戦国時代の若狭国(現在の福井県嶺南地方)に、その栄枯盛衰をもって時代の転換を体現した一人の武将がいた。その名は逸見昌経(へんみ まさつね)。若狭守護・武田氏の有力家臣という立場から、主家を凌駕するほどの勢力を築き、二度にわたる反乱の末に若狭西部の実効支配を確立。やがて中央の覇者・織田信長の麾下に加わると、その武功と時流を読む鋭敏な政治感覚によって「若狭衆」の筆頭格にまで上り詰め、栄光の頂点を極めた。しかし、その絶頂のさなかに突如として訪れた死は、一族の断絶という劇的な結末をもたらす。
彼の生涯は、守護大名という中世的権威の衰退と、在地の実力者である国衆の台頭、そして織田信長による強力な中央集権化の波に翻弄される地方勢力の運命を、まさに一身に凝縮したかのようである。昌経の物語は、単なる一地方武将の立身出世譚に留まらない。それは、室町時代から続く「旧秩序」に対する挑戦、織田信長がもたらした「新秩序」への適応、そしてその新秩序による最終的な「淘汰」という、戦国時代から安土桃山時代への移行期における権力構造の変転を解き明かすための、極めて象徴的な事例と言えるだろう 1 。
本報告書では、逸見昌経の出自から、その野心的な挑戦、権力の象徴であった城郭、織田政権下での栄光、そして謎に満ちた終焉に至るまでを多角的に検証し、若狭の歴史に深くその名を刻んだこの驍将の実像に迫る。
年代(西暦) |
主な出来事 |
大永2年(1522年) |
逸見昌経、生誕 1 。 |
弘治2年~永禄元年頃(1556~1558年) |
主家・若狭武田氏で信豊・義統父子の内紛が勃発。昌経は信豊方に与したとされる 4 。 |
永禄4年(1561年) |
粟屋勝久、松永長頼らと結び、主君・武田義統に対し第一次反乱を起こす。砕導山城に籠城するも、朝倉・武田連合軍に敗北 6 。 |
永禄8年(1565年) |
敗北からの再起を期し、海城である高浜城を築城。新たな拠点とする 8 。 |
永禄9年(1566年) |
水軍を率いて再び武田義統を攻撃するも(第二次反乱)、敗北 1 。 |
永禄10年(1567年) |
武田義統が死去。後継の元明が朝倉氏に軟禁されると、その機に乗じて大飯郡西部を平定 1 。 |
永禄11年(1568年)以降 |
織田信長の勢力が若狭に及ぶと、これに臣従。「若狭衆」の筆頭格となる 1 。 |
天正3年(1575年) |
越前一向一揆討伐に、水軍を率いて参陣。軍功を挙げる 11 。 |
天正3年以降 |
旧領5,000石に加え、武藤友益の旧領・石山3,000石を加増され、合計8,000石の領主となる 1 。 |
天正9年(1581年)2月28日 |
織田信長が主催した京都御馬揃えに「一番衆」として参加。生涯の絶頂期を迎える 1 。 |
天正9年(1581年)3月ないし4月 |
御馬揃えの直後、病により急死。後継者が認められず、逸見氏は改易・断絶となる 1 。 |
逸見昌経の野心的な行動の根源を探る上で、彼が属した逸見一族の由緒を理解することは不可欠である。逸見氏は、主家である若狭武田氏と同じく、清和源氏義光流を祖とする甲斐源氏の系譜に連なる名門であった 5 。甲斐源氏の祖・源義清の子である清光(逸見冠者)が甲斐国逸見郷に拠点を構え、その長男・光長が逸見姓を称したのが始まりとされる 13 。光長の弟が、武田氏の祖となる武田信義である。平安時代末期には、逸見光長が一時的に甲斐源氏の惣領であったと見なされる時期もあり、逸見氏は武田氏と甲斐源氏の嫡流の座を争うほどの有力な一族だったのである 12 。
この事実は、逸見氏が単なる武田氏の家臣(被官)ではなく、血統的には同格、あるいはそれ以上の家格を持つという強い自負心、すなわち「矜持」を代々受け継いでいた可能性を示唆する。彼らにとって武田氏は、仕えるべき主君であると同時に、かつては覇を競ったライバルでもあった。この屈折した関係性が、後の昌経の行動原理に深く影響を与えたことは想像に難くない。
