日本の戦国時代、その末期に下野国(現在の栃木県)で一際強い光を放ち、そして時代の大波に翻弄された武将がいた。その名を那須資晴(なす すけはる)という。彼の名は、宇都宮氏の大軍を寡兵で打ち破った「薄葉ヶ原(うすばがはら)の戦い」の勇将として、北関東に武名を轟かせた 1 。しかし同時に、天下統一を目前にした豊臣秀吉の小田原征伐に遅参し、長年続いた名門の所領を没収されるという「時勢を見誤った悲運の将」としても記憶されている 2 。
本報告書は、この那須資晴という人物を、単なる勇将あるいは悲運の将という二元論的な評価から解き放ち、その両面性を内包した複雑な人物として多角的に捉え直すことを目的とする。彼の生涯は、戦国末期において関東の小勢力が、中央から押し寄せる巨大な権力の奔流にいかにして対峙し、あるいは飲み込まれていったかを示す、極めて貴重な事例である。その武勇が那須家の勢力を一時的に頂点へと導いた一方で、その政治的判断が家を存亡の危機に追いやったという劇的な生涯の軌跡は、時代の転換期を生きた地方領主の苦悩と矜持、そして執念を色濃く映し出している。
本報告書の構成は以下の通りである。まず第一部では、資晴が生まれ育った下野国の情勢と、彼が家督を相続するまでの経緯を詳述する。第二部では、彼の武将としての評価を不動のものとした薄葉ヶ原の戦いを詳細に分析し、那須氏の勢力が頂点に達した様を描く。第三部では、天下統一という抗いがたい潮流の中で、資晴がいかにして没落の道を辿ったのか、その運命の選択と結果を検証する。第四部では、改易という最大の挫折から、いかにして那須家が再起を果たしたのか、その驚くべき過程を追う。そして第五部において、資晴が後世に残した遺産と、その歴史的評価を総括する。
この報告を通じて、那須資晴という一人の武将の生涯を丹念に追うことで、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人間の強さ、弱さ、そして不屈の精神を浮き彫りにしていきたい。
【表1:那須資晴 生涯年表】
年代 (西暦) |
主な出来事 |
典拠 |
弘治2年頃 (1556) |
那須資胤の子として誕生。 |
1 |
永禄10年 (1567) |
12歳で父・資胤に従い初陣を飾るとされる。 |
1 |
天正6年 (1578) |
小川台の戦いに父と共に参陣。 |
4 |
天正11年 (1583) |
父・資胤の死去に伴い、那須氏の家督を相続。直後に佐竹・宇都宮連合軍を撃退。 |
4 |
天正13年 (1585) |
薄葉ヶ原の戦い で宇都宮軍に大勝。千本為継・隆継を謀殺し、領内を固める。 |
1 |
天正15年 (1587) |
妹を佐竹義宣に嫁がせ、佐竹氏と一時的に和睦。 |
1 |
天正17年 (1589) |
伊達政宗と佐竹義重の抗争(関山の戦い)で、佐竹方として援軍を送る。 |
6 |
天正18年 (1590) |
豊臣秀吉の 小田原征伐 に参陣せず、遅参。 改易 され、8万石の所領を没収される。烏山城を明け渡し、佐良土へ隠棲。 |
3 |
天正18年 (1590) |
家臣・大田原晴清の尽力により、子・藤王丸(後の資景)に5,000石が与えられ、家名存続が許される。 |
6 |
天正18年以降 |
伏見にて秀吉に謝罪し、自身にも5,000石を与えられる。 |
1 |
文禄元年 (1592) |
文禄の役で肥前名護屋城に出陣。 |
1 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い で東軍に属す。子・資景は上杉景勝への備え、資晴は江戸の守備にあたる。 |
6 |
慶長7年 (1602) |
徳川家康の 御伽衆 に抜擢され、1,000石を加増される。 |
4 |
慶長14年 (1609) |
6月19日、死去。享年54。福原の玄性寺に葬られる。 |
1 |
慶長15年 (1610) |
子・資景が父の遺領を継ぎ、1万4,000石余の大名となり、 那須藩を立藩 。 |
4 |
那須資晴の生涯を理解するためには、彼がその身を置いた下野国、そして彼が相続した那須家という組織の特質をまず把握する必要がある。彼の強気な外交政策と、その後の悲劇的な結末は、彼個人の資質のみならず、彼が背負った歴史的・構造的な要因と深く結びついているからである。
