私は、歴史学、特に日本の戦国時代史を専門とする博士号を持つ研究者です。学術論文の執筆や査読、業界アナリストとしての情勢分析、そして通信社向けの歴史解説記事の作成など、多岐にわたる分野で専門知識を活かしてきました。私の役割は、断片的な史料を統合し、それらの背後にある複雑な因果関係や歴史的文脈を解き明かし、一つの首尾一貫した、洞察に富んだ報告書として再構築することです。
本報告書は、日本の戦国時代、特に関東地方の歴史において、複雑かつ重要な役割を演じた一人の武将、長尾当長(ながお まさなが)、後の長尾景長(ながお かげなが)の生涯を、現存する資料に基づき、多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。彼の出自と家系の背景から説き起こし、その政治的キャリアの変遷、人間関係、外交上の業績、そして文化的側面に至るまでを時系列に沿って詳述し、その歴史的意義を深く考察する。
長尾当長が生きた十六世紀中葉の関東は、まさに激動の時代であった。室町幕府の権威が失墜する中、関東を統治してきた伝統的権力構造、すなわち古河公方足利氏と、その補佐役である関東管領山内上杉氏の力は著しく衰退していた 1 。その権力の真空を突くように、相模国を拠点とする新興勢力・後北条氏が急速に台頭し、関東の覇権をめぐって熾烈な争いを繰り広げていた 2 。この旧権力と新興勢力の角逐は、関東に根を張る数多の在地領主たちの運命を否応なく飲み込んでいった。
このような状況下で、長尾当長が率いた足利長尾氏は、「国衆(くにしゅう)」あるいは「戦国領主」と位置づけられる存在であった 5 。国衆とは、特定の大大名に臣従しつつも、自らの所領と家門の維持を第一義とし、時には独自の判断で従属先を変更することも厭わない、半ば自立した勢力である。彼らの動向は、大大名同士の勢力均衡を左右する重要な要素であった。長尾当長の生涯は、まさに関東の覇権を争う巨大勢力の狭間で、一族の存続を賭けて巧みな政治判断を下し続けた、典型的な国衆領主の軌跡そのものであった。本報告書では、この視座から、彼の行動原理と歴史的役割を明らかにしていく。
まず、彼の生涯と関東の情勢を概観するために、以下の年表を提示する。
西暦(和暦) |
当長の年齢 |
長尾当長(景長)の動向 |
関連する関東の主要な出来事 |
典拠 |
1527年(大永7年) |
1歳 |
足利長尾氏当主・長尾憲長の次男として誕生。 |
|
6 |
1528年(享禄元年) |
2歳 |
父・憲長が死去。 |
父・憲長が古河公方・足利晴氏の元服を主導。 |
1 |
1531年(享禄4年) |
5歳 |
|
上杉憲政が関東管領に就任。当長の父・憲長が家宰を務める。 |
3 |
1546年(天文15年) |
20歳 |
|
河越夜戦。上杉憲政・足利晴氏連合軍が北条氏康に大敗。 |
1 |
1551年頃 |
25歳頃 |
父の跡を継ぎ、足利長尾氏の家督を相続。主君・上杉憲当(憲政)より偏諱を受け「当長」と名乗る。 |
|
3 |
1552年(天文21年) |
26歳 |
主君・憲政の越後逃亡に伴い、関東管領家家宰職が事実上消滅。後北条氏に降伏する。 |
上杉憲政が北条氏康に平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼る。 |
5 |
1560年(永禄3年) |
34歳 |
越山した長尾景虎の呼びかけに応じ、上杉方に復帰。一時「禅昌」と名乗り出家するも還俗。 |
長尾景虎(後の上杉謙信)が上杉憲政を奉じて関東へ出兵(越山)。 |
5 |
1561年(永禄4年) |
35歳 |
新たな主君・長尾景虎(上杉政虎)より偏諱を受け、「景長」と改名したと推測される。 |
上杉政虎(謙信)が関東管領職と上杉氏の家督を継承。 |
6 |
1562年(永禄5年) |
36歳 |
上杉軍による館林城攻略後、同城を預けられ、足利・館林両城の城主となる。 |
上杉軍が館林城を攻略。 |
3 |
1566年(永禄9年) |
40歳 |
上杉謙信の臼井城攻め失敗後、由良氏らと共に一時的に北条方に同調。 |
上杉謙信が臼井城攻めに失敗し、関東の国衆が動揺。 |
5 |
1568年(永禄11年) |
42歳 |
由良成繁と共に、上杉・北条両家の和睦交渉(越相同盟)の仲介役を務める。 |
武田信玄の駿河侵攻により、甲相駿三国同盟が破綻。 |
5 |
1569年(永禄12年) |
43歳 |
7月15日、死去。婿養子の長尾顕長が家督を継承。 |
越相同盟が成立。 |
5 |
1590年(天正18年) |
