赤松則房は播磨赤松氏当主。信長・秀吉に仕え、賤ヶ岳・四国征伐等に従軍。阿波住吉1万石を加増され「置塩殿」と呼ばれた。慶長3年死去とされるが、死因・後継者則英の実在性には諸説ある。
本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将、赤松則房(あかまつ のりふさ)の生涯、事績、人物像、そして彼を取り巻く赤松氏の状況について、現存する史料に基づき多角的に調査し、その実像に迫ることを目的とします。赤松則房は、播磨の名門守護大名であった赤松氏の嫡流として生まれ、織田信長、豊臣秀吉に仕え、播磨置塩城主、後に阿波住吉城主として一万石を領した人物です 1 。
則房の生きた時代は、室町幕府の権威が失墜し、群雄割拠の戦国乱世から豊臣政権による天下統一へと移行する激動期でした。かつては播磨・備前・美作の守護として権勢を誇った赤松氏も、この時代には大きく衰退していました 1 。則房は、この斜陽の赤松氏を率い、新たな支配者である豊臣秀吉の麾下で生き残りを図った武将として位置づけられます。
則房を理解する上で重要なのは、彼が背負っていた「名門赤松氏」という看板と、戦国末期におけるその実力の乖離です。赤松氏は室町幕府の四職に数えられた名家であり 2 、則房自身も「旧守護としての権威を利用し、播磨国においていまだ一定の影響力を保持していた」とされます 1 。しかし、その実態は往時の勢いを失い、「衰退した赤松氏」というのが実情でした 1 。この名門意識と現実の力の狭間で、則房がどのような戦略を描き、家名を保とうとしたのかは、彼の行動を読み解く鍵となります。秀吉のような新興勢力にとって、赤松氏の「権威」や「影響力」は、たとえ実力が伴わなくとも、利用価値のあるものだった可能性があります。則房自身も、その点を自覚し、名門の血筋を巧みに利用しつつ、現実的な判断で秀吉に臣従したのではないでしょうか。
もう一つの重要な点は、則房に関する史料の偏在とその意味です。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐、朝鮮出兵と、豊臣政権下の主要な戦役には軒並み名を連ねています 1 。しかしながら、「派手な参陣記録とは裏腹に資料が少なく、そのことから様々な憶測も呼び、小説などで取り上げられた例もある」と指摘されているように 1 、具体的な活動内容や軍功に関する記録は乏しいのが現状です。この史料の少なさが、則房の歴史的評価を難しくしています。単に動員された兵力の一つとして数えられ、特筆すべき独自の功績が少なかったため記録に残らなかったのか、あるいは赤松氏の最終的な衰退・断絶が記録の散逸を招いたのか。この史料の乏しさが、則房個人の力量の問題なのか、それとも記録伝承の過程の問題なのかという問いは、本報告書を通じて考察すべき点の一つです。
赤松氏の起源については諸説ありますが、一般的には村上源氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代に播磨国佐用荘赤松谷(現在の兵庫県佐用町)を名字の地としたことに始まると伝えられています 4 。初期の系譜、例えば始祖とされる則景や、家範の代に初めて赤松氏を名乗ったとする説など 4 、不明な点も少なくありませんが、赤松円心(則村)の登場によって、赤松氏は歴史の表舞台で大きな役割を果たすようになります 5 。
円心は、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応し、後に足利尊氏に与して室町幕府の創設に大きく貢献しました。その功績により播磨守護職を得て、赤松氏発展の基礎を築きました 2 。円心の子・則祐、孫・義則の時代には、播磨・備前・美作の三国守護を兼ね、室町幕府の四職の一つに数えられるなど、赤松氏は全盛期を迎えます 2 。
しかし、栄華は長くは続きませんでした。嘉吉元年(1441年)、6代将軍足利義教を自邸に招いて謀殺するという嘉吉の乱を引き起こした赤松満祐は、山名宗全ら幕府軍の追討を受けて敗死し、赤松宗家は一時滅亡の憂き目に遭います 2 。その後、一族や旧臣たちの尽力により、満祐の甥にあたる赤松政則が家名を再興し、置塩城(兵庫県姫路市)を築いて播磨・備前・美作の三国を回復するなど、一時的に勢力を盛り返しました 2 。
