最終更新日 2025-07-04

長崎純景

長崎純景の生涯――信仰、貿易、戦乱の狭間で生きたキリシタン領主の軌跡

序章:長崎純景という存在――歴史の交差点に立った領主

戦国時代の日本史を彩る数多の武将の中で、長崎純景(ながさき すみかげ)の名は、全国的な知名度を持つとは言い難い。一般的には「大村純忠の家臣」「キリシタン」「長崎をイエズス会に寄進した人物」といった断片的な情報で語られることが多い。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、我々は単なる一地方領主の物語に留まらない、16世紀後半の日本が経験した未曾有の地殻変動を映し出す、極めて重要な歴史の断面を垣間見ることになる。

本報告書は、長崎純景という一人の人物の生涯を、現存する資料に基づき徹底的に掘り下げることを目的とする。それは、彼の出自と血脈、信仰への道、国際貿易港・長崎の誕生と防衛、苦渋の政治的決断、そして領地を失った後の流転の半生と終焉に至るまで、その全貌を多角的に解明する試みである。

純景の人生は、大航海時代の到来というグローバルな潮流と、織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業という国内の激動が、肥前国(現在の長崎県)の一角で交差した、まさにその交差点に位置していた。彼の行動の一つ一つは、キリスト教という新たな価値観、主君への忠誠、そして一族の存続という、時に相克する動機の間で下された苦悩の選択の結果であった。彼の生涯を追うことは、歴史の大きなうねりの中で、一人の地方領主がいかにして自らのアイデンティティを模索し、限られた選択肢の中から能動的に未来を切り拓こうとしたのか、そのリアルな姿に迫ることに他ならない。本報告書を通じて、純景を単なる歴史の受動的な対象としてではなく、自らの決断によって長崎という都市の運命、ひいては日本の近世史に決定的な影響を与えた「能動的な主体」として再評価することを目指す。

表1:長崎純景 関連年表

年代(西暦/和暦)

長崎純景の動向

関連事項(国内外)

天文17年(1548)頃

肥前国にて誕生(推定) 1

永禄6年(1563)

主君・大村純忠と共に横瀬浦にて受洗。洗礼名「ドン・ベルナルド」を授かる 3

大村純忠が日本初のキリシタン大名となる 5

永禄10年(1567)

宣教師ルイス・デ・アルメイダを自領・長崎に招き、布教を許可 6

元亀元年(1570)

大村純忠がポルトガル側と協定を結び、長崎が開港される 1

元亀2年(1571)

ポルトガル船が長崎に初入港。国際貿易港としての歴史が始まる 9

元亀4年(1573)

西郷純堯・深堀純賢の連合軍が長崎を襲撃。トードス・オス・サントス教会などが焼き払われる 11

天正8年(1580)

西郷・深堀軍を撃退(勝山の戦い) 12 。同年4月、龍造寺氏の脅威に対抗するため、大村純忠と共に長崎・茂木をイエズス会に寄進 9

天正15年(1587)

豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布。長崎・茂木・浦上を没収し直轄地とする 14 。同年、岳父の大村純忠が死去。

慶長10年(1605)以降

大村家を去り、筑後柳川藩主・田中吉政に2300石で仕える 1

元和6年(1620)

田中家が改易となる 16

元和7年12月22日(1622年1月25日)

大村藩に復帰後、西彼杵郡時津村にて死去。享年74歳(推定) 1

元禄15年(1702)

子孫の大村内匠助長頼により、時津に現在の墓碑が建立される 6

第一章:出自と血脈――肥前長崎氏の系譜と大村家との絆

長崎純景の人物像を理解する上で、彼が背負っていた「長崎氏」という家名と、主君であり岳父でもある「大村純忠」との関係性は、決定的に重要な意味を持つ。彼の生涯は、この二つの要素によって運命づけられたと言っても過言ではない。

第一節:在地領主・長崎氏の起源

長崎純景が当主を務めた長崎氏は、鎌倉時代から肥前国彼杵郡の在地領主としてその名を歴史に刻んでいる 18 。伝承によれば、その始祖は長崎小太郎重綱といい、貞応年間(1222年~1224年)に幕府から地頭としてこの地に下向したとされる 18 。長崎という地名は、文字通り「長い岬」という地形に由来する説と、この長崎氏の姓に因むという説が存在するほど、古くからこの地と深く結びついた一族であった 6

