江戸時代初期、徳川御三家の一つである水戸藩において、家老という重職を務めた武士、鈴木重次(すずき しげつぐ)。彼の経歴は、戦国時代の武将が江戸幕藩体制下の武士へと変貌を遂げる過渡期の様相を映し出す一方で、その出自を辿ると極めて異色の背景が浮かび上がる。彼の父、鈴木重朝(しげとも)は、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康の忠臣・鳥居元忠を討ち取った西軍の将であった 1 。
通常、主君の腹心を手にかけた敵将の一族が、戦後、その主君の御三家筆頭格の藩で重用されることは考え難い。しかし、重次は父から3,000石の知行を受け継ぎ、大番頭や家老といった要職を歴任、さらには主君・徳川頼房の子を養子に迎えることで、一族の地位を盤石なものとした 2 。
本報告書は、「なぜ、そしていかにして敵将の子が徳川御三家の家老となり得たのか」という問いを主軸に据える。この問いを解明するため、まず錯綜する同名人物との区別を通じて調査対象を厳密に特定する。次に、彼の特異な出自の源泉である父・鈴木重朝と、彼らが率いた鉄砲傭兵集団「雑賀衆(さいかしゅう)」の歴史的価値を分析する。その上で、水戸藩士としての重次の具体的な活動と、彼が実行した改姓や養子縁組という一族存続戦略の深層にある意図を考察する。これにより、戦国の遺風が色濃く残る江戸初期の社会を、知恵と戦略で生き抜いた一人の武士の実像を徹底的に解明することを目的とする。
「鈴木重次」という名は、歴史上、複数の時代や家系にまたがって散見される。特に水戸藩には、本報告書の対象人物以外にも著名な「鈴木氏」が存在するため、議論の前提として、まず対象人物を明確に特定し、混同されやすい人物との相違を整理する必要がある。
ご依頼の概要にあった「重朝の嫡男」「三千石」「家老」「将軍家光に拝謁」「頼房の末子・重義を婿養子」という特徴を持つ人物は、慶長3年(1598年)に生まれ、寛文4年(1664年)に67歳で没した、鈴木重朝の子「鈴木孫三郎重次」である 2 。
この人物としばしば混同されるのが、以下の二名である。
第一に、幕末の水戸藩家老・鈴木石見守重棟(すずき いわみのかみ しげむね)である。彼は天保10年(1839年)生まれ、慶応4年(1868年)に没した幕末期の人物であり、時代が全く異なる 4 。重棟は、藩内の尊王攘夷の過激派である天狗党と激しく対立した保守門閥派(諸生党)の領袖として知られ、その禄高は4,500石から一時は7,000石にまで加増された 5 。しかし、明治維新によって政治的立場が逆転すると、藩を脱出して江戸に潜伏したものの捕縛され、わずか8歳と3歳の息子たちと共に斬首されるという悲劇的な最期を遂げた 5 。同じ「水戸藩家老」「鈴木」姓であることから混同されやすいが、本報告書の対象とは家系も時代も異なる。
第二に、天草代官・鈴木重成(しげなり)の父である、三河の鈴木重次(忠兵衛)である。彼は天文22年(1553年)に生まれ、寛永5年(1628年)に没した武将で、島原の乱で荒廃した天草の復興に尽力し、領民のために自刃したと伝わる名代官・鈴木重成の父として知られている 7 。『寛政重修諸家譜』にもその名が見えるが、水戸藩の鈴木家とは系統が異なり、活動地域も生涯も全く別である 7 。
これらの人物との混同を避けるため、各人物の情報を以下の表に整理する。
表1:主要な「鈴木重次」および関連人物の比較
| 項目 | 鈴木(雑賀)孫三郎重次(本報告書の対象) | 鈴木石見守重棟 | 鈴木忠兵衛重次 |
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| 生没年 | 慶長3年(1598年)~寛文4年(1664年) | 天保10年(1839年)~慶応4年(1868年) | 天文22年(1553年)~寛永5年(1628年) |
