戦国時代、上野国(現在の群馬県)にその名を刻んだ武将、赤井照康。彼については、「弘治2年(1556年)、あるいは天文24年(1555年)に館林城を築き、その際に狐が尾を曳いて縄張りを示したという伝説から、城は『尾曳城』とも呼ばれる」という逸話が広く知られている。しかし、この人物像は、歴史の霧の中に幾重にも包まれており、その実態を探ろうとすると、複数の史料や伝承が複雑に絡み合い、一筋縄ではいかない現実に直面する。
例えば、館林城の築城者については、照康ではなく「赤井照光」という人物の名も挙げられる 1 。さらに、赤井氏が館林城を失った永禄5年(1562年)の上杉謙信による攻撃の際、城主だったのは照康の子とされる「赤井照景」であったという記録も存在する 4 。一方で、この落城を伝える信頼性の高い同時代史料には、「赤井文六」という全く異なる名が記されているのである 6 。
「照康」「照光」「照景」「文六」。これらの名は、同一人物の別名なのか、あるいは親子や一族の異なる人物を指すのか。この混乱こそが、赤井照康という武将を理解する上での最大の障壁であり、同時に最も興味深い謎でもある。
本報告書は、この謎多き武将・赤井照康の実像に迫ることを目的とする。そのためには、単に照康個人の生涯を追うだけでは不十分である。彼を育んだ「上野赤井氏」という一族の興亡の軌跡、その舞台となった「館林城」の歴史、そして錯綜する史料群がそれぞれどのような背景のもとに成立したのかを、多角的に分析・考察する必要がある。史実と伝説の狭間に揺れる一人の在地領主の姿を再構築することを通じて、戦国という時代の地方社会の力学と、そこに生きた人々のリアルな姿を浮かび上がらせていきたい。
赤井照康という人物を理解するためには、まず彼が属した上野赤井氏が、いかにして関東の戦乱の中で頭角を現し、館林の地に確固たる勢力を築いたのか、その歴史的背景を紐解く必要がある。彼らは単なる一地方の武士ではなく、巧みな戦略と文化的権威を武器に、自らの地位を築き上げた、したたかな在地領主であった。
上野赤井氏の出自については、清和源氏説、藤原北家秀郷流で現地の旧族である佐貫氏の一族とする説など、複数の系図や伝承が存在するが、いずれも後世に作られた可能性が高く、確証に欠ける 7 。
しかし、その中で特に注目すべきは、室町時代後期の連歌師・宗祇が残した歌集『老葉』に見える記述である。この同時代史料には、赤井氏の一員と目される人物が、平安時代の六歌仙の一人、文屋康秀の後裔を自称していたことが記されている 7 。武士が自らの家系の正統性を示すために、源平藤橘といった武家の名門に連なる系譜を創作することは一般的であった。その中で、あえて雅やかな歌人の名を引いたことは、赤井氏が単なる武威だけでなく、文化的な権威によって自らを特徴づけようとしていた意識の表れと解釈できる。これは、彼らが在地領主として自立していく過程で、旧来の支配者とは異なる新たな権威を模索していたことを示唆している。
赤井氏が歴史の表舞台に明確に登場するのは、永享10年(1438年)に勃発した永享の乱においてである。この時、彼らは上野国佐貫荘(現在の館林市・邑楽郡一帯)の支配者であった舞木氏の配下(寄騎)として、その名が見える 7 。当初は有力な領主の家臣に過ぎなかった赤井氏にとって、最大の転機となったのが、15世紀半ばから約30年間にわたって関東全域を戦乱に巻き込んだ「享徳の乱」であった。
この大乱の中で、主家であった舞木氏は古河公方・足利成氏方として戦うが、次第にその勢力を減退させていく 11 。この権力の空白期を巧みに利用し、被官の立場から台頭したのが赤井氏であった。彼らは主家を凌駕し、佐貫荘の実質的な支配者へと成長を遂げる。その事実は、文明3年(1471年)の「佐貫合戦」の記録によって裏付けられる。この戦いで、関東管領・上杉氏の軍勢が館林城を攻撃した際、城に籠って抵抗したのは、もはや舞木氏ではなく、「赤井文三」「赤井文六」という赤井一族の者たちであった 6 。これは、赤井氏が舞木氏に代わり、名実ともに対外的な交渉主体、すなわち独立した在地領主として認められていたことを示す決定的な証拠である。この下克上こそが、後の赤井照康の時代へと続く、赤井氏の権力基盤の原点となった。
