最終更新日 2025-06-04

赤松則英

赤松則英は赤松則房の子とされ、阿波住吉1万石を相続。関ヶ原で西軍に属し佐和山城に籠城、脱出後京都で自害したとされるが、実在性には疑問がある。
「赤松則英」の画像

赤松則英に関する調査報告

はじめに

本報告書の目的と対象人物

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、赤松則英(あかまつ のりひで)について、現時点で入手可能な情報を総合し、詳細かつ徹底的な調査を行うことを目的とする。利用者より提示された「豊臣家臣。則房の子。父の死後、阿波住吉1万石を相続する。関ヶ原合戦では西軍に属して近江佐和山城に籠城。落城直前に脱出したが、戦後京都で自害した」との概要を出発点としつつ、則英の生涯、事績、そしてその歴史的評価について、史料に基づいた分析を試みる。

則英に関する史料調査の現状と課題

赤松則英に関する調査において最も重要な課題は、複数の資料において「則英の存在は史料的に確認されていない」と指摘されている点である 1 。この事実は、則英という人物の歴史的実在性そのものに根本的な疑問を投げかけるものであり、本報告書における中心的な論点の一つとなる。したがって、本調査は、伝承として語られる則英の姿と、その歴史的根拠に対する批判的な検討との間を往還しつつ進められる必要がある。

赤松則英の事例は、戦国時代研究においてしばしば直面する史学上の問題、すなわち、後世の編纂物や通俗的な伝承に見られる記述と、特に著名ではない人物に関する同時代史料の乏しさとの間の乖離をどのように扱うか、という問題の典型例と言える。人物概要の提示に対し、初期調査の段階で「存在が確認されていない」という重大な疑義が提示されることは、本報告が単なる伝記の再構成に留まらず、歴史的言説の成立過程そのものを問う批判的・探求的な性質を帯びることを示唆している。本報告の核心は、則英の「事実」を列挙すること以上に、それらの「事実」がいかにして記録され、また疑われるに至ったのかを探求することにある。これには、史料の性質、後世の編纂物の意図、そしてマイナーな人物に関する物語が構築され伝播する様相の考察が含まれる。

1. 赤松則英の出自と赤松氏

1.1. 赤松氏の略史

赤松氏は、播磨国を本拠とした名門守護大名であり、鎌倉時代から室町時代にかけて勢力を誇った 2 。特に嘉吉の乱(1441年)では室町幕府6代将軍足利義教を赤松満祐が暗殺するという事件の中心となり、歴史に名を刻んでいる 4 。しかし、戦国時代に入ると、かつての勢いは衰え、その影響力は限定的なものとなっていた 5 。この赤松氏の衰退という歴史的背景は、則房・則英父子の時代の同家の立場を理解する上で不可欠である。

1.2. 父・赤松則房

赤松則房(あかまつ のりふさ)は、赤松義祐の子として生まれ 5 、織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた武将である 5 。秀吉からはその旧守護家としての家格を重んじられ、「置塩殿」と呼ばれていたと伝えられるが、これは実質的な勢力とは別に、名門としての敬意が払われていたことを示唆している 5

則房は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻めなどに従軍し 5 、天正13年(1585年)頃、四国攻めの功により阿波国住吉(現在の徳島県板野郡藍住町周辺)に1万石の所領を与えられた 7 。一時期、播磨置塩も併せて領有したとする説や、阿波移封に伴い置塩領は没収されたとする説がある 5

則房の死没年については、慶長3年(1598年)とされるのが一般的である 1 。朝鮮出兵の際、肥前名護屋で病没したとの記述も見られる 5 。阿波国の福成寺には、則房の供養塔と伝えられる五輪塔が現存する 5

1.3. 則英の登場と家督相続

赤松則英は、一般的に則房の次男とされ、父の死後、家督を相続して赤松氏第14代当主となり、阿波住吉1万石を継いだとされる 1

しかし、則房との関係については諸説が存在し、養子説や、甚だしくは則房と同一人物であるとする説まで提唱されている 1 。江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜』には、則英は則房の子として記載されている 2

