赤穴光清
赤穴光清は尼子氏の家臣で赤穴城主。第一次月山富田城の戦いで大内・毛利軍と奮戦し討死。その抵抗は尼子氏の防衛に貢献した。

戦国武将・赤穴光清の実像:その生涯と時代背景
序章:赤穴光清とは
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本報告書の目的と対象人物の概要
本報告書は、日本の戦国時代に活躍した武将、赤穴光清(あかな みつきよ)の生涯、その事績、そして彼が生きた時代の背景を、現存する史料に基づいて多角的に明らかにすることを目的とする。赤穴光清は、明応2年(1493年)に生まれ、天文11年7月27日(西暦1542年9月6日)に没した武将である 1。彼は、出雲国(現在の島根県東部)を本拠とした尼子氏の家臣として、特に中国地方の覇権を巡る攻防において、その勇猛さを示した。彼の生涯は、戦国という激動の時代における地方武将の生き様を象徴するものと言えよう。 -
戦国時代の出雲における赤穴氏の位置づけ
赤穴氏は、石見国(現在の島根県西部)の国人であった佐波(さわ)氏の一族であり、平安時代中期の漢学者、三善清行(みよし の きよゆき)を祖とするとされる 2。南北朝時代に佐波氏は出雲へも勢力を伸長させ、佐波実連の次男・常連が赤穴荘(現在の島根県飯石郡飯南町赤名周辺)の地頭となり、その子孫である佐波弘行の代に本拠地の名を取って「赤穴」を称するようになった 2。これにより、石見の佐波氏を惣領家(本家)とし、赤穴氏はその分家筋という関係が成立した 2。
戦国時代に入ると、赤穴氏は出雲国の有力大名である尼子氏に仕え、尼子氏の主要な防衛拠点群である「尼子十旗(あまごじっき)」の一つ、赤穴城(瀬戸山城とも呼ばれる)の城主を任された 1。この赤穴城は、出雲・石見・備後(現在の広島県東部)の三国国境に位置し、中国地方の覇権を争う大内氏や毛利氏といった強大な勢力との最前線であった。そのため、赤穴氏は軍事的に極めて重要な役割を担っていたのである。
この地理的条件は、赤穴氏の立場を単なる尼子氏の従属勢力に留まらないものとした。彼らは国境地帯における緩衝勢力としての側面も持ち、その動向は尼子氏の勢力圏の安定に直結していた。同時に、敵対勢力にとっては、出雲侵攻の足掛かりともなり得る戦略的に極めてデリケートな位置にあった。赤穴氏は、常に複数の大勢力からの圧力に晒されながら、その中で自立性を保ちつつ、主家である尼子氏に貢献するという困難な舵取りを迫られていたのである 5。
第一部:赤穴光清の生涯
- 第一章:出自と家督相続
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赤穴氏の起源と佐波氏との関係
前述の通り、赤穴氏は漢族系の三善朝臣流佐波氏の一族とされる 2。佐波氏は鎌倉時代に石見国に領地を得て在地豪族となり、南北朝時代には出雲国にも勢力を拡大した 2。赤穴荘は元々、石清水八幡宮の荘園であり、紀氏が荘官として支配していたが、佐波氏がこれを追討し、赤穴荘の地頭職を得た 3。佐波実連の次男・常連が赤穴荘に入り、その子・弘行が赤穴氏を名乗ったことで、赤穴氏は佐波氏の分家として成立した 2。 -
赤穴光清の生誕と家族構成(父・久清、兄弟など)
赤穴光清は明応2年(1493年)に生まれた 1。父は赤穴久清(ひさきよ、1471年 - 1553年)である 1。母については不詳とされている 1。光清の子としては、長男・詮清(あききよ)、次男・定清(さだきよ)、三男・盛清(もりきよ、1529年 - 1595年)の名が確認できる 1。なお、一部史料では光清の兄弟として定清、清行、時清の名が挙げられているが 1、詮清、定清、盛清を光清の子とする記述の方が複数の史料で見られ、より詳細かつ整合性が高いと考えられるため、本報告では子として扱う。 -
家督相続の経緯と当時の赤穴氏の状況
永正12年(1515年)、光清は父・久清の隠居に伴い、23歳で赤穴氏の家督を相続した 1。同年、出雲国の戦国大名である尼子経久(あまご つねひさ)に仕え、その所領を安堵されている 1。(史料によっては、尼子経久への従属を永正15年(1518年)とするものもある 2。)この時期、中国地方では周防国(現在の山口県南東部)を本拠とする大内氏と、出雲国の尼子氏が覇権を争っており、赤穴氏の惣領家である石見の佐波氏は大内氏に従っていた。そのため、光清の尼子氏への臣従は、赤穴氏が佐波氏と袂を分かち、尼子方として生きる道を選択したことを意味するものであった 2。
この家督相続と尼子氏への臣従は、単なる代替わり以上の意味を持っていた。それは、赤穴氏が中国地方の二大勢力の間で、どちらの陣営に与(くみ)して生き残りを図るかという、氏の存亡に関わる極めて重要な戦略的判断であったと言える。この決断が、後の瀬戸山城の戦いにおける光清の運命を大きく左右することになるのである。
