戦国時代から江戸時代初期にかけて、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)にその名を轟かせた武将、鍋島直茂。主家である龍造寺氏を実質的に凌駕し、後の三十六万石佐賀藩の藩祖として、その功績は広く知られている。しかし、この直茂の輝かしい経歴の影に、彼の父である鍋島清房(なべしま きよふさ)という人物の存在があったことは、しばしば見過ごされがちである。
本報告書は、この鍋島清房こそが、二度の極めて戦略的な婚姻と、戦場における決定的な武功を通じて、龍造寺家中における鍋島氏の地位を飛躍的に高め、後の「鍋島藩」成立に至る盤石な礎を築き上げた重要人物であるとの視点に立つ。彼の生涯は、単なる一介の家臣の物語ではない。それは、動乱の時代を読み解き、武力と政略を巧みに操り、一族を近世大名へと押し上げた、壮大な設計図そのものであった。
清房の行動は、主君への忠誠心の発露に留まるものだったのか、あるいは自家の勢力拡大という遠大な目標を見据えた、深謀遠慮に基づく戦略だったのか。本報告書は、現存する複数の資料を丹念に分析・統合し、鍋島清房という人物の生涯と歴史的役割を徹底的に再評価し、その実像に迫ることを目的とする。
鍋島清房の生涯を理解するためには、彼が生きた時代の肥前国が、いかに混沌とした状況にあったかをまず把握する必要がある。
清房が生まれた永正10年(1513年)頃の肥前国は、絶対的な支配者のいない、権力の空白地帯であった 1 。長らくこの地を治めてきた名門・少弐氏の権威は失墜し、西からは周防国(現在の山口県)を本拠とする大内氏、東からは豊後国(現在の大分県)の大友氏、そして南からは薩摩国(現在の鹿児島県)の島津氏といった、周辺の大国が絶えずその勢力圏を広げようと干渉を繰り返していた 1 。
このような群雄割拠の状況は、旧来の権威が揺らぐ一方で、新たな勢力が台頭する好機をもたらした。その中で頭角を現したのが、龍造寺氏であった。特に、水ヶ江龍造寺家の当主であった龍造寺家兼は、衰退する主家・少弐氏を巧みに支えながら、着実に自らの実力を蓄え、肥前国内における最有力国人の一人へと成長していく 3 。この龍造寺氏の勃興こそが、鍋島氏の運命を大きく左右することになる。
鍋島氏は、元来、肥前国佐賀郡本庄村を本貫とする在地性の強い土豪であった 5 。その出自については、少弐氏に連なる藤原氏を祖と仰ぐ説と、佐々木源氏の流れを汲むとする説の二系統が伝えられており、必ずしも明確ではない 7 。このことは、彼らが特定の権威に強く依存するのではなく、自らの実力でのし上がってきた勢力であったことを示唆している。
鍋島氏が歴史の表舞台に登場する直接的なきっかけを作ったのは、清房の父・鍋島清久であった。清久は、当時勢いを増していた龍造寺家兼に協力する道を選び、鍋島氏が龍造寺氏の家臣団に組み込まれる端緒を開いた 8 。これは、単なる従属ではなく、独立した小領主であった鍋島氏が、より大きな勢力である龍造寺氏と戦略的な提携を結ぶことで、この乱世を生き抜こうとする政治的判断であった。
肥前国における権力構造の流動性こそが、鍋島氏のような新興勢力に飛躍の機会を与えたと言える。絶対的な支配者が不在であるからこそ、個々の戦局における功績や、政略的な婚姻が、一族の地位を劇的に変える可能性を秘めていた。清房の父・清久が龍造寺家との提携という道を選んだことは、こうした時代の潮流を的確に読んだ上での戦略的投資であり、清房が後に大成するための土台となったのである。
鍋島氏の、そして清房自身の運命を決定的に変えたのが、享禄3年(1530年)に勃発した田手畷(たでなわて)の戦いである。
