郡宗保(こおり むねやす)、通称を主馬(しゅめ)は、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという、日本史上最も劇的な転換期を生きた武将である。豊臣秀吉に見出され、その子秀頼の代には大坂城の中枢を担う重臣として仕え、最後は大坂夏の陣で主君に殉じた、豊臣家最後の忠臣の一人としてその名を知られる 1 。しかし、彼の生涯を単なる「忠臣」という一語で要約することは、その複雑な実像を見誤ることに繋がる。彼の出自である摂津の国人という立場、最初の主君であった荒木村重の旧臣という経歴、そして黒田家や細川家といった大大名家との間に築かれた密接な関係は、彼の行動原理を多角的に解明する上で不可欠な鍵となる。
本報告書は、知行三千石の馬廻という立場にありながら、豊臣政権の中枢で特異な存在感を示した郡宗保の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に追跡するものである。特に、彼が豊臣家への「縦の忠誠」と、他の大名家との「横の繋がり」をいかにして両立させ、あるいは使い分けたのかを分析の中心に据える。近年、大阪府高槻市立しろあと歴史館において「北摂の豊臣武将 郡主馬」と題した企画展が開催されるなど 3 、地域史の観点からの再評価も進んでいる。こうした動向も踏まえ、歴史の大きな物語の陰に埋もれがちな一人の武将のリアリティに満ちた生涯を再構築し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
西暦(和暦) |
宗保の年齢 |
出来事 |
関連人物・典拠 |
1546年(天文15年) |
1歳 |
摂津伊丹城主・伊丹親保の子として誕生。 |
伊丹親保 1 |
不詳 |
不詳 |
母方の叔父・郡兵太夫正信の猶子となり、郡氏を継ぐ。 |
郡正信 1 |
1570年代 |
20代-30代 |
摂津の国人領主・荒木村重に仕える。 |
荒木村重 1 |
1578年(天正6年) |
33歳 |
主君・荒木村重が織田信長に謀反(有岡城の戦い)。宗保もこれに従う。 |
荒木村重、織田信長 5 |
1579年以降 |
34歳以降 |
村重没落後、黒田官兵衛の仲介で豊臣秀吉に仕え、馬廻衆となる。 |
豊臣秀吉、黒田官兵衛 5 |
1593年(文禄元年) |
48歳 |
文禄・慶長の役において、肥前名護屋城で兵糧船の調査を担当。 |
豊臣秀吉 1 |
1597年(慶長2年) |
52歳 |
従五位下・主馬頭に叙任。豊臣姓を下賜される。 |
豊臣秀吉 1 |
1600年(慶長5年) |
55歳 |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、大津城攻めに参加。黒田家の妻子脱出を助ける。 |
立花宗茂、京極高次、黒田長政 5 |
1600年以降 |
55歳以降 |
豊臣秀頼に仕え、大坂七手組の一つの組頭となる。 |
豊臣秀頼 5 |
1611年(慶長16年) |
66歳 |
秀頼の二条城での徳川家康との会見に供奉。禁裏普請の助役を務める。 |
豊臣秀頼、徳川家康 9 |
1614年(慶長19年) |
69歳 |
大坂冬の陣が勃発。豊臣軍の旗奉行を務める。 |
豊臣秀頼 1 |
1615年(慶長20年) |
70歳 |
5月7日、大坂夏の陣で豊臣軍が敗北。大坂城内で主君・秀頼に殉じ自害。 |
豊臣秀頼 1 |
郡宗保の生涯を理解する上で、その出自は極めて重要な意味を持つ。彼は天文15年(1546年)、摂津国伊丹城主であった伊丹親保の子として生を受けた 1 。伊丹氏は、摂津国川辺郡を本拠とした中世以来の国人領主であり、畿内における有力な武士団の一つであった 10 。この事実は、宗保が単なる成り上がりの武将ではなく、畿内に確固たる地盤を持つ武士階級の出身であったことを示している。
