慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、西軍は毛利輝元を総大将に戴きながらも、その最大の実動兵力は宇喜多秀家が率いる1万7千の軍勢であった 1 。豊臣政権下で五大老の一角を占め、57万石余を領する大大名であった秀家 3 。その彼が率いる精強な備前・美作の兵団が、なぜ本来の力を発揮しきれずに敗北を喫し、主家は改易、秀家自身は八丈島への流罪という悲運に見舞われたのか。その根源をたどると、関ヶ原合戦の前夜、宇喜多家を根底から揺るがした家臣団の内紛、すなわち「宇喜多騒動」に行き着く 5 。
本報告書は、この宇喜多騒動の中心人物と目されながらも、その実像が毀誉褒貶の激しい評価の中に埋もれてきた武将、長船綱直(おさふね つななお)に焦点を当てるものである。彼は主君・秀家の寵愛を一身に受け、領国経営の全権を掌握した「権臣」として、旧来の重臣たちと激しく対立し、宇喜多家衰亡の元凶となった「奸臣」として語られることが多い。しかし、その一方で、疲弊した主家の財政を立て直すべく、近世的な改革を断行しようとした有能な「改革者」として再評価する見方も存在する。
この評価の振幅は、綱直に関する史料が抱える特有の問題に起因する。第一に、彼の諱(いみな)である「綱直」という名は、信頼性の高い同時代の一次史料では確認されておらず、「紀伊守(きいのかみ)」という官途名(受領名)の方がより確実な呼称である 7 。本報告書では、広く知られた通説に従い「綱直」の名を用いるが、この根本的な不確かさ自体が、彼の人物像の曖昧さを象徴していると言えよう。第二に、彼に関する詳細な記述の多くが、騒動の対立当事者であった戸川氏側の記録である『戸川家譜』や、江戸時代中期に成立した軍記物『備前軍記』に依拠している点である 5 。これらの史料は、宇喜多家を離れて徳川方についた戸川氏の立場を正当化する意図で編纂された可能性が高く、綱直や主君・秀家を一方的に断罪する強いバイアスがかかっていることを念頭に置かねばならない 7 。
本報告書は、こうした史料上の制約を十分に認識した上で、唯一の同時代史料とされる『鹿苑日録』の記述や、近年の大西泰正氏らによる実証的な研究成果を横断的に検証し、史料の批判的検討を通じて、長船綱直という人物の実像に迫ることを目的とする。彼の出自から、権勢を振るうに至った背景、彼が主導した改革の実態、そして宇喜多騒動の内実と彼の死の真相を解き明かすことで、綱直が単なる「奸臣」であったのか、あるいは時代の転換期に殉じた「改革者」であったのかを多角的に考察する。綱直の生涯を追うことは、宇喜多家の内情に留まらず、豊臣政権末期の構造的矛盾と、関ヶ原へと至る時代の大きな潮流を理解する上での重要な鍵となるであろう。
長船綱直という人物を理解するためには、まず彼が属した長船氏が、備前国においていかなる存在であったかを探る必要がある。彼らは単なる土豪や地侍ではなく、備前の基幹産業ともいえる刀剣生産に深く根差した、特異な背景を持つ一族であった。
備前国(現在の岡山県南東部)は、古くから日本随一の刀剣産地としてその名を馳せていた。吉井川下流域で産出される質の良い砂鉄(赤目砂鉄)と、水運の便に恵まれたこの地は、平安時代中期の古備前鍛冶に始まり、鎌倉時代中期には長船派の祖・光忠が登場することで、日本刀生産の中心地となった 8 。その隆盛は、現存する国宝指定刀剣111口のうち、実に47口を備前刀が占めるという事実からも窺い知ることができる 10 。長船派は、光忠、長光、景光といった名工を次々と輩出し、「長船物(おさふねもの)」は名刀の代名詞として高く評価された 11 。
