最終更新日 2025-06-29

長宗我部信親

長宗我部信親 ― 夭折した麒麟児、その実像と長宗我部氏の落日

はじめに

戦国の世に、一人の若武者がいた。その名は長宗我部信親。四国の覇者・長宗我部元親の嫡男として生まれ、文武両道に秀で、容姿端麗、そして家臣領民から厚い人望を集めたと伝えられる 1 。しかし、その輝かしい未来は、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した戸次川の戦いにおいて、22歳という若さで無残に断たれる。彼の死は、父・元親を深い絶望の淵に突き落とし、やがては長宗我部家の衰退、そして滅亡へと至る悲劇の序曲となった。

信親の人物像は、主に江戸時代に成立した軍記物語『土佐物語』によって形成され、今日まで「完全無欠の悲劇の若武者」として語り継がれてきた 2 。しかし、その理想化されたイメージの裏側には、どのような実像が隠されているのだろうか。本報告書は、この流布された人物像を一次史料を含む多様な文献から多角的に検証し、信親の生涯、特に中央政権との関係性やその死の歴史的背景に深く迫る。さらに、彼の夭折という一つの出来事が、長宗我部家という一大名の運命をいかに決定的に暗転させたか、その複雑な因果関係を徹底的に論証することを目的とする。

第一章:誕生と血脈 ― 四国の覇者の嫡男が背負った宿命

1.1. 生誕と家族構成

長宗我部信親は、永禄8年(1565年)、土佐国岡豊城(現在の高知県南国市)において、長宗我部元親の嫡男として生を受けた 2 。幼名は千雄丸、通称を弥三郎といった 2 。父・元親は、かつて色白で物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されながらも、初陣で目覚ましい武功を挙げ「鬼若子(おにわこ)」と称されるようになり、やがて土佐一国を平定するに至った気鋭の戦国大名である 1 。信親には、後にそれぞれ讃岐の香川氏、土佐の津野氏の養子となる次男・香川親和と三男・津野親忠、そして父の死後に家督を継ぐことになる四男・長宗我部盛親らの弟がいた 2

信親の生涯と長宗我部家の運命を理解する上で、彼を取り巻く血縁の網、特に中央政権との繋がりを持つ母方の家系と、兄弟間の序列という内部の力学は極めて重要である。これらの関係性は、後の外交交渉の背景や、信親の死後に噴出する後継者問題の根深さを理解するための鍵となる。

関係

氏名

概要

長宗我部元親

長宗我部氏第21代当主。土佐を統一し、四国の覇者となる。

元親夫人

幕臣・石谷光政の娘。明智光秀の重臣・斎藤利三の異父妹 2

正室

石谷夫人

母方の従兄弟にあたる石谷頼辰の娘 2

叔父にあたる長宗我部盛親の正室となる 2

次弟

香川親和

讃岐の国人・香川信景の養子となる 1

三弟

津野親忠

土佐の国人・津野勝興の養子となる 1

四弟

長宗我部盛親

信親の死後、家督を継承。長宗我部家最後の当主 5

母方の縁者

斎藤利三

明智光秀の重臣。母の異父兄 2

母方の縁者

石谷頼辰

斎藤利三の兄。母の義兄(姉の夫) 6

母方の縁者

明智光秀

織田信長の重臣。斎藤利三の主君。

1.2. 母方の血筋が持つ政治的価値 ― 石谷氏と斎藤氏

信親の存在価値は、単なる長宗我部家の跡継ぎという立場に留まらなかった。彼の血筋は、それ自体が極めて高い政治的価値を持つ「外交資産」であった。信親の母は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた幕臣・石谷光政の娘であり、さらに彼女は、後に織田信長の重臣・明智光秀の腹心となる斎藤利三の異父妹でもあった 2 。この血縁関係により、土佐の一地方勢力に過ぎなかった長宗我部氏は、中央政権の有力者である明智光秀との間に、強力な縁故というパイプラインを確保することに成功したのである。

