日本の戦国時代、数多の武将が天下を目指し、あるいは一族の存続を賭けて鎬を削った。その中でも、九州北西部に位置する肥前国(現在の佐賀県、長崎県)は、少弐、大友、龍造寺、島津といった大勢力が複雑に絡み合い、絶えず戦乱の渦中にあった。この激動の時代、後に佐賀藩35万7千石の藩祖と称される鍋島直茂の影に隠れがちでありながら、その実、鍋島家が一大名へと飛躍するための全ての礎を築いた人物がいる。それが、本稿の主題である鍋島清久(なべしま きよひさ)である。
清久の名は、多くの場合、享禄3年(1530年)の田手畷の戦いにおいて、赤熊(しゃぐま)の毛を被り鬼面をつけた奇抜な出で立ちの軍勢を率い、主君・龍造寺家兼の窮地を救ったという勇壮な逸話と共に語られる 1 。この一戦が彼の武名を高め、鍋島氏の地位を向上させたことは紛れもない事実である。しかし、彼の生涯と功績をこの一点のみに集約することは、その歴史的重要性を著しく過小評価することに他ならない。
本報告書は、田手畷の戦いという一点の輝きだけでなく、鍋島清久の出自、人物像、政治的・経済的戦略、そして後世に遺した無形の資産に至るまで、あらゆる側面から徹底的に光を当てることを目的とする。彼の生涯を丹念に追うことで、一介の在地土豪に過ぎなかった鍋島氏が、いかにして戦国の荒波を乗りこなし、孫の直茂の代で大名へと駆け上がるための盤石な基盤を築き上げたのか、その過程を明らかにしたい。清久は単なる勇将ではなく、軍事、経済、婚姻、同盟、そして人心掌握といった多岐にわたる要素を巧みに組み合わせた、先見の明ある「設計者」であった。その実像に迫ることは、佐賀藩成立の歴史をより深く理解する上で不可欠な作業と言えるだろう。
表1:鍋島清久 略歴
項目 |
内容 |
生誕 |
延徳2年(1490年) 2 |
死没 |
天文13年(1544年) 2 |
氏族 |
鍋島氏(4代当主) 2 |
父 |
鍋島経房(初名:清直) 2 |
主君 |
龍造寺家兼 2 |
妻 |
野田大隅守の娘 2 |
子 |
清泰、清房(鍋島直茂の父) 2 |
主な功績 |
田手畷の戦いにおける赤熊隊の奇襲(1530年) 1 |
墓所 |
高傳寺(佐賀市本庄町) 4 |
鍋島清久の戦略的思考を理解するためには、まず彼が生まれ育った鍋島氏そのものが、いかにして形成されたかを知る必要がある。鍋島氏は、単なる肥前の在地勢力ではなく、その出自に将来の飛躍に繋がる重要な要素を内包していた。
鍋島氏の系譜には、大きく分けて二つの流れが伝えられている。一つは、宇多天皇を祖とする佐々木源氏の流れを汲む「源氏系」である 6 。この系譜によれば、一族はもともと山城国長岡に住み長岡姓を称していたが、経秀の代に京の北野に移り、その後、子の経直と共に肥前国佐賀郡鍋島村に移住して「鍋島」を名乗るようになったとされる 6 。
もう一つは、鎌倉時代以来、肥前の守護職を世襲してきた名門・少弐氏に連なる「藤原氏系」である 6 。少弐氏は藤原北家の流れを汲むことから、この系譜に繋がることは、当時の武家社会において極めて高い権威性を意味した。これら二つの系譜の存在は、鍋島氏が自らの権威を高めるために、様々な由緒を模索していたことを示唆している。
鍋島氏が他の在地土豪と一線を画す決定的な契機となったのは、清久の父・経房(つねふさ、初名は清直)の代であった 2 。鍋島氏の系図によれば、経房は肥前守護・少弐教頼(しょうに のりより)が、龍造寺氏を頼って潜伏していた際に、鍋島経直の娘との間にもうけた子であるとされる 6 。つまり、経房は母方の鍋島氏を継承したものの、血筋の上では紛れもなく守護・少弐氏の直系であった。
