本報告書は、肥前佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂の生涯を多角的に検証し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。一般に勝茂は、関ヶ原の合戦で西軍に与しながらも巧みな事後処理で所領を安堵され、島原の乱では多大な犠牲を払いながらも鎮圧に貢献した人物として知られている 1 。しかし、その評価はしばしば、主家である龍造寺氏からの権力掌握という文脈と結びつけられ、巷間では「主家乗っ取りの悪役」という物語的なイメージも根強く存在する 2 。
本報告書では、こうした一面的な評価を超え、勝茂を戦国乱世の終焉と徳川幕藩体制の確立という時代の大きな転換期において、主家の実権掌握、新時代への適応、そして藩の永続性の確立という三重の課題に直面し、これらを巧みに乗り越えた稀有な政治家として再評価する。天正8年(1580年)に龍造寺氏の重臣の子として生を受け 4 、豊臣政権下で武将として頭角を現し 3 、関ヶ原という存亡の危機を乗り越え 5 、江戸幕府草創期に35万7千石の初代藩主として藩政の礎を築き 6 、島原の乱で武門の名を轟かせ 8 、明暦3年(1657年)に78歳でその生涯を閉じるまで 4 、彼の決断と行動は常に危機の淵にありながら、未来への布石を打ち続けるものであった。勝茂の生涯を丹念に追うことで、彼が築いた礎がいかにして幕末佐賀藩の飛躍へと繋がっていったのか、その歴史的連続性を明らかにしたい。
鍋島勝茂の生涯を理解する上で、その出自と家系が持つ意味は極めて大きい。それは単なる血縁の問題に留まらず、後の鍋島氏による権力掌握の正当性と深く結びついているからである。
勝茂は天正8年(1580年)10月28日、鍋島直茂の嫡男として生まれた 4 。幼名は伊平太と伝わる 4 。父・直茂は、肥前の戦国大名・龍造寺隆信の義弟にあたり、隆信の死後はその実権を掌握して龍造寺家の舵取りを担った重臣であった 6 。母は陽泰院(彦鶴姫)といい、龍造寺家の重臣であった石井常延の次女である 11 。陽泰院は聡明かつ慈悲深い人柄で知られ、夫・直茂との仲も睦まじく、領民からは「国母様」と慕われた 11 。このように、勝茂は龍造寺家の権力中枢を担う父と、同じく重臣の家系に連なる母の間に生まれ、その血統は龍造寺家臣団の中でも特別な位置を占めていた。この血縁的背景は、鍋島家が単なる家臣ではなく、龍造寺家と一体不可分の「準一門」としての地位を確立する上で重要な役割を果たした。
さらに、勝茂は若き日に龍造寺隆信の次男・江上家種の養子となっている 4 。これは、龍造寺一門内部における鍋島家の影響力をより一層強化し、将来的な家督継承をも視野に入れた、父・直茂による深謀遠慮の一環であったと考えられる。単なる家臣の立場に留まらず、養子縁組を通じて一門の内部に深く入り込むことで、鍋島家は龍造寺家の利害に直接関与する権利と正当性を獲得していったのである。
豊臣政権下においても、鍋島家の地位は確固たるものであった。天正17年(1589年)、勝茂は豊臣秀吉より豊臣姓を下賜されている 3 。これは、鍋島家がもはや単なる龍造寺家の代理人としてではなく、秀吉という中央政権から直接認識される独立した勢力であったことを示す重要な出来事であった。勝茂の青年期は、鍋島家が龍造寺家の「家臣」から「後見人」、そして「継承者」へとその立場を移行させていく、まさにその過渡期と重なっていたのである。
