遠山弥八郎は戦国から江戸初期の直江津商人。直江津は日本海交易の要衝で、上杉氏の経済を支え、青苧が重要産品だった。彼は激動の時代を生き抜いた有力商人。
日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、越後国(現在の新潟県)の港町・直江津にその生を享け、活動した商人、遠山弥八郎。彼の存在を直接的に示す史料は極めて限られている。現在確認されているのは、「(1569-1642)直江津の商人。直江津は直江津港を擁する港町。直江津港は日本最古の船法度である「廻船式目」で「三津七湊」の1つに数えられた。上杉家などが支配した」という簡潔な記述のみである 1 。この一行は、彼の生没年、身分、そして活動の舞台となった直江津の歴史的重要性を示唆する、貴重な出発点である。
しかし、この一点を除き、遠山弥八郎個人の具体的な商業活動や生涯の軌跡を物語る一次史料は、広範な調査にもかかわらず見出すことができない。これは、本調査の限界を示すものではなく、むしろ当時の歴史記録の性質そのものを反映している。戦国から江戸初期にかけての記録は、その多くが武家階級の視点から、彼らの治績、合戦、家督相続といった政治的・軍事的出来事を主として編纂された 2 。商人が歴史の表舞台に登場するのは、蔵田五郎左衛門のように領主の財政や統治に深く関与した政商 4 、あるいは納屋助左衛門のように天下人と直接的な関係を持った豪商など 5 、極めて例外的な場合に限られる。したがって、遠山弥八郎に関する記録の不在は、彼が歴史的に重要でなかったことを意味するのではなく、むしろ当時の多くの有力商人が置かれた「典型的」な状況を象徴している可能性がある。
本報告書は、この「記録の不在」という壁を乗り越えるため、遠山弥八郎という「点」を直接的に描くことを試みるのではなく、彼が生きた時代と社会環境、すなわち「戦国・江戸初期の直江津」という社会経済的文脈を徹底的に再構築し、その中に彼を位置づけることで、その人物像に可能な限り迫るというアプローチを採用する。彼の73年間の生涯は、直江津という港町の盛衰、支配者である上杉氏の興亡、そして日本海交易のダイナミズムと不可分であったはずである。本報告は、彼を取り巻く世界を多角的に分析することを通じて、歴史の記録からこぼれ落ちた一人の商人の輪郭を、確かな実体をもって浮かび上がらせることを目的とする。
遠山弥八郎の生涯を理解する上で、その活動拠点であった直江津が、当時いかなる性格を持つ都市であったかを把握することは不可欠である。直江津は単なる地方の港町ではなく、国家的規模の交易網における戦略的要衝であった。
直江津港の歴史は古く、奈良時代にはすでに「水門都宇(みなとのつ)」の名で史書に登場し、越後国府の要港として栄えていた 7 。その重要性は中世においてさらに高まる。鎌倉時代に成立したとされる日本最古の海事法規集『廻船式目』には、当時の日本を代表する十大港湾として「三津七湊(さんしんしちそう)」が挙げられているが、直江津は「今町湊(いまちみなと)」の名でその一つに数えられている 9 。これは、直江津が全国的に認知された交易ネットワークの基幹港湾であり、日本海海運における東西航路を結節する一大拠点であったことを明確に示している。
戦国時代、長尾景虎(後の上杉謙信)が越後を統一し、春日山城を本拠とすると、直江津の戦略的価値は飛躍的に増大した。直江津は、春日山城にとって不可欠の外港(が いこう)であり、政治・軍事拠点と経済拠点を結ぶ生命線であった 13 。謙信の時代、越後府中は「人口6万人を数え京都に次ぐ大都市」と形容されるほどの繁栄を誇ったとされ、その経済活動の中心こそが直江津港であった 7 。
上杉氏にとって直江津は、領国で生産される米や特産品を畿内や西国へ移出するための窓口であり、同時に、領国に必要な鉄や塩、その他の物資を輸入する玄関口でもあった。軍事的には、遠征の際の兵糧や武具の集積・輸送基地として機能し、上杉氏の強力な軍事力を経済面から支える大動脈だったのである。