那須氏は、平安時代末期の那須与一宗隆の武勇伝でその名を馳せ、鎌倉時代以来、下野国北東部に根を張る名門武家であった 9 。戦国時代に至り、烏山城を本拠として那須郡・塩谷郡一帯に勢力を築いていたが、その立場は決して安泰ではなかった 3 。東には常陸国の佐竹氏、南には同じ下野国の宇都宮氏という、那須氏を凌ぐ勢力が常に圧力をかけており、北には陸奥国の蘆名氏や白河結城氏が隙を窺うという、四方を強豪に囲まれた地政学的に極めて脆弱な環境に置かれていた。
資晴の父である第20代当主・那須資胤の治世は、まさにこの厳しい国際情勢を乗り切るための苦闘の連続であった。資胤は当初、佐竹氏と協調して結城氏や蘆名氏と戦ったが、後には関東に覇を唱える後北条氏と手を結ぶなど、目まぐるしく外交方針を転換させている 12 。これは、特定の勢力に完全に依存するのではなく、状況に応じて提携相手を変えることで、自家の存続を図るという小勢力ならではの生存戦略であった。
しかし、那須家が抱える問題は外部環境だけではなかった。より深刻だったのは、その内部に潜む構造的な脆弱性である。那須宗家の権力基盤は盤石ではなく、「那須七騎」と称される有力な譜代家臣団との連合体という性格が強かった 14 。中でも、資胤の母の実家であり、彼の家督相続にも大きな影響力を持った大田原氏や 15 、一時は佐竹氏と結んで資胤の排斥を画策し、佐竹義重の弟を新たな那須当主として擁立しようとまでした大関氏との関係は、常に緊張をはらんでいた 13 。この内部対立は、資胤が隠居することを条件に和睦が成立するという形で一旦は収束するが、宗家の権威が絶対的なものではなく、家臣団の動向次第で容易に揺らぐという那須家の構造的問題を白日の下に晒した 13 。
この、いわば時限爆弾ともいえる家中の不安定さは、資晴の代に天下統一という巨大な外的圧力が加わった際に、決定的な破局をもたらすことになる。資晴が後に選択する強硬な親北条路線は、この家中の脆弱性を乗り越えようとする賭けであったとも解釈できるが、結果としてそれは裏目に出ることになるのである。
那須資晴は、弘治2年(1556年)または弘治3年(1557年)に、那須資胤の嫡男として烏山城で生を受けた 3 。母は那須七騎の一角である芦野氏の娘であった 1 。『那須記』によれば、永禄10年(1567年)には、わずか12歳で父に従い初陣を経験したとされ、幼少期から戦乱の世に身を投じていたことが窺える 1 。
天正11年(1583年)、父・資胤が死去すると、資晴は28歳で那須家の家督を相続した 1 。しかし、若き新当主の船出は平穏ではなかった。那須家の代替わりを好機と見た常陸の佐竹義重が、長年の宿敵である宇都宮国綱と連合し、那須領へと大挙して侵攻してきたのである 4 。この絶体絶命の危機に対し、資晴は臆することなくこれを迎え撃ち、見事に撃退して見せた 4 。この勝利は、資晴の武将としての器量を家臣団と周辺勢力に強く印象付ける、極めて重要な意味を持つものであった。父の代からの親佐竹路線を転換し、明確に後北条氏との連携を深めるという、資晴の新たな外交方針がこの時から始動したのである 17 。
【表2:那須氏をめぐる勢力関係図(天正期中頃)】
勢力区分 |
主要大名・勢力 |
本拠地(城) |
那須氏との関係 |
典拠 |
那須宗家 |
那須資晴 |
烏山城 |
- |
11 |
同盟・友好勢力 |
後北条氏 |
小田原城 |
親密な同盟関係 。資晴の外交の基軸。 |
2 |
|
伊達政宗 |
米沢城 |
佐竹・宇都宮連合への対抗上、連携。 |
4 |
敵対・緊張勢力 |
佐竹氏 |
太田城 |
北関東の覇権を争う最大の宿敵。 |
3 |
|
宇都宮氏 |
宇都宮城 |
領土を接し、長年抗争を繰り返す。 |
3 |
那須家中の主要勢力 |
大田原氏 |
大田原城 |
宗家の外戚。強い影響力を持つ。 |
15 |
|
大関氏 |
黒羽城 |
佐竹氏と通じ、宗家と対立した過去を持つ。 |
13 |
|
芦野氏・千本氏・福原氏・伊王野氏 |
各自の居城 |
那須七騎を構成する有力家臣団。 |
6 |
