角屋元秀
角屋元秀は伊勢大湊で廻船問屋を創業。神官の出自と地の利を活かし、徳川家康の御用商人となり飛躍。多角化と海外展開も行い、その名は現代の伊勢角屋麦酒にも継承される。
戦国の海商 角屋元秀 — 伊勢大湊に勃興した豪商の生涯と一族の軌跡
序章:戦国時代の伊勢に興った豪商、角屋元秀
戦国時代は、下剋上による社会秩序の流動化と、絶え間ない戦乱の時代として記憶されている。しかし、その混沌の中から新たな社会の担い手が登場した時代でもあった。中でも、経済力を背景に政治や軍事にも影響を及ぼすようになった「商人」の台頭は、この時代を特徴づける重要な潮流の一つである。彼らはもはや単なる受動的な物資の供給者ではなく、戦国大名と巧みに結びつき、時にはその運命すら左右する能動的な存在へと変貌を遂げていった。
本報告書が主題とする角屋元秀(かどや もとひで)は、まさにそのような時代精神を体現した人物である。彼は、伊勢神宮の膝元に位置し、海上交通の要衝として栄えた港湾都市・伊勢大湊(いせおおみなと)を拠点に、一代で廻船問屋「角屋」を興した。その事業は、息子である角屋秀持(ひでもち)の代に飛躍的な発展を遂げ、徳川家康をはじめとする当代一流の権力者たちの御用商人として、歴史の表舞台で重要な役割を果たすことになる 1 。
角屋一族の物語は、一人の商人の成功譚にとどまらない。それは、戦国時代という激動の時代において、商人がいかにして政治の荒波を乗りこなし、富を築き、そしてその影響力を次代へと継承していったかを示す縮図である。伊勢大湊という、交易、造船、情報が交差する地の利を最大限に活かし 3 、神官の家系という特異な出自から得た信用を武器に、元秀がいかにして豪商への道を切り拓いたのか。本報告書は、断片的に残された史料を丹念に読み解き、角屋元秀という人物の生涯、彼が築いた事業の基盤、そしてその一族が織りなした壮大な歴史の軌跡を、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。
第一章:角屋家の出自と元秀の登場
角屋家の歴史は、商業とは無縁の、神聖な領域から始まる。そのルーツを辿ることは、元秀が商人として成功を収めるに至った背景を理解する上で不可欠である。
第一節:信濃からの移住と神官の家系
角屋家の本姓は松本といい、その祖先は信濃国筑摩郡松本(現在の長野県松本市)の出身であった 1 。彼らが伊勢国度会郡山田(現在の三重県伊勢市)に移り住んだのは、室町時代の永享年間(1429年-1441年)のことと伝えられている 1 。
特筆すべきは、元秀の直系の祖先が商人ではなく、神官であったという事実である。元秀の祖父は兵部(ひょうぶ)といい、松本郷八幡宮の神職を務めていた。そして父の元吉(もとよし)もまた、伊勢の神官であった 1 。この神官という出自は、単なる家系の背景にとどまらず、元秀が商人として大成するための極めて有利な土壌を提供したと考えられる。
当時の伊勢神宮周辺、特に山田には「御師(おんし、おし)」と呼ばれる下級神官たちが存在した。彼らは、全国各地に檀家(旦那)と呼ばれる伊勢神宮の崇敬者を組織し、お札を配り、伊勢参りの際には宿を提供するなど、広範なネットワークを構築していた 7 。御師の活動は純粋な宗教活動にとどまらず、各地の産物の交換を仲介したり、金融業を営んだりと、多分に経済的な性格を帯びていた 9 。つまり、元秀の父・元吉が神官であったということは、元秀が幼少期から、全国的な人の流れ、物資の流通、そして信用の構築といった、商業活動の根幹をなす要素に触れる機会に恵まれていた可能性を示唆する。神に仕える家系という社会的信用は、後に彼が実業界に進出する際に、無形の、しかし計り知れない資産となったであろう。
