紀州雑賀衆の指導者、鈴木義兼は墓碑銘で存在が伝わる謎多き人物。小牧・長久手の戦いで反秀吉連合に参加し、雑賀衆の独立を守るも、紀州征伐で終焉。
戦国時代の紀伊国にその名を刻んだ鉄砲傭兵集団、雑賀衆。その指導者として「雑賀孫市」の名は、織田信長を狙撃し、石山合戦を10年にわたり支え続けた英雄として、小説や映像作品を通じて広く知られている。しかし、その輝かしい「孫市」のイメージは、主として鈴木重秀という一人の人物の活躍に集約されており、彼以外にも「孫市」を名乗った、あるいはその名跡を継いだ可能性のある人物たちの存在は、歴史の影に埋もれがちである。
本報告書が光を当てる鈴木義兼(すずき よしかね)も、そうした歴史の狭間に消えた指導者の一人である。彼の名は、紀州雑賀の故地である和歌山市平井の蓮乗寺などに残された墓碑銘によって、かろうじて現代に伝えられているに過ぎない。同時代の一次史料にその活動が具体的に記されることは稀であり、その出自や生涯については、多くの謎と複数の説が存在する。
なぜ鈴木義兼は、著名な鈴木重秀の影に隠れ、その実像がほとんど知られていないのか。そして、彼の存在は、戦国時代の終焉と共に独立を失い、歴史の奔流に飲み込まれていった紀州雑賀衆の運命を理解する上で、いかなる意味を持つのだろうか。
本報告書は、この問いに答えることを目的とする。まず、鈴木義兼という個人を論じる前提として、「雑賀孫市」という名跡そのものが持つ複雑な性格と、その源流とされる鈴木一族の実態を明らかにする。次に、現存する数少ない確証である墓碑銘を徹底的に分析し、義兼の出自とアイデンティティを巡る最大の謎、すなわち「藤原」姓の問題に深く切り込む。さらに、彼の具体的な政治・軍事活動を、織田信長亡き後の天下統一を巡る激動、特に豊臣秀吉との対立という大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その生涯と役割を立体的に再構築する。この作業を通じて、単なる「謎の人物」ではない、戦国末期における紀州雑賀の最後の指導者として、鈴木義兼の歴史的意義を再評価することを目指すものである。
鈴木義兼という個人の実像に迫るためには、まず彼が属した「鈴木一族」と、彼としばしば同一視、あるいは混同される「雑賀孫市」という存在が、いかに複雑で多層的なものであったかを理解する必要がある。通俗的に語られる単一の英雄像の背後には、世襲された名跡と、実在すら疑われる始祖の物語が横たわっている。
「雑賀孫市」は、特定の一個人を指す固有名詞ではなく、複数の人物にまたがる呼称であったとする見方が、今日では定説となっている 1 。これは、鈴木家の頭領が代々襲名した名跡であったか、あるいは時代ごとに活躍した複数の鈴木姓の人物が後世に「孫市」として一括りにされた結果であると考えられる。
この「雑賀孫市」の名を歴史上、最も輝かせた人物が、鈴木重秀(すずき しげひで)であることは間違いない 3 。彼は元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)にかけての石山合戦において、本願寺側の主力として雑賀衆を率い、織田信長を大いに苦しめた 6 。特に天正4年(1576年)の天王寺砦の戦いでは、巧みな鉄砲集団戦術で織田軍の将・塙直政を討ち取り、さらには信長自身をも狙撃し負傷させた逸話は、『信長公記』などにも記され、彼の武名を不動のものとした 9 。『本願寺文書』には「鈴木孫一重秀」としての自署が残されており、この石山合戦期に活躍した「孫市」が重秀その人であったことは確実視されている 5 。彼の圧倒的な活躍こそが、「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで言わしめた「雑賀孫市」の英雄像の核を形成したのである 1 。
