戦国時代の近江国にその名を馳せた六角氏。その最盛期を語る上で欠かすことのできない存在が、後藤賢豊と並び称された宿老・進藤貞治(しんどう さだはる)である。彼らは「六角氏の両藤」と尊称され、単なる家臣という枠を超え、主家の権力構造の中枢を担った 1 。しかし、その輝かしい功績とは裏腹に、進藤貞治個人の実像については、断片的な記録の影に隠れ、十分に解明されているとは言い難い。彼の生涯は、主君・六角定頼の治世とほぼ重なり、その活動は六角氏の権勢、ひいては16世紀前半から中盤にかけての畿内政治史の動向を色濃く反映している。
本報告書は、公家や僧侶の日記、古文書といった一次史料を丹念に渉猟し、進藤貞治という一人の武将の生涯を多角的に再構築することを目的とする。彼の出自と権力基盤、六角家臣団における特異な地位、そして幕府や諸大名、宗教勢力を相手に繰り広げた外交活動の具体相を明らかにすることで、戦国大名六角氏の権力構造の特質と、その盛衰の力学を解明する。進藤貞治というレンズを通して、戦国期畿内における権力と外交のリアルな姿に迫りたい。
進藤貞治は、明応6年(1497年)、南近江の戦国大名・六角氏の家臣であった進藤長久の子として生を受けた 1 。進藤氏は、近江国の野洲郡、栗太郡、志賀郡に跨る地域に根を張った国人領主であり、その出自は在地に深く根差したものであった 4 。
進藤氏が六角家中で占めた地位は、一代限りの功績によるものではなく、世襲によって確立されたものであった。貞治の父・長久もまた六角氏の重臣であり、その名は当時の記録『経厚法師記』にも見出すことができる 6 。進藤家は代々「山城守」の官位を名乗り、その地位は長久から貞治、そしてその子である賢盛へと三代にわたって継承された 7 。この事実は、進藤氏が単なる実力者の集団ではなく、六角家臣団の中で「宿老」として遇される特定の「家格」を確立していたことを強く示唆している。下剋上が常であった戦国時代において、このような安定した地位の継承は、六角氏の支配体制がある程度の秩序と階層構造を保持していた証左と言える。進藤氏は、譜代家臣の中でも最高位に位置づけられ、その権力は血縁によって保障される、安定した統治機構の重要な一部を形成していたのである。
進藤氏の権力基盤を理解する上で、その本拠地である木浜城(このはまじょう)の地理的・経済的重要性を見過ごすことはできない。木浜城は、現在の滋賀県守山市に位置し、琵琶湖が最も狭まる「くびれ」の部分に面した平城であった 8 。この地は、古来より琵琶湖の湖上交通における重要な港(湊)として栄え、人々と物資が行き交う物流の結節点であった 11 。
戦国時代において、琵琶湖水運は計り知れない価値を持っていた。それは、日本海側の若狭や越前から京都・大坂へと物資を運ぶ大動脈であり、その経済的価値は莫大であった 13 。同時に、軍事行動における兵員や兵糧の輸送路、すなわち兵站線としても極めて重要な役割を担っていた 14 。この水運の利権を掌握することは、六角氏の経済力と軍事力を支える根幹であったと推察される 7 。
その重要な拠点である木浜の湊を直接支配していたのが、進藤氏であった。このことは、進藤氏が六角氏の経済政策、特に水運の管理・運営において中核的な役割を担っていたことを意味する。進藤貞治が後年、外交や政治の舞台で発揮した強大な影響力は、彼個人の才覚のみに由来するものではなく、この琵琶湖水運という確固たる経済的・戦略的基盤に裏打ちされていたと分析できる。彼の政治力と経済力は不可分一体のものであり、この関係性は、後に織田信長が安土城を琵琶湖畔に築き、水運の完全掌握によって天下統一事業を推進した戦略の、先駆的な事例として捉え直すことが可能である 17 。
進藤貞治の権勢を最も象徴するのが、後藤賢豊と共に「六角氏の両藤」と称された統治体制である 1 。彼らは単なる家臣団の筆頭格に留まらず、「奉行人として六角氏の当主代理として政務を執行できる権限」を有していたと記録されている 2 。これは、主君の裁可を待たずに一定の政務を遂行できるという、極めて強大な権限であり、彼らが大名権力の一部を分担・代行する存在であったことを物語っている。
