土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠――。様々な異名で呼ばれ、一代で土佐を統一し、四国の覇者へと駆け上がった戦国大名、長宗我部元親 1 。その栄光は、嫡男・信親の戦死を境に陰りを見せ始め、後継者問題、関ヶ原の戦いでの敗戦、そして大坂の陣における一族の滅亡という、悲劇的な終焉を迎える。その劇的な興亡の物語は、後世の人々の心を強く捉え、数多の逸話を生み出してきた。
本報告書が光を当てるのは、この長宗我部氏の公式な系譜の末尾に、まるで亡霊のように、あるいは一条の希望のように現れる「長宗我部康豊」という名の人物である。一般に流布する彼の物語は、誠に魅力的だ。「元親の末子として生まれ、兄・盛親と共に大坂の陣で豊臣方として奮戦。敗戦後、安倍晴明の子孫を名乗るという奇計を用いて東国へ逃れ、駿府で城主・酒井忠利の命を救った功により、その家臣として召し抱えられ、武士としての再生を遂げた」という貴種流離譚である。
しかし、この英雄的な物語は、果たして歴史の審判に耐えうるものなのだろうか。本報告書は、この長宗我部康豊という謎多き人物をめぐる伝説を丹念に解きほぐし、信頼性の高い史料との突き合わせを通じてその実在性を徹底的に検証する。そして、もし彼が史実の人物でないとすれば、なぜこのような具体的な物語が生まれ、語り継がれる必要があったのか、その歴史的・文化的背景を深く掘り下げることを目的とする。これは、単に一人の武将の真偽を問う作業に留まらない。歴史の敗者が後世においてどのように記憶され、物語として消費され、あるいは再創造されていくのかという、歴史的言説の形成過程そのものに迫る試みである。
長宗我部康豊をめぐる物語は、そのほとんどが江戸時代中後期に成立したとされる逸話集にその源流を持つ。この第一部では、史料批判を一旦保留し、物語が持つ構造と魅力を明らかにするため、伝説として語られる康豊の生涯を、その起伏に富んだ展開に沿って詳述する。
長宗我部康豊の物語は、徳川の世が盤石となりつつあった時代の最後の抵抗、大坂の陣から幕を開ける。
康豊は、四国の覇者・長宗我部元親の六男、すなわち末子として生を受けたとされる 3 。通称を信九郎、あるいは民部と称したという 3 。彼の生年は定かではないが、慶長4年(1599年)頃とされることもある 6 。父・元親が没し、兄・盛親が関ヶ原の戦いで西軍に与した結果、土佐二十四万石を改易された後、長宗我部家は浪々の身となっていた。
慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立が頂点に達し、豊臣秀頼が全国の浪人を大坂城に招聘すると、兄・盛親もこれに応じた。再興を期す兄に従い、康豊もまた、長宗我部家の命運を賭けて大坂城へと入城する 6 。彼は、真田信繁(幸村)や後藤基次らと共に、豊臣方を支える主要な将の一翼を担うこととなった。
慶長20年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の火蓋が切られると、河内国において長宗我部盛親率いる部隊は、徳川方の勇将・藤堂高虎の軍勢と激突した。世に言う「八尾・若江の戦い」である 8 。この戦いは、大坂の陣における屈指の激戦として知られ、長宗我部軍は一時に藤堂軍を壊乱させるほどの猛攻を見せた。この凄惨な戦場にあって、康豊もまた兄と共に奮戦したと伝えられている 6 。一族の再興という悲願を胸に、彼は死力を尽くして戦ったのであろう。
しかし、衆寡敵せず、豊臣方の敗色は次第に濃厚となる。木村重成や後藤基次といった名だたる将が次々と討ち死にし、戦線は崩壊。盛親の部隊も孤立し、大坂城への撤退を余儀なくされた 6 。そしてついに、大坂城は炎上し、落城する。
