最終更新日 2025-06-24

進藤賢盛

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進藤賢盛 ― 六角重臣から織豊大名の与力へ、激動の時代を生きた武将の生涯

序論:乱世を渡り歩いた近江国人・進藤賢盛

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、近江守護大名・六角氏の宿老、そして織田・豊臣政権下の武将として激動の時代を生きた進藤賢盛(しんどう かたもり)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。通称は小太郎、官位は山城守を称した 1 。彼の生没年については詳らかではないが 1 、その軌跡は、守護大名体制の崩壊と天下統一事業の進展という、時代の巨大な転換点を映し出す鏡である。

進藤賢盛の生涯を追うことは、単一の武将の伝記に留まるものではない。それは、南近江の有力な国人領主が、主家の内紛と滅亡という激震を経て、いかにして新たな中央集権的支配体制に適応し、あるいは翻弄されていったかを示す、きわめて示唆に富んだ事例研究である。彼の動向を通じて、六角氏家臣団の内部構造、織田信長の支配戦略、そして豊臣政権下における旧勢力の処遇といった、より大きな歴史的文脈を深く理解することが可能となる。本報告書では、まず賢盛の出自と彼が依拠した近江における勢力基盤を明らかにし、次いで六角家臣時代、織田政権下、そして豊臣政権下における彼の具体的な活動と地位の変遷を時系列に沿って詳細に分析する。

進藤賢盛 略年表

年代(西暦)

主要な出来事

賢盛の立場・役職

関連史料・典拠

不明

生誕。父は進藤貞治または盛高とされる。

進藤氏嫡子

1

永禄3年 (1560)

近江肥田城攻め、野良田の戦いなどに従軍。

六角義賢家臣、「両藤」の一人

1

永禄6年 (1563)

観音寺騒動。後藤賢豊謀殺に憤激し、他の重臣と共に主君・六角義治を観音寺城から追放。

六角家宿老、反義治派の主導者

1

永禄10年 (1567)

『六角氏式目』に連署。

六角家宿老

1

永禄11年 (1568)

織田信長の上洛軍に降伏し、六角氏から離反。

織田信長家臣(近江衆)

2

永禄12年 (1569)

伊勢・大河内城攻めに従軍。

織田信長家臣

2

元亀2年 (1571)

佐久間信盛の与力となる。

佐久間信盛与力

1

元亀4年 (1573)

槇島城攻め、一乗谷城の戦いに従軍。

佐久間信盛与力

2

天正8年 (1580)

主将・佐久間信盛が追放される。

佐久間信盛与力

1

天正9年 (1581)

第二次天正伊賀の乱に従軍。

織田信長旗本(馬廻衆)

1

天正10年 (1582)

本能寺の変。変後は織田信雄に仕える。

織田信雄家臣

1

天正12年 (1584)

小牧・長久手の戦い。秀吉方として、蒲生氏郷の与力で伊勢峰城を攻める。

豊臣秀吉家臣、蒲生氏郷与力

1

不明

死没。小牧・長久手の戦い以降の消息は不明。

不明

1


第一章:進藤氏の出自と近江における勢力基盤

第一節:進藤氏の系譜とルーツ

進藤賢盛が属した近江進藤氏は、その出自を辿ると、平安時代に「俵藤太(たわらのとうた)」の伝説で知られる鎮守府将軍・藤原秀郷に連なるとされる 17 。江戸時代に編纂された武家系譜集『地下家伝』には、秀郷の五世孫にあたる修理少進・進藤為輔をその祖とする記述が見られる 17 。しかし、これは後世の編纂物における記述であり、同時代の一次史料によって直接的に裏付けられるものではないため、その信憑性については慎重な検討を要する。

より確実な記録としては、近江国を本拠とする国人領主としての進藤氏の存在が挙げられる。彼らは野洲郡から栗太郡、志賀郡にかけての広範囲に勢力を有していた 1 。この地域は、琵琶湖の南岸から西岸に位置し、京都と東国を結ぶ交通の要衝であり、また琵琶湖水運の拠点として経済的、軍事的に極めて重要な意味を持っていた。