この種の強力な宿老による合議制や権力分担は、他の戦国大名にも類例を見ることができる。例えば、毛利氏における吉川元春・小早川隆景の「両川(りょうせん)体制」や、豊臣政権末期における「五大老・五奉行」の制度がそれに当たる 22 。しかし、六角氏の「両藤」体制は、これらと比較して顕著な特徴を持つ。毛利両川が当主の叔父と従兄弟という血縁者であったのに対し、また五大老が大大名の連合であったのに対し、「両藤」は譜代の有力国人であった進藤・後藤両氏に、行政と外交の権限が大幅に委譲される形をとっていた。
これは、近江という土地が古くから有力な国人領主の自立性が強い地域であったことの反映と考えられる 3 。すなわち、六角氏の権力は、大名による専制的なものではなく、大名と有力国衆との連合政権的な側面を色濃く持っていた。進藤貞治が活躍した六角定頼の時代は、この集団指導体制が最も効果的に機能し、六角氏の安定と発展に大きく寄与した「成功例」として評価することができるだろう。
進藤貞治の活動は、六角氏の最盛期を築いた名君・六角定頼(ろっかく さだより)の治世と分かちがたく結びついている 1 。定頼は、室町幕府の管領代に任じられるなど、中央政界において絶大な影響力を誇った人物であり、貞治の多彩な外交活動は、まさにこの定頼の政治路線を実務面から支えるものであった 21 。
両者の信頼関係の深さは、様々な史料から窺い知ることができる。例えば、天文15年(1546年)12月、本願寺の法主・証如は、六角定頼と重臣の平井高好、そして進藤貞治の三者に対し、それぞれ個別に歳暮として書状と梅染の品を贈っている 26 。これは、交渉相手である本願寺からも、貞治が単なる主君の命令を伝える使者ではなく、定頼に次ぐ重要人物として独立して認識されていたことを明確に示している。
この関係は、定頼が六角氏の進むべき大方針を定め、貞治がその卓越した実務能力をもって具現化するという、理想的な相互補完関係であったと分析できる。定頼の政治的成功は、貞治という有能な外交官の存在なくしては成し得なかったであろうし、逆に貞治がその非凡な手腕を存分に発揮できたのも、定頼という強力な後ろ盾と明確な政治ビジョンがあったからこそである。この名君と名臣の強固なパートナーシップこそが、六角氏の黄金時代を現出した最大の要因であったと言っても過言ではない。
進藤貞治の活動は、軍事、政治、宗教、そして広域外交と多岐にわたる。その具体的な活動を時系列で追うことで、彼が畿内政治のキーパーソンであったことがより鮮明になる。
表1:進藤貞治 年次別活動記録
年号(西暦) |
年月日 |
活動内容 |
関連勢力 |
典拠史料 |
天文元年 (1532) |
8月23日 |
六角定頼軍の一員として山科本願寺を攻撃。 |
本願寺、法華衆 |
『私心記』等 26 |
天文2年 (1533) |
6月18日 |
平岡にて細川晴国と交戦。 |
細川晴国 |
『兼右卿記』 26 |
天文3年 (1534) |
5月18日 |
永原氏と共に南禅寺に布陣。 |
- |
『兼右卿記』 26 |
天文3年 (1534) |
5月23日 |
南禅寺にて木沢長政と密談。 |
木沢長政 |
『兼右卿記』 26 |
天文5年 (1536) |
7月11日 |
天文法華の乱に関し、木沢長政と申し合わせを行う。 |
延暦寺、法華衆 |
『rekimoku.xsrv.jp』 26 |
天文8年 (1539) |
9月13日 |
三好長慶と三好政長の対立仲裁のため、芥川山城へ派遣される。 |
三好氏 |
『rekimoku.xsrv.jp』 26 |
天文8年 (1539) |
11月28日 |
北野社の遷宮を取り仕切る。 |
北野社 |
『rekimoku.xsrv.jp』 26 |
天文15年 (1546) |
12月9日 |
足利義藤(後の義輝)の元服式に際し、会場の普請奉行を務める。 |
室町幕府 |
『rekimoku.xsrv.jp』 26 |
天文16年 (1547) |
6月17日 |
法華衆と延暦寺の和睦交渉において、法華宗側から条件を提示される。 |
延暦寺、法華衆 |
『蜷川家文書』 26 |
天文16年 (1547) |
閏7月3日 |
細川晴元の高雄城攻めに援軍として派遣される。 |
細川晴元 |
『厳助往年記』 26 |
天文18年 (1549) |
