戦国時代の日本列島において、歴史の表舞台で活躍する織田信長や武田信玄のような大名の影には、彼ら大国の狭間で生き残りをかけて苦闘した数多の地方領主、すなわち「国衆」が存在した。美濃国恵那郡の岩村城主・遠山景任(とおやま かげとう)もまた、そうした国衆の一人である。彼の生涯は、単なる一武将の物語にとどまらず、大国間のパワーバランスの中で地方勢力が如何に立ち回り、そして如何に翻弄され、淘汰されていったかを示す、戦国時代の縮図ともいえる。
遠山景任が本拠とした美濃国東部、いわゆる東濃地方は、地政学的に極めて重要な位置を占めていた。西には尾張の織田氏、東には信濃から勢力を伸ばす甲斐の武田氏、そして南には三河の徳川(松平)氏という、当代屈指の勢力がひしめき合う、まさに力の緩衝地帯であった 1 。この地理的条件は、遠山氏の外交方針に決定的な影響を与えた。いずれか一方の勢力に完全に与することは、もう一方からの即時侵攻を招く危険をはらむため、複数の大国に巧みに従属する「両属」という選択は、彼らにとって必然であった 1 。
本報告書では、遠山景任を、この危うい均衡を保つための「バランサー」として位置づける。彼の存在は、織田信長と武田信玄の間に結ばれた一時的な同盟関係(甲尾同盟)を、婚姻を通じて支える重要な楔(くさび)であった 3 。しかし、その死は単なる一城主の逝去ではなかった。彼という重石が失われたことで東濃のパワーバランスは崩壊し、この地は織田・武田両氏による苛烈な争奪戦の舞台と化す。結果として、景任の死は、両大名の全面衝突に至る大きな引き金の一つとなったのである 5 。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国大名による中央集権化の過程で、国衆という存在がいかにして歴史の波に呑み込まれていったかという、より大きな歴史的変遷を解き明かす鍵となる。
西暦 (和暦) |
遠山景任・岩村遠山氏の動向 |
遠山一族(苗木・明知等)の動向 |
織田氏・武田氏の関連動向 |
1555 (弘治元) |
父・景前が岩村城を武田晴信(信玄)に攻められ、降伏・臣従する 1 。 |
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武田氏が東美濃へ侵攻。 |
1556 (弘治二) |
父・景前の死に伴い、武田氏の後援を得て家督を相続する 7 。 |
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1558 (永禄元) |
武田方の軍事行動の一環として、奥三河の今川領へ侵攻(名倉船戸橋の戦い) 1 。 |
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時期不明 |
織田信長の叔母・おつやの方を正室に迎える 1 。 |
弟・直廉(苗木城主)も織田信長の妹(一説)を娶る 10 。 |
織田氏が東濃への影響力拡大のため婚姻政策を進める。 |
1565 (永禄八) |
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遠山直廉の娘(龍勝院)が信長の養女として武田勝頼に嫁ぐ 12 。 |
甲尾同盟が成立する。 |
1570 (元亀元) |
上村合戦には参戦せず、武田・織田両氏に対し中立を維持する 1 。 |
明知遠山景行らが織田・徳川方として上村合戦に参戦し、武田方の秋山虎繁に大敗する 11 。 |
秋山虎繁が徳川領侵攻の途上で遠山領を通過。 |
1572 (元亀三) |
8月14日、病死する 1 。これにより岩村遠山氏の直系が断絶。 |
兄に先立ち、弟・直廉も死去(一説に戦傷死) 5 。 |
5月頃、遠山兄弟の死が信玄にも衝撃を与える 11 。 |
〃 |
10月、信長の五男・御坊丸が養子として入城。おつやの方が後見人となる 14 。 |
飯羽間遠山友勝が信長の命で苗木遠山氏を継ぐ 16 。 |
信長が岩村城の家督に介入し、事実上支配下に置く。 |
〃 |
11月、岩村衆が信長の介入に反発し、武田方へ帰属。秋山虎繁が入城し、おつやの方と婚姻 5 。 |