鎌倉時代以降、武田氏が甲斐守護職を世襲し主流となる一方で、逸見氏はその被官となるか、あるいは武田氏が守護職を得た他国へ移住していった 13 。若狭逸見氏の祖先は、永享12年(1440年)に安芸武田氏の武田信栄が若狭国守護に任じられた際、その一族として付き従い、若狭に入部したと考えられている 7 。
若狭に入部した逸見氏は、主家の領国経営を支える重臣として急速に地位を確立した。特に応仁の乱(1467-1477年)においては、京都内外の合戦で武田軍の主要な一角を担い、その武名を轟かせた 14 。逸見繁経のように、京都における武田軍の大将として奮戦した人物もいる 15 。室町・戦国期を通じて、逸見氏は粟屋氏などと並び、若狭武田氏の「四家老」の一つに数えられるほどの筆頭宿老としての地位を固めていったのである 8 。しかし、その内には、主家と同等の家格を持つという矜持が、常に燻り続けていたのであった。
戦国時代の若狭国は、守護・武田氏の権威が著しく揺らいでいた。弘治2年(1556年)頃から永禄年間にかけて、当主の武田義統(よしずみ)とその父・信豊の間で家督を巡る深刻な内紛が勃発し、家臣団も二派に分裂して相争う事態に陥っていた 4 。逸見昌経は当初、父・信豊方に与していたとされ、この主家の混乱は、彼のような野心と実力を兼ね備えた有力国衆にとって、自らの勢力を伸張させる絶好の機会となった 5 。
永禄4年(1561年)、逸見昌経はついに主君・武田義統に対し、公然と反旗を翻した。この反乱は、単なる個人的な野心によるものではなく、周到に準備されたものであった。昌経は、同じく武田氏の重臣であった国吉城主・粟屋勝久、そして若狭に隣接する丹波国の実力者・松永長頼(内藤宗勝)と手を結び、一大軍事同盟を形成したのである 2 。研究によれば、これ以前の若狭武田家臣の反乱が主家の権威を認めた上での内部抗争であったのに対し、昌経と勝久によるこの反乱は、守護・武田氏の地位そのものを狙った、本格的な下剋上の試みであったと評価されている 2 。
昌経は自身の居城である砕導山城(さいちやまじょう)に、領民や兵士合わせて8,000人もの人々を集めて籠城した 7 。この城の規模は、すでに守護の居城を凌駕しており、昌経の動員力が若狭守護のそれを上回っていたことを物語っている 4 。しかし、この大規模な反乱に対し、武田義統は独力での鎮圧を断念。姻戚関係にあった隣国越前の戦国大名・朝倉義景に援軍を要請した 5 。同年5月、朝倉景紀を大将とする1万1千の朝倉・武田連合軍が砕導山城を包囲。数ヶ月に及ぶ激しい攻防の末、城はついに落城し、昌経は敗走を余儀なくされた 4 。
一度は敗れた昌経であったが、その野心は潰えていなかった。松永長頼の援軍を得て高浜を奪還すると 7 、永禄8年(1565年)には新たに高浜城を築き、再起を図る 9 。そして永禄9年(1566年)、今度は高浜城の水軍力を活用し、海上から武田義統の本拠地である小浜を攻撃した 1 。しかしこの第二次反乱もまた失敗に終わり、高浜城は一時的に武田氏の手に落ち、義統が入城する事態となった 1 。
二度の敗北にもかかわらず、昌経にとって決定的な転機が訪れる。永禄10年(1567年)に宿敵・武田義統が死去し、さらにその翌年、跡を継いだ武田元明が、若狭への影響力を強めていた朝倉義景によって「保護」という名目で越前一乗谷へと移送され、事実上軟禁されてしまったのである 1 。これにより若狭国は、支配者不在という権力の空白状態に陥った。昌経はこの千載一遇の好機を逃さず、ただちに高浜に攻め込み、大飯郡西部一帯の平定に成功。長年にわたる闘争の末、ついに若狭西部の独立した支配者としての地位を確立した 1 。
皮肉なことに、昌経が打倒しようとした武田氏の権威は、彼自身の反乱が引き金となって、より強力な外部勢力である朝倉氏の軍事介入を招き、結果的に若狭全体が朝倉氏の間接支配下に置かれるという事態を招来した。昌経は、意図せずして若狭の戦国史を大きく転換させる触媒の役割を果たしたのである。