この事実は、単なる家系の話にとどまらない、極めて重要な戦略的意味を持っていた。戦国時代の武家社会において、「貴種」、すなわち高貴な血筋であることは、単なる名誉ではなく、領国支配の正統性を担保する無形の戦略的資産であった。他の国人たちが実力でのし上がろうとする中で、鍋島氏は「旧守護家の血を引く者」という他にはない権威性を手に入れたのである。この貴種の血は、在地に根を張る土豪としての「実」と、名門の血統という「名」を兼ね備えることを可能にした。清久は、この類稀なアドバンテージを生まれながらにして有していたのであり、それは後の鍋島家の発展において、精神的な支柱として、また政治的な切り札として機能し続けることとなる。
このような背景の中、鍋島清久は延徳2年(1490年)に誕生した 2 。当時の鍋島氏は、肥前の有力国人である龍造寺氏の家臣であり、その龍造寺氏はさらに守護である少弐氏に仕えるという階層構造の中に位置していた 2 。一介の小土豪に過ぎなかったが、その内には「貴種の血」という、いつか飛躍するための萌芽が秘められていた。清久の生涯は、この潜在的な価値を現実の力へと転換させ、一族を新たなステージへと押し上げるための闘争の連続であったと言える。
鍋島清久の名を不朽のものとし、鍋島家の運命を決定的に変えたのが、享禄3年(1530年)に勃発した田手畷(たでなわて)の戦いである。この一戦における彼の活躍は、単なる武功に留まらず、鍋島家の未来を切り拓く多層的な意味を持っていた。
16世紀初頭の北九州では、周防国を本拠とする西国随一の大大名・大内義隆が、その勢力を肥前へと伸ばそうとしていた。これに対し、肥前の旧守護・少弐氏と、その中核的家臣であった龍造寺家兼は激しく抵抗していた 1 。享禄3年、大内氏は重臣の杉興運(すぎ おきかず)を大将として肥前に大軍を派遣し、少弐・龍造寺連合軍との間で全面対決の機運が高まっていた。戦いの舞台となったのが、筑後川の支流である田手川周辺の湿地帯、田手畷であった。
戦端が開かれると、兵力で圧倒的に劣る少弐・龍造寺連合軍はたちまち苦戦に陥り、敗色は濃厚であった 1 。主君・龍造寺家兼も危うい状況に追い込まれる中、戦局を一変させる動きが起こる。龍造寺軍の一角を担っていた鍋島清久が、息子の清房や、盟友である石井党の軍勢と共に、機を見て動いたのである 1 。
『肥陽軍記』などの軍記物によれば、清久の部隊は赤熊(しゃぐま)を模したものを被り、奇抜な面をつけた異様な姿で大内軍の側面に突撃したと伝えられる 10 。赤熊は、ヤクの毛を赤く染めたもので、その異様さは敵兵に強烈な恐怖心と混乱をもたらす心理的効果を狙ったものであった 12 。予期せぬ方向からの、しかも鬼神のような部隊による猛攻に、優勢に戦を進めていた大内軍の陣形は一気に崩壊。大将の杉興運は敗走を余儀なくされ、横岳資貞、筑紫尚門といった有力武将が討ち死にするという劇的な勝利を収めた 1 。この奇襲攻撃の成功は、鍋島清久の卓越した戦術眼と、常識にとらわれない大胆な発想力を如実に示している。
この絶体絶命の危機を救った功績は、主君・龍造寺家兼から最大限に評価された。戦後、清久は家兼から佐賀郡本庄(現在の佐賀市本庄町)の地、80町(約80ヘクタール)という広大な所領を恩賞として与えられた 8 。これは単なる褒賞ではない。この本庄の地が、以後、鍋島氏の経済的・軍事的な本拠地となり、一族がさらなる飛躍を遂げるための揺るぎない財政基盤となったのである。
この田手畷の戦いがもたらしたものは、所領という物理的な資産だけではなかった。それは、鍋島家にとって「四重の飛躍」とも言うべき、多岐にわたる戦略的価値を生み出した。
第一に、軍事的名声の確立である。「赤熊の奇襲」という鮮烈な逸話は、鍋島清久の名を肥前一円に轟かせ、「鍋島氏は精強である」という評価を不動のものにした。
第二に、経済的基盤の構築である。本庄80町の獲得は、鍋島氏が他の国人衆から一歩抜け出し、独自の軍事力を維持・強化するための経済的独立性を与えた。
第三に、主家との政治的関係の深化である。主君の命を救うという最大の忠功は、龍造寺家兼からの絶対的な信頼を勝ち取ることに繋がった。これにより、清久は単なる家臣から、龍造寺家の中枢に影響力を持つ重臣へとその地位を押し上げた 2。
