赤尾津家保
赤尾津家保は出羽由利十二頭の一角。前田道信を討ち取る武功を挙げたが、道信の子利信の仇討ちで戦死。赤尾津氏は関ヶ原で改易されたが、一族は存続した。

戦国期出羽の武将、赤尾津家保とその一族の興亡
1. はじめに
本報告書は、戦国時代の出羽国由利郡にその名を刻んだ武将、赤尾津家保(あかおつ いえやす)の実像と、彼が属した赤尾津一族の歴史的軌跡を、現存する史料に基づいて多角的に明らかにすることを目的とする。赤尾津家保は、由利郡に割拠した在地領主群である「由利十二頭」の一角を占め、特に仙北地方(現在の秋田県大仙市周辺)を本拠とした前田氏との間で、数世代にわたる激しい攻防を繰り広げたとされる人物である。参照列伝には「由利十二頭の一。仙北大曲城主・前田道信が侵攻してくると、これを返り討ちにした。しかし後年、道信の次男・利信の仇討ち合戦に敗れて戦死したという」との記述があり、本報告書ではこの伝承の検証も試みる。
赤尾津家保個人に関する直接的な一次史料は極めて限定的であり、その生涯を詳細に再構築するには困難が伴う。そのため、本報告書では『由利十二頭記』に代表される軍記物や各種系図、江戸時代以降に編纂された郷土史料、そして近年の研究論文などを総合的に比較検討し、断片的な記述を繋ぎ合わせることで、赤尾津家保とその一族の姿に迫る。これらの史料は、それぞれの成立背景や編纂意図によって記述に偏りが見られる場合もあるため、その性質を考慮しつつ、慎重な分析を心がける。
2. 赤尾津氏の出自と由利の情勢
2.1. 赤尾津氏の系譜と本拠地
赤尾津家保が属した赤尾津氏は、出羽国由利郡赤尾津(現在の秋田県由利本荘市松ヶ崎および岩城亀田周辺)を本拠とした武士団である 1 。この赤尾津の地は、当時日本海側の主要な湊として知られていた 1 。
その出自については諸説ある。一つは、同じく由利十二頭の有力氏族である仁賀保氏と同様に、信濃国をルーツとする大井氏の末裔とする説である 1 。この説によれば、赤尾津氏は室町時代中期には小介川(こすけがわ)氏を称しており、宝徳二年(1450年)には室町幕府から未進年貢等の催促を受けていた記録が残されている 1 。
一方、南北朝時代の暦応二年(1339年)に、同じく信濃源氏の流れを汲む小笠原氏の一族である小笠原伯耆守光貞が、由利維貴(由利氏の末裔か)に従って由利郡に入部し、天鷺城(あまさぎじょう、後の赤尾津城か)に入って赤尾津氏を名乗ったとする伝承も存在する 2 。
これら大井氏説と小笠原氏説は、一見矛盾するように見えるが、両氏族ともに信濃国に起源を持つ清和源氏の系譜に連なる名族であり、何らかの関連性があった可能性は否定できない。例えば、時代を異にして由利郡に入部した両氏族の系統が、婚姻や養子縁組などを通じて統合され、赤尾津氏を形成したという見方も成り立つ。あるいは、当初大井氏系の小介川氏として活動していた一族が、後に小笠原氏系の血筋を取り込み、あるいはその勢力下に入ることで赤尾津氏と改称した可能性も考えられる。小介川氏から赤尾津氏への改称の具体的な時期や背景については、現存史料からは明確にできないものの、この名称の変遷は、中世から戦国期にかけての地方豪族の複雑な成立過程や、勢力基盤の再編を反映しているのかもしれない。
赤尾津氏の居城は、高城山(たかしろやま)に築かれた赤尾津城であったとされ、この城はかつて天鷺城とも呼ばれていたという伝説が残る 2 。
2.2. 由利十二頭と赤尾津氏
赤尾津氏は、由利郡に割拠した国人領主の連合体である「由利十二頭(ゆりじゅうにとう)」の有力な一員であった。由利十二頭は、鎌倉時代以来の在地領主や、南北朝時代から室町時代にかけて新たにこの地に入部した武士団によって構成されていた 1 。その「十二」という数は、鳥海山信仰における薬師如来の眷属である十二神将に由来するという説もある 1 。
由利十二頭を構成した主要な氏族としては、赤尾津氏の他に、仁賀保(にかほ)氏、矢島(やしま)氏、打越(うつこし)氏、滝沢(たきざわ)氏、石沢(いしざわ)氏、潟保(かたほ)氏、下村(しもむら)氏、玉米(とうまい)氏、鮎川(あゆかわ)氏、岩屋(いわや)氏、羽川(はねかわ)氏などが挙げられる 1 。これらの氏族は、それぞれ由利郡内の各地に拠点を持ち、時には互いに連携し、時には勢力争いを繰り広げながら、戦国乱世を生き抜こうとしていた。
表1:由利十二頭の主要構成氏族(判明する範囲)
氏族名 |
主な本拠地(推定、現在の地名) |
備考 |
赤尾津氏 |
由利本荘市松ヶ崎・岩城亀田 |
小介川氏とも。由利衆の中でも大きな石高を有したとされる 1 。 |
仁賀保氏 |
にかほ市平沢・象潟 |
大井氏系。後に仁賀保藩主となる 1 。 |
矢島氏 |
由利本荘市矢島町 |
