時期(西暦/和暦) |
車斯忠の動向・関連事項 |
関連する人物・勢力 |
根拠史料・伝承 |
生年不詳 |
常陸国車城主・車兵部大輔義秀の子として誕生 1 。 |
車義秀、岩城氏 |
『常陸三家譜』等 |
(時期不詳) |
父・義秀が佐竹氏に降り、斯忠は人質同然に佐竹義重に仕える 1 。 |
佐竹義重 |
各種伝承 |
1571年(元亀2年) |
重臣・和田昭為を讒言し追放に追い込む。その後、赤館城代となる 3 。 |
和田昭為、佐竹義重 |
『和田昭為伝聞書』 |
(時期不詳) |
民政の不手際により一時追放。蒲生氏郷、後に上杉景勝の客将となる 1 。 |
蒲生氏郷、上杉景勝 |
『蒲生軍記』等 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いにおいて、佐竹義宣の密命を受け上杉方に加勢。福島城・梁川城に在番し、伊達軍と交戦(松川の戦い) 1 。 |
佐竹義宣、上杉景勝、伊達政宗 |
『上杉景勝卿記』 |
1602年(慶長7年) |
佐竹氏の出羽秋田への減転封に猛反発し、徳川への徹底抗戦を主張 1 。 |
徳川家康、佐竹義宣 |
『慶長見聞集』等 |
1602年(慶長7年)7月 |
水戸城奪回を計画(車丹波一揆)するも、計画が露見し失敗。捕縛され、磔刑に処せられる 1 。 |
大窪久光、馬場政直、松平康重 |
『聞見集』、『家忠日記追加』 |
幕末期 |
吉田松陰が水戸の車塚を訪れ、その忠節に感銘を受ける 1 。 |
吉田松陰 |
『東北遊日記』 |
常陸国の戦国史、とりわけ大大名・佐竹氏の興亡を語る上で、一人の家臣の名が異彩を放って浮かび上がる。その名は車斯忠(くるま これただ/つなただ)。通称を「車丹波(くるま たんば)」といい、その生涯は智謀と武勇、そして主家への強烈な忠誠心と、それ故の悲劇的な反骨精神に彩られている 1 。
彼の人物像は、一筋縄では捉えられない多面性を持つ。ある時は、政敵を冷徹な策略によって失脚させる策士の顔を見せ 4 、またある時は、主君の密命を帯びて敵地で奮戦する「猛虎」の異名にふさわしい猛将の顔をのぞかせる 7 。そして最期には、主家の没落を嘆き、天下の覇者たる徳川氏に対して絶望的な抵抗を試み、刑場の露と消えた悲劇の忠臣としてその生涯を閉じた 1 。
これらの断片的に伝わる記録や逸話は、車斯忠という人物の複雑な輪郭を物語る。彼は単なる忠臣でもなければ、単なる反逆者でもない。本報告書は、現存する史料や後代の編纂物を比較検討し、その記述の背後にある歴史的文脈を読み解くことで、車斯忠という一人の戦国武将の実像に、可能な限り迫ることを目的とするものである。
車斯忠の生涯を貫く行動原理を理解する上で、彼の出自は決定的に重要である。斯忠が属する車氏は、もともと陸奥国(現在の福島県浜通り地方)を本拠とする戦国大名・岩城氏の一族に連なる血脈であった 1 。
史料によれば、常陸国多賀郡の車城は、古くは岩崎二階堂氏系の車氏(砥上氏とも)が支配していた。しかし文明17年(1485年)、岩城氏の当主・岩城常隆がこの車城を攻略し、旧来の車一族を滅ぼした 1 。常陸への勢力拡大を目指す常隆は、この地を対佐竹氏政策の拠点とすべく、実弟である隆景(好間三郎)を城主として配置した。この隆景が新たに「車氏」を称したのが、斯忠へと繋がる岩城氏系車氏の始まりである 1 。斯忠は、この隆景の曾孫にあたるとされる。この出自は、斯忠の家系が、佐竹氏と長年緊張関係にあった岩城氏の、まさに最前線という軍事的に極めて重要な、そして危険な位置を占めていたことを示している 2 。
斯忠が佐竹家に仕えるに至った経緯は、彼の複雑な立場を象徴している。斯忠の父、車兵部大輔義秀の代に、それまで属していた岩城氏から離反し、常陸の覇者である佐竹氏へ降った 1 。この主家鞍替えの結果、斯忠は「半ば人質同然」という形で、佐竹氏の当主・佐竹義重のもとへ送られ、奉公を開始することになった 1 。