- 第二章:尼子氏の家臣として
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尼子経久・晴久への臣従
光清が仕えた尼子経久は、下剋上によって出雲守護代から戦国大名へと成り上がり、一代で山陰・山陽十一ヶ国太守と称されるほどの勢力を築き上げた人物である。その子・晴久(はるひさ)の代には、尼子氏の勢力は最大版図を迎えるが、同時に大内氏との対立も一層激化していく。このような情勢下で、赤穴氏は尼子氏の出雲国内における主要な支城の一つである赤穴城(瀬戸山城)を任されていた 1。これは、赤穴氏が尼子氏から厚い信頼を得ていた証左であると同時に、国防の最前線を担うという重責でもあった。 -
赤穴城(瀬戸山城)主としての役割と尼子十旗
赤穴城(瀬戸山城)は、現在の島根県飯石郡飯南町赤名に位置し、出雲・石見・備後の三国国境という地理的に極めて重要な地点にあった 5。街道の要衝でもあり、軍事・経済の両面で要となる場所であった。尼子氏は、本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう)の防衛体制を強化するため、その周囲に「尼子十旗」と呼ばれる支城網を整備しており、赤穴城はその一つに数えられていた 1。
尼子十旗体制において、赤穴城は、大内氏や後に台頭する毛利氏といった西方からの侵攻に対する最初の防衛線であり、月山富田城を守る上で欠かすことのできない戦略拠点であった 9。
尼子十旗としての赤穴城の役割は、単なる受動的な防衛拠点に留まらなかった可能性も考えられる。尼子氏が勢力拡大を目指す上で、国境地帯に位置する赤穴城は、他国への影響力行使や情報収集のための前進基地としての機能も期待されていたかもしれない。光清は、その最前線で、常に高度な軍事指揮官としての能力を問われる厳しい立場に置かれていたと言えるだろう。
- 第三章:第一次月山富田城の戦いと瀬戸山城の攻防
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開戦に至る背景:大内氏の出雲侵攻
天文9年(1540年)から翌10年(1541年)にかけて、尼子晴久は安芸国(現在の広島県西部)の毛利元就(もうり もとなり)の居城・吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)を攻めたが、大内義隆(おおうち よしたか)の援軍を得た毛利軍の前に大敗を喫した(吉田郡山城の戦い) 2。この敗北は、尼子氏の勢力に陰りを見せる一方で、大内氏にとっては尼子氏打倒の好機となった。
天文11年(1542年)正月、大内義隆は自ら大軍を率いて出雲侵攻を開始する。これが第一次月山富田城の戦いである 1。大内軍には毛利元就をはじめとする中国地方の多くの国人領主が従軍しており、その最初の攻略目標となったのが、赤穴光清が守る赤穴城(瀬戸山城)であった 4。 -
瀬戸山城における籠城戦術:赤名川の堰き止めと防備強化
大内軍の侵攻に対し、赤穴光清は籠城の準備を進めた。まず、尼子氏の本城である月山富田城から、田中三郎左衛門らが率いる約1000騎の援軍を瀬戸山城に迎え入れた 1。さらに、光清は赤穴城の地理的条件を巧みに利用した戦術を敢行する。城下を流れる赤名川(現在の神戸川)を堰き止め、赤名盆地一帯を湖水化し、城の防備を大幅に強化したのである 1。この策は、大軍の進軍を阻み、城への接近を困難にする効果的なものであった。
この赤名川の堰き止め策は、単に物理的な防御力を高めるだけでなく、敵の兵站を疲弊させ、長期戦に持ち込むことで士気を低下させる狙いも含まれていたと考えられる。水利を熟知し、地形を最大限に活用したこの戦術は、赤穴光清の知略と優れた戦術眼を示すものと言えよう 9。 -
大内・毛利軍との激戦:熊谷直続の討伐と光清の武勇
天文11年(1542年)6月7日、大内方の安芸国人・熊谷直続(くまがい なおつぐ、毛利元就の重臣・熊谷信直の弟)が先陣を切って瀬戸山城に攻撃を開始した 4。直続は神戸川の堰を決壊させ、手勢三百を率いて城下に迫ったが、赤穴光清は城門を開いて打って出て、田中三郎左衛門や老臣の吾郷大炊介(あごう おおいのすけ)らと共にこれを迎え撃ち、熊谷直続を討ち取るという目覚ましい武功を挙げた 1。この戦功は、寡兵で大軍に立ち向かう光清の勇猛さと高い指揮能力を物語るものである。
その後も、大内方の出羽助盛(いずわ すけもり)や本庄経光(ほんじょう つねみつ)といった諸将が攻撃を仕掛けたが、赤穴勢は地の利を生かした巧みな戦術と勇猛果敢な戦いぶりによって、ことごとくこれを退けたと伝えられている 4。赤穴城は、大内・毛利の大軍を相手に約2ヶ月間にわたり持ちこたえ、その侵攻を遅滞させた 2。 -
壮絶な最期:討死の状況と瀬戸山城の開城
