本報告書は、戦国時代の紀伊国に生きた一人の武将、野長瀬盛秀(のながせ もりひで)の生涯と、彼の一族が辿った数奇な運命を、現存する史料と地域に根付く伝承に基づき、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。盛秀の名は、戦国時代の著名な武将たちと比べれば全国的な知名度こそ低い。しかし、彼の悲劇的な最期は、戦国乱世の終焉と豊臣秀吉による中央集権体制の確立という、日本史の大きな転換点を象徴する出来事であった。彼の物語は、巨大な権力の奔流に抗った一地方豪族の矜持と悲劇の記録に他ならない。
天正十三年(1585年)、羽柴秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、紀伊国へ大軍を派遣した 1 。古来より熊野信仰の聖地として独自の文化圏を形成し、独立性の強い国人衆や、根来寺・雑賀衆に代表される強力な寺社・傭兵集団が割拠する紀伊は、中央の権力にとって長らく「治めがたき国」であった 2 。特に、寺社勢力は広大な荘園と「検断不入」と呼ばれる治外法権的な権力を保持し、一種の独立国家の様相を呈していた 3 。この特異な地域性が、秀吉の紀州征伐をいかに苛烈なものへと導いたか、その背景を理解することが、野長瀬盛秀の運命を解き明かす鍵となる。
野長瀬氏の系譜は、複数の史料において清和源氏、八幡太郎義家の子である源義忠を祖とすると記されている 4 。『野長瀬横矢系図』などによれば、義忠から数代後の経忠が初めて「野長瀬孫太郎」を名乗り、その子である頼忠が寛喜元年(1229年)に紀伊国牟婁郡近露庄(現在の和歌山県田辺市中辺路町近露)の庄司職を得て、この地に一族の基礎を築いたと伝えられる 4 。
しかし、この源氏末裔説には一つの大きな謎が存在する。南北朝時代の動乱を描いた軍記物語『太平記』には、野長瀬一族が南朝の窮地を救うべく馳せ参じた際、平家の旗印である「赤旗」を掲げていたとの記述が見られるのである 4 。源氏を称する一族が、なぜ敵対していた平家の旗を用いたのか。この矛盾は、一族の真の出自を考察する上で極めて重要な論点となる。
この謎を解く鍵は、中世武士団の流動的なアイデンティティと、家の権威を高めるための戦略的な系譜操作に見出すことができるかもしれない。一つの可能性として、野長瀬氏が元は源平合戦に敗れて近露の山中に潜んだ平家の落人の末裔であったという説が考えられる。その場合、赤旗の使用は自然なことであり、後の源氏称姓は、源氏が支配する鎌倉・室町幕府の体制下で一族の地位を安定させるための「系譜の箔付け」であったと解釈できる。また、源氏の血筋は事実でありながら、熊野地域特有の宗教的・文化的な理由から赤旗を用いた可能性や、在地で力を持っていた平家系の小豪族を吸収・統合した結果、その象徴である赤旗も受け継いだ可能性も否定できない。いずれにせよ、野長瀬氏が中央の名門意識と在地の土着性を併せ持つ、典型的な中世国人領主であったことは確かであろう。
野長瀬一族の名が歴史の表舞台に大きく現れるのは、南北朝の動乱期である。元弘二年(1332年)、鎌倉幕府に追われた後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王が熊野へ逃れた際、野長瀬六郎・七郎の兄弟が3,000余騎を率いて駆けつけ、親王を足利軍の追撃から救った功績が『太平記』巻五に高らかに謳われている 5 。
