最終更新日 2025-07-05

那須資景

下野国那須藩主・那須資景の生涯と那須家再興の軌跡

序章:那須資景、その生涯と時代背景

本報告書の目的と構成

本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期という、日本の歴史上、類を見ない激動の時代を生きた武将、那須資景(なす すけかげ、1586-1656)の生涯を、多角的な視点から徹底的に分析し、その歴史的評価を再構築することを目的とする。彼の生涯は、父の失策による改易、忠臣の奔走による奇跡的な家名存続、自らの武功による大名への復帰、そして嫡男の無嗣による再度の改易と、それに続く旗本としての雌伏、最後に深慮遠謀の養子縁組によって家の永続を確定させるという、まさに波瀾万丈の軌跡を辿った。この浮沈の激しい生涯は、戦国時代の終焉から徳川幕藩体制が確立していく過程で、数多の小大名が経験した栄光と悲哀、そして強かな生存戦略を凝縮した、極めて象徴的な事例であると言える。本報告書では、単に彼の経歴を追うだけでなく、各局面における政治的・社会的背景を深く掘り下げ、彼の決断と行動が那須家、ひいては当時の北関東の政治情勢に与えた影響を考察する。

名門・那須氏の系譜と権威

那須資景という人物を理解する上で、彼が背負っていた「那須氏」という家名の重みと権威をまず認識する必要がある。那須氏は、平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)において、源義経軍に属した那須与一宗隆(なすのよいちむねたか)が、屋島の戦いで見せた「扇の的」の神技によって、その名を全国に轟かせた名門武家である [1, 2, 3]。この輝かしい祖先の逸話は、単なる過去の栄光や家柄の誇りとしてだけでなく、後述する那須家存亡の幾度かの危機において、家の存続を正当化し、他者の介入や温情を引き出すための、極めて有効な無形の政治的資産として機能した。

鎌倉時代以降、那須氏は下野国那須郡(現在の栃木県北東部)を本拠とし、烏山城を拠点とする宗家を中心に、那須七騎(那須七党)と呼ばれる一族・家臣団を束ね、戦国時代に至るまで同地域に確固たる勢力を保持する独立した大名として存立していた [1, 4]。資景は、この歴史と権威を一身に背負う嫡男として、戦国乱世の最終盤に生を受けたのである。

第一章:名門那須氏の凋落と存亡の危機 ― 父・資晴の失策

1-1. 父・那須資晴の政治的立場

那須資景の父であり、那須氏第21代当主であった那須資晴(なす すけはる)は、戦国末期の北関東における典型的な地域領主であった。彼の治世は、西に宇都宮氏、南に佐竹氏という、より強大な勢力との絶え間ない緊張関係の中にあった [5, 6]。これらの勢力に対抗するため、資晴は関東に覇を唱えていた後北条氏と同盟を結び、その軍事力を背景に領国の維持と勢力拡大を図る、いわゆる親北条路線を明確にしていた [5]。この政治的選択は、当時の北関東の勢力均衡を考慮すれば合理的なものであったが、結果として、中央で天下統一事業を推し進める豊臣秀吉との関係において、那須家の運命を暗転させる決定的な要因となった。

1-2. 運命の「小田原遅参」

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏政・氏直父子の討伐を決定。全国の大名に対し、小田原への参陣を厳命した [7, 8]。この「小田原征伐」は、単なる一地方勢力の討伐ではなく、秀吉が構築する新しい天下秩序への服従を全国の武家に迫る、一大政治イベントであった。

この時、東北の雄・伊達政宗をはじめとする多くの関東・奥州の武将が、北条氏との関係や天下の趨勢を見極めようと対応に苦慮した [7, 8, 9]。那須資晴もまた、その一人であった。長年の同盟者である北条氏を見捨てるのか、それとも圧倒的な軍事力を誇る秀吉に弓を引くのか。この究極の選択を迫られた資晴の決断は遅れ、秀吉軍が小田原城を包囲し、勝敗がほぼ決してからの参陣となった [4, 10, 11]。この行動は「遅参」と見なされ、秀吉の怒りを買うことになる。