大井氏系。仁賀保氏とは敵対関係にあった 1 。 |
打越氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
由利五人衆の一 1 。 |
滝沢氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
由利氏とも。由利五人衆の一 1 。 |
石沢氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
|
潟保氏 |
由利本荘市西目町潟保 |
|
下村氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
|
玉米氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
|
鮎川氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
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岩屋氏 |
由利本荘市岩谷町 |
由利五人衆の一 1 。 |
羽川氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
|
子吉氏 |
由利本荘市(子吉川流域) |
|
芹田氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
|
沓沢氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
矢島氏の客将との説も 1 。 |
禰々井(根井)氏 |
由利本荘市(詳細不明) |
|
(出典: 1 に基づき作成)
豊臣秀吉による天下統一が進むと、由利十二頭は「由利衆」として中央政権から認識されるようになる。その中で赤尾津氏は、天正十八年(1590年)の奥州仕置後、由利地方で最大となる約4,300石の所領を安堵されたと推定されており、これは由利衆の中でも突出した勢力であったことを示している 1 。また、仁賀保氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏と共に「由利五人衆」とも称され、由利郡における中心的な役割を担っていたと考えられる 1 。史料によっては、赤尾津氏が由利衆の「一ノ頭」と称されたとの記述も見られる 5 。
2.3. 戦国期の由利郡の情勢
戦国時代の由利郡は、北に秋田湊を拠点とする安東氏、東に仙北・雄勝地方を支配する小野寺氏、南に庄内地方の大宝寺(武藤)氏、そして内陸から勢力を伸張する最上氏といった、より大きな戦国大名や国人領主の勢力圏に隣接し、あるいは挟まれる形で存在していた。これらの周辺勢力は、由利郡への影響力拡大を常に狙っており、由利十二頭の諸氏は、ある時はこれら大勢力に従属し、またある時は互いに連携して対抗するなど、複雑な離合集散を繰り返していた 1 。
赤尾津氏は、特に庄内地方の大宝寺氏が由利郡の大部分をその勢力下に置いた際にも、これに完全には従属せず、むしろ日本海交易を通じて繋がりが深かったとみられる安東氏と誼を通じていたと伝えられている 1 。天正十年(1582年)には、大宝寺義氏が由利郡に侵攻した際、赤尾津二郎(家保の子か近親者)が安東愛季の援助を受けてこれを防衛したという記録も残っており 6 、赤尾津氏が独自の外交戦略を展開していたことが窺える。
3. 赤尾津家保の生涯と参照列伝の検証
3.1. 「赤尾津家保」の呼称について
赤尾津家保という人物は、史料によっていくつかの異なる呼称で記録されている。参照列伝では「赤尾津家保」と記されているが、他の史料では天文元年(1532年)の出来事の主体として「赤尾津左衛門尉家保」という名が見られる 6 。また、元亀三年(1572年)の戦いで討死した人物として「赤尾津左衛門」という名が複数の史料に登場する 2 。
ここで「左衛門尉(さえもんのじょう)」とは、武士が朝廷から任じられた、あるいは自称した官途名の一つである。「左衛門」は、その「左衛門尉」の略称、あるいはより一般的な通称として用いられたものと考えられる。そして「家保」は、彼の諱(いみな、実名)である。戦国時代の武士が、公式な場面では官途名と諱を併記し、日常的には官途名や通称で呼ばれることは一般的であった。天文元年(1532年)から元亀三年(1572年)という活動期間も、一人の人物の生涯として不自然ではない。これらのことから、「赤尾津家保」「赤尾津左衛門尉家保」「赤尾津左衛門」という呼称は、すべて同一人物、すなわち本報告書の対象である赤尾津家保を指している可能性が極めて高いと判断できる。これにより、異なる史料に記された事績を統合し、赤尾津家保という一人の武将の生涯として捉え直すことが可能となる。