この刀工集団としての長船氏は、やがて武士団としての性格を帯びていく。伝承によれば、刀工・兼光が足利尊氏から長船の地を賜り、屋敷を構えたのが長船城の始まりとされる 14 。戦国時代に入ると、刀剣の需要は爆発的に増大し、長船派は「数打物(かずうちもの)」と呼ばれる一種の大量生産体制を構築してこれに応えた 11 。さらに、近年の研究では、刀剣製作の技術を応用し、戦国末期には鉄砲の生産にも従事していた可能性が指摘されている 15 。
この長船氏の出自は、綱直の人物像を考察する上で極めて重要な示唆を与える。彼らは、土地の領有を基盤とする伝統的な武士とは異なり、高度な技術力と生産管理能力、そしてそれに伴う経済力を背景に持つ、いわばテクノクラート集団から発展した武士団であった。綱直が後に発揮する卓越した内政手腕や財政感覚は、こうした一族特有の背景によって培われたものと推察される。一方で、甲斐源氏の名門・小笠原氏に繋がるという系譜も伝えられているが 17 、これは武士としての権威を高めるために後世に付与された可能性も否定できない。むしろ、この技術者集団としての特異な出自こそが、武功を第一とする譜代の武断派家臣との間に、埋めがたい意識の差や軋轢を生む根源的な要因となったと考えられるのである。
綱直の父・長船貞親(さだちか)は、梟雄・宇喜多直家の創業期を支えた重臣であった。戸川秀安、岡家利と並んで「宇喜多三老」と称され、直家の信頼は厚かった 17 。貞親は、直家による備前・美作平定の過程で数々の戦功を挙げている。特に、備中三村氏との雌雄を決した明善寺合戦では、敵将・荘元祐を討ち取ったとも伝えられる 17 。その功により、有力国人であった伊賀久隆が追放された後には、その居城であった備前虎倉城を任されるなど、宇喜多家中で重きをなした 14 。
しかし、その栄光は突如として終わりを告げる。天正十九年(1591年)、貞親は居城の虎倉城において、姻戚関係にあった石原新太郎によって謀殺され、城もろとも炎に包まれるという悲劇に見舞われた 7 。この時、嫡男の綱直は城外にいたため、辛くも難を逃れている 7 。
父・貞親の非業の死は、若き綱直の精神に計り知れない影響を与えたであろう。武功によって主君の信頼を勝ち得た父が、家中内の、それも縁戚の手によって暗殺されるという現実は、彼に旧来の武士社会における人間関係の脆さと危険性を痛感させたに違いない。この経験が、血縁や武功といった伝統的な価値観よりも、法と制度に基づく客観的で合理的な統治体制を志向する、彼の後の政治姿勢を形成した可能性がある。また、この事件は宇喜多家中の人間関係がいかに複雑で、危険をはらんでいたかを示すものであり、後に綱直自身が中心となる宇喜多騒動の暗い伏線ともなっている。彼が権力を掌握した際、旧来の勢力を強権的に抑え込もうとした背景には、父の死という個人的なトラウマが影を落としていたことも十分に考えられるのである。
父・貞親の死後、長船綱直は宇喜多家の中枢へと駆け上がっていく。その背景には、若き当主・宇喜多秀家と、天下人・豊臣秀吉の存在があった。綱直の台頭は、宇喜多家が戦国大名から近世大名へと脱皮を図る過程で、必然的に求められた「新しいタイプ」の家臣の登場を意味していた。
天正九年(1581年)、宇喜多直家が病没すると、その嫡男・秀家はわずか9歳(満年齢)で家督を相続した 3 。幼い当主に実権はなく、当初の宇喜多家は、叔父の宇喜多忠家や、父・貞親を含む戸川秀安、岡家利ら「宇喜多三老」と呼ばれる直家以来の重臣たちによる集団指導体制によって運営されていた 3 。
