贄川重有は木曾氏の譜代家臣。天正壬午の乱で主君木曾義昌を裏切り、宿敵小笠原貞慶に内通。小笠原軍を木曾谷へ先導するも、木曾軍の鉄砲に倒れ非業の死を遂げた。
戦国時代の歴史物語は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人や、彼らと覇を競った著名な大名たちの興亡を中心に語られることが常である。しかし、その華々しい表舞台の陰には、時代の大きなうねりの中で、自らの一族と領地の存亡を賭けて苦渋の決断を下した、無数の在地領主や家臣たちが存在した。彼らの名は歴史の教科書に記されることは稀であり、その生涯は断片的な史料や地域の伝承の中に、かすかな痕跡を留めるに過ぎない。本報告書で光を当てる信濃国木曾谷の武将、贄川重有(にえかわ しげあり)もまた、そうした歴史の狭間に消えていった一人である。
贄川重有に関する記録は極めて少ない。一般的には、「木曾家の譜代の臣でありながら、宿敵である小笠原貞慶(おがさわら さだよし)に内通し、その軍勢を木曾谷へ先導した末に、かつての同胞が放った鉄砲の弾に倒れた裏切り者」として記憶されている。この評価は、彼の行動の結果だけを捉えれば、決して間違いではない。しかし、なぜ彼は主君を裏切り、敵の先導役という汚名を着てまで、破滅的な道を選ばなければならなかったのか。彼の行動は、単なる個人の野心や不忠義として片付けられるべきものなのだろうか。それとも、すべてが流動化する乱世を生きる者として、他に選択の余地がない、ある種の合理的な選択であったのだろうか。
本報告書は、この問いに答えることを目的とする。そのためには、贄川重有という一個人の資質を問うだけでは不十分である。彼が属した贄川氏の出自と、その所領が持つ地政学的な意味合いを理解し、彼の決断の舞台となった天正十年(1582年)という年が、日本の歴史上でも稀に見る激動の年であったことを認識する必要がある。武田氏の滅亡、本能寺の変という巨大な権力の崩壊が連鎖し、信濃国全域が権力の空白地帯と化した「天正壬午の乱」。この未曽有の混乱期における諸勢力の力学を解き明かすことによって、初めて贄川重有の「裏切り」の背景にある構造が見えてくる。断片的な史料をつなぎ合わせ、彼が生きた時代の政治的・軍事的文脈の中にその行動を位置付けることで、一人の武将の決断の真相に迫りたい。
贄川重有の行動を理解する第一歩は、彼がどのような一族に生まれ、いかなる地理的環境に置かれていたかを知ることにある。彼の決断は、彼個人に帰せられるものであると同時に、贄川氏という血族と、贄川という土地が背負った宿命によって、強く方向付けられていたと考えられるからである。
贄川氏は、単なる木曾氏の被官ではなかった。その祖は、南北朝時代の動乱期に木曾谷を治めた木曾宗家の当主、木曾家村の四男・家光に遡る 1 。すなわち、贄川氏は木曾源氏の血を引く、由緒正しい庶流一門だったのである。この事実は、贄川氏の立場を考察する上で極めて重要な意味を持つ。
血縁で結ばれた庶流という立場は、宗家に対する強い忠誠心と一体感の源泉となる。彼らは木曾谷という共同体の防衛と繁栄において、他の家臣団とは一線を画す中核的な役割を担っていたはずである。宗家の権威は、こうした庶流一門の支えによって成り立っていたと言っても過言ではない。
しかし、この関係は常に安定していたわけではない。庶流という立場は、裏を返せば、宗家の政策や当主の器量に対する不満や疑念が生じた場合、より深刻な内紛の火種となりうる両義的な性格を孕んでいた。単なる家臣であれば主家を見限って他家に仕官することも可能だが、血縁と土地に縛られた庶流にとって、宗家との対立は一族の分裂、ひいては共倒れに直結する危険な賭けであった。贄川重有の行動を理解する上で、この「近しすぎるがゆえの葛藤」という視点は欠かせない。彼の決断の背後には、宗家に対する積年の不満や、主君・木曾義昌の将来性に対する根本的な不信感があった可能性も視野に入れる必要があるだろう。
