戦国時代後期、日本の中心地からやや東に位置する遠江国は、地政学的な要衝として常に大国の思惑が交錯する地であった。東に駿河の今川氏、西に三河から台頭する徳川氏、そして北からは甲斐の武田氏がその覇権を窺う。これら三大勢力の狭間で、在地の中小領主である「国人衆」は、一族の存亡を賭けて複雑巧緻な判断を迫られ続けていた。本報告書は、この激動の時代、遠江国において一人の国人領主として見事に生き抜き、その家名を後世に確固として伝えた武将、近藤康用(こんどう やすもち)の生涯を、現存する史料を駆使して徹底的に解明するものである。
一般に、近藤康用は「井伊谷三人衆」の一角として、徳川家康の遠江攻略に際して今川家から離反し、戦傷のために歩行困難でありながらも武功を挙げたと認識されている 1 。しかし、この断片的な情報は、彼の生涯の複雑さや、その決断が持つ歴史的な重要性を十分に描き出してはいない。彼の出自にはどのような背景があったのか。なぜ今川氏を裏切り、徳川氏に与したのか。井伊谷三人衆とは、井伊家にとってどのような存在だったのか。そして、彼自身とその一族は、徳川の世でいかにしてその地位を築き上げたのか。これらの問いに答えることこそ、近藤康用という一人の武将を通じて、戦国時代における国人領主の生存戦略と、徳川幕藩体制の成立過程の一端を理解する鍵となる。
本報告は、まず第一章で近藤氏の出自と、その本拠地であった三河国宇利城の歴史を解明する。第二章では、今川氏の衰退と徳川氏の台頭という時代の転換点における康用の決断、すなわち今川氏からの離反と「井伊谷三人衆」結成の背景を深く掘り下げる。第三章では、徳川家臣としての康用、そして彼に代わって戦場の第一線で活躍した息子・秀用の功績を詳述する。第四章では、康用の晩年と、彼の子孫が江戸時代を通じて旗本として繁栄した軌跡を追い、その遺産を明らかにする。最後に終章として、これらの分析を通じて、近藤康用という武将の歴史的評価を試みる。
年代 |
出来事 |
永正16年(1517年) |
近藤忠用の子として誕生 1 。 |
享禄2-3年(1529-30年) |
祖父・近藤満用が松平清康に従い、宇利城攻めに戦功を挙げ、同城を賜る 2 。 |
天文4年(1535年) |
松平清康が「守山崩れ」で横死。その後、父・忠用の代で今川氏に帰属する 2 。 |
天文11年(1542年) |
父・忠用と共に今川氏に従い、知行221貫文を安堵される 1 。 |
永禄3年(1560年) |
桶狭間の戦いで今川義元が討死。井伊直盛も戦死する。 |
永禄5年(1562年) |
井伊直親が今川氏真に謀殺される 3 。 |
永禄11年(1568年) |
12月、徳川家康の遠江侵攻に際し、鈴木重時・菅沼忠久と共に今川氏を離反し徳川方に属す。家康より所領安堵の誓紙を与えられる 3 。子の秀用を家康軍の先導役として派遣する 4 。 |
永禄12年(1569年) |
井伊谷三人衆として井伊谷城の城番を輪番で務める 4 。子の秀用は姉川の戦いに従軍 5 。 |
元亀3年(1572年) |
子の秀用が仏坂の戦い、三方ヶ原の戦いに従軍 4 。 |
天正3年(1575年) |
子の秀用が長篠の戦いに従軍 4 。 |
天正9年(1581年) |
子の秀用が高天神城の戦いに従軍 4 。 |
天正16年(1588年) |
3月12日、隠居先の井伊谷にて死去。享年72 1 。墓所は龍潭寺 1 。 |
元和5年(1619年) |
子の秀用が井伊谷1万7000石の大名となり、井伊谷藩を立藩する 2 。 |
元和6年(1620年) |
秀用が所領を分割し、旗本「引佐五近藤家」が成立する 2 。 |