3.2. 天文元年(1532年):前田道信の侵攻と迎撃
天文元年(1532年)、仙北地方の大曲城(現在の秋田県大仙市)を本拠とする城主・前田又左衛門道信が、由利郡への勢力拡大を意図して侵攻してきた 6 。この時、赤尾津左衛門尉家保は、この侵攻軍を迎え撃ち、前田道信を討ち取るという戦果を挙げたとされる 6 。『大曲城記』などの記録によれば、道信は赤尾津氏・羽川氏ら由利衆との合戦において、流れ矢に当たって討死したと伝えられている 2 。
この戦勝は、赤尾津家保個人の武勇を示すものであると同時に、当時の赤尾津氏が由利郡内において相当な軍事力を保持し、外部からの侵攻に対して有効な防衛能力を持っていたことを物語っている。侵攻してきた敵将を討ち取るという結果は、赤尾津氏の武名を高め、由利郡内におけるその地位をより強固なものにしたと考えられる。この勝利が、後の豊臣政権下において赤尾津氏が由利衆の中で最大の石高を認められるに至る評価の一因となった可能性も否定できない。
3.3. 元亀三年(1572年):前田利信による仇討ちと家保の戦死
天文元年の戦いから40年後の元亀三年(1572年)、かつて赤尾津家保に討たれた前田道信の次男である前田又次郎利信(官途名は薩摩守とされ、前田薩摩守利信とも呼ばれる 8 )が、父の仇を討つべく兵を挙げた。利信は、単独での雪辱が困難と判断したのか、あるいはより確実な勝利を期したためか、当時仙北地方で勢力を拡大しつつあった角館城主・戸沢氏の支援を取り付けて、赤尾津領へと侵攻した 2 。
この戦いにおいて、赤尾津左衛門(家保)は奮戦したものの、衆寡敵せず、ついに討死を遂げたと複数の史料が伝えている 2 。
この一連の出来事は、戦国期における勢力関係の流動性を如実に示している。1532年の戦いでは赤尾津氏と共闘した可能性も指摘される羽川氏( 8 の記述から)、あるいは中立的であったかもしれない戸沢氏が、40年後には前田氏に与して赤尾津氏を攻撃する側に回っている。これは、この期間における由利郡内外の勢力バランスの変化や、各勢力間の同盟・敵対関係が絶えず変動していたことの証左である。戸沢氏が前田利信に加担した背景には、赤尾津氏の勢力拡大を警戒する意図があったのか、あるいはこれを機に仙北方面から由利郡への影響力をさらに強めようとする戦略的判断があったのかもしれない。戸沢氏にとって、赤尾津氏の弱体化は、由利郡における自らの発言力を増す好機と映った可能性が高い。
赤尾津家保の戦死は、赤尾津氏にとって指導者を失うという大きな打撃であったことは想像に難くない。同時に、この出来事は、由利郡における戸沢氏や他の仙北勢力の影響力が増大する一つの契機となった可能性も考えられる。
3.4. 家保の没年について
複数の史料において、赤尾津左衛門(家保)が前田利信(戸沢氏援軍あり)との戦いで討死した年が元亀三年(1572年)と記されていることから 2 、これが赤尾津家保の没年であると結論づけられる。
4. 赤尾津家保没後の赤尾津氏
4.1. 赤尾津二郎・九郎らの活動
赤尾津家保の戦死は一族にとって大きな痛手であったが、赤尾津氏はその後も一定の勢力を保持し、活動を継続した。家保の子、あるいは近親者と目される人物たちの動向が史料に見られる。
その代表的な例が、天正七年(1579年)の出来事である。この年、赤尾津二郎(家保の子息か)は、同じく由利衆である羽川金剛丸、打越氏、岩谷氏、石沢氏、潟保氏らと連合し、かつての仇敵である前田氏の本拠・大曲城を攻撃した 2 。この時、大曲城主であった前田薩摩守利信は上洛中で不在であり、城を守っていた弟の大曲五郎が討死し、大曲城は由利衆連合軍によって陥落させられた 2 。
この大曲城攻略は、家保を討たれてからわずか7年後のことであり、赤尾津氏の雪辱にかける執念の強さを示すとともに、依然として由利郡内で他の豪族を糾合し、共同軍事行動を主導するだけの指導力と影響力を保持していたことを物語っている。前田氏の勢力拡大に対する由利衆全体の警戒感、あるいは赤尾津氏の呼びかけに応じるだけの結束力が依然として存在したことが背景にあったと考えられる。この勝利は、一時的に赤尾津氏の勢威を回復させたかもしれないが、周辺には安東氏、小野寺氏、最上氏といったより大きな勢力が存在しており、長期的な安定を確保するには至らなかったであろう。
また、天正十六年(1588年)頃には、赤尾津氏の二男とされる赤尾津九郎が、同じ由利十二頭の一員であった羽川氏の羽川小太郎義稙を謀略によって滅ぼし、羽川新館を奪い取って羽川主膳正九郎を名乗ったという、やや物騒な伝承も残されている 2 。同年には、由利十二頭の諸氏が矢島城主・矢島満安を攻撃し、西馬音内城に追いやったとされる事件にも、赤尾津氏が関与していた可能性が示唆されている 2 。これらの出来事は、戦国末期の由利郡内における勢力争いの激しさと、赤尾津氏がその中で積極的に行動していた様子を伝えている。