この繋がりが持つ意味は大きい。四国統一という壮大な野望を抱く元親にとって、中央の最高権力者である織田信長の公認を得ることは、その正統性を担保し、周辺勢力に対する優位性を確立する上で不可欠な要素であった 8 。しかし、土佐の元親には信長に直接誼を通じるための有効な手立てがなかった。ここで活きたのが、信親の母方の血筋であった。元親は、斎藤利三を通じてその主君である明智光秀に接近し、悲願であった信長との交渉ルートを確立する 9 。つまり、信親の誕生は、長宗我部氏の外交戦略における「切り札」の誕生を意味していた。彼の存在そのものが、後の織田信長からの偏諱拝領という、長宗我部氏にとって画期的な外交的成功に直結する重要な伏線となったのである。

第二章:麒麟児の実像 ― 文武両道と中央との絆

2.1. 『土佐物語』が描く理想の貴公子

信親の人物像を今日に伝える最も有名な書物が、江戸時代に成立した軍記物語『土佐物語』である。同書によれば、信親は「背の高さ六尺一寸(約184cm)」という当時としては傑出した体格を誇り、「色白く柔和」な貴公子然とした容貌でありながら、武勇にも抜きん出ていたと描写される 2 。その性格は「詞すくなく礼儀ありて厳ならず」と評され、寡黙で礼儀正しいが、決して威圧的ではない温和な人柄であったとされ、家臣や領民からの人望も非常に厚かったという 2

さらに、その卓越した身体能力を示す逸話として、走りながら二間(約4メートル)の距離を飛び越え、空中で刀を抜くことができたとも記されている 2 。父・元親は、この非の打ちどころのない嫡男を、前漢の英雄・劉邦の腹心であった猛将「樊噲(はんかい)」に引き合いに出して「樊噲にも劣るまい」と自慢し、その将来に絶大な期待を寄せていた 2

ただし、これらの人物像を鵜呑みにすることはできない。なぜなら、『土佐物語』は信親の死後、長い年月を経て編纂された文学作品であり、一次史料ではないからである。歴史上、悲劇的な死を遂げた後継者は、しばしば理想化されて描かれる傾向が強い。信親の夭折が長宗我部家没落の直接的な引き金となったという歴史的経緯を踏まえれば、失われた輝かしい未来への惜別の念が、彼を「完全無欠の御曹司」として描かせた動機になったと考えるのが自然であろう 3 。したがって、これらの逸話は信親が優れた人物であったことを間接的に示唆するものとして価値を持つ一方で、その全てが客観的な事実であると断定するには慎重な姿勢が求められる。

2.2. 織田信長からの偏諱 ― 栄光と危うさの象徴

元親の外交戦略において、信親は中心的な役割を果たした。元親は家臣の中島可之助を使者として派遣し、前述の明智光秀の仲介を経て、天下人・織田信長に信親の元服における烏帽子親となることを願い出た。信長はこの申し出を破格の待遇で承諾し、自身の諱(いみな)から「信」の一字を授け、「信親」と名乗らせた 11 。この時、信長から名刀工・左文字の太刀一振と栗毛の名馬一頭が下賜されたと伝えられている 2

この偏諱授与の時期については、二つの説が存在し、どちらの説を採るかによって、当時の織田・長宗我部両家の関係性の解釈が大きく異なる。従来は、天正3年(1575年)とする説が一般的であった。この時期、両家の関係は良好で、信長は元親に対し「四国は切り取り次第(実力で支配した分は所領として認める)」という朱印状を与えたとされ、偏諱授与もこの友好関係の証と見なされてきた 8