この時期、宇喜多家にとって決定的に重要だったのは、中央政権との関係であった。直家の死後、秀家は羽柴(豊臣)秀吉の庇護下に置かれ、その寵愛を受ける。天正十六年(1588年)以前には、秀吉の養女であり前田利家の娘でもある豪姫を正室に迎え、豊臣一門に準ずる特別な待遇を得るに至った 3 。この強力な後ろ盾を得て、宇喜多家は備前・美作・備中半国などを領する57万4千石の大大名へと躍進し、秀家自身も豊臣政権の最高意思決定機関である「五大老」の一人にまで列せられるのである 3 。
集団指導体制から、秀家親政への移行が進む中で、長船綱直に大きな転機が訪れる。文禄三年(1594年)、豊臣秀吉が自身の隠居城として築城を開始した伏見城の普請において、綱直は宇喜多家の普請奉行を務めた 7 。この国家的な大事業において、彼はその卓越した実務能力と差配の才を、天下人・秀吉自身の目に留まるところで発揮したのである 19 。
秀吉は綱直の能力を高く評価し、彼を宇喜多家の国政担当者として強く推挙したとみられる。これにより綱直は、それまで家中の実権を握っていた戸川達安(秀安の子)や岡家利といった旧来の重臣たちに代わり、宇喜多領国の「仕置」(国政全般)を担う筆頭家老へと抜擢された 7 。これは単なる家中の人事異動ではない。秀吉という中央権力者の権威を背景に、宇喜多家が旧来の譜代家臣による合議制から、当主が直接信任する官僚(奉行人)が実務を執行する、より中央集権的な近世的統治体制へと移行する画期的な出来事であった。
綱直が国政のトップに立った当時、宇喜多家の財政は危機的状況にあった。文禄・慶長の役における度重なる軍役負担は、各大名家に重くのしかかっていた 23 。加えて、五大老という秀家の立場は、京都・伏見における諸大名との交際や儀礼に莫大な出費を強いるものであり、宇喜多家の財政を著しく圧迫していた 19 。この財政危機を打開することが、綱直に課せられた最大の使命であった。
この課題に対し、綱直は大胆な改革をもって応える。彼は、秀家の正室・豪姫に付き従って前田家から来た中村次郎兵衛と緊密に連携した。中村は経理や土木技術に明るい有能な吏僚であり、綱直にとって改革を推進する上で不可欠な盟友であった 1 。彼らが中心となって断行したのが、宇喜多領全域にわたる「惣国検地(そうごくけんち)」である 6 。
この検地は、豊臣政権が全国で推し進めた太閤検地の方針に沿ったもので、その内容は極めて革新的かつ急進的であった。
第一に、検地の基準を統一した。それまで地域ごとに異なっていた測量単位を「6尺3寸四方を1歩、300歩を1反」に、米の計量に用いる枡を「京枡」に統一した 27。これにより、領内の全ての土地を客観的かつ均一な基準で把握することが可能になった。
第二に、徹底した打ち出し(石高の再査定)を行った。家臣が代々受け継いできた知行地を実測し、その過半を召し上げて大名の直轄領(蔵入地)としたほか、これまで聖域とされてきた寺社領にも踏み込み、大幅に削減・没収した 26。これにより、20万石余りの増収を図ったと記録されている 26。
第三に、これは土地と農民に対する大名の一元的な支配権を確立するものであった。検地帳に実際の耕作者を登録することで(一地一作人の原則)、複雑な中間支配を排し、全ての土地と人民を石高という客観的な数値に基づいて大名の下に再編成しようとしたのである 27。
綱直が主導した一連の改革は、豊臣政権下で石田三成や直江兼続といった「吏僚派(文治派)」の家臣たちが進めた政策と軌を一にするものであった 31 。彼らは戦場での武功ではなく、算術や法知識、行政手腕といった実務能力によって主君に仕え、属人的な支配から脱却した、近代的で中央集権的な統治体制の構築を目指した。綱直の検地は、まさにこの「吏僚派」的な改革そのものであった。彼は、戦国的な「武断派」の家臣たちが、その槍働きによって獲得し、世襲してきた曖昧で既得権益化した知行権を根本から否定し、全ての土地を大名権力の下に再編しようとしたのである。これは、宇喜多家を近世大名として次代に生き残らせるために、合理的かつ不可避な改革であった。しかし、それは同時に、旧来の家臣団が築き上げてきた秩序と彼らのプライドを根底から覆す、痛みを伴う「革命」でもあった。綱直は、いわば「宇喜多家の石田三成」とも言うべき存在であり、その改革の急進性が、後の破局的な対立の火種を蒔くことになったのである。
