最終更新日 2025-07-08

野村直隆

近江国友の鉄砲頭、野村直隆の生涯 ―浅井、織田、豊臣の時代を駆け抜けた武将の実像―

【巻頭資料】

表:野村直隆 年譜

西暦/和暦

野村直隆の動向

関連する歴史的出来事

生年不詳

近江国坂田郡野村に生まれると伝わる 1

永禄13年/元亀元年 (1570)

浅井長政の家臣として横山城主を務める。三田村国定、大野木秀俊らと共に織田信長の軍勢に対し籠城 2

織田信長、越前朝倉氏を攻撃。浅井長政が織田との同盟を破棄。姉川の戦い勃発。

姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が敗北した後、横山城を開城し、小谷城へ退く 2

姉川の戦い。

元亀2年 (1571)

居城である国友城(砦)にて、織田方に寝返った宮部継潤の攻撃を受けるも、これを撃退する 1

織田信長による比叡山焼き討ち。

天正元年 (1573)

主君・浅井長政が自刃し、浅井家が滅亡。織田信長に降伏し、その配下となる 1

小谷城の戦い。浅井家滅亡。

天正10年 (1582)

本能寺の変。織田信長死去。山崎の戦い。

天正10年以降

豊臣秀吉に仕え、旗本の鉄砲頭となる。近江国友に2万石の知行を与えられる 2

秀吉、天下統一事業を本格化。

天正18年 (1590)

豊臣軍の一員として小田原征伐に従軍。銃士300(または200)を率いる 2

小田原征伐。豊臣秀吉による天下統一が完成。

文禄元年 (1592)

文禄の役に際し、銃士250を率いて肥前名護屋城に駐屯する 2

文禄の役(朝鮮出兵)。

文禄4年 (1595)

秀吉の草津湯治に際し、信濃浦野城の警固を担当する 2

豊臣秀次切腹事件。

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦いで西軍に与する。軍監として伏見城攻めに参加 2

関ヶ原の戦い。

慶長5年以降

西軍敗北後、改易されたと見られ、その後の消息は不明となる。没年も不詳 1

徳川家康による江戸幕府の基盤確立。

序章:乱世を生き抜いた専門技術者集団の長

戦国時代から安土桃山時代にかけて、日本の歴史は大きな転換点を迎えた。その激動の時代を、一人の武将として、そして特異な専門技術者集団の長として生き抜いた人物がいる。その名は野村直隆(のむら なおたか)。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の影に隠れ、歴史の教科書で大きく扱われることはない。しかし、彼の生涯は、この時代の軍事、政治、そして社会の変容を映し出す、極めて重要な事例である。

野村直隆のキャリアは、北近江の戦国大名・浅井長政の家臣として始まる 5 。彼はやがて、当時最先端の軍事技術であった鉄砲の生産地・近江国友を拠点とする鉄砲衆の頭領として、その名を戦国の世に刻むことになる 1 。主家である浅井家が滅亡の淵に立たされた後も、彼はその類稀な専門技術と統率力によって生き残りの道を見出し、織田信長、そして豊臣秀吉という当代随一の権力者に仕え、重用された 2

彼の物語は、単なる一武将の立身出世譚ではない。それは、伝統的な門地や武勇だけでなく、鉄砲という新しいテクノロジーを掌握し、それを運用する専門家集団を率いる能力が、武士の価値を決定づける時代へと移行していく過程そのものを体現している。主家が滅びようとも、その手に持つ技術力と組織力は、新たな支配者にとって垂涎の的であった。野村直隆の生涯を追うことは、血統や土地に根差した中世的武士から、能力と専門性によって評価される近世的武官へと変貌を遂げていく、武士階級の一つの典型を解き明かすことに他ならない。本稿では、この野村直隆という人物の生涯を徹底的に掘り下げ、彼が時代の変遷の中で果たした役割と、その歴史的意義を明らかにしていく。

第一章:出自と浅井家臣時代 ―北近江の動乱の中で―

野村直隆が歴史の表舞台に登場するのは、浅井家の家臣としてである。彼の前半生は、北近江の地域社会に深く根差し、戦国時代の地方武士が持つ典型的な特徴と、鉄砲という新時代の技術を巡る特異な状況が交錯するものであった。

