戦国時代の筑後国に、西牟田鎮豊(にしむた しげとよ)という武将がいた。筑後の豪族、西牟田城主として、当初は九州北部に覇を唱えた豊後の大友宗麟に属しながらも、後に肥前の龍造寺隆信へと鞍替えし、その配下で数々の軍功を挙げた人物として、その名は一部の歴史愛好家に知られている。しかし、彼の生涯は単なる主君の乗り換えという一言で語り尽くせるものではない。それは、九州の勢力図が目まぐるしく塗り替えられていく激動の時代にあって、一族の存亡という重責を背負い、三大勢力の狭間で苦闘した国人領主の生き様の典型であった。本報告書は、断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせ、西牟田鎮豊という一人の武将の生涯を多角的に検証し、その知られざる実像に迫るものである。
西牟田鎮豊が生きた16世紀中盤の九州は、豊後の大友氏がその最盛期を迎えていた。21代当主・大友義鎮(後の宗麟)の下、大友氏は豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の六ヶ国に守護職を持ち、九州探題を兼ねるなど、名実ともども九州北部の覇者として君臨していた 1 。しかし、その栄華は永遠ではなかった。肥前国では、少弐氏の内訌を好機として台頭した龍造寺隆信が「肥前の熊」の異名をとるほどの猛威を振るい始め、着実に大友氏の支配領域を侵食していく 3 。時を同じくして、南方の薩摩国では島津氏が三州統一を成し遂げ、九州全土の制覇を目指して北進の機会を窺っていた 4 。大友・龍造寺・島津という三つの巨大勢力が互いに牽制し、衝突する「九州三国志」とも言うべき時代の幕が上がろうとしていた。西牟田鎮豊の生涯は、まさしくこの三大勢力の衝突の最前線で、否応なく繰り広げられることとなるのである。
西牟田氏は、その歴史を鎌倉時代にまで遡ることができる筑後の名族である。伝承によれば、嘉禎年間(1235年-1238年)に鎌倉幕府の命を受け、伊豆国三島より筑後国三潴郡西牟田村の地頭として赴任した西牟田彌次郎家綱(入道して行西と号す)を始祖とする 2 。家綱は領地経営に手腕を発揮し、寛元元年(1243年)には一族の菩提寺となる寛元寺を建立し、故郷である伊豆の三島明神を勧請するなど、この地に確固たる基盤を築いた 5 。
その武名は早くから知られており、弘安の役(1281年)では、時の当主・西牟田彌次郎永家が九州の御家人らと共に元軍と戦い、松浦湾の鷹島で敵軍を急襲して戦功を挙げた。この功により、肥前国神埼の荘園数ヶ所を恩賞として賜ったと記録されている 5 。さらに、全国が動乱に揺れた南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子・懐良親王を奉じる南朝(宮方)に一貫して与し、菊池氏らと共に九州における北朝(武家方)勢力と戦った。特に正平14年(1359年)の筑後川の戦いでは、少弐頼尚・大友氏時らの大軍を破る上で重要な役割を果たしている 8 。
南北朝の合一後、筑後国において豊後の大友氏が支配力を強めると、かつて大友氏と敵対した西牟田氏もその傘下に入らざるを得なくなった。西牟田氏は、蒲池氏や黒木氏、田尻氏など筑後の有力国人と共に「筑後十五城」と総称される領主連合の一角を担う存在となった 5 。