資晴の遅参は、単なる判断の遅れや日和見主義と断じるべきではない。彼の政治基盤そのものが親北条路線の上に成り立っており、秀吉への早期参陣は、長年の同盟相手を裏切り、自領内の親北条派の国人衆や家臣の支持を失うリスクを伴うものであった。天下の趨勢と、地域に根差した同盟関係との間で引き裂かれた彼の苦悩は、中央の論理によってその存亡を左右される地方独立大名の窮状を象徴している。

1-3. 豊臣秀吉による改易処分

秀吉にとって、遅参は自らの権威に対する明確な挑戦と映った。彼は資晴の弁明を聞き入れず、遅参の罪を問い、那須氏が代々領有してきた下野国烏山城と、それに付随する八万石ともいわれる所領をすべて没収するという、極めて厳しい処分を下した [4, 10, 11]。この「改易」処分により、鎌倉時代以来、数百年にわたって下野国に君臨してきた名門・那須氏は、一日にしてその地位と領土を失い、家名断絶という存亡の危機に瀕したのである。

秀吉によるこの厳罰は、同じく小田原に不参・遅参した大崎氏や葛西氏など他の奥州大名への処分 [11] と軌を一にするものであり、豊臣政権が発した「惣無事令」を基盤とする新たな天下秩序に従わない勢力に対する、見せしめとしての意味合いが極めて強かった。特に那須氏は、伊達政宗と連携する可能性を秘めた戦略的要衝に位置していたため、ここで一度完全に支配体制を解体し、豊臣政権に忠実な武将(この場合は那須氏重臣の大田原氏など)に所領を再分配することで、奥州支配の安定化を図るという、秀吉の全国統一戦略の一環として理解する必要がある。資晴個人の咎という側面以上に、より大きな政治的意図が働いた結果であった。

第二章:幼き当主と家運再興への道 ― 忠臣の奔走

2-1. 重臣・大田原晴清の忠節

主家が改易という絶体絶命の危機に陥る中、一人の家臣が立ち上がった。那須七騎の一角を占める重臣、大田原城主・大田原晴清(おおたわら はるきよ)である [12, 13]。晴清は、主君・資晴が親北条路線に固執するのを横目に、早くから天下の趨勢を見抜き、独自に秀吉との接触を図っていた。小田原征伐に際しても、主君に先んじて参陣し、秀吉から所領を安堵されるという、抜け目のない立ち回りを見せていた [12, 14]。彼は、滅亡の淵にある旧主家を救うことができる、唯一のパイプを持つ人物であった。

2-2. 五歳の藤王丸、秀吉に謁見す

好機は天正18年(1590年)8月、秀吉が小田原征伐後の奥州仕置(奥州の領土再編)の途上、晴清の居城である大田原城に二泊した際に訪れた [10]。晴清は、病と称して秀吉との面会を避けた旧主・資晴に代わり、その嫡男で当時わずか五歳の藤王丸(ふじおうまる、後の資景)を秀吉に謁見させるという大胆な策を講じた [10, 13]。

この謁見は、晴清の周到な計算に基づいていた。大人の資晴が詫びを入れても許される保証はないが、あどけない五歳の幼児を前にすれば、いかに冷徹な天下人といえども情に訴えかけることができるかもしれない。さらに、那須与一という全国的な英雄の子孫が、幼くして路頭に迷う姿を演出することで、秀吉の「温情」を引き出そうとしたのである。

2-3. 家名存続の御朱印状

晴清の狙いは見事に的中した。秀吉は、目の前に差し出された幼い藤王丸を不憫に思ったか、あるいは主家のために奔走する晴清の忠義に心打たれたか、はたまた「那須与一」という歴史的権威を持つ家が途絶えることを惜しんだか [13]、その場で藤王丸に下野国福原(現在の栃木県大田原市)を中心とする五千石の所領を新たに与えることを認めた [10, 15]。これにより、那須家は石高こそ大幅に削減されたものの、大名としての地位を失いながらも、家名を存続させるという奇跡的な復活を遂げたのである。この後、父・資晴も伏見にて秀吉に謝罪し、許されて別途五千石を与えられ、那須家は父子で合計一万石の知行を回復することとなった [10, 16]。