この「孫市」という名跡は、戦国の世が終わった後も継承されていく。重秀の子とされる鈴木重朝の子・重次は、水戸徳川家に仕官した後、父の通称であった「孫三郎」から「雑賀孫市」へと名を改めた 12 。以降、その名は水戸藩の重臣となった雑賀家において、当主の通称として代々受け継がれていった 13 。これは、「孫市」が単なる個人の通称に留まらず、一族の武勇と誇りを象徴する、家として継承すべき重要な「名跡」であったことを明確に示している。
一方で、英雄・重秀や本稿の主題である義兼の父祖として、しばしば「鈴木佐大夫(すずき さだゆう)」という人物の名が挙げられる。彼の名は、江戸時代後期に紀州藩によって編纂された地誌『紀伊続風土記』や、同時期の『十寸穂の薄』といった文献に見られる 3 。これらの記録によれば、佐大夫は雑賀城主であり、7万石余りの所領を有していたとされる 15 。
しかし、これらの記述には史料批判的な検討が必要である。第一に、佐大夫の存在を直接証明する同時代の一次史料は、現在のところ確認されていない 15 。弘治3年(1557年)に現地の荘園間の争いを仲裁した人物として「雑賀助大夫」の名が記録されているが、これが鈴木佐大夫と同一人物であるという確証はなく、憶測の域を出ない 17 。
第二に、後世の編纂物における記述自体に矛盾が見られる。例えば彼の最期について、『十寸穂の薄』や『南紀徳川史』は天正13年(1585年)の紀州征伐の際に藤堂高虎の謀略によって自害させられたとする一方、『太田水責記』はそれ以前に織田信長によって雑賀城を落とされた際に切腹したとしており、死亡時期や経緯が一致しない 15 。また、『紀伊続風土記』自身が、7万石という広大な所領の記述を「疑わしい」と注記している点も見逃せない 15 。
これらの事実を総合的に勘案すると、鈴木佐大夫という人物像は、歴史上の実在の人物として捉えるよりも、後世に鈴木一族、特に英雄・重秀の系譜を権威づけ、物語として構築する過程で創出された、あるいは伝承が肥大化した伝説上の「始祖」としての性格が強いと考えられる。彼の存在は、史実としてではなく、後世に語られた「雑賀孫市の物語」を構成する一つの装置として理解することが、より的確なアプローチであろう。この認識に立つことで、我々は伝承の霧を払い、義兼という個人に焦点を当てた分析へと進むことができる。
鈴木義兼に関する同時代の直接的な史料は極めて乏しい。しかし、彼の存在を現代に伝える数少ない、しかし決定的な物証が存在する。それは、紀州と三河に残された二つの墓碑である。本章では、この墓碑銘の分析を起点とし、彼の出自とアイデンティティを巡る最大の謎、すなわち「藤原」姓と「穂積」姓の問題、そして鈴木重秀との関係性について、諸説を比較検討しながら深く掘り下げていく。
鈴木義兼という人物の存在を疑い得ないものとしているのは、和歌山県和歌山市平井にある浄土真宗本願寺派の寺院、蓮乗寺に残る墓碑である。この墓碑には「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」という名が明確に刻まれている 19 。この蓮乗寺は、元来、鈴木孫一の道場(布教所)であったと伝えられており、義兼と鈴木一族、そして本願寺との強い繋がりを示唆している 20 。
さらに、義兼の存在を裏付けるもう一つの物証が、愛知県岡崎市にある西本願寺岡崎御坊(旧三河別院)に存在する。こちらの墓碑には「平井住鈴木孫市郎義兼」と刻まれている 21 。二つの異なる場所に、ほぼ同一人物を指し示す墓碑が現存することは、彼が単なる伝承上の人物ではなく、紀州雑賀から三河に至るまで影響力を持った実在の人物であったことを強く物語っている。
これらの碑文は、義兼を理解する上で極めて重要な情報を含んでいる。