そのルーツについては、いくつかの説が伝えられており、戦国時代の在地領主が自らの権威を高めるために、いかに系譜を重要視していたかを物語っている。

一つの説は、鎌倉幕府の執権であった北条氏の被官(御内人)として絶大な権勢を誇った長崎氏との関連を示唆するものである。『系図纂要』などの資料は、元弘の乱(1333年)で鎌倉幕府が滅亡した際、北条氏の重臣であった長崎思元の子・為基が鎌倉を脱出し、所領のあった肥前国深津江に逃れ、肥前長崎氏の祖となったと記している 20 。この系譜は、長崎氏が中央政権と直接的な繋がりを持つ名門であることを強調するものであり、在地における支配の正当性を補強する意図があったと考えられる。

もう一つの有力な説は、桓武平氏の流れを汲む下総国の名族・千葉氏の一族とするものである 20 。千葉氏は鎌倉幕府の有力御家人であり、元寇に際して九州の防衛のために一族が肥前国に下向し、九州千葉氏として一大勢力を築いていた 21 。この説は、長崎氏が九州の有力武士団の一翼を担う存在であったことを示しており、地域に根差した権力基盤を反映している。

これらの説が両立して伝わっていること自体が、長崎氏が自らの権威の源泉として、中央の権力者との繋がりと、地域の有力武士団との繋がりの両方を巧みに利用し、乱世における自らの立場を強化しようとした、戦国期の在地領主の典型的な姿を浮き彫りにしている。純景が継承したのは、このような複雑な背景を持つ、由緒ある在地領主の家であった。

第二節:大村純忠との宿命的な結合

戦国時代、長崎氏は周辺の有力大名である大村氏に従属していた 2 。純景は、長崎氏の14代目当主として、父・長崎左馬太夫純方(ながさき さまだゆう すみかた)の跡を継いだ 6 。彼の運命を決定的に方向づけたのは、主君であり、日本初のキリシタン大名として歴史に名を刻むことになる大村純忠との間に結ばれた、極めて強固な関係であった。

純景は、大村純忠の娘である「とら」を正室として迎えている 2 。これにより、純景は単なる家臣という立場を超え、純忠の娘婿(岳父が純忠)という、血縁に次ぐ強固な絆で結ばれることになった 2 。この婚姻は、両者にとって重要な政治的意味を持っていた。

大村純忠自身、有馬家から大村家へ養子として入った身であり、その家督相続後も、大村純前の実子である後藤貴明を擁立する反対派勢力が家中に燻るなど、その権力基盤は必ずしも盤石ではなかった 5 。そのような状況下で、在地領主として確固たる基盤を持つ長崎氏の当主・純景を娘婿として一門に加えることは、自らの支配体制を内から固める上で極めて有効な手段であった。

一方、純景にとっても、この婚姻は計り知れない利益をもたらした。当時、長崎氏は周辺の豪族からの圧迫に常に晒されており、その領地を守るためには強力な後ろ盾が不可欠であった 15 。主君・大村純忠と姻戚関係を結ぶことは、その最強の後ろ盾を得ることを意味した。

この両者の利害の一致から生まれた結合は、単なる政略結婚に留まらなかった。純景の領地である長崎は、当時こそ一寒村に過ぎなかったが、その深く入り組んだ湾は、風波を避ける天然の良港としての比類なき地政学的価値を秘めていた。純忠が、来るべき南蛮貿易の拠点として、その価値にいち早く気づき、その地を治める純景を最も信頼できる身内として取り込もうとしたとしても不思議ではない。純景の生涯における重要な決断――キリスト教への改宗、長崎開港への協力、そしてイエズス会への領地寄進――は、すべてこの大村純忠との「運命共同体」とも言うべき強固な関係性を抜きにしては理解できないのである。

第二章:信仰の時代――キリシタン領主ベルナルドの誕生

16世紀の日本に到来したキリスト教の波は、多くの戦国武将の運命を翻弄した。長崎純景もまた、その渦中に身を投じ、信仰に生きた領主として知られている。彼の改宗は、主君への忠誠と個人的な信仰心、そして時代の要請が複雑に絡み合った結果であった。