6月25日 |
江口の合戦に際し、細川晴元の援軍として36,000の兵を率い出陣。 |
細川晴元、三好長慶 |
『厳助往年記』 26 |
時期不詳 |
- |
豊後国の大友義鑑と書簡を交換し、使者の臼杵鑑続と直接交渉。 |
大友氏 |
『戦国大名家臣団事典』等 1 |
天文20年 (1551) |
- |
死去。 |
- |
1 |
進藤貞治の活動の中心は、室町幕府や管領家といった中央政権との交渉にあった。天文15年(1546年)、後に13代将軍となる足利義藤(義輝)が、六角氏の庇護下にあった近江坂本で元服の儀を執り行った。この国家的な重要儀式において、主君・定頼が加冠役(後見人)を務める中、貞治は会場となった樹下成保邸の設営・改修を行う普請奉行に任じられている 26 。これは、彼が単なる武将ではなく、幕府の最重要儀式の実務を統括する能力と信頼を兼ね備えた人物として、幕府側からも認識されていたことを示している。
また、当時の畿内を二分した細川氏の内紛においても、貞治は一貫して細川晴元方を支援する六角氏の軍事・外交行動の最前線に立った。天文16年(1547年)には細川国慶が籠る高雄城攻めに、天文18年(1549年)には三好長慶との決戦となった江口の合戦に、それぞれ援軍を率いて派遣されている 26 。さらに、天文3年(1534年)には、当時畿内で大きな影響力を持っていた武将・木沢長政と南禅寺で密談を行うなど 26 、複雑怪奇な畿内の政治・軍事状況の中で、常に情報収集と交渉の主導権を握ろうと活動していた様子が窺える。
戦国時代の近江・京都において、延暦寺や本願寺といった巨大宗教勢力は、大名をも凌ぐほどの政治力・軍事力を有しており、彼らとの関係は政権の安定を左右する重要課題であった。進藤貞治は、こうした宗教勢力との関係においても、巧みな手腕を発揮した。
天文5年(1536年)に勃発した延暦寺と京都法華宗二十一ヶ寺の全面戦争、いわゆる天文法華の乱において、六角氏は延暦寺に加勢し、貞治も軍を率いて上洛、法華宗勢力の撃破に貢献した 1 。しかし、彼の役割は武力行使に留まらなかった。争乱が一段落した天文16年(1547年)、彼は六角家の代表として法華宗側との和睦交渉に臨み、相手方から和睦の条件を提示される立場となっている 26 。これは、貞治が武力による鎮圧だけでなく、その後の和平構築までを担う総合的な紛争解決能力を持つ、優れた調停者であったことを示している。
また、山科本願寺との関係も同様である。天文元年(1532年)には、六角軍の一員として山科本願寺を攻め滅ぼしているが 26 、後年には法主・証如から個人的に歳暮を贈られるほどの関係を築いている 26 。敵対と協調を巧みに使い分ける六角氏の宗教政策において、貞治がその実務を担う中心人物であったことは間違いない。
進藤貞治の外交活動は、畿内とその周辺地域に限定されるものではなかった。その活動範囲の広さを示す最も顕著な例が、遠く離れた九州・豊後国の戦国大名、大友義鑑(おおとも よしあき、宗麟の父)との外交関係である。複数の記録によれば、貞治は大友義鑑と直接書簡を交換し、その使者として派遣された重臣・臼杵鑑続(うすき あきつぐ)と交渉の席に着いていた 1 。この事実は、『大友家文書録』に「進藤貞治書状案」が複数所収されていることからも裏付けられる 31 。
地理的に遠く離れた近江の六角氏と豊後の大友氏が、なぜ直接的な外交チャンネルを必要としたのか。その背景には、当時の政治・経済状況が深く関わっている。大友氏は、明や李氏朝鮮との日明貿易・日朝貿易を積極的に行い、室町幕府とも緊密な関係を維持していた。一方の六角氏は、畿内における幕府の最も有力な後援者であった。両者の接点は、まさに「室町幕府」と、そこからもたらされる「海外貿易の利権」にあったと推測される。例えば、大友氏が輸入した唐物などの商品を畿内で販売する際の権益保護や、幕府を通じた情報交換、政治工作などにおいて、六角氏が仲介役を果たしていた可能性は高い。
この全国規模の広域外交ネットワークの実務を担っていたのが、進藤貞治であった。これは、彼が単なる畿内の調停者ではなく、全国的な視野と情報網を持つ、当代屈指の外交官であったことを証明している。そして、主家である六角氏が、戦国時代の情報と物流のネットワークにおいて、重要なハブとして機能していたことを物語る好例である。
