赤井時家
赤井時家は丹波赤井氏当主。細川氏の内紛で一時亡命も帰還。嫡男家清の早逝後も惣領として一族の結束を保ち、弟直正の台頭を支えた。

戦国期丹波の雄、赤井時家に関する総合的調査報告
1. はじめに
- 本報告書の目的と対象
本報告書は、戦国時代に丹波国で活動した武将、赤井時家(あかい ときいえ)について、現存する史料や研究成果に基づき、その出自、生涯、活動、関連人物、そして一族の盛衰に至るまでを詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とします。赤井時家は、子である荻野(赤井)直正の武名に隠れがちですが、丹波赤井氏の当主として、激動の時代を生きた重要な人物です。
- 調査の範囲と主要参考文献の概観
調査範囲は、赤井時家の生きた時代(概ね15世紀末から16世紀後半)の丹波国及び関連地域の動向、並びに赤井氏の系譜と子孫の足跡に及びます。主要な参考文献として、古文書では『守光公記』、『荻野文書』、『久下文書』、『宝鏡寺文書』、『言継卿記』、『多聞院日記』など、編纂史料では『寛政重修諸家譜』、そして現代の研究論文(特に船越昌氏の研究 1 )などを参照します。これらの史料を比較検討し、多角的な視点から赤井時家の実像に迫ります。
2. 赤井氏の出自と丹波における基盤
- 2.1. 赤井氏の系譜的出自:清和源氏頼季流の伝承
諸系図、例えば江戸幕府によって編纂された『寛政重修諸家譜』などによれば、赤井氏は清和源氏頼季を祖とし、その孫である家満(または家光)が信濃国から丹波国へ流罪となり、芦田(あるいは井上)を名乗ったと伝えられています 1 。その後、為家という人物の代に丹波国氷上郡新郷(現在の兵庫県丹波市氷上町新郷)に居住し、初めて赤井姓を称したとされます 1 。また、丹波の有力国人である荻野氏も赤井氏の分家とされ、系図上では赤井氏、芦田氏、荻野氏は同族として扱われています 1 。
しかしながら、史料を詳細に検討すると、芦田氏や荻野氏の名前は鎌倉時代の文書にも見られるのに対し、「赤井」という姓が歴史の表舞台に登場するのは戦国時代に入ってからとなります 1 。この事実は、赤井氏の系譜上の記述と史料上の出現時期との間に一種のずれを示唆しています。戦国時代以降の赤井氏が発給した文書の中には、本姓として芦田姓を用いている例が見受けられることから、赤井氏が自らを芦田氏の流れを汲むものと認識していたことは事実と考えられます 1 。
この系譜上の主張と史料上の出現時期の差異は、赤井氏の成り立ちについていくつかの可能性を示唆します。一つには、赤井氏が元々芦田氏や荻野氏といった丹波の在地領主と血縁的、あるいは地縁的に深い繋がりを持つ一族であり、戦国時代の動乱の中で急速に勢力を伸張させた新興勢力であった可能性です。その過程で、自らの権威を高め、支配の正当性を補強するために、清和源氏という名門の系譜に連なった、あるいは後世の系図編纂においてそのように位置づけられたという解釈が成り立ちます。戦国時代においては、実力で台頭した国人が既存の名門の系譜に自らを接続させることは、支配者としての権威を確立するための常套手段の一つでした。赤井氏もまた、その一例であった可能性は十分に考えられるでしょう。
- 2.2. 活動拠点:丹波国氷上郡後屋城
赤井氏の初期の活動拠点、すなわち本貫地は、丹波国氷上郡の「赤井野」と俗称された後屋城(ごやじょう)周辺であったとされています 2 。この城は現在の兵庫県丹波市氷上町新郷付近に比定されており、赤井時家もこの後屋城を拠点として氷上郡を中心に勢力を保持していました 3 。
後屋城は、後に時家の子である荻野直正が拠点とし、その武名を轟かせることになる黒井城(丹波市春日町)とは異なる城です 4 。後屋城は、赤井氏が丹波の国人領主として本格的な活動を開始した初期の基盤であったと考えられます。赤井氏が氷上郡という特定の地域に深く根ざした領主であったことは、この後屋城を本拠地としていた事実からも裏付けられます。この地理的基盤が、その後の勢力拡大の重要な足がかりとなったことは想像に難くありません。後に見られる黒井城への拠点移動は、赤井(荻野)氏の勢力伸長と、丹波国内における戦略の変化を象徴する出来事であったと言えるでしょう。
3. 赤井時家の生涯と活動
- 3.1. 生没年と家族構成
赤井時家の生没年については、複数の史料や系図で没年が天正9年(1581年)5月8日、その際の享年が88歳であったと記されていることから 7 、逆算すると生年は明応3年(1494年)となります。戦国時代の武将としては際立って長命であったと言えます。この長寿は、彼が直接的な戦闘指揮よりも一族の統率や外交交渉といった側面で能力を発揮した可能性、あるいは単に戦乱の世を生き抜く幸運に恵まれた可能性を示唆しています。いずれにせよ、彼の長い生涯は、赤井氏の勃興から一時的な没落に至るまでの歴史の変遷を見届けることとなり、彼自身が一族の歴史の証人とも言える存在でした。