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11月、信玄が西上作戦を開始。 |
〃 |
12月、御坊丸は人質として甲斐へ送られる 1 。 |
明知遠山景行が上村合戦の敗戦で戦死 11 。 |
信長が明知遠山氏らに岩村城を攻めさせるが、上村合戦で敗北 5 。 |
1575 (天正三) |
11月21日、織田信忠軍に岩村城が開城。おつやの方は秋山虎繁と共に処刑され、岩村遠山氏は滅亡する 5 。 |
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5月、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に大勝。6月より信忠が岩村城を包囲 5 。 |
美濃遠山氏の歴史は、鎌倉時代初期にまで遡る。その祖とされるのは、藤原利仁の流れを汲む加藤景廉である。景廉は源頼朝の重臣として治承・寿永の乱で功績を挙げ、その恩賞として文治元年(1185年)に美濃国遠山荘の地頭職を与えられた 1 。景廉自身は鎌倉にあって現地に赴任しなかったが、その子の景朝が父の遺領を継ぎ、遠山荘に下向して「遠山」の姓を名乗った。これが遠山氏の始まりである 7 。景朝は承久の乱(1221年)の後、本拠地として岩村に城を構え、岩村遠山氏の基礎を築いた 1 。
鎌倉時代から室町時代にかけて、遠山氏は一族を繁栄させ、遠山荘の各地に分家していった。戦国時代には、岩村、苗木、明知、飯羽間、串原、明照、安木(阿木)などを拠点とする七つの有力な家が「遠山七頭(しちとう)」または「七遠山」と総称されるようになった 8 。
この中で、景朝の嫡流である岩村遠山氏は一族の「惣領家」と位置づけられていた 8 。しかし、その支配体制は中央集権的なものではなく、各分家は高い独立性を保つ国衆の連合体に近かった 4 。特に、惣領家の岩村、そして苗木、明知の三家は「三遠山(さんとうやま)」または「遠山三頭」と呼ばれ、七頭の中でも突出した力を持っていた 1 。室町時代の『蔭涼軒日録』には「遠山には三魁がある。第一は苗木、第二は明知、第三は岩村」と記されており、時期によっては惣領家である岩村の権威が他の分家を下回ることもあったことを示唆している 7 。この権力構造の分散は、一族の結束を促す一方で、常に内部分裂の危険性を内包していた。惣領家の当主には、軍事力だけでなく、婚姻や調停を通じて一族をまとめ上げる高度な政治力が求められたのである。
遠山景任の父・景前(かげまえ)が当主であった16世紀半ば、東濃を取り巻く情勢は大きく変動する 1 。長年美濃を治めてきた守護・土岐氏が内紛により衰退し、代わって斎藤道三が国盗りを実現 1 。時を同じくして、東方の信濃国では甲斐の武田晴信(信玄)が急速に勢力を拡大し、その矛先を美濃へと向け始めた 23 。
天文23年(1554年)、武田軍は遠山領と隣接する信濃伊那郡を制圧。翌弘治元年(1555年)、ついに東美濃へ侵攻し、岩村城を包囲した 1 。この攻撃に対し、遠山景前は抗戦の末に降伏し、武田氏への臣従を余儀なくされた 1 。この出来事は、遠山氏にとって大きな転換点であった。景任は、父からこの「武田への従属」という政治的遺産を受け継ぐことになり、彼の代まで続く武田氏との複雑な関係がここから始まったのである。
家名 (拠点城郭) |
主要人物 |
遠山景任との関係 |
織田・武田との関係性の傾向 |
備考 |
岩村遠山氏 (岩村城) |
遠山景任 |
本人(惣領家当主) |
両属 (武田に従属しつつ、織田と婚姻) |
景任の死後、武田方に帰属するも、最終的に織田信忠により滅亡 7 。 |
苗木遠山氏 (苗木城) |
遠山直廉 |
実弟 |
両属 (兄・景任と同様) |
直廉も織田家と婚姻。彼の死後、飯羽間遠山氏が継ぎ、最終的に徳川家康に従い大名として存続 8 。 |
明知遠山氏 (明知城) |
遠山景行 |
一族(分家当主) |
親織田 |
上村合戦で織田方として戦死 11 。一時城を失うが、徳川家康に従い旗本として存続 8 。 |