赤井氏の台頭を支えたのは、軍事力や政治的嗅覚だけではなかった。彼らが同時代の他の在地領主と一線を画していたのは、その高い文化的素養であった。前述の文屋氏後裔の自称に加え、彼らは当代一流の文化人とも積極的に交流を持っていた。
室町時代を代表する連歌師・宗祇や、漢詩文集『梅花無尽蔵』を著した禅僧・万里集九といった、京都の文化人が東国を旅した際、赤井氏を頼り、その庇護を受けている記録が残っている 10 。特に万里は、多くの人々が彼に詩を求めた中で、赤井氏の人物に対しては自ら詩を贈ったとされ、その教養の高さを称賛している 12 。
この事実は、赤井氏が単に中央の文化に憧れる地方の武士ではなく、一流の文化人と対等に交わるだけの見識と財力を備えていたことを物語っている。こうした文化活動への投資は、単なる趣味の域を超え、一族の権威を高め、周辺領主に対してその優位性を示すための重要な政治的・外交的戦略であった。武力による下克上で奪った支配を、文化の力で正当化し、安定させる。この巧みな自己演出こそが、赤井氏を佐貫荘の新たな支配者として定着させた大きな要因の一つであったと考えられる。
上野赤井氏の権力基盤の中核を成したのは、その居城である館林城であった。この城は、単なる軍事拠点に留まらず、一族の支配の正統性を象徴する伝説の舞台でもあった。城の築城史を巡る史実と伝承、そしてその特異な構造は、赤井氏の戦略と深く結びついている。
館林城の築城に関しては、複数の異なる記録や伝承が存在し、その解釈が鍵となる。
まず、最も信頼性の高い史実としての記録は、文明3年(1471年)に遡る。この年、享徳の乱の最中、上杉方の軍勢が古河公方・足利成氏方に属する「立林(館林)城」を攻撃したという記録である 6 。この時点で城は既に存在し、赤井氏(赤井文三・文六)が城主として籠城していたことが確認できる。これが、文献上で確認できる館林城の初見である。
一方で、後世に成立した伝承は、異なる築城者と年代を伝える。江戸時代中期の地誌『上野国志』は、弘治2年(1556年)に「赤井但馬守照康入道法蓮」が築城したと記している 9 。また、これとは別に、天文元年(1532年)に「赤井照光」が築いたとする説も広く伝わっている 3 。
これらの情報は一見矛盾しているように見えるが、城の発展段階として捉えることで、合理的な解釈が可能となる。すなわち、1471年の時点では、戦乱に対応するための砦や要害といった中世的な城郭が既に存在していた。そして16世紀中頃、赤井照康や照光の時代に、戦国時代の新たな軍事技術や領国支配の必要性に応じて、より大規模で堅固な近世城郭へと大改修・拡張が行われた。この画期的な大改修が、後世の人々の記憶の中で「築城」という画期的な出来事として語り継がれ、照康や照光が創始者として伝説化されたと考えるのが自然であろう。
館林城が「尾曳城(おびきじょう)」という優雅な別名で呼ばれる所以は、赤井氏の築城にまつわる有名な伝説にある 1 。
その物語は、当時の赤井氏の当主・照光(あるいは照康)が、子供たちにいじめられていた子狐を助けたことから始まる。その夜、当主の夢枕に稲荷神の化身である老翁が現れ、子狐を助けた礼として、城を築くのに最適な要害の地を教えた。そして後日、白狐が現れ、その尾を地面に曳きながら城の縄張り(設計図)を示してくれたという 1 。この伝説にちなみ、城は「尾曳城」と名付けられ、城内には守護神として尾曳稲荷神社が創建されたと伝えられる 3 。
この伝説は、単なる美しい民話ではない。それは、館林城の持つ特異な地形と、赤井氏の支配の正統性を結びつけるための、高度に計算された物語であった可能性が高い。実際に、館林城は城沼(じょうぬま)という広大な沼に突き出した、細長い半島状の台地に築かれている 6 。この地形は、防御上有利である一方、城の形状を規定する。この細長い縄張りが、伝説の「狐の尾」を想起させたことは想像に難くない。
