最終更新日 2025-06-30

角隈石宗

「角隈石宗」の画像

豊後の王を支え、散った知性:軍配者・角隈石宗の生涯と実像

序論:謎に包まれた軍配者、角隈石宗

戦国時代、九州の六ヶ国を支配下に置き、その権勢を天下に轟かせた豊後の大名、大友宗麟。その栄光と、そしてあまりにも急速な衰退の物語において、一人の軍師の名が常に影のように付き従う。その名は角隈石宗(つのくま せきそう)。彼の存在は、大友家の栄華と悲劇を一身に体現する象徴として、後世に強く記憶されている [1, 2]。

一般に、角隈石宗は「主君・宗麟の無謀な日向出兵を諫めたが聞き入れられず、死を覚悟して出陣し、壮絶な最期を遂げた悲劇の忠臣」として語られる。しかし、この人物像は、江戸時代に成立した軍記物語である『大友興廃記』によって強く形作られた側面を持つ [3]。そこでは、彼は理想の家臣として、宗麟は驕れる君主として、教訓的な物語の主要な登場人物として描かれている。

本報告書は、こうした伝説や物語の奥にある角隈石宗の実像に迫ることを目的とする。そのため、軍記物語のみならず、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが残した客観的な記録や、敵対した藩の史料など、性質の異なる複数の記録を丹念に突き合わせ、多角的な視点から分析を行う。本報告書では、石宗の出自と大友家における地位、彼が有した「軍配」という専門知識の実態、同時代人から寄せられた卓越した評価、そして彼の運命を決定づけた耳川の戦いの真相を解き明かす。最終的に、後世に彼が与えた影響までを論じ、一人の類稀なる知識人の生涯を立体的に再構築することを目指す。

第一章:角隈石宗の出自と大友家における地位

角隈石宗という人物の輪郭を捉える上で、まず彼の出自と大友家における立場を明確にする必要がある。しかし、その前半生は深い謎に包まれており、断片的な情報からその地位の特異性を読み解くことになる。

1-1. 謎に満ちた前半生

角隈石宗のキャリアは、その始まりからして異例である。彼の生年は不明であり、史料で確認できるのは天正6年(1578年)に耳川の戦いで没したという事実のみである [1, 4]。彼の出身地や、どのような経緯で九州の雄である大友家に仕えることになったのか、その具体的な足跡を記した信頼性の高い一次史料は見当たらない [2]。

さらに、「角隈石宗」という名そのものも、彼の出自を曖昧にしている。後世の記録によれば、「石宗」は彼が出家した後の法名であり、「角隈」という名が本来の姓であるのか、あるいは号のようなものであるのかさえ定かではない [2]。戦国大名の重臣が、その多くを譜代の有力国人や一門衆で占められていたことを考えれば、石宗の出自が不詳である点は際立っている。この事実は、彼が特定の豪族の出身ではなく、血縁や地縁によらない、純粋な専門技能によって大友家中枢に登用された、いわばテクノクラート(技術専門官僚)的な存在であった可能性を強く示唆している。血統や家格といった伝統的な価値観が依然として力を持つ時代にあって、出自不明の人物が最高幹部の一人に数えられていたこと自体が、彼の能力がいかに傑出していたかを逆説的に証明している。戦国時代が、旧来の権威だけでなく、実用的な知識や技能を持つ専門家を渇望した時代の流れを、石宗は体現していたと言えよう。

1-2. 大友二代にわたる軍師

出自は不明ながら、石宗が大友家において極めて重要な地位を占めていたことは、複数の史料が一致して示すところである。彼は、宗麟の父である大友義鑑の代から、義鑑・義鎮(宗麟)の父子二代にわたって仕えたと記録されている [4]。これは、彼が単に宗麟一代の個人的な側近ではなく、長年にわたり大友家の軍事と政務の中枢に深く関与し、家臣団から不動の信頼を得ていたことを物語っている。

特に主君・宗麟との関係は密接であった。石宗は、宗麟がまだ幼少の頃から軍学の講師を務めており、師弟として深い絆で結ばれていた [4]。主君の人間形成にまで影響を与えたこの関係性は、後に運命の日向出兵において、石宗の諫言が単なる戦術的な助言に留まらない、師として、そして重臣としての魂の叫びであったことを理解する上で重要な背景となる。