この図が示すように、那須氏は常に四方を敵に囲まれかねない危険な立場にあり、資晴の「親北条・反佐竹」という外交路線は、この厳しい地政学的状況を打開するための一つの合理的な選択であった。しかしそれは同時に、北条氏の運命と自家の運命を一体化させる、極めてリスクの高い戦略でもあった。
家督を継いだ那須資晴の治世は、彼の武将としての才能が最も輝いた時期でもあった。その頂点に位置するのが、天正13年(1585年)に起こった薄葉ヶ原の戦いである。この戦いは、単に一つの合戦の勝利にとどまらず、下野国北部の勢力図を一時的に塗り替え、那須氏の武威を周辺に知らしめた画期的な出来事であった。
この戦いの直接的な引き金は、宇都宮氏の家臣で塩谷郡の山田城主であった山田辰業による、那須領への度重なる侵略行為であった。『那須記』には、山田勢が「青稲を刈り馬草とす」と記されており、収穫前の稲を刈り取って軍馬の飼料にするという挑発的かつ経済的打撃を与える行為を繰り返していたことがわかる 5 。これに対し那須勢も反撃を行うなど、両者の間には深い遺恨が蓄積していた。
天正13年(1585年)3月、那須資晴は塩谷氏の川崎城攻略を目指して出陣する 21 。この動きを察知した宇都宮国綱は、かつて那須氏に討たれた祖父・宇都宮尚綱の仇討ちを大義名分に掲げ、芳賀氏、壬生氏ら主力を率いて約2,500の兵で出陣した 5 。宇都宮軍は那須氏の本拠・烏山城を直接衝くべく、箒川を渡り薄葉ヶ原(現在の栃木県矢板市山田付近)に進軍した 5 。
これに対し、資晴は那須七騎をはじめとする領内の兵、約1,000から1,500を率いて迎撃に向かった 21 。兵力では明らかに宇都宮軍が優勢であった。宇都宮軍は、かつて尚綱が討たれた際の教訓から、総大将である国綱の本陣を特定されないよう、全軍を23隊に分散させる陣形をとっていた 21 。これは那須勢を挟撃する狙いもあったが、兵力で劣る那須軍にとっては、各個撃破の好機ともなり得た。
戦端は、那須方の芦野盛泰や千本資政らの部隊が、宇都宮軍の分散した陣の一つに突撃することで開かれた 21 。しかし、宇都宮軍は互いに連携して加勢し、那須方の先鋒は苦戦を強いられる。この状況を打開したのは、那須七騎の重鎮であり、歴戦の将である大関高増(当時、入道して安碩と号す)の巧みな戦術であった。『那須記』によれば、安碩は、一部隊をさらに突撃させた後、全軍に偽りの退却を命じた 21 。これを追撃しようと宇都宮軍が陣形を崩して殺到したところを、伏兵と共に反転攻勢に転じ、大混乱に陥れたのである。この見事な偽装退却戦術により、戦局は一気に那須方優位に傾いた。宇都宮軍は総崩れとなり、山田辰業をはじめとする多くの将兵が討ち死にし、那須軍の圧勝に終わった 5 。
この薄葉ヶ原での大勝利は、那須氏に絶大な影響をもたらした。勢いに乗った資晴は、塩谷郡の真木城や乙畑城など、宇都宮方の城砦を次々と攻略し、那須氏の勢力圏を大きく南へと拡大させた 5 。那須氏の武威は周辺に轟き渡り、資晴の治世は軍事的な絶頂期を迎える。一方、多くの将兵を失い手痛い敗北を喫した宇都宮氏は、那須氏と連携する後北条氏の脅威を警戒し、本拠を平城の宇都宮城から、より堅固な山城である多気山城へ一時的に移さざるを得ない状況にまで追い込まれた 5 。
この合戦には、資晴の戦略家としての一面を窺わせる興味深い逸話が残されている。『那須記』によると、敗走する宇都宮国綱を追撃し、とどめを刺そうとする那須勢に対し、重臣の伊王野資宗がそれを制止した 23 。資宗は、「今、宇都宮氏を滅ぼしてしまえば、我々は強大な北条氏と直接領土を接することになる。宇都宮氏を生かしておけば、北条氏に対する防波堤となる」と進言し、資晴もこの意見を容れたという 23 。この逸話が事実であるとすれば、資晴は目先の戦果に酔うことなく、関東全体のパワーバランスを冷静に見極め、宇都宮氏を緩衝地帯として戦略的に利用するという、極めて高度な政治判断を下していたことになる。これは、彼が単なる猛将ではなく、冷徹な戦略家としての一面も併せ持っていた可能性を示唆しており、「時勢を見誤った」という後年の評価に対する重要な反証となり得る。
薄葉ヶ原の勝利によって得た威信を背景に、資晴は自らの政策をより強力に推進していく。外交面では、後北条氏や、北条氏と連携する奥州の伊達政宗との関係をさらに強化し、佐竹・宇都宮連合に対抗する姿勢を鮮明にした 4 。