ただし、『赤井系図』には永正9年(1512年)5月8日没、享年80歳との記述も見られますが 8 、他の史料との整合性や、後述する子・直正の生年(享禄2年・1529年)などを考慮すると、天正9年没説が有力と考えられます。本報告では、天正9年没説を主軸としつつ、異説の存在についても言及するに留めます。
時家の家族構成は以下の通りです。
- 父: 赤井忠家(あかい ただいえ)。通称は五郎、官途名は伊賀守などと伝わります 1 。
- 母: 不明 7 。
- 兄弟: 長家、長正、君家などの名が伝わっています 7 。
- 子: 時家には多くの子がいたことが記録されており、これは戦国時代の武家にとって、家督継承の安定、婚姻による同盟関係の構築、分家による勢力範囲の拡大など、多方面での戦略的意義を持つものでした。
- 赤井家清(いえきよ):嫡男。通称は兵衛大夫 1 。
- 荻野(赤井)直正(なおまさ):次男。幼名は才丸。通称は悪右衛門 3 。
- 赤井幸家(ゆきいえ/こうけ):三男。通称は新八郎、官途名は刑部少輔 8 。
- 山口直之(なおゆき):四男 7 。
- 熊千代(くまちよ) 7 。
- 赤井時直(ときなお) 5 。
時家の子たちのその後の動向を概観すると、嫡男の家清が家督を継承する一方で、次男の直正はその武勇で赤井氏の勢力拡大に大きく貢献し、幸家や山口直之はそれぞれ異なる形で家名を後世に繋いでいくという、ある種の役割分担が見受けられます。これは、時家が当主であった時代に、一族の存続と発展のために多角的な戦略が意識的あるいは無意識的に取られていた可能性を示唆しています。結果として、赤井氏の血脈は多様な形で後世に繋がることになりました。
- 3.2. 丹波を巡る戦乱と時家の動向
赤井時家の活動期は、丹波国もまた中央政局の混乱と深く連動し、戦乱が絶えない時代でした。時家の父・赤井忠家は、室町幕府管領であった細川家の内紛、すなわち細川高国と細川晴元の争いに際して、丹波の有力国人である波多野氏らと共に晴元方として活動しました 1 。公家・中御門宣秀の日記である『守光公記』の永正17年(1520年)3月12日の条には、赤井兵衛大夫(忠家を指すと考えられています)が禁裏御料(皇室領)であった栗作郷(くりつくりごう、現在の丹波市山南町小川地区)を違乱し、押領したという記録があります 1 。これは赤井氏が史料に明確に登場する初見とされ、この頃から既に在地土豪として実力による所領拡大を図っていたことが窺えます。
天文2年(1533年)、細川高国の弟・晴国を奉じた波多野秀忠(植通の子)が、晴元方であった赤井氏の勢力圏である氷上郡に侵攻し、稲継城(いなつぎじょう)を攻撃しました。この戦いで父・忠家は戦死したと推測されています 1 。この敗戦により、赤井一族は一時的に丹波国からの退去を余儀なくされた可能性も指摘されています 7 。
しかし、赤井時家とその子らは丹波に帰還し、失われた所領の回復に努めたようです 1 。その具体的な動きを示すのが、『宝鏡寺文書』に残る天文5年(1536年)頃のものとされる「蔵田時家書状」です 1 。この書状には、時家が氷上郡多利村(たりむら)を「違乱」した、すなわち武力をもって侵入し占拠しようとしたことが記されています。これは、赤井氏が実力によって勢力圏を回復・拡大しようとしていたことを示す貴重な一次史料です。こうした「違乱」や「押領」といった行為は、当時の公権力の弱体化と国人領主の実力主義を背景としており、戦国時代における所領拡大が、幕府や守護といった公権力の許認可を経ない実力行使によって行われることが常態化していたことを示しています。赤井氏もまた、こうした時代の潮流の中で勢力を伸ばした典型的な国人であったと言えるでしょう。
父・忠家と同様に、時家も細川晴元方として活動したことを示す書状が複数残存しています 7 。一方で、当初は敵対関係にあった波多野氏とは、後に戦略的な判断から関係を修復します。時家の嫡男である家清が、波多野晴通(秀忠の兄弟、または子)の娘を娶ることにより、両氏は婚姻同盟を結びました 1 。これは、丹波国内の勢力バランスの安定化や、当時畿内で勢力を拡大しつつあった三好長慶といった共通の脅威に対抗するための、現実的な外交戦略であったと考えられます。年不詳の『波多野文書』に収められている「細川晴元軍勢催促状」には、波多野秀忠が細川氏綱方(高国方)に対抗するために丹波国だけでなく但馬国の軍勢まで動員している様子が記されており、氷上郡を拠点とする時家もこの動きに協力していたと推測されます 1 。赤井時家は、父の代からの細川晴元との関係を維持しつつも、丹波国内の勢力図や中央政局の変動に応じて、巧みに外交戦略を転換させていた様子が窺えます。これは、戦国時代の国人領主が激動の時代を生き残るための現実的な処世術であったと言えるでしょう。
4. 赤井時家をめぐる主要人物
赤井時家の生涯と赤井氏の盛衰を理解する上で、彼を取り巻く一族の人物たちの動向は極めて重要です。