雑賀鈴木氏を含む紀州の鈴木一族は、その本姓を古代以来の豪族である「穂積(ほづみ)氏」と称するのが通説である 11 。穂積氏は、物部氏の一族ともされ、熊野の神官として古くから紀伊半島に根を張った家系であった 24 。その名は稲穂を意味し、熊野信仰の全国的な広まりと共に、鈴木姓も各地へ伝播したとされる 23 。鈴木重秀ら、雑賀衆の主流派がこの穂積姓を称していたことは、彼らの地域における権威の源泉となっていた 11 。
この文脈において、鈴木義兼の墓碑に刻まれた「藤原」という姓は、極めて異質であり、重大な意味を持つ。これは、彼が穂積姓を称した鈴木重秀らの系統とは異なる出自を持つ可能性を強く示唆するからである 19 。この「藤原」姓の解釈を巡っては、いくつかの説が提唱されている。
これらの説から導き出されるのは、義兼の「藤原」姓は単なる記録ミスなどではなく、雑賀衆の内部構造が、単一の血族による支配ではなかった可能性を示唆する重要な手がかりであるという点である。雑賀衆は「惣国(そうごく)」と称される、地侍たちの緩やかな連合体であった 20 。その中核をなした「鈴木党」もまた、穂積姓の主流派(重秀ら)と、藤原姓を称する有力な分家または同盟者(義兼ら)が共存する、複合的な権力体であったという仮説が成り立つ。この視点に立てば、雑賀衆の内部力学をより深く、多角的に理解することが可能となる。
義兼の出自と並ぶ大きな謎が、英雄・鈴木重秀との関係性である。この点についても、複数の見解が存在する。
ここで重要なのは、義兼と重秀の関係性を「兄弟か否か」という血縁の二元論のみで捉えるのではなく、「政治的役割の継承者」という観点から分析することである。史料の乏しさから血縁関係を断定することは困難だが、両者が「平井の指導者」であり、「孫市」という名を共有・継承したであろう点は事実として認められる 19 。これは、血の繋がり以上に、「平井の鈴木家当主」という政治的・軍事的な地位の継承があったことを強く示唆している。
歴史的に見ても、重秀が活躍したのは主として「対信長」の時代であり、義兼が歴史の表舞台に登場するのは「対秀吉」の時代である。彼らの活動時期は明確に分かれている。したがって、鈴木義兼は、血縁の有無にかかわらず、鈴木重秀が築き上げた「雑賀孫市」というブランドと軍事基盤を引き継ぎ、新たな時代の脅威(豊臣秀吉)に立ち向かった後継者と位置づけることができる。この解釈は、証明困難な血縁関係に固執することなく、歴史的役割の連続性という観点から、義兼の生涯をより明確に捉え直すことを可能にする。
鈴木義兼が歴史の表舞台で活動したのは、織田信長の死から豊臣秀吉による天下統一事業が完成するまでの、まさに戦国時代が終焉に向かう激動の時代であった。本章では、この時期に焦点を当て、権力の空白期に台頭し、反秀吉連合の一翼を担い、そして雑賀衆の終焉に立ち会ったであろう彼の政治的・軍事的な役割を明らかにする。
天正8年(1580年)、10年にわたる石山合戦が本願寺と信長の和睦によって終結すると、雑賀衆の内部には深刻な亀裂が生じた。信長との和睦を受け入れ、新たな秩序に適応しようとする親信長派と、あくまで反信長の姿勢を貫こうとする勢力との対立である。前者の筆頭が鈴木孫一重秀であり、後者の代表格が土橋守重であった 1 。
この対立は、天正10年(1582年)1月、重秀が信長の後ろ盾を得て土橋守重を謀殺するという衝撃的な結末を迎える 38 。これにより、重秀は雑賀衆内部の主導権を一時的に掌握したかに見えた。しかし、同年6月2日、本能寺の変が勃発する。最大の支援者であった信長を失った重秀の立場は一変し、土橋派の報復を恐れた彼は、身の危険を感じて雑賀の地から逃亡せざるを得なくなった 1 。