近藤康用の人物像を理解するためには、まず彼が属した近藤一族の出自と、その勢力基盤であった三河国宇利城について深く知る必要がある。江戸時代に編纂された公式な系譜が語る名門の出自と、同時代の史料が示唆するもう一つの顔、この二重性は、戦国国人の生存戦略を象徴している。
江戸幕府が編纂した公式の武家系譜『寛政重修諸家譜』などによれば、近藤氏は藤原北家の流れを汲み、俵藤太(たわらのとうた)の異名で知られる鎮守府将軍・藤原秀郷を遠祖とする名門とされる 2 。その系譜によれば、秀郷から数代後の藤原脩行が近江国司(近江掾)に任じられた際、任国の「近」と藤原の「藤」を合わせて「近藤」と称したのが始まりとされている 2 。この系統はその後、駿河、相模、伊豆、甲斐など各地に広がり、康用の近藤家もその一流と位置づけられている。また、一族の武勇を物語る伝承として、康用の祖父の兄・乗直が徳川家康との鹿狩りの際に鹿の角を素手で引き裂いたため、その武勇を賞した家康から「鹿角紋」を家紋として賜ったという逸話も残されている 2 。
しかし、同時代の史料は、この公称された系譜とは異なる一面を示唆している。高野山平等院に現存する『三州過現名帳』という過去帳には、永禄12年(1569年)9月に三河国宇利の近藤主税(ちから)の依頼によって逆修供養(生前に自身の冥福を祈る供養)を受けた人物として、「建部為用(たけべ ためもち)」という名が記録されている 1 。この「為用」は、康用が徳川家康から偏諱(へんき、主君の諱の一字を賜ること)を受けて「康用」と改名する前の初名であったと見られている 1 。さらに、『三州過現名帳』に記された宇利城主の建部氏の系譜と、『寛永諸家系図伝』が記す宇利城主近藤氏の系譜に共通点があることから、近藤氏の本来の姓は「建部氏」であり、後世に名門である藤原氏の系譜を冒用した、いわゆる「仮冒」の可能性が研究者によって指摘されている 10 。
この出自の二重性は、単なる記録の誤りではなく、戦国から江戸へと移行する時代を生き抜くための、近藤氏の巧みな戦略を反映していると考えられる。在地領主としての出自である「建部」という名は、彼らの地域に根差したアイデンティティを示すものであった。一方で、徳川の直参家臣として幕府の公式な序列に組み込まれていく過程で、より権威ある「藤原秀郷流」の系譜を称することは、自らの家格を高め、政治的な地位を盤石にする上で極めて有効な手段であった。同時代の宗教記録である過去帳が実名に近い「建部為用」を記し、後世の公式系譜が権威ある「藤原氏」を強調するのは、まさに彼らが地方の国人領主から江戸幕府の旗本へと変貌を遂げていく過程そのものを物語っている。
近藤氏が三河国人として確固たる地位を築くきっかけは、康用の祖父・満用の代に訪れた。満用は、徳川家康の祖父であり、当時三河統一を目前にしていた岡崎城主・松平清康に仕えていた 2 。享禄2年(1529年)または3年(1530年)、清康は今川方に属していた三河国八名郡の宇利城主・熊谷実長を攻めた。この「宇利城の戦い」において、近藤満用は清康軍の一員として従軍し、戦功を挙げた 2 。そして、その功績を認められ、清康から宇利城を与えられたのである 2 。これにより、近藤氏は宇利城を本拠とする国人領主としての基盤を確立した。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。天文4年(1535年)、主君である松平清康が家臣に暗殺されるという「守山崩れ」が勃発する。これにより松平氏は急激に弱体化し、三河は再び混乱期に陥った。この権力の空白を突いて、駿河の今川義元が三河への影響力を強めていく。このような状況下で、満用の子であり康用の父である忠用の代になると、近藤氏は今川氏の支配下に入ることとなった 2 。これは、自家の所領と一族の安全を確保するための現実的な選択であった。天文11年(1542年)の時点で、近藤忠用・康用父子は今川氏から221貫文の知行を安堵されており、今川氏の配下としてその地位を認められていたことが記録されている 1 。