直江津の重要性は、単に経済的なものに留まらなかった。室町時代に成立した『義経記』には、奥州へ逃れる源義経一行が、直江津を「北陸道の中途」と捉え、ここを境に西からは熊野の山伏が、東からは羽黒の山伏が行き交う場所であると偽ろうと画策する場面がある 10 。また、同時代の謡曲『婆相天』では、直江津にいた「問(とい)の左衛門」のもとから、姉弟がそれぞれ東国と西国から来た船の船頭に売られるという筋書きが描かれている 10 。
これらの記述は、直江津が古くから人々の意識の中で、東西日本の文化や人々が交わる結節点、一種の境界都市として認識されていたことを示している。このような環境は、多様な地域からの人、モノ、そして情報が集積する土壌を育んだ。遠山弥八郎のような商人は、日々行き交う船乗りや他の商人たちから、各地の物価の動向、政治情勢、新たな商機といった貴重な情報を得ることができ、広範な情報網と多様な取引先を構築する上で、極めて有利な立場にあったと推察される。
このように、直江津は政治的には京都から遠い越後の一都市でありながら、経済的には日本海交易網の中心の一つとして機能するという「二重性」を持っていた。この政治的辺境性と経済的中心性の共存こそが、上杉氏のような地方権力と、遠山弥八郎のような商人との間に、中央の権力構造とは異なる独特の相互依存関係を生み出す背景となったのである。
遠山弥八郎が商人として活動した時代の直江津は、上杉氏の強固な支配下にあった。したがって、彼の商業活動は、上杉氏の経済政策と密接不可分な関係にあったと考えられる。上杉謙信は、戦国最強と謳われた軍事力だけでなく、その力を支える巧みな経済手腕をも持ち合わせていた。
上杉謙信は、領国の経済的繁栄の鍵が港湾にあることを深く理解していた。彼は、春日山城の外港である直江津と、信濃川水系の物資が集まる柏崎という二大港湾を確実に掌握し、日本海海運を通じて得られる利益を領国経営の柱の一つとした 14 。
その具体的な政策として特筆すべきは、永禄三年(1560年)五月に、府内(直江津)に対して発布した「御掟状」である 10 。この中で謙信は、直江津に入港する船とその積荷に対して課せられていた諸役(税金)を免除することを宣言している。条文には「茶ノ役」や「清濁酒役」、さらには「鉄役」といった具体的な品目が挙げられており、これらの物資の自由な取引を奨励することで、港の活性化と物資の集積を図ったことがうかがえる 10 。これは、特定の産業を育成するための「経済特区」にも似た、当時としては先進的な経済政策であり、直江津の商人たちにとっては大きな恩恵であったに違いない。遠山弥八郎もまた、この政策の下で商機を拡大した一人であっただろう。
上杉氏の財源について語られる際、最も頻繁に言及されるのが、越後の特産品であった「青苧(あおそ)」である 15 。青苧は、苧(からむし)という麻の一種の繊維であり、木綿が普及する以前の時代において、越後上布や奈良晒といった高級織物の原料として極めて珍重された 16 。魚沼地方などを主産地とする青苧は、直江津や柏崎の港から船で畿内へ運ばれ、上杉氏に莫大な利益をもたらしたというのが通説である 16 。
この青苧交易を管理するために、上杉氏は「青苧座」と呼ばれる同業組合を組織させ、その商人たちから「座役(ざやく)」、すなわち営業税を徴収していた 14 。この青苧座の統轄を任されていたのが、後述する御用商人の蔵田五郎左衛門であった 22 。
しかし、この「謙信の富は青苧にあり」という通説には、近年の研究から再検討が促されている。上越市公文書センターの専門家によれば、謙信時代の財政状況を示す直接的な史料が乏しく、青苧が上杉家の財政を支えていたという説を実証する一次史料は現在のところ確認されていない 23 。むしろ、謙信の父・長尾為景の時代に遡ると、青苧座の本来の本所(利権の源泉)であった京都の公家・三条西家への年貢(座役)支払いをめぐって、為景の家臣である蔵田五郎左衛門が減額交渉を行い、最終的には定額化した上、その支払いすら滞納していた記録が『実隆公記』に残されている 23 。これは、戦国時代を通じて、地方の戦国大名が中央の公家や寺社が持っていた伝統的な利権を実力で蚕食し、自らの支配下に組み込んでいくという、下剋上の経済版ともいえる動きを示している。