第四に、戦略的同盟の固定化である。この戦いを石井党と共に戦い抜いた経験は、両者の間に血の盟約とも言うべき強固な同盟関係を築き上げた 1。この鍋島・石井連合は、後の龍造寺家、そして鍋島藩の軍事力の中核を担い続けることになる。
このように、田手畷の一戦は、鍋島家を軍事・経済・政治・同盟という四つの側面で同時に飛躍させた、まさに画期的な出来事であった。鍋島清久は、この一戦を通じて、一族の未来を切り拓くための全てのカードを手に入れたのである。
鍋島清久の評価は、田手畷で見せたような武勇一辺倒のものではなかった。彼の人物像を深く探ると、篤い信仰心と慈悲の心を持ち合わせた、為政者としての器の大きさが浮かび上がってくる。これらの側面は、単なる個人的な美徳に留まらず、一族の支配の正当性を補強する「ソフトパワー」として機能した。
清久の信仰心の篤さを示す逸話として、英彦山(ひこさん)にまつわる話が伝わっている。幼少の頃、清久は佐賀からわざわざ霊山として名高い英彦山に参拝に訪れた。その際、彼は「稚児落とし」と呼ばれる崖から転落するという事故に見舞われたが、奇跡的に一命を取り留めたという 14 。
この出来事を彦山権現の加護によるものと深く信じた清久は、生涯にわたって彦山権現を篤く信仰した。そして後年、佐賀に徳善院を建立し、英彦山から権現を勧請して祀ったとされている 14 。この逸話は、彼が神仏を深く敬う、敬虔な人物であったことを示している。戦国武将が自らの武運を神仏の加護に求めることは珍しくないが、幼少期の体験を生涯忘れず、信仰の拠点まで建立する姿勢からは、彼の誠実で義理堅い人柄が窺える。
江戸時代に成立した佐賀藩士の心得の書『葉隠』には、清久の慈悲深い一面を伝える逸話が記されている。ある時、清久は妻と共に漁に出てフナを捕らえたが、そのフナを哀れに思い、夫婦で逃がしてやったという 15 。
『葉隠』は後世の編纂物であり、藩祖の祖先を理想化する傾向があるため、この逸話の史実性をそのまま受け取るには慎重さが必要である。しかし、重要なのは、このような「慈悲深い祖先」の物語が、鍋島家の家風として語り継がれてきたという事実そのものである。この逸話は、鍋島家の支配者が単なる力による支配者ではなく、仁徳を備えた君主であることを示すための象徴的な物語として機能した。
これらの逸話が示す清久の人物像は、戦国時代の指導者として極めて重要な意味を持つ。当時の為政者には、戦場での勇猛さ、すなわち「武(ぶ)」の側面と、領民を慈しみ、秩序を保つ統治能力、すなわち「文(ぶん)」の側面の両方が求められた。田手畷で見せた武勇が「武」の証明であるならば、彦山権現への信仰やフナを逃がす慈悲の心は「文」の体現であった。
清久は、その行動と、それについて語られる物語を通じて、「武」と「文」を兼ね備えた理想的な君主像の原型を築き上げた。このイメージは、彼の子孫たちが龍造寺氏に取って代わり、肥前の支配者となる過程において、その支配を正当化するための強力な精神的基盤となった。鍋島家は単に力で実権を奪ったのではなく、より徳の高い、統治者に相応しい一族であるという「物語」を構築したのである。その意味で、清久の個人的な資質や人柄は、鍋島家の隆盛に不可欠な、計算された戦略の一部であったとさえ言えるだろう。
鍋島清久が築いた基盤は、個人の武勇や名声に留まらなかった。彼は、主家である龍造寺氏への揺るぎない忠誠心を示し、同時に婚姻や同盟を通じて一族の結束を固めることで、極めて強固で安定した権力構造を創り上げた。この戦略は、後の鍋島家を支える三本の強靭な矢となった。
清久の龍造寺家への忠誠心は、順境の時だけのものではなかった。天文14年(1545年)、主君・龍造寺家兼は家中の内紛と少弐氏の圧迫により、本拠である水ヶ江城を追われ、筑後国への亡命を余儀なくされるという最大の危機に直面した。この時、家兼の帰還を助け、水ヶ江城奪還に尽力した者たちの中に、鍋島氏の名が挙げられている 16 。