- 4.1. 父・赤井忠家(あかい ただいえ)
赤井時家の父である忠家は、通称を五郎、官途名を伊賀守などと称しました 1。史料における初見は、前述の通り永正17年(1520年)の禁裏御料栗作郷への違乱事件です 1。大永6年(1526年)には、細川高国と細川晴元の抗争において、波多野植通(元清)らと共に晴元方として挙兵し、神尾寺城(京都府亀岡市)の戦いでは高国方の包囲軍を破るなど、武将としての活躍を見せました 1。
忠家の最期については諸説ありますが、天文2年(1533年)5月24日に、波多野氏との稲継城(あるいは母坪城 16)の戦いで戦死したとする説が有力視されています 1。この日付は、氷上郡氷上町谷村(現在の丹波市)に残る忠家の墓碑や、同町新郷の曹洞宗鷲住寺の過去帳・位牌によって伝えられています 1。一方で、『寛政重修諸家譜』では享禄2年(1529年)7月16日没と記されており 1、また天文8年(1539年)に忠家が発給した判物が現存することから、それ以降に没したとする見解も存在します 7。
- 4.2. 嫡男・赤井家清(あかい いえきよ)
赤井時家の嫡男である家清は、通称を兵衛大夫と称しました 1 。生年は大永5年(1525年)とされています 7 。彼は波多野晴通の娘を妻に迎え、赤井氏と波多野氏の同盟関係を強化する役割を担いました 1 。弘治元年(1555年)、丹波国内の芦田氏・足立氏連合軍との間で行われた香良(こうら)合戦において奮戦しましたが、この戦いで深手を負いました 1 。その傷が原因となり、弘治3年(1557年)2月6日に33歳という若さでこの世を去りました 1 。家清の死後、その子である忠家(時家の孫)が幼少であったため、家清の弟にあたる荻野直正が後見人として赤井一族を率いることになります 1 。
- 4.3. 次男・荻野(赤井)直正(おぎの/あかい なおまさ)
赤井時家の次男である直正は、幼名を才丸といいました 10。享禄2年(1529年)に後屋城で生まれたとされています 3。後に母方の姓である荻野氏の養子となった、あるいは荻野氏の名跡を継承したとされ、黒井城主となりました 1。通称は「悪右衛門」で、この「悪」の字は単に悪いという意味ではなく、彼の並外れた勇猛さを示すものとも言われています 3。
天文23年(1554年)、直正は叔父(または養父)にあたる荻野秋清を宴席で刺殺し、黒井城を奪取するという果断な行動に出ます 1。この出来事は、直正のその後の活躍の序章となりました。
兄・家清の死後は、甥である忠家の後見人として赤井・荻野両氏を実質的に統率し、その武勇から「丹波の赤鬼」と称され、恐れられました 1。永禄8年(1565年)には、丹波守護代であった内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取るという大きな戦功を挙げています 1。
織田信長による丹波攻略が始まると、明智光秀が率いる織田軍に対して激しく抵抗し、第一次黒井城の戦いでは、いわゆる「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれる奇策を用いて光秀軍を一度は撃退しました 1。
しかし、天正6年(1578年)3月9日、腫物、あるいは「首切れ庁という病」と伝えられる病により、50歳で陣没しました 1。その墓所は高野山奥の院にあるとされています 11。
- 4.4. 三男・赤井幸家(あかい ゆきいえ/こうけ)
赤井時家の三男である幸家は、通称を新八郎、官途名を刑部少輔と称しました 8 。また、「悪七郎」とも呼ばれたとされます 1 。兄である直正と共に織田勢と戦い、直正の死後は、その子で幼い当主であった直義の後見人を務めました 1 。黒井城が落城した後は、諸国を放浪したと伝えられています 23 。慶長11年(1606年)4月8日に伏見において病死したと記録されています 8 。幸家の子孫は徳川幕府の旗本となったとされ 12 、現代の俳優である赤井英和氏や、その娘でプロレスラー兼モデルの赤井沙希氏がその末裔であると言われています 12 。
- 4.5. 四男・山口直之(やまぐち なおゆき)
赤井時家の四男である直之は 7 、赤井氏から独立し、信濃国山口(現在の長野県木曽郡山口村、現在は岐阜県中津川市に編入)を領して山口姓を名乗ったとされています 13 。その子である山口直友は徳川家康に仕え、旗本山口氏の祖となりました 13 。この系統は、本家とは異なる形で家名を後世に残す戦略であったと考えられます。
- 4.6. その他の子女:熊千代、赤井時直(あかい ときなお)
赤井時家の子として、熊千代 7 と赤井時直 5 の名も伝わっています。熊千代については詳細不明です。赤井時直は直正の弟にあたり 5 、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に、黒井城と余田城(現在の丹波市市島町)に立てこもり、遠く徳川家康に呼応したとされています 5 。これが黒井城における最後の戦闘であったと言われています 14 。
