赤穴盛清
赤穴盛清は尼子家臣。父光清の戦死後家督を継ぎ、毛利氏に降伏。毛利元就に「義者」と評され、赤穴氏を中川氏と改姓し存続させた。

赤穴盛清:戦国時代を生きた出雲国人の軌跡
序論
本報告は、戦国時代の出雲国における国人領主、赤穴盛清(あかな もりきよ)の生涯と、彼を取り巻く赤穴一族の興亡について詳細に論じるものである。戦国時代の中国地方は、尼子氏、大内氏、そして毛利氏といった大勢力が覇権を争う激動の時代であった 1 。赤穴盛清は、出雲国飯石郡赤穴荘(現在の島根県飯南町赤名)を本拠とし、この動乱期において一族の存続をかけて激流を乗り越えた武将である。
本報告では、まず赤穴氏の出自と、彼らが赤穴荘に勢力を築き上げる過程を概観する。次に、赤穴盛清の生涯を、尼子氏配下時代と毛利氏帰属後の二つの時期に分け、主要な合戦への関与や政治的立場を明らかにする。さらに、盛清の晩年と子孫の動向、そして赤穴氏ゆかりの史跡についても言及する。最後に、本報告で用いた主要史料の特性と、今後の研究課題について考察を加える。
表1:赤穴盛清 主要情報一覧
項目 |
内容 |
主な典拠 |
氏名 |
赤穴 盛清(あかな もりきよ) |
5 |
生没年 |
1528/1529年(享禄元/二年)~1595年11月13日(文禄4年) |
5 |
出身地 |
出雲国飯石郡赤穴荘(現 島根県飯南町赤名) |
5 |
通称 |
満五郎 |
8 |
官途 |
右京亮 |
8 |
主な居城 |
赤穴城(瀬戸山城) |
5 |
主要な主君 |
尼子晴久・義久、毛利元就・輝元 |
5 |
この表は、赤穴盛清に関する基本的な情報をまとめたものである。これにより、読者は本報告を通じて詳述される彼の生涯と業績を理解する上での基礎知識を得ることができるであろう。
1. 赤穴氏の出自と台頭
赤穴盛清の理解には、まず彼が属した赤穴一族の歴史的背景を把握することが不可欠である。赤穴氏は、その出自を平安時代中期の漢学者である三善清行に遡るとされ、その子孫が鎌倉時代に石見国に土着して佐波氏を称したことに始まる 3 。
1.1. 赤穴氏の系譜:佐波氏との関連
赤穴氏の姓は、出雲国飯石郡の赤穴荘に由来する。三善清行の子孫である佐波氏は、鎌倉時代に石見国に領地を与えられ、在地豪族として勢力を扶植した 3 。南北朝時代の初期、佐波氏は出雲国へも勢力を拡大し、赤穴荘を領有していた紀氏の荘園領主を追討して、石見から出雲に及ぶ広大な所領を獲得した 3 。
その後、佐波氏の佐波実連の次男であった佐波常連が赤穴荘の地頭に就任し、これが赤穴氏の直接的な祖とされている 3 。そして、佐波弘行の代に至り、所領の地名である「赤穴」を正式に氏として称するようになった 3 。このため、石見国人である佐波氏が惣領家(主家)にあたり、赤穴氏はその分家筋という関係性が成立した 3 。
1.2. 出雲国赤穴荘の支配と瀬戸山城
赤穴氏が本拠とした出雲国飯石郡赤穴荘は、現在の島根県飯石郡飯南町赤名を中心とする地域である 5 。この地は、石見・備後・出雲の三国国境に位置し、また古来より銀山街道や出雲街道といった主要な交通路が交差する戦略的要衝であった 4 。この地理的条件は、赤穴氏の歴史に大きな影響を与えることになる。彼らの居城は、赤穴城、または瀬戸山城(せとやまじょう)と呼ばれた 4 。
室町時代に入ると、赤穴氏は出雲国の守護であった京極氏に従属し、その権威を利用しながら赤穴荘における支配権を徐々に確立していった 3 。しかし、戦国時代の到来と共に京極氏の勢力は衰退し、代わって尼子氏が出雲国に覇を唱えるようになる。永正15年(1518年)、赤穴氏は尼子経久に従属することを誓い、これにより大内氏に従っていた主家の佐波氏とは袂を分かつこととなった 3 。この決断は、赤穴氏が中国地方の覇権を争う尼子氏と大内氏の激しい対立の渦中に身を投じることを意味した。
表2:赤穴氏略系図