飯羽間遠山氏 (飯羽間城) |
遠山友勝 |
一族 |
親織田 |
直廉の死後、信長の命で苗木遠山氏を継承 16 。 |
串原遠山氏 (串原城) |
遠山景男 |
一族 |
親織田 |
上村合戦に参加。武田に城を追われた後、明知遠山氏に仕え存続 8 。 |
明照遠山氏 (阿寺城) |
遠山友忠 |
一族(直廉の死後、友勝の子が入る) |
親織田 |
武田の侵攻により当主が戦死し、断絶 8 。 |
安木遠山氏 (安木城) |
不明 |
一族 |
不明 |
武田の侵攻により滅亡したとされる 4 。 |
弘治2年(1556年)、父・景前の死を受けて、遠山景任は岩村遠山氏の家督を相続した 7 。この家督相続に際しては一族内で争いがあったとされ、武田信玄が軍事力を背景に介入し、景任の当主就任を後押ししたと見られている 8 。この経緯は、景任のその後の政治的立場を強く規定するものとなった。父の代からの武田氏への従属関係を継承し、信玄の後援という形でその結びつきは一層強固なものとなったのである。
一方で、景任は西方の尾張国で急速に勢力を拡大する織田信長との関係構築にも動いた。時期は明確ではないが、景任は信長の叔母にあたるおつやの方(織田信定の娘)を正室として迎えた 1 。これは、美濃攻略を進める信長が、東濃の有力国衆である遠山氏を自陣営に取り込むための政略結婚であった 9 。
この婚姻政策は岩村遠山氏だけにとどまらなかった。景任の実弟で、分家である苗木城主となっていた遠山直廉もまた、信長の妹(あるいは一族の娘)を妻に迎えている 10 。これにより、遠山七頭の中核をなす岩村・苗木の両家が、織田家と二重の姻戚関係で結ばれることになった。この結果、遠山氏は武田に従属しつつも織田とも縁戚となる、極めて複雑な「両属」状態を現出させた。景任は単に大国に翻弄されるだけでなく、この両属関係を巧みに利用し、両大国間の外交を仲介する存在として、自らの政治的価値を高めていった。特に、弟・直廉の娘が信長の養女として武田信玄の嫡男・勝頼に嫁いだ際には、景任がその仲介役を担ったとされ、国衆の身でありながら大名間の同盟(甲尾同盟)に深く関与していたことが窺える 3 。
景任の巧みな外交姿勢は、その軍事行動にも明確に表れている。
武田方としての活動
武田氏との主従関係に基づき、その軍事作戦に参加した記録が残る。永禄元年(1558年)には、岩村遠山氏の軍勢が奥三河へ侵攻し、当時武田氏と敵対していた今川方の国衆・奥平氏と交戦している(名倉船戸橋の戦い) 1。さらに元亀3年(1572年)には、武田信玄の命令を受け、弟の直廉と共に、武田氏から離反した飛騨の三木自綱を攻撃した 4。
上村合戦への不参加
その一方で、元亀元年(1570年)に起きた上村合戦では、景任の絶妙なバランス感覚が示された。この戦いは、武田の将・秋山虎繁が徳川領へ侵攻する途上、遠山領を通過したことに端を発する 13。この時、明知遠山氏の遠山景行を総大将とする遠山一族の多くは、織田・徳川方として武田軍を迎え撃ったが、大敗を喫した 11。しかし、惣領家当主である景任率いる岩村遠山氏は、この合戦に参戦していない 1。これは、織田家と姻戚関係にありながらも、武田氏との旧来の主従関係を破綻させるわけにはいかないという、両属の立場にあった景任の苦しい、しかし唯一の選択であった。どちらか一方に加担すれば、もう一方から即座に攻撃される危険があったため、中立を保つことこそが最善の生存戦略だったのである。この「何もしない」という選択の裏には、彼の高度な政治的判断があった。
景任は外交や軍事だけでなく、領内の統治者としても足跡を残している。恵那市大井町に現存する大井武並神社の本殿は、景任が造営したと伝えられている 11 。これは、彼が地域の信仰を篤く保護する領主であったことを示しており、乱世にあっても領国経営に意を払っていたことが窺える。
元亀3年(1572年)、東濃の地を激震が襲う。岩村城主・遠山景任が8月14日に病死し、それに先立つ形で、弟の苗木城主・遠山直廉も死去したのである 5 。死因については病死説が有力だが、一説には飛騨三木氏との戦いで受けた傷が元であったともいう 6 。いずれにせよ、東濃における遠山氏の中核をなす岩村・苗木両家の当主が相次いで世を去ったことで、この地域は突如として権力の真空地帯と化した。この兄弟の死は、彼らを自陣営の重要な駒と見ていた武田信玄にとっても、大きな打撃であったと記録されている 11 。