近藤氏の主君の変遷は、特定の主家に対する忠誠心の欠如と見るべきではない。むしろ、それは大国の狭間で自家の存続を図る中小国人領主の、極めて典型的かつ合理的な生存戦略であった。清康が三河で覇を唱えていた時代には松平氏に仕え、清康の死後、今川氏が地域最大の勢力となるとその支配下に入る。そして後に徳川家康が台頭すると、再び帰属先を変える。この一連の動きは、常に変化する力関係を見極め、その時々で最も有利な立場を選択するという、戦国国人のしたたかな処世術の表れであった。彼らの第一の目的は、特定の主君への奉仕ではなく、自家の存続と繁栄だったのである。
近藤氏の勢力基盤となった宇利城(現在の愛知県新城市中宇利)は、文明年間(1469-86年)に熊谷重実によって築かれたと伝えられる山城である 14 。熊谷氏は桓武平氏の流れを汲む武蔵国の名門・熊谷次郎直実の末裔とされ、元弘3年(1333年)に足利尊氏の六波羅探題攻めに従軍した熊谷直鎮が、その戦功として三河国八名郡を与えられたことに始まるとされる 15 。
近藤氏が城主となる直接の契機となった「宇利城の戦い」は、熾烈を極めた。享禄2年(1529年)11月、松平清康は3000の兵を率いて宇利城に迫った 15 。城主・熊谷実長は勇猛で知られ、天然の要害である宇利城に籠って激しく抵抗した。大手門付近の戦いでは、清康の叔父である松平右京亮親盛が討死するほどの激戦となった 16 。しかし、最終的には城内から松平氏に内通した岩瀬庄右衛門が城に火を放ったことで戦況は一変し、熊谷実長は城を捨てて落ち延び、宇利城は落城した 16 。この戦いの後、宇利城は戦功のあった菅沼定則、そして近藤満用に与えられたのである。落城後の熊谷一族は、一部が同国額田郡高力郷に落ち延びて「高力氏」と改姓し、後に徳川家康の重臣となる高力清長を輩出した 15 。
宇利城は、標高165m、比高90mの山頂に築かれた典型的な連郭式の山城である 14 。山頂の中心となる主郭は東西40m、南北36mの広さを持ち、南面を除く三方を土塁で囲んでいる。主郭の北端には櫓台跡とみられる高まりがあり、その北側は比高差10mの断崖(切岸)となっている。崖下には「納所平」と呼ばれる曲輪があり、さらに横堀を設けて背後の尾根からの侵入を遮断している。主郭の東側には、一段高い位置に「姫御殿跡」と呼ばれる長方形の曲輪が、さらにその東の尾根上には「御馬屋平」と呼ばれる曲輪が配され、多方面からの攻撃に備える堅固な構造を持っていた。現在、城跡は愛知県の史跡に指定されており、土塁や堀切、石積みの遺構が残り、往時の姿を今に伝えている 14 。
今川氏の権勢に陰りが見え始め、三河から徳川家康がその勢力を拡大してくる永禄年間後期、遠江の政治情勢は激しく揺れ動いた。この時代の転換点において、近藤康用は鈴木重時、菅沼忠久と共に「井伊谷三人衆」として歴史の表舞台に登場する。彼らの決断は、遠江の支配者を今川から徳川へと変える決定的な一撃となった。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いは、遠江・三河の国人衆にとって衝撃的な事件であった。絶対的な支配者であった今川義元が織田信長に討たれたことで、今川氏の権威は地に落ち、領国内の統制力は急速に弱まっていった 2 。この好機を逃さず、岡崎城で独立を果たした徳川家康は、三河統一を進めるとともに、次なる標的として遠江国を虎視眈々と狙っていた。