その後、宗保は母方の叔父にあたる郡兵太夫正信の養子(猶子)となり、伊丹姓から郡姓へと改めた 1 。この郡氏もまた、摂津国島下郡の郡山城(現在の大阪府茨木市)を拠点とし、近隣の村々を支配する有力な国人であった 6 。戦国時代において、国人領主間の婚姻や養子縁組は、一族の生存と勢力拡大を図るための極めて重要な政治的・軍事的戦略であった。宗保の養子入りも、伊丹氏と郡氏という二つの有力国人勢力の連携を強化し、群雄が割拠する摂津国内での発言力を高めるという戦略的な意図があったと推察される。
この結果、宗保は「伊丹」と「郡」という、摂津における二つの名跡と人脈をその身に背負うことになった。この二重のアイデンティティと、それに付随する摂津国人としての強固なネットワーク(荒木氏、中川氏、高山氏など)は、彼の生涯にわたる行動様式と人間関係の基盤を形成した。後の豊臣政権下で彼が西国の大大名との重要なパイプ役を担うことができた背景には、彼が元々畿内の地政学的文脈を深く理解する国人領主の出自であったことが、信頼関係の構築に有利に働いた可能性は否定できない。
郡宗保が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、摂津国を実力で統一した荒木村重の家臣としてである 1 。村重が織田信長に属すると、宗保も信長配下の武将として、畿内の平定戦に従軍したと考えられる。この時期、彼は同じ摂津国人である高山右近や中川清秀らと共に、織田軍の一翼を担っていた。
しかし、天正6年(1578年)、主君・村重は突如として信長に反旗を翻す。宗保もこの謀反に従い、有岡城(伊丹城)に籠城したとみられるが、一年近くに及ぶ籠城戦の末に有岡城は落城し、荒木氏は没落する 5 。主家を失った宗保は、他の多くの摂津国人衆と同様、新たな主君を求める浪人の身となった。
この荒木村重の謀反と滅亡は、宗保にとって最初の、そして大きな政治的挫折であった。主君の判断一つで家が滅び、自らの運命も大きく左右されるという戦国武将の非情な現実を、彼は身をもって経験したのである。この敗戦を生き延び、次なる主君・豊臣秀吉のもとで再起を果たしたという事実は、彼が単なる武勇一辺倒の人物ではなく、時勢を読む冷静な判断力と、家を存続させるための現実的な処世術をこの時に学んだ可能性を示唆している。後の関ヶ原の戦いにおける彼の行動に見られる、一見矛盾した二面的な態度の萌芽は、この最初の敗戦経験に求めることができるかもしれない。
荒木村重の没落後、浪人となった郡宗保のキャリアに転機が訪れる。黒田官兵衛(孝高)の仲介によって、織田家中で頭角を現していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えることになったのである 5 。秀吉は、旧荒木家臣団の能力を高く評価し、積極的に自らの家臣団に組み入れており、宗保もその一人であった。
秀吉の家臣となった宗保は、単なる一兵卒としてではなく、主君の親衛隊ともいうべき精鋭部隊「馬廻衆」に抜擢された 1 。さらに、その中でも選りすぐりの武者で構成される「黄母衣衆」の一員にも名を連ねていることが史料から確認できる 11 。母衣衆は、戦場で主君の伝令を務めたり、背後を守ったりする極めて名誉な役職であり、これに選ばれたことは、宗保の武勇と忠誠が秀吉から高く評価されていたことの証左である。
彼の地位は、与えられた知行高からも窺い知ることができる。宗保は、摂津国中村郡や美濃国可児郡などに、合計で3,000石の所領を与えられた 1 。これは馬廻衆としては比較的大身であり、彼が単なる側近ではなく、一定の兵力を動員できる部隊長クラスの武将として期待されていたことを示している。荒木村重の旧臣という、いわば「敗者」側の立場から、天下人への道を駆け上がる秀吉の直臣、それもエリート部隊の一員へと抜擢されたことは、秀吉の能力主義的な人材登用の好例と言える。この秀吉からの個人的な恩顧と抜擢が、後の豊臣家に対する宗保の絶対的な忠誠心の源泉となったことは想像に難くない。