赤松氏が則房の時代にはかつての守護大名としての勢いを失い、1万石の豊臣家臣へと地位を低下させていた事実は、則英という人物を考察する上で極めて重要である 5 。この勢力の縮小は、則英のような人物に関する同時代史料が乏しくなる一因となり、彼を歴史的に不分明な存在たらしめている。則英と則房との正確な関係(実子、養子、あるいは同一人物説 1 )に関する複数の、時には矛盾する説の存在は、赤松氏の終焉期における系譜上の根本的な不確かさを示している。この曖昧さは、一族の不安定さ、衰退期における記録管理の不備、あるいは一次史料が欠如する中で後代の系図家が首尾一貫した終焉の物語を構築しようとした試みを反映している可能性がある。特に「同一人物説」は興味深く、これは後世の編纂者が、より名の知られた則房と、赤松氏の関ヶ原における終焉の物語を結びつけようとした結果かもしれない。則房が広く伝えられる通り慶長3年(1598年)に没したとすれば 5 、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには参加できない。このため、赤松氏滅亡の伝統的な物語には、則英のような後継者が必要となる。この混乱自体が、一族の最末期における記録の乏しさを物語るデータポイントとなる。

表1:赤松則英 人物概要表

項目

内容

典拠例

氏名

赤松則英 (あかまつ のりひで)

生年

不詳

7

没年

慶長5年 (1600) とされる

7

赤松則房 (次男説、養子説、同一人物説あり)

1

主な所領

阿波国住吉1万石

1

官位

上総介 (伝)

7

関ヶ原の戦いでの所属

西軍

1

最期

京都戒光寺にて自害とされる

1

実在性

史料的に確認されていない

1

この表は、則英に関する主要な(ただし、しばしば論争のある)伝記的詳細の概要を一覧で示すものである。生年不詳、「とされる」、「史料的に確認されていない」といった注記は、彼を巡る不確かさを即座に浮き彫りにし、本文での詳細な批判的分析への導入となる。

2. 阿波住吉一万石の領主として

2.1. 所領と居城

赤松則英(あるいはその父則房)は、阿波国住吉(現在の徳島県板野郡藍住町住吉)に1万石の所領を有していた 1 。その居城は住吉城であったとされ、この城跡は現在、藍住町住吉の八坂神社境内一帯にあたり、同町の史跡に指定されている 11 。住吉城は、赤松氏以前には山田氏が城主であった中世城郭と推測され、本丸跡は東西約83.4メートル、南北約100メートルの規模で、現在は水田となっていると伝えられる 11

2.2. 統治の実態に関する考察

則房あるいは則英による阿波住吉での具体的な統治に関する史料は極めて乏しい 5 。この情報の欠如は、赤松氏研究における一貫した課題である。所領は天正13年(1585年)頃の四国攻めの後に与えられ、則英の死とされる慶長5年(1600年)に終焉を迎える 7 。この比較的短期間の支配であったこと、赤松氏が阿波においては新参の大名であったことなどが、彼らが顕著な行政的足跡を残したり、多くの記録が作成・保存されたりする機会を限定した可能性がある。関ヶ原の戦いの後、住吉領は阿波国の大名である蜂須賀氏の所領に編入された 11

赤松氏が本拠地であった播磨から遠く離れた阿波へ移封され、1万石という比較的小規模な所領しか有していなかった事実は、彼らが豊臣政権下において中堅の従属的大名へと変質したことを示している 1 。この移封は、播磨における彼らの根深い地域的繋がりを事実上断ち切るものであった。阿波住吉における彼らの統治や活動を詳述する歴史記録が著しく欠如していることは示唆に富む 5 。これは、彼らの在任期間が約15年(1585年~1600年)と短く、重要な地方制度を確立するには至らなかったか、あるいは彼らの統治がより大きな政治的潮流や、最終的に阿波を支配した蜂須賀氏の影に隠れてしまった可能性を示唆する。「城郭放浪記」などの記録も住吉城への移転に言及するのみで、統治の詳細は不明であり、この点を裏付けている 14