この絶望的な状況下で、康豊は一つの決断を下す。兄・盛親のように城へ戻り運命を共にするのではなく、戦場から密かに離脱し、東国へと落ち延びる道を選んだのである 6 。これは、単なる敗走ではなかった。長宗我部という一族の血を、たとえ細くとも未来へと繋ぐための、苦渋に満ちた選択として物語は描かれる。こうして、康豊の長く困難な逃避行が始まった。
武士としての身分を捨て、追われる身となった康豊。彼の再生の物語は、驚くべき機知と奇策によって彩られる。
大坂の戦場を生き延びた康豊であったが、その道のりは過酷を極めた。まず山城国山科(現在の京都市山科区)付近の民家に押し入り、追手の目から逃れるために着物や蓑笠を奪うという、元大名の御曹司とは思えぬ手段で糊口をしのいだ 9 。かつて縁があったという下野国宇都宮を目指して東へと向かうが、旅は思うに任せない。信濃国(現在の長野県)に至る頃には路銀も食料も尽き果て、とある多賀明神の社で雨露をしのぐも、実に二日間も絶食するほどの窮状に陥った 9 。武勇だけでは生き抜けぬ現実が、彼に重くのしかかっていた。
まさに餓死寸前であったその時、転機が訪れる。社に供物を持って現れた里人たちの姿を見つけた康豊は、その一行の後を密かにつけ、彼らの家へとたどり着いた。そこで彼は、一世一代の賭けに出る。自らの素性を隠し、こう名乗ったのである。「我は安倍晴明が末裔、安部康豊と申す高名な占師なり」と 9 。これは、自身の本名「康豊」の音を活かしつつ、当代随一の神秘性と権威を持つ「安倍」の姓を騙るという、絶体絶命の状況下で生まれた咄嗟の奇計であった。
偶然か、あるいは運命か、康豊が訪れたその家では、まさに四十両もの大金が盗まれるという事件が起きており、家中は騒然としていた。偽りの陰陽師・安部康豊は、この難題に臆することなく、持ち前の洞察力と巧みな話術を駆使して、見事に事件を解決へと導いた。その手腕は、里人たちを完全に信用させるに十分であった。この功により、康豊は謝礼として十両の金子を得ただけでなく、里人たちからの餞別として立派な旅装束一式を贈られる 9 。彼はこの奇策によって、再び東へ向かうための路銀と、何よりも人間としての尊厳を取り戻したのである。
陰陽師としての再生を経て、康豊の物語は、新たな主君との運命的な出会いへと向かう。
再び旅を続けた康豊は、やがて駿河国(現在の静岡県)へとたどり着き、長光寺という寺に身を落ち着けた。ここで彼は、長宗我部という名を完全に捨て、母方の姓であったという「足立」を名乗り、さらに通称を「七左衛門」と改めた 6 。長宗我部康豊は死に、市井の浪人・足立七左衛門が誕生した瞬間であった。これは、徳川の治世下で生き抜くための、完全なる身分と過去の清算を意味していた。
ある日のこと、当時の駿河田中城主であった徳川譜代の重臣・酒井忠利 13 が、長光寺の付近で鷹狩りを催していた。その最中、突如として一人の狂人が刃を振り回して暴れ出し、あろうことか忠利らが休憩していた寺の客殿へと斬り込んでくるという騒動が勃発する。供の者たちが色めき立つ中、その場に偶然居合わせた足立七左衛門(康豊)が、その卓越した武芸をもって狂人を鮮やかに取り押さえたのである 9 。この劇的な出来事が、彼の運命を大きく変えることとなった。
城へと帰った忠利は、狂人を制圧した浪人の素性を調べさせた。その武勇と、伝え聞いた由緒に感銘を受けた忠利は、七左衛門を200石で召し抱えることを決断する。その後、忠利が武蔵国川越藩へと移封されると 9 、七左衛門もこれに随行した。彼の忠勤と才覚は高く評価され、知行は500石、そして最終的には1,500石にまで加増されたという 6 。かつての四国の覇王の末子は、徳川譜代大名の家臣として、見事な立身出世を遂げたのである。