この功績により、護良親王から「横矢」の姓を賜ったとされ、以後、一族は「野長瀬」と「横矢」の二つの姓を称するようになった 4 。この出来事は一族最大の栄誉となり、後世までその誇りの源泉となった。その後も楠木正行らと共に南朝方として各地を転戦し、南北朝合一後もその後裔である「後南朝」に仕え続けたとされる 4 。特に、後南朝の皇子・尊雅王の生母が野長瀬淡路守盛矩の娘「横矢姫」であったとする系図も存在し、一族と南朝方との極めて深い関係性が窺える 5 。
長く続いた南北朝の動乱が終息すると、野長瀬氏は紀伊国の守護であった畠山氏の被官となり、紀伊の有力な国人衆(在地領主)としてその勢力を維持した 4 。これは、動乱の中で培った武力と在地での影響力を、室町幕府の支配体制の中で巧みに維持・転換させた結果と言える。
戦国時代に入ると、主君である畠山高政に従い、三好長慶との間で行われた「教興寺の戦い」などに参陣した記録が残っている 4 。このことは、野長瀬氏が単なる熊野の山間に拠る小豪族ではなく、畿内の政治・軍事動向にも直接関与する存在であったことを示している。この激動の時代に一族を率いたのが、本報告書の主題である野長瀬盛秀であった。
天正十三年(1585年)、小牧・長久手の戦いを経て実質的に徳川家康を屈服させた羽柴秀吉は、天下統一の総仕上げとして、未だ服従しない四国、九州、そして紀伊の平定に着手した 1 。中でも紀伊国は、秀吉にとって看過できない存在であった。強力な鉄砲傭兵集団である雑賀衆・根来衆を擁し、過去には織田信長の大軍をも手こずらせた実績を持つ 3 。さらに、熊野三山を中心とする寺社勢力は広大な荘園と権力を保持し、山深い地形には独立性の強い国人衆が割拠していた 3 。大坂の背後に位置するこの不安定要素を完全に排除することは、豊臣政権の安定化のために絶対不可欠な課題だったのである 1 。
秀吉は弟の羽柴秀長を総大将、甥の秀次を副将とし、筒井定次、藤堂高虎、仙石秀久、小西行長ら麾下の精鋭を動員した10万を超える大軍を編成した 1 。征伐軍はまず、紀伊北部の根来寺を攻め、抵抗する者なきまま寺を焼き払った 3 。続いて雑賀衆の拠点である太田城に対しては、大規模な水攻めを実行。降伏後、城の主だった者53人の首は天王寺で晒され、その妻ら23人は磔に処された 14 。一方で、一般の農民兵からは武器を没収した上で解放しており、これは史上初の「刀狩」とも言われる 13 。この圧倒的な武力と容赦ない処置は、紀伊全土の国人衆に恐怖を植え付け、抵抗の意思を根底から挫くための、計算され尽くした示威行為であった。
紀伊北部を制圧した後、秀長率いる本隊は、なおも抵抗を続ける南紀(牟婁郡)へと進軍した 1 。秀長の統治政策は、単なる武力一辺倒ではなかった。降伏した国人衆には所領の一部を安堵するなどの懐柔策も用い、抵抗の核となる指導者層を排除しつつ、残りを新たな支配体制に組み込むという、高度に計算された統治戦略を展開した 16 。
この紀州平定における豊臣秀長と、その腹心であった藤堂高虎の関係は、温和な統治者(秀長)と冷徹な実行者(高虎)という「アメとムチ」の役割分担として見ることができる。秀長は戦後の検地実施や和歌山城築城など、安定統治に向けた行政手腕で評価される一方 19 、藤堂高虎は築城の名手であると同時に、謀略にも長けた現実主義者であった 1 。紀州征伐において高虎は、雑賀党首領・鈴木重意や有力国人・山本康忠の謀殺など、手を汚す役割を担った記録が残っている 9 。野長瀬盛秀の悲劇は、秀長を頂点とする豊臣政権の合理的な国人衆掃討策の中で、この「ムチ」の側面が最も先鋭的に現れた結果であり、その実行者として藤堂高虎が深く関与していた可能性は極めて高い。
