最終更新日 2025-07-26

長谷川宗仁

長谷川宗仁は町衆出身で、信長・秀吉・家康に仕え大名となった。茶人、絵師、行政官、外交官と多才。関ヶ原では息子を東軍に内通させ、家を存続させた。

乱世を駆けた多才の吏僚 ― 長谷川宗仁の生涯と実像

序章:長谷川宗仁とは何者か

戦国時代の動乱が終息し、近世日本の礎が築かれようとしていた激動の時代。天文8年(1539年)に生を受け、徳川幕府の黎明期である慶長11年(1606年)にその生涯を閉じた一人の人物がいました。その名は長谷川宗仁(はせがわ そうにん) 1

一般に、宗仁は「京都の町衆出身の武将・絵師」として知られ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人に仕え、最終的にその子が大名にまで取り立てられた成功者として語られます。しかし、その人物像は、単なる「文化人武将」という言葉に収まるものではありません。彼の生涯を深く掘り下げると、武将、行政官、茶人、絵師、さらには外交の密使、そして宗教政策の冷徹な実行者という、驚くほど多様な顔が浮かび上がってきます。

本報告書は、長谷川宗仁という人物について、現存する史料を基にその生涯を網羅的に追跡し、多角的な分析を加えることを目的とします。彼の出自の謎から、各政権下での具体的な事績、文化活動の裏に隠された政治的意図、そして彼の一族が辿った栄光と没落の軌跡までを詳細に解き明かします。これにより、宗仁が旧来の身分制度の枠を超え、個人の持つ多様な能力を武器に時代の頂点へと駆け上がった、近世的官僚の先駆者であったという実像に迫ります。彼の人生は、武力のみならず、経済、情報、文化、外交が複雑に絡み合いながら歴史が動いた時代の、まさに縮図と言えるでしょう。

第一章:出自と謎に満ちた前半生 ― 京の町衆か、堺の商人か

長谷川宗仁のキャリアの原点を理解する上で、その出自は極めて重要です。しかし、彼の前半生は確固たる史料に乏しく、その出自については複数の説が存在し、いまだ謎に包まれています。

### 出自を巡る諸説

宗仁の出自として最も有力視されているのが「京都の町衆説」です。複数の記録が彼を「京都の商人」あるいは「京都の町衆」出身としており 3 、特に京都の有力な町衆であった長谷川宗昧(そうまい)の一族ではないかと考えられています 1 。都の文化や情報網に精通し、後に茶人や絵師として大成する素地は、この京都での出自に根差していると見るのが自然です。

一方で、「堺の商人説」も根強く存在します 2 。天下の台所と呼ばれ、国際貿易港として栄えた堺は、多くの豪商や文化人を輩出しました。宗仁が、堺の大商人であり茶人でもある今井宗久と極めて緊密な連携を見せていることから 1 、堺に強い地盤を持っていたことは間違いなく、この説の有力な根拠となっています。

さらに、大和国(現在の奈良県)の出身とする説もあります 6 。系譜史料の中には、宗仁を藤原氏秀郷流の尾藤氏の系統で、大和の出身とするものも存在します 7 。しかし、これは武士としての家格を整えるために後世に潤色された可能性も否定できません。

これらの説は互いに排他的なものではなく、彼の活動の拠点が京都と堺という二大都市にまたがっていた事実を示唆しているとも解釈できます。彼の出自の曖昧さは、伝統的な武士階級ではなく、当時勃興しつつあった都市の経済・文化階層という、より流動的な社会層の出身であったことを物語っています。そして、彼が身につけた経済知識、交渉力、文化的な素養こそが、旧来の武士にはない価値として、時代の覇者である織田信長に評価される直接的な要因となったのです。

### 信長への仕官以前の活動 ― 但馬生野銀山を巡る暗躍

宗仁が歴史の表舞台にその名を現すのは、織田信長に仕える直前の、ある政治工作においてでした。永禄12年(1569年)頃、宗仁は堺の今井宗久と連携し、かつて但馬国の領主であった山名祐豊を、織田信長の権威を背景に但馬へ復帰させるための工作に尽力します 1

この活動は、単なる名門領主の復権支援という美談ではありませんでした。その真の目的は、山名氏を復帰させることで、織田家のために日本有数の銀山であった但馬の生野銀山を確保し、同時にその後の銀山経営における自らの利権を確保することにあったと考えられます 1 。宗仁は実際に山名祐豊の但馬入国に同行しており、元亀元年(1570年)には今井宗久からその労をねぎらう書状を受け取っています。さらに同年、生野銀山の横領を停止させるための使者として、再び但馬へ赴きました 1