豊臣政権下における郡宗保の役割は、単なる武官に留まらなかった。文禄元年(1593年)に始まった文禄・慶長の役では、彼が渡海して前線で戦ったという記録はなく、肥前名護屋城に在陣し、諸将の兵糧船の調査という後方支援、すなわち兵站管理と監察業務に従事していたことが確認されている 1 。この事実は、宗保が武勇だけでなく、実務処理能力や調整能力にも長けた、いわば官僚的な側面を併せ持っていたことを示唆している。
彼の豊臣政権内での地位を決定づけたのが、慶長2年(1597年)9月の叙任である。宗保は従五位下・主馬頭(しゅめのかみ)に叙せられ、同時に豊臣の姓を与えられた 1 。彼の通称として広く知られる「主馬(しゅめ)」は、この官職名に由来する。従五位下への叙任は諸大夫(大名や上級家臣に与えられる位)の仲間入りを意味し、さらに豊臣姓の下賜は、彼が豊臣一門に準ずる特別な存在として公に認められたことを示すものであった。
この一連の経歴は、宗保の役割が、秀吉の身辺を固める武官から、政権の運営を支える官僚、そして諸大名との調整役を担う近臣へと、その性格を徐々に変化させていった過程を物語っている。戦場での武功だけでなく、政務能力も評価され、豊臣公儀の一員として正式に位置づけられたこと。この経験と地位が、秀吉の死後、豊臣秀頼の時代に彼が果たした重要な役割へと繋がっていくのである。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は急速に流動化する。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、郡宗保は豊臣家の譜代家臣として、当然の如く西軍に与した。彼は毛利元康や立花宗茂らと共に、東軍に寝返った京極高次の居城・大津城の攻略部隊に加わった 1 。しかし、高次の徹底抗戦により、宗保ら1万5千の西軍部隊は城攻めに手間取り、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わずに終わるという結果になった 7 。
この大津城攻めの最中、宗保は彼の生涯において最も注目すべき行動の一つに出る。石田三成らが大坂で進めていた、東軍諸将の妻子を人質に取るという強硬策に対し、宗保は密に使者を大坂の黒田屋敷に派遣。黒田官兵衛・長政の妻子である光(てる)の方らの屋敷からの脱出を密かに助けたのである 5 。この一件は、黒田家の公式記録である『黒田家譜』にも記されており、黒田家から深く感謝されることとなった。
この行動は、一見すると西軍に対する裏切り行為にも映るが、その内実はより複雑である。彼の行動原理を分析すると、二元的な忠誠の姿が浮かび上がる。まず、豊臣家の家臣として西軍に参加し、大津城を攻めることは「公的」な立場としての当然の義務であった。一方で、三成の性急な人質策が、豊臣方についた諸大名の結束を揺るがしかねない愚策であると判断した可能性が高い。特に、旧知の間柄であった黒田家との信義を守り、豊臣家にとって重要な外様大名である黒田家との関係を維持することは、たとえ西軍が敗れたとしても、主君・秀頼の将来を見据えた極めて戦略的な判断であったと言える。これは、単純な裏切りではなく、「石田三成が主導する西軍」への忠誠と、「豊臣家そのもの」への忠誠を区別し、後者を優先した結果と解釈できる。荒木村重の没落で学んだであろう、家を存続させるための現実主義と、摂津国人として培われた横の繋がりを重視する価値観が融合した、高度な政治的リアリズムの表れであった。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した後も、郡宗保は改易されることなく、引き続き豊臣秀頼に仕えることを許された。これは、関ヶ原での黒田家への恩義が、徳川家康の判断に影響した可能性も考えられる。彼は大坂城にあって、城の武力の中核をなす七つの常備部隊「七手組」の一つの組頭を務め、豊臣家の重臣としての地位を保持した 5 。