逸見昌経が築き、拠点とした二つの城、砕導山城と高浜城は、彼の権力と戦略思想を雄弁に物語る物的な証拠である。これらの城郭の構造と立地の変遷は、彼が単なる一介の反乱者ではなく、時代の変化を見据えた戦略家であったことを示している。
第一次反乱の拠点となった砕導山城は、高浜町宮崎の妙見山(標高142m)に築かれた巨大な山城である 3 。その規模は東西約1km、南北約650mにも及び、福井県内では最大級とされる 3 。驚くべきことに、その規模は若狭守護・武田氏の本拠であった後瀬山城をも凌駕していたと伝えられており、この城の存在自体が、昌経が家臣でありながら主家と比肩しうる、あるいはそれを超えるほどの独立した軍事力と動員力を保持していたことを示している 4 。現在も、山全体に雛壇のように連なる多数の曲輪(郭)、敵の侵攻を阻むための堀切や切岸といった防御施設が、450年以上の時を経てなお良好な状態で残存しており、その堅固さを今に伝えている 3 。この城は、若狭国内のライバルとの抗争を主眼に置いた、典型的な戦国期の防衛拠点であった。
砕導山城の敗北から4年後の永禄8年(1565年)、昌経は再起を期して高浜城を築いた 8 。この城は、砕導山城とは全く異なる思想に基づいて設計されている。若狭湾に突き出た半島という地形を巧みに利用し、港湾機能を城郭内に取り込んだ、平山城と水城(海城)の機能を兼ね備えた先進的な拠点であった 10 。北・東・西の三方を海に囲まれ、半島の山頂に主郭を置き、麓の平地部に二の丸・三の丸を配するという縄張りは、当時の若狭では極めて斬新なものであった 10 。
この構造は、逸見氏が伝統的に有していた水軍力を最大限に活用しようという昌経の明確な戦略的意図を反映している 10 。実際に第二次反乱では、この城を拠点とした水軍が海上から小浜を攻撃しており、その意図が実践されたことがわかる 10 。砕導山城から高浜城への本拠地の移行は、昌経の戦略思想が、内陸での籠城を前提とした「内陸型防衛」から、日本海交易と水軍力を活用した、より広域的な経済・軍事活動を目指す「外向型展開」へとシフトしたことを物語っている。彼は一度の敗北に屈することなく、来るべき新時代に不可欠となる海上交通路と海軍力の重要性を、若狭という地でいち早く認識していた先見性のある武将だったのかもしれない。
項目 |
砕導山城 |
高浜城 |
立地 |
山城 |
平山城・海城 |
築城時期(推定) |
永正3年(1506年)頃築城、永禄4年(1561年)に拡張 22 |
永禄8年(1565年) 8 |
規模 |
県内最大級(東西約1km、南北約650m) 3 |
不明(城山公園として整備) |
主たる機能 |
防衛拠点 |
軍事・経済複合拠点 |
戦略思想 |
内陸型防衛、国内のライバルとの抗争を想定 |
外向型展開、水軍力と海上交通を活用した広域活動を想定 |
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、中央の政治情勢は一変する。信長の勢力が若狭にまで及ぶと、逸見昌経は極めて現実的かつ迅速な決断を下した。彼は、若狭を間接支配下に置いていた朝倉氏に与する旧主・武田氏とは完全に袂を分かち、いち早く新興勢力である信長に臣従したのである 1 。これは、旧来の権威が失墜し、新たな権力者が台頭する戦国乱世において、地方の国衆が生き残りをかけて下した典型的な処世術であった。
信長は、昌経のような在地の実力者の価値を的確に見抜いていた。彼は昌経を、同じく若狭の国衆である粟屋勝久らと共に「若狭衆」として編成し、その筆頭格として処遇した 1 。これにより昌経は、自らの実力で勝ち取った若狭西部の支配権に対し、天下人・信長からの公的な承認、すなわち「お墨付き」を得ることになった。
この臣従は、単なる保身策に留まらなかった。昌経にとって、それは長年の宿願であった「若狭武田氏からの完全な独立」を、旧主よりもはるかに強大な新しい権威の承認という、最も確実な形で達成する、極めて合理的な戦略的帰結であった。武力で二度も果たせなかった目的を、彼は巧みな政治的判断によって実現したのである。