しかし、2013年に発見された『石谷家文書』に含まれる書状から、新たな説が浮上した 2 。その書状は元親が信親の母方の義兄である石谷頼辰に宛てたもので、信親が偏諱を授かった際に信長が「荒木村重を攻めていた」と記されている 2 。これは、信長が摂津有岡城に籠る荒木村重を攻めた天正6年(1578年)の出来事と比定される。この時期の解釈の違いは、単なる年代の修正に留まらない。天正6年頃、信長は四国における三好氏の勢力を利用するため、長宗我部氏への態度を硬化させ始めていた 9 。もし、この関係が悪化しつつある時期に偏諱が授与されたとすれば、それはもはや友好の証ではない。むしろ、劣勢に立たされた元親が、信親の母方の縁故(石谷氏・斎藤氏)という外交カードを最大限に利用し、信長の歓心をつなぎ止めようとした、必死の外交努力の産物であった可能性が濃厚となる。このことは、四国の覇者と見えた長宗我部氏の外交が、実際には常に薄氷を踏むような危うさを伴っていたことを示唆している。

2.3. キリスト教への関心 ― 『フロイス日本史』の記述

信親の先進性を物語るもう一つの記録が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に見られる。そこには、信親がキリスト教への入信を考えていたという趣旨の記述が存在する 2 。この記述は、彼の内面に迫る上で非常に興味深い。

この関心は、単なる個人的な宗教的興味に留まるものではなかった可能性がある。当時のキリスト教は、純粋な信仰であると同時に、鉄砲や火薬、航海術、世界地図といった西洋の先進的な知識や技術、そして南蛮貿易という経済的利益と分かちがたく結びついていた。信親の母方の縁者である石谷氏らは京の中央政界に近く、こうした国際的な情報に触れる機会も多かったと推測される 7

父・元親が「四国統一」という国内の覇業に心血を注いでいたのに対し、その後継者である信親は、その先にある、よりグローバルな世界へと視野を広げていたのかもしれない。彼のキリスト教への関心は、旧来の価値観に囚われない新しい世代の武将としての知的好奇心と、国際感覚の萌芽を示すものと解釈することができる。もし彼が夭折しなければ、その指導の下で長宗我部氏は単なる地方の軍事大国から、貿易などを通じて国際社会と繋がる、より近代的な大名へと変貌を遂げたかもしれない。そのような「歴史のif」を想起させる記述である。ただし、フロイスの著作はキリシタンやその理解者に対して好意的に記述する傾向があるため、この点については一定の史料批判が必要であることも付言しておく 13

第三章:四国統一戦と豊臣政権下での役割

3.1. 父の覇業における信親の立場

父・元親が土佐を統一した天正3年(1575年)から、四国平定をほぼ成し遂げる天正13年(1585年)に至るまでの10年間は、信親が元服し、一人の武将として成長していく時期と完全に重なる 14 。諸記録には、信親が父に従い各地を転戦したと記されているが 2 、彼の具体的な戦功を詳細に伝える一次史料は極めて限定的である。後代の軍記物語などでは、讃岐の香川城攻めにおいて奇襲を成功させ、攻略の立役者となったといった活躍が描かれているものの、これらは彼の武勇を飾り立てるための創作が加わっている可能性も否定できない 16

しかし、信親個人の華々しい戦功記録が少ないことは、必ずしも彼が武将として未熟であったことを意味しない。むしろ、父・元親が彼に寄せていた絶大な期待の裏返しと見ることもできる。元親は信親を単なる武将ではなく、「次代の統治者」として捉え、最高の教育を施していた 2 。そのような至宝ともいえる嫡男を、万一の危険が伴う最前線に積極的に投入するとは考えにくい。信親の血筋が持つ中央政権との繋がりを考慮すれば、彼の役割は一人の兵士として敵の首級を挙げることよりも、父の代理として後方の政務を統括したり、外交儀礼に臨んだりといった、より大局的で政治的なものであった可能性が高い。彼の「功績」は、戦場での武勇伝としてではなく、父の覇業を政治的・外交的に支えるという、より高度な形で発揮されていたと考えるのが妥当であろう。