この一連の出来事における大田原晴清の行動は、単なる主家への忠誠心の発露としてのみ捉えるべきではない。それは、戦国末期の武将が生き残るための、極めて高度な政治的判断であった。第一に、彼は主君に先んじて秀吉に服従することで、自らの大田原家を那須氏から独立した大名として幕藩体制の中に組み込ませることに成功した [12, 14]。第二に、その上で旧主家の再興を願い出るという「忠義」を見せることで、豊臣政権内での自らの評価を高めた。結果として、大田原家は独立大名として飛躍し、那須家は存続はしたものの、かつての主従関係は事実上逆転した。晴清の行動は、主家を救うという「忠」と、自家の利益を最大化するという「利」を両立させた、乱世の終焉期における現実的な生存戦略の傑出した事例である。

また、秀吉がこの破格の措置をとった背景には、「那須与一」というブランドが持つ政治的価値を無視できない [13]。農民から天下人へと成り上がった秀吉は、自らの権威を補強するために、伝統的な権威や由緒ある家柄を巧みに利用した。歴史的名家である那須氏を、自らの温情によって存続させるというパフォーマンスは、他の大名に対する示威行動であると同時に、自身の支配の正当性を高める効果があった。那須家の存続は、単なる同情や気まぐれではなく、那須与一以来の歴史的権威が持つ「政治的価値」を、秀吉が的確に見抜いた結果と解釈するのが妥当であろう。

第三章:徳川の世における武功と那須藩の立藩

那須家の家運を一身に背負った資景は、豊臣政権から徳川政権へと時代が移り変わる中で、新たな支配者への忠誠と武功によって、家の再興を確固たるものにしていく。

年号 (西暦)

資景の年齢

石高

身分・役職

主要な出来事と関連史料

天正14 (1586)

1歳

-

-

那須資晴の嫡男として誕生。幼名、藤王丸。[15, 17]

天正18 (1590)

5歳

5,000石

那須家当主

父・資晴改易。大田原晴清の尽力で秀吉より福原に5千石を拝領。[10, 12, 15]

慶長5 (1600)

15歳

5,500石 (加増後)

那須家当主

関ヶ原の戦い。東軍に属し、対上杉の功により300石加増。[17, 18]

慶長7 (1602)

17歳

8,080石 (一族合計)

那須家当主

徳川家康より1000石、一族にも加増。[16, 17]

慶長11 (1606)

21歳

8,080石

従五位下・左京大夫

叙任。[17]

慶長15 (1610)

25歳

14,000石

那須藩主

父・資晴死去。遺領を継ぎ、那須藩を立藩。[16]

元和元 (1615)

30歳

14,000石

那須藩主

大坂夏の陣に参加。塙直之を討ち取る功を立てる。[19]

寛永元 (1624)

39歳

14,000石

(隠居)

隠居し、家督を長男・資重に譲る。[17]

寛永19 (1642)

57歳

(改易)

(隠居)

資重が嗣子なく死去。那須藩は無嗣改易となる。[16, 20]

寛永20 (1643)

58歳

5,000石

大身旗本

資景の功により、幕府から旗本として5千石を与えられる。[16, 21]

承応元 (1652)

67歳

5,000石

大身旗本

将軍家綱の叔父・青木利長の次男・資弥を養子に迎える。[17]

明暦2 (1656)

71歳

-

-

死去。享年71。墓所は栃木県大田原市玄性寺。[17]