しかし、長期にわたる攻防戦の末、天文11年7月27日(西暦1542年9月6日)、赤穴光清は戦闘指揮中に、大内義隆の重臣・陶隆房(すえ たかふさ、後の陶晴賢)の配下の弓兵によって喉を射抜かれ、討死した 1。享年50(数え年)。城主を失った瀬戸山城は抵抗力を失い、光清の父である赤穴久清が大内氏に降伏し、城は開城された 1。
赤穴光清の討死は、瀬戸山城の陥落を決定づけただけでなく、その後の赤穴氏の運命、さらには第一次月山富田城の戦いの展開にも少なからぬ影響を与えた。彼の奮戦と死は、尼子方にとっては大きな痛手となり士気の低下を招いた一方、大内方にとっては緒戦の勝利に繋がった。しかし、瀬戸山城での予想外の長期戦は、大内軍の兵員と兵站に大きな負担を強いた。結果的に、この瀬戸山城での2ヶ月近くに及ぶ抵抗が、大内義隆による出雲攻略失敗の大きな要因の一つになったと評価されている 4。光清の抵抗がなければ、大内軍はより早期に月山富田城に到達し、戦局は大きく異なっていた可能性も否定できない。 - 表1:第一次月山富田城の戦い(瀬戸山城の戦い)における赤穴光清の行動年表
年月日(西暦) |
赤穴光清(赤穴軍)の行動 |
大内・毛利軍の行動 |
結果・備考 |
天文11年(1542年)正月 |
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大内義隆、出雲侵攻を開始 |
第一次月山富田城の戦い始まる 1 |
天文11年(1542年)2月頃 |
月山富田城より田中三郎左衛門ら約1000騎の援軍を瀬戸山城に迎え入れる 1 |
出雲へ進軍、瀬戸山城を最初の攻略目標とする 4 |
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天文11年(1542年)2月~6月 |
赤名川を堰き止め、赤名盆地を湖水化するなど、瀬戸山城の防備を強化 1 |
瀬戸山城攻略の軍議を重ねる |
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天文11年6月7日(1542年7月19日) |
城門を開いて出撃、熊谷直続勢と交戦 |
熊谷直続、手勢三百を率い瀬戸山城下に放火、攻撃を開始 4 |
赤穴光清、熊谷直続を討ち取る 1 |
天文11年6月~7月 |
出羽助盛、本庄経光ら大内方の諸将の攻撃を地の利と勇猛さで悉く退ける 4 |
瀬戸山城への攻撃を継続 |
赤穴勢、約2ヶ月にわたり大軍を足止め 2 |
天文11年7月27日(1542年9月6日) |
戦闘指揮中に陶隆房配下の弓兵に喉を射抜かれ討死 1 |
総攻撃をかける |
赤穴光清、享年50。父・久清が降伏し、瀬戸山城開城 1 |
- 第四章:赤穴光清の人物像
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史料に見る武勇伝と評価
赤穴光清の人物像を語る上で最も顕著なのは、その武勇である。瀬戸山城の戦いにおける熊谷直続の討伐は、彼の勇猛さと指揮官としての能力を如実に示すエピソードと言える 1。寡兵をもって大軍に立ち向かい、敵将を討ち取ったその武功は、敵味方に大きな影響を与えたであろう。
また、主君であった尼子晴久が、光清の奮戦とその死を悼み、後にその息子である赤穴盛清を重用したという事実は、光清の忠義と武功が尼子家中において高く評価されていたことを物語っている 1。大内義隆の出雲遠征において、陶晴賢の部隊と交戦の末に討ち死にしたという簡潔な記録も 12、彼の武人としての壮絶な最期を伝えている。 -
『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』における描写
江戸時代に成立した軍記物語である『雲陽軍実記』には、瀬戸山城の戦いにおける赤穴光清の活躍や、当時の日本ではまだ一般的ではなかった鉄砲を使用した可能性を示唆する記述が見られる 4。具体的には、「右京亮幸清(光清)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き…」「向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に…」といった描写である 4。この鉄砲使用の真偽については、後述の史料分析の章で詳述するが、このような記述がなされた背景には、光清の戦いぶりが特筆すべきものであったという認識があった可能性が考えられる。
同じく軍記物語である『陰徳太平記』にも、赤穴氏や関連する戦いに関する記述が含まれている可能性があるが 14、光清個人に焦点を当てた具体的な描写については、現時点の資料からは明確ではない。これらの軍記物語における光清像を分析し、史実との比較検討を行うことは、彼の人物像をより深く理解する上で重要である。