- |
|
豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅亡。長尾顕長も所領を失い、足利長尾氏は終焉。 |
3 |
長尾当長という一個人の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた「足利長尾氏」という家の歴史的背景と、当時の関東におけるその特殊な地位を把握することが不可欠である。彼は、一介の地方武士としてではなく、関東の名門として重い歴史と役割を継承する者として、その人生を歩み始めたのであった。
長尾氏の出自は、一般的に桓武平氏の流れを汲む坂東八平氏の一つ、鎌倉氏族に遡るとされている 13 。その名字の地は相模国鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市戸塚区長尾台周辺)であり、古くから関東に根を張る武士団であった 9 。源平の争乱期には平家方につくなど、その歴史は古い 13 。
長尾氏が関東の歴史において重要な地位を占めるようになるのは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、上杉氏が関東へ入部してからのことである。長尾氏は上杉氏の家臣団の中でも筆頭格となり、代々婚姻関係を重ねることで外戚としての地位を強固なものとした 13 。上杉氏が室町幕府から関東管領に任じられ、関東一円から越後国にまで勢力を拡大すると、長尾氏もその重臣として、各地の家宰や守護代に任じられ、一族を分立させて繁栄の礎を築いたのである 13 。
関東管領は、上杉氏の中でも特に山内上杉家と犬懸上杉家が交代で務めたが、やがて山内上杉家がその地位を世襲するようになる。それに伴い、山内上杉家には「家宰(かさい)」という筆頭重臣の職が置かれた。家宰は「家務(かむ)」や「執事(しつじ)」とも称され、主家の政務・軍務を統括する極めて重要な役職であった 13 。
この家宰職は、長尾氏一族が世襲的に任命される名誉ある地位であった。中でも、長尾氏の宗家筋にあたる鎌倉長尾家(後の足利長尾家)、そしてその庶流である総社長尾家、白井長尾家の三家が、家宰を輩出する家格とされた 3 。本来は嫡流である鎌倉長尾家が継ぐべき地位であったが、当主が若年であるなどの理由がある場合には、総社・白井両家の長老が就任することもあった 13 。家宰は単なる陪臣に留まらず、主君の名代として古河公方嫡子の元服の儀に列席するなど、関東の公的な政治秩序において重要な役割を担う、まさに要職中の要職だったのである 13 。この地位を巡っては、長尾氏一族内部での権力闘争も激しく、長尾景春の乱のように、関東全域を巻き込む大乱に発展することもあった。
長尾当長が属する足利長尾氏は、この家宰を輩出する名門・鎌倉長尾家の流れを汲む。その直接の祖は、長尾景人(ながお かげひと)である。室町時代中期の享徳の乱のさなか、景人の父である長尾実景が、主君・上杉憲忠と共に敵方の手に掛かって命を落とすという悲劇に見舞われた。その後、成人した景人は主君・上杉房顕に仕えて多くの戦功を挙げた。その功績により、彼は室町将軍家発祥の地という由緒を持つ、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)の代官に任じられた 13 。これが足利長尾氏の始まりである。この配置は、当時関東管領上杉氏と激しく敵対していた古河公方足利氏の本拠地・古河に対する、最前線の抑えという極めて重要な戦略的意味合いを持っていた 13 。
足利長尾氏が、長尾氏一門の中でも突出した力を持つようになるのは、当長の祖父にあたる三代当主・長尾景長(当長とは同名の別人)の代である。永正9年(1512年)に起こった永正の乱を契機として、景長は主君・上杉憲房を助けて敵対勢力を打倒し、山内上杉家の家宰職をその手に掌握した 1 。これ以降、当長の父・四代当主の憲長、そして当長自身の代に至るまで、家宰職は足利長尾家が独占することになる 3 。
当長の父・憲長もまた、家宰として大いに活躍した。特に、第四代古河公方となる足利晴氏の元服(成人式)の際には、関東管領の名代として幕府との交渉を取り仕切り、将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜るという大役を果たしている 1 。これは、足利長尾氏が単なる上杉家の家臣という立場を超え、関東の公的な秩序形成において中心的な役割を担っていたことを明確に示している。