3-1. 関ヶ原の戦いと東軍への帰属

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、当時15歳の資景は、父・資晴と共に迷うことなく徳川家康率いる東軍への帰属を表明した。彼は家康に人質を差し出すことで忠誠の証とし、下野国において会津の上杉景勝が南下してくるのを防備するという、北関東の防衛ラインにおける極めて重要な役割を担った [16, 17, 18]。この迅速な判断と行動は、父・資晴が小田原征伐で見せた逡巡とは対照的であり、時代の流れを的確に読んだ結果であった。この功績が家康に高く評価され、戦後、那須家は度重なる加増を受け、一族の所領を合わせると八千石余に達した [16, 17]。

3-2. 大坂の陣での戦功

徳川の天下が確立する最後の戦いとなった大坂の陣においても、資景は徳川方として参陣し、その武勇を示した [15, 16]。特に元和元年(1615年)の大坂夏の陣、和泉国樫井(かしい)における戦いでは、豊臣方の勇将としてその名を馳せていた塙直之(ばん なおゆき、通称・団右衛門)を討ち取るという、大きな武功を挙げたと記録されている [19]。塙直之は、かつて加藤嘉明に仕え、その武勇で知られた牢人武将であり、大坂方では大将格の一人であった [22, 23, 24]。この著名な敵将を討ち取った戦功は、資景個人の武名を高めるだけでなく、徳川家に対する那須家の忠勤をこれ以上なく明確に示すものであり、後の那須藩成立への大きな足掛かりとなった。

資景の関ヶ原から大坂の陣に至るまでの一連の行動は、徳川政権下における外様小大名の典型的な、そして最も成功した生存戦略を示している。第一に、天下の趨勢を的確に読み、いち早く新支配者である家康に忠誠を誓う。第二に、幕府が求める軍役を確実にこなし、具体的な戦功を挙げることで自家の存在価値を証明する。第三に、それによって所領の安堵と加増を勝ち取り、藩の経営基板を固める。父・資晴が時代の変化を読み誤って失脚した教訓を深く胸に刻み、資景は、新しい支配者である徳川家への「忠勤」こそが家を安泰にする唯一の道であることを、行動をもって示したのである。これは、戦国時代的な自力救済の論理から、近世の幕藩体制下における主従の論理への、価値観の転換を体現するものであった。

また、徳川家康が那須家を厚遇した背景には、那須藩の持つ地理的・戦略的重要性も考慮に入れる必要がある。関ヶ原の戦いで資景が担った「対上杉の抑え」という役割 [17, 18] が示すように、那須地方は江戸から見て奥州への入り口に位置する。徳川政権にとって、この要衝に信頼できる大名を配置することは、伊達氏や上杉氏といった巨大外様大名を牽制し、江戸の北方を安定させる上で不可欠であった [25, 26]。資景への度重なる加増は、単なる戦功への褒賞という側面だけでなく、北関東の戦略的要地を、譜代大名に準ずるほど信頼できる外様大名に固めさせるという、家康の深謀遠慮の現れでもあったと考えられる。

3-3. 那須藩一万四千石の成立

慶長15年(1610年)、父・資晴が死去 [5]。これを受けて資景は、父の遺領であった六千石と、自身がそれまでに獲得していた所領を正式に統合し、合計一万四千石を領する大名となった [15, 16]。ここに、下野国那須藩(本拠地名から福原藩とも称される)が正式に立藩し、資景はその初代藩主となった。彼はかつての一族の居城であった福原城(またはその一角に築かれた福原陣屋)を藩庁とし、藩政を開始する [21, 27]。父の代に失われた大名の地位を、資景はその手で完全に取り戻したのである。

第四章:藩主としての治世と再度の危機

4-1. 初代藩主としての領地経営

初代那須藩主となった資景は、福原を本拠として藩政の基礎固めに着手した。彼の治世における具体的な藩政の記録は断片的にしか残されていないが、江戸時代初期に成立した多くの小藩と同様に、領内の実情を把握するための検地の実施、戦国時代以来の家臣団の再編成と禄高の確定(知行割)、藩の財政基盤となる年貢収取体制の確立、そして藩庁である福原城と城下町の整備などが急務であったと推察される [28, 29, 30, 31]。居城とした福原城は、もともと那須一族の城であり、資景はこれを修復して近世的な藩主の居館として使用した [32]。