第一節:ドン・ベルナルドの受洗

純景の信仰の道は、主君・大村純忠の決断と共鳴するようにして始まった。永禄6年(1563年)、純忠はポルトガル船との貿易関係を確固たるものにするため、イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラから洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となった 5 。この歴史的な受洗式は、大村氏が南蛮貿易の拠点として開いた横瀬浦(現在の長崎県西海市)で行われ、純景は純忠に付き従った20名以上の重臣の一人として、共に洗礼を受けたのである 3

この時、純景は「ドン・ベルナルド (Dom Bernardo)」という洗礼名を授かった 1 。彼の受洗の直接的な動機は、第一義的には主君への揺るぎない忠誠心と、大村家の政策への全面的な同調であったと考えられる。純忠の改宗が、貿易の利益という明確な政治的・経済的目的と不可分であった以上、その最も信頼する娘婿である純景が歩調を合わせるのは、戦国時代の主従関係において自然なことであった。

しかし、その後の純景の行動は、単なる政治的な追従や形式的な信仰に留まるものではなかったことを雄弁に物語っている。彼は受洗を機に、新たな信仰と文化の熱心な庇護者へと変貌を遂げていく。

第二節:キリスト教の庇護者として

ドン・ベルナルドとなった純景は、自らの領地である長崎を、キリスト教布教の新たな拠点とすべく積極的に行動を開始した。永禄10年(1567年)、彼はポルトガル出身のイエズス会士、ルイス・デ・アルメイダを長崎に招き、領内での布教活動を公式に許可した 3

アルメイダは、単なる宣教師ではなかった。彼はもともと貿易商人として来日し、外科医としての知識と技術も持ち合わせていた人物であり、私財を投じて病院を設立するなど、医療・福祉活動にも熱心であった 7 。純景がこのような多彩な能力を持つ人物を招聘したことは、彼の信仰が、精神的な救いだけでなく、西洋からもたらされる進んだ知識や技術の導入と密接に結びついていたことを示唆している。

純景の支援は、布教場所の提供という具体的な形で現れた。彼は、現在の長崎市桜馬場中学校の敷地にあった自らの館の近くの廃寺をアルメイダに寄進した 3 。この地に、長崎で最初となる教会「トードス・オス・サントス(諸聖人の)教会」が建立されたのである 3 。この教会の跡地は、現在の春徳寺の境内であると伝えられている 30

純景のこのような手厚い庇護のもと、長崎におけるキリスト教は急速に広まっていった。アルメイダらの精力的な布教活動の結果、元亀元年(1570年)頃には、長崎のキリシタンの数は1500人に達したと記録されている 31

純景のキリスト教庇護は、主君・大村純忠の政策を忠実に実行する家臣としての姿であると同時に、彼自身の個人的な信仰の深化、そして領地・長崎の発展のために西洋の先進文化を積極的に取り入れようとする、実利的な動機が複合的に絡み合ったものであった。彼は、信仰がもたらす精神的な世界と、それに付随する貿易や技術といった世俗的な利益の両方を追求する、知識欲旺盛な領主であったと言えるだろう 6

第三章:長崎開港と統治――国際貿易港の守護者として

長崎純景の名が歴史に深く刻まれる最大の理由は、彼が治めた長崎が、日本の近世を象徴する国際貿易港として発展を遂げたことにある。彼は、その誕生から初期の発展期において、領主として、そして軍事指揮官として、決定的に重要な役割を果たした。

第一節:ポルトガル船の新たな拠点、長崎

16世紀半ば、ポルトガル船はマカオを拠点として日本との貿易を行っていたが、その寄港地は安定していなかった 33 。当初、平戸の松浦氏が彼らを受け入れていたが、トラブルから関係が悪化し、大村純忠が自領の横瀬浦(1562年)に誘致した 5 。しかし、純忠のキリシタン改宗とそれに伴う寺社破壊は家臣の激しい反発を招き、横瀬浦は焼き討ちに遭い、貿易港としての機能を失ってしまう 34

その後、ポルトガル船は一時的に福田(現在の長崎市福田本町)に寄港するが、この地は外海である角力灘に直接面しており、冬の季節風が激しく、大型の貿易船が安全に停泊するには不向きであった 8 。より安全で恒久的な港を求めるポルトガル側の切実な要望と、貿易の利益を確保したい大村純忠の思惑が一致し、新たな候補地の探索が始まった。