天正元年(1573年)、信長が朝倉義景を滅ぼすと、若狭一国は信長の重臣・丹羽長秀に与えられた 18 。これに伴い、昌経ら若狭衆は、若狭の統治者となった長秀の与力(軍事指揮下にある協力部隊)として、織田家の軍団に正式に組み込まれた 28 。一見すると、一国を支配する大名の配下となることは地位の低下のようにも見える。しかし、これは国衆の在地における支配権(所領)を一定程度認めつつも、織田家の直臣による上位からの統制下に置くという、信長の巧みな国衆統治政策の現れであった 32 。実質的に昌経は、旧主・武田氏と同格、あるいはそれ以上の存在として織田政権のヒエラルキーに組み込まれたことを意味し、彼の政治的地位は、反乱を繰り返していた頃とは比較にならないほど安定したものとなったのである。
織田信長に仕えた逸見昌経は、その能力を遺憾なく発揮し、キャリアの絶頂期を迎える。彼の活躍は、信長の信頼を勝ち取り、破格の厚遇へと繋がっていった。
天正3年(1575年)、織田軍が越前の一向一揆勢力の殲滅作戦を展開した際、昌経は若狭衆の一員としてこれに従軍した。特に彼は、高浜城を拠点とする水軍を率い、海上から一揆勢を攻撃する部隊の中核を担った 11 。この活躍は、信長の一代記である『信長公記』にも「海上進攻の軍勢」の一人として「逸見昌経」の名が明確に記されており、彼の水軍指揮官としての能力が織田政権内で高く評価されていたことを示している 11 。信長にとって、日本海側の物流と軍事行動を掌握する上で、昌経が持つ海への知見と水軍力は、計り知れない価値を持っていた。
信長は、昌経の忠誠と能力に報いることを惜しまなかった。まず、昌経が長年の抗争の末に確保した高浜を中心とする旧領5,000石の支配を正式に安堵した 1 。さらに後年、かつて武田方の武将であった武藤友益が改易されると、その旧領であった大飯郡石山(現在の福井県おおい町)の3,000石を昌経に加増したのである 1 。これにより、昌経の知行は合計8,000石に達した。これは若狭衆の中でも突出した石高であり、信長がいかに昌経を重視していたかを示す動かぬ証拠であった 1 。
昌経は単なる武人ではなかった。高浜の繁栄のために楽市のような政策をとり、経済の発展に寄与したとされ、領主としての「文」の側面も評価されている 37 。また、地域の総鎮守である佐伎治神社を現在の地に移転させるなど、在地領主としての役割も着実に果たしていた 38 。信長による厚遇は、昌経個人の能力への評価であると同時に、若狭という戦略的要衝を安定させるための、計算された政治的投資でもあった。
天正9年(1581年)2月28日、逸見昌経の生涯における栄光は頂点に達する。この日、織田信長は自らの権威を天下に示すため、京都の内裏東門前で前代未聞の大規模な軍事パレード、すなわち「京都御馬揃え」を挙行した。諸国の武将がきらびやかな衣装と武具を身にまとって行進する中、昌経は信長の親族や方面軍司令官らと共に、最も栄誉ある「一番衆」の一員として馬場入りを果たしたのである 1 。これは、彼が織田政権において、単なる地方国衆ではなく、重臣に準ずる格別の地位にあることを内外に証明する、象徴的な出来事であった。若狭の一国衆が、天下人の威光を示す晴れ舞台で、これほどの名誉ある役割を与えられたことは、まさに彼のキャリアの絶頂であった。
栄光の頂点を極めた逸見昌経を待っていたのは、あまりにも突然で、そして不可解な結末であった。
天正9年(1581年)、京都御馬揃えという生涯最高の晴れ舞台に臨んだわずか1、2ヶ月後の3月ないし4月、昌経は病により急死した 1 。その死は、まさにこれからという時の悲劇であった。しかし、より衝撃的だったのはその後の信長の処置である。信長は逸見氏の家督相続を認めず、8,000石に及ぶその所領を全て没収(改易)したのである 5 。これにより、若狭に一大勢力を築き、織田政権下で栄華を誇った逸見氏の嫡流は、歴史の表舞台から忽然と姿を消した。