賢盛の直接の父祖については、史料によって見解が分かれている。父の名は、進藤貞治(さだはる)とする説と、進藤盛高(もりたか)とする説が併存している 1 。このうち進藤貞治は、六角氏の先代当主である六角定頼に仕えた重臣としてその名が知られており、特に外交手腕に優れた人物であったと伝えられる 5 。賢盛が六角政権において外交の枢要を担ったことを鑑みれば、父・貞治が築いた家格と人脈、そして政治的ノウハウを継承した可能性は高いと考えられる。進藤氏は長久、貞治、そして賢盛の三代にわたって六角氏の重臣を務め、代々山城守を名乗ったとされる 19

第二節:本拠地・木浜城と小浜城

進藤氏の勢力の中核をなしたのが、現在の滋賀県守山市に位置した木浜城(このはまじょう)である 2 。木浜は、古代から琵琶湖の港として栄え、特に南北朝時代から江戸時代初期にかけては湖上交通の重要な結節点として繁栄した 21 。この地理的優位性は、進藤氏の経済力の源泉であったと同時に、京都や周辺諸国からの人、物資、そして情報が集まる拠点としての役割を担っていたことを示唆する。

さらに、進藤氏は木浜城の近隣に支城として小浜城(こばまじょう)も有していた 12 。これは、彼らの勢力圏が単一の拠点に留まらず、周辺地域にまで及んでいたことを示している。しかし、彼らの立場は単なる在地領主にはとどまらなかった。六角氏の重臣として、主家の居城である観音寺城下にも上屋敷を構えて常駐していたと考えられている 12 。この事実は、進藤氏が自らの領地を経営する在地領主としての側面と、主君の側近くに仕え中央政務に関与する家臣という二重の性格を併せ持っていたことを物語っている。

進藤氏の勢力基盤を考察する上で、その在地性と中央志向の二重性は極めて重要である。彼らの力の源泉は、単なる土地支配に限定されるものではなかった。むしろ、琵琶湖水運という当時の物流と情報の動脈を掌握していた点にこそ、その本質があったと見なすべきである。六角氏は近江守護として室町幕府と密接な関係を維持しており、京の都との緊密な連絡は政権運営の生命線であった。この文脈において、琵琶湖の港湾を支配する進藤氏は、六角氏にとって京都とのパイプ役として不可欠な存在であった。賢盛が「幕府との渉外等を担当」 1 する重臣であったという記録は、この地理的・経済的基盤に裏打ちされた役割であったと結論付けられる。彼の能力は、単なる武勇のみならず、地政学的な優位性を背景として培われた、高度な政治・経済感覚にもあったと推察されるのである。


第二章:六角家宿老「両藤」の一翼として

第一節:「賢」の字の拝領と宿老への道

進藤賢盛は、その主君である南近江の守護大名・六角義賢(ろっかく よしかた、後に出家して承禎と号す)から、その諱(いみな)の一字である「賢」の字を授けられている 1 。主君から偏諱を賜ることは、家臣にとって最高の栄誉の一つであり、主君から特に目をかけられ、家臣団の中核を担う人物として公に認められていたことの動かぬ証左である。

さらに賢盛は、同じく六角氏の重臣であった後藤賢豊(ごとう かたとよ)と共に「六角の両藤(りょうとう)」と並び称され、六角氏の二大家老、あるいは宿老として重きをなした 1 。この「両藤」という呼称は、進藤氏と後藤氏が六角家中において、他の家臣とは一線を画す特別な地位を占めていたことを明確に示している。彼らは文字通り、六角氏の屋台骨を支える二本の柱と見なされていたのである。

第二節:武将として、外交官としての活躍

宿老としての賢盛は、文武両面にわたって六角氏を支えた。武将としては、長年にわたり敵対関係にあった北近江の浅井氏との抗争の最前線で指揮を執った。永禄三年(1560年)に行われた近江肥田城攻めや、浅井長政が六角氏からの独立を勝ち取った野良田の戦いなど、数々の重要な合戦に従軍した記録が残っている 1 。これらの戦いを通じて、彼は武将としての経験と名声を積み重ねていった。