赤井氏は、この物理的な地形の特徴を逆手に取り、当時広く信仰されていた稲荷神(狐)の神威と結びつけた。これにより、①城の特異な形状に神秘的な由来を与え、②自らの支配が神によって公認されたものであることを領民に示し、③城の守りが神によって保証されているという絶大な安心感を兵士たちに与える、という複数の効果を狙ったのである。かくして「狐の尾曳伝説」は、地形的制約を権威の源泉へと昇華させた、赤井氏の巧みな領国経営術の産物として誕生したと考えられる。
伝説の背景にある館林城の実際の構造は、極めて合理的かつ戦略的であった。城は、東側に広がる城沼を天然の巨大な外堀として利用した平城(ひらじろ)である 6 。沼に突き出した台地上に、本丸、二の丸、三の丸、八幡郭といった主要な曲輪が直線的に配置される「連郭式」の縄張りを基本としていた 6 。この構造により、敵は三方を水に囲まれた細い陸地からしか攻め寄せることができず、防御側は戦力を集中させやすかった。
さらに、その立地は軍事的に極めて重要であった。館林は、上野、下野、武蔵の三国が接する交通の要衝に位置する。16世紀には、越後から関東平定を目指す上杉謙信と、相模から北上して関東の覇権を狙う北条氏康という、二大勢力の勢力圏が激しく衝突する最前線地帯となった。この戦略的要地を拠点としたことは、赤井氏に周辺地域への影響力をもたらした一方で、常に巨大勢力の侵攻の脅威に晒されるという宿命を背負わせることにもなったのである。
赤井氏の歴史を追う上で最も複雑なのが、照康、照光、照景、文六といった、史料や伝説に登場する主要人物たちの関係性である。これらの錯綜した情報を整理・分析することで、後世に伝わる「赤井照康」という人物像が、いかにして形成されたのか、その核心に迫ることができる。
まず、情報の混乱を避けるため、各人物の関係性と典拠を以下の表に整理する。
人物名 |
推定される関係性 |
主な活動・役割 |
典拠史料 |
考察・異説 |
赤井文三・文六 |
15世紀後半の赤井氏の2系統(文屋三郎・文屋六郎)の当主か。文三は綱秀、文六は高秀と同一人物の可能性が指摘される。 |
文明3年(1471)の館林城籠城戦で城主として上杉軍と戦い降伏 6 。 |
赤井氏が佐貫荘の支配者として歴史に登場した最初期の人物。 |
後述の「照景」が「文六照景」と記されることがあり、文六の系統を継ぐ人物である可能性を示唆する。 |
赤井照光 |
伝説上の築城主。妙印尼の父とも伝わる。 |
「狐の尾曳伝説」の中心人物。天文元年(1532)に館林城を築城したとされる。天文14年(1545)没と伝わる 1 。 |
菩提寺とされる光恩寺に墓が存在する。 |
『館林市史』などでは伝説上の人物とされ、実在や赤井氏との関連は不明確とされる 7 。照康と同一人物、あるいはその父祖の事績が伝説化・混淆した可能性が高い。 |
赤井照康 |
16世紀中頃の館林城主。但馬守を名乗り、入道して法蓮と号す。照景の父とされる。 |
弘治2年(1556)に大袋城から移り館林城を築城(または大改修)したと伝わる 1 。 |
江戸時代の地誌によって定着した人物像。 |
永禄3年(1560)に上杉謙信に攻められたとの記述もあり 1 、落城に至る一連の攻防が彼の代から始まった可能性を示す。 |
赤井照景 |
照康の子。別名に煕景(ひろかげ)。 |
永禄5年(1562)に上杉謙信に攻められ降伏。武蔵国忍城へ逃亡し、その後の消息は不明となる 4 。 |
謙信の攻撃を受け、最終的に城を失った当主。 |
父・照康の代に始まった抗争が、子の照景の代で決着したと見られる。 |
妙印尼輝子 |
赤井重秀(または家堅)の娘。由良成繁の妻。 |
夫の死後も女傑として由良家を支え、北条氏と戦う。豊臣秀吉から所領を安堵され、由良家の存続に貢献した 7 。 |
赤井氏直系が滅んだ後、その血脈を婚姻を通じて後世に伝えた最重要人物。 |
彼女の子・長尾顕長が後に館林城主となるという、歴史の皮肉を生んだ。 |