贄川氏が本拠とした贄川(現在の長野県塩尻市楢川地区)は、木曾谷の地政学を考える上で、他のどの地域よりも重要な意味を持つ場所であった。中山道が松本平から木曾谷へと入る北の玄関口に位置し、古くから人や物資の往来を監視するための関所が設けられていた 1 。木曾氏にとって、この地は筑摩・安曇郡を支配する小笠原氏など、北方からの敵の侵入を防ぐための最前線であり、防衛上の生命線とも言える拠点であった。贄川を失うことは、木曾谷の心臓部である木曾福島への道を敵に開け渡すことを意味した。
この軍事的重要性は、同時に贄川氏に絶え間ない緊張を強いることにもなった。彼らは常に、国境の向こう側で勢力を拡大する潜在的な敵と直接向き合わなければならなかった。平時であれば交通の要衝として利益を享受できるが、ひとたび緊張が高まれば、真っ先に戦火に晒される危険な場所でもあった。
さらに、贄川の重要性は軍事的な側面だけにとどまらない。贄川宿は中山道有数の宿場町として栄え、特に木曽漆器の生産と交易で知られていた 2 。これは、贄川氏の支配基盤が、軍事力だけでなく、街道の安定とそれに伴う商業活動に大きく依存していたことを示唆している。
この地政学的な位置と経済構造こそが、贄川重有の決断を読み解く鍵となる。天正壬午の乱において、木曾氏の最大の敵となった小笠原氏は、まさにその「門」の向こう側、筑摩郡を本拠としていた 3 。したがって、贄川重有は、木曾谷の他のどの家臣よりも直接的かつ継続的に、小笠原氏の軍事的圧力に晒されていたはずである。いつ終わるとも知れない緊張状態は、彼の心身を疲弊させ、将来への不安を増大させたに違いない。
加えて、経済的な動機も無視できない。小笠原氏との対立が激化し、戦争が現実のものとなれば、中山道は封鎖され、人や物の流れは途絶える。それは贄川宿の経済的繁栄の終焉を意味し、ひいては領主としての贄川氏の経済基盤そのものを崩壊させる。重有の決断には、単に軍事的な優劣を見極めて勝ち馬に乗るという判断だけでなく、自領の民の生活と経済を守るため、という領主としての極めて現実的な動機が強く働いていた可能性が高い。彼の「裏切り」は、最前線の領主が抱える「地政学的宿命」と「経済的存立基盤の維持」という、抗いがたい二重のプレッシャーから生まれた、必然の帰結だったのかもしれない。
贄川重有の個人的な決断は、天正十年(1582年)という、日本の歴史上でも稀に見る激動の時代背景と分かちがたく結びついている。この年、信濃国とその周辺では、長年地域を支配してきた権威が次々と崩壊し、それに代わる新たな秩序が定まらない、まさに権力の空白地帯が生じた。この未曽有の混乱は「天正壬午の乱」として知られ、在地領主たちは生き残りを賭けて、昨日までの主君や同盟者を裏切り、新たな主を求めて離合集散を繰り返した。重有の行動も、この巨大な地殻変動の渦中で発生した一つの事象として捉える必要がある。
この章では、武田氏の滅亡から本能寺の変を経て、徳川・北条・上杉の三大勢力が信濃の覇権を争うに至るまでの過程を俯瞰し、特に木曾義昌と小笠原貞慶の対立が先鋭化していく様子を追う。以下の年表は、その複雑な状況を整理したものである。
表1 天正壬午の乱(天正十年)における信濃・木曾周辺の主要動向年表
年月 |
木曾義昌の動向 |
小笠原貞慶の動向 |
関連勢力(徳川・上杉・北条)の動向 |
出来事の意義 |
2月 |
主家・武田勝頼から離反。織田信忠軍を木曾谷へ引き入れ、鳥居峠で武田軍を撃破する 5 。 |
(武田氏の人質として甲斐に滞在中) |
織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始される 7 。 |
木曾氏の武田氏からの離反が、武田氏滅亡の引き金の一つとなる。 |
3月 |
甲州征伐の功績により、織田信長から安曇・筑摩二郡の支配を認められる 3 。 |
(武田氏滅亡に伴い解放される) |
武田氏滅亡。信長による信濃国の新領国体制が構築される 7 。 |
木曾氏と、筑摩郡を旧領とする小笠原氏との間に、潜在的な対立構造が生まれる。 |
6月 |
(本能寺の変)信長死後の混乱に乗じ、上杉景勝の支援を受けた小笠原氏に深志城(松本城)を奪われ、木曾谷へ撤退する 3 。 |
叔父・小笠原洞雪斎が上杉景勝の支援を得て、義昌から深志城を奪還する 4 。 |
本能寺の変が発生。信濃国は一気に権力の空白地帯となり、在地領主が自立化する。 |
権力構造の崩壊と、信濃を巡る新たな争乱の開始。 |