時家の子たちの多様な経歴は、赤井氏が単一の戦略に依存せず、武力による勢力維持(直正)、家督の正統な継承(家清)、そして別家創設による新たな主家への仕官(山口直之、幸家の子孫)など、複数の経路で一族の存続を図ろうとした結果であると解釈できます。これは、戦国時代における国人領主の典型的な生存戦略であり、時家がその基盤を築き、子世代がそれを展開したと言えるでしょう。特に、直正の武勇と、山口直之や幸家の子孫が徳川体制下で旗本として存続したことは、赤井氏の「武」と「政」の両面における適応能力の高さを示しています。
表1:赤井時家関連 主要人物一覧
続柄 |
氏名 |
読み |
生没年(判明分) |
主な事績・備考 |
主要関連史料・情報源 |
父 |
赤井忠家 |
あかい ただいえ |
?~天文2年(1533年)5月24日説など |
丹波赤井氏当主。細川晴元方として活動。稲継城の戦いで戦死か。 |
1 |
本人 |
赤井時家 |
あかい ときいえ |
明応3年(1494年)~天正9年(1581年)5月8日 |
丹波赤井氏当主。後屋城主。所領回復・拡大に努める。多くの子を儲け、赤井氏の発展の基礎を築く。 |
1 |
嫡男 |
赤井家清 |
あかい いえきよ |
大永5年(1525年)~弘治3年(1557年)2月6日 |
波多野晴通の娘婿。香良合戦で負傷し、それがもとで死去。 |
1 |
次男 |
荻野(赤井)直正 |
おぎの(あかい)なおまさ |
享禄2年(1529年)~天正6年(1578年)3月9日 |
黒井城主。「丹波の赤鬼」。内藤宗勝を討ち、明智光秀軍を一度破る。赤井氏最盛期を現出。 |
1 |
三男 |
赤井幸家 |
あかい ゆきいえ/こうけ |
?~慶長11年(1606年)4月8日 |
通称新八郎、刑部少輔。直正死後、後見。黒井城落城後放浪。子孫は旗本。 |
1 |
四男 |
山口直之 |
やまぐち なおゆき |
不明 |
赤井氏から独立し山口姓を名乗る。子・直友が徳川家康に仕え旗本山口氏祖。 |
7 |
子 |
熊千代 |
くまちよ |
不明 |
詳細不明。 |
7 |
子 |
赤井時直 |
あかい ときなお |
不明 |
直正の弟。小牧・長久手の戦いの際、徳川家康に呼応し黒井城で挙兵。 |
5 |
孫(家清の子) |
赤井忠家(幼名:五郎) |
あかい ただいえ |
不明 |
家清死後、幼くして家督を継ぐ。叔父・直正が後見。子孫は旗本。 |
1 |
5. 赤井氏の勢力拡大と衰退
- 5.1. 荻野直正の台頭と赤井氏の最盛期
赤井時家の次男・直正が歴史の表舞台に躍り出るのは、天文23年(1554年)のことです。この年、直正は叔父(あるいは養父ともされる)荻野秋清を宴席で刺殺し、丹波国春日部(現在の丹波市春日町)の黒井城を奪取しました 1 。これにより、赤井氏は従来の拠点であった氷上郡の後屋城に加え、より戦略的価値の高い黒井城を手中に収め、勢力拡大の大きな足がかりを得ました。
弘治3年(1557年)に兄である嫡男・家清が香良合戦の傷がもとで死去すると、直正は家清の遺児で幼い甥の忠家を後見し、赤井・荻野両氏の軍事力を実質的に統率する立場となりました 1 。その武勇は「丹波の赤鬼」と称されるほどであり、永禄8年(1565年)には、丹波守護代であった内藤宗勝(松永久秀の弟で、丹波八木城主)を討ち取るという大きな戦功を挙げます 1 。この勝利により、赤井氏の丹波国における覇権は大きく前進し、当時の記録である『大覚寺門跡義俊副状』には「丹波は直正が平定した」とまで記されるほどでした 1 。
この時期、赤井氏は同じく丹波の有力国人である波多野氏とも連携を深め 1 、丹波国内で広範な影響力を持つに至りました。おおよそ、奥丹波(氷上郡、天田郡、何鹿郡など)を赤井氏が、口丹波(多紀郡、船井郡、桑田郡など)を波多野氏がそれぞれ支配するという勢力図が形成されたと考えられています 1 。さらに元亀2年(1571年)には、隣国但馬の守護であった山名祐豊が丹波に侵攻してきた際にはこれを撃退し、逆に但馬国の竹田城を一時占拠するなど、その勢威を周辺地域にも示しました 1 。この時期が、赤井氏の歴史における最盛期であったと言えるでしょう。
- 5.2. 織田信長の丹波攻略と赤井氏の抵抗
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内に新たな政治秩序を打ち立てようとします。当初、赤井氏を含む丹波の国人の多くは、この新しい動きに対して信長に服属の意を示しました 1 。赤井氏は、信長から丹波奥二郡(氷上郡・天田郡)の所領を安堵されたとされています 1 。
しかし、赤井氏は但馬や丹後方面へも勢力を伸長させており、信長による所領安堵の内容に必ずしも満足していなかった可能性が指摘されています 1 。次第に信長に対する反抗的な姿勢を強め、当時信長と対立していた室町幕府最後の将軍・足利義昭や、甲斐の武田氏、摂津の石山本願寺、中国地方の毛利氏といった反信長勢力と連携を図るようになります 1 。