3. 関ヶ原の戦いと則英

3.1. 西軍への加担

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、赤松則英は石田三成方の西軍に与したと伝えられている 1 。これは、豊臣政権に忠誠を誓い、徳川家康の台頭を警戒した多くの大名に共通する行動であった。

3.2. 大坂天王寺・平野口の警備

一部の記録によれば、則英は当初、大坂の天王寺口および平野口の警備を担当したとされる 1

3.3. 佐和山城籠城

関ヶ原の本戦に先立ち、則英は石田三成の居城である近江佐和山城に入り、その本丸に籠城して防衛戦に参加したと言われる 1 。佐和山城の防衛は、東軍に寝返った小早川秀秋らの部隊を含む東軍勢に対するものであった 1

3.4. 落城と逃亡

佐和山城は慶長5年9月18日(西暦1600年10月24日、異説あり)に落城し 16 、則英は落城寸前に城から脱出したとされている 1

則英が実在し、記述通りに行動したとすれば、西軍への参加や佐和山城での籠城は、豊臣恩顧の大名として徳川に対抗する上で自然な行動と言える。佐和山城は西軍の重要な拠点であった 1 。しかし、佐和山城内での彼の役割に関する具体的かつ確証のある詳細の欠如は、彼の歴史的実在性に関する根本的な疑問と相まって、疑念を抱かせる。もし彼が重要な役割を果たしたのであれば、関ヶ原や佐和山城攻防戦に関する詳細な同時代史料や記録にもっと言及があってしかるべきである。彼の行動とされるもの(警備任務、籠城)の一般的な性質や、二次資料であるウィキペディアなどでこれらの主張に頻繁に付される「要出典」のタグ 1 は、彼の物語のこれらの要素が、実際の参加がほとんど記録されていない人物の物語を肉付けするために後から加えられた可能性を示唆している。本丸にいたとされる主張 1 は重要性を示唆するが、強力な証拠によって裏付けられてはいない。

4. 則英の最期

4.1. 福島正則への投降

佐和山城を脱出した後、則英は東軍の将であった福島正則を頼って投降したとされる 1 。福島正則は東軍に属しながらも、豊臣家恩顧の武将としての側面も持っていた。彼を選んだ理由はもっともらしく聞こえるが、両者の具体的なやり取りを詳述する信頼できる同時代史料は確認されていない。

4.2. 京都戒光寺における自害

投降したにもかかわらず、則英は赦されず、自害を強要されたと伝えられる 1 。その場所は京都の戒光寺(かいこうじ)とされ 1 、没年は慶長5年(1600年) 7 、具体的な日付を慶長5年10月1日とする記録もある 11 。この死によって、赤松氏の嫡流は途絶えたと、この物語は伝えている 6

則英の脱出、福島正則への投降、その後の助命嘆願の不許可、そして戒光寺での自害という一連の物語 1 は、敗れた戦国武将の典型的で悲劇的な最期を描き出している。しかし、この劇的な展開は、福島正則に関する同時代史料や、決定的に重要な戒光寺自体の記録からは有力な裏付けを欠いている。赤松則英と戒光寺を結びつける情報を繰り返し調査したが 17 、彼の墓や供養塔、あるいは自害に関する記録についての言及は見当たらなかった。戒光寺の公式サイトも、その歴史や関連人物(例えば塔頭光明院と新選組関係者、あるいは皇室との繋がり)を詳述しているが、赤松則英に関する記述は一切ない 17 。このような著名な出来事(大名の自害)に関する一次的、あるいは二次的な寺院側の証拠が著しく欠如していることは、この詳細の信憑性に深刻な疑いを投げかける。これは、則英の物語のこの部分が、赤松本家の終焉に明確かつ悲劇的な結末を与えるために後世に創作されたか、あるいは文学的に潤色されたものである可能性を示唆している。