これらの事実を総合すると、上杉氏が青苧交易から大きな利益を得ていたことは間違いないものの、それが唯一絶対の財源であったと考えるのは単純化に過ぎるかもしれない。上杉氏の強大な経済力は、青苧交易からの利益に加え、領内にあった金銀山の経営、そして広大な領地から得られる年貢米など、複数の収入源によって多角的に支えられていたと考えるのが、より実像に近いだろう。
上杉氏は、領国の経済を直接管理するのではなく、蔵田五郎左衛門のような有力な「御用商人」を介して、巧みに統制していた。彼らに青苧座の統轄や町の管理といった特権的な地位を与える見返りに、安定した税収と、有事の際の物資調達ルートを確保したのである 4 。
一方、商人たちは、領主である上杉氏の権威を後ろ盾とすることで、商業活動における優位性を確立し、莫大な富を築くことができた。これは、領主と商人が互いの利益のために結びついた、一種の共生関係であったと言える。遠山弥八郎もまた、この権力と経済が緊密に結びついた構造の中で活動する、有力な商人の一人であったと位置づけることができる。彼が扱った商品も、青苧に限定されず、米、塩、鉄、酒、さらには北方の海産物など、多岐にわたっていたと考えるのが自然であろう。
遠山弥八郎個人の記録は乏しいが、彼が生きた時代背景、同じ直江津で活動した他の商人の事例、そして当時の商業形態を分析することで、その人物像を立体的に浮かび上がらせることが可能である。
遠山弥八郎の生没年である1569年から1642年は、日本史における最も劇的な転換期の一つに重なる 1 。彼の73年間の生涯は、戦国の動乱の終焉から、徳川幕府による泰平の世の確立までを内包している。
彼の青年期(1569年~1598年頃)は、上杉謙信の死(1578年)と、その後継を巡る家中の内乱「御館の乱」に始まり、上杉景勝と直江兼続による新体制が確立される時代であった。この時期、直江津は依然として上杉氏の経済的中心地として機能しており、若き弥八郎も商人としてのキャリアをこの活気ある港町でスタートさせたとみられる。
彼の壮年期は、慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封という、直江津の商人たちにとって激震ともいえる出来事と共に始まる。長年続いた上杉氏との関係が断ち切られ、新たな領主として堀氏、次いで松平氏が越後を支配する中で、弥八郎は新たな権力構造への適応を迫られた。これは商人としての真価が問われる試練の時であっただろう。
そして彼の晩年期は、大坂の陣を経て徳川幕府の支配体制が盤石となり、社会全体が安定へと向かう時代と重なる。弥八郎は、この近世社会の到来を商人として経験し、1642年にその生涯を閉じた。彼の生涯は、まさに戦国から近世への移行期を、一人の商人として生き抜いた証そのものである。
遠山弥八郎の具体的な活動を類推する上で、同時代に直江津で活躍した上杉氏の御用商人、蔵田五郎左衛門の存在は、極めて重要なモデルケースとなる。
蔵田五郎左衛門は、単なる一介の商人ではなかった。彼は上杉氏の家臣として、越後の最重要産品であった青苧の流通を独占的に管理する「越後青苧座」の頭目を務めた 22 。さらにその役割は経済面に留まらず、上杉謙信が関東に出陣した際には、本拠地である春日山城の留守居役を任され、城の普請や倉の管理、さらには城下である府内(直江津)の町政、防火対策に至るまで、領国経営の中枢に関わる行政官的な役割を担っていた 4 。
彼の力の源泉を理解する上で見逃せないのが、その出自である。蔵田氏は元々、伊勢神宮の布教活動を担う「御師(おんし)」であった 4 。御師は、伊勢信仰を全国に広める過程で、各地の有力者と「檀那(だんな)」と呼ばれる宗教的な結びつきを構築していた 27 。この檀那のネットワークは、単なる宗教組織ではなく、人と情報、物資が往来する広域の商業・情報ネットワークとしても機能したのである 28 。蔵田氏が上杉氏の御用商人として絶大な信頼を得た背景には、この伊勢御師として培った広範なネットワークと情報収集能力があったことは想像に難くない。