勝茂が武将としての第一歩を記したのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵、特に慶長2年(1597年)から始まった慶長の役においてであった。彼は父・直茂と共に朝鮮へ渡海し、この戦役でその器量を示した 3 。
史料によれば、勝茂は父・直茂に先んじて朝鮮の竹島城に入っており、父の到着後は共に全羅道の侵攻などに参加したと記録されている 12 。この事実は、彼が単に父に従軍しただけでなく、既に一軍を率いる立場にあったことを示唆している。父・直茂は龍造寺軍の総大将として一万二千の軍役を課せられており、勝茂はその中核を担う存在であった 13 。
勝茂の武名を高めたのが、慶長2年12月から翌年正月にかけて繰り広げられた蔚山城の戦いである。加藤清正らが守る蔚山城が明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、水や兵糧が尽きる絶体絶命の危機に陥った 14 。この時、鍋島直茂・勝茂の軍勢は、毛利秀元や黒田長政らと共に後詰の援軍として駆けつけた 16 。日本軍の赴援部隊の中でも、鍋島勢は一番隊として約1,600の兵を率いており、救援作戦の先鋒を担っていた 18 。彼らの奮戦により、籠城する日本軍は救出され、明・朝鮮連合軍は撤退に追い込まれた 17 。この蔚山城の戦いにおける武功により、勝茂は若き武将としての評価を不動のものとしたのである 3 。
この朝鮮での経験は、勝茂にとって単なる武功を立てる場であっただけでなく、後の藩政にも影響を与えた。渡海の際に連れ帰った陶工たちが、後に有田焼、ひいては鍋島焼の隆盛の礎を築くことになったからである 10 。勝茂の揺籃期は、龍造寺家内部での政治的地位の確立と、対外的な戦役における武将としての名声獲得という、二つの側面から形成されていったのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦は、鍋島家にとってまさに存亡を賭した最大の危機であった。若き当主・勝茂の西軍加担という絶体絶命の状況を、父・直茂の老練な政治手腕によって起死回生の好機へと転換させた一連の動きは、鍋島家の真骨頂を示すものと言える。
徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げた際、当時21歳の鍋島勝茂は大坂に滞在していた 5 。石田三成らが家康に対して挙兵すると、大坂にいた諸大名は西軍への参加を強く迫られることになった。地理的な状況と周囲の圧力から、勝茂に他の選択肢はほとんどなく、西軍への加担を余儀なくされたのである 5 。
勝茂は西軍の一員として、その初戦である伏見城攻めに参加した。毛利秀元や島津義弘らと共に徳川方の鳥居元忠が守る伏見城を包囲し、8月1日には追手門を破って松の丸を陥落させるなど、西軍の勝利に直接的に貢献した 21 。この軍事行動は、彼の意思とは別に、鍋島家が西軍に与したという動かぬ証拠となり、家を取り潰されかねない深刻な事態を招いた。
一方、国元の肥前佐賀にいた父・直茂の動向は、より複雑な様相を呈していた。一般的に、直茂は当初から家康と内通していたという説が広く知られているが 5 、近年の研究では異なる見方が示されている。慶長5年9月時点の書状からは、直茂が黒田如水や加藤清正といった家康方の武将を敵と認識し、豊臣公儀方としての立場を明確にしていたことがうかがえる 22 。彼は家康に一方的に与する如水に対し、断交を宣言する書状を送るなど、9月26日の時点でも反家康の姿勢を崩していなかった 22 。