そこで白羽の矢が立ったのが、純景の領地である長崎であった。三方を山に囲まれ、深く穏やかな入り江を持つ長崎港は、風波を避ける天然の良港であり、ポルトガル船が停泊するには理想的な地形であった 8

元亀元年(1570年)、大村純忠とポルトガル側との間で協定が締結され、長崎は正式な貿易港として開かれることが決定した 1 。そして翌元亀2年(1571年)、2隻のポルトガル船が初めて長崎に入港し、ここに国際貿易港・長崎の輝かしい歴史の幕が上がったのである 8

第二節:「長崎開港の祖」の役割

開港に伴い、長崎の町づくりが始まった。純忠の意向により、港に突き出した岬の先端部分に、島原町、大村町など最初の6つの町が建設された 1 。各地からキリシタンや商人が移住し、それまで一寒村に過ぎなかった長崎は、急速に港町の様相を呈していく 23

この過程において、長崎純景はしばしば「長崎開港の祖」と称される 6 。しかし、その役割を正確に理解する必要がある。開港の政治的決断を下し、ポルトガル側と協定を結んだのは主君の大村純忠であり、純景自身が都市計画や町建てを直接指揮したという記録は残っていない 15

では、彼の「祖」たる所以はどこにあるのか。それは、この生まれたばかりの港市を、絶え間ない外部からの軍事的脅威に対して、物理的に「守り抜いた」という点にこそ求められる。次章で詳述するように、長崎の発展は周辺豪族の嫉妬と敵意を招き、幾度となく攻撃に晒された。その最前線に立ち、領主として、また軍事司令官として長崎の統治と防衛に全責任を負い、貿易活動が可能な安全な環境を維持し続けたのが純景であった 15

彼の最大の功績は、都市のインフラを「創造」すること以上に、その揺りかごを「守護」することにあった。純景という防波堤なくして、初期長崎の発展はあり得なかった。彼は、長崎が「商人の町」として離陸するための安全保障を提供した、不可欠な存在だったのである。

第四章:戦乱の渦中――西郷・深堀氏との攻防

長崎が南蛮貿易の拠点として繁栄の兆しを見せ始めると、その富と戦略的重要性を狙う周辺勢力との間に、熾烈な争いが勃発した。特に、反キリスト教の旗印を掲げた西郷・深堀氏との戦いは、純景の武将としての一面を際立たせると同時に、彼とその主君・大村純忠を、より大胆かつ危険な次の一手へと追い込んでいくことになる。

第一節:反キリシタン同盟との死闘

長崎の急速な発展は、近隣の在地領主たちの警戒心を煽った。中でも、純景にとって最大の敵となったのが、諫早を本拠とする西郷純堯(さいごう すみたか)と、その実弟で長崎港の南側一帯に勢力を持つ深堀純賢(ふかほり すみかた)の兄弟であった 2

彼らは、大村純忠がキリスト教を受容し、南蛮貿易の利益を独占しようとすることに強く反発。純忠がキリシタン大名となると、それまで属していた有馬氏から離反し、後藤貴明や松浦氏と結んで、大村領と長崎への攻撃を執拗に繰り返した 12 。この対立の根底には、キリスト教という新興宗教への反感のみならず、貿易利権をめぐる経済的・政治的な対立が存在していた。それは、新たな国際秩序に適応しようとする大村・長崎連合と、旧来の地域秩序を守ろうとする伝統的勢力との間の、宿命的な闘争であった。

第二節:教会焼き討ちと「勝山の戦い」

両者の対立は、元亀4年(1573年)に大規模な軍事衝突へと発展した。西郷純堯が大村領を攻撃し、それに呼応して深堀純賢が長崎に侵攻したのである 11 。この時、長崎には「大村純忠、討死」という衝撃的な誤報が伝わった。最大の庇護者を失ったと信じた純景は、絶望のあまり一時、西郷氏に降伏することを決意する。しかし、間もなく純忠生存の知らせが届くと、彼は即座に覚悟を決め直し、防備を固めて徹底抗戦の構えを見せた 11 。この戦いで、深堀軍は長崎の町に火を放ち、純景が建立に尽力したトードス・オス・サントス教会を含む多くの家々が焼き払われ、長崎は甚大な被害を受けた 11