| 主な活動時代 | 江戸時代前期 | 江戸時代末期(幕末) | 戦国時代~江戸時代前期 |
| 主な仕官先 | 水戸徳川家 | 水戸徳川家 | 徳川家康(旗本) |
| 役職 | 家老、大番頭 | 家老、城代 | 天草代官の父 |
| 禄高 | 3,000石 | 4,500石 → 7,000石 | 700石 |
| 特記事項 | 雑賀衆の末裔。父は鈴木重朝。後に「雑賀」姓を名乗る。 | 諸生党領袖。天狗党と対立し、維新後に処刑される。 | 息子は天草の名代官として知られる鈴木重成。 |
本報告書は、この表の一番左に記載された、慶長3年生まれの鈴木重次について論を進めるものである。
鈴木重次の特異な生涯を理解するためには、その父・鈴木重朝の波乱に満ちた経歴を避けて通ることはできない。重次の地位と家名は、まさしく父・重朝が築き、そして乗り越えた激動の歴史の上に成り立っているからである。
重朝は、紀州(現在の和歌山県)を拠点とした鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の頭領格であった鈴木一族の出自とみられている 1 。雑賀衆は、戦国時代において最新鋭の兵器であった鉄砲を巧みに操り、「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで言わしめた、当代随一の軍事スペシャリスト集団であった 15 。その頭領が名乗ったとされる「雑賀孫市(さいかまごいち)」あるいは「鈴木孫一(すずきまごいち)」という名は、特定の個人名ではなく、一族の武名と技術力を象徴するブランドとして、代々の有力者が襲名した名跡であった可能性が高い 12 。重朝もまた、この「孫市」を名乗ったか、あるいはそれに準ずる中心人物であったと考えられている 1 。
豊臣政権下では、重朝は秀吉に仕え、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍。秀吉の死後は、その子・秀頼に仕える鉄砲頭として、その武名を轟かせていた 1 。
彼の運命が大きく動くのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。西軍に与した重朝は、天下分け目の決戦の前哨戦である伏見城攻めに参加する 1 。この戦いで、城を守るのは徳川家康が全幅の信頼を寄せる忠臣・鳥居元忠であった。元忠はわずか1,800の兵で、4万ともいわれる西軍の大軍を相手に10日以上にわたって城を守り抜くという壮絶な戦いを繰り広げた 20 。しかし、圧倒的な兵力差は覆し難く、城内に攻め込んだ西軍の中で、重朝は元忠と一騎討ちの末、これを討ち取るという大功を挙げたのである 19 。
しかし、関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、重朝の立場は一転、勝利者である徳川家康の仇敵となり、浪々の身を余儀なくされる。通常であれば、主君の最側近を討った敵将の行く末は、捕縛と処刑以外に考えられない。しかし、重朝は生き延びた。彼は奥州の雄、伊達政宗のもとに身を寄せ、その政宗の仲介によって、驚くべきことに元忠の主君であった家康自身から赦免されたのである 1 。
この異例の措置の背景には、単に政宗の顔を立てたという以上の、家康の冷徹なまでの現実主義と戦略的思考があったと考えられる。関ヶ原に勝利したとはいえ、豊臣家は依然として大坂城に健在であり、天下が完全に泰平となったわけではなかった。そのような状況下で、家康は復讐という感情よりも、雑賀衆が持つ高度な鉄砲技術と、その頭領である重朝という人物の軍事的価値を自軍に取り込む実利を選んだのである。これは、敵将であっても有能な人材は登用するという、家康の卓越した組織運営術の現れであった。