しかし、大友氏による筑後支配は極めて苛烈なものであった。領国で戦が起これば、筑前や肥後はもとより、遠く日向の奥地にまで従軍を命じられ、常に第一線で戦うことを強要された。また、家督の相続や居城の改築といった一族の重要事項ですら大友家の裁可を必要とし、さらには大友家が発行する証札がなければ領内を自由に通行することさえままならなかった 2 。このような支配体制は、鎌倉以来の自律的な領主であった西牟田氏にとって、屈辱的であり、その誇りを深く傷つけるものであった。この抑圧された状況が、西牟田氏の中に根強い反骨の気風を育んでいくことになる。
大友氏への不満は、西牟田鎮豊の時代に突如として現れたものではない。その萌芽は、彼の祖父と父の代にすでに見ることができる。天文3年(1534年)、鎮豊の祖父にあたる西牟田播磨守親毎(ちかかず)と、父の左衛門太夫親氏(ちかうじ)は、三池氏など他の筑後国人衆と連携し、時の大友家当主・大友義鑑に対して公然と反旗を翻した。しかし、この反乱は大友氏の大軍によって鎮圧され、親毎・親氏父子は奮戦の末に討死するという悲劇的な結末を迎えた 2 。
この事件は、西牟田一族の歴史に深い傷跡を残すと同時に、彼らの行動原理を理解する上で極めて重要な意味を持つ。鎮豊の後の決断の背景には、単なる政策への不満だけでなく、父祖の代から続く大友氏との血の対立と、一族に受け継がれた不信感、そしていつかは失地を回復し父祖の無念を晴らしたいという想いが、深く刻み込まれていたのである。
西牟田鎮豊の生涯を語る上で、まずその血縁関係を整理しておく必要がある。以下に、鎮豊を中心とした西牟田氏の略系図を示す。
【表1:西牟田鎮豊を中心とした西牟田氏略系図】
世代 |
当主名(通称・官途名) |
続柄・備考 |
13代 |
西牟田播磨守親毎(ちかかず) |
鎮豊の祖父。天文3年(1534年)大友氏に反乱し討死 5 。 |
14代 |
西牟田左衛門太夫親氏(ちかうじ) |
鎮豊の父。父・親毎と共に討死 5 。 |
15代 |
西牟田播磨守鎮豊 (しげとよ) |
本報告書の主題。別名に家増(いえます) 12 。 |
16代 |
西牟田紀伊守統賢(むねかた) |
鎮豊の嫡男。天正12年(1584年)沖田畷の戦いで討死 5 。 |
17代 |
西牟田新助家親(いえちか) |
鎮豊の孫(統賢の子)。城島城主。後に佐賀藩士となる 5 。 |
- |
西牟田新右衛門家和(いえかず) |
家親の弟。兄と共に城島城で奮戦 13 。 |
主流となる系図資料によれば、鎮豊の父は天文3年に大友氏との戦いで命を落とした西牟田親氏である 5 。鎮豊自身は播磨守を称したことが知られている 5 。一方で、一部の資料には鎮豊が筑後の別の国人・星野氏の一族であるかのような記述も散見される 15 。これは、当時の国人領主間で複雑な婚姻関係や政治的同盟が結ばれていたことを示唆しており、鎮豊の母が星野氏の出身であったり、星野氏と極めて緊密な協力関係にあったりした可能性を示している。しかし、西牟田氏の家督を継承し、その名を名乗っている以上、父系は西牟田氏本流の親氏と考えるのが最も妥当であろう。
父と祖父が討たれた後、家督を継いだ若き鎮豊は、再び大友氏への抵抗を試みる。天文19年(1550年)、肥後国で大友氏に反抗していた菊池義武の動きに呼応し、鎮豊は筑後の小山氏や三池氏らと共に兵を挙げた 2 。これは、父祖の無念を晴らすための行動であったと同時に、大友氏の支配から脱却しようとする筑後国人衆の根強い抵抗の表れでもあった。しかし、この反乱もまた、当時すでに家督を継いでいた大友義鎮(宗麟)によって鎮圧され、鎮豊は降伏を余儀なくされた 2 。この若き日の挫折は、大友氏の力の大きさを痛感させると共に、鎮豊に次なる機会を待つ忍耐を教えたのかもしれない。