このように、長尾当長は、単なる一武将としてそのキャリアを始めたわけではない。彼は、祖父と父が二代にわたって築き上げた「山内上杉家家宰」という、関東武門社会における最高の栄誉と実質的な権威を、生まれながらにして継承する立場にあった。彼の前半生の行動原理は、この世襲された重責と権威をいかにして維持し、激動の時代に対応させていくかという点に集約される。彼が背負った家の歴史と地位は、彼の後の決断を理解する上で最も重要な前提条件となるのである。
家宰就任年(西暦) |
歴代家宰の名前 |
出身長尾家 |
同時代の関東管領 |
特記事項 |
典拠 |
1405年(応永12年) |
長尾満景 |
鎌倉(犬懸) |
上杉憲定 |
初代家宰とされる。上杉禅秀の乱で戦死。 |
3 |
1418年(応永25年) |
長尾忠政 |
惣社 |
上杉憲実 |
満景の死後、家宰職を継承。 |
3 |
1447年(文安4年) |
長尾実景 |
鎌倉 |
上杉憲忠 |
足利長尾氏の祖・景人の父。享徳の乱で主君と共に討死。 |
3 |
1454年(享徳3年) |
長尾景仲 |
白井 |
上杉房顕 |
実景の死後、家宰職を継承。 |
3 |
1461年(寛正2年) |
長尾景信 |
白井 |
上杉房顕 |
景仲の子。長尾景春の父。 |
3 |
1473年(文明5年) |
長尾忠景 |
惣社 |
上杉顕定 |
景信の死後、家宰職を継承。景春の乱の原因となる。 |
3 |
1512年(永正9年) |
長尾景長 |
足利 |
上杉憲房 |
当長の祖父。永正の乱を機に家宰職を掌握し、足利長尾家による独占の端緒を開く。 |
1 |
1525年(大永5年) |
長尾憲長 |
足利 |
上杉憲寛 |
当長の父。家宰職を世襲し、古河公方の元服を取り仕切るなど活躍。 |
3 |
1531年(享禄4年) |
長尾当長 |
足利 |
上杉憲政 |
本報告書の主題人物。父の跡を継ぎ家宰となるが、主家没落の時代に直面する。 |
3 |
長尾当長が歴史の表舞台に登場するのは、父祖が築き上げた栄光が、まさに翳りを見せ始める時期であった。彼は足利長尾家の当主として、そして関東管領の家宰として、そのキャリアを開始するが、その前途には既に関東の秩序を根底から揺るがす動乱の暗雲が垂れ込めていた。
長尾当長は、大永7年(1527年)、足利長尾氏四代当主・長尾憲長の次男として生を受けた 6 。父・憲長が享禄元年(1528年)に没した後、兄が早世したためか、当長が家督を継承することになった 6 。その正確な時期は定かではないが、彼が本格的に活動を始める天文20年(1551年)頃までには家督を継いでいたと考えられる 3 。
家督相続に際し、彼は主君である関東管領・上杉憲政から、その諱(いみな)の一字を賜るという、家臣にとって最高の栄誉である偏諱(へんき)を受けた。憲政は当初「憲当(のりまさ)」と名乗っており、当長はこの「当」の字を拝領して「当長(まさなが)」と名乗ったのである 6 。この儀礼は、彼が父祖の跡を継いで、正式に関東管領家の家宰に就任したことを、内外に公的に宣言するものであった。
家宰となった当長は、父・憲長や祖父・景長と同様に、主君・上杉憲政を補佐し、関東管領家の政務・軍務の中枢を担った 6 。その具体的な活動の一つとして、古河公方・足利晴氏の子である足利藤氏の元服の儀式において、重要な役割を果たしたことが記録されている。この功により、当長は但馬守(たじまのかみ)の受領名(ずりょうめい)を授かった 6 。但馬守は、足利長尾氏が代々称してきた官途名であり 5 、父・憲長が晴氏の元服で活躍した前例を踏襲するこの行動は、足利長尾氏が引き続き関東管領家と古河公方家の間を取り結ぶ、枢要な役割を担っていたことを示している。この時期、彼の本拠地は、初代景人以来の拠点である下野国足利荘の両崖山城(足利城)であった 16 。
当長が家宰として活動を始めた頃、彼が仕えるべき主家・山内上杉氏の権威は、既に取り返しのつかないほどの打撃を受けていた。その決定的な契機となったのが、天文15年(1546年)に起こった河越夜戦である。この戦いで、関東管領・上杉憲政は、宿敵であった古河公方・足利晴氏や、扇谷上杉氏とまで手を結び、数万と号する大軍で北条氏康の籠る河越城を包囲した。しかし、氏康の巧みな奇襲戦法の前に歴史的な大敗を喫し、連合軍は一夜にして瓦解した 1 。
この敗戦は、単なる一合戦の敗北に留まらなかった。山内上杉氏の軍事力と、関東管領としての権威を決定的に失墜させ、逆に関東における後北条氏の覇権を確立する、まさに関東戦国史の分水嶺となる事件であった。当長が家宰として支えるべき関東管領体制は、この時点で既に崩壊の瀬戸際に立たされていたのである。