慶長11年(1606年)、重朝は家康の直臣として召し抱えられ、常陸国に3,000石という破格の知行を与えられた 1 。そして、ほどなくして家康の十一男であり、新たに水戸藩主となった徳川頼房に付けられることとなる 1 。こうして、かつての敵将は、徳川御三家の一角を支える重臣への道を歩み始めたのである。
この赦免の過程で見られる、伏見城で手に入れた鳥居元忠所用の甲冑「紺糸素縣縅二枚胴具足」を、その子・忠政に返還しようとしたという逸話は、単なる武士の美談に留まらない 1 。これは、敵将への敬意を示すという武士の作法を通じて、徳川家への恭順の意を明確に示し、自らの立場を有利にするための高度な政治的パフォーマンスであったと解釈することも可能である。忠政がこれを「父の武功の証として、貴殿の子孫に伝えられよ」と敢えて返却したこともまた、鈴木家の武名を公的に認め、徳川家臣団に受け入れる素地を整える上で重要な役割を果たしたと言えよう 3 。
父・重朝が築いた特異な地盤を引き継いだ鈴木重次は、水戸藩の創成期において、その能力を遺憾なく発揮し、家臣団の中核として確固たる地位を築いていく。
重次は、父と同じく3,000石の知行をもって、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房に仕えた 3 。頼房は、53年という長きにわたる治世で、領内総検地や城下町の整備、藩の職制確立などを通じて水戸藩の基礎を築いた人物であり、重次はその初期藩政を支える重要な家臣の一人であった 27 。
重次が拝領した3,000石という禄高は、江戸時代初期の武家社会において極めて高い価値を持っていた。これは単なる俸給ではなく、知行地(領地)を与えられ、そこから年貢を徴収する権利を意味する。1万石未満の将軍直臣は「旗本」と呼ばれたが、その中でも3,000石以上は「大身旗本」や「高の人」と称される上級階級であり、相応の格式と影響力を有していた 31 。
この高い禄高は、同時に重い軍役の義務を伴うものであった。幕府が定めた軍役規定によれば、3,000石の知行取は、戦時において大規模な部隊を編成し、指揮する責任を負っていた。
表2:寛永期の軍役規定における三千石の負担
| 兵種 | 人数・装備 |
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| 指揮官 | 本人(馬上) 1名 |
| 騎馬武者 | 4騎 |
| 侍 | 8名 |
| 鉄砲 | 5丁 |
| 弓 | 3張 |
| 槍 | 15本(持鑓含む) |
| 旗 | 1本 |
| その他 | 足軽、若党、各種道具持ちなどを含め、総勢56名規模 |
(出典: 31 を基に作成)
このように、重次は平時においては広大な知行地を管理し、多くの家臣を養う領主であると同時に、有事の際には一つの独立した戦闘単位を率いる司令官としての役割を期待されていたのである。
藩内での具体的な役職としては、「大番頭(おおばんがしら)」や「家老(かろう)」を務めたことが記録されている 2 。大番頭は、江戸城や二条城の警備を担う大番隊の指揮官であり、将軍の親衛隊長に準ずる格式の高い役職であった。一方、家老は藩主を直接補佐し、藩政全般を統括する最高職であり、複数人による合議によって藩の重要事項を決定した 36 。水戸藩は参勤交代を行わず藩主が常に江戸に詰める定府であったため、重次の政務も主に江戸藩邸で行われたと考えられる 39 。
また、藩主・頼房が将軍への挨拶などのために上洛(京都へ行くこと)する際には、重次がそれに随行する藩兵の編成を担当したという記録も残っており、彼が藩の軍事責任者として藩主の傍近くに仕えていたことがうかがえる 3 。