この時期の宗保の最も重要な役割は、軍事的なものよりも、むしろ政治的・外交的なものであった。徳川の天下において、一大名へとその地位を落とされた豊臣家と、幕藩体制下の諸大名との関係を調整する、重要な交渉役を担ったのである。特に、筑前福岡藩主となった黒田長政との関係は密であり、長政が徳川家への忠誠を誓うために提出した起請文の中で、例外的に交流のある大坂方の人物として、片桐且元らと共に宗保の名を挙げている史料が存在する 15 。これは、宗保が徳川方からも公認された、豊臣家の公式な交渉窓口として機能していたことを物語っている。
また、慶長16年(1611年)には、豊臣秀頼が二条城で徳川家康と会見した際に供奉し、同年には大坂衆の一員として禁裏(皇居)の普請事業にも参加している 9 。これらの事実は、豊臣家が依然として公儀の一翼を担う存在として扱われており、宗保がその実務を担う重臣であったことを示している。関ヶ原後の宗保は、徳川の厳しい監視下で、滅びゆく豊臣家の威信を保ち、外部世界との関係を維持するという、極めて繊細かつ重要な「外交官」としての役割を担っていたのである。
徳川家康と豊臣家の対立が避けられないものとなった慶長19年(1614年)、大坂の陣の火蓋が切られた。この豊臣家存亡の戦いにおいて、郡宗保は豊臣軍の旗奉行という極めて重要な役職を務めた 1 。旗奉行は、主君の馬印や旗指物を守護する部隊の長であり、武門の誉れの最高峰とされる役職である。この人事は、宗保が豊臣秀頼から寄せられていた絶大な信頼の証左に他ならない。
宗保は冬の陣、そして翌年の夏の陣を通じて、豊臣方の主力武将の一人として奮戦した 5 。しかし、兵力において圧倒的に優勢な徳川軍の前に、豊臣方は次第に追い詰められていく。慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣の最終決戦である天王寺・岡山の戦いで、真田信繁(幸村)らが壮絶な討死を遂げ、豊臣軍は総崩れとなった 16 。大坂城の落城は、もはや時間の問題であった。
豊臣軍の敗北が決定的となる中、郡宗保は自らの最期を悟る。慶長20年(1615年)5月7日、燃え盛る大坂城内において、主君・豊臣秀頼に殉じ、自ら命を絶った 1 。享年70。彼の生涯は、豊臣家の栄光と滅亡とを共にした、まさに忠臣のそれであった。
その壮絶な最期は、後世の軍記物にも語り継がれている。1672年に刊行された『大坂物語』には、宗保の自害の場面が挿絵付きで描かれている。それによれば、敗戦の混乱の中、宗保は身分の低い徳川方の雑兵に主君の旗を渡すことを潔しとせず、城内に退いて自刃したと記されている 17 。この逸話は、彼の武士としての高い誇りと、最後まで豊臣家への忠節を貫いた姿を象徴している。
宗保の自害は、単に敗戦の責任を取るという行為を超えた意味を持つ。秀吉に抜擢され、豊臣姓まで与えられた彼にとって、豊臣家への奉公は自らの存在意義そのものであった。秀頼の近侍として、滅びゆく主家の運命を最後まで見届け、その終焉を共にするという選択は、彼の生涯を貫いた忠義の論理的な、そして必然的な帰結であった。関ヶ原で見せた「家の存続」のための現実主義と、大坂城で示した「主君への殉死」という忠義は、一見矛盾しているようで、その根底には「豊臣家」という絶対的な対象への、状況に応じた最善の奉公という一貫した論理があった。彼の死は、戦国時代的な「主君と生死を共にする」という価値観が、江戸時代という新たな秩序の前に消えゆく、その最後の輝きの一つであったと言えよう。
郡宗保は自らの命を豊臣家に捧げたが、その一方で、一族の血脈を未来に繋ぐための布石を巧みに打っていた。その中心となったのが、娘たちの婚姻政策である。
長女とされる藤(ふじ、松の丸とも)は、大大名である細川忠興の側室となった 1 。彼女は忠興との間に娘・古保(こほ)を儲け、古保は細川家の家老である松井興長に嫁いでいる 18 。この婚姻は、豊臣家臣である郡家と、天下の情勢を左右する力を持つ細川家との間に、極めて強力なパイプを築くものであった。