3.2. 豊臣大名としての再出発

天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉が10万を超える大軍を四国へ派遣すると、さすがの元親も抗しきれず降伏した。これにより長宗我部氏は、阿波・讃岐・伊予を没収され、先祖伝来の土佐一国のみを安堵される形で豊臣政権下の一大名として組み込まれることになった 2

四国の覇者から、豊臣家の一配下へ。この劇的な体制転換期において、信親は父と共に新しい主君との関係を構築するという極めて重要な役目を担ったと考えられる。秀吉との謁見や、他の豊臣大名との交渉の場において、彼の礼儀正しさや中央の作法に通じた洗練された態度は、長宗我部家の面目を保ち、円滑な関係を築く上で大いに役立ったことであろう 16 。四国平定という夢は潰えたが、信親にとっては、豊臣政権という新たな枠組みの中で、自らの政治的手腕を発揮する新しい舞台が始まったはずであった。

第四章:運命の戸次川 ― 悲劇の戦場

4.1. 九州出兵と指揮系統の混乱

天正14年(1586年)、九州統一を目指す島津氏の圧迫に苦しむ豊後の大名・大友宗麟が、大坂城で豊臣秀吉に謁見し、救援を要請した。秀吉はこれを了承し、島津討伐の先遣隊として四国勢を豊後へ派遣することを決定する 18 。この部隊の軍監、すなわち総大将格に任じられたのは、秀吉子飼いの大名で讃岐を領する仙石秀久であった。そして、かつての四国の覇者・長宗我部元親と嫡男・信親、そして旧三好一族の十河存保らが、その指揮下に入るという編成が取られた 19

この部隊編成そのものが、戸次川の悲劇を構造的に内包していた。仙石秀久と十河存保は、数年前の四国平定戦において元親に敗れ、領地を追われた過去を持つ、いわば仇敵同士であった 21 。元親には元「四国の覇者」としての、仙石には秀吉の信頼篤い直臣としての、それぞれ譲れない自負があった 23 。秀吉が、あえて元親を格下の仙石の指揮下に置いたのは、長宗我部氏の強大な力を削ぎ、自らの絶対的な権威を見せつけるという政治的な意図があった可能性も指摘されている。このような根深い相互不信と歪な指揮系統は、戦場における冷静な作戦判断を著しく困難にし、後に軍議の場で致命的な対立を生む温床となったのである 20

4.2. 軍議の対立と信親の覚悟

島津軍が包囲する鶴賀城を救援すべく、豊臣軍は戸次川の畔で軍議を開いた。ここで、軍監の仙石秀久は手柄を焦るあまり、即座に川を渡って攻撃を仕掛けるべきだと強硬に主張した。これに対し、歴戦の将である元親は、眼前の地形が渡河攻撃に不向きであること、そして敵である島津軍が恐ろしく戦上手であることを熟知していたため、秀吉の本隊が到着するまで防御を固めて待つべきだと、理を尽くして強く反対した 7

しかし、総大将の権限を持つ仙石は元親の慎重論を「臆病者」と罵って一蹴し、独断で攻撃を決定する 24 。かつて元親に煮え湯を飲まされた十河存保も、仙石の意見に同調した 19 。この絶望的な決定を前に、信親は自らの死を覚悟したという。『土佐物語』によれば、彼はその夜、家臣たちにこう漏らしたと伝えられる。「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」 2 。武士としての面目を守るため、愚かな作戦と知りながらも死地に赴く覚悟を決めたのである。

4.3. 島津の必殺戦術「釣り野伏せ」

天正14年12月12日、仙石秀久の号令一下、豊臣軍は戸次川の渡河を開始した。彼らを待ち受けていたのは、島津家が百戦錬磨の末に完成させた必殺の戦術「釣り野伏せ」であった 21 。これは、まず中央の部隊が敵と交戦した後に偽って退却し(=敵を