ところが、戦国時代に入ると、守護代であった浦上氏の台頭や一族間の内紛が頻発し、赤松氏は再び衰退の道を辿ることになります 2 。この赤松氏の歴史に見られる、幕府創設への貢献による隆盛、将軍暗殺という未曾有の事件による滅亡、そして再興後の再度の衰退という劇的な盛衰の繰り返しは、則房の時代の赤松氏が置かれた状況を理解する上で極めて重要な背景となります。則房もまた、この一族が背負ってきた栄光と没落の記憶、いわば「業」のようなものを意識せざるを得なかったのではないでしょうか。この歴史的背景こそが、則房が「旧守護としての権威」 1 を持ちながらも、実力では他の戦国大名に劣るという、ある種のジレンマを抱えた状況を生み出したと考えられます。
さらに、赤松氏の衰退には、守護代や庶流の台頭といった内部対立が常に影を落としていました。これは則房の父・義祐の時代にも顕著であり、則房自身の立場や決断にも影響を与えた可能性があります。浦上氏の離反や一族内の対立は政則の時代以降も続き 2 、義祐も一族の赤松政秀や息子の則房と対立した記録が残っています 8 。このような内部の不安定さが、織田氏や毛利氏といった外部勢力の介入を招き、赤松氏の自立性を徐々に削いでいったと考えられます。則房の豊臣秀吉への臣従も、こうした複雑な背景の中で下された、家名存続のための現実的な選択であったと見ることができるでしょう。
赤松則房の父は、赤松義祐(よしすけ)です 1 。義祐の時代、赤松氏は既に往時の勢いを大きく失っていました。播磨国内においても、龍野赤松氏や別所氏、小寺氏といった国人領主が勢力を伸張し、赤松本家の支配力は本拠地である置塩城周辺に限定されつつありました 8 。
義祐は、父である晴政を追放して家督を継承したとされていますが 8 、その治世も平穏ではありませんでした。史料によれば、後に息子の則房とも対立し、一時は三木城の別所安治を頼ったこともあったとされます。その後、則房と和解して置塩城に復帰したと伝えられていますが 8 、具体的な対立の原因や和解の経緯に関する詳細な史料は乏しいのが現状です 8 。外部環境に目を向けると、義祐は東から勢力を拡大する織田信長に対し、これと誼を通じようと試みています 2 。
義祐と則房の父子対立の背景については、史料が限られているため断定は困難です。単なる個人的な確執であった可能性も否定できませんが、当時の播磨国が織田氏と毛利氏という二大勢力の係争地であったことを考慮すると、家中の路線対立、例えば織田方につくか毛利方につくかといった外交方針を巡る意見の相違が根底にあった可能性も考えられます。義祐が織田信長に接近しようとした一方で 2 、則房は後に秀吉(織田勢力)に降伏しています 1 。もし対立が外交方針の違いに起因するものであったとすれば、当初は織田への接近に慎重だったかもしれない則房が、最終的には父の路線を継承する形で秀吉に臣従した、という解釈も成り立ちます。あるいは、対立の原因が他にあったとしても、結果的に則房は織田・豊臣ラインに乗ることで家の存続を図ったと言えるでしょう。
ある史料は、義祐を「かなりアクの強い人物だったと想定され」ると評しています 9 。父を追放し、子とも対立したという経歴は、その評価を裏付けているのかもしれません。このような強烈な個性を持つ父の存在が、則房の人格形成や政治判断にどのような影響を与えたのかは、非常に興味深い点です。
天正5年(1577年)頃から本格化した織田信長の中国攻めに際し、羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、赤松則房は秀吉に降伏し、その軍門に下りました 1 。播磨の他の国衆、例えば小寺政職などが去就に揺れ動く中、則房が比較的早い段階で秀吉に恭順の意を示したことは、その後の彼の処遇に影響を与えた可能性があります。播磨は織田氏と毛利氏の勢力が衝突する最前線であり、則房は「旧守護としての権威」こそ保持していたものの、その実力は限定的でした 1 。このような状況下で、圧倒的な勢力を誇る秀吉に早期に臣従することは、斜陽の名門赤松氏の家名を存続させるための、極めて現実的な選択であったと考えられます。
天正6年(1578年)、播磨三木城主の別所長治が信長に対して反旗を翻した際も、則房は織田方に留まり、別所氏やこれに同調した宇野氏と戦ったとされています 12 。この行動は、秀吉からの信頼を得る上で大きな意味を持ったと考えられ、結果として本領安堵に繋がったのでしょう。