第二節:伊勢大湊への進出と「角屋」の創始
角屋家の歴史における最初の大きな転換点は、角屋元秀の代に訪れる。一部の資料では元秀の生没年を弘治元年(1555年)から寛永8年(1631年)と伝えるが 2 、彼の活動の実態は、息子の秀持の代に顕著となる一連の出来事を通じてより明確に浮かび上がる。元秀は、父祖の地である伊勢山田を離れ、活気あふれる港湾都市・伊勢大湊に移住し、廻船問屋を創業した 1 。そして、彼は屋号として「角屋」を名乗った最初の人物とされる 1 。
伊勢商人には「伊勢屋」や「角屋」といった屋号が多く見られるが 12 、元秀が創始した角屋は、その中でも屈指の豪商へと成長していくことになる。
なお、角屋家の代数については、史料によって見解が分かれる点に留意が必要である。元秀を創業者としながらも、その子・秀持の功績が絶大であったため、角屋家自身が残した『角屋家文書』などの記録では、秀持を事実上の「初代」として数えることが多い 1 。このため、本報告書では、元秀を「創業者」、秀持を「初代当主」として位置づけ、その後の歴史を記述する。
表1:角屋家初期の主要人物
代 |
氏名 |
生没年 |
主な功績 |
創業者 |
角屋七郎次郎元秀 |
1555-1631 |
伊勢大湊にて廻船問屋「角屋」を創業。一族の商業活動の礎を築く 1 。 |
初代 |
角屋七郎次郎秀持 |
- 1614年(73歳没) |
徳川家康の「伊賀越え」を援護。徳川、北条、織田、北畠各氏の御用商人となり、一族飛躍の基盤を確立 1 。 |
二代 |
角屋七郎次郎忠栄 |
- 1644年(71歳没) |
蒲生氏郷の招聘に応じ、拠点を松坂に移す。事業の安定と拡大を図る 1 。 |
分家 |
角屋七郎兵衛栄吉 |
1610 - 1672年 |
忠栄の次男。安南(ベトナム)ホイアンに渡り、日本人町の長となる。角屋家の海外貿易を担う 14 。 |
第二章:事業の揺りかご — 伊勢大湊の地政学と経済
元秀が事業の地として選んだ伊勢大湊は、偶然の選択ではなかった。この港町が持つ地理的、経済的、そして政治的な特性こそが、角屋の勃興を可能にした「揺りかご」であった。
第一節:戦国大名の角逐と港湾都市の自治
伊勢大湊は、宮川、五十鈴川、勢田川という三つの川が伊勢湾に注ぐ河口の三角州に形成された、天然の良港であった 4 。この地理的優位性から、古くから伊勢湾の海上交通の拠点として栄えていた。戦国時代に入ると、その戦略的な重要性はさらに高まる。
伊勢国の支配者であった北畠氏や、その後に伊勢を勢力下に置いた織田信長といった戦国大名たちは、大湊が持つ海運能力と造船技術を自軍の兵站や水軍力として極めて重視した。残された古文書には、北畠氏の家臣や織田氏の部将が、大湊の自治組織に対して軍船の調達や船材の確保を命じる様子が記録されている 16 。特に有名なのは、織田信長が配下の水軍大将・九鬼嘉隆に命じ、大湊で「鉄甲船」を建造させたとされる逸話であり、この港が当時の最先端の軍事技術の一端を担っていたことを示している 4 。
一方で、大湊は単に権力者に従属するだけの港ではなかった。「会合衆(かいごうしゅう、えごうしゅう)」と呼ばれる有力商人たちによる自治組織が存在し、彼らが町の運営を担っていた 16 。会合衆は、戦国大名からの要求に対して町を代表して交渉し、時には巧みに要求をかわすなど、したたかな交渉力と団結力を持っていた。大名たちにとって、大湊は必要不可欠な兵站基地であると同時に、一筋縄ではいかない交渉相手でもあった。この権力との緊張感をはらんだ共存関係が、大湊の商人たちに独自の政治感覚と交渉術を育ませた。元秀は、このような自立性の高い都市共同体の中で事業を始めたのであり、彼の商才は、この地で培われた商人たちの集合的な知恵と経験の上に花開いたと言える。