4-2. 嫡男・那須資重への家督相続

寛永元年(1624年)、資景は39歳という比較的若い年齢で隠居し、家督を長男の那須資重(なす すけしげ)に譲った [17, 20]。この早期の隠居は、徳川の世が安定期に入り、もはや藩主個人の武功よりも、安定した家督継承と幕府への奉公が重視されるようになった時代背景を反映している。資景は、自らが後見役となることで、資重への権力移譲を円滑に進め、那須家の将来を盤石にしようと図ったのであろう。

4-3. 資重の早世と無嗣改易

しかし、ようやく安泰の軌道に乗ったかに見えた那須家に、再び非情な運命が襲いかかる。寛永19年(1642年)、二代藩主・資重が、父である資景に先立って34歳の若さで病死してしまったのである [16, 20]。さらに不幸なことに、資重には世継ぎとなる男子がいなかった。当時、幕府は大名の跡継ぎ問題を厳格に管理しており、藩主の死に際に慌てて養子を迎える「末期(まつご)養子」を原則として禁じていた。このため、那須家は跡継ぎ無しと見なされ、那須藩一万四千石の所領は幕府によって没収、那須家はまたしても改易の憂き目に遭うこととなった [16, 17]。

4-4. 旗本としての家名維持

二度目の改易。もはや万事休すかと思われた。しかし、ここで再び那須家は奇跡的な救済を受ける。その最大の要因は、隠居の身とはいえ、初代藩主であった資景がまだ存命であったこと、そして何よりも、彼が関ヶ原以来、徳川家に対して一貫して忠勤に励んできた功績であった [16, 21]。幕府は、資景のこれまでの功績と、那須与一以来の名家の断絶を惜しみ、特別な計らいとして、資景個人に改めて五千石の知行を与えることを決定した [16, 17]。これにより、那須家は大名の地位こそ失ったものの、五千石の大身旗本として家名を維持することが許されたのである。

那須家が経験したこの二度の改易危機と、その都度の救済劇は、戦国時代から江戸時代初期への移行期において、武家が存続するために必要とされた要素の変化を如実に物語っている。一度目の危機(小田原遅参)からの救済は、重臣・大田原晴清の政治力と、「那須与一の家柄」という歴史的権威が大きな要因であった。それに対し、二度目の危機(資重の無嗣)からの救済は、資景自身の「徳川家への具体的な功績と忠勤」が決定的な要因となった [16, 21]。これは、支配者が豊臣から徳川へと代わり、時代が安定に向かう中で、家の存続を保証するものが、旧来の「家柄」から、新しい支配者との「主従関係における功績」へと、その比重を移していったことを示している。資景の生涯は、この二つの重要な要素を両方とも満たした稀有な例であり、それが那須家の驚異的な生命力へと繋がったのである。

第五章:晩年の深慮遠謀と那須家の未来への布石

5-1. 将軍家縁者・那須資弥の養子縁組

大名から旗本へと身分は変わったものの、家の存続を勝ち取った資景は、晩年、那須家の永続的な安泰を確保するための最後の、そして最大の布石を打つ。承応元年(1652年)、彼は青木利長という人物の次男・友之助を養子として迎えた [17]。この友之助こそが、後に那須資弥(なす すけみつ)と名乗り、那須家の運命を再び大きく好転させる人物である [33]。

5-2. 養子縁組の政治的背景

この養子縁組は、単なる跡継ぎの確保ではなかった。資弥は、ただの旗本の次男ではなかったのである。彼の姉は、お楽の方(宝樹院)といい、三代将軍・徳川家光の側室となって、四代将軍・家綱を生んだ人物であった [16, 17]。つまり、養子に迎えた資弥は、現職将軍・家綱の叔父にあたるという、幕府内においてこれ以上ないほど強力な血縁的背景を持つ人物だったのである。資景は、この将軍家の縁者を自らの養子とすることで、那須家を徳川宗家と直接結びつけ、その安泰を盤石なものにしようと図ったのだ [17, 33]。