さらに重要なのは、「蔵田五郎左衛門」という名が、個人名ではなく、少なくとも三代にわたって襲名された名跡であったことである 4 。これは、蔵田家が一代限りの成功者ではなく、上杉氏との強固な関係を基盤として、その特権的な地位を世襲する「商家」として、永続的な経営を行っていたことを示している。
蔵田氏のような突出した存在だけでなく、当時の直江津には多くの商人が活動していた。彼らは、同業者組合である「座」を組織し、領主から営業の独占権を認められる見返りに、座役(税金)を納めていたと考えられる 20 。
また、室町時代から京都などで顕著に見られるように、酒の醸造・販売を行う「酒屋」や、物品を担保に高利で金銭を貸し付ける「土倉(どそう)」は、莫大な富を生み出す事業であった 29 。富を蓄えた商人が酒屋や土倉を兼業したり、その逆のケースも多く、これらは中世都市の経済を牽引する存在だった 32 。直江津においても、上杉謙信の掟状に「清濁酒役」が見えることから、酒の取引が盛んであったことがわかり 10 、海運業や商品売買に加え、こうした金融業が町の経済の重要な要素を占めていた可能性は高い。
一方で、和泉国の堺における「会合衆(えごうしゅう)」 33 や、筑前国の博多における「年行事(ねんぎょうじ)」 35 のように、大名権力から半ば独立した強力な自治組織が直江津に存在したとは考えにくい。蔵田氏が町の管理を任されていたように、直江津の有力商人たちは「町年寄(まちどしより)」のような自治の担い手でありつつも、その権限はあくまで領主である上杉氏の統制下に置かれた、いわば「被官」に近い立場であったと推測される 37 。
以上の分析を踏まえると、遠山弥八郎の人物像がより具体的に見えてくる。彼は、蔵田五郎左衛門のような領国経営の中枢にまで関わる「政商」であったか、あるいはそれに次ぐ有力な廻船商人であった可能性が高い。
彼の商業活動の中心は、自身の船を用いて商品を輸送・売買する廻船業であっただろう。その積荷は、越後の青苧や米、日本海の海産物、畿内や西国から運ばれる塩、鉄、古着、酒など、多岐にわたっていたと推測される。
蔵田五郎左衛門が上杉氏の「公式」な経済ルートを担う存在であったとすれば、遠山弥八郎は、より広範な「民間」の交易ネットワークの中で活動していたのかもしれない。彼の記録が少ないのは、蔵田氏ほど政治的な役割を担わず、純粋な商業活動に専念していたがゆえに、武家の公的な記録にその名が記される機会が少なかった結果とも考えられる。しかし、それは彼の重要性が低かったことを意味しない。むしろ、蔵田氏のようなトップ層の商人と連携しつつ、直江津の経済を実質的に動かしていた、数多くの商人層を代表する存在であったと見ることができる。
表1:戦国期における主要港町の有力商人の比較 |
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人物 (都市) |
活動時期 |
主な交易品 |
支配大名との関係 |
組織・背景 |
特筆すべき活動 |
蔵田五郎左衛門 (越後・直江津) |
16世紀 |
青苧、米、鉄、塩 |
【従属・協調型】 御用商人として領国経営に深く関与 |
越後青苧座、伊勢御師ネットワーク |
府内・春日山城の管理、対公家交渉 4 |
納屋助左衛門 (和泉・堺) |
16世紀末 |
呂宋壺、生糸、火薬 |
【対等・交渉型】 独立した自治都市を背景に天下人と直接交渉 |
会合衆、納屋衆 |
呂宋(フィリピン)との交易、豊臣秀吉への献上 5 |
島井宗室・神屋宗湛 (筑前・博多) |
16世紀末~17世紀初頭 |
生糸、朝鮮人参、銀 |
【戦略的提携型】 大名の支配を経済的に支援し、見返りに特権を獲得 |
年行事 |
本能寺の変に遭遇、秀吉の九州平定・朝鮮出兵を支援 35 |