第二節:廻船業と造船の拠点として
大湊の経済を支えていたのは、廻船業と造船業であった。宮川上流に広がる豊かな森林資源は良質な木材を供給し、舟運によって容易に港まで運ぶことができた 4 。この恵まれた条件のもと、町には船大工や、船釘を製造する鍛冶職人が集住し、町全体が巨大な造船所のような様相を呈していた 4 。江戸時代の記録ではあるが、町の戸数の過半数が鉄工業者で占められていたという記録もあり、その伝統は戦国時代にまで遡るものであった 19 。
廻船問屋であった角屋は、この地のインフラを最大限に活用した。彼らの廻船は、伊勢神宮への年貢米や諸国の特産品を運び、また伊勢からは木材や伊勢木綿、茶といった産品を各地へ輸送した 7 。大湊港に陸揚げされた物資は、河川交通を利用して内陸の問屋街・河崎へと運ばれ、そこから伊勢神宮の参拝客や周辺地域へと供給された 5 。元秀が始めた事業は、このような活発な物流ネットワークの中核を担うものであり、その成長の可能性は極めて大きかったのである。
第三章:角屋の飛躍 — 秀持の時代と政商への道
創業者・元秀が築いた事業基盤の上で、角屋を全国区の豪商へと押し上げたのは、その息子である初代当主・秀持であった。彼は、戦国の動乱を好機と捉え、卓越した政治感覚と行動力で、角屋一族の運命を劇的に変えていく。
第一節:権力者との初期関係 — 北畠、織田、今川
角屋家は、元秀と若き日の秀持の時代から、地域の権力者たちと巧みに渡り合っていた。当初は、伊勢国の国司であった北畠氏の御用達を務めていたと考えられる 1 。しかし、織田信長の勢力が伊勢に及ぶと、速やかに新たな支配者である織田氏との関係を構築し、その御用も務めるようになった 1 。
彼らの巧みな立ち回りを象徴する事件が、天正元年(1573年)に起きている。信長の家臣・塙直政が、大湊の会合衆に対し、角屋七郎次郎(この場合は秀持を指すと考えられる)が没落した今川氏真から預かっている茶道具を差し出すよう命じた 22 。この要求は、角屋が氏真のような高い身分の人物から貴重品を預かるほどの信用を得ていたこと、そして、その動向が既に新興の覇者である信長の耳にも達していたことを示している。
これに対し、大湊の会合衆は「茶道具は既に氏真公に返却済みであり、七郎次郎自身も今は(徳川家康の拠点である)浜松に下っており、大湊には不在である」と回答した 22 。これは、信長の命令を真っ向から拒否することなく、角屋と氏真の関係を清算済みであると示しつつ、当事者が徳川領内にいることを示唆することで、追及をかわそうとする、極めて高度な外交的応答であった。この一件は、角屋家が特定の主人に盲従するのではなく、複数の、時には敵対する勢力との間にも多重的な関係を築き、それを駆使して危機を乗り越えるという、戦国商人ならではの生存戦略を既に身につけていたことを物語っている。
第二節:関東への航路と後北条氏
角屋の活動範囲は、東海地方にとどまらなかった。天正3年(1575年)、関東の雄・後北条氏の当主である北条氏政が、徳川家康に書状を送ろうとした際、陸路は敵対する武田氏の勢力圏であったため、海路を用いる必要があった。この時、使者を船で送り届けたのが秀持であった 1 。
この功績に氏政は大いに喜び、天正5年(1577年)には、角屋の船が北条領内の港で自由に商いを行うことを許可する「虎の朱印状」を秀持に与えた 1 。これは、角屋が徳川・北条という二大勢力から信頼される中立的な輸送業者として認識されていたことを意味する。敵地である駿河湾を横断し、浜松と小田原を結ぶ危険な航路を担うことができる角屋の能力と信用は、他の商人にはない大きな強みであった 23 。