三善清行 → 佐波氏(佐波実連) → 赤穴常連(赤穴氏祖) → … → 赤穴久清 → 赤穴光清 → 赤穴盛清 → 赤穴幸清 → 赤穴元寄(中川元奇)
この系図は、三善氏から赤穴氏、そして後に毛利氏家臣として存続する中川氏へと至る血縁の流れを示している。赤穴荘の地政学的な重要性は、赤穴氏を否応なく周辺大勢力の争いに巻き込み、その歴史を大きく左右した。彼らが京極氏や尼子氏といった時々の有力者に従属しつつも、在地領主としての実力を蓄え、支配基盤を固めていった過程は、戦国時代の国人領主が共通して取った生存戦略の典型と言えるだろう。また、主家であった佐波氏との関係が、尼子氏への従属を機に変化したことは、戦国期の混乱の中で伝統的な惣領制が揺らぎ、有力な分家が地域の勢力図の変化に応じて自立化していくという、当時の社会のダイナミズムを反映している。
2. 赤穴盛清の生涯:尼子氏時代
赤穴盛清は、尼子氏の勢力が伸張し、やがて大内氏との間で激しい抗争を繰り広げる時代に生を受けた。彼の前半生は、尼子氏配下の国人領主として、一族の命運を背負い戦乱の中に身を置くこととなる。
2.1. 生い立ちと家督相続
赤穴盛清は、享禄元年または二年(1528年または1529年)に、赤穴光清の三男として誕生したとされる 1 。通称は満五郎、官途は右京亮であった 8 。彼には長兄の詮清と次兄の定清がいた 3 。
盛清の祖父にあたる赤穴久清の時代、赤穴氏は出雲の戦国大名・尼子経久に従属していた 1 。赤穴氏の本拠である瀬戸山城は、尼子氏の出雲国内における主要な支城群である「尼子十旗(あまごじっき)」の一つに数えられ、防衛拠点として極めて重要な位置を占めていた 1 。これは、赤穴氏が尼子氏の軍事戦略において大きな期待を寄せられていたことを示唆している。
2.2. 第一次月山富田城の戦いと瀬戸山城攻防戦 (1542-1543年)
天文9年(1540年)、尼子晴久(経久の孫)は毛利元就の居城である安芸国吉田郡山城を攻めたが失敗に終わる(吉田郡山城の戦い) 4 。この敗北は、尼子氏と敵対する周防国の大内義隆にとって好機となり、天文11年(1542年)正月、大内義隆は毛利元就ら中国地方の諸将を率いて尼子氏の本拠地・月山富田城を目指し、大規模な出雲侵攻を開始した(第一次月山富田城の戦い) 4 。
この大内軍の侵攻に対し、尼子方の最前線に立たされたのが、赤穴盛清の父・赤穴光清であった。光清は瀬戸山城に籠城し、尼子本家からの援軍(田中三郎左衛門ら)と共に、数万とも言われる大内・毛利連合軍を迎え撃った 1 。光清は、城下を流れる神戸川(かんどがわ)を堰き止めて城の周囲を湖水化するという巧みな防衛策を講じ、大軍の進撃を阻んだ 1 。
天文11年6月7日に始まった瀬戸山城攻防戦は熾烈を極めた。赤穴勢は、大内方の勇将・熊谷信直の弟である熊谷直続を討ち取るなど、寡兵ながらも善戦し、約2ヶ月間にわたり大内軍を足止めした 1 。しかし、同年7月27日、陶隆房(後の陶晴賢)や吉川興経らを中心とする大内軍の総攻撃を受け、城主・赤穴光清は奮戦虚しく流れ矢に当たり討死した 4 。この戦いでは、赤穴氏の老臣・吾郷大炊介(あごう おおいのすけ)も84歳という高齢ながら勇猛に戦い、力尽きて自刃したと伝えられている 4 。瀬戸山城における赤穴氏の粘り強い抵抗は、結果的に大内軍の進軍を大幅に遅滞させ、補給線を疲弊させた。これが、最終的に大内義隆による尼子攻略が失敗に終わる大きな要因の一つとなったと評価されている 4 。
特筆すべきは、この瀬戸山城攻防戦において鉄砲が使用された可能性が軍記物『雲陽軍実記』に記されている点である 4 。『雲陽軍実記』によれば、赤穴方が鉄砲二十挺と弓矢を組み合わせて大内・毛利方を攻撃したとされ、これが事実であれば、天文12年(1543年)の種子島への鉄砲伝来よりも早い時期の鉄砲使用例となり、日本の兵器史において注目すべき記述である。ただし、『雲陽軍実記』は後世に編纂された軍記物語であり、その記述の史実性については慎重な検討が必要である。もしこの伝承が何らかの事実を反映しているとすれば、中央の歴史では見過ごされがちな地方における先進技術導入の可能性や、軍記物の記述を再評価する必要性を示唆するものと言えよう。