4.2. 豊臣政権下での赤尾津氏
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置が行われ、全国統一が達成されると、由利郡の諸豪族も「由利衆」として豊臣政権の支配体制に組み込まれた。赤尾津氏(史料によっては小介川氏とも記される)もこの由利衆の一員として所領を安堵されている 1 。前述の通り、赤尾津氏は由利地方において最大級の約4,300石の所領を認められたと推定されており 1 、これは豊臣政権からもその実力を高く評価されていたことの現れと言えよう。豊臣政権下では、由利衆は安東(秋田)実季の指揮下に入り、「隣郡之衆」として材木切り出しやその廻漕といった軍役を負担させられた記録が残っている 1 。
4.3. 関ヶ原の戦いと赤尾津氏の改易
慶長五年(1600年)、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発すると、東北地方の諸大名・国人も東軍(徳川方)と西軍(豊臣方)のいずれにつくか、重大な選択を迫られた。赤尾津氏は、この時、東軍に与した最上義光の指揮下に入り、山形まで出陣したとされている 1 。しかし、その後の戦況の展開や情報錯綜、あるいは国元の防衛への懸念など、何らかの理由により、戦いの途中で義光の許可を得ずに戦線を離脱し、本拠地である赤尾津へ帰還してしまったという 2 。
この行動が、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康方の不興を買い、戦後処理において赤尾津氏は所領を没収され、改易という厳しい処分を受けることとなった 1 。関ヶ原の戦いという未曾有の大乱において、地方の小勢力が生き残りをかけて下した判断の難しさと、中央の大きな政争の波に翻弄される様が窺える。当時の東北地方は、西軍方の上杉景勝の動向などもあり、情報が錯綜し、情勢が極めて不安定であった 13 。そのような状況下での帰国という判断は、結果として赤尾津氏の命運を左右することになったのである。
4.4. 改易後の一族の動向
赤尾津氏本宗家は改易によって領主としての地位を失ったが、一族の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。改易後、赤尾津氏の一族の中には、大井氏や池田氏といった姓を名乗り、最上氏に仕官した者たちがいたと伝えられている 1 。その後、元和八年(1622年)に最上氏が改易されると、さらにその一部は秋田藩主となった佐竹氏に仕えた 1 。
また、赤尾津氏の後裔で、後に由利郡矢島郷を支配した矢島藩(当初は生駒氏、後に仁賀保氏の分家が継承)に仕えた一族は、かつての赤尾津氏の別称であった小介川氏を名乗ったことが知られている 1 。
特筆すべきは、赤尾津氏の庶流から仁賀保氏へ養子に入った赤尾津勝俊、後の仁賀保挙誠(にかほ きよしげ)の存在である 1 。挙誠は、関ヶ原の戦いにおいて東軍方として活躍し、その功績により江戸幕府から所領を安堵され、最終的には1万石の仁賀保藩の初代藩主となった。これは、赤尾津氏の血筋が、形を変えながらも近世大名として存続した稀有な事例と言えるだろう。
表2:赤尾津家保および赤尾津氏関連年表
年代 |
主な出来事 |
関連人物 |
主な出典(例) |
宝徳二年(1450年) |
小介川氏、幕府より未進年貢等催促の遵行を促される |
小介川氏 |
1 |
暦応二年(1339年) |
(伝承)小笠原伯耆守光貞、由利郡に入部し赤尾津氏を称す |
小笠原光貞 |
2 |
天文元年(1532年) |
赤尾津左衛門尉家保、侵攻してきた前田又左衛門道信を迎え撃ち、討ち取る |
赤尾津家保、前田道信 |
6 |
元亀三年(1572年) |
赤尾津左衛門(家保)、前田利信(戸沢氏支援)に攻められ戦死 |
赤尾津家保、前田利信、戸沢氏 |
6 |
天正七年(1579年) |
赤尾津二郎、羽川金剛丸ら由利衆と共に大曲城を攻略、前田薩摩守の弟大曲五郎討死 |
赤尾津二郎、前田利信 |
2 |
天正十年(1582年) |
赤尾津二郎、大宝寺氏の侵攻に対し安東愛季の援助を受け防衛 |
赤尾津二郎、安東愛季 |
6 |
天正十六年(1588年)頃 |
(伝承)赤尾津九郎、羽川氏を滅ぼす。由利十二頭、矢島満安を攻める |
赤尾津九郎 |
2 |
天正十八年(1590年)以降 |
豊臣政権下で由利衆として所領安堵(約4,300石と推定) |
赤尾津氏当主 |