英雄・重秀の突然の不在は、雑賀衆に再び権力の空白を生み出した。主導権は、旧来の反信長派や、中央の巨大権力に対して独立を志向する勢力の手に移ったと考えられる。鈴木義兼が雑賀衆の指導者として歴史の表舞台に登場するのは、まさにこの混乱と再編の時期であった。
重秀出奔から2年後の天正12年(1584年)、天下統一への道を突き進む羽柴秀吉と、織田信長の次男・信雄および徳川家康との間で、小牧・長久手の戦いが勃発した。この戦いは、単なる地域紛争ではなく、秀吉の覇権に対する一大挑戦であり、全国の反秀吉勢力が連携する広域的な戦争であった。
紀州の雑賀衆と根来衆は、この反秀吉連合の重要な一角を占めた。彼らは織田信雄・徳川家康からの要請に応じ、秀吉の本拠地である大坂の後方を脅かす役割を担ったのである 42 。そして、この時の雑賀衆を率いた指導者こそが、「平井孫一郎義兼」であったと推定されている 22 。
義兼に率いられた雑賀・根来連合軍は、同年3月、秀吉が主力を率いて尾張へ出陣した隙を突き、和泉国へ侵攻した。彼らは秀吉方の岸和田城を包囲し、国際貿易港である堺にまで迫るなど、大坂周辺に深刻な脅威を与えた 44 。この後方での軍事行動は、秀吉の戦略に大きな影響を与えた。秀吉は美濃方面での作戦を一時中断し、大坂へ兵を戻さざるを得なくなり、結果として家康に戦局を有利に進める時間を与えたのである 44 。
この一連の動きは、鈴木義兼の指導の下、雑賀衆が単なる傭兵集団ではなく、依然として強力な軍事力を保持し、全国規模の政争に主体的に介入しうる政治勢力であったことを明確に示している。それは、中央の統一権力に対し、地域の「独立」と「自治」を守ろうとする強い意志の表れであった。
小牧・長久手の戦いは、最終的に織田信雄が家康に無断で秀吉と単独講和を結んだことで、戦術的には勝利しながらも戦略的には敗北という形で終結した 44 。これにより、反秀吉連合は瓦解し、紀州勢力は孤立した。秀吉にとって、自らの本拠地を脅かした雑賀・根来衆の存在は、天下統一事業を進める上で看過できない脅威であった。
天正13年(1585年)3月、秀吉は報復と紀州平定のため、10万ともいわれる大軍を動員し、紀州征伐を開始した 45 。海陸両面から侵攻する秀吉の圧倒的な兵力の前に、まず根来寺が攻撃され、壮大な伽藍は焼き討ちに遭い壊滅した 36 。
雑賀衆もまた、この未曾有の危機に直面した。しかし、かつて信長の大軍を翻弄した彼らの組織力は、度重なる内紛と、秀吉軍の調略によって弱体化していた。雑賀の年寄衆の一人であった岡吉正が秀吉方に寝返るなど、内部から崩壊が始まり、「雑賀も内輪散々になって自滅」と評されるほどの混乱状態に陥った 40 。
それでも、雑賀衆の残党は太田左近らを将として太田城に籠城し、最後まで徹底抗戦の構えを見せた。これに対し秀吉は、得意の「水攻め」を用いた。城の周囲に長大な堤防を築き、紀の川の水を引き入れて城を水没させたのである 20 。この日本三大水攻めの一つに数えられる苛烈な戦法の前に、太田城はついに落城。これにより、100年近くにわたり民衆による自治を維持してきた類稀な「雑賀惣国」は、完全に終焉を迎えた 20 。
この紀州征伐における鈴木義兼の具体的な動向を直接示す史料は、残念ながら存在しない。彼が指導者として最後まで抵抗し、太田城で運命を共にしたのか、あるいはそれ以前に戦死、もしくは逃亡したのかは不明である。しかし、後述するように、彼の墓碑に刻まれた没年が天正17年(1589年)であることを考慮すると、この紀州征伐の惨禍を生き延び、その後数年間、潜伏生活を送っていた可能性が考えられる。彼の活動は、戦国時代の終焉期において、地域の独立を守ろうとした最後の組織的抵抗の象徴であり、その結末は、巨大な統一権力の前に飲み込まれていった数多の地域勢力の運命を凝縮している。