羽柴秀吉に降った赤松則房は、本領である播磨置塩(現在の兵庫県姫路市夢前町)において一万石の所領を安堵されました 1 。これは、名門赤松氏の旧領の一部とはいえ、戦国乱世の中でその存続を許されたことを意味します。戦国大名としては決して大きな石高ではありませんが、秀吉政権下で大名として認められる一つの目安が一万石であったことを考慮すると、則房は独立した領主としての地位を辛うじて維持できたと言えます。これは、彼の家格や早期の臣従が秀吉に評価された結果であると考えられます。秀吉は中国攻めの過程で、降伏した国衆を自身の勢力下に巧みに組み込んでいきましたが、播磨の名族赤松氏の当主である則房の影響力は、たとえ衰退期にあったとしても無視できなかったのでしょう。一万石の安堵は、則房を秀吉の軍事力の一翼として組み込みつつ、播磨における一定の安定を図るための戦略的な措置であったと推察されます。
赤松則房の本拠地であった置塩城は、嘉吉の乱後に赤松宗家を再興した赤松政則が、播磨守護への就任に合わせて文明元年(1469年)に築城したと伝えられる、播磨国で最大規模を誇る山城です 7 。以後、義村、晴政、義祐、そして則房と、後期赤松氏5代にわたる本城として機能しました 7 。
置塩城は、標高370メートルの城山山頂に位置し、本丸跡からは姫路城をも遠望できる戦略的にも景観的にも優れた立地でした。平成13年(2001年)から17年(2005年)にかけて行われた発掘調査では、主郭部分から礎石建物や庭園の跡が確認され、格式の高い屋敷が存在したことが明らかになっています。さらに、伝本丸跡からは、基礎部分に塼(せん、焼きレンガ)や瓦を用いた、天守にも似た櫓状の大型建物の痕跡も発見されており 7 、往時の赤松氏の権勢を偲ばせます。城域は広大で、本丸、二の丸、三の丸のほか、各所に石垣が残り、堅固な防御施設を備えていたことが窺えます 14 。
しかし、この赤松氏の象徴とも言える置塩城も、時代の趨勢には抗えませんでした。天正8年(1580年)、播磨を平定した羽柴秀吉は、翌天正9年(1581年)に、播磨国内の置塩城を含む諸城の破却を命じました 7 。これは、秀吉による播磨支配体制の確立と、在地勢力の軍事力を解体する政策の一環と考えられます。秀吉は播磨平定後、支配体制を磐石なものとするため、国衆の城を破却する、いわば後の一国一城令の先駆けとも言える政策を推進しました。置塩城は播磨最大の山城であり 14 、赤松氏の軍事力の象徴でした。この城の破却は、則房が秀吉の支配下に完全に組み込まれたことを視覚的に示すものであり、他の播磨国衆に対する示威的な意味合いも含まれていた可能性があります。則房が天正13年(1585年)に阿波国へ移封されるまでの間に、置塩城は廃城となったと考えられています 7 。本城の破却は、則房にとって赤松氏の拠り所を失うことを意味し、秀吉への完全な従属を象徴する出来事であったと言えるでしょう。そして、この置塩城破却と阿波移封は連動した動きであり、播磨における赤松氏の勢力基盤を完全に解体し、新たな土地で豊臣大名として再出発させるという秀吉の明確な意図があったと考えられます。
赤松則房は、豊臣秀吉の家臣として、天正11年(1583年)に勃発した賤ヶ岳の戦いに参陣しました 1 。この戦いは、織田信長亡き後の主導権を巡る秀吉と柴田勝家との決戦であり、秀吉が勝利を収め、天下統一への道を大きく前進させる契機となりました。則房の具体的な戦功に関する記録は乏しいものの、秀吉方の一翼を担い、その勝利に貢献したと考えられます。
賤ヶ岳の戦いに引き続き、翌天正12年(1584年)には、織田信雄・徳川家康連合軍と秀吉との間で戦われた小牧・長久手の戦いにも従軍しました 1 。この戦いにおいても、則房の具体的な役割や功績は史料からは判然としません 15 。しかし、秀吉軍の主要な構成員として動員されたことは間違いなく、秀吉の天下統一事業を支える一武将としての立場を継続していたことが窺えます。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉は長宗我部元親の勢力下にあった四国の平定に乗り出します(四国征伐)。赤松則房もこの四国征伐に従軍しました 1 。この戦役における則房の具体的な戦功は明らかではありませんが、その忠勤が評価された結果、播磨置塩一万石に加えて、阿波国住吉(現在の徳島県板野郡藍住町一帯)に新たに一万石を加増され、合計二万石の大名となりました 1 。ただし、一説には播磨置塩領は没収され、阿波一万石のみの知行となったとも伝えられています 1 。