その後も西郷・深堀氏による攻撃は断続的に続いたが、天正8年(1580年)、戦局は大きな転換点を迎える。再び侵攻してきた西郷・深堀連合軍に対し、純景は自ら300の兵を率いて桜馬場の館から出陣。大村純忠からの援軍も時を同じくして到着し、両面から敵軍を挟撃した 12 。この戦いで大村・長崎連合軍は決定的な勝利を収め、敵勢力を撃退することに成功したのである 11

この勝利を記念して、激戦が繰り広げられた丘は「勝山」と名付けられ、これが現在の長崎市勝山町の地名の起源となったと伝えられている 11

この「勝山の戦い」での勝利は、純景の武将としての面目躍如たるものであった。しかし、この局地的な勝利は、皮肉にも彼らをより大きな脅威に直面させる結果となる。西郷・深堀氏の背後には、当時九州北部で破竹の勢いで勢力を拡大していた「肥前の熊」こと龍造寺隆信が控えていた。大村氏が貿易によってさらに力を蓄えることは、龍造寺氏にとって到底容認できることではなかった。純景たちの勝利は、地域レベルの敵を退けることには成功したが、同時に大国・龍造寺氏の警戒心を極限まで高め、本格的な介入を招く危険性を孕んでいた。この勝利によって得られた束の間の安寧の中で、純忠と純景は、自らの軍事力だけでは長崎を守りきれないという厳しい現実を悟り、次なる起死回生の一手、すなわちイエズス会への長崎寄進という前代未聞の決断へと向かっていくのである。

第五章:苦渋の決断――イエズス会への長崎寄進

「勝山の戦い」で目前の敵を退けたものの、長崎純景と大村純忠は、より強大な脅威に直面していた。肥前一帯に覇を唱える龍造寺隆信の圧倒的な軍事圧力である。この絶体絶命の状況を打開するため、彼らが下した決断は、日本の歴史上、前例のないものであった。自らの領地を、海外の宗教組織であるイエズス会に「寄進」するという、驚天動地の策であった。

第一節:龍造寺隆信の脅威と起死回生の一手

当時、龍造寺隆信の勢力は絶頂期にあり、周辺の国衆を次々と支配下に収めていた。大村氏もその例外ではなく、常に隆信からの圧迫に苦しめられていた 40 。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、隆信を「キリシタン教団の大敵、かつ暴君でありその上キリシタン宗門の迫害者であった」と、強い敵意を込めて記している 43

このままでは、貿易港として発展し始めた長崎が龍造寺氏に奪われるのは時間の問題であった。軍事力で到底太刀打ちできない相手に対し、純忠と純景は、問題を純粋な軍事対決から国際的な政治の舞台へと引き上げることを画策する。天正8年(1580年)4月27日、彼らは当時日本を巡察中であったイエズス会の上位聖職者、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに面会し、長崎と茂木の地をイエズス会に寄進したいと申し出たのである 9

この申し出は、イエズス会側にとっても想定外のものであった。会の規則では、宣教師が領地を受け取ることは固く禁じられていたからである。また、日本の土地を治めることになれば、布教活動が領土的野心と結びついているという疑いを招き、かえって布教の妨げになることをヴァリニャーノは深く懸念した 40 。しかし、長崎を失うことは日本における布教の拠点を失うことであり、大村氏という最大の庇護者を窮地に陥れることにもなる。ヴァリニャーノは約1年近くにわたって慎重に検討を重ねた末、最終的にこの異例の申し出を受諾することを決断した 44

第二節:寄進契約の特異な内容

この寄進契約の内容は、ヴァリニャーノの『日本巡察記』や関連史料によって、その骨子が伝えられている 13 。それは単なる土地の譲渡ではなかった。

  • イエズス会への譲渡 : 長崎の町とそれに付随する田畑の所有権。さらに、その地の支配者を選任・罷免する権限、および法令違反者を罰するための死刑を含む 裁判権 (司法権)と 統治権
  • 大村氏の留保 : ポルトガル船やその他の船が長崎港に入港する際に支払う 関税(税金)の徴収権