5. 赤松則英の実在性に関する議論と史料

5.1. 史料的確認の困難さ

赤松則英を巡る最も核心的な問題は、その存在が「史料的に確認されていない」という点である 1 。この指摘は、ウィキペディア 1 をはじめとする複数の二次資料や歴史関連ウェブサイト 8 で繰り返しなされている。赤松則英の名を明記し、その行動を具体的に詳述する同時代の一次史料は、極めて乏しいか、あるいは存在しない。この一次史料の欠如が、実在性問題の根幹をなしている。

5.2. 『寛政重修諸家譜』における記述

江戸幕府によって編纂された武家諸家の系譜集である『寛政重修諸家譜』は、赤松則英を記載している重要な史料の一つである 2 。同書は、則英を則房の子とし、関ヶ原の戦いで西軍に与し、その結果自害に至ったと記録しているとされる 2 。『寛政重修諸家譜』(特に巻第四百六十七 村上源氏 赤松支流 2 )は、後世における則英の物語を固定化する上で大きな役割を果たしたと考えられる。しかし、江戸時代の編纂物であるため、より古い時代の、特に不分明な人物に関する情報は、他の初期史料によって裏付けられない限り、慎重な扱いを要する。

表2:赤松則英に関する主要史料と記述内容比較表

史料名

年代区分

則英の出自に関する記述

阿波住吉領主としての記述

関ヶ原の動向に関する記述

最期に関する記述

実在性への言及

Wikipedia (例: 1 )

近現代の編纂物

則房の次男(諸説あり)

1万石領主

佐和山籠城、逃亡

戒光寺で自害

史料的に確認されていないと明記

『寛政重修諸家譜』 (例: 2 )

江戸時代の編纂物

則房の子

(言及の有無は要確認)

西軍参加

自害を余儀なくされる

(疑義なし、または言及なし)

「落穂考」等で言及される史料群 (例: 8 )

江戸時代以降の可能性

(則房との関連に諸説)

(言及の有無は要確認)

(西軍として自害説)

(自害説)

実在確認できず、滅亡の仕方も不明確

その他ウェブサイト (例: 7 )

近現代の編纂物

則房の子

1万石

石田方、戦後自殺

自殺、改易

(実在を前提とした記述が多い)

この表は、則英の歴史的実在性という核心的問題に体系的に取り組む上で不可欠である。複数の情報源が、則英について様々な詳細度と確実性で情報を提供している。ウィキペディア 1 や後世の編纂物(『寛政重修諸家譜』 2 が示唆するように)は比較的完全な物語を提供する一方で、他の情報源は彼の存在が確認されていないと明言している 1 。比較表はこれらの矛盾を明確かつ視覚的に提示することを可能にし、情報源を分類し(例:同時代、近世、後代の編纂物、現代の学術的要約)、則英の人生の鍵となる側面について各々が何を述べているか(あるいは述べていないか)を明らかにするのに役立つ。この構造化された比較は、なぜ彼の歴史性が疑問視されるのかという分析を直接的に支持する。

5.3. その他の史料における言及の可能性と評価

『徳川実紀』のような江戸時代の官撰史書や、その他の軍記物語などに則英に関する言及が存在する可能性はあるが、彼のような人物に関する記述の信頼性は慎重に吟味する必要がある。これらの史料はしばしば事実と潤色を混在させる傾向があるためである。提示された資料群の中では、『当代記』 18 や『慶長見聞集』 20 といった特定の編纂物からは、則英に関する直接的な情報は得られなかった。播磨 5 や阿波 23 の地方史料が手がかりを提供する可能性もあるが、現存する断片的な情報からは、この時期の阿波における赤松氏に関する詳細な記述は総じて乏しいことが示唆される 5