康豊の物語は、彼の代で終わらない。伝説によれば、その子である二代目七左衛門は、主家が若狭国小浜藩へ転封となった後も仕え続け、5,000石もの知行を賜る重臣として、その家名を大いに高めたと締めくくられる 9 。滅び去ったはずの長宗我部氏の血脈は、形を変え、新たな主君の下で繁栄を続けた。この結末は、物語に安堵と完全な救済をもたらしている。
この物語の構造を分析すると、それは単なる出来事の羅列ではないことがわかる。まず、「没落(大坂の陣)→流浪(逃避行)→試練と克服(陰陽師の奇計)→再興(酒井家仕官)」という流れは、日本の古典文学における「貴種流離譚」や、敗者に同情を寄せる「判官贔屓」の精神と見事に合致する、極めて完成度の高い英雄譚の形式を取っている。各エピソード、特に陰陽師として盗難事件を解決する場面は主人公の「知」を、狂人を制圧する場面は「武」を証明するために配置されており、聞き手が感情移入しやすいように計算された、演劇的な構成が見て取れる。この物語の構造的完成度の高さそのものが、史実の記録というよりも、後世に意図的に練り上げられた文学作品としての性格を強く示唆している。
さらに、康豊が用いた三つの名前――「長宗我部康豊(武士)」、「安部康豊(聖なる者)」、「足立七左衛門(市井の者)」――は、単なる偽名以上の象徴的な意味を帯びている。「安部」姓は、超自然的な力を持つ安倍晴明の権威を借りることで、絶望的な状況を打破する「聖」なる力への変身を象徴する。一方、「足立」という母方の姓を名乗る行為は、武家の父系社会からの離脱と、新たな主君への帰属を果たすための「俗」なる世界への回帰を意味する。これらの改名は、敗者であった武士が一度「聖」の力を借りて浄化され、新たな「俗」の世界で再生を遂げるという、一種の通過儀礼のプロセスを物語っているのである。
第一部で詳述した長宗我部康豊の劇的な生涯は、物語として非常に魅力的である。しかし、歴史学は物語の魅力ではなく、史料に基づいた客観的な事実に立脚する。この第二部では、歴史学の根幹である史料批判の手法を用い、伝説の各要素を厳密に検証する。その結果、伝説と史実の間に横たわる、越えがたい溝が明らかになる。
康豊伝説を検証する上で、まず取り組むべきは、その情報源の特定と性格の分析である。
調査の結果、長宗我部康豊の生涯に関する逸話のほぼ全てが、江戸時代中後期に成立したとされる編纂物『落穂雑談一言集』に依拠していることが確認できる 9 。一部の書誌情報では、奥平松平家の松平忠明の著作とされているが 14 、その成立は文化年間(1804年~1818年)頃とされ、物語の起点である大坂の陣(1615年)から約200年もの歳月が経過している 15 。これは、同時代史料ではなく、後世に収集された伝聞や逸話の集成であることを意味する。
『落穂雑談一言集』のような逸話集は、江戸時代に数多く出版された 16 。これらの書物の主たる目的は、歴史的事実を正確に記録することではなく、武士の心得や教訓を伝えたり、あるいは大衆向けの読み物として娯楽を提供したりすることにあった。特に、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった、人々の関心が高い大事件に関する逸話は、読者の興味を引くために劇的な脚色が加えられる傾向が強く、その史料的価値については慎重な判断が求められる 17 。国立国会図書館デジタルコレクションなどで本書の存在は確認できるものの 15 、その記述内容が一次史料によって裏付けられているわけではない 21 。したがって、この書物を歴史的事実の根拠として無批判に受け入れることは、極めて危険であると言わざるを得ない。
伝説の信憑性を揺るがす最も決定的な証拠は、物語の終着点である酒井家の公式記録の中に存在する。