ご依頼にあった「将軍・徳川家光に拝謁した」という点については、重次が単独で公式に拝謁したという直接的な記録は、現存する史料からは確認できない。しかし、彼の養子である雑賀重義は、4代将軍・家綱への拝謁が明確に記録されている 40 。このことから、家中で子の功績が父のものとして語り継がれる過程で、伝承に変化が生じた可能性が考えられる。あるいは、家老という重職にあり、藩主の上洛にも随行していたことから、公式な記録には残らない形で将軍に目通りする機会があった可能性も否定はできない。いずれにせよ、彼が藩の中枢で活躍し、将軍家とも無縁ではない高い地位にあったことは確かである。
鈴木重次の生涯における最も特筆すべき行動は、単に藩政に参与したこと以上に、一族の未来を見据えて実行した二つの大胆な戦略、すなわち「改姓」と「養子縁組」にある。これらは、戦国の武功という過去の遺産を、江戸時代の安定した社会構造の中で永続的な価値へと転換させるための、極めて高度な戦略であった。
第一の戦略は、「鈴木」から「雑賀」への改姓である。重次は当初「鈴木孫三郎」と名乗っていたが、後に自らの家名を「雑賀」と改め、「雑賀孫市」を名乗るようになった 2 。そして、彼の弟(または兄)である重信の系統が従来の「鈴木氏」を名乗り続ける一方で、自らの嫡流(養子)にはこの「雑賀氏」を継がせ、代々「孫市」を通称とさせたのである 2 。
この改姓の意図は、当時の武家社会における名字の価値を理解することで明らかになる。「鈴木」という姓は、熊野信仰の広まりと共に全国に分布した、ありふれた苗字であった 14 。それに対し、「雑賀」は彼ら一族の出自そのものであり、戦国最強の鉄砲衆という比類なき武名を直接的に想起させる、強力なブランドであった 15 。重次は、自らの本家筋にこの「雑賀」を名乗らせることで、一族の輝かしい武功の歴史を藩内で独占的にアピールし、他の多くの家臣との明確な差別化を図った。これは、一族が持つ無形の資産(歴史と名声)を最大限に活用し、そのブランド価値を永続させるための、巧みなアイデンティティ戦略であったと言える。
第二の、そして最大の戦略が、主君・徳川頼房の子を婿養子に迎えたことである。重次には男子がおらず、このままでは家が断絶する危機にあった 2 。通常であれば親族から養子を迎えるのが通例だが、重次は主君である頼房の十一男・仙千代(後の雑賀重義)を自らの婿養子として迎えることに成功した 2 。
この破格の養子縁組は、重次が藩主・頼房から寄せられていた絶大な信頼の証左であると同時に、彼の家系に計り知れない価値をもたらした。徳川の血を自らの家系に導入することにより、「雑賀家」は単なる功臣の家から、藩主一門に連なる特別な家へとその地位を飛躍的に向上させたのである。これにより、将来にわたる家の安泰は、ほぼ約束されたと言ってよい。たとえ後の代で不行跡などを理由に禄高が減らされることがあっても 40 、藩主家との血縁という事実は揺らぐことがない。これは、戦国の武功という過去の遺産を、徳川の血という未来への盤石な保証へと転換させた、究極の生存戦略であった。
藩政の中枢で活躍し、一族の未来への布石を打ち終えた鈴木重次は、寛文4年(1664年)10月9日、67年の生涯に幕を閉じた 2 。その墓は、現在の茨城県ひたちなか市館山にある浄光寺に、彼が迎えた養子・雑賀重義と共に静かに眠っている 2 。この浄光寺は、後に重義の兄にあたる2代藩主・徳川光圀の都市計画によって現在地に移されたという縁の深い寺院である 46 。
重次の跡を継いだ雑賀家は、彼の思惑通り、水戸藩において特別な地位を保ち続けた。養子・重義の死後、その跡を継いだ重春(重次の弟・重信の孫)の代に、家臣の不行跡などを理由に禄高は3,000石から600石へと大幅に減らされたものの、家そのものが断絶することはなかった 40 。徳川の血を引く家系として、その後も水戸藩の重臣層に名を連ね、幕末の藩士名簿にも「雑賀」の姓が見えるなど、明治維新に至るまで家名は存続したのである 13 。