5.4. 赤松則房との同一人物説・養子説の再検討

則英が父・則房と同一人物であるとする説 1 は、「存在が確認されていない」という注意書きと共にしばしば言及される。この説は、関ヶ原の物語に登場する「則英」という名と、より確かな存在である則房とを調和させようとする試みと解釈できる。則房が慶長3年(1598年)に没したとすれば 5 、慶長5年(1600年)の則英ではありえない。しかし、一部には則房の没年を不詳とし、天正13年(1585年)の九州征伐で活動した則英こそ則房であり、したがって関ヶ原にも参加した可能性があると推測する向きもあるが 8 、これは則房の慶長3年没というより一般的な記述とは異なる少数意見である。養子説 1 は、則房に直系の男子がいなかった場合や、他の相続事情があった場合に考えられるもう一つの可能性である。

5.5. 諸説の整理と、現時点での歴史学的評価

入手可能な情報を総合すると、赤松則英の存在は同時代の一次史料による裏付けが乏しいため、歴史学的には未確認であるという見解が優勢である。利用者より提示された概要やウィキペディア 1 に見られる物語は、主に『寛政重修諸家譜』 2 のような後世の編纂物や、一次史料の批判的評価を欠いた可能性のあるその後の歴史記述に基づいていると考えられる。

『寛政重修諸家譜』 2 のような後代の公式編纂物に見られる則英の詳細な物語と、批判的な歴史分析における沈黙または彼の存在への明確な疑問 1 との間の著しい対照は、このセクションの中心的な論点である。これは、関ヶ原で戦い死んだ明確な歴史的人物としての赤松則英が、同時代の記録で十分に証明された人物というよりは、主に後代の系譜的構築物の産物である可能性を示唆している。江戸幕府の権威の下で編纂された『寛政重修諸家譜』は、武士の系譜に関する包括的な記録を作成することを目的としていた。消滅した、あるいは不分明な家系の場合、完全性を期すために、家伝、批判的でない初期の文献に依拠したり、あるいは仮定を立てたりした可能性もある。関ヶ原に結びついた劇的な結末を持つ則英を含めることは、赤松本家に明確な終焉をもたらし、敗れた一族の一般的な物語のパターンに適合する。

「同一人物説」(則房=則英) 1 は、則房の慶長3年(1598年)の確実な死 5 と、赤松氏の指導者が枢要な関ヶ原の戦いに参加する必要性または願望とを調和させようとする後代の歴史家や系図家の試みと解釈できる。もし則房が戦いの前に死んでいたなら、赤松本家がこの重要な紛争で終焉を迎えるためには、則英のような後継者像が物語上必要となる。この混乱と代替理論自体が、一族の最後の世代に関する一次史料記録の弱さを浮き彫りにしている。

6. 赤松則英に関する人物像・評価

赤松則英の実在そのものが不確かであるため、彼の人物像や能力に関するいかなる評価も、極めて推測的なものとならざるを得ず、論争のある物語の中で彼に帰せられる行動に基づかざるを得ない。佐和山城防衛への参加やその後の自害に至る行動の物語を(仮に)受け入れるならば、彼は西軍の大義に忠実で、戦場では勇敢であり、最終的には武士としての運命を受け入れた人物として描かれる。しかしながら、提示された資料群の中には、彼の性格、指導力、あるいは統治能力について洞察を与える同時代史料は存在しない 25

人物が存在したかどうかが確認できない場合、あるいはその行動が後代の、潜在的に潤色された記述にのみ記録されている場合、いかなる「人物評価」も、歴史的人物ではなく、文学的または系譜的構築物の分析となる。伝統的な物語の中で則英に帰せられる属性(西軍への参加による豊臣家への忠誠、佐和山での戦いによる勇気、切腹による武士道への固執)は、戦国武将、特に敗者側の武将にとって標準的な類型である。これらの特徴は魅力的な物語を構成するが、彼自身に関する検証可能で同時代的な観察に基づいているわけではない。