一. 謎に包まれた出自と一族

野村直隆の正確な生年は伝わっていないが、その出自は近江国坂田郡野村(現在の滋賀県長浜市野村町)であったとされる 1 。一説には、近江源氏佐々木六角氏の流れを汲む一族が浅井郡野村に住んだことから野村姓を名乗ったとも伝わるが、これを裏付ける確かな史料は乏しく、あくまで伝承の域を出ない 1 。彼の幼少期や青年期に関する記録はほとんど残されておらず、その前半生は謎に包まれている。

通称を藤左衛門(とうざえもん)といい、後に肥後守(ひごのかみ)を名乗り、晩年には出家して肥後入道(ひごにゅうどう)と称した 2 。彼の家族構成についても不明な点が多いが、息子に直俊(なおとし)という人物がいたことが記録されている 3

彼の社会的地位を考察する上で極めて重要なのは、その縁戚関係である。直隆は、同じく浅井家臣であった島秀親(しま ひでちか)や樋口直房(ひぐち なおふさ)と「相婿(あいむこ)」、すなわち妻同士が姉妹という関係にあった 2 。これは単なる個人的な親族関係に留まらない。戦国時代の地方大名家において、家臣団は独立性の高い国人領主たちの連合体という側面を持っており、彼らの結束を固めるために婚姻政策は極めて重要な意味を持っていた。野村、島、樋口という三家が相婿関係を結んでいたという事実は、彼らが浅井家臣団の中で一個の政治的・軍事的グループを形成し、相互に連携・支援し合う強固な同盟関係にあったことを示唆している。この人的ネットワークは、家臣団内での発言力を高め、戦場での連携を円滑にし、そして何よりも不安定な政治情勢の中での安全保障として機能したであろう。直隆の力は、後述する国友衆の掌握のみならず、こうした北近江の武士社会に張り巡らされた緊密な人間関係にも支えられていたのである。

二. 鉄砲産地・国友との関わり

野村直隆の名を不朽のものとしたのは、彼と日本最大の鉄砲生産地・国友(くにとも)との深い関わりである。彼は「国友衆の頭(かしら)」あるいは「国友鍛冶の鉄砲頭」として知られ、事実上この軍事技術者集団を統率する領主であった 1 。彼の居城も国友に置かれていたとされ、この地は彼の権力基盤そのものであった 1

国友村は、戦国時代において戦略的に極めて重要な拠点であった。ここで生産される鉄砲は、浅井家が織田家や六角家といった強大な隣国と渡り合うための生命線であり、その生産と供給を管理する直隆の役割は計り知れないほど大きかった 9 。彼の立場は、単に米の収穫高によって石高を計られる伝統的な封建領主とは一線を画す。彼の領地は農業生産地ではなく、高度な技術を持つ職人たちが集住する軍事工業地帯であり、彼の「家臣」は農民ではなく、熟練の技術者たちであった。

この特異な立場は、彼に特別な影響力をもたらした。彼の任務は、土地を管理するだけでなく、原材料の調達、職人の組織化、品質管理、そして主君である浅井長政への安定的納入といった、現代でいうところの軍需工場の運営管理者に近いものであったと考えられる。この鉄砲生産という戦略的価値の高い資源を独占的に掌握していたことこそが、野村直隆を浅井家にとって不可欠な存在たらしめ、後の主家滅亡という危機を乗り越える最大の要因となったのである。

三. 横山城の攻防と姉川の戦い

野村直隆が歴史の表舞台にその武勇を鮮やかに示す最初の機会は、元亀元年(1570年)に訪れた。この年、織田信長は長年の同盟者であった浅井長政に裏切られ、両家の関係は決定的に破綻する 11 。信長は報復として直ちに浅井領へと侵攻し、その矛先を近江と美濃の国境に位置する浅井方の重要拠点、横山城に向けた 12 。この城の守将に任じられていたのが、野村直隆であった。