一度は屈した鎮豊であったが、大友氏への不満が消えることはなかった。その亀裂を決定的にしたのは、二つの大きな要因であった。
第一の要因は、前章で述べた経済的・軍事的な圧迫の継続である 2 。大友宗麟は版図を拡大し続けたが、その軍事行動の負担は、鎮豊ら国人領主の肩に重くのしかかり続けた。
そして第二の、そしてより象徴的な要因が、宗麟の宗教政策であった。熱心なキリシタンとなった宗麟は、その信仰心の篤さから、領内において神社仏閣を破壊する挙に出た 16 。特に日向侵攻の際には、現地の寺社を徹底的に破壊し、キリスト教の聖堂を建立したと記録されている 18 。この過激な行動は、神仏への信仰が生活や価値観の根幹にあった多くの国人領主にとって、到底受け入れられるものではなかった。後世の記録には、鎮豊がこの「神仏破壊を厭い」、大友氏から離反したと明確に記されており 19 、これが彼の決断を正当化する大義名分となったことは想像に難くない。長年の政治的・経済的な不満の上に、宗教的・文化的な対立が加わり、鎮豊と大友宗麟の間の溝はもはや修復不可能なものとなったのである。
天文19年の蜂起から約30年、西牟田鎮豊が雌伏の時を過ごす中、九州の勢力図を根底から揺るがす一大事件が起こる。天正6年(1578年)、大友宗麟は日向の伊東氏を救うという名目で大軍を率いて南下し、高城川を挟んで島津軍と対峙した。世に言う「耳川の戦い」である 4 。しかし、慢心と指揮系統の混乱から大友軍は島津軍の巧みな戦術の前に歴史的な大敗を喫し、多くの有力武将を失った 21 。
この敗戦は、九州の覇者であった大友氏の権威を失墜させ、その支配体制に深刻な亀裂を生じさせた。これを好機と見た筑前、筑後、肥後の国人衆は、堰を切ったように次々と大友氏から離反を開始した 12 。九州の政治情勢は、一気に流動化していく。
大友氏の弱体化を誰よりも鋭敏に察知したのが、肥前の龍造寺隆信であった。彼はこの千載一遇の好機を逃さず、筑後国への本格的な侵攻を開始する 2 。長年大友氏の圧政に苦しんできた西牟田鎮豊にとって、これは待ち望んだ時であった。鎮豊は、同じく大友氏に強い不満を抱いていた柳川城主・蒲池鎮漣(しげなみ)ら筑後の国人たちと共に、龍造寺隆信の麾下に入ることを決断する 19 。
この「鞍替え」は、一族の生存を賭けた大きな賭けであった。これにより西牟田氏は、大友氏から裏切り者として一層激しい攻撃に晒されることになったが 2 、同時に龍造寺という新たな、そして強力な庇護者を得ることにもなったのである。
しかし、鎮豊が身を寄せた新たな主君・龍造寺隆信は、決して安寧を約束してくれる存在ではなかった。隆信は筑後での支配を盤石にするため、その非情な本性を露わにする。天正9年(1581年)、隆信は筑後で最大級の勢力を誇り、かつては龍造寺氏の恩人ですらあった蒲池鎮漣に謀反の疑いをかけ、猿楽の宴に誘い出して謀殺し、その一族を根絶やしにした 4 。
この事件は、龍造寺に従う国人たちに大きな衝撃を与えた。西牟田鎮豊もまた、共に大友に反旗を翻した盟友の無残な最期を目の当たりにし、自らの主君の恐ろしさを痛感したに違いない。大友という圧政者から逃れた先に待っていたのは、恩義も情けも通用しない、猜疑心に満ちた冷酷な支配者であった。鎮豊の立場は、常に薄氷を踏むような、危ういものであり続けたのである。この選択は、戦国時代の国人領主が直面した「どちらの地獄を選ぶか」という過酷な現実を浮き彫りにしている。