7月 |
(木曾谷に逼塞し、小笠原氏と対峙) |
徳川家康の支援を受け、叔父を追放して深志城主となる。城を「松本城」と改名し、旧領回復を宣言する 3 。 |
徳川、北条、上杉の三大勢力が、信濃の国人衆を味方に引き入れつつ、領土を巡り角逐を開始する 4 。 |
小笠原氏が徳川氏と連携して旧領を回復。木曾氏との対立が決定的なものとなる。 |
8月以降 |
(小笠原氏との対立が激化) |
徳川氏の後ろ盾を得て、木曾谷への侵攻を計画。贄川重有の内通を取り付ける。 |
徳川・北条間で黒駒合戦などが発生。信濃の覇権争いが本格化する 8 。 |
贄川重有の内通により、小笠原氏による木曾侵攻が現実のものとなる。 |
贄川重有の行動を評価する上で、その主君である木曾義昌が、彼に先んじて「裏切り」を行っていたという事実は見過ごせない。天正十年二月、義昌は、武田信玄の娘を正室に迎え、武田一門に準ずる厚遇を受けていたにもかかわらず、主家である武田勝頼を見限り、織田信長に寝返った。そして織田軍の先鋒として、武田方が守る鳥居峠を攻略し、甲州征伐の突破口を開いたのである 5 。
この義昌の行動は、織田・武田の圧倒的な国力差を考えれば、一族の生き残りを賭けた冷徹な政治判断であり、戦国乱世における生存戦略としては十分に合理的であった。しかし、この決断は同時に、「主君への忠誠」という、武家社会の根幹をなす価値観を、義昌自らが相対化するものでもあった。主君が生き残りのために、恩義ある主家を裏切るという前例は、その家臣である贄川重有が、自らの生き残りのために主君を裏切るという決断を下す際の、心理的な障壁を著しく低くした可能性がある。義昌の行動は、木曾家の家臣団に対し、「忠誠は絶対的なものではなく、状況に応じて乗り換えることが許される」というメッセージとして受け取られたとしても不思議ではない。
義昌の裏切りは、短期的には成功を収めた。武田氏滅亡後、信長は義昌の功に報いるため、信濃国の中核地帯である筑摩・安曇の二郡を彼に与えた 3 。しかし、この恩賞こそが、木曾氏にとって新たな、そしてより深刻な対立の火種を抱え込む結果となった。筑摩郡は、かつて武田信玄によって信濃を追われた、府中小笠原氏の本拠地だったのである。
この信長の裁定は、小笠原氏の旧領回復の望みを完全に断ち切るものであり、両者の間に決定的な対立構造を生み出した。そして、天正十年六月二日、本能寺の変で信長が横死すると、この対立は即座に表面化する。信長という絶対的な権威が消滅した途端、信濃は再び弱肉強食の世界へと逆戻りした。
まず動いたのは、越後の上杉景勝であった。景勝は小笠原貞慶の叔父・洞雪斎を支援し、義昌が守る深志城(現在の松本城)を攻略させた。さらに七月には、徳川家康の後ろ盾を得た小笠原貞慶自身が深志城に入り、叔父を追放して名実ともに城主となった 3 。故郷を回復した貞慶は、城の名を「松本城」と改め、旧臣を糾合して勢力を拡大し始めた。一方、最大の支援者であった信長を失い、与えられたばかりの領地も奪われた義昌は、なすすべもなく木曾谷へと撤退し、孤立を深めていった。
この一連の出来事を通じて、両者の立場は劇的に変化した。当初、義昌は信長の威光を背景にした「正当な領主」であり、貞慶は領地を失った「亡命者」であった。しかし本能寺の変後、貞慶は「旧領回復」という、誰の目にも分かりやすい大義名分を掲げて行動した。これは、信濃への進出を目論む徳川家康にとっても、自らの介入を正当化する格好の口実となった。結果として、義昌は信長の死によって正当性を失った「簒奪者」、貞慶は新たな覇者となりうる家康の支援を受ける「正統な領主」という、価値の逆転が生じたのである。
贄川重有は、この二人の領主の狭間で、自らの進むべき道を選択しなければならなかった。一方は、大義名分を失い、木曾谷に孤立しつつある現主君・木曾義昌。もう一方は、「旧領回復」という正当性を持ち、次代の支配者である徳川家康の強力な支援を受ける小笠原貞慶。この状況下で、重有が後者に未来を賭けたことは、驚くにはあたらない。彼の「裏切り」は、単なる主君への個人的な反逆というよりも、「失墜した正当性」から「勃興しつつある正当性」へと乗り換える、時代の流れを読んだ極めて政治的な判断であったと評価できる。彼は「裏切り者」であると同時に、新たな秩序への「鞍替え」をいち早く実行した、冷徹な現実主義者だったのである。