一方で、賢盛は外交官としても卓越した手腕を発揮した。これは、父・貞治から受け継いだ役割であった可能性が高い。彼は、室町幕府との渉外を担当し、中央政界との複雑な交渉にあたった 1 。当時の六角氏は、将軍家を庇護し、京の政治情勢に深く関与することでその権威を維持していた。したがって、幕府との交渉役は、六角氏の対外政策の根幹を担う極めて重要な職務であった。賢盛がこの任にあったことは、彼が単なる武辺者ではなく、高度な政治感覚と交渉能力を兼ね備えた人物であったことを物語っている。

六角家臣団における賢盛の地位を理解する上で、「両藤」という呼称が持つ意味を深く考察する必要がある。これは単なる名誉的なものではなく、後藤氏と進藤氏が、婚姻関係や政治的連携を通じて、家中に一大派閥を形成していたことを強く示唆する。例えば、後藤賢豊の妹は、同じく六角家の重臣である蒲生賢秀の正室であった 23 。蒲生氏もまた「六角六人衆」に数えられる有力家臣であり、この姻戚関係は後藤・蒲生両家の強固な結びつきを生み出した。

進藤氏もこの派閥の一翼を担い、「両藤」と蒲生氏は互いに連携し、六角家中の意思決定に絶大な影響力を持つ存在となっていたと考えられる。彼らは六角氏の権力を支える強固な柱であると同時に、その力は時として当主の権力を制約しうる、諸刃の剣でもあった。この家臣団内部の権力構造こそが、次代の当主・六角義治にとって、自らの権力基盤を確立する上での最大の障害と認識された可能性が高い。したがって、後に勃発する観音寺騒動は、単に義治の個人的な感情による暴発と見るべきではなく、この強固な重臣派閥の権力構造そのものに対する、若き当主の挑戦であったと解釈することができる。賢盛の立場は、まさにこの権力闘争の渦中に置かれていたのである。


第三章:観音寺騒動と六角家の斜陽

第一節:後藤賢豊の謀殺と騒動の勃発

永禄六年(1563年)十月、南近江の政治情勢を根底から揺るがす大事件が発生した。六角家の若き当主・六角義治が、父・義賢の代からの宿老であり、「両藤」の一角を占める後藤賢豊とその嫡男を、居城である観音寺城に呼び出し、突如として謀殺したのである 1 。この事件が、後に「観音寺騒動」と呼ばれる六角家最大の内紛の直接的な引き金となった。

義治の動機については、賢豊が家中で持つ強大な威勢や人望を妬んだため、あるいは、未だ実権を握る父・義賢の影響力を排除し、自らの権力を絶対的なものにするためであったなど、諸説が伝えられている 6 。いずれにせよ、この老臣誅殺という暴挙は、家臣団に深刻な衝撃と不信を植え付けた。

この主君の非道に対し、誰よりも激しく憤ったのが、賢豊と共に「両藤」と称された進藤賢盛であった。彼は直ちに行動を起こし、後藤氏と縁戚関係にあった永田氏、三上氏、平井氏といった他の重臣たちと結束した 6 。彼らは義治の行為を断じて許さず、観音寺城下にあった自らの屋敷を焼き払うという示威行動に出た後、城から退去して兵を挙げ、公然と主家に反旗を翻したのである 6 。なお、一部の資料には、騒動の発端を「賢盛と馬淵氏の意見対立を義治が調停しきれなかったため」とする異説も存在するが 6 、後藤賢豊の謀殺が直接的な原因であるとする説が、多数の史料によって支持されており、これが通説となっている 1 。この異説は、騒動の背景に複数の対立軸が存在した可能性を示唆するものとして留意すべきであろう。

第二節:主君の追放と六角氏式目

進藤賢盛が率いる反乱軍の勢いは凄まじく、彼らは長年の宿敵であった北近江の浅井長政にまで支援を要請し、観音寺城に肉薄した 6 。主だった家臣に離反され、わずかな手勢しか持たなかった義治は城を支えきることができず、父・義賢と共に本拠地である観音寺城を捨て、蒲生郡の日野城へと落ち延びるという屈辱を味わった 6