新たに与えられた阿波国の領地には住吉城(徳島県板野郡藍住町住吉字神蔵)があり、則房はここを新たな拠点としました 2 。住吉城は、東西83.4メートル、南北100メートルの規模であったと記録されています 2 。この四国征伐後の阿波加増は、則房の忠勤に対する恩賞であると同時に、平定間もない四国における豊臣政権の支配体制を強化する目的があったと考えられます。当時、同じく阿波に入部した蜂須賀家政との関係において、旧勢力との緩衝材としての役割や、蜂須賀氏を補佐する立場を期待された可能性も指摘されています 17 。秀吉は則房に対し、播磨置塩の本領一万石の安堵を継続した上で阿波住吉一万石を与えたとする史料もあり 13 、これは旧領と新領の双方を領有させることで則房の経済基盤を強化しつつ、新領の統治にも当たらせる意図があったと解釈できます。阿波移封後の則房の具体的な事績については「ほとんどわかっていない」 12 とされていますが、住吉城を拠点とした統治の痕跡は、現在の藍住町にも残されています 2 。
一方で、播磨置塩領が没収され阿波一万石のみになったという説 1 は、秀吉による中央集権的な支配体制強化策と関連付けて考えることができます。前述の置塩城破却命令 7 と合わせて考察すると、秀吉が播磨における赤松氏の伝統的な基盤を完全に解体し、則房を阿波という新天地で純粋な豊臣大名として再出発させようとした意図があったのかもしれません。この点については史料によって記述が異なっており、則房の立場を理解する上で重要な論点であり、さらなる検討が必要です。
赤松則房は、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定にも従軍した記録が残されています。豊臣軍の陣立を記した史料によれば、肥後方面軍の二番隊に「赤松広英」という名が見えます [20, 35]。この「赤松広英」が則房本人を指すのか、あるいは則房の子である則英、もしくは龍野赤松氏の赤松広秀(後に広通に改名)など、一族の別の人物であるのかについては、慎重な検討が必要です。史料 19 には、「人を率いて出陣し日向国高城・根白坂の砦を守り、島津軍と奮戦し大勝利を得た」とあり、これがもし則房自身のことであれば、特筆すべき大きな軍功となります。
この「赤松広英」の同定問題は、則房の軍事キャリアを評価する上で非常に重要です。もし則房本人であれば、彼が豊臣政権下の主要な戦役において継続的に軍事動員され、一定の役割を果たしていたことの証左となります。しかし、「広英」という名前が則房、則英、広秀のいずれかと明確に関連づけられるか、あるいは全く別の赤松一族の人物なのか、史料のクロスチェックが不可欠です。この同定が曖昧なままでは、九州征伐における「赤松」の功績を則房個人に帰属させることは困難です。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐(北条氏征伐)への参加については、史料 19 に「小田原北条征伐や文禄・慶長役にも出陣した」という記述が見られます。しかし、この史料も主語が明確ではなく、九州征伐の記述と連続しているため、前述の「赤松広英」(あるいはそれに類する人物)を指している可能性があります [35]。則房本人の小田原征伐への具体的な参加記録は、提示されたスニペットからは明確には確認できません 3 。
九州征伐と同様に、小田原征伐への参加も、「赤松」としては記録されていても、それが則房本人であるかどうかの確証が持てない場合、彼の軍歴を過大に評価してしまう危険性があります。豊臣政権下の大名として、政権の主要な軍事行動への参加は当然予想されるところではありますが、具体的な記録の有無とその内容の吟味は、歴史記述において不可欠な作業です。
西暦(和暦) |
出来事・合戦名 |
則房の立場・行動 |
結果・影響 |
関連史料 |
生年不詳 |
赤松則房、誕生 |
赤松義祐の子として誕生 |
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1 |