1 |
慶長五年(1600年) |
関ヶ原の戦いで最上義光に従軍するも、無断帰国 |
赤尾津氏当主 |
2 |
慶長五年(1600年)以降 |
関ヶ原の戦後処理により改易、所領没収 |
赤尾津氏当主 |
1 |
江戸時代初期 |
一族の一部は最上氏、佐竹氏、矢島藩などに仕える。仁賀保挙誠は仁賀保藩主となる |
赤尾津氏一族、仁賀保挙誠 |
1 |
5. 赤尾津家保および赤尾津氏に関する史料的考察
5.1. 『由利十二頭記』の史料価値
赤尾津氏を含む由利地方の戦国期の動向を伝える史料として、『由利十二頭記』(一名『矢島十二頭記』とも)が存在する。これは江戸時代初期に成立したとみられる軍記物であるが、その記述内容には注意が必要である。特に、矢島氏の大井五郎満安の武勇伝が中心となっており、特定の氏族の活躍を強調する傾向が見られる 19 。赤尾津氏に関する記述も散見されるが 20 、その記述の歴史的正確性については、他の一次史料や客観的な記録との比較検討が不可欠である。軍記物特有の脚色や誇張が含まれている可能性を常に念頭に置く必要がある。
5.2. 赤尾津氏の家紋について
本報告書の調査において、赤尾津氏固有の家紋を特定することは困難であった。戦国武将の家紋に関する資料や、秋田県関連の家紋資料を調査したが、赤尾津氏に直接結びつく確かな情報は得られなかった 14 。赤尾津氏の後裔とされる小助川氏が矢島藩に仕えた際に使用した家紋に関する情報は存在するが 15 、これが赤尾津氏の時代から継承されたものかどうかは不明である。
5.3. 参照情報の取捨選択について
調査の過程で、土佐国(現在の高知県)の赤尾津氏に関する情報も散見された 2 。この土佐赤尾津氏は、長宗我部氏の家臣で、津野氏の庶流とされている。しかし、本報告書の主題である出羽国由利郡の赤尾津氏との直接的な関連を示す史料は見当たらなかった。日本の歴史上、同名あるいは類似した名称の氏族が異なる地域に存在することは珍しくないため、本報告書では、依頼内容および参照列伝の記述に基づき、出羽国由利郡を本拠とした赤尾津氏に焦点を絞り、土佐国の赤尾津氏に関する情報は対象外とした。
6. おわりに
本報告書では、戦国時代の出羽国由利郡に生きた武将・赤尾津家保とその一族である赤尾津氏の歴史について、現存する史料に基づいて考察を試みた。
赤尾津家保は、仙北大曲城主・前田道信の侵攻を退け、これを討ち取るという武功を挙げたものの、後に道信の子・利信によって仇討ちの戦いに敗れ、元亀三年(1572年)に戦死するという、劇的な生涯を送った武将であったことが確認された。
家保の死後も、赤尾津氏はその子・二郎らを中心に由利郡内で活動を続け、一時的には仇敵である前田氏の本拠・大曲城を攻略するなど、勢力の維持と回復に努めた。豊臣政権下では由利衆の中でも最大の石高を誇るなど、その実力は高く評価されていた。しかし、関ヶ原の戦いにおける政治判断が結果的に裏目に出て改易の憂き目に遭い、領主としての赤尾津氏は歴史の表舞台から姿を消すこととなった。
それでも、赤尾津氏の血脈は完全に絶えたわけではなく、一族の一部は最上氏や秋田藩主佐竹氏、あるいは矢島藩などに仕官し、武士としての家名を後世に伝えた。特に、赤尾津氏から仁賀保氏へ養子に入った仁賀保挙誠が仁賀保藩主となったことは、戦国乱世を生き抜いた地方豪族の多様な運命を象徴する事例と言えるだろう。
赤尾津家保および赤尾津氏に関する研究は、史料の断片性や軍記物の記述の性質などから、なお多くの課題を残している。しかし、彼らの歴史的軌跡は、戦国時代における地方小勢力の動態、中央政権との複雑な関わり、そして近世封建体制への移行期における武家の盛衰を具体的に理解する上で、極めて興味深い事例を提供してくれる。今後のさらなる史料の発見や研究の進展により、赤尾津家保とその一族の実像がより鮮明になることが期待される。
7. 参考文献
本報告書の作成にあたり、以下の資料群を参照した。
- ウェブサイト「Wikipedia」各関連ページ(「由利十二頭」 1 、「赤尾津氏」 21 、「仁賀保挙誠」 17 、「前田氏」 24 など)
- ウェブサイト「日本の城がわかる事典」(コトバンク所収)「由利十二頭」 3
- ウェブサイト「城郭放浪記」各関連ページ(「大曲城」 8 、「赤尾津城」 2 、「神宮寺館」 26 、「山根館」 27 )
- ウェブサイト「亀田の歴史(亀田地区地域づくり協議会)」各関連ページ(「亀田の歴史年表」 6 、「亀田の領主」 2 )
- ウェブサイト「藩史総覧(事典・辞書サイト Weblio辞書)」仁賀保藩の項 4
- 仙北市教育委員会「戸沢氏について」 10
- 由利本荘市ウェブサイト各関連ページ(「大井五郎満安」 19 、「由利の歴史」 5 、「小助川家の雛人形」 15 )