元来は敵対勢力の一族であり、人質という不安定な立場からキャリアをスタートさせた斯忠は、佐竹家譜代の家臣が持つ世襲的な権力基盤を持たなかった。彼が家中で地位を確立するためには、主君・佐竹義重個人の寵愛を得ること、そして自身の武勇や智謀といった実力をもって貢献し続ける以外に道はなかった。この、いわば「外様としての渇望と焦り」こそが、後に譜代の重臣・和田昭為との熾烈な権力闘争や、主君の意を汲んだ過激な任務への傾倒へと繋がる、彼の生涯を貫く動機であったと解釈できる。
彼の名は「斯忠」と記される。その読み方については、「つなただ」「のりただ」「これただ」といった複数の説が存在する 3 。一説には、佐竹一門の重鎮である佐竹北家の当主・佐竹義斯(よしし)から偏諱(主君が家臣に名の一字を与えること)を受けた可能性が指摘されている 1 。これが事実であれば、「義」の字の読みである「よし」や、それに近い音が含まれていた可能性も考えられるが、確証はない。
一方で、彼の通称は「丹波守(たんばのかみ)」、あるいは単に「車丹波」として、同時代から後世に至るまで広く知られている 1 。また、その武勇を称える「猛虎(もうこ)」という異名のほか、「義照(よしてる)」「忠次(ただつぐ)」といった別名も伝わっており 1 、彼の人物像が多角的に語られていたことを示唆している。
人質という不利な立場から出発した斯忠であったが、その類稀なる才覚はすぐに主君・佐竹義重の目に留まった。義重は斯忠を高く評価し、異例の抜擢をもって重用した 1 。斯忠は主君の期待に応え、軍事・外交の両面で功績を重ね、次第に義重の側近として家中の権力の中枢へと食い込んでいった。
斯忠が台頭した当時、佐竹家にはもう一人の重臣が存在した。譜代の家臣であり、財政・外交手腕に長けた和田昭為(わだ あきため)である 12 。斯忠と昭為は、主君・義重の側近としての地位を巡り、水面下で激しく対立していたと見られる。この対立は単なる個人的な嫉妬に留まらず、より根深い構造的な問題を内包していた。斯忠が「猛虎」と称される武勇と謀略を得意とする「武断派」であり、かつ岩城氏からの新参者であったのに対し、昭為は内政・外交に実績のある「文治派」であり、佐竹家譜代の重臣であった 1 。この「新参武断派」と「譜代文治派」の対立は、佐竹家臣団内部の深刻な派閥抗争の現れであった。
この権力闘争は、元亀2年(1571年)に決定的な局面を迎える。斯忠が、政敵である昭為について「南奥州の芦名氏に内通し、謀反を企てている」と義重に讒言したのである 4 。この讒言を信じた義重は激怒し、昭為の追放を決定。昭為は白河結城氏のもとへ出奔したが、この騒動の過程で、彼の息子3人と一族二十余名が義重の命によって殺害されるという、凄惨な結末を迎えた 4 。
政敵の排除に成功した斯忠は、義重の側近としての地位を完全に掌握した。当時の義重が赤坂宮内大輔に宛てた書状の中に「委細は車丹波が申し届けるであろう」との一節が見られることは、斯忠が主君の意思を直接代弁する、極めて重要な立場にあったことを示す動かぬ証拠である 5 。同年、斯忠はその功績を賞され、要衝である赤館城の城代に任命された 3 。
しかし、彼の権勢は盤石ではなかった。後に民政における不手際を問われ、義重の勘気を被って一時追放されたという伝承も残っている 1 。その間に、かつての政敵であった和田昭為は佐竹家への帰参を許されており、両者の関係の複雑さと、義重の巧みな家臣団統制術をうかがわせる。この一連の事件は、後の秋田転封後に発生する「川井事件」(譜代の家臣が新参の寵臣・渋江政光の暗殺を謀った事件)にも通底する、佐竹家が抱える新旧家臣間の構造的対立を象徴する出来事として位置づけることができる 12 。
車斯忠の評価を語る上で、まず特筆すべきはその軍事的能力である。彼は「猛虎」の異名が示す通り、戦場における武勇に極めて優れた武将であった 1 。主君である佐竹義重自身が「鬼義重」と敵から恐れられた当代屈指の猛将であったことを考えれば 14 、その下で斯忠が数々の武功を立てたことは想像に難くない。