また、彼は「越前守」という官位を称している [4, 5]。これは、大友家中で彼が単なる僧形の軍師としてではなく、武士としての正式な身分と高い格式を与えられていたことの証左である。大友家という巨大な統治機構の中で、石宗がその専門性をもって確固たる地位を築き上げていたことは疑いようがない。

第二章:「軍配者」としての石宗――その知識と異能

角隈石宗を理解する上で核となるのが、彼の専門職である「軍配者(ぐんばいしゃ)」という役割である。それは現代人が想像する「軍師」のイメージとは異なり、科学と呪術が未分化であった時代の、特異な知識体系を背景に持っていた。

2-1. 「軍配者」とは何か

現代において「軍師」と聞くと、竹中半兵衛や黒田官兵衛のように、戦場で緻密な作戦を立案し、謀略を巡らせる参謀役を想起することが多い。しかし、戦国時代における軍師にはもう一つの潮流があった。それが「軍配者」である [6]。

軍配者とは、陰陽道、天文学、気象学、易学といった知識を駆使し、合戦の日時や方角の吉凶を占い、軍陣の配置を決定する専門家であった [7, 8, 9]。彼らが手に持つ軍配団扇は、単に兵を指揮するための道具ではなく、軍神を招き、神仏の加護を祈るための祭具としての意味合いも強かった [9, 10]。彼らは戦の勝敗を天意に問い、超自然的な力をもって自軍を勝利に導く、卜占的・呪術的な役割を担っていたのである。薩摩の島津氏における川田駿河守、甲斐の武田氏における山本勘介などと並び、角隈石宗は豊後大友氏を代表する軍配者として、その名が挙げられている [11]。

2-2. 石宗の広範な知識体系

角隈石宗の特異性 は、単なる卜占師に留まらなかった点にある。彼の知識は、呪術的な領域から、極めて実用的な学問領域にまで及んでいた。

第一に、彼は武田流や小笠原流といった、当代一流とされた兵法に深く精通していた [4]。これは、彼が戦術論や陣形論といった具体的な軍事学にも明るかったことを示している。

第二に、そして彼の能力を最も特徴づけるのが、自然科学的な知識である。彼は気象予測、天文学、易学といった分野で傑出した能力を発揮した [4, 12, 13, 14]。特にその気象予測の精度は高く評価されており、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、石宗がその知識を弟子ではない人間にも教えていたという興味深い記述が残されている [4]。この事実は、彼の気象学が一部の者にしか伝えられない秘術の類ではなく、ある程度客観性と再現性を持つ体系化された学問であった可能性を示唆する。

一方で、石宗には「妖術」を操ったとする伝説も残されている。一心に祈ることで空から脇差を降らせたり、風を自在に操ったりしたという逸話である [2]。これらの伝説は、後世の軍記物語による創作か、あるいは手品のようなトリックを用いた演出であった可能性が高い。しかし、こうした伝説が生まれた背景こそが重要である。彼の持つ高度な自然科学的知識、とりわけ気象に関する知見は、当時の人々の理解をはるかに超えていた。天候は行軍の可否、兵糧の輸送、そして火縄銃や水軍の運用効率を左右する、極めて重要な軍事情報である。雨が降る正確な時刻や風向きの変化を予測できる能力は、戦の勝敗に直結する。この実用的かつ驚異的な能力が、当時の兵士や武将たちの目には人知を超えた「妖術」や「異能」として映ったと考えるのが自然であろう。石宗の「妖術」伝説とは、彼の科学的知識の高さと、それがもたらす軍事的効果を、当時の人々が神秘的な言葉で表現した結果に他ならない。

2-3. 弟子たちとの関係

石宗の知識と影響力は、大友家中の次代を担う武将たちにも及んでいた。その筆頭が、大友家の重鎮であり、「鬼道雪」の異名で恐れられた猛将・立花道雪(当時は戸次鎮連)である。『大友興廃記』は、道雪が石宗の弟子であったと伝えている [4, 5]。戦場で兵を率いて策略を練る、いわば参謀型の軍師であった道雪 [2, 15] と、天を読み吉凶を占う軍配者であった石宗が師弟関係にあったという事実は、大友家において新旧二つのタイプの軍師が共存し、相互に影響を与え合っていたことを示しており、非常に興味深い。