享禄3年(1530年)、周防の大内義隆は、配下の杉興運に大軍を率いさせて肥前へ侵攻させた 5 。これに対し、龍造寺家兼は主家である少弐方としてこれを迎え撃つが、大内軍の兵力は圧倒的であり、少弐・龍造寺連合軍は田手畷(現在の佐賀県神埼市)において壊滅の危機に瀕していた 11 。この戦いは、龍造寺氏にとって文字通り存亡を賭けた一戦であった。
この絶体絶命の窮地を覆したのが、鍋島清久・清房父子が率いた奇襲部隊であった。彼らは、赤く染めたヤクの毛で作られた被り物「赤熊(しゃぐま)」を身に着けた異様な出で立ちで、大内軍の側面に突撃した 11 。この奇襲作戦は、鍋島家の家臣であった野田清孝の発案と伝えられている 15 。
鉦や太鼓を打ち鳴らしながら突進する赤熊武者の姿は、大内軍の兵士たちに計り知れない心理的動揺を与えた 16 。意表を突かれて大混乱に陥った大内軍は、横岳資貞・筑紫尚門といった有力武将を討ち取られ、総崩れとなって敗走した 11 。この奇跡的な勝利により、鍋島清久・清房父子の名は、龍造寺家中に轟くこととなった。
龍造寺家兼は、自軍を壊滅の淵から救った鍋島父子の功績を絶賛した。そして、その恩賞として、清房に自身の孫娘(長男・龍造寺家純の娘で、桃源院と称される)を嫁がせたのである 14 。
この婚姻は、鍋島氏の地位を劇的に向上させた。単なる有力家臣から、主君・龍造寺家と血縁で結ばれた「親族」へと、その立場を大きく変えたのである 14 。田手畷の戦功は、武功と婚姻が一体となった、いわば「パッケージディール」としての価値を持っていた。武功によって得られる恩賞が、土地や金銭といった物質的なものに留まらず、主家との姻戚関係という身分的なものにまで及んだ点に、この出来事の重要性がある。これは、他の功臣たちとは一線を画す特別な待遇であり、鍋島氏の家格を一段階引き上げる効果を持った。
そして、この戦略的婚姻から8年後の天文7年(1538年)、清房と桃源院の間に一人の男子が誕生する。後の鍋島直茂である 20 。この一点において、田手畷の戦いは、単なる一合戦に留まらず、後の佐賀藩の歴史そのものの原点となったと言っても過言ではない。清房は、この戦いを通じて、武功がもたらす直接的な戦果だけでなく、それが如何にして一族の政治的地位向上に結びつくかを身をもって学んだはずである。この成功体験は、鍋島家の基本戦略を形成する上で、決定的な意味を持った。
田手畷の戦いから26年後、鍋島清房の人生、そして鍋島家の運命を再び大きく動かす出来事が起こる。それは、戦国時代の常識を覆す、極めて異例な形での再婚であった。
関係 |
人物名 |
備考 |
鍋島家 |
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父 |
鍋島清久 |
田手畷の戦いで清房と共に活躍 |
中心人物 |
鍋島清房 |
本報告書の主題 |
兄 |
鍋島清泰 |
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長男 |
鍋島信房 |
清房と桃源院の子。直茂の兄 |
次男 |
鍋島直茂 |
清房と桃源院の子。後の佐賀藩祖 |
龍造寺家(姻戚関係) |
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第一次婚姻 |
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義理の曾祖父 |
龍造寺家兼 |
龍造寺氏の当主。清房に孫娘を嫁がせる |
義理の祖父 |
龍造寺家純 |
家兼の長男 |
正室 |
桃源院 |
家純の娘。直茂の母 |
第二次婚姻 |
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義理の父 |
龍造寺周家 |