父・光清の戦死により瀬戸山城は大内方の手に落ち、盛清の長兄・詮清と次兄・定清は大内氏の人質として送られ、後に筑前国で殺害されるという悲劇に見舞われた 1 。しかし、天文12年(1543年)、大内軍が出雲から撤退を開始すると、その隙を突いて盛清の祖父・赤穴久清が瀬戸山城を奪還することに成功する 1 。兄たちの死により、三男であった盛清が久清の後見のもとで赤穴氏の家督を相続することとなった。尼子晴久は、亡き光清らの忠義に報いるため、若き新当主である盛清に対して所領を加増してその労をねぎらったという 1 。
父の壮絶な戦死、そして二人の兄の非業の死という相次ぐ悲劇を若くして経験したことは、赤穴盛清の人格形成に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。また、祖父・久清の後見を受けながらも、困難な状況下で一族の命運を担うことになった経験は、彼の指導者としての資質を早期に磨き上げることになったのかもしれない。
3. 赤穴盛清の生涯:毛利氏時代
尼子氏の勢力にかげりが見え始め、代わって毛利氏が中国地方の覇権を握ろうとする時代に入ると、赤穴盛清もまた大きな決断を迫られることになる。彼の後半生は、毛利氏の家臣として、新たな主君のもとで戦国の世を生き抜く道程であった。
3.1. 毛利氏への帰属とその背景
永禄3年(1560年)、尼子氏の屋台骨を支えてきた尼子晴久が急死し、嫡男の義久が家督を継ぐと、尼子家中には動揺が広がった 1 。この機を捉え、毛利元就は出雲国への本格的な侵攻を開始する(第二次月山富田城の戦い、永禄5年/1562年~) 2 。
毛利軍の侵攻ルート上に位置する赤穴氏の瀬戸山城も、当然ながら攻撃の対象となった。この時、同じく尼子方であった三刀屋久扶らの仲介もあり、赤穴盛清は毛利元就からの降伏勧告を受け入れ、所領安堵を条件に毛利氏に帰属することを決断した 1 。注目すべきは、この帰属に際して、盛清は本領である赤穴荘500貫の安堵に加え、出雲国と石見国内に合わせて264貫の新たな給地を与えられ、さらに普請役などの諸役も免除されるという、国人領主の降伏条件としては破格とも言える好条件を得たことである 5 。これは、単なる敗北による無条件降伏ではなく、赤穴氏がその在地勢力としての価値や瀬戸山城の戦略的重要性を背景に、毛利氏と一定の交渉力をもって臨んだ結果と考えられる。毛利氏側としても、有力な国人である赤穴氏を無用に敵対させるよりも、有利な条件で味方に引き入れることで、出雲攻略を円滑に進めようという戦略的判断があったのであろう。
3.2. 毛利氏家臣としての赤穴盛清
毛利氏に帰属した赤穴盛清であったが、その過程で彼の人間性を伝える著名な逸話が残されている。それは、父・光清の代から赤穴氏に仕えていた老臣、森田左衛門と烏田権兵衛勝定(からすだ ごんべえ かつさだ)にまつわる物語である。
盛清が毛利氏への降伏を決断した際、森田と烏田の両名は、旧主尼子氏への忠義を貫くことを主張し、盛清の決定に従わず、毛利軍に対してゲリラ的な抵抗運動を続けた 4 。烏田権兵衛は奮戦の末に討死し、森田左衛門は尼子氏の居城である月山富田城へと落ち延びたとされる 4 。
この事態に対し、毛利元就は盛清を呼び出し、なぜ譜代の家臣であった彼らを自ら討伐しなかったのかと詰問した。この時、盛清は臆することなく、「彼らは真の忠臣であり、主家を裏切った自分にはとても討つことはできませんでした。この身、いかようにも処罰なさってください」と述べたと伝えられている 5 。この盛清の言葉と態度に毛利元就は深く感銘を受け、「右京亮(盛清または当時の赤穴氏当主・久清)は古今の義者なり。森田、烏田は伯夷叔斉(古代中国の清廉な賢人兄弟)にも比すべき忠臣である。このような者たちが味方であれば、どれほど心強いことであろうか」と賞賛したという 4 。