天正壬午の乱という激動の渦中、木曾谷の北の守り手であった贄川重有は、主君・木曾義昌を見限り、宿敵・小笠原貞慶に内通するという重大な決断を下す。この行動は、木曾氏の運命に決定的な影響を与え、また重有自身の悲劇的な最期へと繋がっていく。彼の内通は、衝動的なものではなく、複数の要因が複雑に絡み合った末に導き出された、必然的な帰結であったと考えられる。
前章までの分析を統合すると、贄川重有が内通に至った動機は、以下の四つの側面に集約することができる。
第一に、 軍事的現実主義 である。本能寺の変後、木曾義昌は最大の庇護者であった織田信長を失い、与えられたばかりの筑摩・安曇郡も小笠原氏に奪還され、木曾谷に孤立した 3 。その一方で、小笠原貞慶は徳川家康という、次代の天下人に最も近い勢力と強固な同盟関係を築き、その勢いは増すばかりであった 3 。重有は、両者の将来性を見比べ、もはや義昌に未来はなく、貞慶に味方することこそが一族の存続に不可欠であると、冷徹に判断したのだろう。
第二に、 地政学的必然性 である。第一章で述べた通り、贄川は木曾谷の最前線であり、小笠原氏の圧力を最も直接的に受ける場所であった 1 。対立が続く限り、自領は常に戦火の危険に晒され、領民は安息の日々を送ることができない。この絶え間ないプレッシャーから解放されるには、小笠原氏との和平か、あるいは完全な恭順以外に道はない。重有にとって、内通は領地と領民を守るための、唯一残された選択肢だったのかもしれない。
第三に、 経済的合理性 である。贄川宿の繁栄は、中山道の安定した交通に依存していた 2 。木曾・小笠原間の戦争が始まれば、街道は寸断され、宿場町の経済は破綻する。これに対し、信濃府中(松本)を本拠とし、徳川家康の支援を受けて信濃一帯の安定を担おうとする小笠原氏に付けば、街道の安全は確保され、経済的利益を守ることができる。領主としての重有が、この経済的側面を重視したことは想像に難くない。
第四に、 心理的要因 である。主君である木曾義昌自身が、武田氏を裏切ることで生き残りを図ったという前例は、家臣である重有が主君を裏切ることへの心理的な抵抗感を麻痺させた可能性がある。主君が示した「裏切りによる生存戦略」を、家臣である自らが実践することは、忠義が絶対的な価値を持たなくなったこの時代において、許容されうると考えたとしても不思議ではない。
これらの動機が重なり合った結果、贄川重有は小笠原貞慶への内通を決意した。この事実を記録しているのが、江戸時代に松本藩によって編纂された地誌『信府統記』である 9 。この史料は、小笠原氏の後継藩である松本藩の公式記録であり、その記述には小笠原氏の立場が色濃く反映されている可能性を考慮する必要がある。しかし、敵方の家臣であった贄川重有の内通という、木曾氏にとって不名誉な事実をあえて記録している点は注目に値し、彼の裏切りが歴史的な事実であったことを裏付ける、重要な史料的根拠と評価できる。
贄川重有の内通は、膠着していた木曾・小笠原間の対立を、決定的な武力衝突へと発展させる引き金となった。重有は新たな主君・小笠原貞慶に忠誠を示すべく、その侵攻軍を故郷である木曾谷へと導く役割を担う。しかし、その道程の先に待っていたのは、新体制下での栄光ではなく、あまりにも悲劇的な結末であった。
小笠原軍が木曾谷の中心部である木曾福島を攻略するにあたり、最も合理的かつ伝統的な侵攻路は、松本平から贄川を通り、鳥居峠を越えて南下する中山道ルートであった。このルートの最大の難関は、木曾谷の入り口に位置する贄川の関門と、険しい山道が続く鳥居峠の防衛線である。
贄川重有の内通は、この最大の障害を無力化する上で、計り知れない戦略的価値を小笠原軍にもたらした。彼は単に地理的な情報を提供しただけではない。彼が小笠原方に寝返ったことで、木曾方の最重要拠点である贄川は、戦わずして開城された可能性が高い。これにより、小笠原軍は木曾谷への安全な進軍路を確保し、木曾方の防衛計画を根底から覆すことに成功したのである。