この比較から明らかなように、堺や博多の商人が、強力な自治組織を背景に大名と対等に近い立場で交渉したのに対し、直江津の商人は、より領主との従属・協調関係の中で活動していたことがうかがえる。遠山弥八郎もまた、この「従属・協調型」の商人として、領主の権威を利用しつつ、自身の商業帝国を築き上げていった人物であったと結論付けられる。
遠山弥八郎の商活動は、直江津という一港町に閉じたものではなく、日本海を舞台とした広大な交易ネットワークの中に位置づけられる。彼のような廻船商人の活動こそが、戦国時代においても日本列島が多様な地域間交流によって結ばれていたことを証明している。
江戸時代中期から明治にかけて、大坂と蝦夷地(北海道)を日本海回りで結び、寄港地で商品を売買しながら航行した「北前船」は、日本の経済史において重要な役割を果たした 44 。この「動く総合商社」とも称される北前船の航路と交易形態は、実は戦国時代にその原型が形成されていた。直江津は、この日本海大動脈の重要な中継地であり、遠山弥八郎のような商人は、その黎明期の担い手であったと言える。彼らは春に南の港を出て、日本海沿岸の各港で商品を売買しながら北上し、秋に南へ戻るという、季節風を利用した航海を行っていたと考えられる。
越後の経済を中央と結びつける上で、最も重要なルートが若狭(現在の福井県)の小浜港を経由するものであった。越後で生産された青苧や米などの物資は、「芋船」や「越後船」と呼ばれる船で直江津や柏崎から日本海を南下し、小浜港で陸揚げされた 47 。そこからは陸路と琵琶湖の水運を利用して、京都や奈良といった大消費地へと運ばれたのである 16 。
このルートは、越後の産物にとって最大の市場へのアクセスを意味し、直江津の商人にとっては生命線とも言える販路であった。一方で、このルートの支配を巡っては、越後の上杉氏と、青苧座の本所としての利権を主張する京都の公家・三条西家や、若狭の守護・武田氏との間で、越後船の差し押さえなどの激しい対立も生じており、商人は常に政治的な緊張関係の中で巧みに立ち回る必要があった 47 。
直江津の交易網は、南の畿内だけでなく、北の蝦夷地にも広がっていた。戦国時代にはすでに、和人(本州の日本人)が蝦夷地の南端部に拠点を築き、先住民であるアイヌとの交易を行っていた 49 。
和人側は、アイヌの人々にとって貴重品であった米、酒、鉄製品(刀や鍋)、漆器などを持ち込み、その見返りとして、蝦夷地で豊富に獲れる熊や鹿の毛皮、猛禽類の羽(矢羽の材料)、そして昆布、干し魚(干し鱈、身欠き鰊など)、鮭といった海産物を入手した 51 。
直江津は、この北方交易の拠点の一つとしても重要な役割を担っていた。越後の米や青苧を蝦夷地で売り、そこで仕入れた海産物や毛皮を直江津に持ち帰り、さらにそれを畿内方面へ送るという中継貿易は、大きな利益を生む商機であった 53 。遠山弥八郎の船団もまた、この南北に広がるダイナミックな交易網を往来していたことであろう。
彼が扱う商品は、単なるモノの移動にとどまらなかった。それは、異なる地域の経済と文化を結びつけ、相互依存関係を創出する媒体であった。例えば、越後の青苧は京・奈良の高級織物産業を支え、蝦夷地のニシンは西日本の綿花栽培を促進する肥料となり、瀬戸内の塩や畿内の鉄製品は、北国の食生活と生産活動に不可欠であった 46 。遠山弥八郎のような商人の活動は、個々の利潤追求活動であると同時に、これらの地域間分業と経済的相互依存関係を深化させ、日本列島全体の経済的統合を促す、マクロな歴史の原動力の一部をなしていたのである。
遠山弥八郎の生涯の半ば、慶長3年(1598年)に、彼の活動の舞台であった直江津を根底から揺るがす大事件が起こる。豊臣秀吉の命による、主君・上杉景勝の会津120万石への国替えである。これは、弥八郎をはじめとする直江津の商人たちにとって、最大の危機であり、同時に商人としての真価を問われる転換点であった。
上杉氏の会津移封は、単に領主が変わるという以上の意味を持っていた。上杉氏は、憲顕の時代から数世紀にわたり越後を支配し、特に謙信・景勝の時代には、直江津の商人たちと密接な共生関係を築き上げてきた 54 。この移封により、商人たちは長年依存してきた強力なパトロンを失い、これまで享受してきた商業上の特権や保護がすべて白紙に戻る可能性に直面したのである 55 。