表1:宇喜多領における惣国検地の概要と影響
項目 |
検地以前(戦国的慣行) |
長船綱直による検地(近世的改革) |
家臣団への影響(推測) |
石高算定基準 |
土地の面積に応じた貫高制や、自己申告(指出)が混在し、基準が曖昧 30 。 |
石高制への一元化。土地の等級(石盛)と実測面積に基づき、客観的な生産高(石高)を算出 27 。 |
家臣の知行高が客観的に査定され、隠し田などの不正が不可能になる。大名による支配力が強化される。 |
測量単位 |
地域ごとに長さ(間竿)や面積の単位が不統一 27 。 |
6尺3寸(約1.91m)四方を1歩、300歩を1反とする全国基準に統一 27 。 |
領内全域で公平な測量が可能となり、知行地の正確な価値が把握される。 |
計量単位(枡) |
大名や領主ごとに異なる大きさの枡が使用され、年貢徴収に不公平感があった 28 。 |
京都で用いられた京枡に全国統一。これにより米の量を厳正に計量 28 。 |
年貢量の基準が明確化され、徴収の透明性が向上するが、家臣にとっては従来の裁量が失われる。 |
知行形態 |
武功により与えられた世襲的・半独立的な所領(知行)が多く、大名の介入が困難 30 。 |
全ての土地は大名のものであるという原則の下、知行の再配分(所替)を断行 38 。 |
家臣は土地との伝統的な結びつきを断ち切られ、大名から給与(知行)を与えられる存在へと変質。譜代重臣の既得権益が大きく侵害される。 |
寺社領 |
聖域として広範な特権(不入権など)を保持し、大名の支配が及びにくかった 26 。 |
寺社領を大幅に削減・没収し、大名の直轄地(蔵入地)に組み込む 26 。 |
寺社勢力の経済的基盤が弱体化し、大名権力への従属を強いられる。領内の宗教勢力から強い反発を招く。 |
長船綱直が主導した急進的な改革は、宇喜多家中の歪みを増幅させ、ついに慶長四年(1599年)から翌五年にかけて、家臣団を二分する大規模な内紛「宇喜多騒動」として爆発する。この騒動は、綱直の死と密接に連動しており、宇喜多家の運命を決定づける分水嶺となった。
宇喜多騒動の根底には、複雑に絡み合った三つの対立軸が存在した。
第一に、 「吏僚派(文治派)」対「武断派」のイデオロギー対立 である。綱直や中村次郎兵衛に代表される吏僚派は、秀家の信任を背景に、検地や知行割の変更といった中央集権的な改革を推進した 35 。これに対し、戸川達安、宇喜多詮家(後の坂崎直盛)、岡貞綱、花房正成といった武断派は、宇喜多直家以来の武功を誇り、家臣の自律性を重んじる伝統的な主従関係を理想としていた 38 。彼らにとって、綱直らの改革は、自らの存在意義と既得権益を脅かすものであり、到底容認できるものではなかった。この対立構造は、豊臣政権全体でみられた加藤清正・福島正則ら武断派と、石田三成ら吏僚派の対立の縮図でもあった 35 。
第二に、 宗教的対立 である。綱直や中村次郎兵衛らはキリシタンであったとされ、主君・秀家もまたキリスト教に好意的であった 7 。秀家が領内での改宗を勧めたとの記録もある 43 。一方、対立する戸川達安や花房氏らは、熱心な日蓮宗(法華宗)の信徒であった 43 。備前国は古くから日蓮宗が非常に盛んな土地柄であり、この宗教的な信条の違いが、政治的な対立をさらに先鋭化させ、感情的なものにした側面は否めない 40 。