この一連の動きは、宗仁が信長に仕えるための、いわば「実務能力のプレゼンテーション」であったと言えます。伝統的な武勇とは全く異なる、経済的知識、政治的嗅覚、そして利害関係者をまとめ上げる交渉力。これら商人や町衆ならではのスキルを遺憾なく発揮したこの一件こそが、彼のその後のキャリアを決定づける重要な布石となったのです。信長は、出自を問わず、実利をもたらす能力をこそ求めていました。宗仁は、その時代のニーズに完璧に応えることのできる、新しいタイプの人材でした。


表1:長谷川宗仁 年表

西暦(和暦)

年齢

主な出来事

関連人物

典拠

1539年(天文8年)

1歳

生誕

-

1

1569年(永禄12年)

31歳

今井宗久と連携し、山名祐豊の但馬復帰を工作。生野銀山の利権に関与。

織田信長、今井宗久

1

1573年(天正元年)

35歳

京都下京で銀子・米の徴収を行うなど、信長の奉行として活動。

織田信長

1

1578年(天正6年)

40歳

信長主催の元旦の茶会に、羽柴秀吉ら重臣と共に招かれる。

織田信長、羽柴秀吉、明智光秀

1

1581年(天正9年)

43歳

松井友閑邸の茶会で、自作の絵が床の間に飾られる。

松井友閑

1

1582年(天正10年)

44歳

甲州征伐に従軍。戦後、武田勝頼らの首を京で獄門にかける。

織田信長

1

1582年(天正10年)

44歳

本能寺の変後、備中の羽柴秀吉に飛脚を送り凶報を伝える。

羽柴秀吉

1

1589年(天正17年)

51歳

豊臣家の直轄領であった伏見の代官に任命される。

豊臣秀吉

1

1592年頃

54歳頃

肥前名護屋城の築城で、本丸数寄屋などの作事奉行を務める。

豊臣秀吉、狩野光信

1

1593年(文禄2年)

55歳

明からの使者の饗応役を務める。

豊臣秀吉

1

1594年(文禄3年)

56歳

自らスペイン船に乗り、マニラへ渡航。

豊臣秀吉

1

1597年頃

59歳頃

フランシスコ会宣教師を訴追。キリシタン弾圧に関与。

豊臣秀吉

10

1598年(慶長3年)

60歳

醍醐の花見に秀吉の側近として従う。

豊臣秀吉

1

1600年頃

62歳頃

秀吉死後、徳川家康に仕え、北政所の番役を務める。

徳川家康、北政所

1

1606年(慶長11年)

68歳

2月9日、死去。京都の長徳寺に葬られる。

-

1


第二章:織田信長への仕官 ― 商人から武将・行政官へ

但馬での工作を成功させた宗仁は、その実務能力を信長に認められ、彼の政権下で急速にその地位を高めていきます。彼のキャリアは、単なる御用商人から、政権の中枢に深く食い込む側近へと、劇的な変貌を遂げました。

### 京都における奉行活動と側近への道

天正元年(1573年)、宗仁は信長の家臣団に名を連ね、京都下京において銀子や米の徴収といった奉行活動に従事しています 1 。これは、彼が信長の直臣として、畿内の経済政策という重要な実務を担うようになったことを示しています。同年、朝倉義景が滅亡すると、その首級を京へ送り、獄門にかけるという役目も命じられており 1 、彼の業務が単なる経済活動に留まらなかったことがうかがえます。

宗仁が信長の側近として確固たる地位を築いたことを示す象徴的な出来事が、天正6年(1578年)の元旦に起こりました。『信長公記』によれば、この日、信長は安土城で自ら茶を点て、わずか十数名の家臣をもてなしました。その席に、嫡男の織田信忠、細川藤孝、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀といった織田家の最高幹部と並んで、長谷川宗仁の名前が記されているのです 1

この事実は、極めて重要な意味を持ちます。一介の町衆出身者が、織田家の宿老や方面軍司令官と同席することを許されたのです。これは、信長政権の権力構造が、もはや伝統的な家格や武功序列だけでは成り立っておらず、「信長個人への近さ」と「政権運営に不可欠な実務能力」という新しい基準によって再編成されていたことを物語っています。宗仁は、まさにこの新しい権力構造の中で台頭した人物の典型であり、信長が個人的な信頼を寄せるインナーサークルの一員として、確固たる地位を築いていたことの動かぬ証拠と言えるでしょう。