さらに、後世の軍記物である『明智軍記』には、明智光秀が若き日の武者修行の折、豊後国に立ち寄り、石宗から軍略や鉄砲術を学んだという記述まで存在する [4]。この逸話は史実としての信憑性は低いものの、石宗の名声が、鎮西(九州)の地を越えて、畿内にまで届いていた可能性を示す一つの傍証と見ることもできるだろう。

第三章:大友家中の柱石――人格と評価

角隈石宗が単なる知識や技能に優れた専門家でなかったことは、彼に向けられた同時代人の評価から明らかである。その評価は、大友家中に留まらず、文化的背景を全く異にする異国の宣教師や、敵対する勢力にまで及んでいた。

3-1. 国内外の史料が伝える卓越した人格

石宗の人格を伝える上で最も貴重な証言の一つが、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』に見られる。フロイスは、キリスト教とは異なる価値観を持つ石宗に対し、驚くほど客観的かつ敬意に満ちた筆致で記述している。彼は石宗を「日本の諸宗派のことに通暁しており、宗麟、その子息義統、ならびに豊後のすべての武将たちから、尊敬を通り越してほとんど尊崇されている」と記した [4]。異教徒である宣教師の目から見ても、石宗の徳の高さは疑いようのないものであった。さらにフロイスは、石宗が「道理をもって人に説く」人物であるとも評しており [4]、その論理的な思考と対話の姿勢を高く評価していたことがわかる。

この評価は、日本側の記録によっても見事に裏付けられている。大友家の興亡を描いた『大友興廃記』は、石宗を「誠に真俗倚頼(しんぞくいらい)、文武の達人なり」と評した [4]。「真俗倚頼」とは、武士(真)も俗人(俗)も皆が頼りにする存在という意味であり、彼が身分を問わず広く信頼されていたことを示す。また、大友氏と敵対した龍造寺氏や島津氏に近い佐賀藩で編纂された『歴代鎮西志』でさえ、「軍識を得た大友の師範で、性質は篤実にて、大度兼備の功臣なり」と、最大級の賛辞を贈っている [4]。

これらの評価を統合し、石宗の人物像を最も的確に表現する言葉が「道学兼備の人」であろう [4, 14]。「学」が兵法、天文学、易学といった専門知識を指すのに対し、「道」は礼儀作法や人としての倫理観、すなわち人間学を指す。石宗は、単に知識を切り売りする知識人ではなく、深い人間性と高潔な倫理観を兼ね備えた人格者として、敵味方の垣根を越えて尊敬を集めていたのである。

以下の表は、背景の異なる主要な史料が、角隈石宗の人物像をどのように評価しているかをまとめたものである。これにより、彼への高い評価がいかに普遍的なものであったかが明らかになる。

史料名

成立背景

筆者の立場

石宗への評価(能力・知識面)

石宗への評価(人格・倫理面)

引用元

『フロイス日本史』

イエズス会による布教活動記録

ポルトガル人宣教師

気象予測を教えるほどの専門家

日本の宗派に通暁し、道理を重んじ、全ての武将から尊崇されている

[4]

『大友興廃記』

大友氏改易後に成立した軍記物

旧臣の一族

文武の達人、軍学の師範

誠に真俗倚頼(武士も俗人も頼る存在)

[4]

『歴代鎮西志』

佐賀藩士による九州史

龍造寺・鍋島家臣

軍識を得た大友の師範

性質は篤実にて、大度兼備の功臣なり

[4]

『北肥戦誌』

佐賀藩士による龍造寺史

龍造寺家臣

(間接的に)島津義久が年来の友人と呼ぶほどの人物

義久が涙を流すほどの人物

[4]