このような状況下、天正3年(1575年)10月、織田信長は重臣である明智光秀に赤井(荻野)直正の討伐を命じ、第一次丹波攻略が開始されました 1 。この戦いにおいて、当初光秀に従っていた丹波の有力国人・波多野秀治(八上城主)が突如として離反し、直正と連携して光秀軍を挟撃しました。不意を突かれた光秀軍は敗退を余儀なくされ、この戦術は後に「赤井の呼び込み軍法」として知られることになります 1 。
- 5.3. 黒井城の落城と赤井氏の没落
第一次丹波攻略の失敗から2年後の天正5年(1577年)10月、明智光秀による第二次丹波攻略が開始されます 1 。この間、赤井氏にとって最大の痛手となったのが、天正6年(1578年)3月の赤井(荻野)直正の病死でした 1 。直正という傑出した指導者を失ったことにより、赤井氏の抵抗力は大きく削がれることになります。直正の跡は嫡男である直義(通称:鬼十郎)が継ぎましたが、まだ幼少であったため、叔父にあたる赤井幸家が後見人を務めました 1 。
明智光秀は、まず丹波国内の赤井氏・波多野氏の支城を次々と攻略し、黒井城と八上城を孤立させる戦略を取りました。天正7年(1579年)6月には、波多野秀治の八上城が長期の包囲戦の末に落城し、秀治とその兄弟は安土に送られて処刑されました 1 。
そして同年8月、ついに赤井氏の本拠地である黒井城も、ほとんど組織的な抵抗をすることなく開城し、ここに丹波の雄として名を馳せた赤井氏は没落しました 1 。
注目すべきは、赤井一族に対して、波多野氏のような処刑による処分は行われず、死者は出なかったとされている点です 1 。その背景には、当時の関白であった近衛前久の取りなしがあった可能性が指摘されています。直正の継室が前久の妹であったという説があり 1 、この縁故が働いたのではないかと考えられています 1 。
赤井氏の勢力拡大は、荻野直正という一人の傑出した軍事指導者の登場に大きく依存していました。「丹波の赤鬼」と恐れられた直正の武勇と戦略眼が、赤井氏を丹波有数の勢力に押し上げた原動力でした。しかし、その直正の死は、そのまま赤井氏の急速な衰退に繋がりました。これは、特定の個人の能力に依存する組織の脆弱性を示すと同時に、戦国時代における国人領主の勢力基盤が、当主の個人的資質によっていかに大きく左右されるかを物語っています。赤井時家が築いた一族の基盤も、直正という卓越した実行者がいて初めてその真価を発揮し、その死と共に急速に勢いを失ったと言えるでしょう。近衛前久の関与による一族の助命は、直正が築いた中央との人脈(婚姻政策など)が、没落後の一族の命運を左右した可能性を示唆しており、武力だけでなく外交や人脈形成もまた、戦国武家にとって重要な生存戦略であったことを裏付けています。
6. 赤井時家の晩年と最期
- 6.1. 赤井氏没落後の時家の動向
天正7年(1579年)の黒井城落城により、丹波における赤井氏の領主としての地位は失われました。その後の赤井時家がどのような晩年を送ったかについての具体的な記録は、残念ながら乏しいのが現状です。
赤井氏の当主の座は、時家の嫡男・家清の死後、その子である忠家(時家の孫)が継ぎ、その後は時家の次男である荻野直正が実権を握り、直正の死後はその子・直義が跡を継いでいました。このため、黒井城落城時には、時家自身は既に80歳を超える高齢であり、一族の第一線からは退いていた可能性が高いと考えられます。
しかし、史料によれば、家清の死後、その子・忠家が家督を相続した際、「惣領時家が健在であったため一族の結束に動揺はなかった」との記述もあり 26 、隠居の身ながらも一定の影響力を保持し、一族の精神的な支柱となっていた可能性も示唆されます。また、『波多野文書』には「赤井時家・荻野直正父子連署書状」が存在することから、家清の死後もしばらくは子の直正の補佐をしていたと考えられています 1 。黒井城落城後、約2年間生存したことは、彼が一族の栄華と没落という激動の歴史を最後まで見届けたことを意味します。その胸中に去来した思いは察するに余りありますが、史料が乏しいため具体的な動向は不明です。
- 6.2. 没年と墓所に関する考察
赤井時家の没年については、天正9年(1581年)5月8日に88歳で死去したとする説が有力です 1 。これは黒井城落城から約2年後のことであり、一族の没落を見届けた後の死であったことになります。前述の通り、『赤井系図』には永正9年(1512年)没、享年80歳という異説も存在しますが 8 、他の史料との整合性や、子である直正の生年(1529年)などを考慮すると、天正9年説が妥当と考えられます。