龍造寺方についたことで、西牟田氏は大友氏からの軍事的圧力を直接受けることとなった。従来の居城であった西牟田城は平城であり、大軍による攻撃を防ぎきるには心許なかった 2 。この危機的状況を打開するため、鎮豊は天正7年(1579年)頃、新たな本拠地として生津城(なまづじょう)の築城に着手し、拠点を移した 2 。
生津城は、筑後川の支流である山ノ井川を背後に控え、五重にも及ぶ堀切を巡らせた堅固な城であったと伝えられる 13 。川の堰を閉じれば城の外郭が水沢地になるという、天然の要害を利用したこの城は、鎮豊が大友氏との全面対決を覚悟していたことの何よりの証左であった。
新たな主君・龍造寺隆信の下で、西牟田鎮豊は数々の戦いに身を投じ、その武勇を示した。特に「肥後攻め」や「戸原城攻め」での活躍が記録されている 19 。
「戸原城攻め」とは、龍造寺氏が筑後平定を進める中で、最後まで大友方に留まって抵抗した上妻郡の戸原氏を攻撃した戦いである。この戦いに、鎮豊は龍造寺軍の一員として参加し、筑後統一に貢献した 15 。また、龍造寺氏が肥後国へと勢力を拡大していく一連の戦役、すなわち「肥後侵攻」においても、鎮豊率いる西牟田勢は「筑後衆」の中核として重要な役割を担った。当時の龍造寺軍の編成を見ると、鍋島直茂を筆頭とする龍造寺一門に次いで、蒲池氏、田尻氏、そして西牟田氏といった筑後の国人衆が動員されており、彼らが龍造寺の軍事行動に不可欠な戦力であったことが窺える 23 。
龍造寺氏の勢力が頂点に達したかに見えた天正12年(1584年)、その運命を暗転させる戦いが勃発する。龍造寺氏から離反した島原の有馬晴信を討伐するため、隆信は自ら2万5千ともいわれる大軍を率いて出陣。これに対し、有馬・島津の連合軍はわずか6千。兵力で圧倒的に優位に立つ龍造寺軍の勝利は確実かと思われた。しかし、島原の沖田畷(おきたなわて)と呼ばれる湿地帯での戦いで、龍造寺軍は島津家久の巧みな伏兵戦術にはまり、まさかの大敗を喫する 3 。この戦いで、総大将の龍造寺隆信は討死。「肥前の熊」と恐れられた巨星は、ここに墜ちた。
この戦いは、西牟田氏にとっても破滅的な悲劇をもたらした。龍造寺軍の一員としてこの戦いに参陣していた鎮豊の嫡男、西牟田紀伊守統賢(むねかた)が、主君・隆信と運命を共にし、奮戦の末に討死を遂げたのである 13 。強力な庇護者を失っただけでなく、一族の未来を託すべき後継者をも同時に失ったこの敗戦は、西牟田氏の歴史において最も暗い一日として刻まれた。これにより、一族は否応なく世代交代を迫られ、鎮豊の孫の世代が、存亡の危機という最も困難な局面で矢面に立たされることになった。
沖田畷の戦いを境に、西牟田鎮豊自身の動向を伝える明確な記録は歴史上から途絶える。彼の没年や死因、墓所の所在を特定できる直接的な史料は見当たらず、その最期は謎に包まれている 25 。嫡男・統賢の戦死という衝撃を受け、失意のうちに家督を孫の家親に譲って隠居したのか、あるいは相次ぐ戦乱の中で命を落としたのか。いずれにせよ、九州の歴史が大きく動いたこの時期に、鎮豊は静かに表舞台から姿を消した。その不明瞭な最期は、戦国の世に生きた数多の地方国人領主の記録が、歴史の奔流の中に埋もれていった様を象徴しているかのようである。
鎮豊に代わって一族の命運を担うことになったのは、戦死した統賢の子、すなわち鎮豊の孫にあたる西牟田新助家親(いえちか)と、その弟・新右衛門家和(いえかず)の兄弟であった。龍造寺氏の弱体化を好機と見た大友氏は、猛将・立花道雪らを差し向け、筑後の失地回復に乗り出す。この攻勢により、西牟田氏は生津城を失い、新たに筑後川のほとりに城島城(じょうじまじょう)を築いて抵抗を続けた 13 。