また、彼は単なる猪武者ではなかった。和田昭為を失脚させた後は、その智謀を外交の舞台で発揮し、多くの交渉事を担ったとされる 1 。その能力は佐竹家中にとどまらず、他家からも高く評価されていた。一時的に佐竹家を離れた際には、豊臣秀吉の重臣・蒲生氏郷の客将として奥州の九戸城攻めに参加した記録があり 5 、また、古巣である岩城氏に身を寄せ、伊達氏との戦いに臨んだという記録も残っている 1 。これらの事実は、彼の武名と将器が、敵味方を問わず広く知れ渡っていたことを物語っている。
一方で、斯忠の評価には明確な「影」の部分も存在する。それは、領地経営や民衆の統治といった民政面での能力である。彼は、軍事や謀略といった分野で華々しい活躍を見せる一方、民政においては不手際が多かったと伝えられている 1 。
その象徴的な逸話が、赤館城代時代のエピソードである。政敵を排除し、要衝の城代という重職を得た斯忠であったが、その後の統治がうまくいかず、民政の失敗を理由に義重の勘気を被り、城主の任を解かれ一時追放されたという 1 。この伝承は、彼の能力が戦時下の軍事・謀略に特化しており、平時の統治能力には欠けていた可能性を示唆している。
この「武高政低(武勇は高いが、民政能力は低い)」という評価は、斯忠個人の資質の問題であると同時に、彼が生きた時代の大きな転換点を反映している。戦国乱世の只中では、斯忠のような武勇や謀略に長けた人物こそが、主家の勢力拡大に直接貢献できるため、最も重宝された。しかし、豊臣政権による天下統一が成り、世が安定に向かうにつれて、大名には領国を安定的に経営する「為政者」としての能力がより強く求められるようになった。斯忠は、この時代の変化に適応しきれなかった「旧時代の成功者」であったのかもしれない。彼の悲劇的な最期は、この時代の要請に応えられなかった武将の末路としても解釈することが可能である。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、常陸の大名・佐竹義宣は極めて困難な政治的判断を迫られた。豊臣政権下で昵懇であった石田三成への義理から心は西軍にありながら、その領地は徳川家康の本拠地である江戸に近く、周囲を東軍方の大名に完全に包囲されていたのである 15 。
進退窮まった義宣が下した決断は、公式には東軍にも西軍にも与せず中立を保つというものであった。しかし、その水面下で、佐竹家の真意を実行すべく一人の男が動いた。車斯忠である。義宣は、家中きっての反徳川の急先鋒として知られていた斯忠に密かに兵三百を与え、上杉景勝を支援するため会津へと派遣した 1 。これは、佐竹家の公式見解の裏で、その「公にできない本音」を実行させるための、極めて重大な密命であった。斯忠は、主家の存亡を賭けた「汚れ役」ともいえる役割を、自覚的に引き受けたのである。
斯忠にとって、この密命は自らの信念とも合致するものであり、喜んで引き受けたと推測される 10 。彼は子息の三弥(主膳)を伴って会津入りし、上杉家の客将として正式に禄を受け、陸奥国の福島城および梁川城の守備に就いた 1 。
関ヶ原の本戦がわずか一日で東軍の勝利に終わった後、この機に乗じて上杉領へと侵攻してきた伊達政宗の軍勢を、福島城近郊の松川で迎え撃った(松川の戦い)。この戦いにおいて、斯忠は城将・本庄繁長らと共に上杉軍の主要な指揮官の一人として名を連ね、数に勝る伊達軍の猛攻を防ぎきるという目覚ましい活躍を見せた 7 。
松川での奮戦も虚しく、天下の趨勢は徳川の勝利で決した。斯忠は佐竹家に復帰するが 1 、彼の上杉家への加担という事実は、戦後処理において徳川家康の知るところとなった。家康はこれを佐竹氏が西軍に内通していた証拠とみなし、厳しい処分を下す。その結果、佐竹氏は常陸54万石という広大な領地を没収され、遠く出羽国秋田18万石へと、大幅な減知を伴う転封を命じられたのである 2 。