この逸話は、戦国武将が抱える忠義と現実主義の間の葛藤、そして「義」という価値観の多層性を象徴している。森田・烏田の行動は旧主への「忠義」であり、盛清の降伏は一族存続のための「現実主義」と解釈できる。元就が盛清を「義者」と評したのは、旧臣の忠義を理解し尊重する盛清の度量の大きさと、自らの不義をも認める潔さに対する評価であり、単なる主君への忠誠とは異なる「義」のあり方を示している。この物語は、毛利氏支配下における赤穴氏の立場を肯定し、その名誉を高める効果も持ったと考えられる。
3.3. 主要な合戦への参加
毛利氏の家臣となった赤穴盛清は、その後、毛利軍の主要な戦いに参加していく。
- 第二次月山富田城の戦い(永禄9年/1566年): 尼子義久が籠る月山富田城への総攻撃において、毛利方の先鋒として戦った 5 。この戦いの結果、尼子氏は滅亡する。
- 立花城の戦い(永禄11年/1568年~永禄12年/1569年): 毛利軍の九州北部への遠征に従軍し、大友氏方の立花山城をめぐる戦いに参加した 5 。
- 尼子再興軍との戦い(永禄12年/1569年8月~): 山中幸盛(鹿介)らを中心とする尼子再興軍が、織田信長らの支援を受けて出雲国へ侵攻すると、盛清はこれを迎え撃つ毛利軍の一員として各地を転戦した 1 。
これらの戦いにおける盛清の具体的な戦功や部隊編成に関する詳細な記録は乏しいが、毛利氏の主要な軍事行動に継続して参加していたことは、彼が毛利家中で一定の信頼を得ていたことを示している。
3.4. 毛利輝元への臣従
毛利元就が元亀2年(1571年)に死去すると、その後は嫡孫の毛利輝元に仕えた 1 。天正年間(1573年~1592年)における盛清の具体的な軍功や知行に関する詳細な記録は、現存する資料からは確認が難しいものの、引き続き毛利家臣として活動を続けたと推察される 5 。
尼子氏から毛利氏へと主君を変えるという選択は、戦国時代の武将にとっては決して珍しいことではなかった。しかし、盛清の事例は、その過程における葛藤や、新たな主君のもとでいかに自らの立場を確立し、一族の存続を図っていくかという、国人領主が直面した普遍的な課題を浮き彫りにしている。「古今の義者」という評価を伴う逸話は、そのような厳しい状況下で、盛清が自らの行動を意味づけ、新たな主従関係の中で確固たる地位を築くための一つの物語であったとも考えられるのである。
4. 晩年と子孫
激動の戦国時代を生き抜いた赤穴盛清は、やがてその生涯を終えるが、彼の一族はその後も巧みに時代に適応し、家名を後世に伝えていくことになる。
4.1. 隠居と最期
赤穴盛清は、元亀4年(1573年)、嫡男の幸清(ゆききよ)に家督と本領である赤穴荘を譲り、隠居したとされている 5 。晩年には、祖父と同じ「久清(ひさきよ)」という名を名乗ったとも伝えられている 5 。
そして、文禄4年(1595年)11月13日、赤穴盛清はその生涯を閉じた。享年67であった 5 。彼の死因に関する具体的な記録は乏しいが、これまでの経歴や状況から判断すると、戦場での死ではなく、病死または自然死であった可能性が高いと考えられる。
4.2. 赤穴氏から中川氏へ:長州藩士としての存続
盛清から家督を継いだ嫡男の幸清であったが、残念ながら天正18年(1590年)に父である盛清に先立って死去してしまう 5 。そのため、家督は幸清の子、すなわち盛清の孫にあたる才寿丸(さいじゅまる)が相続した。この才寿丸は、後に元服して赤穴元寄(もとより)、あるいは元奇(もとき)と名乗った 3 。
赤穴元寄(元奇)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも毛利軍の一員として従軍した記録が残っている 3 。そして、慶長4年(1599年)、赤穴氏はその姓を「中川(なかがわ)」と改めた 3 。この改姓の正確な理由は不明であるが、新たな時代への対応や、主家である毛利氏との関係をより円滑にするための措置であった可能性が考えられる。