第三に、 新参者と譜代家臣の対立 である。綱直は父・貞親の代からの家臣ではあったが、家中を主導するようになったのは秀吉の抜擢以降である。特に中村次郎兵衛に至っては、豪姫の輿入れに伴って前田家から来た、いわば外様の家臣であった 19 。こうした新参の勢力が、主君の寵愛を盾に国政の中枢を牛耳ることに対し、宇喜多直家の創業以来、苦楽を共にしてきた譜代家臣たちが強い反感と嫉妬を抱いたのは想像に難くない 19 。
これらの対立は、慶長四年(1599年)末、ついに武力衝突寸前の事態へと発展する。発端は、武断派の中心人物であった戸川達安らが、吏僚派の象徴である中村次郎兵衛の排除を画策したことであった 5 。
この騒動を伝える唯一の同時代史料である相国寺の僧侶の日記『鹿苑日録』は、慶長五年正月八日の条に「(正月)五日の夜、中村次郎兵衛が(宇喜多家中で)専横を働いたために殺害され、70人ほどの家臣が宇喜多家から逃散した」と記している 5 。しかし、この記述は伝聞に基づくもので、事実とは異なる点も多い。中村次郎兵衛は実際には殺害されておらず、騒動後に加賀前田家に仕官していることが確認されている 6 。この記録の不正確さ自体が、当時の京・伏見を揺るがした騒動の混乱ぶりを物語っている。
より詳細な経緯は、後世の編纂物である『戸川家譜』に記されている。それによれば、中村次郎兵衛への襲撃計画は未然に発覚し、中村は辛くも逃亡する。これに激怒した秀家は、首謀者である戸川達安を大谷吉継の屋敷に呼び寄せて謀殺しようと試みるが、秀家の従兄弟である宇喜多詮家(坂崎直盛)の手引きによって達安は救出される。その後、達安、詮家、岡貞綱、花房正成らは大坂玉造の詮家の屋敷に集結し、剃髪して立てこもり、公然と秀家への反抗の意思を示した 6 。
事態の収拾には、豊臣政権の重鎮たちが乗り出した。当初、大谷吉継や徳川家康の家臣・榊原康政らが調停にあたったが、両者の対立は根深く、解決には至らなかった 6 。最終的に、五大老筆頭の徳川家康自らが裁定を下すことになった。家康の裁定により、戸川達安と花房正成は宇喜多家を離れて家康の預かり(事実上の家臣化)となり、宇喜多詮家と岡貞綱は一旦、領国である備前に戻されたものの、彼らもまもなく宇喜多家を退去した 22 。
この一連の騒動の中で、最も重要な鍵を握るのが、改革の推進者であった長船綱直自身の動向である。しかし、彼は騒動が最高潮に達する直前、慶長四年(1599年)にこの世を去っている(慶長二年説もある) 7 。
その死因については、二つの説が伝えられている。一つは、病死であり、死の直前には対立していた戸川氏と和解したというものである。もう一つは、対立が頂点に達していた戸川達安や岡貞綱らによって毒殺されたという、より陰謀論的な説である 7 。
毒殺説の真偽を確かめる術はない。しかし、いずれの説を取るにせよ、綱直が騒動勃発のまさに直前に死去したという時系列は、極めて重要な意味を持つ。彼こそが、秀家の絶対的な信任を背景に急進的な改革を推し進めた張本人であり、吏僚派の求心力の源であった。彼の存在が、武断派の不満をかろうじて抑え込む「重し」として機能していたのである。その綱直が、病であれ暗殺であれ、政治の舞台から突然姿を消したことは、これまで不満を鬱積させていた武断派にとって、一斉に行動を起こす絶好の「好機」と映ったであろう。綱直の死は、宇喜多家中の危ういパワーバランスを完全に崩壊させ、家臣団の分裂という破局へと導いた決定的な引き金となった可能性が極めて高い。
宇喜多騒動の結末は、宇喜多家にとって致命的なものであった。戸川達安、宇喜多詮家、岡貞綱、花房正成といった、直家の代から数々の合戦で軍功を挙げてきた歴戦の主将格の家臣たちが、一挙に宇喜多家を離反したのである 6 。『鹿苑日録』が伝えるように、彼らに同調して宇喜多家を去った有力な武士は70人以上にも及んだという 39 。