天正年間初頭か |
父・義祐より家督継承か |
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12 |
天正5年(1577年)頃 |
羽柴秀吉の播磨侵攻 |
秀吉に降伏 |
播磨置塩1万石安堵 |
1 |
天正8年(1580年) |
秀吉、播磨国内の諸城破却を命じる |
置塩城も対象となる |
後に廃城 |
7 |
天正11年(1583年) |
賤ヶ岳の戦い |
秀吉方として参陣 |
秀吉方の勝利 |
1 |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦い |
秀吉方として参陣 |
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1 |
天正13年(1585年) |
四国征伐 |
秀吉方として従軍 |
阿波国住吉1万石を加増(置塩領没収説あり)、住吉城主となる |
1 |
天正15年(1587年) |
九州征伐 |
「赤松広英」として従軍か(則房本人か、則英か、広秀か、あるいは別人か不明) |
日向高城・根白坂で奮戦し勝利と伝える史料あり 19 |
19 |
天正16年(1588年) |
賀島政慶を養子に迎える |
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赤松家中の内紛の一因となる説あり 18 |
1 |
天正18年(1590年) |
小田原征伐 |
「赤松広英」?として従軍か(九州征伐と同様に則房本人か不明) |
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19 |
文禄元年(1592年)~ |
文禄・慶長の役 |
肥前名護屋に出陣 |
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1 |
慶長3年(1598年) |
死去(7月17日) |
肥前名護屋にて病没説が有力だが、大坂での非業の死説、阿波病没説など諸説あり |
赤松氏嫡流の終焉に繋がる |
1 |
この年表は、則房の生涯における主要な出来事を時系列で整理し、彼の活動の変遷を概観することを目的としています。各出来事に関連する史料を併記することで、記述の根拠を示し、報告書の信頼性を高めることを意図しています。特に九州征伐や小田原征伐のように、則房本人の関与が確定できない情報については、その旨を注記することで、史料解釈の幅と現時点での課題を明確にしました。
赤松則房は、豊臣秀吉が主導した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍し、その前線基地であった肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町)まで出陣しました 1 。名護屋城は、朝鮮半島への渡海拠点として築かれ、全国から多くの大名が兵を率いてここに集結しました。
則房が実際に朝鮮半島へ渡海したのか、それとも名護屋に留まって後方支援などに従事したのか、具体的な陣中での活動記録については、提示されたスニペットからは詳細を明らかにすることはできませんでした 21 。文禄・慶長の役は豊臣政権の総力を挙げた一大事業であり、全国の大名が動員され名護屋に集った事実があります 23 。則房もその一員として名護屋に出陣したことは 1 、彼が豊臣政権下の大名として軍役を果たす立場にあったことを明確に示しています。たとえ渡海していなかったとしても、名護屋への出陣自体が豊臣政権に対する重要な軍役奉仕であり、大名としての責務を遂行したことを意味します。彼の具体的な活動が記録として残りにくい立場であったとしても、政権の命令に従って動員されたという事実は、彼の生涯を語る上で看過できません。
多くの史料において、赤松則房は慶長3年(1598年)7月17日に死去したとされています 10 。奇しくも、これは豊臣秀吉が没する約1ヶ月前のことです。
則房の死没地については、いくつかの説が存在し、情報が錯綜しています。最も一般的に伝えられているのは、朝鮮出兵に関連して肥前名護屋の陣中で病没したという説です 1 。これは文禄・慶長の役の時期と一致しており、多くの大名が慣れない土地での長期滞陣により病に倒れたことを考えると、自然な最期とも言えます。