若狭国小浜藩酒井家の家臣団について詳細に記した公式記録『安永三年小浜藩家臣由緒書』を調査した結果、確かに「足立七左衛門」という名の家臣が実在したことが確認された 9 。この一点だけを見れば、伝説に真実味を与えるかのように思える。
しかし、その由緒書に記された内容は、伝説の根幹を覆すものであった。伝説で語られる足立七左衛門と、史料に記録された足立七左衛門は、名前こそ同じだが、その実態は全くの別人と言ってよいほど異なっている。
これらの矛盾点を整理するため、以下の比較表を提示する。
項目 |
『落穂雑談一言集』の記述(伝説) |
『安永三年小浜藩家臣由緒書』の記録(史実) |
人物名 |
長宗我部康豊、のち足立七左衛門 |
足立七左衛門 孝興 |
仕えた藩主 |
酒井 忠利 |
酒井 忠勝 |
仕官のきっかけ |
狂人を制圧し、忠利の命を救う |
不明(由緒書に記載なし) |
仕官年 |
慶長末期~元和年間(1615年頃) |
寛永11年(1634年) |
当初の知行 |
200石 |
250石 |
最終的な知行 |
1,500石(子孫は5,000石) |
400石(二代目勝興の時点) |
長宗我部氏との関係 |
元親の末子 |
記述なし |
この表が示すように、伝説と史実の間には、偶然の一致とは到底考えられない、構造的な乖離が存在する。この事実は、康豊伝説が歴史的事実ではないことを、ほぼ確定的に証明するものである。
この比較から導き出されるのは、伝説が「接ぎ木」のような構造で成り立っているという可能性である。『落穂雑談一言集』の作者、あるいはその情報提供者は、小浜藩に「足立七左衛門」という家臣が実在することを知っていたのかもしれない。しかし、その人物の正確な由緒までは知らなかったか、あるいは物語の面白さを優先して意図的に無視した。そして、この実在の「足立七左衛門」という名前を、いわば物語の「器」として利用し、そこに「長宗我部氏の末裔の生存譚」という、より大衆受けするドラマチックな「中身」を注ぎ込んだ。つまり、全くの無から創作したのではなく、実在の人物の名前に、別の物語を接ぎ合わせることで、伝説を構築したと考えられる。この手法は、物語に一定のリアリティの衣をまとわせ、信憑性を高める効果を狙ったものと推察される。
酒井家の記録が伝説を否定する一方で、長宗我部氏側の記録もまた、康豊の存在について沈黙を守っている。
長宗我部氏の歴史を伝える根本史料の一つである『元親記』などを基にした元親の子息のリストには、嫡男・信親、香川家に養子に入った親和、津野家を継いだ親忠、そして家督を相続した盛親、さらには右近大夫といった名が連なるが、「康豊」という名前はどこにも見出すことができない 2 。現代の研究者の間でも、康豊は後世の軍記物に登場する人物であり、実在は疑わしいと見なされている 25 。
さらに、江戸幕府が編纂した大名・旗本の公式系譜集である『寛政重修諸家譜』は、徳川家と関わりのあった諸家の系譜を網羅的に収録している。当然、酒井家やその家臣団、さらには長宗我部氏の縁者についても記述が見られるが 26 、ここにも「長宗我部康豊」や、長宗我部氏の血を引く「足立七左衛門」といった人物の記録は一切存在しない 9 。幕府の公式記録にその痕跡がないことは、彼が歴史上の公的な存在ではなかったことを強く示唆している。
歴史学においては、「あったこと」を証明するには一点の確かな証拠があればよいが、「なかったこと」を証明する、いわゆる「悪魔の証明」は非常に困難である。しかし、本件に関しては、状況が異なる。康豊の「存在」を証明する史料は、二次史料であり、かつ信憑性の低い逸話集『落穂雑談一言集』のみである。一方で、康豊の「不在」を示唆する史料は、藩の公式記録や幕府の公式編纂物といった、信頼性の高い一次史料群である。そして何より、康豊伝説で語られる特定の状況、すなわち「酒井忠利への仕官」という核心部分が、信頼性の高い史料によって明確に否定されている。これは単なる「不在の証明」に留まらず、伝説そのものが成り立たないことを示す、極めて強力な反証と言えるのである。