この決断は、資景の卓越した政治感覚を物語っている。徳川の世が盤石となった安定期においては、もはや個人の武功や戦働きで家の地位を向上させる時代は終わった。家の浮沈を左右するのは、幕府権力の中枢、とりわけ将軍家との近さ、すなわち「血縁」という究極のコネクションであることを見抜いていたのである。若い頃は自らの槍働きで家を再興し、晩年は「政略養子」という形で家の未来を確固たるものにする。この見事な戦略の転換は、資景が単なる武人ではなく、時代の変化を的確に読み解く優れた政治家であったことを証明している。

5-3. 明暦2年の死と、その遺産

この深慮遠謀が成ったことを見届けたかのように、資景は養子縁組から4年後の明暦2年(1656年)1月25日、71年の波瀾に満ちた生涯に幕を閉じた [17]。その亡骸は、彼が若くして亡くした息子・資重の菩提を弔うために建立したと伝わる、大田原市福原の須峯山玄性寺に葬られた [17, 34]。

5-4. 資景の死後の那須家

資景の最後の賭けは、彼の死後に見事に結実した。家督を継いだ養子の資弥は、将軍の叔父という出自もあって幕府内で順調に評価を高めていく。そして寛文4年(1664年)、幕府から加増を受け、旗本としての知行五千石に加え、もともと彼個人が持っていた蔵米二千俵が采地(領地)二千石に改められた結果、合計石高が一万二千石となり、那須家は大名に返り咲くことを果たしたのである [16, 17]。

さらに天和元年(1681年)には、八千石を加増されて合計二万石となり、かつて父・資晴が失った旧領の本拠地、烏山城への転封を許された [16, 27, 35]。資晴が城を追われてから90年余り、資景が再興の第一歩を記してから同じく90年余りの歳月を経て、那須家はついに故地への帰還という悲願を達成した。その道筋をつけたのは、紛れもなく那須資景その人であった。

終章:那須資景の歴史的評価

6-1. 「再興の祖」としての那須資景

那須資景の生涯を総括するならば、彼はまさしく那須家の「再興の祖」と評価されるべき人物である [15]。父・資晴の失策によって一度は地に落ち、断絶の淵に立たされた名門・那須家。資景はその家運をわずか五歳で背負い、自らの才覚と忠勤、そして類まれな政治的判断力によって、二度にわたる改易の危機を乗り越え、最終的に大名家として旧領に復帰させるための盤石な礎を築き上げた。彼の存在なくして、近世における那須家の存続はあり得なかったであろう。

6-2. 武将として、そして藩主としての総合評価

武将としては、大坂の陣における塙直之討ち取りの功が光り、徳川家への忠誠を武勇をもって示した。藩主としては、一度は藩を失うという不運に見舞われたものの、その後の粘り強い立ち回りと、旗本という立場から再び大名への道筋をつけた手腕は高く評価されるべきである。彼の生涯は、近世初期における小大名の経営の困難さと、それを乗り越えるための強かさを同時に体現している。

6-3. 乱世から泰平の世への移行期を生きた武将の典型

那須資景の71年の生涯は、戦国時代的な「自力」と「武勇」の価値観が薄れ、幕藩体制という新たな秩序の下での「忠勤」と「家格」、「血縁」が重視される世へと移行していく過程そのものであった。彼はその時代の大きな変化に巧みに適応し、武功、忠誠、そして政略という、時代ごとに求められる異なる能力を的確に発揮して家を存続させた。彼の生涯は、近世初期の数多の外様小大名が直面した存亡の課題と、その克服の軌跡を示す、極めて貴重な歴史的ケーススタディと言える。彼は、激動の時代を見事に生き抜き、次代へと家名を繋いだ、優れた生存者であり、卓越した政治家であった。

引用文献

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  3. 那須与一の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/67106/
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  7. 「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。波乱万丈の人生を3分で解説! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
  8. 小田原攻めに遅参した政宗へ秀吉がかけた言葉とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22903
  9. 伊達政宗の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/29927/
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