直隆は、三田村国定(みたむら くにさだ)、大野木秀俊(おおのぎ ひでとし)といった同僚の将と共に横山城に籠城し、織田軍の猛攻に対して一歩も引かぬ頑強な抵抗を見せた 2 。この予想外の抵抗により、織田軍は城攻めに手間取り、足止めを食らうことになる。この状況を打開するため、主君・浅井長政は同盟関係にあった越前の朝倉景健(あさくら かげたけ)の援軍と共に、横山城を救援すべく出陣した。そして、この救援軍と、城を包囲する織田・徳川連合軍が姉川の河原で激突する。これが、戦国史に名高い「姉川の戦い」である 2

つまり、姉川の戦いは、野村直隆らが守る横山城の攻防戦が直接的な引き金となって発生した合戦であった。直隆の指揮下にあった守備隊の奮戦がなければ、この大規模な野戦は起こらなかった可能性さえある。戦いの結果は浅井・朝倉連合軍の惨敗に終わった。後詰を失った横山城はもはや孤立無援となり、直隆は城を開城。部隊を率いて主君の居城である小谷城へと退却した 1 。緒戦での奮闘は実らなかったものの、彼の名は織田方にも知られることとなったであろう。

四. 主家滅亡までの抵抗

姉川での大敗により、浅井家の勢力は大きく傾いた。しかし、そのような劣勢の中にあっても、野村直隆は指揮官としての卓越した能力を発揮し続ける。その真価が問われたのが、翌元亀2年(1571年)の国友城防衛戦である。

この年、かつての同僚でありながら織田方に寝返った宮部継潤(みやべ けいじゅん)が、直隆の拠点である国友の砦(国友城)に攻め寄せた 2 。宮部継潤は浅井家の内情を知り尽くした有能な武将であり、この攻撃は国友という鉄砲生産拠点を奪取しようとする織田方の戦略的な一手であった。しかし、直隆は巧みな防衛戦術を展開し、この攻撃を見事に撃退することに成功する 1

この勝利は、敗戦続きであった浅井家にとって数少ない明るい知らせであったと同時に、野村直隆個人の評価を決定的に高める出来事であった。主家の運命が風前の灯火となる中で、彼は自らの拠点と専門家集団を守り抜いた。この事実は、彼の指揮官としての粘り強さと戦術眼、そして彼が率いる国友衆の戦闘能力の高さを内外に証明した。やがて天正元年(1573年)に浅井家が滅亡した際、勝者である織田信長が直隆を処断せず、自らの家臣として迎え入れた背景には、この国友城での戦功が大きく影響していたと考えられる。信長は、敵として戦った直隆の中に、単なる旧時代の敗将ではなく、自らの天下布武事業に不可欠な「鉄砲」という技術を司る、利用価値の高い有能な専門家としての姿を見ていたのである。

第二章:織田・豊臣政権下の鉄砲頭 ―天下人の下での飛躍―

浅井家の滅亡は、野村直隆にとって主君を失うという悲劇であったが、同時に彼のキャリアが大きく飛躍する転機ともなった。彼の持つ専門技術と組織力は、天下統一を目指す新たな支配者たちにとって、見過ごすことのできない価値を持っていた。

一. 天下布武への臣従

天正元年(1573年)、織田信長の猛攻の前に小谷城は落城し、主君・浅井長政は自刃して果てた。北近江に君臨した戦国大名・浅井氏は、ここに滅亡する。主家と運命を共にする武将も多い中、野村直隆は現実的な選択を下す。彼は勝者である信長に降伏し、織田家の家臣として仕える道を選んだ 1

この決断は、単なる保身のためだけではなかった。当時、織田信長は誰よりも鉄砲の軍事的価値を理解し、その大量運用によって日本の戦術を根底から覆そうとしていた革新者であった。信長にとって、日本最大の鉄砲生産地である国友と、その地を統率し、鉄砲の扱いに習熟した専門家集団を率いる野村直隆は、まさに渇望していた人材であった。直隆の降伏を受け入れた信長は、彼を自らの軍団に組み込むことで、この重要な軍事技術基盤を無傷で手に入れることに成功した。こうして直隆は、新たな主君の下で、その能力をさらに発揮する機会を得たのである。

二. 豊臣家旗本としての地位と知行

天正10年(1582年)、本能寺の変によって信長が非業の死を遂げると、日本の政治情勢は再び流動化する。この混乱を収拾し、信長の後継者として天下人の地位に駆け上がったのが、羽柴(豊臣)秀吉であった。野村直隆は、この権力の移行期にも巧みに対応し、秀吉の配下へと転じる 2