軍記物語における描写は、必ずしも史実を正確に反映しているとは限らない。しかし、当時の人々が赤穴光清という武将にどのようなイメージを抱いていたか、あるいは後世にどのように記憶されようとしていたかを知る上で貴重な手がかりとなる。特に、鉄砲使用のような先進的な兵器に関する記述は、その真偽は別として、光清の戦術家としての側面や革新性を強調しようとする意図があったのかもしれない。あるいは、物語としての劇的効果を高めるための創作であった可能性も否定できない。 - (表2:赤穴光清の家族構成と主要な関係者)
関係 |
氏名 |
生没年(判明分) |
赤穴光清との関わり(概要) |
典拠例 |
父 |
赤穴久清 (あかな ひさきよ) |
1471年 - 1553年 |
光清に家督を譲り隠居。光清戦死後、大内氏に降伏。後に孫の盛清と共に尼子氏に帰参。 |
1 |
母 |
不詳 |
不詳 |
|
1 |
室 |
不詳 |
不詳 |
|
1 |
長男 |
赤穴詮清 (あかな あききよ) |
不詳 - 1543年 |
光清戦死後、大内氏に従うが、筑前国で討死。 |
1 |
次男 |
赤穴定清 (あかな さだきよ) |
不詳 - 1543年頃 |
光清戦死後、大内氏に従うが、実家と大内氏との関係に悩み自害。 |
1 |
三男 |
赤穴盛清 (あかな もりきよ) |
1529年 - 1595年 |
父・光清戦死後、祖父・久清と共に尼子氏に帰参。尼子晴久に重用される。後に毛利氏に降伏し、名を久清と改める。 |
1 |
子(その他) |
赤穴幸清 (あかな ゆききよ) |
不詳 |
光清の子として名が見えるが詳細は不明。盛清の長男も同名の幸清であるため混同に注意が必要。 |
1 |
祖父 |
赤穴幸清 (あかな ゆききよ) |
不詳 |
光清の祖父。 |
1 |
主君 |
尼子経久 (あまご つねひさ) |
1458年 - 1541年 |
光清が家督相続後に仕えた出雲の戦国大名。 |
1 |
主君 |
尼子晴久 (あまご はるひさ) |
1514年 - 1560年 |
経久の子。光清の忠勇を称え、その子・盛清を重用。 |
1 |
敵将 |
大内義隆 (おおうち よしたか) |
1507年 - 1551年 |
第一次月山富田城の戦いを主導した周防の戦国大名。 |
11 |
敵将 |
陶隆房 (すえ たかふさ) / 陶晴賢 (はるかた) |
1521年 - 1555年 |
大内氏家臣。瀬戸山城攻めで光清を討ち取った部隊の指揮官。 |
1 |
敵将 |
毛利元就 (もうり もとなり) |
1497年 - 1571年 |
大内方として第一次月山富田城の戦いに参陣。配下の熊谷直続が光清に討たれる。後に盛清が降伏。 |
1 |
討ち取った敵将 |
熊谷直続 (くまがい なおつぐ) |
不詳 - 1542年 |
毛利元就配下。瀬戸山城攻めで光清に討ち取られる。 |
1 |
援軍将 |
田中三郎左衛門 (たなか さぶろうざえもん) |
不詳 |
尼子方。月山富田城から瀬戸山城へ援軍として派遣される。 |
1 |
家臣 |
吾郷大炊介武利 (あごう おおいのすけたけとし) |
不詳 - 1542年 |
赤穴氏重臣。瀬戸山城の戦いで奮戦し自害。辞世の句を残す。 |
4 |
第二部:赤穴光清と赤穴氏
- 第一章:赤穴氏の家紋「並び矢」
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家紋の図案と意味・由来の考察
赤穴氏の家紋は「並び矢」であると伝えられている 4。島根県飯石郡飯南町にある赤穴瀬戸山城の御城印にも、この「並び矢」紋がモチーフとして使用されており、第27代赤穴家当主による揮毫であると記されている 13。また、「丸に並び矢」という、円で囲まれたデザインも確認できる 18。
矢をモチーフとした家紋は、武家社会において尚武的な意義を持つとされる 20。矢は古来より狩猟具であり、また主要な武器の一つであったことから、武勇や尚武の精神を象徴するものとして家紋に採用されることは自然な流れであった。赤穴氏がこの「並び矢」紋を用いた背景には、武門としての誇りや、一族の団結、あるいは特定の戦功や故事に由来する可能性などが考えられる。 -
佐波氏の家紋との関連性の検討
赤穴氏は、石見国の国人領主であった佐波氏の分家である 2。一般的に、分家は本家の家紋をそのまま使用するか、あるいは本家の家紋に何らかのアレンジを加えたものを使用することが多い。しかし、現時点の調査では、惣領家である佐波氏がどのような家紋を使用していたかについての直接的な情報は乏しい。そのため、赤穴氏の「並び矢」紋と佐波氏の家紋との具体的な関連性を明確にすることは困難である。
もし、佐波氏の家紋が「並び矢」とは異なるものであった場合、赤穴氏が独自の家紋を用いた背景には、佐波氏からの一定の独立性を示し、赤穴氏としてのアイデンティティを確立しようとする意図があった可能性も考えられる。あるいは、赤穴荘という新たな所領を得て一家を成した際に、その土地や氏の成り立ちに因んだ紋章を定めたのかもしれない。この点については、今後の佐波氏に関する研究の進展や、新たな史料の発見が待たれるところである。