第三節:一族の運命を変えた「神君伊賀越え」
角屋家の歴史において、最大の転機となったのが、天正10年(1582年)の本能寺の変の直後に起きた、世に言う「神君伊賀越え」である。堺に滞在中であった徳川家康は、信長横死の報を受け、一転して命の危険に晒された 1 。
伊賀の山中を命からがら越え、伊勢国までたどり着いた家康一行。この絶体絶命の危機を救ったのが、角屋秀持であった。秀持は、伊勢の白子(しろこ)の港から自らの持ち船を出し、家康一行を対岸の尾張国常滑まで無事に送り届けたのである 23 。
この時の恩義に家康は深く感謝し、角屋七郎次郎を徳川家の正式な御用商人に任命した。さらに、徳川領内のすべての港において、角屋の船の入港税や通行税を免除するという特権を与えた朱印状を発行した 13 。この朱印状は、単なる金銭的な恩賞とは比較にならない、構造的な経済的優位性を角屋にもたらした。競合する他の廻船業者が支払わなければならない税を免除されることで、角屋は圧倒的なコスト競争力を得た。これにより、彼らは徳川家の軍需品輸送を一手に担うなど、その富を飛躍的に増大させていく。
この出来事は、角屋の立ち位置を根本的に変えた。それまでは、数ある有力な廻船業者の一つであった角屋は、この一件を境に、将来の天下人である徳川家康と個人的な恩義で結ばれた、かけがえのないパートナーへと昇格したのである。創業者・元秀が築き上げた事業という土台の上に、秀持の政治的決断が、一族に盤石の繁栄をもたらした瞬間であった。
表2:角屋家と戦国大名との関係
大名家 |
主な時期 |
関係性の性質 |
関連する出来事・文書 |
北畠氏 |
1570年代以前 |
御用達(在地領主) |
船や船材の調達命令 1 |
織田氏 |
1570年代-1582年 |
御用達(新興覇者) |
軍船建造、今川氏の茶道具要求 17 |
今川氏 |
1573年頃 |
貴重品の預託先 |
氏真の茶道具を預かる 22 |
後北条氏 |
1575-1577年頃 |
戦略的輸送業者 |
使者の海上輸送、虎の朱印状の授与 1 |
徳川氏 |
1582年以降 |
不可欠な同盟者・御用商人 |
「伊賀越え」の救出、諸税免除の朱印状授与 13 |
第四章:事業の拡大と継承
徳川家康という強力な後ろ盾を得た角屋家は、その事業をさらに拡大・多角化させていく。その過程で、拠点の移転や海外への進出など、常に時代の変化を先取りする戦略的な判断を下していった。
第一節:松坂への移転と蒲生氏郷
天正16年(1588年)、秀持の子で二代目当主となった角屋忠栄(ただいえ)の時代に、一族にとって重要な拠点の移転が行われる。当時の伊勢の新たな領主となった蒲生氏郷は、松坂に城を築き、城下町の振興のために楽市楽座などの先進的な商業政策を打ち出していた 1 。氏郷は、その政策の一環として、伊勢で最も有力な商人となっていた角屋一族を、大湊から松坂の城下町へと招聘したのである 1 。
忠栄はこの招聘に応じ、一族の拠点を松坂へと移した。氏郷は彼らを厚遇し、移住先の一角を「湊町」と名付けた。これは、彼らの故郷である大湊に由来する名であり、氏郷の角屋に対する敬意と期待の大きさを物語っている 1 。
この移転は、単なる引越し以上の戦略的な意味を持っていた。港湾機能と商人自治に強みを持つ大湊から、地域の新たな政治・行政の中心地である松坂へ拠点を移すことで、角屋は陸の権力との結びつきをより強固なものにした。彼らはもはや単なる港町の商人ではなく、領国経営に深く関与するエリート商人としての地位を確立しようとしていた。海運という事業の核は維持しつつも、権力の中枢に身を置くことで、より多くの情報と機会を得ようとする、未来を見据えた経営判断であった。
第二節:廻船業の実際と『廻船式目』