第二部での検証の結果、長宗我部康豊は史実の人物ではなく、後世に創作された文学上の存在である可能性が極めて高いと結論付けられた。では、なぜこのような具体的で、一見すると真実味のある伝説が生まれ、語り継がれる必要があったのだろうか。この第三部では、康豊伝説が生まれた歴史的・文化的背景を深く考察し、人々の集合的な記憶がどのように物語を形成していくのかを探る。
物語が生まれる土壌には、常に人々の感情や願望が存在する。康豊伝説の根底には、滅び去った長宗我部氏への強い同情と、その血脈の存続を願う心が横たわっている。
長宗我部元親は、土佐の一国人に過ぎなかった長宗我部氏を、わずか一代で四国統一を成し遂げるほどの勢力にまで押し上げた、戦国時代を代表する英雄の一人である 1 。しかし、その栄光は長くは続かなかった。関ヶ原の戦いでは、西軍に属しながらも毛利勢に阻まれて戦いに参加できず、戦わずして敗軍の将となり、所領を没収されるという不運に見舞われた 31 。そして、最後の望みを託した大坂の陣では、奮戦空しく一族が滅亡するという悲劇的な末路を辿った 31 。このような劇的な興亡の物語は、後世の人々の心に深く刻まれ、敗者である長宗我部氏に対する強い同情、すなわち「判官贔屓」の感情を育んだ 33 。
英雄的な一族が完全に滅び去ってしまうという結末は、人々にとってあまりにも物悲しい。そのため、誰か一人が奇跡的に生き延び、その血脈を未来に伝えたという「生存譚」は、人々の心を慰め、歴史の無情さに対するささやかな抵抗として、強く求められる傾向がある 10 。特に、武勇で知られた元親の血筋が、全く予期せぬ形で、しかも知恵と武勇を駆使して生き残り、新たな世界で再生を遂げるという康豊の物語は、聞く者に強いカタルシスをもたらしたであろう。奈良の吉野に末裔が逃げたという伝承があるように 35 、名家の血がどこかで続いているという話は、人々の想像力を掻き立てたのである。
徳川幕府による統治が安定し、泰平の世が続いた江戸時代中期以降、人々はかつての戦国の動乱期に、自らの才覚と武勇で運命を切り拓いた武将たちの姿に、一種の憧憬を抱いていた。大坂の陣で敗れた浪人が、その能力を新興の藩主や徳川譜代の重臣に認められ、新たな家臣として召し抱えられるという物語は、数多く存在する 36 。康豊の物語もまた、この類型に属する。それは、生まれや家柄だけでなく、個人の実力が正当に評価されるという、理想化された武士社会の姿を映し出しており、身分が固定化された江戸時代の武士や庶民にとって、魅力的な物語として受け入れられやすかったのである。
康豊伝説が広く受け入れられた理由は、その背景にある人々の願望だけでなく、物語自体が持つ巧みな構成要素にもある。
物語の中で康豊が名乗る「安倍晴明の子孫」という肩書は、極めて効果的な仕掛けである。江戸時代において、安倍晴明はすでに超人的な能力を持つ伝説的な陰陽師として、庶民にまで広く知られた存在であった 39 。その誰もが知る偉大な「アイコン」の名を借りることで、康豊の物語は一気に神秘性と権威を帯びる。「あの安倍晴明の末裔ならば、不思議な力で盗難事件を解決できてもおかしくはない」と、聞き手は物語の飛躍を自然に受け入れることができる。これは、物語に説得力と娯楽性を同時に付与する、巧みな文学的技法である。
康豊の生涯は、逃亡、変装、奇計、絶体絶命の危機、そして運命的な主君との出会いという、起伏に富んだプロットで構成されている。これは、歴史の事実を忠実に再現することよりも、講談や読み物としての面白さを最大限に追求した結果と考えられる。一つ一つのエピソードが、聞き手の興味を引きつけ、次の展開への期待を抱かせるように計算されている。