り)、追撃してきた敵軍を、あらかじめ左右の山や林に潜ませておいた伏兵(= 野伏 せ)によって三方から包囲殲滅するという、極めて高度な戦術である 21 。囮部隊には高い練度と決死の覚悟が求められ、敵を誘い込む地形の選定も重要であった。

交戦勢力

島津軍

豊臣軍(四国勢)

総大将

島津家久

仙石秀久(軍監)

主要武将

新納忠元、伊集院久宣

長宗我部元親、長宗我部信親、十河存保

兵力

約10,000 - 18,000

約6,000

布陣・戦術

「釣り野伏せ」を準備し、戸次川の対岸で待ち受ける。

指揮系統が混乱したまま、不利な渡河作戦を強行。

案の定、功名心に逸る豊臣軍の先陣・仙石隊は、後退を始めた島津軍の囮部隊を深追いし、見事に「釣り野伏せ」の罠にはまった 21 。左右の伏兵から一斉に鉄砲を撃ちかけられ、さらに退却していたはずの部隊が反転して襲いかかってくると、仙石隊は大混乱に陥り、総大将である仙石秀久自身が真っ先に戦場から逃走するという醜態を晒した 21

4.4. 中津留の激闘と壮絶な最期

総大将の敗走により、豊臣軍の指揮系統は完全に崩壊した。後続の長宗我部隊約3,000は、進退窮まった中津留の河原で孤立し、島津軍の主力部隊に包囲されるという絶望的な状況に陥った 19 。乱戦の中、父・元親は家臣たちの必死の説得により戦場を離脱したが、信親は一歩も引かず、その場に踏みとどまって奮戦を続けた 19

『元親記』や『土佐物語』は、その最期の様を壮絶に描いている。信親は四尺三寸(約130cm)もの大長刀を水車のように振り回して敵兵を薙ぎ倒し、敵が肉薄すると長刀を捨て、今度は織田信長から拝領した左文字の太刀を抜いて6、7人を斬り伏せたという 2 。しかし、圧倒的な兵力差の前には衆寡敵せず、激闘の末、ついに島津家臣・鈴木大膳によって討ち取られた 2 。享年22 2 。この戦いで信親に付き従っていた譜代の家臣700余名も主君と運命を共にし、長宗我部家は、その未来を担うべき最も優秀な人材を一日で失うという、回復不能な打撃を受けたのである 2

第五章:信親の死がもたらした連鎖 ― 長宗我部氏、落日の序曲

5.1. 父・元親の変貌と心の闇

最愛の嫡男の死は、父・元親に計り知れない衝撃を与え、その後の彼の精神と行動を根底から変えてしまった 1 。岡豊に帰還した元親は、かつての「土佐の出来人」と称された英明さや寛容さを失い、猜疑心が強く、些細なことで激高し、諫言する家臣を容赦なく粛清するような、暗愚で苛烈な君主へと変貌していったと伝えられる 28

この変貌は、単なる愛息を失った悲嘆だけでは説明がつかない。その深層には、より複雑な心理が働いていたと考えられる。元親は戸次川の軍議で仙石秀久の作戦に強く反対しながらも、最終的には軍監の命令に従い、結果として息子を死なせてしまった。この事実は、元親にとって「自らの判断が、あるいは判断を貫けなかったことが息子の死を招いた」という、耐え難い自責の念を生んだはずである。しかし、彼の高い自負心は、その過ちを認めることを許さなかった。この強烈な自己矛盾から逃れるため、彼は他者(後継者問題で反対する家臣など)に責任を転嫁し、自らの判断を絶対化(=諫言を一切許さない)することで、かろうじて精神の均衡を保とうとしたのではないか。信親の死が元親の心に残した深い傷は、彼の判断力を致命的に歪ませ、さらなる悲劇、すなわち家中の分裂と粛清という負の連鎖を引き起こしたのである。