内政面では、より強硬な手段に出る。薄葉ヶ原の戦いと同じ天正13年、資晴は家臣の千本常陸守為継とその子・隆継を滝寺にて謀殺した 1 。この事件の背景には、千本氏が宇都宮氏と内通していた、あるいは親北条路線に反対していたなど、様々な要因が考えられる。いずれにせよ、これは薄葉ヶ原の勝利で高まった求心力を利用し、領内の潜在的な反対勢力を一掃することで、自らの外交路線を家中隅々まで徹底させようとする、資晴の断固たる意志の表れであったと解釈できる。この一連の動きにより、那須家は資晴の下で一時的に強力な軍事力と政治的統一性を獲得し、その勢力は極点に達したのである。
那須資晴が武威を以て下野北部に覇を唱えていた頃、中央では豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進行していた。そして天正18年(1590年)、その巨大な権力の波は、ついに那須氏の運命をも呑み込んでいく。
天正18年、秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東に君臨する後北条氏の征伐を決定。全国の諸大名に対し、小田原への参陣を命じた。この命令は、北条氏と長年同盟関係にあった那須資晴にとっても、自家の存亡を賭けた運命の選択を迫るものであった。
大田原晴清や大関高増(当主は子の晴増)ら那須七騎の重臣たちは、時勢を的確に判断し、主君である資晴に秀吉への参陣を再三にわたり勧めた 6 。しかし、資晴はこれを頑として聴き入れなかった 2 。彼のこの決断の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。第一に、長年の盟友である北条氏を見捨てることへの義理立てがあったこと 2 。第二に、北条氏、伊達氏、そして自らを結ぶ三国同盟の軍事力に一縷の望みを託し、秀吉の大軍に抗し得るとの情勢判断の誤りがあったこと 19 。そして第三に、地方の独立領主としての矜持から、中央の巨大な権力に唯々諾々と従うことへの反骨心があったこと。これらは、中世的な「義理」や「同盟」といった価値観が、近世的な「天下」という中央集権体制の論理によって否定され、屈服を迫られた際に示した、一地方領主の抵抗の姿そのものであった。
だが、資晴のこの決断は、那須家にとって致命的な結果を招く。主君の説得を断念した大田原晴清、大関晴増ら那須七騎の主要メンバーは、もはや宗家と運命を共にすることはできないと判断。主家を見限り、それぞれが独自に小田原へ馳せ参じ、秀吉に謁見したのである 6 。秀吉は彼らの迅速な帰順を大いに喜び、それぞれの所領を安堵した 6 。これにより、彼らは事実上、那須宗家から独立した近世大名、あるいは旗本としての地位を確立する道を開いた 20 。これは、第一部で指摘した那須家中の構造的脆弱性、すなわち宗家と有力家臣団との間の緊張関係が、天下統一という強大な外的圧力によってついに顕在化し、那須家という連合体が内部から崩壊した瞬間であった。資晴の悲劇は、単なる彼個人の判断ミスに留まらず、主君の命令よりも自家の存続を優先するという、戦国末期における家臣団の自立性の高まりの前に、旧来の「主君」の権威が無力化していく時代の大きな変化を象徴する出来事でもあった。
【表3:小田原征伐における那須一族の動向】
人物 |
小田原征伐への対応 |
結果 |
典拠 |
那須資晴 (宗家当主) |
不参加 → 遅参 |
改易 (8万石没収) |
3 |
大田原晴清 (家臣) |
主君に先立ち独自に参陣 |
本領安堵 (1万2千石余) → 独立大名化 (大田原藩祖) |
6 |
大関晴増 (家臣) |
主君に先立ち独自に参陣 |
本領安堵 (1万石余) → 独立大名化 (黒羽藩祖) |
6 |
伊王野氏・福原氏・芦野氏・千本氏 (家臣) |
主君に先立ち独自に参陣 |
本領安堵 → 旗本として存続 |
6 |
天正18年7月、北条氏の本拠・小田原城は開城。秀吉の天下統一が事実上完成した。資晴は、もはやこれまでと観念し、宇都宮城に滞在していた秀吉の元へようやく参陣する 6 。しかし、時すでに遅かった。秀吉はその遅参を厳しく咎め、資晴が継承してきた八万石の所領をすべて没収、改易処分を言い渡した 3 。