しかし、関ヶ原の本戦で西軍がわずか一日で壊滅したという報せが九州に届くと、直茂は驚異的な速さで方針を180度転換させる。直ちに勝茂のもとへ急使を派遣し、東軍へ寝返るよう指示したのである 23 。この老練な現実主義者としての迅速な判断こそが、鍋島家の運命を救うことになる。この父子の地理的な分断と、それに伴う役割分担は、結果的に鍋島家にとって高度なリスクヘッジとして機能した。すなわち、勝茂は中央の情勢下で西軍に与するという行動を取らざるを得なかったが、国元の直茂には九州の情勢を見極め、敗報という決定的な情報に基づいて政治的判断を下す時間的・地理的猶予があったのである。
西軍敗北後、直茂は直ちに事後処理に着手した。黒田長政や井伊直政といった家康側近を介して、我が子・勝茂の罪の許しを乞い、家康に恭順の意を示した 22 。家康は、その忠誠の証として、同じく西軍に属し、居城である柳川城に籠城していた立花宗茂を討伐するよう命じた 5 。
この命令は、表面的には西軍加担に対する「罰」であり「踏み絵」であったが、鍋島家にとっては汚名を返上し、新たな支配者である徳川家への忠誠を具体的に示す絶好の機会であった。直茂・勝茂親子は、この命令を即座に受諾。九州にいた黒田如水や加藤清正ら東軍の諸将と連携し、立花宗茂が守る柳川城へと進軍した 19 。慶長5年10月、江上(城島)付近で繰り広げられた八院合戦において、鍋島勢は奮戦し、立花勢を追い詰めた 5 。この戦功は井伊直政を通じて家康に詳細に報告され、「祝着」であるとの高い評価を得ることに成功した 22 。
かつての敵対勢力であった立花氏を攻めるという具体的な軍事行動によって、徳川方への帰順を鮮やかに証明した結果、鍋島家は改易・減封という最悪の事態を免れ、肥前35万7千石の所領を安堵されたのである 19 。関ヶ原の合戦における鍋島家の動向は、単なる日和見主義ではなく、若き当主の苦境を在国の父が戦略的な判断で覆し、危機を好機へと転換させた、見事な危機管理の事例として評価されるべきである。
関ヶ原の危機を乗り越えた鍋島勝茂の次なる課題は、旧主家である龍造寺家との関係を清算し、名実ともに佐賀藩の支配者として藩政の礎を築くことであった。この過程は、巧みな制度設計と文化振興によって特徴づけられるが、同時に「主家乗っ取り」という後世の悪評を生む苦悩の道でもあった。
関ヶ原の戦後、龍造寺家の立場はますます形骸化していった。当主であった龍造寺高房は、実権のない名目上の国主という立場に絶望し、慶長12年(1607年)、江戸の屋敷で妻を殺害した後に自害するという悲劇的な最期を遂げた 2 。高房の死からわずか1ヶ月後には、父の政家も後を追うように病死し、ここに龍造寺本家は断絶した 10 。
この事態を受け、龍造寺一門は話し合いの末、長年にわたり龍造寺家を支えてきた鍋島家の功績を認め、直茂の子である勝茂に家督を継承させることを決定した 10 。この一門の合意を背景に、慶長18年(1613年)、徳川幕府は勝茂の家督継承を正式に承認し、肥前35万7千石余の領地目録を与えた 7 。これにより、父・直茂の時代からの実質的な支配体制が、名実ともに「鍋島佐賀藩」として確立されたのである。
しかし、この権力移譲の過程は、旧主家に対する「乗っ取り」という構図を人々に強く印象付けた。高房の悲劇的な死や、龍造寺家の没落に対する同情と、鍋島家への複雑な感情が絡み合い、後世に「鍋島化け猫騒動」という怪談を生み出す土壌となった 6 。この物語は、高房の飼い猫が化け猫となり、鍋島家に祟りをなすという内容で、芝居や講談を通じて広く流布した 27 。史実の勝茂は、高房の遺児である龍造寺伯庵が幕府に統治権の返還を訴え出た際にも、穏便な処理を願い出るなど慎重な対応を見せているが 3 、一度生まれた物語の力は大きく、彼は悪役としてのイメージを背負うことになった。