当長のキャリアの滑り出しは、一見すると華々しいものであった。父祖伝来の家宰職を継ぎ、主君から一字を賜り、但馬守に任官される。これは、伝統的な秩序と権威の枠組みの中での、順風満帆な出発に見える。しかし、その水面下では、彼が仕えるべき主家そのものが、抗うことのできない衰退の潮流の中にあった。彼が家宰として活動した初期の数年間は、いわば沈みゆく巨大な船の上で、必死にその体面と秩序を保とうとする、困難な努力の連続であったと解釈できる。足利長尾家が形式上は最高の権威を保持しながら、その実質的な基盤は足元から崩れ去っていたという、この極めて矛盾した状況こそが、次章で描かれる彼の苦渋に満ちた決断へと、彼を駆り立てていくことになるのである。
河越夜戦以降、関東の勢力図は後北条氏優位の下で急速に塗り替えられていった。伝統的権威の凋落が誰の目にも明らかになる中で、長尾当長は国衆領主として、家の存続を賭けた重大な決断を迫られる。それは、旧来の主従関係という名分を捨て、現実の力に従うという、戦国乱世の非情な論理に従う選択であった。
河越での大敗後も、上杉憲政は上野国を拠点に北条氏への抵抗を試みたが、その勢力はじりじりと削られていった。そして天文21年(1552年)、ついに北条氏康の圧倒的な軍事力の前に本拠地である上野国平井城を維持することができなくなり、関東からの撤退を余儀なくされる 2 。憲政は再起を図るため、遠く越後国を治める同族の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って、雪深い北国へと落ち延びていった 1 。
この事件は、名実共に関東管領山内上杉氏による関東支配が、ここに終焉を迎えたことを意味する歴史的な出来事であった 3 。注目すべきは、憲政が亡命の途上において、かつての重臣であった当長の足利城や、有力国衆である由良氏の金山城を頼ろうとしたものの、入城を拒絶されたという記録が残っていることである 5 。これは、当長を含む関東の国衆たちが、もはや没落した主君に殉じることはできず、自らの領国の安全を優先せざるを得ないという、冷徹な判断を下していたことを生々しく物語っている。旧来の主従関係よりも、自家の存続という現実的な利益を優先する、国衆としての合理的な行動であった。
主君である関東管領が関東から姿を消したことにより、その筆頭家臣である家宰という職もまた、その存在意義を失い、事実上消滅した 1 。当長と彼が率いる足利長尾家は、その権威とアイデンティティの源泉を、この時点で完全に喪失したのである。
関東における権力の空白を埋めたのは、言うまでもなく後北条氏であった。昨日までの敵であった北条氏康は、今や関東における最大の権力者として君臨していた。自領の安堵と一族の存続を図るため、当長に残された道は一つしかなかった。彼は、他の多くの関東国衆と同様に、北条氏に降伏し、その支配下に入ることを決断する 5 。これは、名分よりも実利を、忠義よりも生存を優先する、まさに戦国領主としてのプラグマティックな選択であった。
この時期の関東の権力構造の再編は、旧上杉家臣団の分裂を伴うものであった。越後に逃れた憲政は、自らに最後まで従った白井長尾氏を家臣団の棟梁と認め、北条に降った当長の所領を没収して、これを白井長尾氏に与えるという措置を取っている 5 。これにより、関東の長尾一族は、憲政と共に越後へ向かう者、北条氏に降る者、そして両者の間で去就を決めかねる者へと、完全に分裂した。
この主君の没落と新たな主君への臣従という激動の渦中で、当長の精神的な動揺は大きかったと推測される。彼はこの時期、一度出家して「禅昌(ぜんしょう)」と名乗ったとされるが、その後まもなく還俗して再び「当長」の名に戻している 6 。この短期間での出家と還俗は、単なる気まぐれではなく、旧主への義理と新主への忠誠の狭間での葛藤や、北条氏との交渉における政治的な駆け引きなど、彼の置かれた複雑な状況を反映した行動であった可能性が高い。
上杉憲政の逃亡という事件は、当長にとって単なる主君の交代以上の、重大な意味を持っていた。それは、彼がよって立つ「関東管領家家宰」という、家の誇りであり、自らのアイデンティティそのものであった権威の完全な喪失を意味した。この時点で、彼はもはや伝統や名分といった抽象的な理念に固執することはできなくなり、自家の存続という、より具体的で現実的な目標のために行動する「戦国領主」へと、その本質を決定的に変化させたのである。この苦渋に満ちた経験こそが、後の彼を、柔軟な思考を持つ優れた外交官へと成長させる礎となったのかもしれない。