この意味において、重有は単なる「道案内」ではなかった。彼は、堅固に閉ざされていたはずの木曾谷という城の門を、内部から開け放つ「破城槌」そのものであった。彼の裏切りがなければ、小笠原軍の木曾侵攻は、より多くの困難と犠牲を伴うものになっていたことは間違いない。彼の行動は、戦局を一方的に有利にする、決定的な一撃だったのである。
伝承によれば、贄川重有は小笠原軍の木曾侵攻において、その先陣に立ったとされる。そして、鳥居峠、あるいはその周辺で繰り広げられた戦闘の最中、迎え撃つ木曾軍の鉄砲に撃たれて命を落としたと伝えられている。
この最期の状況は、彼の置かれた複雑な立場を雄弁に物語っている。険しい山道での戦闘において、先陣に立つことは最も危険な任務である。重有は、自らが熟知する地形を活かして小笠原軍を有利に導くと同時に、新たな主君・貞慶への揺るぎない忠誠心を行動で示すために、あえてその危険な役目を引き受けたと考えられる。寝返ったばかりの彼にとって、自らの価値を証明し、新体制の中で確固たる地位を築くためには、目に見える戦功を立てる必要があった。
一方で、迎え撃つ木曾軍にとって、贄川重有は単なる敵兵ではなかった。昨日までの同僚であり、木曾源氏の血を引く名門の当主でありながら、故郷に敵を引き入れた許しがたい裏切り者である。憎悪と侮蔑の念は、ことさらに彼一人に集中したであろう。木曾軍の兵士たちが、数多の敵兵の中から真っ先に重有を標的として狙い撃ちにしたとしても、何ら不思議はない。
彼の死は、様々な解釈を可能にする。小笠原貞慶が、裏切り者である重有を完全には信用せず、その忠誠心を試すために、意図的に最も危険な配置につかせた(いわゆる「捨て駒」にした)という見方もできる。あるいは、重有自身が、過去の裏切りを清算し、新たな主君への忠義に殉じる覚悟で、自ら進んで死地に赴いたのかもしれない。
いずれにせよ、確かなことは、彼の死が乱世における「鞍替え」の代償の大きさを示しているという点である。新たな主君に忠誠を誓った者は、その証として、かつての同胞に対して最も過酷な刃を向け、自らも最大の危険に身を晒さなければならなかった。贄川重有の悲劇的な最期は、生き残りを賭けた合理的な選択が、必ずしも個人の幸福や生存に結びつくとは限らないという、戦国時代の非情な現実を象徴している。
贄川重有の生涯は、主君を裏切り、敵を故郷に引き入れた末に、かつての同胞に討たれるという、悲劇的な結末を迎えた。彼の行動は、主観的には、激動の時代の中で自らの一族と領民を守るために下した、苦渋に満ちた最善の選択であった可能性が高い。しかし、歴史は彼を「裏切り者」として記憶し、その名は木曾谷の地に汚名として刻まれることとなった。
彼を単に「不忠の臣」として断罪することは容易である。しかし、天正壬午の乱という、あらゆる権威が崩壊し、明日をも知れぬ極度の混乱期において、絶対的な「正義」や不変の「忠誠」は存在し得なかったのではないか。木曾義昌が武田を裏切ったように、真田昌幸が織田、北条、上杉、徳川と主君を次々に変えたように、当時の武士たちは誰もが自らの存続をかけて、昨日までの敵と手を結び、主君を見限ることをためらわなかった。贄川重有の行動は、決して特殊なものではなく、その時代の武士たちが置かれた過酷な状況と、彼らが共有していた生存論理を、一個人のレベルで体現した一つの事例として捉えるべきであろう。
彼の決断の背景には、木曾谷の北門を守るという地政学的な宿命、街道交易に依存する経済構造、そして主君・木曾義昌の将来性への絶望があった。これらは、一個人の野心や倫理観を超えた、構造的な要因である。彼の悲劇は、個人の選択が、時代の大きなうねりといかに分かちがたく結びついているかを我々に教えてくれる。
歴史の片隅に追いやられた贄川重有のような人物の生涯を丹念に追うことの意義は、ここにある。それは、天下人たちの華々しい戦いの記録だけからは見えてこない、より生々しく、人間的な葛藤に満ちた「もう一つの戦国史」を垣間見せてくれる。彼の物語は、忠誠と裏切り、大義と私利、そして生存という、時代を超えて人間が直面する根源的な問いを、我々に突きつけているのである。贄川重有は、成功した英雄ではないかもしれないが、その苦悩に満ちた選択と悲劇的な最期は、戦国という時代の本質を理解する上で、貴重な示唆を与え続けている。