この主君不在という異常事態の収拾に乗り出したのが、同じく重臣であった蒲生定秀・賢秀の親子であった 6 。彼らの懸命な調停により、反乱軍と六角父子の間で和睦交渉が行われた。その結果、謀殺された後藤賢豊の次男・高治の家督相続と所領安堵を認めること、そして義治が隠居し、その弟・義定を名目上の当主とすることなどを条件として、ようやく和睦が成立した 6

この観音寺騒動は、六角家の権力構造に決定的な変化をもたらした。永禄十年(1567年)、騒動の帰結として、家臣団が当主の権力を法的に制約する内容を含む分国法「六角氏式目」が制定された。この式目には、当主が家臣の合意なしに重要事項を決定することを禁じる条項などが盛り込まれており、進藤賢盛もその制定に深く関与し、連署者として名を連ねている 1 。これは、観音寺騒動を経て、六角家が当主の専制を許さない、家臣団の合議制に近い統治体制へと移行したことを示す画期的な文書であった。

この一連の出来事は、賢盛が単なる反乱の首謀者に留まらず、騒動後の新たな統治体制を構築する中心人物の一人であったことを明確に物語っている。彼は主君を武力で追放し、その権力を法的に制限することに成功したのである。これは戦国時代において、家臣の力が主君を凌駕した稀有な事例と言える。しかし、この家臣団による主君権力の制限という試みは、皮肉な結果をもたらす。家臣が主君をコントロールしようとした結果、六角家全体の結束は著しく弱まり、組織としての求心力は完全に失われた。この深刻な内部崩壊こそが、わずか一年後の永禄十一年(1568年)、織田信長の上洛軍の前に、名門六角氏がほとんど抵抗らしい抵抗もできずに瓦解する最大の原因となったのである。賢盛らの行動は、短期的には家臣団の権益を守ったかもしれないが、長期的には主家そのものの命運を絶つ結果を招いたと言わざるを得ない。


第四章:織田信長への臣従と与力としての転戦

第一節:六角氏の見限りと信長への降伏

永禄十一年(1568年)九月、尾張の織田信長が、室町幕府の次期将軍候補である足利義昭を奉じて京へ向かう大規模な上洛作戦を開始した。この時、近江守護である六角義賢・義治親子は、信長軍の近江通過を拒否し、徹底抗戦の構えを見せた 10 。しかし、観音寺騒動によって家中の結束を失っていた六角氏に、天下統一の勢いに乗る織田の大軍を押しとどめる力は残されていなかった。

信長軍の猛攻の前に、六角氏の支城であった箕作城が陥落すると、本拠地である観音寺城もわずか一日で自落した 10 。この主家のあまりにも早い崩壊を目の当たりにした進藤賢盛は、もはや六角氏に未来はないと判断し、迅速に次なる活路を見出した。彼は、かつての盟友であった後藤高治ら他の南近江の国人衆と共に六角氏を見限り、織田信長に降伏したのである 2 。当時の公家の日記である『言継卿記』には、後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、九里の七名が信長に「同心した」と記されており、彼ら有力国人の離反が、六角氏の崩壊を決定づけたことを示している 8

第二節:佐久間信盛の与力として

信長に仕えることになった賢盛は、当初、他の降将たちと共に「近江衆」の一人として扱われた。永禄十二年(1569年)の伊勢大河内城攻めでは、かつての同僚であった蒲生賢秀や後藤高治らと共に、織田軍の一員として参陣している 2 。これは、信長が降伏した近江の武士たちを、自らの軍事力として効果的に再編成し、活用していたことを示している。

そして元亀二年(1571年)、信長は賢盛のキャリアにおける重要な配置転換を行う。彼を、織田家の重臣であり、方面軍司令官の一人であった佐久間信盛の与力(よりき)、すなわち配下武将としたのである 1 。これは、旧来の在地領主を、信長直属の軍団長の指揮下に組み込むことで、その軍事力を活用しつつも独立性を削ぎ、織田家の軍事機構に完全に統合するという、信長の巧みな支配戦略の典型的な現れであった。