- 第二章:赤穴光清の死後の赤穴一族
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息子たち(詮清、定清、盛清)の動向と一族の分裂
赤穴光清の戦死は、赤穴一族に大きな動揺をもたらした。父・久清が瀬戸山城を開城し大内氏に降伏した後、光清の長男・詮清と次男・定清も大内氏に従った 1。しかし、彼らの運命は過酷なものであった。詮清は天文12年(1543年)、大内方の武将として筑前国(現在の福岡県西部)に出陣し、討死した 1。一方、定清は、大内方に身を置きながらも、実家である赤穴氏が尼子方であるという板挟みの状況に苦悩し、自害したと伝えられている 1。こうして、赤穴一族は当主の戦死に加え、その子たちが敵味方に分かれるという悲劇に見舞われたのである。 -
父・久清の再起と盛清の家督相続
第一次月山富田城の戦いは、大内義隆の撤退という形で終結し、尼子氏の勢力は一時的に回復した。この機に乗じ、隠居していた光清の父・久清は、光清の三男であった盛清(当時まだ若年)と共に再び尼子氏に帰参した 1。長兄・詮清と次兄・定清が相次いで亡くなったため、盛清が赤穴氏の家督を相続することになった 21。尼子晴久は、亡き赤穴光清の忠勇を高く評価し、その遺児である盛清を加増するなどして厚遇したとされている 1。 -
赤穴盛清の毛利氏への降伏とその後の赤穴氏(中川氏への改姓)
しかし、尼子氏の勢威も長くは続かなかった。尼子晴久が永禄3年(1560年)に急死すると、尼子氏は急速に弱体化する。この好機を逃さず、安芸国の毛利元就は出雲侵攻を開始した(第二次月山富田城の戦い、永禄5年(1562年)~) 2。赤穴盛清が守る瀬戸山城は、再び毛利軍の攻撃目標となった。
父・光清とは異なり、盛清は毛利氏の圧倒的な軍事力の前に、抵抗らしい抵抗をすることなく降伏した 1。毛利元就は、三刀屋久扶(みとや ひさすけ)を仲介として、所領安堵を条件に盛清に降伏を促し、盛清はこれに応じたのである 21。降伏後、盛清は毛利軍の先鋒として月山富田城攻めに加わった 2。
盛清は晩年、祖父(光清の父)と同じ「久清」を名乗ったと伝えられている 1。この改名の背景には、一族の長老として祖父の名を継ぐことで、家の伝統と存続への強い思いを示したかったのかもしれない。
赤穴氏の家督は、盛清の後は弟の幸清が継いだ 2。そして、その子である赤穴元奇(もとより)の代になると、毛利氏の支配体制下で所領の赤穴から転封され、出雲国人としての在地性を否定されるに至った。元奇は文禄・慶長の役にも毛利軍の一員として従軍したが、慶長4年(1599年)には「赤穴」の名字を「中川」と改めた 2。これにより、国人領主としての赤穴氏は歴史の表舞台から姿を消し、中川氏として長州藩(毛利藩)に仕え、江戸時代を過ごすことになった。
赤穴盛清の毛利氏への降伏は、父・光清の尼子氏への忠死とは対照的な決断であった。しかし、これは単なる変節と断じるべきではなく、主家の衰退と新たな強大な勢力の台頭という、戦国時代の厳しい現実の中で、一族の存続を最優先に考えた結果の選択であったと理解できる。中川への改姓は、毛利氏による支配体制が確立し、かつての国人領主が解体・再編されていくという、より大きな歴史的変遷の一端を象徴していると言えよう。
- 第三章:関連史跡と伝承
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赤穴城(瀬戸山城)跡:歴史と現状
赤穴光清がその生涯を賭して守り抜こうとした赤穴城(瀬戸山城)は、現在の島根県飯石郡飯南町赤名にその跡を残している 22。標高631メートルの衣掛山(きぬかけやま)に築かれた山城であり、東西約400メートル、南北約200メートルに及ぶ広大な規模を誇った 7。
城の歴史は古く、南北朝時代に佐波常連によって築かれたと伝えられる 4。戦国時代には尼子氏の重要な支城として機能し、赤穴光清の時代には大内・毛利軍との激戦の舞台となった 5。関ヶ原の戦いの後、出雲国に入封した堀尾氏によって近世城郭として改修され、堀尾氏家臣の松田左近将監吉久が城主を務めたこともある 5。
現在、城跡には石垣、曲輪、土塁、堀切などの遺構が残り 7、その壮大な姿は「但馬竹田城を彷彿とさせる」とも評されている 22。山麓の赤名小学校脇から登山道が整備されており、多くの歴史ファンや山城愛好家が訪れている 22。山頂からは赤名の町並みを一望でき、この地に城が築かれた戦略的な重要性を実感することができる 23。また、赤穴城は、衣掛城、藤釣城といった別名でも呼ばれていた 23。 -
赤穴光清の墓所:大光寺の宝篋印塔とその他の伝承地