一方、遠江の国人領主の筆頭格であった井伊谷の井伊家も、当主・井伊直盛が桶狭間で戦死し、深刻な危機に陥っていた。跡を継いだ従弟の井伊直親は、家康との内通を今川氏真に疑われ、永禄5年(1562年)に謀殺されてしまう 3 。これにより井伊家は当主を失い、幼い虎松(後の井伊直政)が残されるのみとなった。このような井伊家の混乱と今川氏の圧政は、井伊家の与力であった近藤康用ら周辺国人衆に、今川氏の将来に対する強い不信感を抱かせるのに十分であった。
この状況を的確に捉えたのが徳川家康である。家康は、同族である野田菅沼家の菅沼定盈を仲介役として、遠江の国人衆に対する調略を開始した 4 。定盈は、同族である都田の菅沼忠久に働きかけ、さらに忠久を通じて近藤康用や鈴木重時といった有力国人を味方に引き入れることに成功した。彼らにとって、没落しつつある今川氏に最後まで殉じるよりも、勢いに乗る徳川氏に味方することこそが、自家の所領と一族の未来を守るための最善の策であった。
「井伊谷三人衆」とは、この時期に徳川家康に味方した近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久の三人の有力国人を指す呼称である 3 。彼らの関係性を理解する上で重要なのは、三人とも元々は東三河を本拠とする国人であり、井伊谷の在地領主ではなかったという点である 4 。
彼らと井伊家との関係は複雑であった。鈴木重時の父・重勝の娘は井伊直親の母であり、鈴木家と井伊家は直接的な血縁関係にあった 4 。また、鈴木重時自身も井伊家の一族である奥山氏の娘を妻としており、井伊直親やその重臣たちとは相婿(妻同士が姉妹)という関係でもあった 4 。このような姻戚関係が、井伊家が危機に陥った際に彼らが「井伊家を支える」という大義名分を掲げる一因となったことは想像に難くない。
しかし、彼らの実態は井伊家の忠実な家臣というよりも、井伊家の弱体化に乗じてその領地に影響力を行使する、独立性の高い国人領主の連合体であった。近年の研究では、彼らは井伊家を中核とする軍事組織「井伊衆」の「与力(寄騎)」、すなわち指揮下にはあるものの独立した軍事力を持つ協力者という立場であったとされている 4 。ある史料には「井伊家と三人衆は親類のようになっているけれども、全然親しくない」と記されており 22 、彼らの関係が必ずしも良好ではなく、利害に基づいたドライなものであったことを示唆している。
「井伊谷三人衆」という呼称は、彼らが一体となって井伊谷を支配したという後世の視点から名付けられたものであり、彼らが元々井伊谷の出身であったり、井伊家への忠誠心から行動したりしたわけではない。彼らはあくまで三河の国人であり、徳川家康の遠江侵攻に協力した見返りとして、井伊谷という新たな支配地を得た「新来の支配者」だったのである。この点を理解することが、彼らの行動原理を正確に把握する上で不可欠である。
人物名 |
拠点(居城) |
出自・関係性 |
近藤康用 |
三河国 宇利城 |
藤原秀郷流(建部氏説あり)。祖父の代から松平氏、後に今川氏に仕える。 |
鈴木重時 |
三河国 柿本城 |
三河鈴木氏。父・重勝の娘が井伊直親の母。自身も井伊直親と相婿の関係 4 。 |
菅沼忠久 |
遠江国 都田 |
長篠菅沼氏の支流。徳川方の野田菅沼氏と同族 4 。 |
井伊直親 |
遠江国 井伊谷城 |
井伊家当主。鈴木重時の義理の兄弟。今川氏真により謀殺される 3 。 |
徳川家康 |
三河国 岡崎城 |
三人衆を調略し、遠江侵攻の先導役とさせる。彼らにとって新たな主君となる。 |