5.2. 後継者問題と家中の亀裂

信親の死によって空位となった後継者の座を巡り、長宗我部家中は大きく揺れた。家臣団の多くは、他家に養子に出ていたとはいえ、武将としての実績も人望もある次男・香川親和や三男・津野親忠を後継に推した 5 。彼らを立てることが、家の安泰に繋がると考えたからである。

しかし、元親は家臣団の意向を完全に無視し、溺愛していた四男・盛親を後継者に指名するという驚くべき決定を下す 5 。当時、盛親はまだ元服したばかりの少年であり、その器量は未知数であった。この強引な決定に、信親の義理の兄弟でもあった重臣・吉良親実らが強く反対すると、元親は彼らを謀反の疑いありとして一族郎党ことごとくを処断するという暴挙に出た 29

元親が、家中の分裂という大きな代償を払ってまで、未熟な盛親の擁立に固執した背景には、信親への執着にも似た愛情があった。信親には、ただ一人、娘が遺されていた 2 。元親は、この信親の忘れ形見である娘を、年齢の近い盛親に娶せることで、愛する信親の血統を長宗我部本家に繋ぎ止めようとしたのである 2 。次男・親和や三男・親忠では、姪にあたるこの娘との年齢差が大きすぎた 5 。つまり、この家督相続は、家の将来を考えた合理的な判断ではなく、亡き息子への断ちがたい愛情と、その血筋を残さんとする執念が生んだ、極めて感情的な決定であった。この非合理的な選択が、長宗我部家の結束を内部から崩壊させ、滅亡への道を決定づけたのである。

5.3. 娘(信親の娘、盛親の正室)のその後

父・元親の意向により、信親の遺した一人娘は、叔父にあたる長宗我部盛親の正室となった 2 。しかし、彼女のその後の人生もまた、波乱に満ちたものであった。夫となった盛親は、関ヶ原の戦いで西軍に与した結果、戦わずして敗軍となり、徳川家康によって土佐一国を没収(改易)され、浪人の身となる 5

その後、盛親は長宗我部家再興を賭けて大坂の陣に豊臣方として参戦するも、大坂城は落城。敗走中に捕らえられ、慶長20年(1615年)、京都の六条河原で斬首された 5 。信親の娘と盛親の間には複数の男子がいたとされるが、その母親が誰であったかについては不明な点が多く、彼女自身がいつ、どこで、どのような生涯を終えたのかを伝える明確な記録は乏しい 32 。夫と子供たちの多くを失い、長宗我部本家の血筋が歴史の表舞台から完全に姿を消していく様を、彼女はどのような思いで見つめていたのであろうか。

結論:歴史における長宗我部信親

長宗我部信親という武将を歴史的に評価する際、三つの側面からその存在を捉えることができる。

第一に、「もしも」を語り継がれる悲運の武将としての側面である。信親の存在は、常に「もし彼が生きていれば、長宗我部家は滅びなかったのではないか」という、歴史の大きなifを人々に想起させる 16 。彼の死は、単なる一個人の死に留まらず、繁栄を極めた一つの大名家の運命を決定づけた、あまりにも大きな歴史の分岐点として認識されている。その劇的な生涯と夭折は、戦国の世の非情さを象徴する出来事として、今なお多くの人々の心を捉えて離さない。

第二に、理想化された「虚像」と、史料から探る「実像」の乖離である。後世の軍記物語は、彼を文武両道、才色兼備の「完全無欠の英雄」として描き出した 3 。しかし、断片的に残る史料を丹念に読み解くと、それとは異なる、より複雑で奥行きのある人物像が浮かび上がる。それは、中央政権との貴重な繋がりをその身に体現する「外交資産」であり、キリスト教に関心を示すなど、新しい時代の価値観と国際感覚を持つ可能性を秘めた、思慮深い青年の姿である。