佐久間信盛の指揮下に入った賢盛は、信長の天下統一事業の最前線で各地を転戦することになる。元亀四年(1573年)には、将軍足利義昭が信長に反旗を翻した際に籠城した槇島城攻めに参加 2 。天正元年(1573年)には、越前の朝倉義景を滅亡に追い込んだ一乗谷城の戦いに従軍した 2 。その後は、十年にも及ぶ長期戦となった石山合戦にも参加し、対本願寺戦線の重要な一翼を担った 1

第三節:信盛追放と信長旗本への昇格

天正八年(1580年)、織田家を揺るがす事件が起こる。信長が、石山本願寺攻めの総大将であった佐久間信盛に対し、長年の戦にもかかわらず成果を上げていないことなどを理由に、十九箇条にもわたる折檻状を突きつけ、高野山へ追放したのである 1 。方面軍司令官の突然の失脚は、その配下にあった与力たちにとっても、連座して処罰される可能性のある、極めて危機的な状況であった。

しかし、進藤賢盛はこの危機を乗り越えるだけでなく、むしろ地位を向上させることに成功する。彼は信盛追放の際に連座を免れたばかりか、信長直属の旗本(馬廻衆)へと昇格したと見られている 1 。これは、賢盛が単なる「佐久間信盛の付属品」ではなく、信長からその実務能力と忠誠心を個別に高く評価されていたことを証明している。

信長直属の旗本となった賢盛は、天正九年(1581年)の第二次天正伊賀の乱に従軍している 2 。信長の第一級の史料である太田牛一の『信長公記』には、伊賀攻めにおける信楽口の部隊編成の中に、堀秀政、永田正貞、池田秀雄といった信長側近の武将たちと共に、進藤賢盛の名が明確に記されている 14

この一連の経緯は、賢盛の武将としての資質を雄弁に物語っている。与力は、良くも悪くも主将と運命を共にすることが多い。主将が追放されれば、与力も改易や所領没収の対象となるのが通例であった。しかし賢盛は、主将の失脚という最大の危機を乗り越え、信長との距離がより近い旗本へと地位を向上させた。これは、信長が信盛個人の怠慢と、その指揮下で実務を忠実に遂行していた与力たちの働きを、厳格に切り離して評価していたことを示している。賢盛は、大河内城攻めから石山合戦に至るまで、十年以上にわたり織田軍の中核として戦い続けてきた。その長年の軍功と実務経験こそが、信長の厳しい実力主義の下で評価を勝ち取り、危機を好機へと転換させる力となったのである。この事実は、賢盛が旧来の家柄や縁故に安住するのではなく、新たな支配者の下で実力によって自らの地位を切り拓いていく、優れた適応能力と実務能力を兼ね備えた武将であったことを強く示唆している。


第五章:本能寺の変後の動向と蒲生氏郷との連携

第一節:織田体制の崩壊と新たな主君

天正十年(1582年)六月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、彼が築き上げた巨大な政治・軍事体制は一日にして瓦解し、天下は再び動乱の時代へと逆戻りした。この混乱の中、旧織田家臣たちは、信長の遺児である信雄や信孝らを新たな旗頭として担ぎ、それぞれの生き残りを図った。進藤賢盛もこの潮流に乗り、信長の次男である織田信雄に仕えた 1 。信雄は尾張・伊勢などを領する大勢力であり、賢盛にとって、これは最も現実的な選択であった。

しかし、織田家中の主導権争いは、山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉が急速に台頭することで、新たな局面を迎える。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信孝を自刃に追い込んだ秀吉は、事実上の信長後継者としての地位を確立した。この時勢の大きなうねりを前に、賢盛は再び決断を下す。彼は信雄を見限り、天下の趨勢を握った秀吉に仕える道を選んだのである 1

第二節:小牧・長久手の戦いと蒲生氏郷の与力

天正十二年(1584年)、秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間で、小牧・長久手の戦いが勃発した。この戦いで、賢盛は秀吉方に属して参陣している 1 。彼の配属先は、伊勢方面の攻略を担当する別働隊であった。そして、その部隊を率いていたのが、かつて六角氏の同僚であった蒲生氏郷であった 1 。賢盛は、氏郷の指揮下で伊勢峰城攻めに参加し、武功を挙げた。かつては対等な宿老であった蒲生氏の、今度は与力という立場で従軍したという事実は、豊臣政権下における賢盛の立ち位置を象徴的に示している。