名実ともに藩主となった勝茂は、鍋島家による統治を盤石なものとするため、精力的に藩体制の構築を進めた。
まず、権威の象徴として、慶長7年(1602年)より佐賀城の大規模な改修に着手し、近世城郭としての体裁を整えた 3 。この事業は、新たな支配者としての鍋島家の威光を内外に示すものであった。完成後、正保4年(1647年)には、幕府へ城と城下に関する詳細な報告書を提出している 31 。
次に、財政基盤の確立のため、慶長16年(1611年)に領内の総検地を断行した。これにより、藩の公式な石高を35万7千石と確定させ、安定した税収の基礎を築いた 7 。同時に、藩の財政難を理由に、家臣の知行地の3割を藩に返上させる「三部上地」という強硬な政策を実施し、藩主の直轄領(蔵入地)を拡大した 7 。
そして、最も腐心したのが、複雑な家臣団の再編と統制であった。佐賀藩は龍造寺家臣団をほぼそのまま引き継いだため、藩内には半独立的な有力家臣が多数存在し、藩主の権力基盤は脆弱であった 3 。この課題に対し、勝茂は武力による粛清ではなく、巧みな制度設計で対応した。
その一つが、三支藩の創設である。長男・元茂に小城藩、五男・直澄に蓮池藩、九男・直朝に鹿島藩をそれぞれ分与し、本藩を支える藩屏とした 6。これは、一門を厚遇して藩の守りを固めると同時に、有力な子息に独立した領地を与えることで、本藩の家督争いを未然に防ぐ狙いもあった。
もう一つが、龍造寺四家の処遇である。旧主家系の有力一門である諫早、多久、武雄、須古の四家を「親類同格」という特別な家格で遇し、藩政の最高職である執政に就任させることで、彼らのプライドを保ちつつ藩政運営に組み込み、不満を巧みに懐柔した 6。
勝茂が構築したこの複雑な支配構造は、以下の表に集約される。この表は、佐賀藩の統治が単なるトップダウンではなく、旧主家や分家との繊細なパワーバランスの上に成り立っていたことを示しており、後の藩政を理解する上で不可欠な視点を提供する。
家格 |
家名 |
始祖(勝茂との関係) |
主要石高 |
役割・特記事項 |
典拠 |
本藩 |
鍋島宗家 |
鍋島勝茂 |
35万7千石(総石高) |
佐賀藩主。直轄領は6万石程度。 |
3 |
三支藩 |
小城鍋島家 |
鍋島元茂(長男) |
7万3千石 |
本家を継がず分家となる。大名並みの待遇。 |
34 |
|
蓮池鍋島家 |
鍋島直澄(五男) |
5万2千石 |
支藩として本藩を補佐。 |
34 |
|
鹿島鍋島家 |
鍋島忠茂(弟)、後に直朝(九男) |
2万石 |
支藩として本藩を補佐。 |
34 |
親類同格 |
諫早家(龍造寺系) |
龍造寺家晴 |
2万6千石 |
龍造寺四家の一つ。藩の執政を担う。 |
6 |
|
多久家(龍造寺系) |
龍造寺長信 |
2万1千石 |
龍造寺四家の一つ。藩の執政を担う。 |
6 |
|
武雄鍋島家(龍造寺系) |
後藤家信 |
2万1千石 |
龍造寺四家の一つ。藩の執政を担う。 |
6 |
|
須古鍋島家(龍造寺系) |
龍造寺信周 |
1万石 |
龍造寺四家の一つ。藩の執政を担う。 |
6 |
勝茂は、藩政の安定化と並行して、藩の富を増大させるための殖産興業にも力を注いだ。その最も顕著な例が、 有田焼の育成 である。
勝茂の時代、佐賀の有田地方では日本で初めて磁器の生産が始まっていた 38 。彼はこの新たな産業に着目し、藩の財政を潤すための重要政策として手厚く保護・育成した 39 。寛永5年(1628年)頃には、将軍家への献上品や諸大名への贈答品といった最高級品を製作するため、藩が直轄する御用窯を、技術漏洩を防ぎやすい山間の地である大川内山に設置した 41 。ここに最高の職人と材料を集め、採算を度外視して品質を追求させた結果、後に「鍋島焼」として知られる、高い芸術性を誇る磁器文化が花開くことになった。これは藩財政に貢献しただけでなく、鍋島家の威信を高める文化的象徴ともなった。