この契約の核心は、統治権と司法権という「主権」の根幹部分をイエズス会という国際的な組織に委ねる一方で、関税という「経済的利益」は大村氏が確保するという、極めて特異な構造にあった。これは、現代の概念で言えば、一種の「主権の信託」にも似た形態であった。

この決断がもたらす戦略的効果は絶大であった。これ以降、長崎を攻撃することは、もはや肥前の一領主である大村氏への攻撃に留まらない。それは、ポルトガル国王の庇護を受け、ゴアやマカオに拠点を置くイエズス会、ひいては南蛮貿易システムそのものへの挑戦を意味することになる。龍造寺隆信といえども、ポルトガルとの交易関係を完全に断絶させるほどの危険を冒してまで、長崎に手を出すことは容易ではなくなった。

純忠と純景は、信仰心の発露という側面以上に、高度に計算された政治的・軍事的防衛策としてこの寄進を実行した。自らの軍事力では守りきれない領地を、イエズス会の国際的な権威の下に置くことで、龍造寺氏の侵攻を抑止する「見えざる要塞」を築き上げたのである。この決断によって、純景は先祖伝来の所領のほとんどを名目上失うことになったが 2 、結果として長崎の平和と安全を、秀吉の九州平定までの8年間にわたって確保することに成功したのである。

第六章:流転の半生――領地没収と新天地・柳川

イエズス会への寄進という奇策によって長崎の安全を確保した純景であったが、その平穏は長くは続かなかった。日本の統一を進める中央政権の力が九州に及んだとき、彼の運命は再び大きく揺れ動く。領主としての地位を完全に失い、新たな庇護者を求めて流浪の身となるのである。

第一節:天下人の介入と失領

天正15年(1587年)、島津氏を降して九州を平定した豊臣秀吉は、キリスト教の勢力拡大を警戒し、筑前箱崎にて「バテレン追放令」を発布した 14 。秀吉はこの法令の中で、宣教師の国外退去を命じると同時に、イエズス会が日本の土地を領有していることを問題視した。その結果、イエズス会領となっていた長崎、茂木、浦上は没収され、秀吉の直轄地(天領)とされたのである 6

この決定により、純景は長崎の領主としての名実ともに全ての権益を失った。さらに不運は重なり、同年、岳父であり、彼の人生の最大の指針であり庇護者でもあった大村純忠が病のためこの世を去った 14 。長崎と純忠という二つの支柱を同時に失った純景は、先の見えない流転の人生へと足を踏み出すことになった。

第二節:筑後柳川藩主・田中吉政への仕官

純忠の跡を継いだ大村藩初代藩主・大村喜前(よしあき)は、純景のこれまでの功績と苦境に鑑み、長崎を失った代償として時津(とぎつ)700石の知行地を与えようと申し出た。しかし、純景はこの申し出を固辞し、長年仕えた大村家を去るという意外な道を選ぶ 15

彼が次なる仕官先として選んだのは、関ヶ原の戦いの功績により筑後一国を与えられ、柳川32万石の藩主となっていた田中吉政であった 1 。この選択には、明確な理由があった。田中吉政は、自身も「パルトロメヨ」という洗礼名を持つキリシタン大名であったか、あるいはキリスト教に対して極めて寛容な政策をとる大名として知られていたのである 49 。禁教の嵐が吹き荒れ始めた時代にあって、信仰を守り続けようとする純景にとって、吉政の領地は最も安全な避難場所であった 16

吉政は、亡命してきたこの老将を破格の待遇で迎えた。純景に与えられた禄高は2300石 16 。これは、彼がかつて長崎で領有していたとされる900石 4 や、大村家が提示した700石 16 を遥かに上回るものであった。

この厚遇の背景には、単なるキリシタンへの同情だけではない、吉政の極めて合理的な計算があったと考えられる。田中吉政は、近江八幡や三河岡崎で優れた城下町建設や領国経営を行った実績を持つ、当代随一の「土木の神」とも称されるテクノクラート(技術官僚)型大名であった 49 。彼が新たに入部した筑後柳川は、有明海に面した低湿地帯であり、治水や干拓、そして貿易の振興が藩の将来を左右する重要課題であった 49