秀吉の下で、直隆の地位はさらに向上した。彼は秀吉直属の精鋭部隊である「旗本」の一員となり、その中でも特に重要な「鉄砲頭」に任じられた 2 。これは、秀吉の側近として、その軍事力の中核をなす鉄砲隊の指揮を委ねられるという、絶大な信頼の証であった。

その信頼は、彼に与えられた知行にも表れている。直隆は、自らの拠点である近江国友を中心に2万石の所領を安堵された 5 。2万石といえば、小大名に匹敵する禄高である。しかし、この知行の性質については、歴史家の高柳光寿による重要な指摘がある。高柳は、この2万石が一般的な土地支配に基づく石高ではなく、直隆が指揮下に置く数百名の鉄砲足軽たちの給与や武具の維持費などを含んだ、包括的な活動予算のようなものであったのではないかと推察している 2

この見解が正しければ、豊臣政権の合理的で機能的な軍事組織体制が浮かび上がってくる。秀吉は、土地を細かく割り当てる封建的な方法ではなく、特定の軍事機能を担う専門部隊の司令官に、その運営に必要な経費を一括して支給するという、より近代的で効率的なシステムを採用していたと考えられる。この中で野村直隆は、単なる領主ではなく、豊臣軍という巨大な軍事機構の中で「鉄砲戦力」という特定の能力を提供する、高度に専門化された部門の責任者として位置づけられていたのである。彼の役割は、封建領主から、天下人の軍団を支えるプロフェッショナルな軍事官僚へと変貌を遂げていた。

三. 天下統一事業への貢献

豊臣家の旗本鉄砲頭として、野村直隆は秀吉が推し進める天下統一事業の最前線で活躍した。彼が率いる国友の鉄砲衆は、豊臣軍の主要な戦役において、その圧倒的な火力を提供した。

天正18年(1590年)、秀吉が日本の統一を完成させる最後の戦いである小田原征伐が始まると、直隆もこれに従軍した。『豊臣秀吉小田原陣陣立』によれば、彼は300名(一説には200名)の銃士を率いて参陣しており、これは当時の軍隊において非常に大規模な鉄砲部隊であった 2 。この戦力は、豊臣軍の攻撃力の中核を担ったに違いない。

天下統一後、秀吉の目は海外へと向けられる。文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)においても、直隆は重要な役割を果たした。彼は250名の銃士を率いて、出兵の前線基地である肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に駐屯した 2 。彼が直接渡海した記録はないが、後方支援部隊および戦略予備兵力として、遠征軍全体を支える重要な任務を担っていたことがわかる。

さらに、文禄4年(1595年)には、秀吉個人からの信頼の厚さを示す出来事があった。秀吉が草津温泉へ湯治に赴いた際、直隆は秀吉の馬廻組の一つである中井組と共に、道中の要衝である信濃国浦野城(真田氏の支城)の警固を命じられている 2 。これは、天下人の身辺警護という極めて繊細かつ重要な任務であり、彼が単なる鉄砲の専門家としてだけでなく、忠実で信頼に足る武将として秀吉に認識されていたことを物語っている。浅井家の一家臣から、天下人の側近部隊を率いる指揮官へ。野村直隆のキャリアは、豊臣政権下でまさに頂点を迎えたのである。

第三章:関ヶ原、そして歴史からの退場

豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢に再び巨大な亀裂を生じさせた。豊臣家への忠誠を誓う者たちと、新たな天下を狙う徳川家康。この対立が頂点に達したのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。野村直隆もまた、この天下分け目の争乱に巻き込まれ、彼の運命は最後の転回点を迎える。

一. 西軍参加という選択

秀吉亡き後、豊臣政権内で徳川家康の権勢が急速に拡大する中、石田三成ら奉行衆はこれに対抗すべく兵を挙げた。世に言う西軍である。野村直隆は、この決戦に際して迷わず西軍に与した 3