翌慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった毛利輝元は敗北し、周防・長門の二国(現在の山口県)に減封される。中川氏と改姓した赤穴氏の一族も、この毛利氏の移封に従い、長州藩(萩藩)の藩士として江戸時代を通じて存続することになった 3 。
赤穴盛清が下した毛利氏への帰属という大きな決断、そしてその後の子孫たちによる改姓や長州藩への仕官といった巧みな立ち回りは、結果として赤穴(中川)氏が戦国時代の動乱を乗り越え、近世大名体制下で幕末に至るまで家名を保つことに繋がった。これは、多くの地方領主が歴史の波に呑まれて消えていった中で、見事に生き残りを果たした成功例の一つと言えるだろう。一方で、先祖代々の本拠地であった赤穴荘を離れ、長州藩士として新たな土地で仕えることは、彼らにとって「在地性」の喪失を意味した 3 。しかしそれは同時に、近世武士としての新たなアイデンティティを獲得し、新しい社会体制の中で生き残るための道でもあったのである。
5. 赤穴盛清ゆかりの史跡
赤穴盛清とその一族の歴史を今に伝える史跡は、彼らの本拠地であった島根県飯南町赤名周辺にいくつか残されている。これらの史跡は、戦国時代の面影を偲ばせるとともに、地域の歴史的アイデンティティを形成する上で重要な役割を担っている。
5.1. 瀬戸山城(赤穴城)跡
赤穴氏代々の居城であった瀬戸山城(赤穴城)の跡は、島根県飯石郡飯南町赤名に現存する 5 。城は標高631メートルの衣掛山(きぬかけやま)に築かれた山城で、その規模は東西約400メートル、南北約200メートルに及ぶ広大なものであった 6 。現在も、曲輪、石垣、虎口(こぐち)、土塁などの遺構が確認でき、往時の姿をうかがい知ることができる 6 。
瀬戸山城は、その戦略的な位置から、尼子氏、大内氏、そして毛利氏といった戦国大名たちの争奪の的となり、幾度も戦火に見舞われた。特に天文11年(1542年)の第一次月山富田城の戦いの前哨戦として繰り広げられた攻防戦は、赤穴光清(盛清の父)の奮戦と共に語り継がれている 4 。関ヶ原の戦いの後、出雲国に入封した堀尾吉晴の時代には一時的に改修が加えられたが、元和元年(1615年)の一国一城令により破城されたと伝えられる 13 。
城跡の周辺には、永禄5年(1562年)に毛利元就が瀬戸山城を攻めた際に陣を敷いたとされる武名ヶ平城(たけながひらじょう)の跡も残されている 6 。
5.2. 大光寺と赤穴一族の墓所
島根県飯石郡飯南町には、赤穴氏の菩提寺であったとされる大光寺(だいこうじ)があり、その境内には赤穴氏歴代の墓所と伝えられる墓石群が存在する 6 。ここには、赤穴光清の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)をはじめとして、十数基の宝篋印塔が残されている 6 。
平成13年度(2001年度)に行われた石造物調査の報告によれば、大光寺の墓地にある宝篋印塔群は、その様式から16世紀後半から17世紀半ばにかけて造立されたものと推定されている 18 。興味深いのは、これらの石塔には出雲地方特有の様式を持つものと、石見銀山周辺に多く見られる様式を持つものの二系統が存在することである。また、一部の石塔には赤穴氏の祖先とされる三善氏の姓である「三善」の銘が確認されており、これらの墓石群が赤穴一族に関連するものであることを強く示唆している 18 。ただし、赤穴盛清個人の墓碑が明確に特定されているかについては、現在のところ提供された資料からは断定できない。しかし、一族の菩提寺として、また累代の墓所として、大光寺は赤穴氏の歴史を語る上で極めて重要な場所である。