### 「武将」としての側面と本能寺の変

宗仁の役割は、行政や文化の分野に限定されませんでした。天正10年(1582年)3月、信長が敢行した甲州征伐に際しては、信長の側近として従軍しています 1 。そして戦後、武田勝頼・信勝・信豊、仁科盛信という武田一族の主だった者たちの首級を京で獄門にかけるという、新政権の威光を天下に示すための冷徹な戦後処理を命じられ、これを実行しました 1 。この任務は、彼が文化的な洗練さだけでなく、政権の意思を非情に遂行する実行力をも併せ持っていたことを示しています。

そして同年6月2日、日本の歴史を揺るがす大事件、本能寺の変が勃発します。信長横死という未曾有の事態に際し、宗仁は驚くべき迅速さと的確な判断力をもって行動しました。彼は、凶報に接するや否や、即座に備中高松城で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉のもとへ飛脚を送り、この一大事を伝えたのです 1

この情報伝達の速さが、その後の歴史の帰趨を決したと言っても過言ではありません。他の重臣たちが事態を把握できずに混乱する中、いち早く正確な情報を得た秀吉は、毛利氏と電光石火の和睦を結び、世に言う「中国大返し」を敢行することができました。この神速の行動により、秀吉は主君の仇である明智光秀を山崎の戦いで討ち、天下取りへの最短距離を駆け上がることになります。宗仁のこの行動は、単なる忠誠心の発露に留まりません。彼は、混乱の極みにあった状況下で、次の天下を担うべき人物が誰であるかを瞬時に見抜き、秀吉に「投資」したのです。それは、彼の卓越した政治的嗅覚と、時代の流れを読み解く能力の証明でした。

第三章:豊臣政権下での飛躍 ― 側近、そして外交の舞台へ

本能寺の変における的確な判断により、長谷川宗仁は新たな天下人となった豊臣秀吉の下でも、その信任を失うことはありませんでした。むしろ、秀吉政権下で彼の活動領域はさらに拡大し、内政の要を担うだけでなく、日本の針路を左右する外交の最前線にまでその身を置くことになります。

### 秀吉の側近としての内政手腕

山崎の戦いで秀吉が勝利すると、宗仁はそのまま秀吉に仕え、その側近として重用されました 1 。天正17年(1589年)には、豊臣家の直轄領であり、後の伏見城築城の地ともなる重要拠点・伏見の代官に任命されています 1 。これは、秀吉が政権の財政的・軍事的基盤の中核を宗仁に委ねたことを意味します。

さらに、秀吉が大陸侵攻の拠点として九州に築いた肥前名護屋城の普請においては、城の中心的施設である本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を担当しました 1 。文禄2年(1593年)には明からの講和使節団の饗応役を務め、慶長3年(1598年)に秀吉がその生涯の最後に催した盛大な花見の宴「醍醐の花見」においても、その側に付き従っています 1 。これらの事績は、宗仁が秀吉政権下においても、政策決定と実行の中枢に位置する、不可欠な吏僚であったことを示しています。

### 外交の担い手 ― フィリピンへの渡航とキリシタンへの強硬姿勢

宗仁のキャリアの中で特筆すべきは、彼が国際交渉の舞台に立ったことです。文禄3年(1594年)4月、宗仁は秀吉の書状を携えて来日したスペイン領フィリピン総督の使者、ペドロ・ゴンザーレスの船に自ら乗り込み、マニラへと渡航しました 1 。当時、秀吉はフィリピン(呂宋)に対し、日本への服属と朝貢を要求しており、両者の間には極度の緊張が走っていました 11 。宗仁の渡航は、この緊迫した外交交渉の一環であり、彼が単なる国内の行政官ではなく、国家の意思を代表して交渉に臨む外交官の役割をも担っていたことを明確に示しています。

この時期、日本国内では「秀吉が長谷川法眼(宗仁)にフィリピン征服を委ねた」という噂が流れるほど、彼がこの問題のキーパーソンと見なされていたことが、当時の記録からうかがえます 12

この外交経験は、宗仁のキリスト教に対する姿勢に決定的な影響を与えたと考えられます。当時、イエズス会とは別に、フィリピンを拠点とするフランシスコ会の宣教師たちが来日し、禁じられていた辻説法などの布教活動を公然と行っていました。これに対し、宗仁は極めて厳しい態度で臨みます。スペイン側の記録によれば、宗仁は「キリシタンを作った」という理由でフランシスコ会の修道士たちを厳しく訴追し、彼の息子(後の長谷川守知)もまた、父の意向に沿って宣教師たちを中傷し、迫害に加担したとされています 10 。この訴追が、後の二十六聖人殉教事件の遠因の一つとなりました。