この頃、賢盛は諱を「秀盛」(ひでもり)と改めたとする説も存在する 2 。これは、新たな主君である秀吉から「秀」の一字を拝領したことによるものと推測されるが、彼が実際にこの名を公的に名乗ったかどうかを証明する確実な史料は現存していない。

第三節:途絶える記録と晩年の謎

小牧・長久手の戦いを最後に、進藤賢盛に関する明確な記録は歴史の表舞台から忽然と姿を消す。彼がその後、蒲生氏郷の会津92万石への移封(天正十八年、1590年)に同行したのか、また、いつ、どこでその生涯を閉じたのか、それを伝える史料は見つかっていない 2

彼の晩年を推測する上で、同じく元六角家臣であった後藤高治の事例が重要な示唆を与えてくれる。高治もまた、六角氏滅亡後は信長に仕えたが、本能寺の変に際して明智光秀に与したため、山崎の戦いの後に所領を失った。しかし、その後は蒲生氏郷に仕官し、その家臣として生き延びた。高治が天正十七年(1589年)に京で病死すると、その知行3000石は、子の千世寿が継承し、蒲生家の家臣として存続している 29 。この事例から、進藤賢盛、あるいはその一族も同様に、蒲生家の家臣団に完全に組み込まれ、その中で歴史の表舞台から静かに退場していった可能性が極めて高いと考えられる。

蒲生家は、文禄四年(1595年)に名君・氏郷が40歳の若さで急逝すると、その運命が暗転する。家督を継いだ秀行はまだ若年であり、家中では重臣間の対立が激化し、大規模なお家騒動(蒲生騒動)へと発展した 31 。この混乱の責任を問われた蒲生家は、豊臣秀吉によって会津92万石から下野宇都宮12万石へと、実に80万石もの大減封処分を受ける。その後、関ヶ原の戦いの功績で会津60万石に復帰するものの、秀行、そしてその子・忠郷と当主の早逝が続き、ついに寛永十一年(1634年)、忠郷の弟・忠知の代に嗣子なく家名は断絶した 33 。この蒲生家の激動と混乱の中で、多くの家臣が離散したり、あるいは主家と運命を共にしたりした。進藤賢盛の一族に関する記録も、この歴史の奔流の中で失われていったと推測するのが最も自然な解釈であろう。

賢盛のキャリアの終焉は、一個人の物語の終わりであると同時に、戦国時代を通じて一定の独立性を保ってきた「国人領主」という存在が、中央集権的な豊臣政権下で完全に解体され、大名の俸禄武士へと変質していく時代の大きな流れそのものを体現している。六角家臣時代、彼は自らの領地と兵を持つ半独立の領主であった。織田政権下では与力・旗本として、信長という絶対的な権力者に直結する軍団の一員となり、独立性を失う代わりに個人の実力で地位を保った。そして豊臣政権下では、巨大大名である蒲生氏郷の配下に組み込まれ、彼の地位はもはや天下人との直接的な関係ではなく、蒲生家内での序列によって規定されるものとなった。彼の記録が歴史から途絶えるのは、彼個人の物語が「蒲生家家臣団」というより大きな集合体の中に埋没し、歴史記述の主要な対象ではなくなったからに他ならない。彼の生涯は、国人領主の時代の終わりを、身をもって示したものであった。


結論:謎に包まれた晩年と歴史的評価

進藤賢盛は、南近江の有力国人として生まれ、主家である六角氏の宿老として権勢を振るった。主家の内紛である観音寺騒動では、家臣団を率いて主君を追放するなど、強い政治力と行動力を発揮した。しかし、その内紛が遠因となり主家が滅亡すると、時勢を的確に読んで織田信長に臣従。信長の天下統一事業の中で、与力、そして旗本として各地を転戦し、実力によって自らの地位を確保した。本能寺の変後は織田信雄、次いで豊臣秀吉に仕え、最後は蒲生氏郷の与力としてその名が記録に見えるが、その後の消息は不明である。

