足利高基は古河公方三代。父との内乱を制したが、弟義明の小弓公方擁立や子の反逆で権威は失墜。北条氏の台頭を招き、時代の転換点となった。
日本の戦国時代、関東地方にその名を刻んだ足利高基(あしかが たかもと)。彼は、室町幕府を開いた足利尊氏の血を引き、関東に君臨した古河公方(こがくぼう)家の第三代当主という、伝統的権威の継承者であった。しかし、彼の生涯は、旧勢力が没落し、新興の戦国大名が台頭する時代の大きなうねりの中心に位置づけられる。
高基の人生は、一つの大きな皮肉に満ちている。彼は父との壮絶な内乱を勝ち抜き、自らの手で公方の座を掴み取った行動力のある人物であった。その目的は、揺らぎ始めた古河公方の権威を再興し、関東における足利氏の支配を盤石にすることにあったはずである。しかし、彼の行動は意図とは裏腹に、結果として旧来の「公方―管領体制」という関東の統治構造の解体を促進し、後北条氏に代表される新たな支配者が覇権を握る道筋をつけてしまった 1 。
本報告書は、足利高基という一人の武将の生涯を、関東戦国史の転換期という文脈の中に正確に位置づけることを目的とする。彼の生きた時代、彼が下した決断、そして彼を取り巻く人々の思惑が、いかにして関東の勢力図を塗り替え、新たな時代を到来させたのか。その多層的な影響を、永正の乱と関東享禄の内乱という二つの大きな争乱を軸に、詳細かつ徹底的に解明していく。高基の物語は、一個人の悲劇であると同時に、一つの時代が終焉を迎える過程そのものを映し出す鏡なのである。
足利高基の人生を決定づけたのは、永正年間に発生した一連の内乱、通称「永正の乱」であった。この争いは、単に古河公方家における父子の権力闘争に留まらず、関東管領上杉家の内紛、さらには隣国越後の政情不安が連鎖的に引き起こした、構造的な大乱であった。この部では、高基が父・政氏と刃を交えるに至った背景と、その争いが関東全体をいかに巻き込んでいったのかを多角的に分析する。
永正の乱が勃発する以前の関東は、一見すると平穏を取り戻しているかのように見えた。しかしその水面下では、来るべき大乱の要因が静かに、しかし着実に蓄積されていた。
室町時代中期に勃発した享徳の乱(1455年-1483年)以降、関東の政治秩序は大きく変容していた。鎌倉公方は幕府との対立の末に本拠地を鎌倉から下総国古河へと移し、「古河公方」として関東に独自の勢力圏を築いた 3 。一方、公方を補佐する役職であった関東管領の上杉氏は、本家である山内上杉家と分家の扇谷上杉家に分裂し、時には公方と、時には互いに、対立と和睦を繰り返す不安定な均衡状態が続いていた 4 。この「公方―管領体制」は、長年の戦乱を経て、その内部に多くの矛盾と対立の火種を抱えていたのである。
第二代古河公方・足利政氏は、この不安定な状況を収拾し、秩序を回復することに努めた。特に彼は、長年にわたる上杉氏との戦乱(長享の乱)を終息に導いた関東管領・山内上杉顕定との協調路線を重視した 7 。これは、疲弊した関東に一時的な平和をもたらす現実的な政策であった。しかし、この協調は、見方を変えれば、古河公方の権威が関東管領の軍事力に依存しなければ維持できないほどに低下していたことの証左でもあった。公方が管領の力を借りて威光を保つというこの構図は、公方の権威が相対的に低下し、管領の権勢が強まる結果を招いた。
このような状況の中、政氏の嫡男として生を受けたのが、後の高基である。幼名を亀王丸と称した彼は、明応4年(1495年)頃に元服し、当時の室町幕府第11代将軍・足利義高(後の義澄)から偏諱(へんき)を賜り、「高氏(たかうじ)」と名乗った。しかし、この名は幕府の初代将軍・足利尊氏の初名と同じであったため、これを憚り、初代鎌倉公方・足利基氏から一字を取り、「高基(たかもと)」と改めた 9 。この改名の経緯は、彼が自らを鎌倉以来の公方の正統な後継者として強く意識していたことを示唆している。