- 秋田県公文書館「平成22年度企画展 戦国時代の秋田」 23
- 秋田県立博物館研究報告 第4号「中世後期における出羽国由利地方の様相」 29
- 秋田県埋蔵文化財センター研究紀要「古代~中世移行期の秋田県域」 30 (岩城町史関連)
- その他、各スニペットに記載されたURLのウェブページ( 9 など)
(注:上記参考文献リストは、提供されたスニペットIDから主要な情報源を抽出しまとめたものです。実際の学術報告書では、より厳密な書誌情報が必要となります。)
引用文献
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- 赤尾津城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/akita/akoudu/akoudu.html
- 由利十二頭(ゆりじゅうにとう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%B1%E5%88%A9%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%A0%AD-1431998
- 藩史とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%97%A9%E5%8F%B2
- 六郷氏・岩城氏・打越氏、由利本荘市入部400年 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/987/400_rekishi_1027.pdf
- 亀田の歴史 https://vas-2.sakura.ne.jp/R02-kameda_rekisi.htm
- 亀田の領主 https://vas-2.sakura.ne.jp/R05-ryousyu.htm
- 大曲城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/akita/oomagari/oomagari.html
- 諏訪神社 http://akita-jinjacho.sakura.ne.jp/tatsujin_etc/kennsaku/daisen_oomagari/24_suwa_kamioomati.html
- www.city.semboku.akita.jp https://www.city.semboku.akita.jp/sc_saisyo/pdf/tozawashi.pdf
- 赤尾津城の見所と写真・全国の城好き達による評価(秋田県由利本荘市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1343/
- 第二章 鳥海山北麓の歴史と文化 - 由利本荘市 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/566/1003566_003.pdf
- 織田豊臣時代の由利郡 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/yashima/kinenkan/kodai07.htm
- 赤尾津氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%B4%A5%E6%B0%8F?dictCode=WKPKM
- 絶対見たい!おひな様 - 由利本荘市観光協会 https://yurihonjo-kanko.jp/yrdb/mitai-ohinasama/
- 「由利十二頭」と「赤尾津(あこうづ)氏」についての資料はあるか。 - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000099718
- 仁賀保挙誠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
- 仁賀保挙誠とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
- 由利十二頭の豪傑 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/yashima/kinenkan/ooigorou01.htm
- 亀田町(かめだまち)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E7%94%B0%E7%94%BA-1292847
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