しかしながら、異説も存在します。一つは、「大坂に出て非業の死を遂げた」とする説です 18 。この説の根拠として『赤松氏播備作旧記』という史料が挙げられることがありますが 12 、その具体的な内容や史料自体の信頼性についてはさらなる詳細な検討が必要です。もしこの説が事実であれば、則房の晩年が穏やかでなかった可能性を示唆し、その死因に何らかの政治的背景や家中の問題が絡んでいたことも考えられます。
また、阿波国へ移封された後、同地で病没したとする説 21 や、関ヶ原の合戦で西軍について自害したという説 21 も散見されます。ただし、関ヶ原関連の説については、後述する息子の赤松則英との混同の可能性が高いと考えられます。
このように則房の最期に関する情報が錯綜しているのは、史料の乏しさに加え、赤松氏嫡流が彼の死後に実質的に終焉を迎えるという歴史的状況が影響している可能性があります。「肥前名護屋病没説」が比較的多くの史料で支持されているように見受けられますが、「大坂非業の死説」も、特に後述する養子問題や家中の内紛と関連付けて語られることがあり、無視できない説と言えるでしょう。これらの説の根拠となる一次史料の特定と、それに対する批判的な検討が、則房の最期を明らかにするための鍵となります。
説 |
主な根拠史料(あれば) |
内容・背景 |
備考(有力度、研究者の見解など) |
肥前名護屋にて病没説 |
1 等 |
文禄・慶長の役に従軍中、肥前名護屋の陣中にて病により死去したとする説。 |
多くの史料で支持されており、最も一般的な説と考えられる。 |
大坂にて非業の死説 |
18 |
何らかの事件に巻き込まれるなどして大坂で死去したとする説。養子問題や家中の内紛との関連が一部で推測されることもある。 |
『赤松氏播備作旧記』の記述内容や信頼性についての詳細な検討が必要。事実であれば、則房の晩年が穏やかでなかったことを示唆する。 |
阿波にて病没説 |
21 |
阿波国住吉に移封後、同地で病により死去したとする説。 |
肥前名護屋説や大坂説と比較すると、支持する史料は限定的か。 |
関ヶ原合戦関連自害説 |
21 |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦後に自害したとする説。 |
時期的に則房の死没年(慶長3年)と関ヶ原の戦い(慶長5年)が合致しないため、息子の赤松則英の事績との混同の可能性が極めて高いと考えられる。 |
この表は、赤松則房の最期に関する複数の説を一覧化し、それぞれの根拠とされる史料や背景を整理したものです。史料の解釈や人物の同定が難しい歴史研究の一端を示すとともに、則房の生涯の終焉に関する謎が未だ残されていることを示しています。
赤松則房の人物像を具体的に伝える史料は、残念ながら豊富とは言えません。しかし、断片的な記述から、彼の一端を垣間見ることは可能です。
特筆すべきは、豊臣秀吉からの評価です。則房は古くからの名門である赤松氏の出身ということもあり、秀吉からは「置塩殿」と呼ばれ、他の降伏した配下大名に比べて一定の敬意を払われていたと伝えられています 1 。秀吉は、自身の出自が低いことを補うため、伝統的な権威や家格を巧みに利用する傾向がありましたが、赤松氏が播磨の名族であり、「置塩」がその本拠地であったことを踏まえれば、「置塩殿」という呼称は、則房の家格に配慮を示しつつ、彼を豊臣政権のヒエラルキーの中に効果的に位置づけるための、秀吉の戦略的な配慮であった可能性が考えられます。これは、他の旧勢力に対する秀吉の処遇と比較検討する上で興味深い点です。
しかしながら、前述の通り、則房の派手な参陣記録とは裏腹に、具体的な戦闘指揮や政治的手腕を示す史料は乏しく、そのために彼の個性や能力を具体的に評価することは困難です 1 。彼がどのような人物であったかは、こうした断片的な情報や、彼が置かれた状況証拠から推測するほかないのが現状です。
赤松則房に関する史料として、近年注目されているのが「赤松則房雑談聞書」という記録の存在です 11 。これが則房自身の言葉や考えを伝える信憑性の高い史料であるならば、彼の人物像を理解する上で非常に貴重な手がかりとなる可能性があります。