勝茂自身も、武辺一辺倒の武将ではなかった。彼は様々な芸事に通じ、20種あまりの免状を受けるほどの教養人であったと伝わっている 43 。特に茶の湯への関心は深く、宇治の御用達茶師であった上林家と交わした書状も現存しており、新茶の礼状などを通じて当代一流の文化人と交流していたことがわかる 44 。こうした文化活動への傾倒は、戦国の荒波を乗り越えてきた統治者としての、懐の深さと幅の広さを示している。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱は、成立間もない佐賀藩と藩主・鍋島勝茂にとって、その真価が問われる一大試練であった。この戦役において、佐賀藩は多大な犠牲を払いながらも決定的な武功を立てるが、その過程で犯した軍令違反は、勝茂の評価に栄光と代償という二つの側面を刻み込むことになった。
島原半島と天草諸島において、領主の苛政とキリシタン弾圧に反発した大規模な一揆が発生すると 46 、徳川幕府は九州の諸藩に討伐を命じた。佐賀藩もこの命令を受け、藩主・勝茂自らが総大将となり、3万5千人という、討伐軍の中でも最大規模の軍勢を動員して島原へ出陣した 9 。
しかし、幕府が派遣した討伐軍の上使(総大将)・板倉重昌は、三河国深溝一万石余の小大名であり、九州の歴戦の有力大名たちを統率する器ではなかった 49 。指揮系統は当初から混乱を極め、諸藩の足並みは乱れがちであった。功を焦った板倉重昌は、寛永15年(1638年)の元旦、後任の老中・松平信綱の到着を待たずに無謀な総攻撃を敢行。自ら陣頭に立って奮戦するも、一揆勢の堅い守りの前に鉄砲の直撃を受けて壮絶な戦死を遂げた 9 。
この元旦の総攻撃において、佐賀藩は二の丸や松山方面の攻撃を担当したが、原城に立てこもる一揆勢の激しい抵抗に遭い、壊滅的な打撃を受けた 9 。この一日の戦闘だけで、佐賀藩の死傷者は2,500人余り、そのうち死者は380人余りに達したと記録されている 9 。ある史料では、乱全体での佐賀藩の死者は620人、手負いは3,034人に及び、諸藩の中で最も損害が大きかったとされている 51 。これは、幕府軍全体の死傷者が5,000人を超えたとされる中でも突出した数字であり、佐賀藩がいかに熾烈な戦闘の矢面に立たされたかを示している。この日の敗戦は、幕府軍にとって惨憺たるものであった。
板倉重昌の戦死後、後任として着陣した老中・松平信綱は、力攻めの非効率を悟り、城を完全に包囲して兵糧攻めにする持久戦術へと方針を転換した 9 。戦いは膠着状態に陥り、諸藩の士気は次第に低下していった。
戦況が動いたのは、2月27日のことであった。幕府軍の評議で総攻撃の日が翌28日と決定されたにもかかわらず、佐賀藩の諸将はこれを待たずに抜け駆けで攻撃を開始したのである 9 。
この軍令違反の背景には、複雑な事情があった。鍋島勢の持ち場であった出丸を一揆勢が放棄して二の丸へ退いたという報告を受け、これを好機と捉えた前線の将兵が攻め込んだのが直接のきっかけであった 9 。勝茂は戦後の弁明で、「出丸を確保しようとしたところ、二の丸から攻撃を受けたため、やむを得ず応戦した結果、勢い余って一番乗りとなった」と釈明している 9 。しかし、その根底には、持久戦による士気の低下、諸藩の間での激しい手柄争い、そして何よりも「鍋島武士」の武威を天下に示さんとする強い意志があったと推測される。混乱した戦場の権威の真空状態は、彼らにとって武名を上げる最後の好機と映ったのである。