景任に実子がいなかったことは、織田信長にとって絶好の機会となった。彼は、それまで景任を通じて保たれていた微妙なバランスを意に介さず、即座に強権的な介入を開始する 15 。信長は自らの五男(一説に四男)・御坊丸(後の織田勝長)を景任の養子とし、岩村城へ送り込んだ 14 。そして、景任の未亡人であり、自身の叔母でもあるおつやの方をその後見人とした 4 。これは表向きは同盟者の家督相続を助ける形をとりながら、実質的には岩村城を織田家の直接支配下に組み込むための、巧妙かつ強引な乗っ取りであった。
信長のこの一方的な家督介入に対し、長年遠山家に仕えてきた家臣団、いわゆる「岩村衆」は激しく反発した 5 。彼らにとって、血の繋がりのない織田家の幼児を新たな主君として受け入れることは、到底承服できるものではなかった。むしろ、父祖代々主従関係にあった武田氏に仕えることこそが、家の存続にとって合理的であると判断した。これは、主君個人の縁戚関係(おつやの方と信長)よりも、家としての伝統的な主従関係を優先した、戦国武士団の現実的な論理であった。
元亀3年11月、岩村衆は城内の織田勢力を追放し、武田方への帰属を表明する 5 。これに対し信長は、味方についていた明知遠山氏などに岩村城を攻撃させるが、武田方の反撃にあって大敗を喫し、奪還は失敗に終わった(上村合戦) 5 。
この事態を受け、西上作戦を開始していた武田信玄は、重臣・秋山虎繁(信友)を大将とする軍勢を岩村城へ派遣する。完全に孤立した岩村城において、おつやの方は籠城の末、城兵の助命を条件に、虎繁との婚姻を受け入れて開城するという苦渋の決断を下した 9 。養子の御坊丸は人質として甲斐の武田信玄のもとへ送られ、岩村城は完全に武田方の手に落ちた。景任が築き上げた危うい均衡は、彼の死からわずか数ヶ月で完全に崩壊したのである 1 。
天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで武田勝頼が大敗を喫すると、織田・武田間の力関係は劇的に逆転する 14 。信長はこの好機を逃さなかった。岐阜からわずか60kmほどの距離に位置する敵の拠点・岩村城の奪還は、最優先課題であった 14 。
同年6月、信長は嫡男・織田信忠を総大将とする3万の兵を岩村城へ派遣する 5 。信忠軍は城を完全に包囲し、兵糧攻めによる持久戦に持ち込んだ。半年に及ぶ籠城戦の末、武田勝頼からの援軍も望めず、城内の兵糧が尽きた秋山虎繁は、自らとおつやの方、そして城兵全員の助命を条件に降伏・開城した 5 。
しかし、信長(あるいは信忠)はこの約束を反故にした。降伏した秋山虎繁とおつやの方は岐阜へ連行され、長良川の河原で逆さ磔という、見せしめのような残虐な方法で処刑された 5 。叔母であるおつやの方まで手にかけるという非情な処置は、岩村城を敵に明け渡した行為が、信長の天下布武事業に対する許しがたい裏切りと見なされたことを示している。さらに、城内に残っていた遠山一族の郎党たち、馬木十内、串原弥兵衛といった名のある家臣もことごとく殺害され、ここに惣領家としての岩村遠山氏は、歴史の舞台から完全に姿を消したのである 7 。
おつやの方は、織田信長の父・信定の娘として生まれ、戦国の女性の常として、政略の駒としてその生涯を送った 1 。東濃の有力国衆・遠山景任に嫁ぎ、その絆を深める役割を担ったが、夫の早すぎる死によって彼女の運命は大きく暗転する。
夫の死後、景任に実子がいなかったため、信長によって送り込まれた幼い養子・御坊丸の後見人として、事実上の城主となった 15 。女性が城主を務めるのは全国的にも極めて稀な例であり、彼女が置かれた状況の異常さを示している。武田軍の侵攻に対しては、自ら采配を振るい籠城戦を指揮したが 14 、織田からの援軍は来ず、絶望的な状況に追い込まれる。最終的に彼女は、家臣と領民の命を救うため、敵将・秋山虎繁との婚姻という屈辱的な条件を呑んで開城した 9 。この決断は、単なる降伏ではなく、城主としての責任を果たそうとした末の、合理的な政治判断であったと評価できる。しかし、その決断が、最終的に甥である信長による処刑という悲劇的な結末を招いた 5 。