那須氏代々の本拠であった烏山城は、秀吉によって織田信雄に与えられ、資晴は城を明け渡すことを余儀なくされた 6 。そして彼は、那須氏発祥の地ともいわれる佐良土(現在の栃木県大田原市佐良土)に築かれた館へと移り、失意のうちに隠棲生活を始めることとなった 1 。一時は北関東に武威を轟かせた驍将の、あまりにも大きな蹉跌であった。
所領をすべて失い、隠棲の身となった那須資晴。名門那須家の歴史はここで潰えたかに見えた。しかし、彼の物語はここで終わらなかった。主君を見限ったはずの家臣の機転と、資晴自身の不屈の執念によって、那須家は灰燼の中から驚くべき再起を遂げるのである。
那須家存続の最大の功労者は、皮肉にも資晴を見限り、いち早く秀吉に恭順した家臣・大田原晴清であった。天正18年8月、小田原征伐を終えた秀吉は、奥州仕置のため北上する途次、大田原晴清の居城である大田原城に二泊した 6 。この千載一遇の機会を、晴清は見逃さなかった。
彼は、病と称して面会を拒む資晴に代わり、その嫡男で当時わずか5歳の藤王丸(後の那須資景)を秀吉に謁見させるという大胆な策を講じた 6 。晴清は、幼い藤王丸を秀吉の前に進ませ、「この子は、かの有名な那須与一の子孫にございます」と、その名門の血筋を強くアピールしたのである 7 。秀吉は、父の罪を背負いながらも健気に挨拶する藤王丸の姿と、源平合戦の英雄の末裔という由緒ある家柄に心を動かされたと伝えられる。結果、秀吉は藤王丸に下野国福原(現在の大田原市福原)に5,000石の所領を与えることを約束し、那須家の家名存続を正式に認めた 4 。
この晴清の行動は、単なる旧主への忠義心や同情心だけでは説明できない。そこには、那須宗家が完全に滅亡することが、独立したとはいえ同じ那須地域に生きる自分たちにとっても長期的には望ましくないという、地域全体の安定を考慮した高度な政治的判断があったと考えられる。「那須与一」というブランドは、那須地域全体の権威の源泉であり、それを維持することは旧家臣である彼らにとっても利益となった。主君を一度は見限った家臣が、その主君の家を救うというこの逆説的な構図は、戦国武将のリアリズムと複雑な行動原理を示す好例といえよう。
一方、当の資晴自身も、隠棲の身のまま終わる男ではなかった。彼は再起を諦めず、佐良土の館から京の伏見に赴き、豊臣政権の中枢にいた石田三成や増田長盛らを頼って、粘り強く秀吉への赦免を嘆願した 1 。この執念が実り、ついに資晴は秀吉への謁見を許され、直接謝罪することができた。秀吉もその意を汲み、資晴自身にも佐良土に5,000石の所領を与えることを認めた 1 。こうして資晴は、改易からわずかな期間で、小領主としてではあるが政治の舞台への復帰を果たしたのである。
豊臣政権下では、文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)において、250騎余りを率いて肥前名護屋城(佐賀県唐津市)まで出陣し、渡海はしなかったものの、後方での守備任務を務めている 1 。
そして、慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、天下の情勢が再び流動化し始めると、資晴は次なる天下人として徳川家康に接近する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、那須一族は迷わず東軍に与した。子の資景は、会津の上杉景勝に対する北関東の防衛ラインの一翼を担い 8 、資晴自身も兵を率いて江戸の守備についたと記録されている 6 。
この東軍への味方が、資晴の晩年に予期せぬ栄誉をもたらす。関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)、資晴は徳川家康直属の「御伽衆(おとぎしゅう)」の一人に抜擢されたのである 4 。御伽衆とは、大名の側に仕え、談話の相手や顧問的な役割を担う側近であり、家康は資晴の長年にわたる北関東での経験と、佐竹氏や伊達氏といった周辺勢力の情報に精通している点を高く評価したと考えられる 33 。これは、家康が旧北条領を中心とする関東支配を盤石なものにするための戦略的な人事であり、資晴にとっては、自身の経験と知識を武器とした最後の奉公であり、失墜した名誉を回復するまたとない機会であった。この抜擢に伴い、彼はさらに1,000石を加増され、所領は合計6,000石となった 4 。