永禄11年(1568年)12月、徳川家康は満を持して遠江への侵攻を開始した。その直前の12月12日、家康は近藤康用ら三人衆に対し、井伊谷・高園・高梨・気賀といった地域の所領を安堵することを約束する証文と、神仏に誓う起請文を送っている 3 。これは、彼らの離反を確実なものとし、徳川方への忠誠を誓わせるための決定的な一手であった。
この約束を反故にしない証として、三人衆は家康の遠江侵攻軍の先鋒、すなわち道案内役を務めた 4 。この時、近藤康用自身は老齢であり、長年の戦で負った傷のために歩行も困難な状態であったため、自らは本拠の宇利城にあって後方の守りを固め、代わりに嫡男の近藤秀用を派遣して偵察や道案内の任にあたらせた 4 。三人衆の先導により、徳川軍は井伊谷城を攻撃。城は、今川方の家老・小野道好が占拠していたが、三人衆の寝返りによって戦わずして開城し、徳川軍の手に落ちた 23 。
この功績により、三人衆は家康から恩賞として井伊谷周辺に所領を与えられ、井伊谷城の城番を交代で務めるという新たな役割を命じられた 4 。これは、彼らが単なる協力者から、旧井伊谷領における新たな支配者層へと組み込まれたことを意味する。三人衆が「武田の押さえ」として山吉田に配置されたことをもって「井伊谷の三人衆」と呼ばれるようになった、とする記録もあり 4 、彼らの存在が徳川氏の遠江支配、特に対武田戦略において重要な意味を持っていたことがわかる。彼らは井伊家を守った古くからの家臣ではなく、徳川家康という新たな権力者の下で、井伊谷を支配する役割を担うことになったのである。
徳川家康の家臣となった近藤康用は、すでに老境に差し掛かり、かつての戦で受けた傷によって満身創痍の状態であった。しかし、彼の存在価値は戦場での武勇だけに留まらなかった。経験豊富な老将としての知見と、嫡男・秀用という有能な後継者の存在は、徳川家にとって、そして近藤家にとって大きな戦略的資産となった。
『寛政重修諸家譜』をはじめとする多くの記録は、近藤康用が徳川家臣となった時点で、長年の戦働きによる数多の戦傷が原因で歩行さえ困難な状態であったと伝えている 1 。このため、彼が自ら槍を振るって最前線で戦うことはもはや不可能であった。彼の役割は、本拠である宇利城や、新たに支配を任された井伊谷にあって、北から迫る武田勢に対する防衛線を固める後方支援や国境警備にあったと考えられる 4 。
康用に代わって、徳川軍の一翼を担い、戦場で近藤家の旗を掲げたのが、嫡男の近藤秀用であった 4 。秀用は、父の武勇を受け継いだ猛将であり、徳川家がその存亡を賭けて戦った主要な合戦のほとんどに参加している。元亀元年(1570年)の姉川の戦いを皮切りに、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、そして天正9年(1581年)の高天神城の戦いなど、対武田戦線の主要な戦いには必ずその名が見られる 4 。
特に、三方ヶ原の戦いの前哨戦として知られる元亀3年(1572年)10月の「仏坂の戦い」では、秀用の奮闘が記録されている。武田信玄の西上作戦の一環として、猛将・山県昌景が率いる別動隊が三河方面から遠江に侵攻した。徳川方の柿本城を守っていたのは、井伊谷三人衆の一人、鈴木重時の子・重好であったが、山県軍の猛攻の前に城を明け渡し、井平城へと退却した。秀用はこの時、援将として柿本城におり、退却する鈴木勢と共に井平城近辺の仏坂で追撃してくる山県軍と激戦を繰り広げた 7 。この戦いで徳川方は多くの将兵を失ったが、秀用は生き延び、その後の三方ヶ原の本戦にも参加している。