墓所については、京都の知恩寺の塔頭寺院である慶運院(けいうんいん)とされています 7 。しかしながら、慶運院が赤井時家の墓所である具体的な由来や、赤井氏との関連を直接的に示す古文書や過去帳などの歴史的記録は、現時点での調査では確認できませんでした 5 。この点については、さらなる詳細な調査が必要です。なぜ京都の寺院が墓所として伝わっているのか、丹波の赤井氏とどのような縁があったのかを解明する必要があります。
一方で、丹波市内の興禅寺(黒井城の麓にあり、春日局生誕地としても知られる)には、赤井氏のものとされる宝篋印塔二基が移築されているとの情報があります 39 。これらが時家本人、あるいは近親者のものである可能性も考えられますが、直接的な関連を示す確証はありません。なお、父である赤井忠家の墓碑は、丹波市氷上町谷村に現存しています 1 。赤井氏の菩提寺も丹波国内にあった(例えば鷲住寺 1 )と考えられることから、時家の墓所が京都にあるとされる点は、今後の研究によって解明されるべき課題と言えるでしょう。没落後に京都に隠棲した可能性、あるいは子孫が後年になって京都の縁故ある寺院に分骨または改葬した可能性などが考えられますが、現段階では憶測の域を出ません。
7. 赤井氏のその後:子孫たちの足跡
織田信長による丹波攻略によって本拠地を失い、領主としての赤井氏は没落しましたが、一族の血脈が途絶えたわけではありませんでした。赤井時家の子孫たちは、その後、新たな時代の権力者に仕官するなどして、巧みに家名を存続させていきました。これは、戦国武家の典型的な生き残り戦略の一つであり、武力だけでなく、時勢を読む能力や新たな主君に認められるだけの何らかの価値(武勇、旧領での影響力、あるいは家柄など)を有していたことを示唆します。
- 7.1. 徳川旗本となった系統
赤井氏没落後、一族の一部は徳川家康に仕え、江戸幕府の旗本として武士の身分を保持しました。
- 赤井忠家(家清の子、時家の孫)の系統は、徳川家の旗本となったと伝えられています 3 。
- 赤井幸家(時家の三男)の子孫もまた、幕府の旗本になったとされています 12 。
- 特に注目されるのが、赤井時家の四男・山口直之の系統です。直之は赤井氏から独立して山口姓を名乗り、その子である山口直友は徳川家康に早くから仕え、駿河守に任ぜられるなど活躍しました。直友の子孫は旗本として続き、その系譜は『寛政重修諸家譜』にも収録されています 13 。山口直之が赤井姓ではなく山口姓を名乗ったことは、旧主(織田氏に敵対した赤井氏)との関係を薄め、新たな主君である徳川氏に受け入れられやすくするための戦略であった可能性も考えられます。
- 7.2. 藤堂家家臣となった系統
「丹波の赤鬼」と恐れられた荻野(赤井)直正の子孫もまた、武家として存続しました。
- 直正の二男である赤井直義は、伊勢津藩主・藤堂高虎に仕官し、1,000石の知行を与えられました。その子孫は代々藤堂家の重臣として家名を保ちました 3 。
- また、直正の三男とされる赤井弥七郎も、大坂の陣の後、藤堂家に500石で召し抱えられています 11 。
- 7.3. その他の子孫
赤井時家の子である赤井時直は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に徳川家康に呼応して黒井城で挙兵しましたが 5 、その後の詳細な動向や子孫に関する記録は、提供された資料からは確認できませんでした 3 。同じく時家の子である熊千代についても、その後の消息や子孫に関する情報は不明です 11 。
赤井氏の子孫が、徳川幕府(旗本)と有力外様大名(藤堂家)という、性格の異なる複数の武家権力に仕えている点は興味深い現象です。これは、一族が広範なネットワークを有していたか、あるいは個々の能力や縁故に応じて多様な仕官の途が開かれていた可能性を示しています。結果として、一族全体としてのリスク分散にも繋がり、いずれか一方の家が何らかの理由で改易されたり勢力を失ったりした場合でも、他方の系統が生き残る可能性を高める効果があったと考えられます。どのような経緯でこれらの異なる仕官先を見出したのかは詳細不明ですが、戦国末期から江戸初期にかけての武士の流動性の高さや、有力者間の紹介・斡旋などが背景にあったと推測されます。
8. 赤井時家および赤井氏に関する主要史料
赤井時家および赤井一族の研究を進める上で、参照すべき主要な史料は多岐にわたります。これらの史料はそれぞれ成立背景や性格が異なるため、一つの史料のみに依拠するのではなく、複数の史料を比較検討し、それぞれの信頼性や限界を考慮しながら総合的に分析する必要があります。
- 8.1. 古文書・記録類
- 『守光公記』: 中御門宣秀の日記。永正17年(1520年)に赤井兵衛大夫(忠家)が禁裏御料である栗作郷を違乱・押領したという記事が含まれており、これが赤井氏の史料上の初見とされています 1 。
- 『荻野文書』: 赤井氏が細川晴元方として活動したことや、但馬国朝来郡へ出陣したことなどを示す書状群です 1 。赤井時家自身の書状(八月五日付)の写しもこの中に含まれており、荻野氏との関係を考察する上で極めて重要な史料です 1 。