スニペット 30 に見られる内容からは、この「雑談聞書」が日常の心得、当時の風習、言葉遣いの解説、さらには人間観や死生観にまで及ぶ、多岐にわたる内容を含んでいたことが推測されます。例えば、「妻を失う原因、それは側室を迎えること、体を求めすぎること、盗みを働くこと、悪口を言うこと、贅沢すること、子ができぬこと、悪い病にかかること」 30 や、「生きること、老いること、病気になること、死ぬことという人間の四つの苦しみを『四出の山(死出の山)』と言うといいでしょう」 30 といった記述は、則房の人間観察の鋭さや、仏教的な死生観の一端を反映しているのかもしれません。
「雑談聞書」という名称から、則房が語った内容を家臣などが聞き書きしたものと推測されます 11 。もしこの史料が則房自身の言葉を忠実に伝えているのであれば、彼の知性、教養、関心事などを知る上で一級の史料となり得ます。しかし、聞書という形式の性質上、筆記者の解釈や編集、あるいは後世の加筆や脚色が含まれている可能性も考慮しなければなりません。現時点では、この史料の全体像や学術的な評価はまだ十分に定まっているとは言えず、その取り扱いには慎重な史料批判が求められます。今後の研究によって、この「雑談聞書」の史料的価値がより明確になることが期待されます。
赤松則房に関する同時代の評価を直接的に示す史料は、極めて乏しいと言わざるを得ません。史料 9 によれば、父・義祐が「子則房と対立し、当主の座を追われたとされる」とあり、これが事実であれば、則房が父を凌駕するだけの実力や人望を家中で有していた可能性も考えられますが、その具体的な経緯や背景は不明です。
後世の評価についても、史料の少なさから限定的です。則房は、名門の出身でありながら、歴史の大きな転換期に翻弄され、最終的には豊臣政権下の一地方領主として生涯を終えた人物と言えます。その評価は、赤松氏全体の衰退という大きな文脈の中で語られることが多いかもしれません。しかし、織田・豊臣という新興勢力にいち早く臣従し、秀吉政権下で一定の所領を維持し、主要な戦役に参加し続けたという事実は、彼の処世術や、戦国武将としての一定の能力を示していると評価することも可能でしょう。史料の制約がある中で、彼の行動や決断を丁寧に追っていくことが、則房という武将の再評価に繋がるかもしれません。
赤松則房には、則勝(のりかつ)、則英(のりひで)、義則(よしのり)という複数の子がいたと伝えられています 1 。しかし、これらの子息たちの具体的な事績については、史料的な制約から不明な点が多く残されています。
則房の死後、家督を継いだとされるのが、子の赤松則英です。しかし、この則英という人物の実在性については、史料的に確認できないとする説が有力視されています 1 。史料 12 は、「赤松則英の実在は史料的に確認できず、赤松氏がどのようにして滅亡したのかすら現在では確かめる術がない」とまで述べています。
一方で、則英が存在したとする説においては、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したとされています。具体的には、石田三成の居城である佐和山城に籠城したものの、東軍の攻撃により落城が迫ると城を脱出し、後に京都の戒光寺で自害させられたと伝えられています 31 。また、則房と則英を同一人物とする説も存在し 3 、情報の錯綜が見られます。
則英の実在性が確認できない場合、則房の死をもって赤松氏の嫡流が実質的に終焉したと見なすことも可能です。もし則英が実在し、関ヶ原の戦いで西軍について敗死したのであれば、それが赤松氏の武家としての最終的な終焉を決定づけたことになります。豊臣恩顧の大名としての立場から西軍に付いたものの、敗戦によって改易・自害に至ったという、多くの西軍大名と同様の運命を辿ったと解釈できます。この則英を巡る問題は、赤松氏の歴史の結末を左右する重要な論点であり、今後の史料研究の進展が待たれます。
赤松則房は、天正16年(1588年)、阿波蜂須賀家の家老である賀島政慶(かしま まさよし)を養子として迎えています 1 。賀島政慶は、蜂須賀家政から「政」の偏諱と細山の苗字を与えられ、細山帯刀政慶(ほそやま たてわき まさよし)とも名乗りました 33 。
この養子縁組の背景には、則房に実子の後継者がいなかった、あるいは後継に不安があったこと、そして阿波国における新たな領主である蜂須賀氏との関係を強化し、赤松家の家名存続を図るという戦略的な意図があったと考えられます。