この大規模な家臣の離反は、宇喜多家の軍事力を著しく低下させた 1 。翌年の関ヶ原の戦いにおいて、宇喜多軍は西軍最大となる1万7千の兵力を動員したものの、その内実は、離反した中核的家臣団の穴を埋めるために急遽雇い入れた浪人なども多く含まれており、かつての精強さを失った「張り子の虎」であったとさえ言われている 2 。
関ヶ原の本戦で、宇喜多軍は東軍の福島正則軍と死闘を繰り広げ、一時は優勢に戦いを進めたと伝えられる 1 。しかし、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍が総崩れとなると、宇喜多軍もまた壊滅的な敗北を喫した。もし宇喜多騒動が起こらず、戸川達安や花房正成といった猛将たちが宇喜多軍の中核として戦っていたならば、関ヶ原の戦いの趨勢は大きく変わっていたかもしれない 2 。その意味で、長船綱直の改革と死に端を発する宇喜多騒動は、単なるお家騒動に留まらず、西軍の敗北、ひいては豊臣家滅亡の遠因の一つとなったと言えるのである。
長船綱直の人物像は、彼に関する記述の大部分が、対立当事者や後世の軍記物に由来するため、著しく歪められてきた。史料を批判的に再検討することで、従来の「奸臣」像とは異なる、新たな人物像が浮かび上がってくる。
綱直を「奸臣」とする評価の源流は、主として『戸川家譜』にある 5 。この史料は、宇喜多家を出奔し、結果的に関ヶ原で東軍(徳川方)に与した戸川達安の行動を正当化する目的で、その子孫によって江戸時代に編纂されたものである。勝者となった徳川方に属した自らの祖先の行動を正当化するためには、旧主・宇喜多秀家を「道理の通じない暗愚な若君」として、そしてその側近であった綱直や中村次郎兵衛を「主君を惑わし、私利私欲のために権勢を振るう奸臣・佞臣」として描く必要があった。
『戸川家譜』などが記す綱直の「専横」とは、具体的には惣国検地の強行や、譜代家臣の既得権益を無視した知行割の変更、そしてキリスト教の優遇などを指している 26 。これらは、旧来の秩序の中で生きてきた戸川氏の視点から見れば、確かに「専横」であり「暴政」であった。しかし、財政再建と大名権力の強化という課題に直面していた主君・秀家や、改革の実行者であった綱直の視点から見れば、それらは主家を存続させるための不可欠な「改革」であったはずである。
こうした『戸川家譜』に描かれた一方的な人物像は、江戸時代に成立した『備前軍記』などの軍記物語によって、さらに物語的な脚色を加えられ、増幅されていった 7 。こうして、善(武断派・戸川氏)と悪(吏僚派・長船氏)の対立という、分かりやすくも単純化された「悪役・長船綱直」のイメージが、後世に定着することになったのである。
しかし、綱直らを異なる角度から評価する史料も存在する。宇喜多騒動後、綱直の盟友であった中村次郎兵衛を召し抱えた加賀前田家の史料『乙夜之書物』である。この史料によれば、騒動の根本的な原因は、「戸川達安ら重臣たちが、城に近く肥沃な良い土地を自分たちのものとして独占してしまったため、困窮した小身の家臣たちが秀家に訴え出た。これを受けた中村次郎兵衛が、不公平を是正するために知行地の割り替えを行った」ことにあるとしている 5 。
この記述は、綱直や中村の行動にこそ道理があったという、全く逆の視点を提供している。彼らの改革は、一部の有力重臣が独占していた既得権益を打破し、より公平な(あるいは大名にとってより効率的な)知行配分を実現しようとするものであったことを示唆している。この視点に立てば、綱直らは、一部の譜代重臣から見れば「専横な権臣」であったかもしれないが、主君・秀家や、既得権益から疎外されていた他の多くの家臣たちから見れば、旧弊を打破しようとする「有能な改革者」と映っていた可能性があるのである。
