軍の重要人物から何らかの支援を受けていたという事実は、当時の武家社会における個人的なネットワークや情報交換の重要性を物語っている。具体的な便宜の内容は不明だが、安全な通行の保証や宿所の提供などが考えられ、両者の間に何らかの面識や交渉があったことをうかがわせる。
  • 東大寺の惨状: 大和国奈良では、永禄10年(1567年)に松永久秀の軍勢によって焼き払われた東大寺を訪れ、その焼け跡を目の当たりにしている 9 。焼き討ちから約10年が経過してもなお残る戦乱の爪痕は、宣久の目に深く焼き付いたことであろう。この記述は、彼の無常観を深めるとともに、当時の人々が戦乱の破壊をどのように受け止めていたかを知る上で示唆に富む。

これらの記録から明らかなように、宣久の旅は単なる個人的な信仰の旅ではなかった。彼は鋭敏な感覚で「世の中」の動きを捉え、それを記録する歴史家としての側面をも併せ持っていたのである。

文人としての素養

『伊勢参宮海陸記』のもう一つの大きな特徴は、全編にわたって和歌、狂歌、そして俳諧の発句が散りばめられていることである 1 。これは、宣久が単に文字が書けるというレベルではなく、高度な文芸的教養を身につけていたことを雄弁に物語っている。

彼の作品には、形式にとらわれない自由な発想が見られる。例えば、帰路の宿で詠んだ狂歌「世の中はただ米銭の扱ひに打かたぶける言の葉もなし」は、金銭万能の世知辛い世相を皮肉ったものであり、彼の冷静な社会批評眼がうかがえる 9

また、京都の祇園では、楚仙上人(そせんしょうにん)という人物から発句を求められ、「花に出て月にかりねの都かな」という一句を詠んだことが記されている 9 。楚仙上人が具体的に誰であるかは不明だが、都の文化人と対等に渡り合い、連歌・俳諧の座に参加できるだけの技量と自信を持っていたことは間違いない。

これらの文芸活動は、宣久個人が持つ教養の深さを示すと同時に、公家を祖とする西園寺氏の文化的権威を体現する行為でもあった。戦乱の世にあって、和歌や連歌を嗜むことは、武士としての品格と家格の高さを示す重要な手段であった。宣久の旅と記録は、まさにその実践の場であったと言えよう。

第四章:同時代の文人武将との比較

西園寺宣久の文化人としての側面は、彼を孤立した存在として捉えるのではなく、同時代、特に同じ伊予国の武将たちと比較することで、その特質と歴史的意義がより鮮明になる。

土居清良との比較

奇しくも、宣久と同じく「西園寺十五将」の一人に数えられる土居清良(どい きよよし)もまた、伊勢参宮の紀行文を残している 33 。清良は、宣久の旅に先立つこと3年の天正元年(1573年)、高野山を経て伊勢に参詣しており、その記録が彼の伝記である『清良記』に収められている。

土居清良は、鉄砲隊を巧みに用いて長宗我部氏の大軍を撃退するなど、その武勇で名を馳せた実戦派の武将であった 34 。一方の宣久は、前述の通り一門の重鎮であり、方面軍司令官的な役割を担っていた。この二人の比較は非常に興味深い。宣久が西園寺氏の「一門(連枝)」であるのに対し、清良は「被官(家臣)」という立場であり、宣久が文化的な側面で名を残したのに対し、清良は武功で知られている。

このように立場も個性も異なる二人の武将が、ほぼ同時期に、同じ伊勢神宮への参詣という宗教的・文化的な大事業を成し遂げ、それを記録として残すだけの能力と意欲を共有していたという事実は、注目に値する。これは、伊予西園寺氏の支配下にあった武士たちの間に、想像以上に高度な文化的素養が広く浸透していたことを示唆している。京都から遠く離れた伊予の山間部に、中央の文化が深く根付いていた証左と言えよう。

戦国武将と文芸の潮流

そもそも戦国時代において、和歌や連歌といった文芸は、武士にとって必須の教養であった 35 。それらは単なる慰みではなく、他者とのコミュニケーションを円滑にし、自らの品格を示すための重要なツールであり、時には外交交渉の場でも用いられた。

細川幽斎(藤孝)や明智光秀のように、当代一流の文化人として歴史に名を刻んだ武将も少なくない 35 。彼らは連歌師の里村紹巴らと交流し、数々の連歌会を催した。宣久の文芸活動もまた、こうした戦国時代の大きな文化的潮流の中に位置づけられる。彼の行動は、決して一個人の特殊な趣味ではなく、むしろ当時の教養ある上級武将の典型的な姿の一つであったと評価できる。彼が残した『伊勢参宮海陸記』は、その潮流を地方の視点から具体的に示す、第一級の史料なのである。


第三部:死と後世への遺産

西園寺宣久の人生は、その才能を開花させつつあった矢先に、若くして終わりを迎える。しかし、彼の死と、その後に残されたものは、彼の生きた証として今なお語り継がれている。

第五章:若き終焉と辞世の句

天正8年(1580年)5月18日、西園寺宣久は病によってこの世を去った 1 。その時の年齢は不明ながら、「若年での死であった」と伝えられている 3 。彼の死は、西園寺氏が一族の命運を賭けて長宗我部氏の侵攻に抗っていた、まさにその渦中での出来事であった。結果的に彼は、天正12年(1584年)の長宗我部氏への降伏や、天正15年(1587年)の兄・公広の謀殺とそれに伴う一族の滅亡という悲劇を見ることなく、世を去ることになった 7