興味深いことに、長宗我部氏の血脈が続いたという話は、康豊伝説に限られない。例えば、元親の五男とされる右近大夫の子孫を名乗る系統も存在し、その血脈が現代まで続いていると主張されている 41 。これは、名家の断絶を惜しむ人々が、様々な形で「生存」と「再興」の物語を求め、創造していった文化的潮流があったことを示唆している。康豊の物語は、この大きな潮流の中に位置づけられるべき、数ある「長宗我部生存譚」の一つなのである。
これらの要素を総合的に考察すると、康豊伝説が持つ社会的な機能が浮かび上がってくる。この物語は、単なる娯楽として消費されただけではない。徳川幕府の支配が安定した江戸中期において、かつての戦国大名の物語は、体制への直接的な批判を伴わない形で、過去の多様な価値観――実力主義、下剋上、家の意地など――を追体験させる安全な装置として機能した。康豊の物語は、「たとえ主家が滅び、全てを失っても、個人の才覚と武勇さえあれば、新たな世界で生き抜くことができる」という、力強いメッセージを内包している。これは、身分が固定化され、閉塞感も漂っていた江戸社会において、一種の希望の物語、あるいは処世術の寓話として機能した可能性がある。
さらに、物語の結末も重要である。敗者である長宗我部氏の血筋が、最終的に勝者である徳川幕府の譜代大名・酒井家に仕え、その家臣として安泰を得るという結末は、全ての価値が最終的には徳川の秩序の中に穏やかに組み込まれることを示している。これにより、物語は体制を脅かす危険な思想とはならず、支配層にとっても許容可能な「安全な」物語として、広く流布することができたのである。
本報告書を通じて行われた、長宗我部康豊をめぐる多角的な検証は、以下の結論へと我々を導く。
第一に、史料批判の結果、長宗我部康豊という人物は、史実上の存在である可能性が極めて低い。その生涯を伝える唯一の拠り所である『落穂雑談一言集』は、成立年代が遅く、逸話集としての性格が強い二次史料である。一方で、信頼性の高い一次史料、すなわち長宗我部氏の系図、幕府編纂の『寛政重修諸家譜』、そして物語の核心部分に関わる小浜藩酒井家の公式記録『安永三年小浜藩家臣由緒書』のいずれにも、彼の存在を裏付ける記述は見られない。特に、酒井家臣「足立七左衛門」の実像が、伝説の内容と根本的に矛盾することは、康豊伝説が史実ではないことを決定的に示している。したがって、長宗我部康豊は、江戸時代中後期に創作・流布された文学上の人物であると結論付けざるを得ない。
第二に、しかしながら、康豊の「史実としての不在」は、彼の物語が持つ歴史的価値を何ら損なうものではない。むしろ、この伝説は、歴史の記録からこぼれ落ちた人々の感情や願望を映し出す、極めて貴重な史料として捉え直されるべきである。それは、四国の覇者から一転して滅亡の悲運を辿った長宗我部氏が、後世の人々によってどのように記憶され、同情され、そして理想化されていったかを示す、「記憶の歴史」の確かな証言である。
長宗我部康豊の物語は、我々に「歴史的事実とは何か」という根源的な問いを投げかける。それは、公的な記録に残された客観的なデータだけを指すのか。それとも、人々の心の中で生き続け、時に社会的な機能さえ果たした物語もまた、広義の歴史の一部と見なすべきなのか。康豊は、史実の舞台には登場しなかったかもしれない。しかし、敗者への共感、英雄の再生への期待、そして物語を求める人間の根源的な欲求という、歴史を動かすもう一つの力によって生み出された存在である。彼の生涯は、記録の上にはなくとも、江戸時代の人々の記憶の中に、そして現代に生きる我々の歴史的想像力の中に、確かに「実在」しているのである。