結果として、佐賀藩の猛攻は一揆勢の防衛線を突き崩し、本丸一番乗りの武功を立てるに至った 9 。この活躍が乱の終結を早めたことは事実であったが、幕府は軍令違反という規律の乱れを看過できなかった。乱の鎮圧後、勝茂は江戸の桜田屋敷において閉門(謹慎)を命じられるという厳しい処分を受けた 8 。
しかし、この一件は逆説的な結果を生んだ。処罰を受けたにもかかわらず、佐賀藩の勇猛果敢な戦いぶりは江戸市中で大きな評判となった。「有馬の城は強いようで弱い。鍋島様にとんと落とされた」という辻歌が流行り 8 、軍令違反のお咎めを受けたこと自体が、かえって鍋島武士の武名を高めることになったのである 9 。この「軍令違反」は、単なる規律の欠如ではなく、幕府に対して扱いにくいが、いざという時には頼りになる強力な外様大名である、という鍋島藩のブランドイメージを確立する、極めて政治的なパフォーマンスとしての価値を持っていたと言えよう。
島原の乱という大きな試練を乗り越えた鍋島勝茂の晩年は、徳川幕藩体制という新たな秩序の中で、いかにして佐賀藩の存続と発展を図るかという、より長期的で戦略的な課題に取り組む時期であった。彼がこの時期に築いた有形無形の遺産は、200年後の幕末における佐賀藩の飛躍を準備する「DNA」として、後世に受け継がれていくことになる。
江戸時代初期、関ヶ原の合戦で敵対した外様大名は、常に幕府の厳しい監視下に置かれ、改易の恐怖と隣り合わせであった 55 。勝茂は、この厳しい政治環境を生き抜くため、忠誠と実利を両立させる巧みな生存戦略を展開した。
その核となったのが、 徳川家との姻戚関係 である。慶長10年(1605年)頃、勝茂は徳川家康の養女である高源院(菊姫)を継室として迎えた 26 。これは、関ヶ原での西軍加担という汚点を完全に払拭し、徳川将軍家との間に強固な血縁関係を築くための、極めて重要な政略結婚であった。これにより、勝茂の嫡男・忠直、そして跡を継いだ孫の光茂は家康の血を引くことになり 35 、外様大名でありながらも準親藩的な地位を得て、藩の安定に大きく寄与した。
もう一つの柱が、 長崎警備の任務 である。島原の乱の後、寛永19年(1642年)から、佐賀藩は福岡藩と一年交代で長崎港の警備を命じられた 53 。これは、幕府に対する「奉公の第一」と位置づけられる重い軍役であり、藩財政に多大な負担を強いた 24 。しかし、勝茂はこの負担を、他藩にはない絶好の機会へと転換させた。日本唯一の海外への窓口である長崎の警備を担当することで、オランダ商館などを通じて最新の海外情報を独占的に入手することが可能となったのである 62 。この情報的優位性は、後に佐賀藩が他藩に先駆けて西洋の科学技術を導入し、近代化を推し進める上で決定的な役割を果たすことになる。勝茂は、幕府に対しては「忠実な奉公者」という外面を保ちつつ、その裏で藩の将来にとって不可欠な「情報」という実利を確保するという、二元的な戦略を確立したのである。
勝茂の人物像を伝える逸話は、彼の統治理念や人間性を垣間見せる。彼は藩主としての心得を、晩年の父・直茂から直接学んでいた。直茂が病床で語った幕府への対応や藩運営、家臣への心遣いなどを記した書付は、勝茂の治世の指針となったことだろう 64 。
彼の家臣や領民に対する姿勢は、その言葉に表れている。「人間というのは下ほど骨折り候ことよく知るべし」と述べ、組織の末端で汗を流す人々への配慮の重要性を説いたという 65 。また、道理を重んじる冷静な一面も持ち合わせていた。一子の突然死によって半ば錯乱した父・直茂が、巫女の占いを信じて家臣数名を殺害するという事件が起きた際には、江戸から父を強く諌める書簡を送っている 3 。