宗仁のこの行動は、単なる宗教的対立と見るべきではありません。彼のフィリピン外交とキリシタン弾圧は、分かちがたく結びついていました。秀吉は、スペインが世界各地で領土を拡大する際に、宣教師をその尖兵として利用しているという情報を得ており、日本征服の野心を強く警戒していました。マニラに渡航し、スペインの国力を肌で感じたであろう宗仁にとって、そのフィリピンからやって来たフランシスコ会士は、まさに警戒すべき「危険分子」そのものでした。彼の強硬な態度は、個人的な信仰の問題ではなく、豊臣政権の「国家安全保障政策」を担う外交責任者としての、極めて政治的な判断に基づく行動だったのです。


表2:三英傑に仕えた長谷川宗仁の役割比較

主君

主な役割

具体的な活動

文化的関与

地位・恩賞

織田信長

行政官、側近、実務担当者

但馬生野銀山の工作、京都での奉行活動(徴税)、甲州征伐後の戦後処理、本能寺の変での伝令

重臣らとの茶会への参加、茶器披露会への出席

奉行、信長のインナーサークルの一員

豊臣秀吉

側近、行政官、作事奉行、外交官

伏見代官、名護屋城作事奉行、明使節の饗応、マニラへの渡航、キリシタン(フランシスコ会)訴追

醍醐の花見への随行、名護屋城障壁画の制作(伝)、茶人としての活動

伏見代官、法眼叙任、子の守知が1万石を領有

徳川家康

旧功労者、隠居後の奉公

北政所(高台院)の番役

(特筆すべき活動は見られない)

子の守知が関ヶ原の功で所領安堵、後に大名となる


第四章:文化人としての顔 ― 茶人、絵師、そして法眼

長谷川宗仁の人物像を語る上で、彼が当代一流の文化人であったという側面は欠かすことができません。しかし、彼にとって茶の湯や絵画は、単なる趣味や教養の域を超え、自らの政治的キャリアを有利に進めるための極めて有効な戦略的ツールでした。

### 茶人・宗仁 ― 政治を動かす茶室

宗仁は、茶の湯をわび茶の大成者である武野紹鴎に師事したと伝えられています 2 。これは、彼が当時の茶道界において正統な系譜に連なる人物であったことを意味します。彼の茶人としての実力と人脈は、同時代の茶会記からも明らかです。堺の豪商茶人である今井宗久とは懇意の仲であり 1 、もう一人の茶の湯の巨匠、津田宗及が記した『宗及茶湯日記』にも、宗仁の名は度々登場します 1 。これは、彼が信長や秀吉の政権下で、茶の湯を通じた情報交換や政治交渉が行われるネットワークの中心的な人物の一人であったことを物語っています。

さらに、彼の茶人としてのステータスの高さを象徴するのが、彼が所持していた名物茶入「古瀬戸肩衝」の存在です。この茶入は後に「長谷川肩衝」として知られるようになり 1 、天下に名だたる名物道具を所有していること自体が、彼の財力と文化的権威の証明となりました。宗仁にとって茶室は、単に茶を味わう空間ではなく、権力者との関係を構築・維持し、自らの影響力を増大させるための、もう一つの戦場だったのです。

### 絵師・宗仁 ― 権威の象徴「法眼」

宗仁は茶人としてだけでなく、画家としても高い評価を受けていました。その証左に、彼は僧位の一つであり、本来は高徳の僧や専門の絵仏師などに与えられる高位「法眼(ほうげん)」に叙せられています 1 。これは、彼の画技が趣味の域をはるかに超え、プロフェッショナルとして公に認められていたことを示します。

彼の画家としての評価は、同時代の記録からも裏付けられます。天正9年(1581年)、信長の側近であった松井友閑が邸宅で催した茶会において、床の間に宗仁が描いた絵が掛けられていたことが記録されています 1 。当代一流の文化人たちが集う場で、その作品が中心に据えられたという事実は、彼の画家としての名声の高さを物語っています。

さらに、豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城の本丸を飾った障壁画は、画壇の最大勢力であった狩野派の棟梁・狩野光信と、長谷川宗仁が共同で手掛けたと伝えられています 1 。残念ながらこの障壁画は現存しませんが、この伝承が事実であれば、宗仁が狩野派のトップと並び称されるほどの画技と地位を認められていたことになります。法眼という権威ある位を得たことも、こうした大事業を任される上で、彼の社会的信用を補強する役割を果たしたことでしょう。