重次の生きた江戸初期の水戸藩には、彼の生涯を象徴するような逸話が残されている。水戸藩には、父・重朝が伏見城で討ち取った鳥居元忠の一族である鳥居瀬兵衛という人物も、800石の禄高で仕えていた。藩の公式な席などで顔を合わせることもあったであろう重次と瀬兵衛は、時に「関ヶ原では敵味方に分かれて戦った両家が、こうして同じ水戸家に仕え、共に重用されるのも何かの縁であろう」と語り合ったという 3 。この逸話は、戦乱の時代が終わり、かつての敵味方が新たな主君の下で秩序を再編していく江戸時代初期の世相を、実に鮮やかに描き出している。
以下に、鈴木重次の生涯と、彼を取り巻く主要な出来事を年表としてまとめる。
表3:鈴木(雑賀)重次 関連年表
| 西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
| :--- | :--- | :--- |
| 1598年(慶長3年) | 1歳 | 鈴木重朝の子として生まれる。幼名は孫三郎。 |
| 1600年(慶長5年) | 3歳 | 父・重朝が伏見城の戦いで西軍に属し、東軍の将・鳥居元忠を討ち取る。関ヶ原の戦いで西軍が敗北。 |
| 1606年(慶長11年) | 9歳 | 父・重朝が伊達政宗の仲介で徳川家康に赦され、3,000石で召し抱えられる。 |
| 1609年(慶長14年) | 12歳 | 徳川頼房が水戸藩主となり、父・重朝がその家臣となる。 |
| 元和年中(1615-1624年) | - | 父・重朝が死去。重次が家督と3,000石の知行を継ぎ、水戸藩主・徳川頼房に仕える。 |
| 1623年(元和9年) | 26歳 | 頼房の上洛に際し、藩兵の編成を担当する。 |
| 1626年(寛永3年) | 29歳 | 頼房の上洛に際し、藩兵の編成を担当する。 |
| 1634年(寛永11年) | 37歳 | 頼房の上洛に際し、藩兵の編成を担当する。この頃、藩の大番頭や家老を務める。 |
| 寛永年間 | - | 藩主・徳川頼房の十一男・仙千代(後の雑賀重義)を婿養子として迎える。 |
| 時期不詳 | - | 「鈴木孫三郎」から「雑賀孫市」へと改名し、自らの家を「雑賀家」とする。 |
| 1664年(寛文4年) | 67歳 | 10月9日、死去。墓所は浄光寺(現・ひたちなか市)。養子の雑賀重義が家督を相続。 |
| 1668年(寛文8年) | - | 養子・重義が35歳で死去。 |
水戸藩初期の家老・鈴木重次は、単に父・重朝の武功によって禄を得た幸運な二代目武士ではなかった。彼は、戦国時代から引き継いだ「雑賀衆」という武門の名声という無形の資産を、江戸時代という新たな社会構造の中でいかにして永続的な価値に転換させるかを深く理解し、実行した優れた戦略家であった。
彼が実行した「雑賀」への改姓は、一族のアイデンティティを鮮明にし、そのブランド価値を最大化する行為であった。そして、主君・徳川頼房の子を養子に迎えるという大胆な一手は、徳川の血という絶対的な権威を自らの家系に取り込むことで、家の永続性を盤石にする究極の保険であった。
彼の生涯は、戦国時代の武力と名声が、近世の安定した社会の中でいかにして「家格」や「血縁」という新たな権威に転換されていったかを示す、絶好の事例である。それは、もはや武力のみでは生き残れない新時代に適応するための、武家のしたたかな生存戦略の縮図に他ならない。
関ヶ原の戦いにおける「敵将の子」という極めて不利な立場から出発し、知恵と戦略を駆使して徳川御三家の重臣へと上り詰め、一族の名を後世に確固として残した鈴木重次の生涯は、近世初期の日本社会が内包していたダイナミズムと、そこに生きた武士の卓越した胆力と戦略性を、現代の我々に雄弁に物語っている。