隆信の父 |
継室 |
慶誾尼 |
周家の妻、隆信の母 |
義理の子 |
龍造寺隆信 |
慶誾尼の子。直茂の義兄となる |
この異例の縁組を主導したのは、龍造寺家兼の曾孫にあたる龍造寺隆信の母、慶誾尼(けいぎんに)であった。彼女は、我が子・隆信が龍造寺家の家督を継いだ後も、家中の基盤が必ずしも盤石ではないことを見抜き、息子の権力を支える有能な人材の確保を最重要課題と捉えていた、極めて政治感覚に優れた女性であった 23 。
慶誾尼が白羽の矢を立てたのが、鍋島清房の息子、直茂であった。彼女は直茂の非凡な才能を早くから見抜き、彼こそが龍造寺家にとって「欠かすことができない逸材」であると確信していた 23 。そして、この逸材を龍造寺家に完全に引き込むため、常人では考えもつかない大胆な策を講じる。
弘治2年(1556年)、鍋島清房の正室であった桃源院が死去する。奇しくも慶誾尼も夫である龍造寺周家を亡くし、寡婦の身であった。慶誾尼はこの機を逃さなかった。彼女は、当時48歳であったにもかかわらず、自ら清房のもとへ再婚を迫ったのである 7 。
これは、男性が主導する縁談が当たり前であった当時において、まさに前代未聞の「押しかけ婚」であった 23 。ある逸話によれば、慶誾尼は清房に後添いの世話をすると持ちかけ、戸惑う清房を意に介さず、自らがその座に収まったとさえ伝えられている 27 。彼女の狙いは、清房自身というよりも、清房と再婚することで、その息子・直茂を隆信の「義理の弟」という極めて強固な関係に位置づけることにあった 23 。
この再婚は、慶誾尼の政治戦略と、鍋島家の家運が見事に交差した、戦国時代屈指の政略結婚であった。清房は当初、このあまりに唐突な申し出に戸惑いを見せたとも言われるが、最終的にこれを受け入れた 27 。それは、この縁組が息子・直茂、ひいては鍋島家全体にもたらす計り知れない政治的利益を、彼が正確に理解していたからに他ならない。田手畷の戦いで得た「武功と婚姻」による成功体験が、この異例の申し出を受諾する決断を後押しした可能性は高い。
結果として、この結婚は龍造寺家と鍋島家の双方に利益をもたらす「Win-Win」の関係を築いた。慶誾尼は息子のために最も信頼できる補佐役を確保し、清房は息子に最高の出世の道筋をつけたのである。この縁組によって、鍋島直茂は名実ともに龍造寺隆信の義弟となり、単なる主従関係は、血縁という揺るぎない絆によって補強された 24 。鍋島氏は、他のいかなる重臣も及ばない、龍造寺家中の筆頭格としての地位を不動のものとした。清房は、自らが矢面に立つことなく、婚姻という形で息子と一族の未来を切り拓く、極めて高度な政治判断を下したのである。
慶誾尼との再婚後、清房は徐々に歴史の表舞台から身を引き、息子・直茂の活躍を後方から支える役割に徹するようになる。
清房の晩年における重要な功績の一つに、天文21年(1552年)の高伝寺(こうでんじ)創建が挙げられる 13 。この寺の建立は、単なる一個人の信仰心の発露に留まるものではなかった。それは、鍋島家の永続性と正統性を確立するための、文化・宗教的側面からの戦略的投資であった。
当初、高伝寺は鍋島家の菩提寺として創建された 30 。しかし、後に初代藩主となる鍋島勝茂(直茂の子)が伽藍や寺領を寄進して寺格を高め、最終的には佐賀藩最後の藩主・鍋島直大が、龍造寺家代々の墓所をもこの寺に集めて整備した 29 。清房による創建、直茂による父の開基としての位置づけ、そして勝茂による拡充という、三代にわたる計画的な事業を経て、高伝寺は鍋島・龍造寺両家の菩提寺という特別な地位を確立する。これは、鍋島氏が龍造寺氏の歴史と正統性をも引き継ぐ後継者であることを、視覚的かつ宗教的に内外に示す、極めて象徴的な意味を持っていた。清房による創建は、この壮大なプロジェクトの第一歩だったのである。