上杉家に従って会津や、後の米沢へ移住した家臣や商人も少なくなかった 56 。しかし、遠山弥八郎は直江津に留まった。彼のような商人たちは、新たな支配者である堀秀治、そしてその後の松平忠輝といった新領主との関係を、ゼロから構築し直さなければならなかった。
新領主となった堀氏は、上杉氏の居城であった春日山城を廃し、港に近い直江津に新たに福島城を築き、城下町を移転させるという大規模な都市改造を行った 13 。これにより、町の物理的な構造が変化し、商人たちは移転や商圏の再編を余儀なくされた。
さらに慶長19年(1614年)、徳川家康の六男・松平忠輝が高田に新たな城を築いて居城を移すと、地域の政治的中心は内陸の高田へと移った 13 。これにより、直江津は政治的中心地としての性格を薄め、純粋な港湾都市、商業都市としての性格をより強めていくことになった。
遠山弥八郎が1642年に73歳で亡くなるまで、直江津は北前船の重要な寄港地として、経済的な繁栄を維持し続けた 13 。彼の後半生は、戦国時代的な領主との人格的な結びつきに依存した「政商」としてのあり方から、徳川幕府による安定した幕藩体制の下で、定められた法規と市場原理に基づいて活動する「近世的商人」へと、その役割と経営スタイルを変革させていく過程であったと推察される。
上杉氏の移封という最大の危機を乗り越え、支配者が次々と変わる混乱期を生き抜き、泰平の世の到来を見届けて大往生を遂げたという事実は、彼が極めて優れた判断力、交渉力、そして変化に対応する強靭な適応力を持った商人であったことを何よりも雄弁に物語っている。彼の商業基盤は、特定の一大名への依存を超えた、より普遍的な信用と広範な交易ネットワークの上に築かれていたのであろう。そのレジリエンス(強靭性)こそが、激動の時代を生き抜くための最大の武器だったのである。
本報告書は、戦国時代の商人・遠山弥八郎という、歴史記録の中にわずかな痕跡しか残さない人物を対象に、その実像に迫ることを試みた。直接的な史料の欠如という制約に対し、彼が生きた時代と場所、すなわち戦国末期から江戸初期にかけての港町・直江津の社会経済的環境を多角的に再構築するというアプローチを取った。
その分析を通じて、以下の点が明らかになった。
第一に、遠山弥八郎の活動舞台であった直江津は、単なる地方港ではなく、『廻船式目』に名を連ねる日本有数の港湾であり、上杉氏の経済力を支える戦略的拠点であった。彼は、この活気ある交易の中心地で、大きな商機を掴むことができた。
第二に、彼は、上杉氏の経済政策、特に港湾振興策の恩恵を受けつつ、領主と密接な関係を築いた有力商人であったと推測される。その活動は、蔵田五郎左衛門という御用商人のモデルケースから類推できるように、単なる商品売買に留まらず、領主への資金・物資提供など、半ば公的な役割を担っていた可能性も否定できない。
第三に、彼の商活動は、日本海を舞台とする広域交易ネットワークの中にあった。南は畿内、北は蝦夷地まで広がる交易ルートを通じて、青苧、米、塩、鉄、海産物など多様な商品を扱い、地域間経済の結びつきを強める役割を果たした。彼の活動は、近世の北前船交易の先駆をなすものであった。
第四に、彼の73年間の生涯は、上杉氏の移封という政治的激動を乗り越え、戦国の乱世から徳川の泰平の世へと移行する時代の大きなうねりを体現している。その長寿は、特定の権力者への依存だけでなく、変化に対応する強靭な適応力と、揺るぎない商業基盤を築いていたことの証左である。
結論として、遠山弥八郎という一個人の記録は歴史の影に埋もれている。しかし、彼を取り巻く世界を丹念に描き出すことで、一人の商人の輪郭は、確かな実体と具体性をもって我々の前に浮かび上がってくる。それは、戦国乱世の荒波を乗りこなし、新たな時代の礎を築いた、名もなき商人たちの強靭な生命力と、歴史創造における彼らの重要な役割を物語る、一つの貴重な事例と言えるだろう。