赤穴光清の墓所については、飯南町下赤名にある大光寺(だいこうじ)に、赤穴氏歴代の墓とともに、光清の墓石と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が現存している 7。
その他、瀬戸山城周辺には、光清に討ち取られた熊谷直続の墓や 17、瀬戸山城の戦いで奮戦し自害した赤穴氏の重臣・吾郷大炊介武利の墓も残されており 17、当時の戦いの激しさと、そこに生きた人々の記憶を今に伝えている。
これらの墓所や関連史跡の存在は、赤穴光清や瀬戸山城の戦いが、単なる歴史上の出来事として忘れ去られることなく、地域社会において大切に記憶され、語り継がれてきたことを示している。これらの史跡は、歴史研究の貴重な対象であると同時に、地域の歴史文化を未来へと伝える重要な遺産としての価値も有している。
第三部:現代における赤穴光清研究
- 第一章:主要史料とその分析
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『雲陽軍実記』の記述内容と史料的価値(鉄砲使用説など)
赤穴光清とその時代を研究する上で重要な史料の一つに、江戸時代初期に成立したとされる軍記物語『雲陽軍実記(うんようぐんじつき)』がある。本書は尼子氏の興亡を中心に描いたものであり、赤穴光清や瀬戸山城の戦いについても比較的詳細な記述が見られる 13。
特に注目されるのは、瀬戸山城の戦いにおいて赤穴方が鉄砲を使用した可能性を示唆する記述である 4。具体的には、「右京亮幸清(光清)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き、味方難儀と見るとき、不意に横箭に入り、敵の跡より打っていでよ…」や、「向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に、出羽助盛手の者多く討たれ、或は傷を被りければ…」といった描写がそれにあたる 4。
もしこの記述が史実を反映しているとすれば、天文11年(1542年)の出来事となり、一般的に鉄砲伝来とされる天文12年(1543年)よりも早い時期の鉄砲使用例となるため、日本の兵器史において極めて重要な意味を持つことになる。しかし、『雲陽軍実記』は軍記物語であり、その記述の全てが史実であるとは限らない。特に鉄砲使用に関しては、年代的な問題からその信憑性について慎重な検討が必要であると指摘されている 4。
この鉄砲使用の記述が史実でなかったとしても、なぜそのような記述が生まれたのかを考察することは興味深い。それは、赤穴光清や赤穴勢の戦いぶりが、後世において鉄砲という最新兵器を駆使するほどの革新性と勇猛さを持っていたと語られるだけのインパクトがあったことを示唆しているのかもしれない。あるいは、物語としての劇的効果や面白さを追求した結果の創作である可能性も十分に考えられる。史料批判の観点から、その記述の背景や意図を多角的に分析する必要がある。 -
『陰徳太平記』の記述内容と史料的価値
『陰徳太平記(いんとくたいへいき)』もまた、中国地方の戦国時代を描いた重要な軍記物語であり、享保2年(1717年)に刊行された 14。本書は毛利氏の視点から描かれることが多く、尼子氏や赤穴氏に関する記述も含まれていると考えられる 14。しかし、赤穴光清個人に関する具体的な記述の有無や内容については、さらなる詳細な調査が必要である。
『陰徳太平記』は、著者の香川宣阿(かがわ せんあ)が主家である吉川氏、そしてその本家である毛利氏を美化し、正当化しようとする傾向が強いと指摘されている 15。そのため、史料として利用する際には、その記述のバイアスを十分に考慮する必要がある。
なお、江戸時代後期の読本『雨月物語』所収の「菊花の約(きっかのちぎり)」には、「赤穴丹治(あかな たんじ)」という人物が登場するが 26、これは文学作品中の創作された登場人物であり、本報告の対象である赤穴光清や赤穴一族とは直接的な関係はないため、混同しないよう注意が必要である。 -
その他の関連文書(「赤穴郡連置文」など)
軍記物語以外にも、赤穴氏の歴史を紐解く上で重要な一次史料が存在する。その代表的なものとして、愛媛大学の川岡勉氏の研究などで注目されている「赤穴郡連置文(あかなぐんれんおきぶみ)」が挙げられる 3。この置文は、室町時代から戦国時代への移行期における赤穴氏の所領支配や一族内の関係、さらには惣領家である佐波氏との関係性などを示す貴重な史料であり、赤穴氏の存在形態や行動様式を具体的に明らかにする上で大きな価値を持つ。
これらの古文書は、文学的な脚色が含まれる可能性のある軍記物語とは異なり、より直接的な情報源として、赤穴光清が生きた時代の社会状況や権力関係を理解する上で不可欠である。
- 第二章:学術的研究の動向
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川岡勉氏らによる赤穴氏研究の概要と成果
