西尾光教は美濃の国人から斎藤、織田、豊臣、徳川と主家を変え、関ヶ原の功績で揖斐藩3万石の藩祖となる。しかし実子に恵まれず、養子も早世し、彼の死後わずか8年で家は改易された。
日本の歴史上、類を見ない激動の時代であった戦国乱世。その只中を、実に半世紀以上にわたって生き抜き、自らの家を大名の列にまで押し上げた一人の武将がいた。その名は西尾光教(にしお みつのり)。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の影に隠れ、あるいは本多忠勝や真田信繁のような武勇譚と共に語られることも少ない。しかし、彼の生涯は、主家を次々と変えながらも、その時々の政治情勢を的確に見極め、常に最善の選択を続けることで自らの地位を確立していった、稀有な処世術の記録である。
本報告書は、天文年間に美濃の国人として歴史の舞台に登場してから、元和年間に徳川家康の天下が盤石となった時代にその生涯を閉じるまで、西尾光教の足跡を徹底的に追跡するものである。彼の人生は、単なる武勇の士の物語ではない。それは、斎藤、織田、豊臣、そして徳川という当代一流の権力者の下を渡り歩き、自らの価値を巧みに示し続けた、優れた政治感覚と生存戦略の軌跡である。
彼の生涯を深く掘り下げることは、戦国乱世の流動的な社会から、江戸幕藩体制という固定化された秩序へといかに時代が移行していったのか、そのダイナミズムを一個人の視点から浮き彫りにする試みでもある。光教は戦国の論理を極めることで成功を掴んだが、皮肉にも彼がその成立に貢献した新たな時代の論理の前に、彼の家は終焉を迎える。本報告書は、この一人の武将の生涯を通じて、時代の転換期を生きた武家の栄光と悲哀を詳細に描き出すことを目的とする。
西尾光教の生涯をたどる上で、まず直面するのがその出自の曖昧さである。史料によれば、彼の西尾氏の出自は三河であるとも、あるいは丹波の籾井(もみい)氏の一族であるとも伝えられ、判然としない 1 。この出自の不確かさこそ、彼が伝統的な名門の出身ではなく、戦国の動乱の中で自らの実力によってその地位を築き上げた「成り上がり」の武将であったことを強く示唆している。
後世に編纂された系図に見られる錯綜は、しばしば実力者が自らの家系の権威付けを図る過程で生じるものであり、光教の家もその例外ではなかったと考えられる。特に有力な説として、丹波の籾井氏との関係を記す史料群が存在する。『美濃国諸家系譜』などによれば、清和源氏の流れを汲む籾井氏の一族である籾井光秀が三河国幡豆郡西尾に移り住んで西尾氏を称したことに始まるとされる 2 。しかし、この光秀には男子がおらず、丹波の籾井越後守光長の長男であった信光を養子に迎えた。この信光が美濃の戦国大名・斎藤道三に仕え、その子として生まれたのが光教である、という系譜が伝えられている 2 。
一方で、光教の父を信光ではなく光政(みつまさ)とする系図も存在し 1 、その系譜は錯綜している。この事実は、光教が確固たる後ろ盾を持たない状態でそのキャリアを開始した可能性を示唆する。特定の旧来のしがらみに縛られなかったからこそ、彼は時々の実力者を見極め、柔軟に仕えることができたとも解釈できる。彼の生涯を通じて見られる慎重かつ大胆な処世術の原点は、この不安定な出自にあったのかもしれない。
西尾光教が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、美濃国が斎藤道三によって掌握された時代である。彼は道三、そしてその子の義龍(よしたつ)、孫の龍興(たつおき)という斎藤三代に仕えた 1 。しかし、彼の初期のキャリアにおける立場は、決して高いものではなかった。史料は、彼が斎藤家の直臣ではなく、西美濃に勢力を持つ有力国人「西美濃三人衆」の一角、氏家直元(うじいえ なおもと、後の卜全(ぼくぜん))に仕える被官であったと記録している 1 。
この「中間管理職」ともいえる立場で、光教は着実に地歩を固めていった。その証左として、彼は主君である氏家直元の妹を正室として迎えている 1 。これは、彼が氏家氏の中でその能力を高く評価され、婚姻という形で一族内の重要な地位を認められていたことを物語る。