- 『久下文書』: 丹波の国人である久下氏に伝来した文書群。「久下氏由緒書」には、赤井氏が戦闘を継続していたことなどが記されています 1 。また、天文6年(1537年)付の「室町幕府奉行人奉書」には、芦田兵衛大夫(家清か)の与力が久下氏の所領を押領したとの記述が見られます 1 。
- 『宝鏡寺文書』: 皇室ゆかりの尼門跡寺院である宝鏡寺に伝わる文書。天文5年(1536年)頃のものとされる「蔵田時家書状」が含まれており、時家が氷上郡多利村を違乱していたことが記録されています 1 。
- 『言継卿記』: 公家・山科言継の日記。天文年間の丹波の情勢や、赤井氏・波多野氏の動向に関する記述が含まれる可能性があります 1 。例えば、天文年間に波多野秀忠が丹波守護と記されていること 44 や、赤井氏が皇室領新屋荘を押領していたことに対する織田信長の対応 1 などが関連する記述として挙げられます。
- 『多聞院日記』: 興福寺多聞院の院主であった英俊の日記。永禄年間以降の畿内や丹波の情勢、特に赤井氏と内藤氏の戦いや、織田信長の丹波攻略に関連する記述が見られます 1 。
- その他: 上記以外にも、『波多野文書』 1 、『赤井文書』 1 、『信長公記』 1 などが、赤井氏の動向を研究する上で重要な史料となります。
- 8.2. 編纂史料・系図類
- 『寛政重修諸家譜』: 江戸幕府が編纂した大名・旗本の公式な系譜集です。赤井氏本家や、分家である山口氏の系譜が収録されており、一族の出自や家族構成、子孫の動向などを知る上で基本的な史料となります 1 。ただし、江戸時代の視点から整理された情報であるため、戦国期の実像とは異なる記述が含まれる可能性も考慮する必要があります。
- 『赤井系図』、『赤井先祖細記』など: 赤井氏自身が伝えた、あるいは後世に編纂されたと考えられる系図や家伝類も存在します。例えば、 8 に見られる『赤井系図』は、時家の没年について他の史料とは異なる説を伝えています。また、 15 には『赤井先祖細記』からの引用として荻野直正の戦歴が記されています。これらの史料は、一族の自己認識や伝承を反映している可能性があり、他の客観的な史料との比較検討が不可欠です。
- 鷲住寺過去帳・位牌: 丹波市氷上町新郷にある曹洞宗鷲住寺には、赤井忠家の没年月日を天文2年5月24日と伝える過去帳や位牌が存在するとされています 1 。寺社の記録は、特定の出来事に関する貴重な情報源となり得ますが、その寺社と当該人物との関係性や記録の正確性を吟味する必要があります。
これらの多様な史料を組み合わせることで、より立体的で信頼性の高い赤井時家および赤井一族の歴史像を構築することが可能となります。しかしながら、現存する史料は、主に武将としての活動や公的な出来事、あるいは支配者側の視点からの記録が中心です。赤井時家個人の内面や、当時の丹波の民衆の生活、あるいは赤井氏の支配が地域社会に与えた具体的な影響などについては、史料が乏しいのが現状です。これらの「記録に残りにくい歴史」をいかに読み解くか、あるいはその限界を認識することが、歴史研究においては常に重要な課題となります。例えば、時家の晩年の具体的な動向や、墓所とされる知恩寺慶運院との関係が不明瞭なのも、記録の欠落の一例と言えるでしょう。
9. おわりに
- 9.1. 赤井時家の歴史的評価と赤井氏研究の意義
赤井時家は、戦国時代の丹波国において、中央政局の激動と地方の国人領主の興亡が複雑に絡み合う困難な時代を生き抜き、一族の存続と発展に尽力した重要な国人領主でした。彼の生涯は、戦国時代の一地方武将の典型的な姿を映し出していると言えるでしょう。
特に、その子である荻野直正が「丹波の赤鬼」と称されるほどの武勇で赤井氏の勢力を飛躍的に拡大させましたが、その活躍の基盤を築いたのは父である時家であったと考えられます。また、直正亡き後も、時家が存命であったことが一族の結束を保つ一助となった可能性も指摘されています。
赤井氏の研究は、丹波地方の戦国史を理解する上で不可欠であると同時に、戦国時代の国人領主の典型的な動向、すなわち中央の権力闘争への関与、在地における実力による所領拡大、婚姻政策による同盟関係の構築、そして最終的な織田政権への抵抗と没落、さらには子孫による家名の存続といった一連の過程を考察する上で、貴重な事例を提供します。
- 9.2. 今後の研究課題
本報告書を作成するにあたり、いくつかの点が今後の研究課題として残されました。
- 赤井時家の墓所とされる京都の知恩寺慶運院と赤井氏との具体的な関連性の解明。慶運院の寺史や過去帳、あるいは赤井氏の子孫の家伝などの調査が待たれます。
- 『荻野文書』をはじめとする赤井氏関連の古文書には、未公開あるいは未翻刻のものが存在する可能性があり、これらの網羅的な調査を通じて、赤井氏のより詳細な活動実態を復元することが期待されます。
- 赤井氏の支配が、丹波の地域社会や経済、民衆の生活にどのような影響を与えたのかについての具体的な考察。