斯忠の忠誠心から発した行動は、皮肉にも主家を最大の危機に陥れる結果を招いた。この「忠誠の空転」ともいえる経験は、彼の心に強烈な自己矛盾と責任感を刻み込んだはずである。そしてこの心理的葛藤が、次章で述べる水戸城奪回という、さらに過激で破滅的な行動へと彼を駆り立てる直接的な引き金になったと強く推察される。
関ヶ原の戦後処理として下された、出羽秋田への減転封という過酷な命令に対し、佐竹家中は大きく揺れた。当主・佐竹義宣は、徳川の天下を受け入れ、家の存続を第一に考えてこの決定に従った。しかし、家臣の中にはこの屈辱的な仕置に納得できない者も少なくなかった。その筆頭が、車斯忠であった。彼は、徳川への恭順ではなく「徹底抗戦」を強く主張し、主家の決定に激しく反発した 1 。
斯忠の忠誠の対象は、秋田の小藩となる佐竹家ではなく、常陸に54万石を領した、かつての栄光の佐竹家であった。彼は、主君・義宣が諦めた「夢」を取り戻すため、無謀な計画に乗り出す。それは、徳川方に引き渡された旧本拠・水戸城の奪回であった。斯忠は、同じく国替えに強い不満を抱いていた自身の妹婿・大窪久光(通称・兵蔵)や、佐竹一門でありながら常陸に残った馬場政直(通称・和泉)らと共謀し、水戸城への攻撃計画を練り始めた 1 。
しかし、この絶望的な抵抗計画は、実行に移される前に露見する 1 。慶長7年(1602年)7月、斯忠ら計画の首謀者たちは、水戸城の守将であった松平康重ら徳川方の兵によって捕縛された。伝承によれば、潜伏中の斯忠が思わず漏らした咳の音によって、その居場所が発見されたという 1 。
捕らえられた斯忠は、江戸へ送られて厳しい取調べを受けた後、再び水戸へ送還された。そして同年7月、水戸城下の刑場において、最も重い刑罰である磔(はりつけ)に処せられ、その壮絶な生涯に幕を下ろした 1 。彼の行動は、客観的には主君の決定に背く反逆行為であったが、斯忠の主観においては、失われた主家の栄光を取り戻すための、究極の忠義の表れであった。この「忠誠の対象のズレ」こそが、彼の悲劇の核心であった。
この水戸城奪回計画は、後代の軍記物や講談において「車丹波一揆」として知られ、「三百人規模の兵を率いた斯忠が水戸城に夜襲をかけ、激戦の末に敗れた」といった形で、英雄的な物語として語り継がれている 5 。
しかし、同時代の史料や、より信頼性の高い記録を精査すると、その実像は大きく異なる可能性が高い。『水戸市史』などの研究が指摘するように、この事件は大規模な合戦ではなく、小規模な陰謀が事前に発覚したものであったと考えられる 5 。その根拠として、第一に、事件の発生時期が、佐竹領の引き渡しがほぼ完了し、家康が義宣に秋田の領地判物を与えた後の「七月下旬」と推定され、大規模な戦闘が起こる状況ではなかったこと 5 。第二に、三百人もの兵が蜂起したのであれば、主謀者たちが討死もせずに全員捕縛され、江戸での取調べを経て数ヶ月後に処刑されるという悠長な処置は、当時の反乱鎮圧の常識から考えて極めて不自然であること 5 。
これらの点から、「車丹波一揆」の真相は、大規模な合戦ではなく、「国替えに不満を持つ旧臣たちによる、小規模な城奪回計画が事前に露見し、徳川方がこれを反乱の芽を早期に摘む好機と捉え、見せしめとして首謀者を厳しく処断した事件」であった可能性が極めて高い。通説として流布している英雄的な物語は、斯忠の悲劇性を際立たせるために、後世の人々によって潤色されたものと考えるのが妥当であろう。
車斯忠の死は、彼の物語の終わりではなかった。むしろ、その壮絶な最期は、時代を超えて様々な形で語り継がれ、新たな意味を付与されていく始まりであった。彼の死後の評価の変遷は、歴史上の人物がいかに各時代の価値観によって「再発見」され、その時代の象徴として語られていくかを示す、格好の事例となっている。