天文20年(1551年)、進藤貞治は55年の生涯を閉じた 1 。彼の死は、主君であり盟友でもあった六角定頼が没するわずか一年前のことであった。六角氏の黄金時代を築き上げた両輪が相次いで失われたことは、六角家の運命に暗い影を落とすことになる。
貞治の死がもたらした最大の影響は、「両藤」と称された権力機構の崩壊であった。進藤貞治と後藤賢豊という二人の宿老が並び立つことで保たれていた家臣団内部のパワーバランスは、貞治の死によって完全に崩れた。その結果、後藤賢豊が唯一無二の筆頭宿老として、その権力を一身に集める状況が生まれたと推測される。
定頼の後を継いだ六角義賢は、父の路線を継承し、引き続き後藤賢豊を重用した。しかし、義賢から家督を譲られたその子・六角義治は、若さも相まって、隠居した父・義賢の信任を背景に強大な権力を振るう賢豊の存在を次第に疎ましく思うようになる 2 。
この若き当主と老宿老の対立は、永禄6年(1563年)の観音寺騒動という悲劇的な結末を迎える。もしこの時、進藤貞治が生きていたならば、事態は大きく異なっていたであろう。後藤賢豊と同格の重臣であった貞治は、両者の間に立つ調停役として、あるいは賢豊の権力を牽制するカウンターバランスとして機能し、対立の激化を抑制した可能性が極めて高い。「騒動を納める事の出来る者はいなかった」 33 という後世の記録は、まさに貞治のような傑出した調整役の不在を嘆く言葉と解釈できる。彼の死は、単に有能な家臣一人の喪失に留まらず、六角家の権力構造そのものを不安定化させ、観音寺騒動、ひいては六角氏滅亡の遠因をなした、決定的な転換点であったと言える。
進藤貞治の死後、進藤家を継いだのは、その子・賢盛(かたもり)であった。彼の動向は、父の死後に六角家の主従関係がいかに変質したかを如実に示している。
永禄6年(1563年)、主君・六角義治が後藤賢豊父子を観音寺城内で謀殺すると、賢盛はこれに激しく反発。蒲生定秀ら他の重臣たちと共に主君に反旗を翻し、観音寺城から自らの居城である木浜城へと退去した 5 。この一連の騒動は「観音寺騒動」と呼ばれ、六角家の結束を著しく弱めることになる。
この騒動の結果、賢盛ら家臣団は、主君・義治に「六角氏式目」への署名を強要する 4 。この式目は、大名の権力を家臣団の合議によって制限するという内容を含んでおり、主従の力関係が逆転したことを示す画期的な分国法であった。父・貞治が主君と一体となって権力を振るったのに対し、子・賢盛は主君に公然と反抗してその権力を削ぐ側に回ったのである。この対照的な親子二代の行動は、貞治の死からわずか12年の間に、六角家の主従関係が根本から覆ってしまったことを象徴している。
最終的に、永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を起こすと、賢盛はもはや衰退した主家を見限り、いち早く信長に臣従した 4 。これにより進藤家は新たな時代を生き延びることができたが、それはかつての主家・六角氏の滅亡と引き換えであった。
進藤貞治は、六角氏が最も輝いた定頼の時代を象徴する、比類なき外交官であり、優れた内政家であった。彼の卓越した交渉能力と実務遂行能力は、主家を畿内屈指の有力大名へと押し上げる、まさに原動力であった。
彼の存在は、六角氏の権力構造における「両藤」体制という、大名と有力国衆との協調関係が最も理想的に機能した時代を体現している。その活動の軌跡は、戦国時代前期から中期にかけての畿内における、幕府、守護大名、国人、宗教勢力が織りなす複雑な政治・軍事・外交の力学を理解する上で、絶好の事例研究となる。
そして何よりも、彼の死が六角家内部の権力均衡を崩壊させ、観音寺騒動とそれに続く主家の急速な衰退を招く遠因となったことは、歴史の皮肉と言わざるを得ない。彼の存在がいかに六角氏の安定にとって不可欠な重しであったかは、彼の死後の混乱が何よりも雄弁に物語っている。進藤貞治の生涯は、一人の傑出した家臣の盛衰が、主家の運命、ひいては一地方の歴史をも大きく左右した、戦国時代のダイナミズムを凝縮したものであり、その歴史的価値は極めて高いと結論付けられる。