7. 妻子・子孫

赤松則英の妻や子に関する具体的かつ信頼できる情報は、提示された資料群の中には見当たらない 2 。もし則英が子孫を残さずに死去したか、あるいは彼の自害と共に家系が断絶したのであれば、これは赤松氏のこの系統の明確な終焉を意味する。『寛政重修諸家譜』 2 は則英を則房の子として言及しているが、則英自身の家族について詳述しているかは、提示された情報からは不明である。一部の赤松氏分家は江戸時代以降も存続したが(例えば他家の家臣として、あるいは有馬氏との関連 2 )、これらは一般的に則英を通じた本家の直系子孫ではなく、特に彼が慶長5年(1600年)に没したとすればなおさらである。

入手可能な史料において、則英の直近の家族(妻、子)に関する情報が全般的に欠如していることは、慶長5年(1600年)に後継者の言及なく自害したとされる彼の最期と相まって、彼の死が赤松本家の決定的な終焉を示したという物語を強く補強する。伝統的な日本の武家系図において、家系の継続は至上命題である。もし則英に彼を生き延びた妻や子がいたならば、後世の編纂物である『寛政重修諸家譜』や存続した分家の家伝などが、たとえ彼らが不遇な生活を送ったとしても、何らかの言及をした可能性が高い。この点に関する沈黙は、彼の死の物語の最終性を強調する役割を果たしている。これは、敗れた大名の本家がしばしば姿を消し、一方で傍流の家系が縮小された状況で存続するという、一般的な歴史的パターンと一致する。

8. おわりに

赤松則英の生涯(伝承される姿)の総括

赤松則英について伝承される姿を総括すると、父・則房の跡を継いで阿波住吉1万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは西軍に与して佐和山城に籠城、落城に際して脱出するも、 uiteindelijk京都戒光寺にて自害を遂げたとされる。これが、赤松氏嫡流の最期として語り継がれる物語である。

史料的制約と今後の研究への展望

しかしながら、本報告で繰り返し指摘してきたように、赤松則英の歴史的実在は確証されておらず、その生涯や事績とされるものの多くは、後世の編纂物に依拠している。関ヶ原で没した明確な個人としての「赤松則英」像は、同時代の確実な記録よりも、むしろ後代の歴史的物語や系譜記録の所産である側面が強い。今後の研究においては、彼の存在と行動を明確に証明しうる、新たな信頼性の高い同時代の一次史料の発見が不可欠である。そのような発見がなされない限り、赤松則英は歴史の曖昧さの中に包まれた人物であり続ける可能性が高い。

赤松則英という事例の意義

赤松則英の物語は、日本の歴史叙述における一つの示唆に富む事例と言える。かつて名門であった一族の最後の世代の物語が、特に著名でない人物に関する同時代史料が乏しい場合、いかに不分明となり、後代の、必ずしも批判的に検討されていない史料に大きく依存するようになるかを示している。その歴史的基盤の弱さにもかかわらず彼の物語が存続していることは、物語の力、重要な歴史的家系に対する明確でしばしば悲劇的な結末への希求、そして歴史的記憶を形成する上での公式編纂物の影響力を浮き彫りにしている。則英に関する調査は、忘れられた英雄を発掘するというよりは、歴史がいかに書かれ、伝達されるかを理解することにある。赤松氏は顕著な過去を持っていた。その終焉が、存在自体が議論の的となる人物に結びついていることは、戦国時代の統一という大動乱の中で多くの小勢力が辿った運命を痛切に反映している。本報告の結論は、則英の「物語」を要約するだけでなく、彼の事例が歴史知識の限界と、特に主要な出来事の周縁にいた人々や衰退しつつあった家系に関する歴史物語の構築について、我々に何を教えてくれるかを考察するものであるべきだ。

引用文献

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