鈴木義兼の生涯は、豊臣秀吉による紀州征伐という雑賀衆の壊滅的な敗北によって、その輝きを失ったかのように見える。しかし、彼の死に関する記録と、彼とは対照的な道を歩んだ鈴木重秀の系統のその後の運命を比較することで、歴史における彼の独自の位置づけと、なぜ彼が「忘れられた指導者」となったのかという理由が浮かび上がってくる。
鈴木義兼に関する最も確実かつ貴重な記録は、彼の死を伝える墓碑銘である。和歌山市平井の蓮乗寺に残る墓碑には、「天正十七年(1589年)己丑五月二日」という日付が刻まれている 2 。これが義兼の命日であると広く考えられている。
この日付の重要性は、極めて高い。なぜなら、鈴木佐大夫、重秀、重朝など、「雑賀孫市」の名で知られる複数の人物の中で、唯一、明確な没年月日が伝わる例だからである 2 。紀州征伐(天正13年)から4年後の死であり、この間の彼の動向や死に至る具体的な経緯は一切不明であるが、この日付の存在自体が、鈴木義兼という人物が歴史の中に確かに存在したことを証明している。
鈴木義兼が歴史の闇に消えていく一方で、「雑賀孫市」の名跡は、彼とは異なる系統によって後世に継承された。雑賀を離れた鈴木重秀の子とされる鈴木重朝は、豊臣秀吉に仕え、小田原征伐や文禄・慶長の役で武功を挙げた後、関ヶ原の戦いでは東軍に属した 1 。その後、徳川家康に接近し、その子孫は御三家の一つである水戸徳川家に仕官する道を見出した 12 。
重朝の子・鈴木重次は、水戸藩士として正式に「雑賀孫市」を名乗り、藩主・徳川頼房の子・重義を養子に迎えることで、その家格を確固たるものとした 12 。以降、雑賀氏は水戸藩の重臣として存続し、「孫市」の名は、一族の武勇を象徴する通称として代々用いられたのである 13 。
ここに、二人の「孫市」、すなわち鈴木義兼と鈴木重秀の系統が辿った、対照的な運命が浮かび上がる。一方は、最後まで中央の統一権力に抵抗し、故地でその生涯を終え、歴史の記憶から薄れていった鈴木義兼。もう一方は、時代の変化に適応し、新たな支配者である徳川氏の家臣となることで家名を後世に伝え、英雄「雑賀孫市」の伝説を自らの家系に引き寄せることに成功した鈴木重秀の系統である。
以下の表は、この複雑な「孫市」像を整理し、義兼の歴史的立ち位置を明確にするための一助となるだろう。
人物名 |
活動時期 |
本姓(伝承含む) |
主な活動・功績 |
末路・子孫 |
関連主要史料 |
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鈴木佐大夫 |
16世紀中頃? |
穂積? |
雑賀城主とされるが、実在は不確実。 |
伝説上の死(藤堂高虎による謀殺、信長に攻められ切腹など諸説あり)。 |
『紀伊続風土記』 15 |
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鈴木重秀 |
1570年代(対信長) |
穂積 |
石山合戦で雑賀衆を率い、信長を苦しめる。 |
本能寺の変後、雑賀を出奔。その後の消息は不明だが、子孫は水戸藩へ。 |
『本願寺文書』、『信長公記』 9 |
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鈴木義兼 |
1580年代(対秀吉) |
藤原 |
小牧・長久手の戦いで雑賀衆を指揮し、反秀吉連合に参加。 |
天正17年(1589年)5月2日没。子孫の記録なし。 |
蓮乗寺・岡崎御坊墓碑 19 |
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鈴木重朝 |
16世紀末~17世紀初頭 |
穂積 |
豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕える。 |