ここで注目すべきは、この出来事が清久の死没年である天文13年(1544年) 2 の翌年に起きている点である。史料 16 が「鍋島清久」の名を記しているのは、彼の死後もその影響力と方針が息子たちによって固く守られていたことの証左と解釈できる。つまり、清久が生前に築き上げた「龍造寺家への絶対的忠誠」という家風が、一族の行動規範として確立されていたのである。逆境にあっても主家を見捨てないその姿勢は、龍造寺家中における鍋島氏の信頼をさらに盤石なものにした。
清久には清泰、清房という二人の息子がいた 2 。特に次男の清房(きよふさ)は、父の路線を忠実に継承し、鍋島家の地位をさらに高めた。清房は、田手畷の戦功により、龍造寺家兼の孫娘(家純の娘)を妻として迎えることを許された 3 。これは、清久が勝ち取った信頼が、息子たちの代の婚姻という形で結実したことを意味する。
この婚姻は、鍋島氏を龍造寺一門に準ずる地位へと引き上げる極めて重要な一手であった。血縁という、戦国時代において最も強固な絆によって両家は結びつけられ、鍋島氏は龍造寺家の内側からその政治に関与する道を得たのである 7 。さらに後年、清房は龍造寺隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)を後妻に迎えることになり、清房の子である直茂は隆信と義理の兄弟となる 18 。この複雑かつ多重な姻戚関係は、清久が築いた信頼関係なくしてはあり得なかったものであり、鍋島氏が龍造寺氏の実権を掌握していく上で決定的な役割を果たした。
清久が築いたもう一つの重要な柱が、肥前の有力な武士団である石井氏との同盟関係であった。田手畷の戦いで共に死線を越えたこの同盟は、一過性の協力関係では終わらなかった 1 。石井氏は「石井党」と呼ばれる強固な一族郎党の結束を誇る戦闘集団であり 20 、この武力集団との恒久的な同盟は、鍋島氏の軍事力を飛躍的に増大させた。
この同盟関係は、清久の孫・直茂の代に頂点を迎える。直茂は石井氏の娘・陽泰院(ようたいいん)を正室に迎え、初代佐賀藩主となる勝茂をもうけた 21 。さらに、石井氏の子弟を養子に迎えるなど、両家は事実上一体化していく 23 。この強固な鍋島・石井連合の礎を築いたのが、まさしく清久の時代に結ばれた血の盟約だったのである。
このように、清久は、 ①主家への忠誠 によって政治的信頼を、 ②龍造寺家との婚姻 によって一門としての地位を、そして ③石井氏との同盟 によって軍事力を、それぞれ獲得・強化した。これら三つの要素は、互いに絡み合い、補い合うことで、鍋島家という存在を支える極めて強靭な構造体となった。清久は、この三本の矢を束ねることによって、多少の風雪では揺らぐことのない、一族の永続的な基盤を設計したのである。
天文13年(1544年)、鍋島清久はその55年の生涯を閉じた 2 。しかし、彼の死は鍋島家の物語の終わりではなく、彼が遺した壮大な設計図が、孫の直茂の代に壮麗な建造物として完成するための序章に過ぎなかった。
清久の死後、その遺志を継いだ息子の清房は、天文21年(1552年)に菩提寺として高傳寺(こうでんじ)を創建した 4 。この寺は後に鍋島家の菩提寺となり、一族の精神的な中心地として重要な役割を担うことになる 8 。
現在も佐賀市本庄町に佇む高傳寺には、鍋島家歴代の墓所が設けられている。その中で、清久の墓は、後の藩主たちの墓とは別に、本堂裏の近親者墓所の中に、父・経房や息子・清房、そして直茂の継母となった慶誾尼らの墓と共に静かに眠っている 5 。この配置は象徴的である。藩主という公的な地位とは一線を画しつつも、一族の「祖」として特別な敬意を払われていることを示している。佐賀県立図書館には「高傳寺鍋島清久経房法名覚」といった古文書も現存しており 26 、彼が後世に至るまでいかに重要な人物として記憶されていたかがわかる。