後北条氏への従属によって、ひとまず家の存続を確保した長尾当長であったが、その運命は、越後から現れた一人の若き武将によって、再び大きく転回することになる。同族である長尾景虎(後の上杉謙信)の登場は、彼に新たな主君と、新たな役割を与えることになった。
永禄3年(1560年)、長尾当長のかつての主君・上杉憲政を奉じた越後の長尾景虎が、失われた関東の旧秩序を回復するという大義名分を掲げ、大軍を率いて関東平野に進出してきた(越山) 10 。その軍勢は関東各地の反北条勢力を糾合し、一時は十万にまで膨れ上がったと伝えられる。この新たな勢力の出現は、北条氏の支配下にあった関東の国衆たちを大きく動揺させた。景虎は、同じ長尾一族である当長に対しても、関東攻めへの協力を求める書状を送り、味方に付くよう働きかけた 5 。
同族の有力者であり、かつ旧主を奉じる景虎からの呼びかけに対し、当長はこれに呼応することを決断する。彼は北条方から離反し、景虎の陣営に馳せ参じた 6 。これは、単に同族の情誼に動かされただけではなく、北条氏一辺倒の支配に対する反発や、景虎の圧倒的な軍事力と大義名分に、自家の将来を賭けた戦略的な判断であったと考えられる。
翌永禄4年(1561年)3月、景虎は上杉憲政から上杉の家名と関東管領職を正式に譲り受け、名を上杉政虎(後の輝虎、そして謙信)と改めた。この新たな関東の支配者の誕生に伴い、当長の立場もまた、新たな段階へと移行する。彼は、新たな主君となった政虎から偏諱を受け、名を「景長(かげなが)」と改めたと推測されている 6 。
この「当長」から「景長」への改名は、彼の政治的アイデンティティの変遷を象徴する、極めて重要な出来事であった。かつて彼が上杉憲 当 から「 当 」の字を賜ったように、今度は長尾 景 虎から「 景 」の字を拝領することで、新たな主君への明確な忠誠を誓ったのである。名前は単なる記号ではなく、誰に属し、誰に忠誠を誓うかという、戦国武将にとって最も重要な政治的関係性を表明するメディアであった。彼の名前の変遷は、そのまま関東の覇権争奪史の縮図となっている。奇しくも、彼が名乗ることになった「景長」という名は、かつて足利長尾家に家宰職をもたらし、一族の権勢の礎を築いた祖父と同じ名であった 6 。この偶然の一致は、彼に一族の再興への強い意欲を抱かせたかもしれない。
興味深いことに、彼が北条氏に従属していた時期に生まれた男子には、北条氏 政 から一字を受けたとされる「政長(まさなが)」の名が与えられたという伝承がある 14 。この子の名は、彼が「後北条氏の従属国衆」であったという立場を反映している。このように、当長自身の名前と彼の子の名前は、彼の所属勢力の変遷(旧上杉→北条→新上杉)と見事に連動しており、彼の生涯が、いかに関東の巨大な権力闘争に翻弄され、またそれに対応しようとしてきたかを物語っている。
上杉方として新たなスタートを切った景長(当長)は、謙信の関東経営において重要な役割を担うことになる。永禄5年(1562年)、上杉軍は北条方に属していた赤井氏が守る上野国館林城を攻略した 6 。この館林城は、利根川を抑え、北関東と南関東を結ぶ戦略上の要衝であった。
戦後、謙信はこの重要な城を景長(当長)に預けた。これにより、彼は従来の本拠地である足利城に加え、館林城をも領有する、二城の城主となったのである 3 。さらに、旧赤井氏の領地であった上野国邑楽郡も、景長と近隣の小泉城主・富岡氏によって分割支配されることになり、足利長尾氏の支配領域は著しく拡大した 6 。主家を失い、一時は北条氏の軍門に下った当長であったが、同族の英雄の登場という好機を捉え、見事に勢力を回復、いや、むしろ以前よりも大きな力を持つに至ったのである。
上杉謙信の家臣として新たな地位を確立した長尾景長(当長)であったが、彼の後半生における真価は、一人の武将としてではなく、むしろ外交官としての働きにあった。上杉、北条という二大勢力が激しく衝突する最前線にあって、彼は自らの持つ特殊な立場と人間関係を駆使し、両者の間の緊張を緩和し、ひいては歴史的な和睦を成立させるという、極めて困難な役割を果たすことになる。
上杉謙信による度重なる関東出兵も、関東の覇権を完全に掌握するには至らなかった。北条氏康もまた、巧みな防衛戦と外交戦略でこれに対抗し、関東の情勢は、上杉氏と北条氏、そして西から隙を窺う甲斐の武田信玄という三者が睨み合う、一進一退の膠着状態に陥っていた 3 。