利用者が最初に提示した情報源である「赤井照康」は、主に江戸時代に編纂された地誌や軍記物によって確立された人物像である。特に、安永3年(1774年)に成立した『上野国志』には、「館林故城、弘治二年正月赤井但馬守照康入道法蓮が築く所なり」と明確に記されている 9 。この記述は、照康の父を山城守勝光、さらにその祖先を永享の乱で活躍した赤井若狭守へと繋げるものであり、江戸時代に体系化された系譜認識を色濃く反映している 9 。彼こそが、大袋城から拠点を移し、近世的な館林城の基礎を築いた名君として、後世に記憶された人物であった。
これらの複数の名前は、単に矛盾する情報として片付けるべきではない。むしろ、史料の性質や成立した文脈によって、一族の当主が異なる「顔」を見せていたと解釈することで、より深い歴史像が浮かび上がる。
以上の分析から、次のような仮説が成り立つ。永禄5年の落城時の城主は、「 通称:文六、諱:照景 」という人物であり、その父、あるいは一世代前の当主が「 諱:照康 」であった。そして「 照光 」は、主に照康の事績が伝説化する中で生まれた、あるいは混同された象徴的な名前である。一人の領主が、対外的な交渉、一族内部の継承、そして領民への権威付けといった異なる文脈において、複数の名で呼ばれ、記録されることは、戦国時代において決して珍しいことではなかった。これらの名前の錯綜は、赤井氏という在地領主が持っていた多面的な顔を映し出す鏡なのである。
上野赤井氏が築き上げた権勢は、永禄5年(1562年)の館林城落城によって、あっけなく潰えることとなる。この悲劇は、単なる一合戦の敗北ではなく、16世紀半ばの関東地方を覆っていた巨大勢力間の地殻変動に、在地領主がいかに翻弄されたかを示す典型的な事例であった。
16世紀半ば、関東の政治地図は激しく塗り替えられつつあった。小田原を拠点とする北条氏康が、破竹の勢いで勢力を北へ拡大。これに対し、上杉憲政を保護して関東管領の職を継承した越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が、関東の旧秩序回復を大義名分に、繰り返し大規模な関東出兵を行っていた 33 。
館林を含む東上野は、この二大勢力の力が直接衝突する最前線となった。この地域に割拠する赤井氏、由良氏、足利長尾氏といった国衆(在地領主)たちは、北条に味方して新たな秩序に組み込まれるか、上杉に従って旧来の権威に与するか、という存亡をかけた二者択一を迫られる、極めて緊迫した状況下に置かれていたのである 34 。
この絶え間ない緊張関係の中、赤井氏は最終的に北条方につくという政治的決断を下した 37 。地理的に近い北条氏の恒常的な支配力や、巧みな国衆懐柔策が、遠方の謙信による断続的な介入よりも魅力的、あるいは現実的な選択肢に見えたのかもしれない。
しかし、この選択は、近隣の有力国衆であった由良氏や足利長尾氏が上杉方についていたため、彼らとの直接的な対立を意味した 38 。そして何よりも、関東平定を至上命題とする上杉謙信にとって、赤井氏は「関東管領に背く造反者」として、討伐すべき格好の標的となった。赤井氏の運命は、この決断によって事実上定まったのである。
永禄5年(1562年)2月、ついに上杉謙信は、北条方に与した赤井氏を討伐すべく、館林城に大軍を差し向けた 5 。攻撃の主力部隊を率いたのは、皮肉なことに、赤井氏の長年のライバルであり、上杉方についた隣国の領主、足利長尾景長であった 6 。これは、国衆同士を戦わせて勢力を削ぐという、大勢力がしばしば用いる代理戦争の構図そのものであった。
城沼という天然の要害に守られた館林城であったが、謙信率いる大軍の前に長くは持ちこたえられなかった。城主・赤井照景(史料によっては文六)は降伏を余儀なくされ、城を追放されて武蔵国の忍城へと落ち延びた 5 。この時の様子を伝える上杉方の書状は、その結末を「なかなか哀れなる様躰」と記しており、赤井氏の敗北がいかに無惨なものであったかを物語っている 10 。