清久が蒔いた種は、息子・清房の代に堅実に育まれ、孫である鍋島直茂の時代に見事に開花した。直茂は、祖父が築いた基盤の上に、その類稀な武勇と政治的手腕を存分に発揮した。彼は龍造寺隆信の右腕として活躍し、龍造寺氏の勢力拡大に大きく貢献した 27 。そして、天正12年(1584年)に隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、その跡を継いだ幼い政家を補佐する形で龍造寺家の実権を掌握していく 28 。
直茂の成功は、決して彼一人の力によるものではなかった。彼が龍造寺家中で重きをなすことができたのは、祖父・清久以来の忠誠と、母方が龍造寺一門であるという血縁があったからである。彼が数々の戦で勝利を収めることができたのは、鍋島・石井連合という強固な軍事同盟があったからである。彼が豊臣秀吉や徳川家康といった天下人と渡り合うことができたのは、鍋島氏が肥前において確固たる経済的・政治的基盤を築いていたからである。
まさに直茂は、祖父・清久が遺した全ての資産を最大限に活用し、鍋島家を戦国大名へと押し上げた「建設者」であった。しかし、その直茂が立つ舞台そのものを準備し、設計図を描き、資材を調達したのが、鍋島清久であった。清久は、鍋島家という壮大な建築物の、表には見えないが最も重要な基礎を築いた「隠れた設計者」だったのである。彼が遺した軍事的名声、経済的基盤、政治的正統性、強固な同盟関係、そして君主としての徳望という五つの遺産なくして、孫・直茂の活躍、ひいては佐賀藩の成立はあり得なかっただろう。
鍋島清久の生涯を俯瞰するとき、我々は彼が一人の武将としてだけでなく、一族の未来を百年先まで見据えた稀代の戦略家であったことを理解する。彼は、戦国乱世という混沌の中で、武力、経済力、血縁、同盟、そして人心という、権力を構成する全ての要素を巧みに組み合わせ、孫の代で花開くことになる鍋島家隆盛の盤石な礎を築き上げた。
田手畷の戦いにおける「赤熊の奇襲」は、彼に軍事的な名声をもたらしただけでなく、その後の鍋島家の運命を決定づける「四重の飛躍」の引き金となった。主家への忠誠、龍造寺家との婚姻、石井氏との同盟という「三本の矢」戦略は、鍋島氏に比類なき安定性と強靭さをもたらした。さらに、信仰心や慈悲の心といった逸話に象徴される「文武両道」の君主像は、鍋島家の支配に道徳的な正当性を与える無形の資産となった。
鍋島清久は、自らが頂点に立つことを夢見たわけではなかったかもしれない。しかし、彼の一手一手が、確実に一族を栄光へと導く布石となっていたことは間違いない。彼が設計し、息子・清房が堅実に受け継ぎ、そして孫・直茂が完成させた鍋島家の飛躍の物語は、個人の英雄譚を超えた、三代にわたる壮大な事業であった。その全ての始まりに、鍋島清久という先見の明に満ちた一人の男がいたことを、歴史は記憶している。
表2:鍋島家三代の基盤構築
世代 |
人物 |
主な役割・功績 |
後世への影響 |
祖父 |
鍋島清久 |
・貴種の血脈を継承 ・田手畷の戦いで軍功を確立 ・本庄の所領を獲得し経済基盤を構築 ・龍造寺家への忠誠と石井氏との同盟を確立 |
鍋島家飛躍のための軍事・経済・政治・同盟の全ての礎を築いた**「設計者」**。 |
父 |
鍋島清房 |
・父の路線を継承 ・龍造寺家との姻戚関係を強化 ・藩祖・直茂を養育 ・菩提寺・高傳寺を建立 |
清久が築いた基盤を維持・強化し、次代の直茂へと確実に繋いだ**「継承者」**。 |
孫 |
鍋島直茂 |
・龍造寺家の実権を掌握 ・豊臣・徳川政権との交渉 ・佐賀藩の実質的な藩祖となる |
祖父と父が築いた盤石な基盤の上で、類稀な政治力と武勇を発揮し、大名への道を完成させた**「建設者」**。 |