このような状況下で、国衆たちの立場は常に不安定であった。永禄9年(1566年)、謙信が下総国の臼井城攻めに手痛い敗北を喫すると、その権威に陰りが見え始める。これを好機と見た北条氏は、関東の国衆たちへの切り崩し工作を活発化させた。その結果、多くの国衆が再び北条方へと靡き、景長(当長)もまた、この流れに同調して一時的に北条方についたとされている 5 。彼の行動は、常に二大勢力の力関係を冷静に見極め、自家の安全を最優先するという、国衆としての現実的な判断に基づいていた。
景長(当長)が、このような複雑な情勢の中で巧みに立ち回ることができた背景には、隣接する有力国衆・由良氏との強固な同盟関係があった。由良氏は、新田氏の旧領を支配する名族であり、太田金山城を本拠とする、北関東の有力な勢力であった 5 。
景長(当長)は、この由良氏の当主・由良成繁の妹を正室として迎えていた 3 。さらに、彼自身には男子の跡継ぎがいなかったため、成繁の子である熊寿丸(後の長尾顕長)を自らの娘の婿として迎え、養子として家督を継がせることを決めていた 3 。妻が由良氏出身であり、後継者も由良氏から迎えるというこの二重の姻戚関係により、足利長尾氏と由良氏は、もはや運命共同体ともいえる、極めて緊密な関係で結ばれていたのである 5 。この連携は、彼らが単独では抗しきれない巨大勢力に対抗するための、重要な安全保障の枠組みであった。
事態が大きく動いたのは、永禄11年(1568年)のことである。武田信玄が、同盟関係にあった今川氏の領国・駿河へ侵攻を開始した。これにより、北条氏、武田氏、今川氏の間で結ばれていた甲相駿三国同盟は完全に破綻し、北条氏は西から武田氏の脅威に直接晒されることになった 5 。
この新たな脅威に対抗するため、北条氏康は、長年敵対してきた上杉謙信との和睦を模索し始める。武田信玄という共通の敵を持つ両者の間で、利害が一致したのである。しかし、十数年にわたって血で血を洗う抗争を続けてきた両者が、すぐさま信頼関係を築くことは不可能であった。ここに、両者の間を取り持つ「媒介者」の存在が必要とされた。
この歴史的な和睦交渉、すなわち「越相同盟」の成立において、白羽の矢が立ったのが、長尾景長(当長)と、彼の義理の兄弟である由良成繁であった 5 。彼らは、この困難な交渉の仲介役として、両陣営の間を奔走し、その成立に大きく貢献したのである。
景長(当長)が、この大役を果たし得た理由は、彼の持つユニークな立場にあった。第一に、彼は上杉謙信の「同族」であり、上杉方からの信頼を得やすい立場にあった 13 。第二に、彼はかつて北条氏に「降伏」し、その配下として活動した経験があり、北条方の人々や内情にも通じていた 6 。これが北条方との交渉を円滑に進めるための経験と人脈の基盤となった。そして第三に、彼は関東の有力国衆である由良氏と「二重の姻戚関係」にあり、交渉における強力なパートナーを得ていた 3 。
これらの要素が組み合わさることで、景長(当長)は単なる伝言役ではなく、各勢力の利害を深く理解し、両者の間の不信感を和らげ、信頼関係を醸成することができる、代替不可能な「調停者」としての地位を築くことができた。彼の価値は、もはや領地の石高や動員できる兵力といった武力(ハードパワー)だけでは測れない、情報と人脈のネットワークそのものにあった。これは、戦国時代の国衆が取りうる、最も高度で洗練された生存戦略の一つであり、彼の武将としてのキャリアの頂点を示すものであった。
外交官として越相同盟の成立に尽力し、足利長尾氏の存続と発展にその生涯を捧げた長尾景長(当長)であったが、その人生は、大事業の達成を見届けたかのように、間もなく終わりを迎える。彼が巧みな政治手腕で築き上げた微妙な勢力均衡は、彼の死と共に崩れ始め、彼が守り抜こうとした足利長尾家もまた、関東の巨大な権力闘争の渦へと飲み込まれていく運命にあった。
長尾景長(当長)は、永禄12年(1569年)7月15日、その生涯に幕を閉じた。享年43歳であった 6 。越相同盟が成立したのと、ほぼ同じ年のことであり 5 、彼は自らが心血を注いだ和平の実現を見届けて、この世を去ったことになる。
彼の法名は「心通禅空大居士(しんつうぜんくうだいこじ)」という。その亡骸は、一族の菩提寺であり、彼自身も再興に関わった足利市の心通院に葬られた。現在も同院には、彼が愛した妻と共に眠る宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、静かに佇んでいる 3 。
景長(当長)の死後、足利長尾氏の家督は、生前の取り決め通り、婿養子であった長尾顕長が継承した 5 。顕長は、由良成繁の実子であり、景長(当長)にとっては義理の甥にあたる人物である。