彼の死に際して、二首の辞世の和歌が伝えられており、その短い生涯と死生観を凝縮している 1

朝な夕な何に心を尽してやいたづら事にけふとこそなれ

この歌は、「これまで朝から晩まで、一体何のために心を砕いてきたのだろうか。結局はすべてが虚しいことで、こうして今日という最期の日を迎えてしまった」と解釈できる。武将としての功名や領地の差配といった現世での営みが、死を前にしては「いたづら事(虚しいこと)」に過ぎないという、仏教的な無常観が色濃く表れている 39

世の中は皆偽りの其内に此一言のまことなりけり

続くこの歌は、「この世のありとあらゆることは偽りに満ちている。その中で、この一言こそが唯一の真実なのだ」という意味である。「此一言」が具体的に何を指すかは断定できないが、文脈からすれば、阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)や、仏法の真理を指すものと考えるのが自然であろう。偽りと裏切りが渦巻く乱世にあって、最後に絶対的な真理として宗教的な救済に心の拠り所を求めた、宣久の切実な心情が伝わってくる 41

これら二首の歌は、現世での活動への諦念から、来世や絶対的な真理への帰依へと向かう、彼の精神の軌跡を示している。伊勢参宮に象徴される深い信仰心と、戦国武将として生きた人生の虚しさを悟る無常観が、死の淵で結実したものと言えよう。

また、彼には「後西園寺殿羽林郎将永桃道宗大居士」という非常に長く格式の高い戒名が贈られている 1 。戒名に含まれる「羽林郎将」とは、宮中を警護する近衛府の武官のことであり、公家を出自とする西園寺氏らしい、最後までその誇りを失わなかった一族の姿勢をうかがわせる。

第六章:来応寺の墓と現代への継承

西園寺宣久の死後、彼の存在は、一つの墓と地域の人々の記憶によって現代にまで伝えられている。

墓所と崇敬

宣久の墓は、彼が「来村殿」と称されていた頃の本拠地、現在の愛媛県宇和島市宮下にある来応寺の門前に存在する 1 。この寺は宣久自身が造営したとも、来村殿西園寺氏代々の菩提寺であったとも伝えられる 27

墓の形式は、高さ約160cmの宝篋印塔(ほうきょういんとう)である 3 。宝篋印塔は、内部に経典を納める功徳が高いとされる仏塔の一形式であり、身分の高い人物の墓や供養塔として建立されることが多い。この墓は、現在「西園寺宣久の墓」として宇和島市の記念物(史跡)に正式に指定されている 3

特筆すべきは、この墓が単なる史跡として存在するだけでなく、地元の人々から「後西園寺様(ごさいおんじさま)」と呼ばれ、今なお篤い崇敬の対象となっていることである 3 。旧暦の3月18日と10月18日には祭日も定められており、地域社会の中に彼の記憶が深く根付いていることがわかる。

一族の終焉と記憶の継承

宣久には信久(のぶひさ)という息子がいたと系図には記されているが、その後の詳しい消息は不明である 1 。そして、彼が守ろうとした伊予西園寺氏も、彼の死からわずか7年後、豊臣秀吉の四国平定後に宇和郡の新領主となった戸田勝隆の謀略によって、兄・公広が殺害され、大名家としては完全に滅亡の道を辿った 7

にもかかわらず、なぜ宣久一人の記憶がこれほどまでに地域で大切にされ続けているのか。そこには、彼の武功の華々しさではなく、彼の人格や文化的遺産に対する敬愛があったと考えられる。若くして亡くなった悲劇性、暴政を敷いたとされる戸田氏に滅ぼされた西園寺一族への同情、そして何よりも『伊勢参宮海陸記』に示されるような高い教養と人間性が、彼を単なる過去の領主ではなく、地域の誇りとして記憶させる要因となったのであろう。

西園寺宣久が後世に残した遺産は、領土や権力といった有形のものではなく、文化的な記録(紀行文)と、地域社会における良好な記憶(崇敬)という、無形のものであった。彼は戦乱の中で華々しく散った英雄としてではなく、地域に根差し、敬愛された文武両道の領主として、その名を現代に伝えているのである。


結論:西園寺宣久再評価

本報告書で詳述してきたように、西園寺宣久は、単に「西園寺十五将の一人」という肩書きに収まる人物ではない。彼は、公家の血を引き、武家の棟梁として生きるという、特異な宿命を背負った戦国武将であった。その生涯は、武力と教養という二つの力を駆使して、激動の時代を生き抜こうとした格闘の記録である。

武将としての宣久は、大友氏や長宗我部氏といった強大な外部勢力に対峙する最前線・板島城の守将として、一族の命運をその双肩に担っていた。彼の軍事的手腕を具体的に示す史料は乏しいが、この戦略的要衝を任されたという事実そのものが、彼の統率力と一門内での信頼の厚さを物語っている。

一方で、文化人としての宣久は、戦国末期の社会情勢とそこに生きる人々の姿を、冷静かつ共感的な眼差しで捉え、それを『伊勢参宮海陸記』という類い稀な記録として後世に残した。この紀行文は、彼の個人的な旅の記録であると同時に、石山合戦や松永久秀の焼き討ちといった、同時代史の貴重な証言でもある。和歌や俳諧を自在に詠みこなす彼の姿は、戦国武将の教養が到達した一つの高みを示している。

宣久の生涯は短く、彼が守ろうとした伊予西園寺氏もまた、歴史の波にのまれて滅亡の悲運を辿った。しかし、彼が残した一冊の書物と、地域の人々の中に生き続ける「後西園寺様」としての記憶は、400年以上の時を超えて彼の名を不滅のものとした。

西園寺宣久は、武将としての「強さ」と、文化人としての「豊かさ」を兼ね備えた、多面的で奥行きの深い人物である。彼の存在は、戦国時代の地方史、そして武家文化史の研究に、新たな視座と豊かな示唆を与えるものであり、その歴史的価値は、今後さらに深く探求されるべきである。

引用文献

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