四女の慶寿院(けいじゅいん)の経歴はさらに複雑である。彼女は最初、明智光秀の家臣であった木村伊勢守に嫁いだ 1 。しかし夫と死別した後、細川藤孝の異母兄・三淵藤英の子であり、細川家・徳川家に仕える旗本であった三淵光行と再婚している 1 。この再婚は、姉の藤が細川家にいた縁によるものと推測され、郡家と細川家の関係の深さを改めて示している。
さらに、宗保自身の妹は、伊丹氏の出身で後に黒田家の重臣となる加藤重徳に嫁いでいた 22 。こうした重層的な姻戚関係は、宗保が個人的な才覚だけでなく、巧みな婚姻戦略を通じて、激動の時代を生き抜くための広範な人脈ネットワークを構築していたことを示している。
宗保が築いた人間関係と婚姻政策は、彼の死後、見事に実を結ぶ。自らは大坂城と運命を共にしたが、その血脈は新たな時代に適応し、存続していくことになった。
その最も象徴的な例が、黒田家への仕官である。宗保の四女・慶寿院が、最初の夫との間にいた子(あるいは養子)である萱野長政の子・慶成を引き取って育てていたが、この慶成が後に筑前福岡藩主・黒田長政に召し抱えられ、「郡正太夫(こおり しょうだゆう)」と称した 1 。これは、関ヶ原の合戦の際に宗保が黒田家の妻子を救った恩義に、黒田家が報いた結果に他ならない。宗保の「投資」が、息子の仕官という形で結実したのである。
この郡正太夫慶成は、武士としてもその名声を高めた。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱において、黒田軍の一員として従軍した彼の活躍は目覚ましく、総大将の一人であった福山藩主・水野勝成から直々に盃を与えられて賞賛されたという逸話が、『名将言行録』などの記録に残っている 23 。これは、宗保の子孫が武士としての名誉を保ち、江戸時代の武士として確固たる地位を築いたことを示すものである。
また、慶寿院が再婚相手の三淵光行との間に儲けた三人の男子のうち、次男は郡藤正と名乗り、母方の郡姓を継いだ 1 。これにより、郡家の血脈は旗本・三淵家の一族としても後世に伝えられた。宗保は、主君への「縦の忠誠」を貫いて自らは滅びの道を選びながらも、娘たちの婚姻や旧来の恩義といった「横の繋がり」を駆使することで、自らの一族を新たな時代へと見事に送り出すことに成功した。彼は、極めて思慮深い家長でもあったのである。
郡宗保の生涯は、摂津の一国人から身を起こし、豊臣秀吉という稀代の天下人に見出されて中央政権の重臣となり、最後は主家・豊臣家の滅亡に殉じた、まさに戦国乱世の終焉を象徴するものであった。彼は単なる武勇の士ではなく、兵站を管理する有能な官吏であり、大大名との折衝を担う外交官でもあった。そして、主君への絶対的な忠誠を貫きながらも、巧みな婚姻政策や人間関係の構築によって一族の存続を図る、現実的な家長としての顔も併せ持っていた。
彼の生き様は、戦国時代から江戸時代へと移行する中で、多くの武士が直面した「忠義」と「家の存続」という二つの相克する課題に、彼がいかに向き合ったかを示す貴重な事例である。関ヶ原では黒田家を助けて家の存続への布石を打ち、大坂の陣では豊臣家に殉じて忠義を全うした。この一見矛盾する二つの行動は、共に「豊臣家」という主軸に対して、異なる状況下で彼が下した最善の判断であった。豊臣家への殉死という「滅びの美学」と、子孫を新時代に適応させた「存続の戦略」を両立させた点にこそ、郡宗保という武将の真の価値と歴史的深みを見出すことができる。
彼の名は、真田信繁や後藤基次のような大坂の陣のスター武将たちの影に隠れがちである。しかし、高槻市や茨木市といった北摂地域における彼の歴史的重要性は、地域史の中で確固たる位置を占めている 3 。彼の生涯を丹念に追うことは、中央の大きな歴史物語だけでは見えてこない、地域に根差し、時代の荒波の中を必死に生きた武士たちのリアルな姿を我々に教えてくれるのである。