これらの史跡は、赤穴氏の歴史を具体的に伝える貴重な文化遺産である。瀬戸山城跡の遺構は戦国時代の山城の姿を今に伝え、大光寺の石塔群の様式の違いは、当時の石材の流通や文化的影響関係をも示唆している。これらの史跡の保存と活用は、地域の歴史的アイデンティティを育み、後世に伝えていく上で大きな意義を持つ。
また、瀬戸山城攻防戦における鉄砲使用の伝承や、「古今の義者」の逸話など、『雲陽軍実記』に描かれる赤穴氏関連のエピソードは、これらの史跡調査や、後述する「中川文書」などの一次史料との比較検討を通じて、その史実性や背景をより深く理解していく必要がある。軍記物語は歴史的事実を伝える一方で、物語的要素や後世の脚色が含まれる可能性があるため、史料批判の視点からの検証が不可欠である。
6. 史料について
赤穴盛清および赤穴一族の歴史を研究する上で、いくつかの重要な史料が存在する。これらの史料は、それぞれ異なる性格を持ち、多角的な分析を通じてより詳細な歴史像を構築するための手がかりとなる。
6.1. 主要史料の概観
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『雲陽軍実記』
『雲陽軍実記(うんようぐんじつき)』は、江戸時代に成立したとされる軍記物語であり、尼子氏を中心とした戦国時代の出雲地方の動向を詳細に記述している。赤穴氏、特に赤穴光清や盛清の活躍についても多くの記述が見られ、瀬戸山城攻防戦の様子や、毛利元就が赤穴氏を「古今の義者」と評した逸話などは、本書に拠るところが大きい 4。物語性が強く、史実としてそのまま受け取ることには注意が必要であるが、当時の武士の価値観や人物評価、合戦の様相などを考察する上で貴重な情報を提供している。赤穴氏の勇猛さや義理堅さといったイメージ形成に、本書が果たした役割は大きいと言える。 -
「中川文書(赤穴文書)」
「中川文書(なかがわもんじょ)」、または「赤穴文書(あかなもんじょ)」と呼ばれる古文書群は、赤穴氏の子孫である長州藩士中川家に伝来した一次史料である 20。これらの文書には、赤穴氏の所領経営、書状のやり取り、社会的な関係、政治的な動向などが具体的に記されている可能性があり、赤穴氏の実像に迫る上で最も重要な史料群の一つと言える。東京大学史料編纂所などで調査・研究が進められており、赤穴氏やその惣領家であった佐波氏が置かれた社会的地位、室町幕府や守護との関係、地域権力秩序の変容などが研究テーマとなっている 21。
6.2. 史料研究の現状と課題
「中川文書」の研究は、赤穴氏の具体的な歴史を解明する上で不可欠であるが、本報告を作成するにあたって利用可能であった情報の範囲では、赤穴盛清個人が発給・受信した書状の具体的な内容や、彼の詳細な事績を直接的に示す記述までは十分に明らかにされていない。今後の研究によって、盛清の人物像や活動について新たな知見が得られることが期待される。
一方、『雲陽軍実記』の記述は具体的で物語性に富んでいるが、その史実性については常に他の一次史料との比較検討による検証が求められる。例えば、瀬戸山城での鉄砲使用の記述や、毛利元就との間の詳細なやり取りなどは、軍記物語特有の脚色が含まれている可能性も否定できない。
赤穴盛清および赤穴氏の研究においては、「中川文書」のような一次史料と、『雲陽軍実記』のような二次的性格を持つ軍記物語とを慎重に比較検討することが極めて重要である。一次史料は客観的な事実関係を明らかにする上で基礎となり、軍記物語は当時の人々の価値観や出来事の受容のされ方、後世の評価などを反映している可能性がある。両者を突き合わせることで、より多角的で深みのある歴史像を構築することができる。
また、「中川文書」の研究が進められているとはいえ、その全容や赤穴盛清に直接関連する具体的な記述がどの程度存在するのかは、提供された情報からは限定的である。これは、地方の国人領主に関する史料が散逸しやすかったり、研究が中央の著名な大名に比べて遅れがちであったりする現状を示唆している。未だ光の当てられていない史料や、新たな解釈によって、赤穴氏の研究がさらに進展する可能性は十分に考えられる。