自尊心の強い青年期の高基にとって、父・政氏の上杉氏に依存する政策は、公方の権威を自ら貶める「弱腰」な姿勢に映ったであろう。父の政策は、将来自分が継承するはずの権力基盤を弱体化させるものとして、強い反発を覚える土壌となった。ここに、単なる政策上の意見の相違を超えた、公方としての「あるべき姿」をめぐる世代間の深刻な認識の断絶が存在した。父子の対立は、個人的な不和というよりも、この構造的な問題から必然的に生じたものであった。
父・政氏への不満を募らせていた高基は、ついに実力行使へと踏み切る。その行動は、北関東の有力大名・宇都宮氏の野心と結びつき、父子の対立を決定的なものにした。
永正3年(1506年)、政氏との対立が表面化すると、高基は古河を離れ、妻・瑞雲院(ずいうんいん)の実家である下野国の宇都宮成綱(うつのみや しげつな)を頼って出奔した 7 。これは、父子間の亀裂がもはや修復不可能な段階に達し、武力衝突も辞さないという高基の決意表明であった。
この事態を、宇都宮成綱は自家の勢力拡大のための千載一遇の好機と捉えた。彼は、婿である高基を次期古河公方として擁立し、その「義父」という立場を利用して北関東に覇を唱えることを目論んだのである 10 。成綱の戦略は周到であった。彼は高基に娘を嫁がせるだけでなく、別の娘を下総の有力大名・結城政朝(ゆうき まさとも)に嫁がせるなど、婚姻政策を巧みに利用して、高基を支持する大名連合の形成に動いた 10 。高基は、成綱にとって、関東の旧来の権威構造を再編し、自らをその中心に据えるための、極めて有効な「政治的資産」だったのである。
しかし、成綱の計画には大きな障害があった。宇都宮家中が必ずしも一枚岩ではなかったのである。家中の実権を握っていた重臣の芳賀高勝(はが たかかつ)は、現公方である足利政氏を支持しており、宇都宮氏は高基派と政氏派に分裂する危機にあった 10 。
成綱は、高基支援という大事業に取り掛かる前に、まず足元を固める必要があった。彼は「公方様(高基)の御為」という大義名分を掲げ、自らに反対する芳賀氏一派を「公方の敵」として断罪し、粛清することを決意する。この内紛は「宇都宮錯乱」と呼ばれる激しいものであったが、成綱は謀略を駆使して永正9年(1512年)に芳賀高勝を謀殺し、反対勢力を制圧 10 。家中の権力を完全に掌握した上で、高基支援に全力を注ぐ体制を整えた。
この一連の動きは、高基の勝利が彼自身の器量以上に、岳父・宇都宮成綱の卓越した政治戦略に負うところが大きいことを示している。成綱は、古河公方の内紛という「中央」の政争を、自領の権力基盤強化(芳賀氏粛清)という「地方」の課題解決に巧みに直結させた。この段階で、古河公方の権威は、もはや自立した絶対的な権力としてではなく、野心的な戦国大名が自らの目的を達成するための「道具」として利用される対象へと、その性格を変質させ始めていた。高基の出奔は、その時代の変化を象徴する出来事であった。
高基と政氏の対立は、宇都宮氏の介入によって下野国から燃え上がったが、その炎が関東全域を巻き込む大乱へと発展するには、もう一つの大きな事件が必要であった。それは、遠く離れた越後の地で起きた、一つの衝撃的な出来事だった。
永正7年(1510年)6月、越後国で守護代の長尾為景(ながお ためかげ)が、主君である守護・上杉房能(うえすぎ ふさよし)を討つという下剋上が発生した。さらに為景は、房能の仇討ちのために越後へ出兵してきた房能の実兄、関東管領・山内上杉顕定までも長森原の戦いで討ち取ってしまう 2 。関東の最高権力者であった顕定の突然の戦死は、関東の政治バランスを根底から揺るがす激震となった。