遠山直廉は景任の実弟であり、岩村本家から分家の苗木遠山氏へ養子に入った人物である 16 。彼は兄・景任と歩調を合わせ、織田家との婚姻を通じて関係を強化しつつ、武田方としての軍事行動にも参加するなど、両属外交の重要な担い手であった 1 。特に、彼の娘が信長の養女として武田勝頼に嫁ぎ、後の武田家当主となる信勝を産んだことは、甲尾同盟における遠山氏の重要性を象徴している 3 。彼が兄・景任とほぼ同時期に亡くなったことが、東濃のパワーバランスを崩壊させ、一族の運命を暗転させる決定的な要因となった 5 。
岩村遠山氏が滅亡する一方で、他の分家の中には巧みに時勢を乗り切り、近世まで家名を保った者もいた。その運命を分けたのは、景任・直廉の死後という権力の空白期に、誰を新たな主君として選択したかであった。
岩村が織田・武田の直接対決の最前線となり滅びたのに対し、明知・苗木の両家は、本能寺の変後の混乱期に、次代の覇者となる徳川家康という新たな「大樹」をいち早く見出し、その庇護下に入ることで生き残りに成功した。これは、戦国末期における国衆の生存戦略の巧拙を示す好例といえる。
岩村遠山氏の家臣団は、惣領家譜代の家臣に加え、遠山七頭に連なる分家の一族も含む複合的な集団であった 7 。景任の死後、彼らの動向は一様ではなかった。信長の介入を受け入れようとする者、伝統的な主筋である武田に従おうとする者など、内部での対立があった可能性も否定できない。最終的に彼らは武田方につく道を選び、最後の岩村城籠城戦に臨んだ。その結末は悲惨なもので、『信長公記』などの記録には、遠山徳林斎、馬木十内、久保原内匠、串原弥兵衛といった家臣たちが、城内で自刃、あるいは討死したことが記されている 35 。彼らは、主家と運命を共にし、その歴史に幕を下ろしたのである。
遠山景任は、織田信長や武田信玄のように戦国史の主役として語られる人物ではない。しかし、彼の生涯と彼が率いた岩村遠山氏の興亡は、戦国という時代を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。
景任の生涯は、大国の狭間で生きる国衆の典型的な姿を映し出している。東の武田、西の織田という二大勢力に挟まれ、一方に完全に依存することなく、武田への従属と織田との婚姻という二重の外交関係を築き、巧みにバランスを保ちながら一族の存続を図った。彼の存在そのものが、この地域の平和を一時的に担保する重石となっていたのである。
しかし、彼の死によってその均衡はもろくも崩れ去った。岩村遠山氏の滅亡は、単なる一地方豪族の悲劇ではない。それは、織田信長による天下統一事業が進む中で、旧来の国衆勢力が淘汰され、より中央集権的な支配体制へと移行していく時代の大きな流れを象徴する出来事であった。景任の死から始まった一連の動乱は、それまで外交関係で繋がっていた織田・武田の対立を決定的なものとし、長篠の戦いをはじめとする天正年間の大戦争へと繋がる道筋をつけたのである。
今日、景任が城主であった岩村城は、日本三大山城の一つに数えられ、その壮大な石垣は往時の姿を今に伝えている 19 。城下町には遠山氏の時代を偲ばせる面影が残り、特に妻・おつやの方の物語は「女城主」として地域の人々に語り継がれている 15 。
遠山景任という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、歴史のダイナミズムを再認識させる。一人の人間の死が地域の勢力図を塗り替え、多くの人々の運命を変えた。彼のような「脇役」の動向を丹念に追うことによって初めて、信長や信玄といった「主役」たちの戦略の真意や、戦国という時代の構造的な特質が、より立体的に見えてくる。遠山景任の物語は、大国の論理に翻弄されながらも必死に生き抜こうとした人々の記憶であり、戦国史を多角的に理解するための貴重な道標なのである。