松坂に拠点を移した後も、角屋の事業の中核は廻船業であり続けた。天正17年(1589)には、蒲生氏郷の奉行人が、大湊に残されていた角屋の廻船を駿河へ派遣するよう要請しており、彼らが大湊にも依然として拠点を持ち、活発な海運業を継続していたことがわかる 22 。
彼らの廻船業は、当時の海商慣習法をまとめた『廻船式目』と呼ばれる法規に則って運営されていたと考えられる 27 。これは、鎌倉時代から戦国時代にかけて瀬戸内海の海賊衆や商人たちの間で形成された慣習法を成文化したもので、傭船契約、積荷の損害に関する責任、海難救助(寄船)、船舶衝突時の処理など、海上輸送に関わるあらゆる事態への対処法を定めていた 29 。角屋家が独自に定めていた家法にも、こうした広く受け入れられた海のルールが取り入れられていたことは想像に難くない 32 。彼らの事業の安定性は、こうした法的な枠組みと、それを遵守する商人社会の秩序によって支えられていたのである。
第三節:海外への展開 — 角屋七郎兵衛と安南
角屋一族の視野は、国内市場にとどまらなかった。二代目当主・忠栄の次男であった角屋七郎兵衛栄吉(しちろべえ えいきち、1610-1672)は、一族の新たなフロンティアを切り拓くべく、朱印船貿易の世界に身を投じた 14 。
栄吉は寛永8年(1631年)、21歳の若さで安南(現在のベトナム)へ渡航し、当時の国際貿易港であったホイアンの日本人町に居を構えた 1 。しかしその2年後、徳川幕府が鎖国令を発布したため、栄吉は二度と日本の土を踏むことができなくなった 14 。
彼は故郷への帰還を絶たれた後も、異郷の地でたくましく生き抜いた。貿易商として大成功を収め、現地の王族である阮(グエン)氏の娘を妻に迎えるなど、現地社会に深く溶け込んだ 14 。そして、ホイアンの日本人町の長として、在留日本人の指導的役割を果たしたのである 15 。彼は、砂糖や絹織物などの貿易で莫大な富を築き、松坂の本家にいる家族との間で手紙のやり取りを続け、故郷との絆を保ち続けた 14 。
この角屋家の事業展開は、驚くほど近代的な経営戦略を彷彿とさせる。徳川家との強力なコネクションによって安定した収益を上げる国内事業を本家が担い、そこで得た資本を元に、よりハイリスク・ハイリターンな海外事業を分家の栄吉が担う。これは、リスク分散と事業の多角化を巧みに実践した、一種の「多国籍企業」の萌芽と見なすこともできるだろう。角屋一族の商才が、国内の政治力学の読解力だけでなく、グローバルな視野をも併せ持っていたことを示す好例である。
第五章:角屋家の遺産と歴史的意義
角屋元秀が興し、その子孫たちが発展させた事業は、多くの有形無形の遺産を後世に残した。それらは、一族の栄光を物語るだけでなく、戦国から江戸初期にかけての日本の経済史、国際交流史を解き明かす上で、極めて貴重な価値を持っている。
第一節:物言わぬ語り部 — 重要文化財「角屋家貿易関係資料」
角屋一族の活動が今日、これほど詳細にわかるのは、奇跡的に現存する一連の資料群のおかげである。これらは「角屋家貿易関係資料」として一括して国の重要文化財に指定され、現在は伊勢の神宮徴古館に収蔵されている 32 。
この資料群の中でも特に注目されるのが、以下の遺品である。
- アジア航海図 : 角屋七郎兵衛栄吉が所用したと伝えられる羊皮紙製の海図。東は日本列島から西はマレー半島までが描かれ、長崎と安南のホイアンを結ぶ航路上には、実際に航海で使われたことを示す針穴の跡が点々と残っている。当時の日本の航海技術の高さを具体的に示す、極めて希少な実物資料である 32 。
- 御朱印船旗 : 角屋家の家紋があしらわれた、朱印船に掲げられた旗。幕府の許可を得て海外渡航を行っていた公認の貿易船であったことの動かぬ証拠である 36 。