この越後での一つの戦いは、ドミノ倒しのように関東の政治秩序を崩壊させた。高基の運命は、彼が直接関知しない遠方の出来事によって、大きく左右されることになったのである。
上杉顕定の死後、山内上杉家ではその後継をめぐり、顕定の養子であった上杉顕実(あきざね)と上杉憲房(のりふさ)の間で家督争いが勃発した。この関東管領家の内紛に、すでに争っていた古河公方父子が介入する。父・政氏は、実の弟である顕実を支持。一方、子の高基は憲房を支持した。これにより、関東の戦乱は「古河公方家の内紛」と「関東管領家の内紛」という二つの争いが完全に連動し、関東のほぼ全ての有力者がどちらかの陣営につくことを迫られる、大規模な内乱へと発展したのである 2 。
この対立構造の深化により、関東の諸大名は明確に二派に分かれて争うことになった。その勢力図は以下の通りである。
陣営 |
古河公方家 |
関東管領山内上杉家 |
主要な支持勢力 |
備考 |
政氏方 |
足利政氏 |
上杉顕実(政氏の実弟) |
佐竹義舜、小山成長、岩城常隆・由隆、白河結城顕頼、佐野秀綱 |
旧来の秩序を維持しようとする伝統的勢力が中心 2 |
高基方 |
足利高基 |
上杉憲房 |
宇都宮成綱・忠綱、結城政朝、小田政治、千葉勝胤、伊勢宗瑞(北条早雲) |
宇都宮氏の同盟網と、伊勢宗瑞ら新興勢力が中心 2 |
独立/中立 |
足利義明(後の小弓公方) |
扇谷上杉朝良 |
里見氏、真里谷武田氏 |
当初は中立的だが、後に独自の動きを見せる 2 |
この図が示すように、政氏方には佐竹氏や白河結城氏など、伝統的に古河公方や山内上杉家と繋がりの深い勢力が名を連ねた。一方、高基方には宇都宮氏の同盟ネットワークを核として、新興勢力である伊勢宗瑞(北条早雲)が加わるなど、新たな秩序を志向する勢力が結集した。
宇都宮成綱らの強力な支援と、上杉憲房方の軍事行動により、高基派は次第に優勢となっていった。そして永正9年(1512年)、ついに父・政氏は本拠地である古河城を維持できなくなり、支持勢力である小山氏のもとへと敗走した 1 。政氏を追放した高基は古河城に入り、名実ともに第三代古河公方の座を、自らの実力で掌握したのである 9 。彼の勝利は、越後で起きた一つの戦いという「偶然」の要素に大きく助けられた側面があり、戦国時代の武将がいかに自らのコントロールを超えた大きな政治的潮流の中で翻弄されていたかを示す好例と言える。
永正の乱が関東全域を巻き込む中で、この混乱を冷静に見つめ、自らの野望の糧にしようとしていた人物がいた。伊豆・相模を拠点に勢力を拡大しつつあった新興の戦国大名、伊勢宗瑞(いせ そうずい)、後の北条早雲(ほうじょう そううん)である。
早雲は、関東の伝統的権威である古河公方と関東管領が内紛で疲弊していく様を、伊豆・相模への勢力拡大の絶好の機会と捉えていた 13 。彼の当面の目標は相模国の完全平定であり、その最大の障害は、相模に勢力を持つ扇谷上杉家と、その本家である山内上杉家であった。
この状況で、早雲は高基・憲房方に与することを決断する 2 。これは、高基の掲げる正統性を心から支持したわけではない。高基の敵である政氏・顕実方を、他ならぬ上杉氏が支援していたからである。高基を支援することは、すなわち上杉氏を攻撃するための絶好の大義名分を手に入れることであった 8 。彼は、公方家の内紛という関東の「内なる論理」を、巧みに自らの領土拡大という「外からの戦略」に利用したのである。
早雲は、高基方として公然と軍事行動を起こす権利を得ると、その矛先を上杉氏だけでなく、長年抵抗を続けていた相模の豪族・三浦氏に向けた。関東の諸大名が公方家の内紛に釘付けになっている隙を突き、永正9年(1512年)には相模と武蔵の国境に玉縄城を築いて三浦氏を圧迫 16 。そして永正13年(1516年)、ついに三浦義同(よしあつ)・義意(よしおき)父子を新井城で滅ぼし、相模一国の統一を成し遂げた 17 。