3-2. 宗麟のキリスト教傾倒との関係

このように家中から絶大な尊崇を集めていた石宗であったが、主君・宗麟の晩年における急激な変化は、二人の間に見えざる溝を生み出していった。宗麟は、当初は南蛮貿易の利益のために宣教師を保護していたが、次第にキリスト教の教義そのものに深く傾倒していく [16, 17, 18]。

この宗麟の変化は、日本の伝統的な神仏や陰陽道の世界観に深く根差した専門家である軍配者・石宗の立場とは、明らかに相容れないものであった。一部の史料は、宗麟がキリスト教に入信して以降、石宗が次第に遠ざけられるようになったと示唆している [1]。宗麟が日向の地で目指したとされる「キリスト教理想国」の建設と、その過程で進められた神社仏閣の徹底的な破壊 [19] は、石宗が「日本の諸宗派に通暁」し、尊重してきた伝統的価値観を根底から覆す行為であった。来るべき耳川の戦いにおける両者の対立は、単なる戦術上の意見の相違に留まらず、この根深い思想的・宗教的な亀裂が、国家の存亡を賭けた局面でついに表面化したものと解釈することができる。

第四章:耳川の戦い――忠臣の諫言と悲劇的結末

天正6年(1578年)、大友家の運命を、そして角隈石宗の生涯を決定づける戦いが起こる。日向国における島津氏との激突、世に言う「耳川の戦い」である。この戦いにおける石宗の言動は、彼の忠誠心と絶望、そして壮絶な覚悟を物語っている。

4-1. 日向出兵の背景

この大規模な軍事行動の直接の引き金は、薩摩の島津氏に本拠地を追われた日向の伊東義祐が、縁戚である宗麟を頼り、旧領回復のための救援を要請したことであった [2, 16]。しかし、宗麟の胸中には、単なる領土拡大や同盟者救済に留まらない、より壮大な野望が渦巻いていた。フロイスの記録によれば、宗麟はこの日向の地に、キリスト教の教えに基づく理想国家を建設するという、個人的な野望を抱いていたとされる [16, 18, 19, 20]。この宗教的情熱と、九州全土の統一という野心が、冷静であるべき戦略判断を大きく曇らせることになった。

この無謀とも言える出兵計画には、石宗だけでなく、家中の多くの重臣が反対の意を唱えていた [16]。当時の大友家臣団は、宗麟のキリスト教への過度な傾倒を巡って一枚岩ではなく、反キリスト教派の重臣たちとの間に深刻な不協和音が生じていた [16, 18, 19]。指揮系統にすら乱れが生じている中での大遠征は、始まる前から大きな不安要素を内包していたのである。

4-2. 石宗の諫言と、その論拠

主君の決意が固いことを知った石宗は、軍議の席で出兵の延期を強く諫めた。彼の反対理由は、感情論ではなく、彼が専門とする「軍配者」としての知見に深く根差した、具体的かつ多角的なものであった。

  1. 主君の厄年: 宗麟が数え年で49歳であり、陰陽道において大厄とされる年にあたること [2]。
  2. 方位の凶: 大友氏の本拠である豊後から見て、目標地点である日向は「未申(南西)」の方角にあたり、その年の凶方位であること [2]。
  3. 天体の凶兆: 空に彗星が出現しており、これは古来より変事や戦乱の前触れとされる不吉な兆しであること [16]。
  4. 戦略的判断: 敵地である薩摩や大隅の地理、そして島津軍の兵力や士気といった、基本的な情勢調査が不十分であること [16]。

これらの理由は、現代人の感覚からすれば迷信と片付けられがちかもしれない。しかし、天体の動きや自然現象が神仏の意思の現れであると信じられていた当時において、これらは戦の勝敗を左右する極めて重要な判断基準であった。石宗は「軍配者」としての職責を全うし、天道と人道の両面から、今は出兵の時ではないと必死に説いたのである。

4-3. 決別の儀式と最期

しかし、キリスト教の理想に燃える宗麟の耳に、石宗の伝統的価値観に基づく諫言は届かなかった。自らの言葉が聞き入れられないと悟った石宗は、出陣に際して、壮絶な決意を示す行動に出る。彼は、長年にわたって書き溜めてきた自らの兵法書や秘伝の書を、一巻残らず火中に投じて焼き捨てたのである [4, 13]。