第三に、敵味方に悼まれたその死と、後世への伝承である。戸次川での彼の壮絶な戦いぶりと見事な最期は、敵将である島津勢からも賞賛され、その遺骸は丁重に扱われた上で父・元親の元へと返されたと伝わる 33 。故郷である土佐の高知市・雪蹊寺 10 、そして終焉の地となった豊後の戸次川古戦場跡 35 には、今なお墓所や供養塔が大切に守られている。400年以上の時を超え、毎年慰霊祭が執り行われるなど 21 、その夭折は地域の人々によって語り継がれている。長宗我部信親の短い生涯は、戦国の世の非情さと、それでもなお人の心を打ち、時代を超えて共感を呼ぶ人間ドラマの力強さを、我々に示しているのである。

引用文献

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  2. 長宗我部信親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA
  3. 長宗我部信親は、なぜ戸次川で討たれたのか?華々しい最期に隠された“秀吉への訴え” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10105
  4. 長宗我部元親の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62991/
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  6. 元親夫人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%A6%AA%E5%A4%AB%E4%BA%BA
  7. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
  8. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  9. 【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2022/02/24/170000
  10. 長宗我部信親墓所 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/nobuchikabosho.html
  11. 第25話 長宗我部信親 遠い太鼓 - 海馬戦記----脇坂安治を探して - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054883489977/episodes/1177354054887539763
  12. 織田信長の偏諱授与-その実態、家中秩序の形成に関連する一試案 ... https://note.com/turedure7014/n/nd19852df591a
  13. 『フロイス日本史』戸次川の戦いの記述とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E3%80%8E%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%8F%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E8%A8%98%E8%BF%B0
  14. 4コマで長宗我部元親〜すぐわかる戦国武将シリーズ - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/articles/entry/themes/049008/
  15. 四国を統一した武将、長宗我部元親が辿った生涯|秀吉の四国攻めで臣下に降った土佐の戦国大名【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1144083
  16. 長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか) 拙者の履歴書 Vol.112~二十一年の生涯、戦国の嵐 https://note.com/digitaljokers/n/nab60429cc4b2
  17. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  18. 戸次川古戦場 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4/
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  20. 長宗我部信親は、なぜ戸次川で討たれたのか?華々しい最期に隠された“秀吉への訴え” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10105?p=1
  21. 戸次川の戦い(九州征伐)古戦場:大分県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/hetsugigawa/
  22. 仙石秀久の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46492/
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  24. 名君から愚将へと転落した四国の雄・長宗我部元親|意匠瑞 - note https://note.com/zuiisyou/n/n0c3425d7ce4f
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  27. 戸次川の戦い!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本 https://ameblo.jp/shiroatofetch/entry-12650428599.html
  28. 名君だったのに… 四国のヒーロー・長宗我部元親の「悲惨すぎる晩年」 息子の死で人格が変わり、家臣を「切腹」させまくった - 歴史人 https://www.rekishijin.com/40232
  29. 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
  30. 盛親の相続は正しい判断だったか? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/41
  31. 七人みさき - 高知市春野郷土資料館 https://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/20/2019/muse/hanashi/hanashi10.html
  32. 「ワイ、戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の末裔説」を本気で検証してみた。佐賀の『はじまりの名護屋城。』をきっかけに遠い先祖(?)へ思いを馳せる - 電ファミニコゲーマー https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/240329h/3
  33. 長曽我部信親墓 - おおいた市観光ナビ OITA CITY TOURIST NAVI https://www.oishiimati-oita.jp/spot/3399
  34. 長宗我部元親と土佐の戦国時代・史跡案内 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shiseki/
  35. 長宗我部信親の墓・十河一族の碑 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%83%BB%E5%8D%81%E6%B2%B3%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%AE%E7%A2%91/
  36. 長宗我部信親終焉の地 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA%E7%B5%82%E7%84%89%E3%81%AE%E5%9C%B0/