改易のどん底から這い上がり、徳川家康の側近として晩年を過ごした那須資晴。彼の波乱に満ちた生涯は、慶長14年(1609年)または15年(1610年)に、54歳で幕を閉じた 1 。しかし、彼が残した遺産は、その子の代に花開き、那須家の近世大名としての道を確固たるものにした。
資晴の死後、家督と彼の遺領6,000石を継承した子・那須資景は、元々自身が有していた5,000石余の所領と合わせ、合計で1万4,000石余の石高を領する大名となった 4 。これにより、福原を拠点とする下野那須藩が正式に立藩され、那須氏は近世大名として新たな時代を生き抜くための礎を築いたのである 37 。一度は改易された家が、当主自身の努力と子の代での飛躍によって大名に返り咲くという、稀有な事例となった。
さらに、資晴の無念を晴らすかのような出来事が、彼の死から約70年後に起こる。資景の跡を継いだ養子・那須資弥(すけみつ)が、幕府内での縁故(彼の姉は4代将軍・家綱の生母・宝樹院であった)もあって加増を受け、天和元年(1681年)、2万石の領主として、かつて資晴が追われた旧領の本拠・烏山城主として復帰を果たしたのである 39 。これは資晴の悲願であったと後世に伝えられており 4 、改易された当主の執念が、二世代の時を経て成就したという、物語的な結末を迎えた。
資晴の亡骸は、子の資景が拠点とした福原の玄性寺(げんしょうじ)に葬られたと伝わる 1 。大田原市福原に現存する玄性寺は、那須氏の菩提寺として、現在も資晴の墓と伝えられる古碑を含む那須氏一族の墓碑群を大切に守っている 14 。
那須資晴という武将を評価する際、その功罪は明確である。
武将としての資晴は、紛れもなく一流であった。薄葉ヶ原の戦いで見せた寡兵を以て大軍を破る戦術眼と、家督相続直後に佐竹・宇都宮連合軍を退けた武勇は、高く評価されるべきである 1 。
一方で、領主としての資晴は、「時勢を見誤った」という酷評がついてまわる 2 。豊臣秀吉への対応の失敗は、彼の経歴における最大の汚点であり、この一点をもって彼の政治能力を低く見る向きは多い。しかし、この評価は一面的に過ぎるかもしれない。彼の親北条路線は、佐竹・宇都宮という強大な敵対勢力に常に囲まれていた那須氏の地政学的な状況から導き出された、当時としては合理的な選択肢の一つであった。彼の失敗は、単に彼個人の資質の問題というよりも、中央集権化という時代の巨大な奔流に抗おうとした地方領主が、その波に乗り切れなかった限界と悲劇として捉えるべきであろう。
そして何よりも特筆すべきは、彼の不屈の精神である。改易という武家にとって最大の屈辱と挫折を味わいながらも、彼は決して諦めなかった。自らの力で赦免を勝ち取り、子の代での大名復帰への道筋をつけ、晩年には戦国を生き抜いた経験と知識を武器に、新たな天下人・徳川家康の側近として仕えた。その執念と適応力は、単なる「失敗した武将」というレッテルでは到底捉えきれない、人間・那須資晴の深みと強かさを物語っている。
下野国の驍将、那須資晴。彼の生涯は、地方の論理と中央の論理が激しく衝突した、戦国時代の末期という時代の転換点を映し出す縮図である。薄葉ヶ原での栄光、小田原での蹉跌、そして灰燼からの再起という劇的な人生は、組織のリーダーが時代の大きな変化に直面した時、いかにして判断を下すべきか、そして万が一失敗した時に、そこからいかにして立ち直るかという、現代社会にも通じる普遍的な問いを我々に投げかけている。
彼は、武将としての誉れと、領主としての挫折の両方をその身に刻んだ。しかし、その生涯を丹念に追うことで見えてくるのは、時代の奔流に翻弄されながらも、最後まで一族の存続と自らの名誉回復を諦めなかった一人の人間の執念である。那須資晴の物語は、戦国という時代の過酷さと複雑さ、そしてそこに生きた人間の強さ、弱さ、そして底力を理解する上で、極めて有益かつ深い示唆を与えてくれるのである。