この行為は、単なる自暴自棄ではない。それは、自らの知識と経験の全てを捧げて諫言したにもかかわらず、それが退けられた以上、その知識はもはや無価値であるという、主君への最後の、そして最大の抗議であった。同時に、主君の誤った決定に、自らの命を賭して最後まで従うという、悲壮な覚悟の表明でもあった。あるいは、自らの知識の集大成をこの世から抹消することで、主君の判断の誤りを後世に証明する術を、自ら断ち切ったのかもしれない。

かくして、石宗は死を覚悟して日向の戦場へ赴いた。そして、大友軍が島津軍の巧みな釣り野伏戦法にはまり、高城川(耳川)の河原で総崩れとなる中、奮戦の末に討ち死にした [4]。彼を討ち取ったのは薩摩の武士・本郷忠左衛門と伝わるが、本郷は討ち取った相手が当代随一の軍師・角隈石宗その人であると知ると、その首を丁重に扱い、その御霊を大明神として祀ったという [4]。

4-4. 敵将・島津義久の敬意

石宗の名声と人格は、敵方にまで広く知れ渡っていた。戦後、石宗の首が敵将・島津義久のもとへ届けられた際、義久はその首を見て「この僧は、私の年来の友人であった」と語り、涙を流したと『北肥戦誌』は伝えている [4]。また、『歴代鎮西志』によれば、義久は石宗の死を深く憐れみ、自らその廟を建立して菩提を弔ったともいう [4]。

これらの逸話の細部に創作が含まれる可能性は否定できない。しかし、敵将であった島津義久が、石宗に対して深い敬意を抱いていたという話が、複数の異なる史料に記録されている事実は重要である。それは、角隈石宗という人物が、単なる大友家の家臣という枠を超え、鎮西の地に生きる武士たちから広く尊敬される、傑出した存在であったことを何よりも雄弁に物語っている。

この耳川での大敗と石宗の死は、単に大友家の有能な将兵を数多く失ったという軍事的な損失に留まらなかった。それは、大友家臣団の結束を内側から崩壊させる決定的な一撃となったのである。フロイスの記録にもあるように、家中の「全ての武将から尊崇され」ていた石宗は、まさに家臣団の精神的なまとめ役、組織の倫理的な支柱であった。そのような重鎮を、主君の独断と野心によって失ったという事実は、残された家臣たちの宗麟への信頼を決定的に損なわせた。事実、この敗戦を境に、大友家からは有力国人の離反が相次ぎ、組織は急速に瓦解への道をたどる [21, 22]。石宗の死は、大友家という巨大な構造物から、その中心を支える「要石」が抜き取られたにも等しい、致命的な出来事だったのである。

第五章:後世への影響と人物像の形成

角隈石宗の死は、大友家の衰亡を決定づけただけでなく、後世における歴史の語り方にも大きな影響を与えた。特に、江戸時代に成立した軍記物語は、彼の人物像を理想化し、一つの典型的な「悲劇の忠臣」像を創り上げていくことになる。

5-1. 『大友興廃記』が創り上げた歴史観

大友家の興亡を、初代から義統の代まで描いた軍記物語『大友興廃記』は、寛永12年(1635年)に大友氏の旧臣の一族である杉谷宗重によって書かれたとされる [3, 23, 24]。この書物は、大友家衰退の最大の原因を、極めて明確に「宗麟が軍配者である角隈石宗の意見を聞かなかったため」と断じている [3, 25]。

『大友興廃記』は、大友家が改易されたという歴史的「結果」から遡り、その「原因」を宗麟個人の資質、特に「キリスト教への過度な傾倒」と「それに伴う驕り」に帰着させるための、巧みな物語装置として石宗を配置した。この書の中で石宗は、天の理と人の道を知り尽くした、理性的で忠義に厚い完璧な家臣として描かれる。その一方で、宗麟はそうした忠臣の諫言に耳を貸さず、私的な野心のために家を滅ぼす暗君として、対照的に描かれる。この「賢明な忠臣 vs 愚かな君主」という分かりやすい二項対立の構図は、読者に強い印象を与え、大友家滅亡の物語に道徳的な教訓と納得感のある因果関係を付与した。石宗を絶対的な「正義」と「理性」の象徴として描けば描くほど、彼を退けた宗麟の判断の誤りが際立ち、「大友家の滅亡は必然であった」という歴史的結論を、読者にスムーズに受け入れさせることができるのである。『大友興廃記』における石宗像は、史実を反映しつつも、大友家衰亡という歴史的悲劇を説明するための物語的要請によって、意図的に理想化・象徴化された存在であったと言える。