これらの諸史料を批判的に統合し、再構築すると、長船綱直の新たな人物像が浮かび上がってくる。彼は、主君・宇喜多秀家に対しては忠実であり、中央政権(豊臣秀吉)の意向を的確に汲み取り、戦国的な分権体制から脱却して、近世的な中央集権的統治体制を宇喜多家にもたらそうとした、極めて有能な吏僚(テクノクラート)であった。
彼の悲劇は、その改革があまりにも急進的であり、その手法が、戦国乱世を槍働きで生き抜いてきた武断派の譜代家臣たちが持つ価値観やプライドと、根本的に相容れなかったことに起因する。彼は、武功ではなく、算術や法、行政手腕といった実務能力によって評価される「新しい時代」の象徴であった。それゆえに、「古い時代」の価値観に固執する者たちと必然的に衝突する運命にあった。
綱直の権力基盤は、あくまで主君である秀家、そしてそのさらに後ろ盾となっていた豊臣秀吉という、個人の絶対的な信任にのみ依拠していた 46 。その基盤は、旧来の家臣団のように土地や血縁に根差したものではなかったため、本質的に脆弱であった。特に、慶長三年(1598年)に秀吉が死去し、最大の「後ろ盾」を失ったことで、家中の反発を抑え込むことはますます困難になった。その状況下で起きた綱直自身の死は、この危うい権力構造の完全な崩壊を意味し、宇喜多家の悲劇を決定づけたのである。
長船綱直の生涯と、彼をめぐって勃発した宇喜多騒動は、単なる一地方大名家で起きたお家騒動という枠組みを超えて、より大きな歴史的文脈の中で捉え直されるべきである。この事件は、豊臣政権がその末期に抱えていた構造的な矛盾を、凝縮した形で象徴しているからだ。
すなわち、それは武力によって天下を平定した「武断派」と、法と算術によって天下を統治しようとした「吏僚派」との、新しい国家体制の主導権をめぐる対立であった 35 。それはまた、各大名領国が、戦国的な分権体制から近世的な中央集権体制へと移行する過程で必然的に生じる、旧守派と改革派の間の激しい軋轢でもあった 48 。そして、文禄・慶長の役や伏見城普請といった国家的な大事業が、各大名家の財政を破綻させ、その内部矛盾を激化させたという、時代そのものが抱える課題の表れでもあった 19 。
この激動の時代にあって、長船綱直は、新しい時代の到来を予見し、主家である宇喜多家をそれに適応させようとした先駆的な改革者であったと言える。彼が主導した惣国検地は、宇喜多家を近世大名として再編し、その権力基盤を強化するための、合理的かつ必然的な政策であった。しかし、その手法はあまりにも急進的であり、旧体制に固執する勢力の猛烈な抵抗を招いた。
彼の死と、それに続く宇喜多家の弱体化は、豊臣政権内部の対立を利用して天下を窺っていた徳川家康に、政権切り崩しの絶好の機会を与えた。宇喜多騒動によって有力な武断派家臣を失った宇喜多軍は、関ヶ原においてその真価を発揮することができず、西軍敗北の大きな一因となった 2 。綱直の死は、結果的に徳川の世の到来を早める遠因となったのである。
長船綱直は、その諱すら定かではなく、歴史の影に埋もれた一人の武将に過ぎないかもしれない 7 。しかし、彼の生き様と死に様は、戦国から近世へと時代が大きく転換する中で、あるべき統治の姿を模索し、旧時代の価値観との相克の末に散っていった一人の官僚の苦悩と宿命を、我々に雄弁に物語っている。後世に作られた「奸臣」というレッテルを剥がし、彼を時代の移行期に生きた改革者として再評価することは、豊臣政権の崩壊と江戸幕府の成立という、日本史の大きな転換点をより深く理解する上で、不可欠な視点を提供するものである。