- 赤井時家や、特に武勇で知られる荻野直正に関する様々な伝承と、史実との比較検討。
これらの課題に取り組むことで、赤井時家および赤井一族に関する理解が一層深まるものと考えられます。
表2:赤井氏関連 略年表
和暦(西暦) |
丹波・中央の主な出来事 |
赤井時家・赤井一族の動向 |
主要関連史料・情報源 |
明応3年(1494年) |
|
赤井時家、誕生か。 |
7 |
永正17年(1520年) |
|
父・赤井忠家(兵衛大夫)、禁裏御料栗作郷を違乱・押領(史料初見)。 |
1 |
大永6年(1526年) |
細川高国と細川晴元の対立激化 |
父・忠家、波多野氏らと共に晴元方として神尾寺城の戦いなどで活躍。 |
1 |
享禄2年(1529年) |
|
次男・荻野(赤井)直正、後屋城にて誕生か。 |
3 |
天文2年(1533年) |
|
父・忠家、波多野氏との稲継城(母坪城)の戦いで戦死か。赤井氏、一時丹波を追われる可能性。 |
1 |
天文5年(1536年)頃 |
|
赤井時家、「蔵田時家書状」を発給。氷上郡多利村を違乱し、所領回復・拡大を進める。 |
1 |
天文年間 |
波多野氏、細川晴元方として勢力拡大 |
時家、波多野晴通の娘を嫡男・家清の妻に迎える(波多野氏と同盟)。 |
1 |
天文23年(1554年) |
|
次男・直正、叔父・荻野秋清を刺殺し黒井城を奪取。 |
1 |
弘治元年(1555年) |
|
嫡男・家清、香良合戦で負傷。 |
1 |
弘治3年(1557年) |
|
嫡男・家清、死去。直正が甥・忠家の後見人となり、赤井・荻野両氏を統率。 |
1 |
永禄8年(1565年) |
|
直正、丹波守護代・内藤宗勝を討ち取る。 |
1 |
永禄11年(1568年) |
織田信長、足利義昭を奉じ上洛。 |
赤井氏、当初信長に服属。丹波奥二郡を安堵される。 |
1 |
元亀2年(1571年) |
|
直正、但馬・山名祐豊の侵攻を撃退し、竹田城を占拠。 |
1 |
天正3年(1575年) |
織田信長、明智光秀に赤井直正討伐を命じる(第一次丹波攻め)。 |
直正、波多野秀治と連携し、光秀軍を撃退(赤井の呼び込み軍法)。 |
1 |
天正6年(1578年) |
|
次男・直正、病死。 |
1 |
天正7年(1579年) |
明智光秀、八上城を攻略し波多野氏を滅ぼす。 |
黒井城、開城。赤井氏、丹波の領主としては没落。一族は近衛前久の取りなしで助命か。 |
1 |
天正9年(1581年) |
|
赤井時家、死去(享年88歳か)。 |
1 |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦い |
子・赤井時直、黒井城・余田城で徳川家康に呼応し挙兵。 |
5 |
江戸時代初期 |
徳川幕府成立、藤堂高虎伊勢津藩主となる。 |
時家の孫・忠家(家清の子)や三男・幸家の子孫は徳川旗本に。直正の子孫は藤堂家重臣に。四男・山口直之の子孫も徳川旗本に。 |
3 |
引用文献
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- 赤井 (荻野) 直正プロフィール https://tamba-tourism.com/wp-content/uploads/2020/01/taiga03.pdf
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- 1578年 – 79年 御館の乱 耳川の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1578/
- 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
- 検証・左近出生の謎(2) - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon0104b.html
- 寛永諸家系図伝 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=910
- ご先祖を辿ってみたら500人を超えてしまった話|谷村 一成 - note https://note.com/kazunaritanimura/n/n1acafa28d82a
- 岸本良信公式ホームページ 藩士と幕臣の名簿 幕府(幕臣・旗本・御家人) https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E5%B9%95%E5%BA%9C%EF%BC%88%E5%B9%95%E8%87%A3%E3%83%BB%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA%EF%BC%89/
- 寛政重修諸家譜 1520巻 索引 https://kafuka.onmitsu.jp/kanseifu.html