彼の生涯を総括する時、単なる地方武将という評価ではその実像を捉えきれない。彼は、①主家の内政を左右するほどの 政治力 、②主家滅亡という絶体絶命の危機に際して、新たな支配者に即座に順応する 現実的な判断力 、そして③織田軍団という当代随一の軍事組織の中で二十年近くにわたって戦い抜き、主将の失脚すら乗り越える 軍事・実務能力 、これらすべてを兼ね備えた、極めて有能な「サバイバー(生存者)」であった。家名の維持と自己の存続のため、主君を次々と変えながらも、それぞれの体制の中で確固たる役割を果たし続けたその生き様は、戦国乱世の厳しさと、それを生き抜いた国人領主の一つの典型と言えるだろう。

しかし、彼の生没年、墓所、そして子孫に関する記録は、現在のところ確認されていない。その最期は謎に包まれている。これは、彼が最終的に独立した大名として名を残すことはなく、蒲生家というより大きな組織の中に吸収され、その歴史の中に埋没していったことを示唆している。進藤賢盛の物語の結末は、戦国時代に数多存在した国人領主たちの多くが辿った運命を象徴しており、歴史の記録から静かに消えていった者たちの存在を、我々に強く思い起こさせるのである。

進藤賢盛の主君と地位の変遷

時代区分

主君

賢盛の地位・立場

意味合い

~1568年

六角義賢・義治

宿老(両藤)、在地領主

主家と半ば独立した関係にある有力国人。家中の政治を左右する力を持つ。

1568年~1571年

織田信長

近江衆(直臣)

旧領を安堵されるも、織田軍団の一員として動員される立場へ。

1571年~1580年

織田信長

佐久間信盛の与力

方面軍司令官の指揮下に入る。独立性がさらに低下し、織田家の軍事機構に完全に組み込まれる。

1580年~1582年

織田信長

旗本(馬廻衆)

主将の失脚を乗り越え、信長直属の家臣へ。実力が認められた証。

1582年~1583年

織田信雄

家臣

織田体制崩壊後、有力な後継者候補に属し、再起を図る。

1583年~

豊臣秀吉

蒲生氏郷の与力

豊臣政権下の大名家臣団の一員へ。天下人との直接的な関係が薄れ、大名の俸禄武士へと最終的に変質。

引用文献

  1. 進藤賢盛とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%80%B2%E8%97%A4%E8%B3%A2%E7%9B%9B
  2. 進藤賢盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E8%97%A4%E8%B3%A2%E7%9B%9B
  3. 進藤賢盛(シンドウカタモリ) - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=1800&bflag=1
  4. 戦国!室町時代・国巡り(4)近江編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/nb94fcf36debc
  5. 進藤貞治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E8%97%A4%E8%B2%9E%E6%B2%BB
  6. 観音寺騒動 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/key/kannonjisoudou.html
  7. 六角異聞 - 第二話~観音寺騒動 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n7798bz/5/
  8. 歴史の目的をめぐって 蒲生賢秀 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-06-gomou-katahide.html
  9. 歴史の目的をめぐって 佐久間信盛 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-sakuma-nobumori.html
  10. 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
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  18. 全国に広がる武家藤原氏の子孫たち。実はあなたも藤原氏!? | 家系図作成の家樹-Kaju- https://ka-ju.co.jp/column/samurai-fujiwarashi
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  22. 六角義賢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E8%B3%A2
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  26. 閑話.後藤高治の逆襲はなしよ。 - 魯鈍の人(ロドンノヒト) ~信長の弟、信秀の十男と言われて~(牛一/冬星明) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054917925362/episodes/16816700427282615006
  27. 第三十七話 観音寺騒動・上 - 長政記~戦国に転移し、滅亡の歴史に抗う(スタジオぞうさん) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16818093092828939670/episodes/16818093093251296035
  28. 六角佐々木家 https://hekitoryu.ninja-web.net/rokkakusasakike.html
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  30. 後藤高治とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%B2%BB
  31. 蒲生騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%A8%92%E5%8B%95
  32. 【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/11/14/180000
  33. 江戸時代 - 一般財団法人 会津若松観光ビューロー https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/aizu-history/edo/
  34. 蒲生氏郷が家臣に発揮した「統御力」と子孫を苦しめた副作用 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/23832