彼のキャリアは、美濃国内の政変と密接に連動していた。弘治2年(1556年)、斎藤道三とその子・義龍が国の覇権を賭けて争った「長良川の戦い」が勃発する。この時、西美濃三人衆を含む美濃の国人の多くは、道三を見限り義龍に味方した 5 。光教の直接の主君である氏家直元も義龍方についたため、被官である光教もこれに従い、義龍軍の一員として参陣したと考えるのが自然である。ここでの彼の選択は、個人の忠誠心よりも、自らが所属する派閥の動向が生存を左右するという、戦国社会の冷徹な現実を反映している。
その後、義龍が急死し、若年の龍興が家督を継ぐと、斎藤家の統制力は急速に弱体化する。この機を捉えたのが、尾張の織田信長であった。永禄10年(1567年)、信長の執拗な調略の末、氏家直元、稲葉一鉄、安藤守就の西美濃三人衆はついに龍興を見限り、信長に内応する 9 。この寝返りによって、難攻不落を誇った稲葉山城はあっけなく陥落し、斎藤氏は滅亡した 11 。光教もまた、主君・氏家氏のこの決断に従い、織田信長の家臣団へと組み込まれていった。この時期の光教は、自ら時流を動かす主役ではなく、所属する共同体の判断に乗り、着実に生き残りの機会を窺うという、極めて現実的な生存戦略をとっていた。この経験こそが、後の彼の優れた政治感覚を涵養する土壌となったことは想像に難くない。
織田信長の家臣団に加わった西尾光教は、天下統一へと突き進む巨大な権力の中枢へと接近していく。そして、彼の生涯における最大の政治的決断を迫られる時が訪れる。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変である。
信長・信忠父子を京で討ち果たした明智光秀は、直ちに近隣の武将たちへの協力要請を開始した。その対象の一人として、美濃野口城主であった西尾光教にも使者が送られた。現存する書状には、光秀の行動の正当性を主張する文言と、光教への具体的な指示が記されている。
「信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候、其の表の儀御馳走候て、大垣の城相済ますべく候」 6
この書状は、信長父子の非道を鳴らし、天下のために彼らを討ったという大義名分を掲げるとともに、光教に対して美濃大垣城の攻略を命じるものであった。しかし、光教はこの勧誘を毅然として拒絶した 1 。この決断は、単なる信長への旧恩や忠義心から下されたものではない。それは、親族との対立をも覚悟した、極めて高度な政治的判断とリスク計算に基づいた、人生最大の賭けであった。
光秀が攻略を命じた大垣城の城主は、氏家直昌であった 6 。彼は、光教の正室の兄である氏家直元の嫡男、つまり光教にとって義理の甥にあたる人物である。光秀に味方するということは、妻の実家である氏家宗家を直接攻撃することを意味した。これは個人的にも政治的にも極めて困難な選択であった。一方で、信長は既に亡く、織田家の将来は不透明であり、光秀は一時的にせよ京と近江を掌握していた 15 。
この絶体絶命の状況で、光教は目先の権力者である光秀に与して親族と争うリスクよりも、光秀政権の基盤の脆弱性を見抜き、将来の勝者(結果的に羽柴秀吉)に繋がる道を選んだのである。彼は個人的な縁よりも、天下の趨勢を見極めることを優先した。この政治的賭博の勝利は、彼のその後の運命を大きく左右することになる。
光秀が山崎の合戦で秀吉に敗れた後、光教は速やかに秀吉に臣従し、その地位を固めた 2 。そして天正16年(1588年)、九州征伐の際の失態で秀吉の怒りを買った稲葉貞通に代わり、美濃曽根城主として二万石を与えられた 16 。これにより、彼は一介の国人領主から、豊臣政権下の大名へと飛躍を遂げたのである。本能寺の変における彼の冷静な判断が、見事に結実した瞬間であった。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢が再び流動化すると、西尾光教は次なる時代の覇者として徳川家康に接近する。そして慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原合戦において、彼は東軍の勝利に決定的な貢献を果たし、その評価を不動のものとした。