近年、赤穴氏に関する学術的な研究が進展しており、その中心的な役割を担っているのが、愛媛大学の川岡勉氏である。川岡氏は、科学研究費助成事業として「出雲赤穴氏関係史料から探る中世後期武家領主の存在形態と行動様式」という研究プロジェクトを推進してきた 27。
この研究は、前述の「赤穴郡連置文」を含む「中川四郎氏所蔵文書」などの赤穴氏関係史料を丹念に分析し、中世後期における武家領主の存在形態や行動様式の特質を明らかにしようとするものである。具体的には、赤穴氏と惣領家である石見佐波氏との関係、出雲守護であった京極氏の被官人としての立場、そして戦国時代という変動する社会状況の中で、赤穴氏がどのように対応し、生き残りを図ったのかを究明することを目的としている 27。
川岡氏の研究成果は、多数の学術論文や研究成果報告書として公表されており、その中には「戦国期出雲における権力秩序の変動と「赤穴郡連置文」」 27 や、「「某覚書」に見える赤穴氏の「被官並」奉公と「国並」奉公」 28 など、赤穴氏の具体的な姿に迫る論考も含まれている。これらの研究は、赤穴氏を単なる一地方領主としてではなく、中世から戦国期にかけての社会変動の中で、複雑な権力関係の中に置かれた武家領主の一つの典型として捉えようとする視点を持っている。 -
赤穴氏研究における論点と今後の課題
現在の赤穴氏研究においては、いくつかの重要な論点が提示されている。例えば、赤穴氏が惣領家である佐波氏や、主家である尼子氏に対して、どの程度の自立性を保持していたのか。また、尼子氏の支配体制下において、赤穴氏は具体的にどのような役割を期待され、それをどのように果たしていたのか。そして、赤穴盛清による毛利氏への降伏は、当時の状況下でどのような意味を持ち、どのように評価されるべきか、といった点である。
今後の研究においては、未だ解明されていない点も多く残されている。例えば、赤穴光清の具体的な内政手腕や、領民との関係性、あるいは信仰といった側面については、史料的な制約から不明な点が多い。また、赤穴氏の家紋「並び矢」の正確な由来や、佐波氏の家紋との具体的な関連性についても、さらなる史料の発見と分析が期待される。
近年の学術的研究は、赤穴光清のような個々の武将の評価に留まらず、彼らが生きた時代の地域権力の構造や、国人領主の多様な生き様を、より広い文脈の中で明らかにしようとしている。赤穴氏の研究は、戦国期における中央と地方の関係、あるいは大名と国人といった異なる階層の武士たちの関係性を理解する上で、重要な事例研究としての意義を持っている。今後、新たな史料の発見や、学際的なアプローチによる研究が進むことで、赤穴光清とその一族の実像が、より鮮明に浮かび上がってくることが期待される。
結論:戦国武将・赤穴光清の歴史的意義
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赤穴光清の生涯と業績の総括
赤穴光清は、戦国時代の出雲国において、尼子氏の忠実な家臣としてその武勇を馳せた武将であった。特に、第一次月山富田城の戦いにおける瀬戸山城での奮戦は、彼の名を後世に伝える象徴的な出来事である。赤名川を堰き止めるという知略を用いた籠城戦術、そして毛利元就配下の勇将・熊谷直続を討ち取るという武功は、彼の将器の高さを示すものであった。最終的には大軍の前に力尽き、壮絶な討死を遂げたが、その抵抗は敵将・大内義隆による出雲攻略を頓挫させる一因となったとも評価されている。彼の生涯は、主家への忠義を貫き、自らの命を賭して戦い抜いた戦国武将の一つの典型と言えよう。 -
戦国時代の地域領主としての赤穴氏の特質
赤穴光清が率いた赤穴氏は、石見佐波氏の分家として出雲国赤穴荘に根を下ろし、国人領主として成長した一族である。彼らは、尼子氏、大内氏、そして毛利氏といった強大な戦国大名の狭間で、時には翻弄されながらも、巧みな外交や武力によって一定の自立性を保ち、地域に根差した支配を続けた。赤穴光清の生き様は、戦国という厳しい時代を生き抜いた多くの地域領主たちが直面したであろう困難と、その中での苦渋の選択を映し出す鏡であるとも言える。その後の赤穴盛清による毛利氏への降伏と中川氏への改姓は、戦国時代の終焉と共に国人領主が解体され、近世大名家臣団へと再編されていく歴史の大きな流れを象徴している。 -
歴史の中に埋もれた武将を再評価する意義
赤穴光清の名は、織田信長や武田信玄といった戦国時代のスター武将たちと比較すれば、一般的には必ずしも広く知られているとは言えないかもしれない。しかし、彼の生涯や事績を丹念に掘り起こし、その実像に光を当てることには、歴史学的に大きな意義がある。それは、歴史が一部の英雄や勝者だけで作られるのではなく、無数の名もなき人々、あるいは地域で活躍した武将たちの営みによって織り成されているという、歴史の多様性や重層性を理解することに繋がるからである。