いくつかの資料によれば、野長瀬左近丞盛秀は天文六年(1537年)の生まれで、父は盛次とされる 23 。秀吉軍の圧倒的な力の前に、多くの国人が降伏を選ぶ中、盛秀は抵抗の道を選んだ。彼は、紀南の有力国人で亀山城主の湯河直春を盟主とする抵抗勢力に加わったのである 9 。この決断の背景には、南朝以来の独立と誇りを重んじる一族の気風と、秀吉による紀伊北部の苛烈な制圧の実態を見聞きし、安易に降伏しても一族の安泰はないという現実的な判断があったと推測される。盛秀は、栗栖川の真砂氏らと共に、熊野の険しい山岳地形を利用したゲリラ戦で、天下人の大軍に最後の抵抗を試みた 1 。
ゲリラ戦で抵抗を続ける国人衆に対し、秀長軍は武力での制圧ではなく、「和睦」を口実とした謀略を用いた。『南紀古士伝』などの記録によれば、野長瀬盛秀は、他の国人衆や熊野本宮大社の神官らを含む約160名と共に、和睦交渉の名目で風伝峠(現在の三重県熊野市と御浜町の境)に呼び出された 4 。
風伝峠は、熊野の海側と山側を結ぶ交通の要衝であり、戦略的にも重要な地点であった 24 。しかし、交渉の場で彼らを待っていたのは、豊臣方の伏兵による一方的な殺戮であった。この騙し討ちにより、野長瀬盛秀をはじめとする紀南の抵抗勢力の中核は、一挙に殲滅されたのである 9 。この事件は、豊臣政権が抵抗勢力に対しては、交渉の席でさえ命の保証をしないという非情な姿勢を明確に示したものであり、他の国人衆の戦意を完全に喪失させるに十分な効果があった。この事件は、単独の豪族の問題ではなく、紀南地域の広範な抵抗勢力が一網打尽にされた大規模な謀略であった。
氏名(通称) |
所属・拠点 |
役職・立場 |
備考 |
野長瀬 左近丞 盛秀 |
紀伊国 近露庄 |
国人領主、横矢氏 |
本報告書の中心人物。湯河直春に従い抵抗。 |
真砂氏 |
紀伊国 栗栖川 |
国人領主 |
盛秀と共に湯河直春に従う 9 。当主は真砂友家か。 |
熊野本宮大社 神官 |
熊野本宮 |
宗教勢力の指導者層 |
複数名が犠牲になったと伝わる 4 。地域の精神的支柱。 |
(その他、紀南の国人衆) |
(牟婁郡各地) |
国人領主 |
総勢160名に及ぶとされる 4 。 |
この風伝峠の謀略を直接計画し、実行した人物として、藤堂高虎の存在が強く示唆される。前述の通り、高虎は秀長の腹心として紀州征伐で活躍し、特に抵抗勢力の指導者を謀殺する任務を複数実行している 22 。同じく紀南の有力国人であった山本氏の当主・山本康忠も、和睦交渉後の帰路、紀和国境の真土峠にあった高虎の館で謀殺されている 9 。この手口は、風伝峠の事件と酷似しており、一連の国人衆掃討作戦が、高虎を中心とする部隊によって計画的かつ冷徹に実行されたことを物語っている。
風伝峠の惨劇後も、抵抗軍の盟主であった湯河直春は山中に籠り抵抗を続けたが、衆寡敵せず、最終的には和睦に応じた 14 。しかし、その直後の天正十四年(1586年)、直春は急死する。その死因については、二つの説が対立している。一つは『湯川記』などが伝えるもので、大和郡山城で羽柴秀長に謁見後、旅館に留め置かれた末に毒殺されたとする説 27 。もう一つは、『渡部家文書』に見られる、秀長に5,000石を安堵された後に病死したとする説である 27 。