7. 結論
本報告では、戦国時代の出雲国人・赤穴盛清の生涯と、彼が属した赤穴一族の歴史について、現存する史料に基づいて考察を加えてきた。
赤穴盛清は、天文元年(1528年)頃に生まれ、文禄4年(1595年)に没するまでの約67年間、まさに戦国乱世の激動期を生きた武将であった。父・赤穴光清の代からの尼子氏への忠誠、そして毛利氏の台頭という時代の大きな転換期における毛利氏への帰順という、二つの大きな主家との関わりの中で、彼は一族の存続という重責を担い続けた。
特に、第一次月山富田城の戦いの前哨戦となった瀬戸山城攻防戦における父・光清の壮絶な戦死は、若き盛清に大きな影響を与えたであろう。その後、家督を継いだ盛清は、尼子氏の有力な支城主として活動したが、やがて毛利元就の出雲侵攻という新たな試練に直面する。この際、盛清は武力による徹底抗戦ではなく、所領安堵を条件に毛利氏に帰属するという現実的な道を選んだ。この決断は、結果として赤穴氏が近世を通じて存続するための礎となった。
毛利氏帰属後に語られる、旧臣・森田左衛門と烏田権兵衛の忠義を称え、彼らを討つことを拒んだという逸話は、盛清の人間性や武士としての価値観を伝えるものとして興味深い。毛利元就から「古今の義者」と評されたとされるこの物語は、単なる主君への忠誠とは異なる「義」のあり方を示唆しており、戦国武将の複雑な精神世界を垣間見せる。
盛清の晩年は比較的穏やかであったと推察され、その子孫は赤穴氏から中川氏へと改姓し、毛利氏の長州移封に従って藩士となり、江戸時代を通じて家名を保った。これは、盛清の時代における的確な判断と、それに続く子孫たちの巧みな処世術の賜物と言えるだろう。
赤穴盛清および赤穴一族の研究は、戦国時代における地方国人領主の動態、大勢力間の狭間で揺れ動く主従関係の実態、そして武士の「忠義」や「義」といった価値観の多様性を理解する上で、非常に示唆に富む事例を提供する。
今後の展望としては、「中川文書(赤穴文書)」をはじめとする一次史料の更なる解読と分析が待たれる。これにより、これまで『雲陽軍実記』などの軍記物語に依拠する部分が大きかった赤穴盛清の人物像や、赤穴氏の具体的な所領経営、家臣団構成、政治的活動などがより詳細に明らかになることが期待される。地域史研究の深化は、日本史全体の理解をより豊かで多角的なものにする上で不可欠であり、赤穴盛清とその一族の研究もまた、その一翼を担うものである。
引用文献
- 【マイナー武将列伝】尼子から毛利へ…家名を残すことを最優先した赤穴盛清 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=-OQ_V_z8g90
- 尼子氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F
- 赤穴氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%B4%E6%B0%8F
- 瀬戸山城周辺の史跡(戦国時代等) - 島根県飯南町 https://www.iinan.jp/site/history/5551.html
- 赤穴盛清 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%B4%E7%9B%9B%E6%B8%85
- 赤穴瀬戸山城 - 飯石郡 - 飯南町観光協会 https://www.satoyamania.net/cont/wp-content/uploads/2022/01/pamphlet_akanasetoyama.pdf
- 赤穴氏とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E7%A9%B4%E6%B0%8F
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