赤穴光清のような武将の研究を通じて、私たちは戦国時代の地域社会の具体的な姿や、そこに生きた人々の息遣いをより身近に感じることができる。そしてそれは、画一的な歴史像ではなく、より豊かで深みのある歴史理解へと私たちを導いてくれるであろう。赤穴光清の研究は、まさにそうした歴史の再発見と再評価の一翼を担うものと言える。
引用文献
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- 赤穴氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%B4%E6%B0%8F
- 赤穴庄(あかなのしよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E7%A9%B4%E5%BA%84-3086813
- 瀬戸山城周辺の史跡(戦国時代等) - 島根県飯南町 https://www.iinan.jp/site/history/5551.html
- 銀山街道赤名宿 https://www.cgr.mlit.go.jp/cgkansen/yumekaidou/pc/nintei/40/pdf/40_akana.pdf
- 【マイナー武将列伝】尼子から毛利へ…家名を残すことを最優先した赤穴盛清 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=-OQ_V_z8g90
- 赤穴瀬戸山城 - 飯石郡 - 飯南町観光協会 https://www.satoyamania.net/cont/wp-content/uploads/2022/01/pamphlet_akanasetoyama.pdf
- 赤穴庄と赤穴氏をめぐる雲石政治史 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/bunkazai/kodai/library/publications/kiyou/index.data/hara_kodai32_4.pdf
- 第7話 第一次月山富田城の戦い - 歴史冒険記~毛利史回顧録~(金森 怜香) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927860954817179/episodes/16816927861135753499
- 月山富田城(島根県安来市広瀬町)の歴史 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/gassantoda-castle/
- 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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- お城や城下町で買える御城印帳大特集!お気に入りはどれ? https://shirobito.jp/article/1119
- ご当地グッズ | IINAN ONLINE SHOP( 飯南町公式 ) https://iinan.base.shop/categories/6057678
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- 赤穴盛清 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%B4%E7%9B%9B%E6%B8%85
- 赤穴瀬戸山城跡 | さとやまにあ(飯南町観光協会公式ホームページ) https://www.satoyamania.net/364/
- 赤穴瀬戸山城の見所と写真・100人城主の評価(島根県飯南町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2718/
- 瀬戸山城 - 戦国の城を訪ねて https://oshiromeguri.net/setoyamajo.html
- 熊谷信直とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E7%9B%B4
- 雨月物語 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%9C%88%E7%89%A9%E8%AA%9E
- KAKEN — 研究課題をさがす | 出雲赤穴氏関係史料から探る中世後期 ... https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21K00834/
- 川岡 勉 (Tsutomu Kawaoka) - 論文 - researchmap https://researchmap.jp/read0171182/published_papers?limit=50