高基にとって、早雲の軍事力は父との戦いを勝利に導く上で不可欠なものであった。しかし、それは同時に、関東の伝統的秩序を根底から破壊する可能性を秘めた新興勢力を、自ら領内に引き入れる「両刃の剣」であった。
足利高基と北条早雲の関係は、この時代の関東における権力の源泉が、旧来の「権威」から新たな「実力」へと決定的に移行する画期を象徴している。高基は「足利氏の血筋と古河公方という家格」という伝統的権威を代表し、早雲は「卓越した軍事力と先進的な領国経営」という新たな実力を代表する。高基が目先の勝利のために早雲の実力を頼ったその瞬間、旧来の権威は自らの手でその優位性を放棄し、実力の下に組み込まれる道を選んだとも言える。
永正の乱における最大の勝者は、公方の座を手にした高基でも、最後まで抵抗した政氏でもなく、北条早雲であった。彼は関東の伝統勢力が内紛で自滅していく様を冷静に見極め、最小限の政治的コストで、相模平定と関東への橋頭堡確保という最大限の戦略的利益を獲得した。高基の父子相克の闘争は、結果的に早雲の壮大な戦略の、格好の舞台装置として利用された側面が強かったのである。
父・政氏を追放し、第三代古河公方の座に就いた足利高基。しかし、彼の前途は決して平坦ではなかった。永正の乱という大きな犠牲の上に手にした公方の座であったが、その権威は常に内外からの挑戦に晒され続けた。彼は、失われゆく伝統的権威と、台頭する新たな実力主義の狭間で、苦悩に満ちた治世を送ることになる。
永正9年(1512年)に公方となって以降、高基は自らの政権基盤を固めるための施策に着手した。その政策は、彼の置かれた苦しい立場と、失墜した権威を必死に繋ぎ止めようとする苦闘の連続を物語っている。
高基の治世は、論功行賞や、永正の乱で自らを支えた同盟勢力との関係維持から始まった。特に、彼の最大の支援者であった宇都宮成綱が没した後も、その子で義兄弟にあたる宇都宮忠綱とは良好な関係を維持したことが、高基が忠綱に宛てた書状から確認されている 19 。
しかし、彼の権威は盤石ではなかった。そのため、彼は有力大名との関係を強化することで、自らの地位を守ろうと試みる。
第一に、かつて敵対した関東管領・山内上杉家との和解である。彼は対立を解消すると、次男の晴直(はるなお)、後の上杉憲寛(のりひろ)を同家の養子として送り込んだ 9。これは、関東の伝統的な支配者である管領家を自らの影響下に置き、公方―管領体制を再構築しようとする試みであった。
第二に、新興勢力である後北条氏との関係維持である。後述する弟・義明の脅威が現実のものとなると、高基はその対抗策として後北条氏の軍事力に頼らざるを得なくなる。永正18年(1521年)、彼は嫡男・晴氏の妻に北条氏綱の娘を迎えるという婚姻の約束を取り交わした 7。
この二つの政策は、高基の置かれた立場の矛盾を浮き彫りにしている。一方で伝統的権威(上杉氏)との連携を模索しつつ、もう一方ではその伝統的権威を破壊する新興勢力(後北条氏)に依存しているのである。この矛盾した外交政策こそ、もはや単独では自らの権威を維持できなくなった古河公方の脆弱性を示している。彼の政策は、権威を積極的に拡大する攻めの姿勢ではなく、有力大名間のバランスの上に立ち、これ以上権威が失墜しないように「防御」することに腐心する、守勢に立たされた権力者の典型的な行動パターンであった。