清房は早くに家督を息子・直茂に譲り、自身は隠居の身として家を支えた 13 。彼の晩年は、直茂の目覚ましい活躍を見守る穏やかなものであったかのように見えるが、龍造寺家最大の危機において、彼は最後の奉公を果たしている。
天正12年(1584年)、主君・龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れ、戦死するという衝撃的な事件「沖田畷の戦い」が勃発する。この時、既に70歳を超えていた清房は、本拠地である村中城の留守を堅固に守り、主君を失った領内の混乱を防いだ 13 。そして、九死に一生を得て戦場から帰還した息子・直茂の無事な姿を見て、密かに喜んだという逸話が伝えられている 13 。これは、生涯を通じて冷静な政略家であった清房の、父としての一面を垣間見せる貴重な記録である。
龍造寺隆信の死という大きな時代の転換点を見届けた翌年の天正13年(1585年)8月26日、鍋島清房はその74年の生涯を閉じた 13 。法名は「剛意善金大居士」と伝わる 28 。
彼が息子・直茂に遺したものは、単なる財産や家督ではなかった。それは、龍造寺家の中枢に深く食い込み、血縁によって補強された盤石の政治的地位を築いた「鍋島家」そのものであった。彼の生涯は、直茂が龍造寺家の実権を掌握し、豊臣政権下でその地位を公認され、やがて近世大名へと飛躍するための、完璧な滑走路を準備するものであったと言える。
鍋島清房の生涯は、一見すると、その偉大な息子・鍋島直茂の輝かしい経歴の序章に過ぎないように映るかもしれない。しかし、本報告書で詳述してきた通り、彼の行動の一つ一つが、後の鍋島氏の飛躍に極めて重要な意味を持っていたことは明らかである。
結論として、鍋島清房は、自らが前面に立つことなく、二度の婚姻という極めて効果的な政略を用いて、息子・直茂のために最高の政治的環境を創り出した、稀代の戦略家であったと評価できる。彼は、戦場での武功と、閨閥を利用した政略、そして家族の絆という要素を巧みに編み上げ、一地方勢力であった鍋島氏を、近世大名へと至る確かな道筋に乗せた「真の設計者」であった。佐賀藩の歴史を語る時、藩祖・直茂の偉業とともに、その父・清房が描いた深遠なる生涯の設計図を記憶することこそが、その本質的な理解に繋がるのである。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
関連人物 |
出典 |
1513年 |
永正10年 |
1歳 |
鍋島清久の次男として誕生。 |
鍋島清久 |
13 |
1530年 |
享禄3年 |
18歳 |
田手畷の戦いで父と共に武功を挙げる。戦功により龍造寺家純の娘(桃源院)と結婚。 |
鍋島清久, 龍造寺家兼, 龍造寺家純 |
11 |
1538年 |
天文7年 |
26歳 |
次男・彦法師丸(後の鍋島直茂)が誕生。 |
鍋島直茂 |
20 |
1552年 |
天文21年 |
40歳 |
鍋島・龍造寺両家の菩提寺となる高伝寺を創建。 |
- |
13 |
1556年 |
弘治2年 |
44歳 |
正室・桃源院の死後、龍造寺隆信の母・慶誾尼と再婚。 |
慶誾尼, 龍造寺隆信 |
7 |
不明 |
- |
- |
家督を次男・直茂に譲り隠居。 |
鍋島直茂 |
13 |
1584年 |
天正12年 |
72歳 |
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死。清房は村中城の留守を預かる。 |
龍造寺隆信, 鍋島直茂 |
13 |
1585年 |
天正13年 |
73歳 |
8月26日、死去。享年74。 |
- |
13 |