彼のこの選択は、極めて自然な帰結であったと言える。彼は浅井家滅亡後、豊臣秀吉によってその能力を見出され、旗本鉄砲頭、2万石の知行という破格の待遇を受けた。その恩顧は計り知れないものであった。彼にとって、秀吉の遺児である豊臣秀頼をないがしろにし、天下を簒奪しようとする家康に味方することは、亡き主君への裏切り行為に他ならなかったであろう 1 。彼の西軍参加は、政治的な損得勘定よりも、武士としての「恩」と「忠義」を重んじた結果であったと考えられる。長年にわたり豊臣家の直属部隊を率いてきた彼の立場からすれば、豊臣家を守るために戦うことこそが、自らの存在意義を示す道であった。

二. 伏見城攻めにおける役割

慶長5年(1600年)夏、関ヶ原の戦いの前哨戦として、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城への攻撃を開始した。野村直隆もこの伏見城攻めに参加しているが、その際の役職は彼の軍歴の集大成とも言えるものであった。史料によれば、彼はこの戦いで「軍監(ぐんかん)」を務めたと記録されている 2

軍監とは、単なる一介の部隊長ではない。総大将の代理として戦場の各部隊の働きを監督し、戦況を報告し、時には諸将間の連携を調整する、極めて高い権限と責任を持つ役職である。この役目を任されるのは、豊富な実戦経験と高い戦術眼、そして諸将から一目置かれる威信を兼ね備えた、信頼の置けるベテラン指揮官に限られる。西軍の首脳部が野村直隆を軍監に任命したという事実は、彼が単なる鉄砲のスペシャリストとしてではなく、30年以上にわたる戦歴を持つ老練な武将として、高く評価されていたことを示している。伏見城攻めという、関ヶ原の戦いの緒戦を飾る重要な作戦の監督を任されたことは、彼の武将としてのキャリアの頂点であったと言えよう。

三. 消息不明の謎

伏見城は西軍の猛攻の前に落城したが、これが野村直隆が歴史の記録に登場する最後の場面となった。関ヶ原の本戦に彼が参加したという記録は存在しない。そして、慶長5年9月15日、関ヶ原で西軍が壊滅的な敗北を喫した後、野村直隆は歴史の表舞台から忽然と姿を消す。

西軍に与した大名の多くがそうであったように、彼もまた戦後に所領を没収され、改易処分となったことは確実である 1 。しかし、その後の彼がどこでどのように生きたのか、そしていつ、どこで亡くなったのかを伝える史料は一切存在しない。彼の人生は、伏見城攻めを最後に、深い謎の中に閉ざされてしまったのである。

この消息不明という結末は、野村直隆個人の悲劇であると同時に、一つの時代の終わりを象徴している。徳川家康による新たな支配体制が確立される過程で、豊臣家に忠誠を尽くした多くの有能な武将たちが、その地位と財産を奪われ、歴史の闇へと葬り去られた。野村直隆のその後の沈黙は、徳川の勝利がいかに徹底したものであったか、そして敗者となった豊臣恩顧の家臣たちの運命がいかに過酷であったかを物語っている。彼の知られざる墓は、関ヶ原の戦いがもたらした権力構造の抜本的な転換と、それに伴う無数の人々の人生の断絶を、静かに証言しているかのようである。

終章:野村直隆という武将の歴史的評価

野村直隆の生涯は、戦国乱世の終焉と新たな時代の幕開けという、日本の歴史における一大転換期を駆け抜けた、一人の専門技術者武将の軌跡である。彼の歴史的評価は、その多面的なキャリアを通じて考察されるべきである。

一. 指揮官としての能力

野村直隆は、極めて有能で、状況適応能力に優れた指揮官であった。その軍事的手腕は、彼のキャリアの各段階で証明されている。浅井家臣時代には、横山城での粘り強い防衛戦で姉川の戦いの火蓋を切り 2 、国友城では自らより優勢な敵の攻撃を独力で撃退した 1 。これらの戦いは、特に防衛戦における彼の卓越した指揮能力を示している。

豊臣政権下では、数百人規模の鉄砲隊を率いる専門部隊の司令官として、小田原征伐や文禄の役といった大戦役に参加し、その役割を全うした 2 。そしてそのキャリアの最後には、伏見城攻めで軍監という重責を担った 2 。これは、彼の長年の経験と実績が、豊臣方の上層部から絶大な信頼を得ていたことの証左である。彼は、時代の最先端技術を駆使する部隊を率いる能力と、伝統的な武将としての戦術眼を兼ね備えた、稀有な指揮官であったと言える。