吉政の目に、長崎純景は単なる落ちぶれた元領主とは映らなかったはずだ。彼は、長崎という国際貿易港をゼロから統治し、防衛し、発展させた経験を持つ、日本広しといえども比類なき専門知識を持つ「プロフェッショナル」であった。吉政は、純景が持つ南蛮貿易の実務、港湾管理、西洋の文化や技術に関する知識を、自らの領国経営に顧問として活用しようとしたのである。純景が柳川で得た厚遇は、彼の武士としての能力以上に、長崎での苦難の経験を通じて培われた国際知識と行政スキルが高く評価された結果に他ならない。彼はもはや一城主ではなく、稀有な専門知識を持つ専門家として、新天地でその価値を認められたのである。

第七章:終焉の地、時津――晩年と大村藩への復帰

新天地・柳川で安住の地を見出したかに見えた長崎純景であったが、彼の人生は最後まで時代の波に翻弄され続ける。庇護者であった田中家の断絶、そして故郷・大村藩への帰還。波乱に満ちた生涯の終着点は、かつて自らが礎を築いた長崎の地を見渡せる、静かな入江の里であった。

第一節:田中家の改易と再びの流転

純景に安寧をもたらした主君・田中吉政は、慶長14年(1609年)に京都伏見でその生涯を閉じた 49 。家督は子の田中忠政が継いだが、忠政はキリスト教保護の姿勢を父以上に鮮明にし、キリシタンを殺害した家臣を即座に処刑したという逸話も残っている 17 。しかし、幕府による禁教政策が厳しさを増す中で、忠政のこの姿勢が幕府の不興を買ったともいわれる。元和6年(1620年)、忠政は嗣子のないまま36歳の若さで急死。これにより、柳川藩田中家は無嗣断絶として改易されてしまった 16

70歳を超えていた純景は、またしても庇護者を失い、再び流浪の身となることを余儀なくされた。

第二節:大村藩への帰還と最期

柳川を去った純景が最終的にたどり着いたのは、かつて自らが去った故郷、大村藩であった。この時、彼は大村藩から横瀬浦に100石の知行を与えられて復帰したと伝えられている 18 。これは、かつて大村家が提示した700石や、柳川で得ていた2300石に比べると僅かなものであり、彼の晩年における立場の変化を物語っている。しかし、それでもなお、かつての主家が彼を迎え入れたという事実は、大村家と純景との間にあった断ちがたい縁を感じさせる。

そして元和7年12月22日(西暦1622年1月25日)、長崎純景は西彼杵郡時津村の地で、その74年(推定)にわたる波乱の生涯に静かに幕を下ろした 1 。彼が心血を注いで守り育てた長崎の繁栄を、その地に戻って目にすることは、ついに叶わなかった 57

第三節:後世の記憶と墓所

長崎純景の墓は、終焉の地となった長崎県西彼杵郡時津町浜田郷の、寺倉城山の麓にひっそりと佇んでいる 6 。墓には、彼の生涯を支え続けた妻とら(大村純忠の娘)も共に眠っている 6 。墓石そのものは一見すると仏式の五輪塔のようであるが、その傍らには信者によって供えられたのであろうか、小さなマリア像らしき像が置かれており、彼が生涯貫いた信仰を静かに偲ばせている 24

興味深いのは、現在我々が目にすることができるこの立派な墓碑が、純景の死後すぐに建てられたものではないという点である。この墓碑が建立されたのは、彼の死から80年もの歳月が流れた元禄15年(1702年)のこと。建立したのは、純景の子孫であり、当時大村藩の家老という要職にあった大村内匠助長頼(おおむら たくみのすけ ながより)であった 2

死後80年を経て、藩の重役である子孫によって墓碑が建立されたという事実は、単なる一族による追善供養以上の意味を持つ。それは、江戸時代中期、泰平の世が続く中で、大村藩が自らの藩の歴史を編纂し、そのアイデンティティを確立する過程において、長崎純景の功績――特に長崎開港と防衛における決定的役割――が公式に再評価されたことを示している。流転の末に静かに世を去った純景は、死後、藩の歴史を語る上で欠くことのできない「偉人」として、その歴史に再び刻み込まれることになったのである。時津の墓碑は、彼の生涯の功績が、時代を超えて評価され続けたことの何よりの証左と言えるだろう。