この不可解な改易の理由は、公式には「昌経に子がいなかったため」と説明されることが多い 1 。しかし、この説明には疑問の余地がある。江戸時代の地誌『若狭郡県志』には、「源太虎清」という名の幼い遺児がいたものの、ほどなく夭折したという記述が残されているのである 1 。仮に幼い嫡子が存在した場合、戦国時代の慣習として、有力な家臣の後見のもとで家督相続が認められる例は決して少なくない。それを敢えて認めなかった信長の決定は、極めて厳しいものであった。
この逸見氏の改易は、単なる偶然や手続き上の問題ではなく、信長による意図的な「勢力解体政策」の一環であった可能性が極めて高い。昌経は、元をただせば主家に二度も反乱を起こした危険人物であり、その実力は8,000石という強大な勢力にまで成長していた。信長にとって、そのような潜在的リスクを内包する有力国衆を、当主の死という代替わりの機会に整理・解体したいと考えるのは、彼の合理的な思考からすれば自然なことであった。事実、信長は同時期に、譜代の重臣であった佐久間信盛・信栄父子を、過去の失策を理由に突如追放するなど、非情な人事を行っている。
この推測を裏付けるかのように、昌経の死後、その旧領の一部である石山3,000石は、かつての若狭守護家の当主であり、朝倉氏に軟禁された後、信長によって解放されていた武田元明に与えられている 18 。これは、強大な実力者であった逸見氏を排除した後の若狭を、かつての権威はあるが実力は乏しく、より統制しやすい元明のような人物に分割して統治させるという、信長の高度な政治的計算が働いていたことを示唆している。
逸見昌経の死と一族の断絶は、彼の個人的な悲劇であると同時に、織田政権における国衆支配のあり方が、彼らを利用・活用する段階から、より直接的な支配体制を構築するために解体・再編する段階へと移行する、画期的な事件であったと結論付けられる。昌経は、その生涯の最後に、自らが適応しようとした新時代の非情な論理によって、その存在そのものを消し去られたのである。
なお、逸見氏の血脈が完全に途絶えたわけではなく、昌経の弟・経久の子である昌久が、後に徳川譜代大名の奥平信昌に仕え、その家系は幕末まで続いたと伝えられている 1 。
逸見昌経は、その生涯を通じて、多面的で複雑な貌を見せた武将であった。主家を裏切り、若狭に戦乱を招いた「反逆者」という側面を持つ一方で、旧弊な権威に果敢に挑み、時代の変化を鋭敏に読み解いて新たな覇者に仕えた「時代の先駆者」という顔も併せ持つ。彼の行動は、結果として若狭武田氏の支配を終わらせ、若狭国を織田信長という中央政権の統治下へと導く決定的な役割を果たした。その生涯は、守護大名体制が崩壊し、国衆が乱立する戦国乱世における地方勢力の熾烈な生き残り戦略と、やがて中央集権化という巨大な潮流に飲み込まれていく様を、まさに克明に示している。彼は「下剋上」を体現して一時は成功を収めたが、最終的には自らが仕えた、より大きな権力構造の中に吸収され、消滅した。
全国的な知名度こそ高くはないものの、逸見昌経が若狭の歴史、特に現在の福井県高浜町の歴史に残した足跡は大きい。彼の治世は、高浜の経済発展に寄与し、現在の町の礎を築いたと評価されている 37 。その遺産は、現代にも確かに受け継がれている。
近年、昌経に対する再評価の機運は著しく高まっている。2022年が生誕500年にあたることなどを契機に、彼の拠点であった砕導山城跡の価値が見直され、「砕導山城跡保存会」が発足。城跡の整備や魅力発信が進められ、国の史跡指定を目指す活動が地域全体で活発化している 3 。さらに、かつて高浜町郷土資料館に設置されていた昌経の銅像が、彼の築いた高浜城の跡地である城山公園に移設され、地域史における英雄としての存在感を一層強めている 11 。
逸見昌経は、若狭という一地域を舞台に、時代の転換点を駆け抜けた、極めて重要かつ魅力的な人物である。その忠と叛、栄光と悲劇に彩られた生涯は、現代に生きる我々に対し、乱世における権力、戦略、そして人間の宿命について、多くの深い示唆を与え続けている。