永正15年(1518年)頃、長年にわたり対立を続けた父・政氏は最終的に出家し、武蔵国久喜の甘棠院(かんとういん)に隠棲したことで、父子の対立は完全に終結した 1 。永正17年(1520年)頃のものと推定される、高基が武蔵国の鷲宮神社に宛てた書状には、陣中での祈祷に対する感謝が述べられており、長年の争いが終結したことへの安堵の念がうかがえる 20 。しかし、この束の間の安定は、新たな火種によってすぐに脅かされることになるのである。
高基が父との争いに勝利して手にした権威は、思わぬ方向から挑戦を受けることになった。彼自身の弟、足利義明(よしあき)が、新たな「公方」として関東に名乗りを上げたのである。
高基には、初め僧侶となって空然(こうねん)と名乗っていた弟がいた。この義明に、上総国の有力国人であった真里谷武田氏(まりやつたけだし)が着目した。真里谷氏は、義明を還俗させると、下総国小弓城(おゆみじょう)を拠点として擁立し、「小弓公方」を称させたのである 7 。
この小弓公方成立の背景には、様々な勢力の思惑が絡み合っていた。擁立した真里谷氏は、義明を傀儡として関東に勢力を拡大する野心を持っていた 21 。また、安房国の里見氏なども、古河公方に対抗するために義明が持つ「足利氏の血筋」という権威を利用しようと、その支援に回った 21 。
小弓公方の存在は、兄である高基の政権にとって、単なる軍事的な脅威以上の、深刻な問題を突きつけた。同じ足利一門が「もう一つの公方」を名乗ることで、古河公方の権威の唯一性が根本から揺らいでしまったのである。関東の諸大名は、古河と小弓、どちらの公方につくべきかの選択を迫られ、高基の求心力は著しく低下した 21 。この新たな脅威の出現が、高基をますます後北条氏への依存へと向かわせる最大の要因となった。
小弓公方の成立は、ある意味で永正の乱の論理的帰結であった。高基自身が、宇都宮氏という外部勢力の力を借りて、正統な公方である父を武力で追放したという前例は、「公方の地位は実力で奪取可能である」というメッセージを関東中に発信したに等しい。弟の義明と真里谷氏は、まさに高基が自ら作ったその前例をなぞったのである。
この構造は、高基が宇都宮氏に擁立された構図と全く同じであった。「足利氏の血筋(権威)」と「有力大名の軍事力(実力)」という方程式が、新たな権力を生み出すことを再び証明した。これは、古河公方の権威がもはや絶対的・唯一無二のものではなくなったことを意味する。有力な支援者さえ見つければ、誰でも「公方」を名乗れる時代の到来を示していた。高基は、父への反逆によって自らが蒔いた種を、今度は弟によって刈り取られるという、極めて皮肉な運命を辿ることになったのである。
父を乗り越え、弟の挑戦を受けるという苦難の道を歩んだ高基であったが、その晩年には、彼の人生の皮肉を象徴する最後の悲劇が待ち受けていた。彼がかつて父に対して行ったように、今度は自らの嫡男・足利晴氏(はるうじ)によって、その座を追われることになるのである。
晩年、高基は嫡男の晴氏とも対立し、この内乱は「関東享禄の内乱」と呼ばれる 19 。享禄2年(1529年)頃から始まったこの対立で、晴氏は驚くべきことに、かつて高基に追放された祖父・政氏や、宇都宮興綱(おきつな)らの支援を受けて、父・高基が籠る古河城を攻撃した 24 。高基は小山氏らの支援を受けて抵抗するが、最終的には劣勢となり、享禄4年(1531年)には隠居に追い込まれ、晴氏が新たな第四代古河公方となった 24 。
この父子対立の原因について、史料が少ないため断定は難しい 24 。しかし、高基と政氏の対立構造との類似性から、いくつかの要因が推測される。第一に、高基がなかなか実権を譲らないことに対する晴氏の焦りや不満という、権力移譲をめぐる確執である。第二に、外交路線をめぐる対立、特に急速に台頭する後北条氏への対応が挙げられる。晴氏は、叔父である小弓公方・義明の脅威に対抗するため、父の代からの約束であった北条氏綱の娘との婚姻を積極的に進め、より後北条氏との連携を深める路線をとった 25 。高基が、自らの権威を脅かしかねないこの急進的な親北条路線に、懸念を抱いた可能性は十分に考えられる。そして興味深いのは、祖父・政氏が孫である晴氏を支援している点であり 24 、この争いが単なる権力闘争に留まらず、家族間の複雑な感情が絡んでいたことを示唆している。