しかし、顕長が家督を継いだ頃、足利長尾氏の置かれた状況は変化していた。越相同盟の成立に伴う領土の再編が行われ、景長(当長)が謙信から預かっていた館林城は、上杉方の管轄に戻されたか、あるいは別の家臣に与えられたようである。そのため、顕長は館林を去り、一族伝来の本拠地である下野国足利へと戻ったと伝えられている 5 。
当主が代替わりし、景長(当長)という重石が失われると、足利長尾氏の針路は再び大きく揺れ動く。顕長は、実の兄である由良国繁と共に、上杉氏から離反し、再び後北条氏の陣営へと与することになった 13 。これは、越相同盟が長続きせず、関東の情勢が再び流動化したこと、そして顕長自身の出自が由良氏にあることなどが影響した、複雑な判断であったと考えられる。
しかし、この選択が、足利長尾氏の運命を決定づけることになる。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、関東に大軍を送り込み、後北条氏の本拠・小田原城を包囲した(小田原征伐)。北条氏に従っていた長尾顕長も、兄の由良国繁と共に小田原城に籠城して戦ったが、衆寡敵せず、北条氏は滅亡した。これに伴い、顕長もまた全ての所領を没収され、常陸国の佐竹義宣預かりの身となった 3 。
これにより、初代・長尾景人が足利の地に根を下ろしてから約120年間にわたって続いた、下野の名門・足利長尾氏は、歴史の表舞台から完全にその姿を消したのである 3 。
長尾当長は、その卓越した個人の能力と、外交における巧みな政治判断によって、激動の時代の中で足利長尾家を存続させ、さらにはその勢力を一時的に拡大させることに成功した。しかし、彼が死に、彼が築き上げた人間関係と微妙なバランスが崩れると、後継者たちは関東の巨大な権力闘争の渦に抗うことができなかった。彼の死は、一個人の類稀な能力によってかろうじて支えられていた国衆の家の、本質的な脆弱性をも示している。そして、足利長尾氏の歴史に終止符を打ったのが、当長が生涯をかけて渡り合った上杉氏でも、一時従属した北条氏でもなく、中央から現れた豊臣という全く新しい巨大権力であったという事実は、戦国時代の権力構造そのものが、彼の死後に大きく変質したことを示す、非情な結末であった。
長尾当長を理解するためには、彼の政治的・軍事的な活動だけでなく、彼とその一族が育んできた文化的な側面にも光を当てる必要がある。足利長尾氏は、単なる地方の武辺者の集団ではなく、高い文化的素養を兼ね備えた一族であった。この文化的背景は、当長の人物像をより立体的にし、彼の外交官としての成功の要因を解き明かす鍵ともなりうる。
足利長尾氏は、代々、武勇のみならず、文芸にも通じた当主を輩出してきた一族であった。彼らは「武将画人(ぶしょうがじん)」とも評される、文化的な側面を強く持っていた 27 。
その筆頭として挙げられるのが、当長の祖父にあたる三代当主・長尾景長である。彼は画業に大変優れ、自らの手による自画像や、本格的な山水図などの作品を後世に残している 21 。戦乱に明け暮れる日々の中にあっても、筆を執り、精神性の高い芸術作品を生み出すだけの深い教養と心の余裕を持っていたことが窺える。
その子である当長の父・四代当主の憲長もまた、父の才能を受け継ぎ、画業に優れた人物であった。彼は絵画だけでなく和歌もよくし、その教養の高さを示している。特筆すべきは、彼が室町幕府の御用絵師であり、日本絵画史に名を残す狩野派の始祖・狩野正信に「観瀑図」を描かせ、それを一族の菩提寺である長林寺に寄進したという事実である 21 。これは、足利長尾氏が、単に地方で文化活動に親しむだけでなく、京の中央画壇を代表する一流の文化人とも直接的な交流を持つ、高い文化的水準にあったことを示している。
この「武将画人」としての家風は、長尾当長の代にも受け継がれていたと考えられる。足利長尾氏の菩提寺である長林寺には、三代景長、四代憲長、そして五代当主である「政長(まさなが)」の肖像画が、三幅対の掛軸として現存しており、栃木県の重要文化財に指定されている 21 。
この肖像画に描かれた「政長」こそが、本報告書の主題である長尾当長その人であると考えられている 21 。彼が「景長」と改名する前の名が「当長」であり、また北条氏に従属していた時期の子に「政長」の名を与えたという伝承もあるため、名前には若干の混同が見られるが、彼が足利長尾氏の五代目当主として、父祖の伝統に倣い、自らの姿を画として後世に残したことは間違いないだろう。自らの肖像画を制作させるという行為は、単なる記念以上の意味を持つ。それは、家の歴史と当主の権威を後世に永く伝えようとする、強い自意識の表れであり、彼が自らを、文化の継承者としても位置づけていたことを示唆している。