佐賀藩では主君への殉死が美徳とされる風潮があったが、勝茂の死後、跡を継いだ孫の光茂は、幕府の法令に先駆けて藩内に殉死禁止令を発布している 66 。これは、人の命を重んじる合理的精神が、勝茂の治世を通じて藩内に培われていたことの証左とも考えられる。
こうした勝茂の言行録や逸話は、後に山本常朝によって編纂された『葉隠』に数多く収録された 68 。家臣の中野数馬が、若き日の勝茂の寝所にフナを放り込んで驚かせたという逸話 69 などは、君臣間の親密さや、勝茂の豪胆な人柄を今に伝えている。
勝茂の晩年には、後継者問題が浮上した。正室との間に生まれた嫡男・忠直は、将来を嘱望されていたが、天然痘のため23歳の若さで早世してしまった 70 。一方、長男の元茂は、生母の家柄が低かったことなどから本家を継ぐことはなく、小城藩の藩祖となった 35 。
この複雑な状況の中、家督は忠直の遺児、すなわち勝茂の孫にあたる鍋島光茂が継承することになった 3 。この決定には、光茂が徳川家康の曾孫にあたる(母方の祖母が高源院)ことから、幕府との関係をより一層強固なものにしたいという政治的な配慮が働いていた 35 。
藩の行く末を見届けた勝茂は、明暦3年(1657年)3月24日、江戸の藩邸でその生涯を閉じた。享年78 4 。法名は泰盛院殿澤圓良厚大居士と贈られた 53 。彼の死は、佐賀藩の黎明期の終わりと、安定した治世の始まりを告げるものであった。
鍋島勝茂の生涯を総括する時、我々は巷間に流布する物語的イメージと、史実に基づく政治家としての実像との間に横たわる大きな隔たりに気づかされる。彼の歴史的評価は、この両者を架橋し、その行動の背後にある時代の要請と戦略的意図を読み解くことによって、初めて正当になされるべきであろう。
「主家乗っ取り」の悪役という物語 2 は、龍造寺高房の悲劇的な死と、権力移行期に生じた社会の不安や同情が生み出したフィクションである。史実の勝茂は、むしろ武力による粛清を避け、旧主家系の有力者を藩政の中枢に組み込むことで 7 、流血を最小限に抑えながら藩の安定を達成した、極めて現実的な政治家であった。彼の統治は、戦国的な実力行使による支配から、近世的な制度と秩序による支配への移行を体現している。
勝茂の真価は、平時の統治者として以上に、卓越した危機管理能力にこそ見出されるべきである。その生涯は、関ヶ原の合戦、龍造寺家との複雑な関係、そして島原の乱といった、一歩間違えれば家門断絶に繋がりかねない数々の危機に満ちていた。しかし彼はその都度、父・直茂との絶妙な連携、周到な交渉、そして時には軍令違反という大胆な決断によって、単に危機を乗り越えるだけでなく、それを藩の強化と武門の名声向上へと繋げてみせた。
そして何よりも重要なのは、彼が後世に残した遺産である。勝茂が確立した藩政の基盤、特に徳川家との姻戚関係による政治的安定、有田焼に代表される殖産興業の精神、そして長崎警備を通じて得られる情報的優位性は、200年後の幕末に、10代藩主・鍋島直正(閑叟)の下で劇的に開花する 71 。日本初の反射炉の建設や蒸気船の製造といった佐賀藩の驚異的な近代化は、決して直正一代の功績ではなく、初代藩主・勝茂が築いた盤石な礎の上に成り立っていたのである。
結論として、鍋島勝茂は、乱世の終焉と治世の黎明という激動の時代を生き抜き、巧みな政治手腕と先見性をもって、佐賀藩35万石の未来を設計した偉大な藩祖として再評価されるべき人物である。彼の生涯は、危機を好機に変え、未来への布石を打ち続けた、一人の卓越したリーダーの軌跡そのものである。