関東享禄の内乱は、永正の乱の「ミニチュア版」であり、古河公方家の権威失墜がもはや構造的かつ回復不可能なレベルに達していたことを最終的に証明する出来事であった。永正の乱が関東のほぼ全ての有力者を巻き込む大乱であったのに対し、享禄の内乱は周辺武家を広く巻き込むことなく、比較的早期に終結している 24 。これは、20年の時を経て、もはや古河公方家の内紛が、関東全体の政治情勢を左右するほどの重要性を持たなくなっていたことを意味する。諸大名にとって、公方家の争いは自らの勢力拡大とは無関係な「足利家の内輪揉め」として、冷ややかに見られていた可能性が高い。
この内乱の結果、最も利益を得たのは、またしても後北条氏であった。晴氏は公方の座を確実にするため、後北条氏との関係をこれまで以上に強化せざるを得なくなり、天文8年(1539年)に氏綱の娘(芳春院)を正室として正式に迎えた 25 。これにより後北条氏は公方の「外戚(御一家)」という高い格式を手に入れ、関東支配の正統性を主張する強力な武器を得たのである 28 。
高基の最後の戦いは、彼の時代の終わりと、後北条氏の時代の本格的な始まりを告げるものであった。彼は父を追放して公方になったが、最後は息子に追われる形で政治の表舞台から去った。彼の人生は、父への反逆から始まり、息子からの反逆で終わるという、完全な円環構造を描いて終焉した。そして天文4年(1535年)10月8日、その波乱に満ちた生涯を閉じた 7 。
足利高基(1485年 - 1535年)の生涯は、戦国時代の関東における旧権威の最後の抵抗と、その避けられない限界を鮮やかに体現するものであった。彼は、父・政氏との壮絶な内乱を勝ち抜き、自らの手で公方の座を掴み取った、紛れもなく行動力と意志を兼ね備えた人物であった。しかし、その勝利は宇都宮氏や北条早雲といった外部の実力者への依存の上に成り立っており、彼の治世は、弟・義明の挑戦や後北条氏の台頭という、自らが作り出した、あるいは引き入れてしまった新たな脅威に常に晒され続けた。
高基は、失われゆく古河公方の権威を再興しようと奮闘した。しかし、彼の行動は皮肉にも、その権威の失墜を加速させる結果を招いた。
第一に、父への反逆という実力行使は、公方の地位が血筋だけでなく力によって覆されうるという前例を関東に示し、弟・義明による小弓公方創設の道を開いた。
第二に、新興勢力である後北条氏の力を借りたことは、目先の勝利と引き換えに、関東の伝統秩序を破壊する力を公認し、結果的に関東の支配権を彼らに明け渡す道筋をつけてしまった。
彼の人生は、中世的な「権威」が、戦国的な「実力」に呑み込まれていく時代の過渡期そのものを象徴している。父を乗り越え、弟と争い、そして最後は息子にその座を奪われるという彼の悲劇的な生涯は、一個人の物語であると同時に、古河公方という一つの権力がその歴史的役割を終えていく過程そのものであった。彼の死後、嫡男・晴氏は後北条氏との関係をさらに深めるが、やがて対立し、河越夜戦での敗北を経て、古河公方は完全に後北条氏の傀儡と化していく。
足利高基は、まさにその激動の時代の中心で、栄光と挫折、そして時代の大きな皮肉を一身に背負った人物として、歴史にその名を刻んでいる。彼は旧時代の最後の支配者になろうとして、結果的に新時代の扉を開く役割を担わされた、過渡期の支配者であった。