斯忠の評価を決定づけた最初の人物は、皮肉にも彼が最後まで抵抗した敵将・徳川家康であった。斯忠が磔という最も不名誉な方法で処刑されたと聞いた家康は、「是れ勇士を殺すの法に非ず(それは一人の優れた武士を処刑するやり方ではない)」と述べ、その死を惜しんだと伝わっている 8 。また、戦後にその忠臣ぶりを称賛したともいう 2 。天下の覇者である家康からのこの評価は、単なる「反逆者」であったはずの斯忠に、「主家への忠義に殉じた悲劇の勇士」という新たなイメージを付与し、後世に語り継がれる礎となった。
江戸時代を通じて、斯忠の物語は民衆の間にも広まっていった。特に、潜伏中に「咳をしたために」捕らえられたという逸話は人々の心に強く残り、彼が処刑された場所に建てられた墓(車塚)は、いつしか「咳の神様」として信仰の対象となった 1 。政治的・歴史的な文脈から切り離され、悲劇的な死を遂げた人物が、御霊信仰的に現世利益をもたらす神として祀られる。これは、彼の物語が民衆のレベルで受容され、変容していった過程を示している。
時代が下り、徳川の治世が揺らぎ始めた幕末期、車斯忠は再び歴史の表舞台に呼び戻される。そのきっかけを作ったのは、倒幕思想の理論的指導者であった吉田松陰である。嘉永5年(1852年)、水戸へ遊学に訪れた松陰は、斯忠の墓である車塚を訪れている 2 。
松陰は自身の旅日記である『東北遊日記』の中に、「車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏、封を徙(うつ)されし時、壁に嬰(よ)りて戦死すと云う(城に立てこもって戦死したと聞く)」と記し、その忠節に深く感動したことを記録している 8 。徳川の体制に屈することなく、己の信じる主家のために命を賭して戦った斯忠の姿は、まさに徳川幕府を打倒し、天皇中心の新たな国づくりを目指した松陰ら幕末の志士たちの理想像と重なった。斯忠の生き様は、二百数十年の時を超え、「徳川体制への抵抗者」「己の信念に殉じた忠義の士」として再発見され、志士たちの思想を鼓舞する歴史的先例として、新たな輝きを放ったのである。
斯忠の反骨の精神は、その子孫にも受け継がれたという興味深い伝承が残されている。斯忠の嫡男(一説には弟)とされる善七郎は、父の死後、江戸へ逃れたが、後に捕縛される。時の将軍・徳川秀忠はその器量を惜しみ、仕官を勧めた。しかし善七郎はこれを毅然として固辞し、「武士として仕える気はない。さもなくば乞食にしてほしい」と願い出たという。秀忠はその気骨に感じ入り、これを許した。そして善七郎は江戸浅草の非人頭(ひにんがしら)となり、初代「車善七」を名乗った、というものである 8 。この伝承の真偽は定かではないが、父の遺志を継ぎ、権力に屈しない生き方を選んだ子の物語として、人々の間で語り継がれている。
車斯忠の生涯を総括する時、その行動原理は「忠誠」や「反骨」といった単純な言葉では到底割り切れない、深い複雑性を帯びていることがわかる。彼の行動は、元は敵方であった「外様」という出自、自身を取り立ててくれた主君・佐竹義重個人への強烈な帰属意識、そして戦国から近世へと移行する時代の大きな転換期が生んだ、特異な産物であった。
彼は、譜代の重臣を策略で排除して主君の寵愛を独占し、主君の公にできない密命を帯びて敵地で命を賭して戦い、そして最後には、その主君が受け入れた現実をも否定して、破滅的な抵抗の末に滅んだ。その一見すると矛盾に満ちた行動は、しかし、彼の中に存在する「常陸54万石を領した栄光ある佐竹家」という理想像への、あまりにも純粋で、それ故に狂信的な忠誠心から発せられたものとして、一貫した論理で読み解くことができる。
時代の大きな奔流に抗い、もはや過去のものとなった戦国の価値観と共に、己の信じる「忠義」に殉じた車斯忠。彼の生き様は、一つの時代が終わりを告げる中で、滅びの美学を最も壮絶な形で体現した一人の武将の姿として、後世の人々の記憶に深く、そして鮮烈に刻まれ続けているのである。