5-2. 創作物における「悲劇の軍師」

『大友興廃記』によって確立された「悲劇の忠臣・角隈石宗」というイメージは、後世に大きな影響を与え続けた。彼の物語が持つ悲劇性と象徴性は、現代に至るまで、多くの歴史シミュレーションゲームや歴史小説などの創作物で繰り返し取り上げられる格好の題材となった [26, 27]。

これらの創作物において、石宗はしばしば、極めて高い能力を持ちながらも、不運にも主君に恵まれずにその才能を発揮しきれずに散っていった「悲劇の軍師」というキャラクター類型で描かれる。彼の存在は、単なる歴史上の一人物という枠を超え、「もし宗麟が石宗の言う通りにしていれば、大友家の運命は変わっていたのではないか」という、歴史のifを想起させる、強力な文化的アイコンとして機能している。角隈石宗の物語は、史実の人物としての評価と、物語の登場人物としての評価が分かちがたく結びつき、歴史の記憶として現代にまで受け継がれているのである。

結論:史実と伝説の狭間に立つ軍師

本報告書で詳述してきたように、角隈石宗は、戦国時代という激動の時代において、極めて稀有な存在であった。彼は、武田流・小笠原流といった当代一流の兵法に加え、占術、天文学、そして実用的な気象学に至るまで、広範な知識体系を身につけた当代随一の「軍配者」であった。しかし、彼の真価は単なる知識の量にあったのではない。その卓越した人格は「道学兼備」と評され、異文化の宣教師や敵将からも尊敬を集めるほど普遍的な徳性を備えていた。彼は、専門技能と高潔な倫理観を兼ね備えた、戦国時代における理想の知識人像を体現していた。

史料から浮かび上がる彼の客観的な実像は、冷静な分析力と日本の伝統的価値観に根差した、優れた専門家としての姿である。一方で、彼の悲劇的な死は、江戸時代の軍記物語『大友興廃記』によって巧みに物語化され、「主君の過ちを一身に背負い、理想に殉じた忠臣」という、伝説的で英雄的なイメージを後世に強く定着させた。

角隈石宗の生涯と死は、単なる一個人の物語に留まらない。それは、大友宗麟が晩年に追求したキリスト教という、当時の日本にとっては異質で普遍的な価値観と、石宗がその生涯をかけて体現した、日本の風土に根差した伝統的・土着的な価値観との、抜き差しならない衝突の象徴であった。そして、その衝突において後者が退けられ、石宗という精神的支柱が失われた時、九州の覇者であった大友家は、その結束力を完全に失い、不可逆的な衰亡の道を突き進むことになった。角隈石宗の物語は、一人の軍師の悲劇を通して、戦国という巨大な時代の転換期に生じた思想の対立と、巨大な組織が内側から崩壊していく力学の恐ろしさを、我々に今なお鮮烈に伝えている。

引用文献

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  2. 【戦国軍師入門】角隈石宗――秘伝を火中に投じて散った軍配者の無念 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2022/06/08/170000
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  6. 戦国時代に活躍した軍師の実像とは - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1750
  7. 角隈石宗と戦国時代>角隈石宗と軍配者の盛衰 | ブックライブ https://booklive.jp/product/index/title_id/359957/vol_no/001
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  10. 采配・軍配とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/65982/
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  26. 第140話 怪人 角隈石宗 - 『転生したら弱小領主の嫡男でした!!元アラフィフの戦国サバイバル~時代・技術考証や設定などは完全無視です!~』(姜維信繁) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330655393577399/episodes/16817330656847223429
  27. 【真 戦国炎舞】角隈石宗R12の性能 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/sengokuenbu/article/show/105174