天正12年(1584年)、城島城は大友軍の猛攻に晒される。しかし、家親・家和兄弟は巧みな指揮でこれを撃退し、その武勇と城島城の堅固さは、肥前・筑後・豊後の三国に轟いたという 28 。だが、彼らの奮戦も束の間、今度は南から新たな脅威が迫る。天正14年(1586年)、九州統一を目指して破竹の勢いで北上してきた島津氏の大軍が、城島城に殺到したのである 13 。
薩摩武士の勇猛果敢な攻撃の前に、衆寡敵せず、もはやこれまでと悟った家親・家和兄弟は、夜陰に乗じて城を脱出。筑後川を渡り、旧主・龍造寺氏の残る肥前佐賀へと落ち延びていった 13 。
城島城の落城。それは、鎌倉時代に西牟田家綱がこの地に根を下ろして以来、約400年にわたって続いた西牟田氏による西牟田の地の支配が、名実ともに終わりを告げた瞬間であった 5 。翌天正15年(1587年)に豊臣秀吉による九州平定が行われると、筑後の地は立花宗茂らの所領となり、西牟田氏がかつての故郷に返り咲くことは二度となかった 8 。
故郷を追われた西牟田氏であったが、一族の血脈は絶えることがなかった。肥前へ逃れた家親・家和兄弟は、龍造寺氏の実権を掌握していた鍋島直茂に仕え、その家臣団に組み込まれた 5 。国人領主としての独立は失ったものの、新たな支配体制の中で生き残る道を選んだのである。
江戸時代に入り、鍋島氏が佐賀藩主となると、西牟田氏は佐賀藩士として家名を存続させた。佐賀藩に残る系図によれば、家親の子孫は佐賀藩の宗家を継いだほか、支藩である諫早藩や蓮池藩の家臣としても分かれ、それぞれが武士としての家を後世に伝えていったことが確認できる 5 。領主としては滅亡したが、一族としては存続する。これは、戦国乱世を生き抜いた多くの国人領主が辿った道筋であり、西牟田氏の苦闘の最終的な帰結であった。
西牟田鎮豊の生涯を振り返るとき、我々はそこに、九州の三大勢力の狭間で翻弄されながらも、必死に一族の自立と存続を模索した筑後国人領主の典型的な姿を見出すことができる。大友氏の苛烈な支配への反抗、龍造寺氏への帰順、そしてその庇護者の突然の崩壊。彼の人生は、自らの意思だけではどうにもならない巨大な歴史のうねりの中で、常に危うい選択を迫られ続けた苦難の連続であった。
鎮豊が下した龍造寺への帰順という決断は、短期的には一族を大友の圧政から解放した。しかし、それは長期的には、嫡男・統賢の戦死と、孫の代における本拠地喪失という悲劇を招く遠因ともなった。一方で、その結果として一族が肥前佐賀に新たな活路を見出し、鍋島藩士として近世を生き抜くことができたのもまた事実である。もし彼が大友氏に留まり続けていれば、一族は別の形で歴史から姿を消していたかもしれない。彼の決断の評価は、一面的なものではなく、多角的に、そしてその後の長い一族の歴史を見通してなされるべきであろう。
西牟田鎮豊のような、歴史の主役として語られることの少ない地方武将の生涯を丹念に追う作業は、我々に戦国時代をより深く、より立体的に理解させてくれる。織田信長や豊臣秀吉といった天下人たちの華々しい歴史だけでは決して見えてこない、地方社会のリアルな実態、そこに生きた国人たちの価値観や苦悩、そして彼らが下した一つ一つの決断が、地域に、そして後世に与えた影響。西牟田鎮豊の物語は、筑後という土地に刻まれた、激動の時代の記憶そのものである。本報告書が、その埋もれた記憶を掘り起こし、一人の武将の実像を後世に伝える一助となることを願って、ここに筆を置く。