会津の上杉景勝討伐に際し、光教は家康に従うことを決意し、大坂から所領である美濃曽根城へと向かった 16 。その道中、垂井に布陣していた西軍の有力武将・大谷吉継は、光教の東軍参加を阻止すべく、家臣の平塚為広を使者として派遣した。しかし、光教は吉継の制止を振り切り、夜陰に乗じて密かに関東へ向けて出発した 16 。この行動に激怒した吉継は、報復として光教の所領である曽根城周辺を焼き払うという挙に出た 16 。
自らの領地を犠牲にしてまで東軍参加の意思を貫いた光教の功績は、単なる戦闘における武功に留まらなかった。彼の価値は、むしろ「情報」と「交渉力」という非戦闘分野において最大限に発揮された。
第一に、彼の持つ「地理知識(ローカルナレッジ)」の戦略的価値である。家康や福島正則といった東軍主力にとって、美濃は敵地であった。長年この地に根を張ってきた光教は、現地の地理、街道、城の位置関係を熟知しており、その知識は軍事行動を円滑に進める上で不可欠であった。彼は福島正則と共に東軍の先鋒として道案内役を務め、岐阜城攻めでは本丸への攻撃を敢行した 16 。彼の存在は、兵力の多寡以上に、戦略的な意味で極めて重要だったのである。
第二に、彼の卓越した「交渉力」である。関ヶ原の本戦で東軍が勝利した後も、西軍の拠点であった大垣城では、福原長堯らが籠城を続けていた。力攻めによる無用な損害と時間を避けたい東軍の意向を汲んだ光教は、城内に矢文を射込み、福原長堯に降伏を勧告した 16 。粘り強い交渉の末、ついに長堯を説得し、大垣城の無血開城を成功させたのである 16 。これは、彼が単なる武人ではなく、相手の心理を読み、説得する外交官としての側面も持ち合わせていたことを示している。斎藤家臣時代から培われた人間関係や、様々な主君に仕える中で磨かれた交渉術が、この天下分け目の土壇場で遺憾なく発揮された。
西尾光教は、自らの持つユニークな価値を的確なタイミングで家康に提供することで、他の武功自慢の武将たちとは一線を画す評価を勝ち取った。その結果、彼は戦後に破格の恩賞を得ることになる。
関ヶ原合戦における一連の功績により、西尾光教の地位は飛躍的に向上した。戦後、徳川家康は彼の働きを高く評価し、一万石を加増。これにより光教は、美濃国の大野郡、本巣郡、加茂郡、安八郡の四郡内に合計三万石を領する大名となり、美濃揖斐藩の初代藩主となった 16 。彼は本拠を長年居城とした曽根城から、大野郡の揖斐城へと移した 16 。
当時の揖斐城は山城であり、政務や居住には不便であったため、光教は城の南麓の平地に新たに城(または陣屋)を築き、城下町の整備を進めたと伝えられている 16 。この新しい城下町が、現在の岐阜県揖斐川町の基礎となった。また、彼は領主として地域の神社仏閣の庇護にも努め、特に三輪神社や、後に自らの菩提寺となる松林寺を再興した記録が残っている 23 。
徳川の世が到来した後も、光教の忠勤は続いた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして元和元年(1615年)の夏の陣には、養子であり後継者の嘉教(よしのり)と共に参陣し、松平忠明の麾下で武功を挙げた 16 。戦後、家康から褒賞として鷹狩りの地を与えられるなど、その信頼は最後まで揺るぎないものであった 16 。
大坂夏の陣が終結し、天下が完全に平定された直後の元和元年(1615年)11月19日、西尾光教は徳川家康のいる駿府において、73年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。その亡骸は領地の揖斐へと運ばれ、自らが再興した松林寺に葬られた 23 。
彼の最期は、徳川家への揺るぎない忠誠心を示す逸話と共に伝えられている。光教は、かつて織田信長から拝領した名物「唐絵茄子」の掛軸を秘蔵していたが、その遺言により、跡を継いだ嘉教から家康へと献上された 16 。戦国の世を生き抜き、ついに安住の地を得た老将が、新たな天下人に対して示した最後の忠義の証であった。
自らの才覚と処世術で戦国の世を渡り、三万石の大名の地位を築き上げた西尾光教。しかし、彼の家は、その死後わずか8年で歴史の表舞台から姿を消すという悲劇的な結末を迎える。その原因は、彼が生涯を通じて悩まされ続けた後継者問題にあった。