表2:長崎純景 関係人物一覧

氏名

純景との関係

人物概要・純景への影響

大村 純忠

主君、岳父

日本初のキリシタン大名。純景の娘「とら」の父。純景の受洗、長崎開港、イエズス会への寄進など、その生涯の重要な局面において常に指針を与えた、運命共同体のパートナー 2

とら

正室

大村純忠の娘。純景と大村家の強固な絆の象徴であり、彼の生涯に寄り添った 6

西郷 純堯

敵対者

諫早の領主で、反キリシタンを掲げた武将。弟の深堀純賢と共に、長崎を執拗に攻撃し、純景と死闘を繰り広げた 12

ルイス・デ・アルメイダ

宣教師

ポルトガル出身のイエズス会士。純景に招かれ、長崎で最初の布教を行い、最初の教会を建立した。長崎におけるキリスト教の礎を築いた人物 3

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

イエズス会巡察師

イタリア出身のイエズス会高位聖職者。大村純忠と純景からの長崎寄進の申し出を、熟慮の末に受諾した。天正遣欧少年使節の発案者としても知られる 40

田中 吉政

新たな主君

筑後柳川藩主。キリシタンに寛容で、失領した純景を2300石という破格の待遇で召し抱えた。純景の持つ国際知識や行政手腕を高く評価したと考えられる 16

大村内匠助 長頼

子孫

大村藩家老。純景の死後80年経った元禄15年(1702年)に、時津に純景夫妻の墓碑を建立した。純景の功績が藩の歴史の中で公式に評価されたことを示す人物 2

終章:歴史的評価と後世への影響

長崎純景の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を、一人のキリシタン領主がいかに生き抜いたかを示す貴重な証言である。彼の人生を総括するとき、「忠実なキリシタン家臣」「長崎の守護者」「流浪の専門家」という、いくつもの顔が浮かび上がってくる。

彼の決断は、常に主君であり岳父でもある大村純忠との運命共同体の中で下された。キリスト教への改宗、長崎の開港、そしてイエズス会への寄進といった重大な決断は、純粋な信仰心と、貿易がもたらす現実的な利益、そして龍造寺氏や秀吉といった外部からの圧倒的な圧力の中で、自らの一族と領地、そして信仰の共同体を守り抜くための、必死の選択の連続であった。

長崎純景が歴史に残した影響は、多岐にわたる。

第一に、 長崎の都市形成における役割 である。彼が軍事司令官として西郷・深堀氏の執拗な攻撃から長崎を守り抜かなければ、この生まれたばかりの港市が、その後の国際貿易港としての発展を遂げることはなかったであろう。彼は、長崎が「商人の町」として繁栄するための安全保障を提供した、不可欠な守護者であった。

第二に、 日本のキリシタン史における特異な位置 である。大名ではない一領主として、宣教師を庇護し、教会を建立した彼の活動は、初期キリスト教が地方へ浸透していく過程を示す重要な事例である。とりわけ、イエズス会への領地寄進という前代未聞の事件の当事者として、彼は日本における教会と政治権力の関係史に、極めてユニークな一頁を記した。

第三に、 変革期における武士の生き様の体現 である。戦国時代が終わりを告げ、新たな秩序が形成される中で、彼は領地という武士の根幹を失った。しかし、彼はそこで歴史から退場するのではなく、長崎での統治経験で培った国際知識と行政スキルという「専門性」を新たな武器として、新天地で自らの価値を証明してみせた。彼の生き様は、変化する時代に適応しようとした武士の一つの典型例として捉えることができる。

長崎純景という人物は、もはや歴史の彼方に消え去ったわけではない。彼が勝利を収めた地は「勝山」として長崎市中心部にその名を残し 12 、終焉の地・時津町では彼の墓所が県史跡として大切に守られている 25 。さらには、その名を冠した「じんざえもん焼」が地域の名物として親しまれるなど 24 、彼の記憶は400年の時を超えて今なお地域に息づいている。長崎純景の物語は、長崎という都市がいかにして宗教、貿易、そして戦乱の交差点として形成されていったかを、後世に語り続ける貴重な歴史遺産なのである。

引用文献

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  5. 大村純忠(オオムラスミタダ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%B4%94%E5%BF%A0-39613
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  51. 田中吉政とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
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