二. 逸話と人物像

確かな史料に基づく直隆の人物像は、実直で有能な専門家武将というものである。しかし、後世には彼の人物像に異なる彩りを添える、興味深い逸話が生まれている。その一つに、彼が身長約210センチメートル、体重約250キログラムにも及ぶ大巨漢であったというものがある 16

この記述は、同時代の信頼できる史料には見られず、その信憑性は極めて低いと言わざるを得ない。しかし、このような伝説が生まれた背景を考察することには意味がある。なぜ、野村直隆は「巨人」として語られるようになったのか。それは、彼が率いた国友鉄砲衆の威力が、人々の心に強烈な印象を刻み付けたからではないだろうか。轟音と共に敵をなぎ倒す鉄砲の力は、当時の人々にとってまさに人知を超えたものであり、その「雷と稲妻」を操る集団の長である直隆に、超人的な身体的特徴を投影するのは、民衆の想像力として自然な発露であったかもしれない。この逸話は、史実としての彼ではなく、後世の人々が彼の武威をどのように記憶し、語り継いだかを示す、貴重な民俗学的資料と見なすことができる。

三. 歴史に遺した足跡

野村直隆は、天下を動かした英雄ではない。しかし、彼の生涯は、彼が生きた時代の本質を鮮やかに映し出している。

第一に、彼は鉄砲という軍事革命の申し子であった。彼の価値は、血筋や伝統的な武芸ではなく、新しい技術を掌握し、それを組織的に運用する能力にあった。彼の存在は、戦国時代の戦いが、個人の武勇から組織的な火力へとその重心を移していったことを証明している。

第二に、彼は激動の時代を生き抜く中級武士のサバイバル戦略の好例である。主家・浅井家の滅亡という絶望的な状況から、自らの専門性を武器に織田、豊臣という新たな権力者の下で地位を築いたその生き様は、能力さえあれば生き残れるという、戦国時代ならではの流動性を示している。

そして最後に、彼の結末は、豊臣恩顧の家臣たちが辿った悲劇の縮図である。関ヶ原での敗北により、それまで築き上げてきた全ての地位と名誉を失い、歴史の記録から姿を消した彼の運命は、徳川による新秩序の確立が、敗者にとってどれほど非情なものであったかを物語っている。

野村直隆は、時代を創造した一人ではないかもしれない。しかし、彼は間違いなく、その時代によって創られ、そして時代に翻弄された、極めて象徴的な人物であった。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国から近世へと移行する日本の姿を、一人の武将の目線からリアルに理解するための、またとない鍵となるのである。

引用文献

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  2. 野村直隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%9B%B4%E9%9A%86
  3. 野村直隆とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%9B%B4%E9%9A%86
  4. 野村直隆 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%9B%B4%E9%9A%86
  5. 野村直隆(のむら なおたか)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%9B%B4%E9%9A%86-1100387
  6. 野村直隆(のむらなおたか)『信長の野望・創造PK』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzouPK_data_d.cgi?equal1=3B06
  7. 野村(姉川)合戦の野村町を歩く 北国脇往還 - daitakuji 大澤寺 墓場放浪記 https://www.daitakuji.jp/2016/10/06/%E9%87%8E%E6%9D%91-%E5%A7%89%E5%B7%9D-%E5%90%88%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%94%BA%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F-%E4%B8%80%E6%9C%AC%E6%9D%89%E3%81%AE%E4%BA%94%E8%BC%AA%E5%A1%94/
  8. 浅井家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/asaiSS/index.htm
  9. 第三話 家督継承の根回し - 長政記~戦国に転移し、滅亡の歴史に抗う(スタジオぞうさん) https://kakuyomu.jp/works/16818093092828939670/episodes/16818093092855435382
  10. 長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う https://ncode.syosetu.com/n5003gr/12/
  11. 浅井長政の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91240/
  12. 横山城_(近江国)とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%9F%8E_%28%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%29
  13. 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375
  14. 姉川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 野村直隆 (のむら なおたか) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12030805164.html
  16. 身長2メートル超えの大巨漢!?姉川の戦いで本多忠勝と一騎討ちしたとされる『真柄直隆』とは?【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/197970