光教には実子の男子がおらず、三人の娘がいた 1 。そのうちの一人は、豊臣家臣の木下吉隆に嫁いだ。しかし、この娘婿の吉隆は、文禄4年(1595年)に起きた豊臣秀次事件に連座して失脚。薩摩へと流罪になり、慶長3年(1598年)にその地で自害するという悲運に見舞われた 16 。
主を失った娘と、その間に生まれた三人の孫(教次、嘉教、氏教)を引き取った光教は、彼らを自らの養子とし、西尾家の後継者とした 16 。当初は長男の教次を養嗣子としたが、教次は慶長13年(1608年)に21歳の若さで早世。そのため、次男の嘉教が嫡子となり、光教の死後、揖斐藩二代藩主の座を継いだ 16 。
しかし悲劇は続く。元和9年(1623年)4月2日、二代藩主・西尾嘉教が、34歳という若さで、跡継ぎとなる男子がいないまま急死してしまったのである 16 。
この事態に対し、新たに成立した江戸幕府の対応は厳格であった。幕府は、藩主の危篤後に急いで養子を迎える「末期養子」を原則として禁じており 32 、嘉教の急死によって西尾家は後継者を立てる時間的猶予を失った。その結果、揖斐藩西尾家は「無嗣改易(後継者断絶による改易)」を命じられ、大名家としての家名は断絶した 16 。光教が一代で築き上げた三万石の所領は、幕府に没収されたのである。
この複雑な後継者関係を以下に示す。
階層 |
人物 |
備考 |
藩祖 |
西尾光教 |
実子なし。 |
正室 |
氏家直元の妹 |
|
娘 |
娘 |
木下吉隆に嫁ぐ。 |
娘婿 |
木下吉隆 |
豊臣秀次事件に連座し自害。 |
外孫 |
西尾教次 |
光教の養子(長男)。養嗣子となるが早世。 |
(養子) |
西尾嘉教 |
光教の養子(次男)。二代藩主となるが嗣子なく死去。 → 揖斐藩改易 |
|
西尾氏教 |
光教の養子(三男)。5000石を分与され分家。家は4500石の旗本として存続 22 。 |
西尾家の改易は、単なる不運ではなかった。それは、光教が生き抜いてきた「実力と流動性の戦国時代」と、彼がその成立に貢献した「法と固定性の江戸時代」との間に横たわる、制度的な断絶を象徴する出来事であった。光教は、合戦や政争という「戦国の論理」を駆使して大名となった。しかし、彼が築いた家は、新たに確立された「江戸の論理(武家諸法度)」によって、その終焉を迎えたのである。戦国の勝者であった彼の血脈は、江戸の秩序の前に途絶えた。この皮肉な結末こそ、彼の生涯を考察する上で最も重要な点の一つと言えよう。
西尾光教の生涯を総括する時、我々は彼が戦国時代における多様な成功の形の一つを体現した、極めて興味深い人物であったとの結論に至る。彼は、信長や秀吉、家康のような天下人でも、あるいは武田信玄や上杉謙信のような戦術の天才でもなかった。しかし、彼は自らの置かれた状況を常に的確に分析し、築くべき人脈を築き、そして自らが持つ特殊な能力、すなわち美濃の地理知識や巧みな交渉術を最大限に活用することで、時代の激流を巧みに乗りこなし、ついには大名の地位をその手で掴み取った。
彼のキャリアは、出自の不確かさというハンディキャップを、特定のしがらみに縛られないという強みに変え、主家や主君を次々と変えながらも、その都度、自らの価値を証明し続けたたぐいまれな記録である。本能寺の変における明智光秀の誘いを、親族との関係性まで考慮した上で拒絶した冷静な判断力。関ヶ原合戦において、自らの持つ地理的・人的ネットワークを武器に、東軍の勝利に決定的な貢献を果たした戦略眼。これらは、彼が単なる武辺者ではなく、優れた政治家・戦略家であったことを雄弁に物語っている。
しかし、その輝かしい成功譚は、彼の死後、あまりにもあっけない幕切れを迎える。後継者に恵まれなかったという不運に加え、彼がその成立に尽力した江戸幕府の厳格な法制度が、皮肉にも彼自身の家の存続を阻んだ。彼は「戦国の論理」を極めた生存の達人であったが、その家は「江戸の論理」の前に脆くも崩れ去ったのである。
最終的に、西尾光教は「戦国乱世の力学を体得し、自らの才覚で大名へと駆け上がった成功者でありながら、その家は、彼自身が築き上げた新時代の秩序の前に終焉を迎えた、時代の移行期を象徴する人物」として再評価されるべきであろう。彼の生涯は、華々しい英雄譚の裏で、数多の武将たちが繰り広げたであろう、知られざる生存競争のリアルな姿を我々に教えてくれる、貴重な歴史の証言なのである。