康用と秀用という父子の役割分担は、近藤家にとって非常に効果的な戦略であった。父・康用は、今川から徳川へといち早く帰順した功労者として、家康に対して強い政治的な影響力を保持した。彼の存在は、近藤家の徳川家中における地位を保証する重しとなった。一方で、息子・秀用が数々の戦場で武功を挙げることで、近藤家は軍事的な貢献という面でも家康の期待に応え続けた。経験と知見を持つ父が後方で家を守り、武勇に優れた息子が戦場で家名を高める。この巧みな連携こそが、近藤家が徳川家中で確固たる地位を築き、その後の繁栄へと繋がる礎となったのである。
近藤康用の生涯は、彼自身の死によって終わるわけではない。彼が築き上げた基盤と、その遺志を継いだ息子・秀用の活躍によって、近藤家は江戸時代を通じて旗本として存続し、遠江国引佐郡の地に大きな足跡を残した。康用の最大の功績は、戦国乱世を生き抜いたことだけでなく、一族を近世の支配階級として後世に伝えたことにある。
数々の戦を潜り抜け、主君の変遷という激動の時代を乗り越えた近藤康用は、天正16年(1588年)3月12日、隠居先の井伊谷において、72年の生涯を閉じたと伝えられている 1 。
その墓所は、井伊氏の菩提寺として名高い龍潭寺(現在の静岡県浜松市浜名区引佐町)にある 1 。龍潭寺の墓域には、井伊家代々の墓と共に、井伊谷三人衆として康用と行動を共にした鈴木重時、菅沼忠久の墓も並んでおり、彼らがこの地と深く関わった歴史を物語っている 27 。かつての領主である井伊家の菩提寺に、その領地を実質的に支配する立場となった近藤氏の墓が存在するという事実は、両家の複雑でありながらも分かちがたい歴史的関係を象徴している。江戸時代に入ると、この地を治めた旗本近藤家は龍潭寺を手厚く庇護しており 29 、両者の関係は敵対や緊張から、領主と菩提寺という安定した関係へと時代と共に変化していったのである。
父・康用の死後、近藤家の家督を継いだ嫡男・秀用の人生は、栄光と葛藤に満ちたものであった。天正12年(1584年)頃、秀用は徳川四天王の一人、井伊直政の与力(配下)として組み込まれた 4 。しかし、もともと独立性の強い国人領主であった近藤氏にとって、徳川譜代の猛将である直政の厳しい指揮下に入ることは、大きな軋轢を生んだ 8 。
秀用は直政との確執の末、井伊家から出奔するという大胆な行動に出る。これは主君である家康の許可を得ない無断での離脱であり、家康の強い怒りを買った 2 。この事件は、戦国時代の流動的な主従関係から、江戸時代の厳格な幕藩体制へと移行する過程で生じた典型的な摩擦であった。秀用は自らを家康の直臣と自負していたが、直政は配属された以上は自らの家臣として絶対的な忠誠を求めた。この認識の齟齬が、両者の衝突の根源にあった。
しかし、家康(そして後の秀忠)は、秀用の武将としての能力と、近藤家が長年にわたり徳川家に尽くしてきた功績を高く評価していた。彼を完全に切り捨てることは、有能な人材を失うだけでなく、他の旧国人衆の動揺を招きかねない。関ヶ原の戦いの後、秀用は池田輝政らの仲介によって罪を赦され、徳川秀忠に仕えることとなった 2 。慶長19年(1614年)には上野国青柳などで1万5000石を与えられて大名に列し、さらに元和5年(1619年)には、父祖の地である遠江井伊谷に1万7000石で転封され、井伊谷藩を立藩するという、劇的な復活を遂げた 2 。家康のこの処遇は、旧来の有力家臣をただ抑えつけるのではなく、彼らの独立性をある程度認めつつも、徳川の新たな支配体制の中に巧みに組み込んでいくという、柔軟かつ老練な政治手腕の表れであった。
念願の井伊谷藩主となった近藤秀用であったが、彼は意外な決断を下す。藩主となったわずか1年後の元和6年(1620年)、一族の永続的な繁栄を願い、1万7000石の所領を自身の息子や甥たちに分割して与えたのである 2 。これにより、各家の石高は1万石未満となり、近藤家は大名の地位を一代で手放し、井伊谷藩は消滅した。