当長の信仰心と、一族の当主としての責任感を示す逸話も残されている。彼の父・憲長が、菩提寺である長林寺の境内に創建した塔頭(たっちゅう、小寺院)である心通院を、当長が現在の場所へと移築したと伝えられている 3 。そして、その心通院こそが、彼の終焉の地となり、現在も夫妻の墓塔が残る場所となっている 3 。これは、彼が父の遺志を継ぎ、一族の菩提を弔うという宗教的責務を、篤く果たしていたことを物語っている。
足利長尾氏が育んだこの文化的な素養は、単なる当主個人の趣味に留まるものではなかった。彼らの本拠地が、足利将軍家を輩出した由緒ある土地「足利」であったことも、その文化的な意識を高める一因であったかもしれない 13 。このような文化的資本、すなわち教養や芸術的素養、そして中央の文化人との人脈は、彼らの「ソフトパワー」として機能し、外交交渉や他の有力者との交流において、無形の力として有利に働いた可能性は高い。特に、調停者として上杉・北条という巨大勢力の間を渡り歩いた当長の交渉術の背景には、武力や駆け引きだけでなく、相手の文化的背景への深い理解や、教養に裏打ちされた礼節があったのではないだろうか。足利長尾氏の「文」の側面は、彼らの「武」の側面、とりわけ外交戦略を支える、見えざる重要な基盤であったと評価することができる。当長は、武力(ハードパワー)と文化(ソフトパワー)を兼ね備えた、複合的な能力を持つ、戦国期における「ハイブリッド型」の領主であったと言えよう。
長尾当長(景長)の生涯を総括するにあたり、彼は戦国期関東史において、どのような位置を占める人物であったのかを、改めて評価したい。
長尾当長の生涯は、関東管領体制という中世以来の伝統的権威が崩壊し、それに代わって上杉、北条、そして武田という三つの巨大勢力が新たな覇権をめぐって激突する、戦国期関東の最も激しい動乱期と完全に重なっている。彼は、父祖から受け継いだ名門の権威と家宰という栄誉が、時代の奔流の中で足元から崩れ去っていくという、過酷な現実に直面した。しかし、彼は旧来の名分や忠義といった理念に盲目的に固執することなく、常に自らの一族の存続と発展という、極めて現実的な目標を見据えて行動し続けた。
彼の行動は、主君に盲従する封建的な家臣のそれとは一線を画す。主家である山内上杉氏が没落すると、彼は迷わず関東の実力者となった北条氏に降伏した。そして、同族の長尾景虎(上杉謙信)が新たな覇者として登場すると、今度はその麾下に入り、失地を回復するどころか、館林城を得て領土を拡大するという離れ業を演じた。その時々の情勢を冷静に見極め、自家の利益のために戦略的に帰属先を変えるその姿は、受動的な家臣ではなく、自らの意思で未来を切り拓こうとする、自立した「戦国領主」そのものであった。
長尾当長のキャリアにおいて、最も特筆すべき功績は、武力によるものではなく、外交における「調停者」としての役割である。彼の最大の価値は、敵対する二大勢力である上杉氏と北条氏の間に立ち、両者の和睦、すなわち越相同盟の成立を仲介した点にある。これは、彼だけが持つ、上杉氏との「同族」関係、北条氏との「旧主従」関係、そして由良氏との「姻戚」関係という、複雑で多層的な人間関係のネットワークを最大限に活用した、高度な政治技術の賜物であった。彼の存在なくして、長年の宿敵同士であった両者の歴史的な和解は、より一層困難であったことは想像に難くない。彼は、自らを両勢力にとって「不可欠な存在」とすることで、自家の安全保障を確立するという、国衆の最も洗練された生存戦略を実践したのである。
長尾当長の生涯は、上杉謙信や北条氏康といった大大名の華々しい戦記の陰で、数多の国衆たちが直面した過酷な現実と、彼らが生き残るために駆使した知恵と戦略のありようを、見事に凝縮している。彼は、伝統的権威の失墜と、実力主義に基づく新たな秩序の到来という、時代の巨大な転換点を、その身をもって体現した人物であった。彼の人生の軌跡を追うことは、戦国時代の関東地方の複雑な権力構造と、そこに生きた人々のダイナミズムを理解する上で、欠くことのできない重要な視座を提供する。長尾当長は、決して歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼は間違いなく、関東の戦国史を織りなした、重要かつ象徴的な人物の一人として、記憶されるべきである。