この落城により、館林城とその所領は勝者である足利長尾景長の手に渡り、享徳の乱以来、約一世紀にわたって佐貫荘に君臨した上野赤井氏は、領主としての地位を完全に失い、歴史の表舞台から姿を消すことになったのである 6 。彼らの滅亡は、一個人の能力や一族の結束を超えた、戦国という時代の巨大なパワーバランスという抗いがたい奔流によって決定づけられた、地方勢力の悲劇であった。
永禄5年(1562年)の館林城落城は、政治勢力としての赤井氏に終止符を打った。しかし、一族の物語はそこで完全に途絶えたわけではなかった。直接的な支配は断絶したものの、その血脈と記憶は、婚姻戦略と地域に根差した伝説を通じて、形を変えながらも後世へと確かに受け継がれていった。
館林城を追われた最後の城主・赤井照景のその後の足跡は、歴史の闇に消えている。史料には「いずこかえ逃れ去りその最期は知れず」と記されており 27 、彼が再び権力の座に返り咲くことはなかった。これにより、上野国における領主としての赤井氏の父系による直系は、事実上滅亡したと見なされている 7 。
しかし、赤井氏の血脈は、驚くべき形で生き残っていた。その鍵を握るのは、赤井氏の娘として生まれ、隣接する有力国衆・由良成繁に嫁いでいた輝子、後の妙印尼である 7 。彼女の存在は、戦国時代の国衆にとって最も重要な生存戦略の一つであった「婚姻外交」が、いかに大きな意味を持っていたかを如実に示している。
妙印尼は、夫・成繁の死後、そして息子たちが北条氏に捕らえられた危機的状況において、70歳を超えた老齢ながら自ら甲冑を身に着け、籠城戦を指揮した女傑として知られる。さらに、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、自ら兵を率いて秀吉方に参陣し、その功績によって由良家の所領安堵を勝ち取った 27 。
そして、ここに歴史の皮肉とも言うべき運命の巡り合わせが起きる。妙印尼が由良成繁との間にもうけた次男・熊寿丸は、赤井氏を滅ぼした足利長尾家の養子となり、長尾顕長と名乗っていた。そして、養父の跡を継ぎ、 館林城主 の座についていたのである 42 。つまり、赤井氏は滅ぼされたが、その孫が、かつて一族が追われた居城の主として君臨するという事態が生じていたのだ。これは、赤井氏の血が母系を通じて生き延びただけでなく、地域の勢力バランスの中で、かつての敵対関係をも乗り越えて受け入れられていったことを示している。
政治的には滅びた赤井氏であったが、その記憶は地域の人々の信仰と伝承の中に深く刻み込まれ、今なおその痕跡を留めている。
これらの史跡は、赤井氏が歴史の奔流に呑み込まれた後も、その存在が地域社会の記憶と信仰の中に生き続けていることを示している。
本報告書を通じて分析してきたように、戦国武将「赤井照康」は、単一の明確な像を結ぶ人物ではない。彼は、江戸時代の地誌によって体系化された「築城の名君・照康」、地域信仰と結びつき神格化された「伝説の創始者・照光」、そして同時代の敵方の記録に残された「悲運の城主・文六(照景)」という、複数の側面が重なり合って形成された、戦国期関東における在地領主の典型的な肖像である。
赤井一族の興亡史は、15世紀の享徳の乱という巨大な動乱の中から下克上で台頭し、文化的権威の演出と巧みな伝説の創造によって自らの支配を正当化し、最終的には16世紀の関東の覇権を争う上杉・北条という巨大勢力の衝突の波に呑まれて政治史から退場した、一地方豪族の軌跡を凝縮している。
しかし、彼らの物語は単なる滅亡の悲劇に終わらない。婚姻戦略を通じてその血脈を間接的に次代へと繋ぎ、地域の信仰と結びついた豊かな伝説によってその記憶を現代にまで残した、したたかな生命力をも示している。赤井氏の軌跡を丹念に追うことは、戦国時代という時代を、天下人や著名な大名の視点からだけではなく、その足元で必死に生き、時に翻弄され、時にしたたかに立ち回った無数の国衆たちの視点から複眼的に理解するために、極めて重要な示唆を与えてくれる。彼らは歴史の奔流に消えたかに見えるが、その波紋は今なお、館林の地に静かに広がり続けているのである。