元和年中(1615-24年)に死去。子は水戸徳川家に仕官。 |
『水府系纂』 12 |
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鈴木重次 |
17世紀前半 |
穂積 |
水戸藩に仕え、「雑賀孫市」を公式に名乗る。 |
水戸藩重臣として家名を確立。藩主の子を養子に迎える。 |
『水府系纂』 12 |
この比較から明らかなように、鈴木義兼の歴史的評価が低い、あるいはその存在自体が広く知られていない最大の理由は、彼が歴史の「敗者」であり、その物語を語り継ぐ家臣団や子孫が存在しなかったためである。歴史は、多くの場合、戦いに勝利し、存続した者たちの視点から記述される。水戸藩に仕えた鈴木氏(雑賀氏)は、藩の公式記録である家譜などの中で、自らの祖先(重秀・重朝)の輝かしい活躍を記録し、後世に伝えることができた 12 。これにより、「雑賀孫市」の英雄像は、石山合戦で活躍し、最終的に徳川の世に適応した重秀の系統に収斂されていった。
その結果、秀吉に最後まで抵抗し、雑賀衆の独立と共に運命を共にした指導者・鈴木義兼の存在は、歴史の記憶から周縁化され、忘れ去られていったのである。彼の生涯を掘り起こす作業は、単に一人の武将の伝記を復元することに留まらない。それは、勝者の歴史の影に隠された、敗者の視点から戦国時代の終焉を捉え直し、日本の歴史をより複眼的に理解するための重要な試みなのである。
本報告書を通じて行ってきた分析の結果、戦国時代の人物「鈴木義兼」は、単なる「雑賀孫市・鈴木重秀の影に隠れた謎の人物」という評価に留まるべきではない、独自の歴史的意義を持つ指導者であったことが明らかになった。
第一に、義兼の実像は、墓碑銘という確かな物証に基づいている。彼の墓碑に刻まれた「藤原」という姓は、雑賀鈴木氏の主流派が称した「穂積」姓とは異なり、雑賀衆という組織が単一の血族集団ではなく、多様な出自を持つ地侍たちの連合体であったことを示唆する重要な手がかりである。彼は、その非主流派、あるいは同盟勢力を代表する立場から、雑賀衆全体の指導者へと上り詰めた人物であった可能性が高い。
第二に、彼の歴史的役割は、戦国時代の最終局面において極めて重要であった。彼が歴史の表舞台に立ったのは、英雄・鈴木重秀が去った後の権力の空白期であり、雑賀衆が豊臣秀吉という新たな巨大権力と対峙し、その独立を失うか否かの瀬戸際にあった最も困難な時期であった。彼は、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康・織田信雄らの反秀吉連合の一翼を担い、地域の自治と独立を守るために戦う道を選んだ指導者であった。
第三に、彼の生涯は、戦国乱世の終焉期において、強大な中央権力に飲み込まれていった数多の地域勢力の悲劇的な運命を象徴している。彼の指導した抵抗は、結果として秀吉による苛烈な紀州征伐を招き、100年続いた「雑賀惣国」の崩壊という結末に至った。英雄・重秀が「雑賀衆の栄光」を代表するならば、義兼は「雑賀衆の終焉」を指導し、その運命を共にした人物として、重秀と対をなす重要な存在として位置づけられるべきである。
鈴木義兼に関する史料は極めて限定的であり、その生涯の多くは依然として謎に包まれている。しかし、本報告書で試みたように、現存する墓碑銘を手がかりとし、関連する合戦の記録や彼を取り巻く政治状況を複合的に分析することで、その輪郭を浮かび上がらせることは可能である。彼の物語は、勝者によって語られる歴史の背後にある、敗れ去った者たちの抵抗と誇りの記憶を我々に伝えてくれる。今後、地方に眠る未発見の古文書などから新たな情報が見出されることがあれば、この「忘れられた指導者」の歴史的評価は、さらに深まり、より確かなものとなっていくであろう。