この分知によって、江戸時代を通じて引佐郡一帯を治めることになる、5つの旗本家、通称「引佐五近藤家」が誕生した 2 。
秀用が一つの大名家として存続する道を選ばず、複数の旗本家に分割したのは、一族全体のリスクを分散させ、より確実に家名を後世に残すための深慮遠謀であったと考えられる。結果として、この「引佐五近藤家」は幕末に至るまで約250年間にわたり、引佐郡の領主として存続した 8 。近藤康用が今川から徳川へと乗り換えた一つの決断が、その子や孫たちの巧みな立ち回りによって、一族の長期的な繁栄という形で結実したのである。
家名(陣屋所在地) |
初代当主 |
秀用との関係 |
当初の石高(目安) |
特記事項 |
金指近藤家 |
近藤貞用 |
孫(長男・季用の子) |
3,500石 |
宗家。後に5,450石余に加増 2 。 |
気賀近藤家 |
近藤用可 |
次男 |
5,000石 |
交代寄合。気賀関所の管理を担う 10 。 |
井伊谷近藤家 |
近藤用義 |
四男 |
5,000石 |
秀用が築いた井伊谷陣屋を継承 10 。 |
大谷近藤家 |
近藤用行 |
孫(次男・用可の子) |
2,000石 |
気賀近藤家からの分知で成立。後に3,000石 10 。 |
花平近藤家 |
近藤用伊 |
甥 |
320石 |
五近藤家の中で最少の石高。後に820石 10 。 |
本報告を通じて詳述してきたように、近藤康用の生涯は、単に「井伊谷三人衆の一人」という言葉だけでは語り尽くせない、戦国国人のしたたかな生存戦略と、時代の転換点を的確に読み解く優れた政治感覚に満ちていた。彼の歴史的評価は、以下の三点に集約される。
第一に、康用は激動の時代を生き抜いた、極めて現実主義的な戦略家であった。松平氏、今川氏、そして徳川氏へと主君を変えたその経歴は、一見すると節操がないようにも映るかもしれない。しかし、それは大国の狭間で常に自家の存続という至上命題を背負っていた国人領主にとって、必然の選択であった。彼は、各勢力の盛衰を冷静に見極め、その時々で最も有利な立場を選択し続けることで、一族を滅亡の淵から救い、繁栄の礎を築いた。これは、戦国乱世における処世術の一つの完成形と言える。
第二に、徳川家康の天下取り、特にその第一歩であった遠江平定における康用の貢献は、計り知れないほど大きい。家康が遠江に侵攻したまさにその初手において、鈴木重時、菅沼忠久と共にいち早く味方となり、その先導役を務めた。この行動は、単なる軍事的な協力に留まらず、遠江の他の国人衆の動向に決定的な影響を与える、極めて重要な政治的行動であった。彼の帰順が、ドミノ倒しのように他の国人衆の徳川方への寝返りを誘発し、家康による遠江平定を大きく加速させたことは間違いない。
第三に、康用は旗本「引佐五近藤家」の祖として、その遺産を後世に確固として残した。彼自身が徳川家臣として築いた功績と信頼、そして息子・秀用との巧みな連携によって得た地位と所領は、秀用の深慮遠謀によって分割相続され、江戸時代を通じて引佐郡を治める五つの旗本家の繁栄へと繋がった。戦国時代の武功を、近世における安定した家門の存続へと結びつけた点において、彼の生涯は一国人領主の成功モデルとして高く評価されるべきである。
戦傷により歩行困難となりながらも、政治の最前線で的確な判断を下し続けた老将・近藤康用。その生涯は、武勇だけが武将の価値ではないこと、そして乱世を生き抜くためには、武力以上に、時代の流れを読む洞察力と、一族の未来を見据えた戦略が不可欠であったことを、我々に強く教えてくれるのである。