この二つの説の並立は、豊臣政権による地方平定の二面性を象徴している。野長瀬盛秀や山本康忠の謀殺という前例を踏まえれば、抵抗軍の総大将であった湯河直春が毒殺された可能性は高い。しかし、政権側としては、あからさまな謀殺は無用な反感を招く。そのため、公式記録には「病死」と記させ、政権の非情さを隠蔽しつつ、その一族には所領安堵(子の光春が3,000石を継承)や仕官の道を開くことで、湯河氏全体の反乱を防ぎ、円滑に支配体制へ組み込もうとしたのではないか 27 。抵抗の首謀者は「排除」し、その一族は「包摂」する。この高度な統治術こそが、豊臣政権の強さの源泉の一つであった。
抵抗勢力の中核を失った紀伊国は、急速に平定された。紀伊一国は秀長の所領となり、彼は藤堂高虎を普請奉行に任命して和歌山城を築城、新たな支配の拠点とした 13 。そして、秀吉の全国統一事業のモデルケースともなる徹底した検地(太閤検地の先駆けとも言われる)が実施され、国人衆が代々受け継いできた土地支配権は解体された 2 。これにより、中世以来の在地領主制は紀伊国において終焉を迎え、豊臣政権の直接的な支配下に組み込まれていった。野長瀬盛秀の死は、まさにこの旧時代の終わりを告げる象徴的な出来事だったのである。
野長瀬盛秀の抵抗は、結果として一族の武門としての歴史に終止符を打つことになった。彼の行動は、戦国時代を通じて自立性を保ってきた地方豪族(国人衆)が、巨大な中央集権権力の前に、いかに無力であったかを示す典型例である。彼の死は、個人の悲劇に留まらない。それは、土地との固い結びつきや一族の独立性を重んじる中世的な武士の価値観が、中央への絶対服従を求める近世的な統一国家の論理によって否定され、淘汰されていく時代の過渡期を象徴している 12 。
政治史の表舞台から姿を消した野長瀬一族だが、その記憶は本拠地であった近露の地に色濃く残されている。
これらの史跡や伝承は、武力による支配が終わった後も、一族が地域の「名家」として敬われ、その歴史が文化として大切に継承されていったことを示している。
野長瀬一族の歴史は、盛秀の死によって断絶したわけではなかった。武士としての道は絶たれたものの、その血脈は本拠地であった近露を中心に、現代まで続いている 4 。そして近代以降、一族からは様々な分野で社会に大きな影響を与える人物が輩出された。
この事実は、野長瀬一族の物語が単なる滅亡の悲劇ではないことを示している。盛秀の死によって、「武力」と「土地」という戦国時代の力の源泉は失われた。しかし、それは同時に、一族を武士という古い階級制度から解放し、新たな時代に適応する素地を作ったとも解釈できる。もし彼らが小大名として江戸時代を生き延びていれば、近代化の波の中で旧士族として没落した可能性も否定できない。盛秀の悲劇的な死は、皮肉にも、一族が産業、芸術、大衆文化といった近代社会の新たな価値観の中で才能を開花させる「再生」の序曲となったのである。
野長瀬盛秀の生涯は、自らの拠るべき土地と一族の独立性を守るため、巨大な時代のうねりに抗い、そして散った中世武士の矜持そのものであった。彼の抵抗と謀略による死は、豊臣秀吉が築こうとした中央集権的な近世国家の礎の下に、無数の地方勢力が埋もれていった歴史の必然を物語っている。
しかし、野長瀬一族の物語はそこで終わらない。武士としての歴史に終止符を打たれながらも、その血脈と記憶は地域文化の中に深く生き続け、近代には新たな才能を開花させた。一人の無名に近い武将の生涯を徹底的に掘り下げることは、歴史の勝者によって語られる大きな物語の陰で、名もなき人々が経験した時代の断絶、そして再生のダイナミズムを我々に教えてくれる。野長瀬盛秀の探求は、戦国時代の終焉が持つ、破壊と創造という二つの側面を鮮やかに映し出す試みに他ならない。