しかし、この養子縁組が家中に新たな火種を生んだ可能性も指摘されています。史料 18 によると、この養子縁組が原因で赤松家中に「置塩党」と「帯刀党」の内紛が生じ、則房が「大坂に出て非業の死を遂げた」一因になったという説があります。これが事実であれば、則房の晩年は決して穏やかなものではなかったことになります。「置塩党」はおそらく播磨以来の旧臣たちを指し、「帯刀党」は新たに養子として入った賀島政慶とその周辺勢力を指すと考えられます。阿波からの養子である政慶に対して、播磨以来の家臣団が反発した可能性は十分に考えられ、この内紛が則房の権威の低下や、最終的な悲劇に繋がったのかもしれません。ただし、この内紛や則房の「非業の死」に関する一次史料は乏しく、この説の信憑性については慎重な検証が必要です。
赤松則房の死、あるいはその子とされる則英が関ヶ原の戦いで自害した後(この説の信憑性には議論がありますが)、播磨の名門として名を馳せた赤松氏の嫡流は、大名としては実質的に断絶したと考えられています 2 。
則英の子孫と伝えられる系統は、武士としての道を断たれ、高野山にある赤松院の住職となったり、筑前国福岡藩の黒田氏に仕官したりするなどして、別の形で家名を後世に伝えたとされています 1 。これは、かつて室町幕府の四職に数えられたほどの権勢を誇った名門赤松氏の嫡流が、戦国末期から江戸初期にかけての激動の中で大名としての地位を失い、僧侶や他家の家臣として存続の道を探ったという、時代の大きな変化を象徴する出来事と言えるでしょう。則房の生涯は、まさにこの過渡期を生き、名門の終焉を見届けた武将の姿を映し出していると言えます。
本報告書では、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将、赤松則房について、現存する史料に基づいてその生涯と事績を追ってきました。則房は、播磨の名門守護大名であった赤松氏の当主として、戦国乱世の終焉と豊臣政権による天下統一という、日本史における大きな転換期を生き抜いた人物です。
織田信長の勢力拡大に伴い、羽柴秀吉に臣従し、播磨置塩一万石の本領を安堵された後、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州征伐(「赤松広英」としての参加の可能性)、そして文禄・慶長の役(肥前名護屋への出陣)と、豊臣政権下の主要な軍事行動に一貫して参加しました。四国征伐の功により阿波国住吉に一万石を加増され、一時は二万石(あるいは置塩領没収で阿波一万石)を領する大名となりました。秀吉からは「置塩殿」と呼ばれ、一定の敬意を払われていたことが窺えます。
しかしながら、その具体的な軍功や政治的手腕、あるいは個性を示す詳細な史料は乏しく、人物像については不明な点が多く残ります。特に晩年や慶長3年(1598年)の死因(肥前名護屋病没説、大坂非業の死説など諸説あり)、そして後継者であるとされる赤松則英の実在性やその後の動向については情報が錯綜しており、赤松氏嫡流の終焉と合わせて、多くの謎を抱えています。
赤松則房の実像に迫る上での最大の障壁は、やはり一次史料の乏しさです。本報告書も、現存する限られた史料に基づいて構成しましたが、多くの点が推測の域を出ないのが現状です。
今後の研究課題としては、まず「赤松則房雑談聞書」とされる史料の原本調査、史料批判、そして内容の網羅的な分析が挙げられます。この史料の信憑性が確認されれば、則房の人物像や当時の社会を知る上で画期的な情報を提供する可能性があります。
また、播磨や阿波の地方史料、あるいは則房が仕えた豊臣氏や関連大名家(蜂須賀氏、黒田氏など)の史料の中に、未発見あるいは未整理の赤松則房関連文書が残されている可能性も否定できません。これらの史料を丹念に渉猟し、新たな情報を発掘していく地道な作業が求められます。
さらに、九州征伐や小田原征伐における「赤松広英」や、則房の後継者とされる「赤松則英」といった関連人物との関係を、より確実な史料に基づいて明確にすることも、則房自身の評価をより正確に行う上で不可欠です。これらの課題に取り組むことで、赤松則房という、戦国末期を生きた一人の武将の姿が、より鮮明に浮かび上がってくることが期待されます。