- 古文書類 : 徳川家康から与えられた朱印状の写しや、安南の日本人町の様子を伝える書簡、一族の家法を記した文書などが含まれる 32 。これらの文書は、角屋家が国内の政治権力と深く結びつき、同時に海外の日本人社会においても中心的な役割を果たしていたことを具体的に示している。
これらの「物言わぬ語り部」たちは、角屋一族が築き上げた事業の規模と、その活動の国際的な広がりを雄弁に物語っている。
第二節:戦国から現代へ — 伊勢角屋の系譜
廻船問屋としての角屋家の本流は、時代の変遷とともに歴史の表舞台から姿を消していく。しかし、「角屋」という名は、伊勢の地で形を変えて生き続けている。
伊勢神宮の門前町には、「二軒茶屋餅角屋本店」という有名な餅屋がある。この店の創業は天正3年(1575年)とされており、これはまさに角屋元秀が廻船業を興した時期と重なる 41 。廻船問屋の角屋家との直接の系譜関係を示す明確な史料はないものの、同じ「角屋」という屋号、同じ伊勢という土地、そして創業時期の一致は、何らかの繋がり、例えば分家や関連事業であった可能性を強く示唆している。
さらに興味深いことに、この老舗の餅屋は、平成9年(1997年)に「伊勢角屋麦酒」としてクラフトビールの醸造を開始した 42 。このビールは国内外のコンテストで数々の賞を受賞し、今や世界的に知られるブランドへと成長している 41 。
ここには、450年以上の時を超えた「ブランド」の力の継続が見て取れる。元秀が創始した「角屋」の名は、まず廻船業の豪商の代名詞となり、次に人々に愛される餅屋の屋号として親しまれ、そして現代においては世界が認めるビールのブランドとして輝きを放っている。直接の血縁関係の有無を超えて、「角屋」という名前そのものが、伊勢の地における卓越した起業家精神の象徴として、一つの強力なレガシーを形成しているのである。
第三節:結論 — 角屋元秀の再評価
本報告書の調査を通じて、角屋元秀という人物像は、単なる「廻船業の創始者」という簡潔な説明を遥かに超える、多角的で深みのあるものとして浮かび上がってくる。
第一に、元秀は、時代の変化を鋭敏に察知した先見性のある起業家であった。彼は、神官という伝統的で安定した家系から、あえて当時最もダイナミックな経済活動の舞台であった伊勢大湊の海運業へと身を投じた。これは、旧来の価値観に囚われず、新たな富の源泉を見抜く卓抜したビジネスセンスの表れである。
第二に、彼は、息子・秀持が政治の舞台で活躍するための盤石な基盤を築いた、偉大な創業者であった。秀持が徳川家康や北条氏政といった大物たちと渡り合うことができたのは、元秀が築き上げた信頼性の高い海運ネットワークと、経済的な実力があったからに他ならない。秀持の華々しい活躍は、元秀が地道に、しかし着実に築き上げた事業という土台なくしてはあり得なかった。
結論として、角屋元秀は、戦国時代という混乱期に、地理、政治、そして商業の相互作用を深く理解し、それを自らの事業に結実させた、稀代の商人であったと再評価されるべきである。彼は、一族という船の竜骨を据え、その船が何世代にもわたって日本の歴史の荒波を乗り越えていくための、最初の、そして最も重要な航海を指揮したのである。彼の名は、華々しい戦国武将たちの影に隠れがちであるが、日本の近世社会を経済の側面から形作った、紛れもない重要人物の一人として記憶されるに値する。
引用文献
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- 伊勢角屋麦酒の秘密・400年を超えるものつくりの歴史 https://www.biyagura.jp/f/isekadoya-history