### (コラム)長谷川等伯との比較 ― 二人の「長谷川」

宗仁と同時代、同じ「長谷川」を名乗る一人の天才絵師がいました。長谷川等伯です 13 。等伯は能登国の出身で、狩野派の豪華絢爛な画風とは一線を画す、静謐で精神性の高い水墨画(代表作『松林図屏風』)などで画壇に新風を吹き込み、長谷川派の祖となりました 14

宗仁と等伯は、同じ苗字を持ち、同じ時代に絵師として活躍したため混同されることもありますが、その活動のあり方は大きく異なります。等伯が狩野派という巨大組織と対抗しながら、純粋に画技を追求し、芸術の高みを目指した専門絵師であったのに対し 16 、宗仁はあくまで武将・行政官としてのキャリアを主軸に置き、絵画を自らの政治・文化活動を補強するための一環として活用しました。等伯にとって絵画は「目的」そのものであり、宗仁にとって絵画は目的を達成するための強力な「手段」の一つであった、という点に両者の本質的な違いを見出すことができます。

第五章:徳川の世と晩年、そして長谷川家の行く末

豊臣秀吉の死は、再び天下を動乱の渦に巻き込みました。この権力の移行期にあって、長谷川宗仁は老練な政治感覚を発揮して生き残り、彼の子・守知の代には、一族は栄光の頂点を迎えます。しかし、その栄華は長くは続きませんでした。

### 徳川家康への仕官と穏やかな晩年

慶長3年(1598年)の秀吉の死後、宗仁は巧みに次代への乗り換えを行います。彼は豊臣家を離れて徳川家康に仕え、秀吉の正室であった北政所(高台院)の警護などを務める番役となりました 1 。これは、豊臣家への旧恩に報いるという義理を果たしつつも、次代の覇者である家康との関係を構築するという、彼の卓越したバランス感覚を示すものです。

天下分け目の関ヶ原の戦いを経て、徳川の世が盤石となった後、宗仁は静かな晩年を過ごしました。そして慶長11年(1606年)2月9日、68年の波乱に満ちた生涯を閉じます 1 。遺体は、彼自身が開基となって建立した京都・上京区の長徳寺に葬られました 1

### 子・長谷川守知の立身と美濃長谷川藩の成立

宗仁が築いた基盤は、その子・長谷川守知(もりとも)によって、さらなる高みへと引き上げられました。守知は父と共に信長・秀吉に仕え、秀吉政権下では御小姓頭衆を務めるなど、早くから頭角を現していました 17

彼の運命を決定づけたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いです。守知は当初、西軍に与し、石田三成の居城である佐和山城に籠城していました。しかし、彼は事前に東軍の京極高次らと内通しており、西軍への加担は偽装でした 17 。9月15日の本戦で西軍が壊滅し、翌日、小早川秀秋らの軍勢が佐和山城に迫ると、守知はかねての密約通り城門を開き、東軍を城内に引き入れました。この内応が決定打となり、難攻不落と見られた佐和山城はわずか半日で落城します 18

この決定的な功績、そしてその後の大坂の陣での働きが家康・秀忠に高く評価され、守知はついに大名の列に加えられます。元和3年(1617年)、彼は美濃国、摂津国、伊勢国など5か国にまたがる1万石余の所領を認められ、美濃長谷川藩の藩主となったのです 17 。町衆あるいは商人の一族から身を起こした長谷川家が、大名にまで上り詰めた瞬間でした。

### 一代の栄華 ― 藩の消滅と旗本への道

しかし、この栄光は守知一代で終わりを告げます。寛永9年(1632年)に守知が死去すると、家督を継いだ嫡男・正尚は、弟の守勝に3110石の所領を分与しました 1 。この分知により、正尚の所領は1万石を割り込み、大名としての資格を喪失。長谷川家は、7000石の本家と3110石の分家という二つの旗本家となり、美濃長谷川藩は成立からわずか15年で消滅してしまいました 17

その後、正尚が嗣子なく没したことで本家は断絶しますが、分家の守勝の家系は幕末まで大身旗本として存続しました 1

長谷川家のこの盛衰の軌跡は、戦国乱世の流動性の中で、個人の才覚によって成り上がった「新興勢力」の典型的な姿を示しています。宗仁が築き、守知が飛躍させた権勢も、その基盤は譜代大名のような盤石な領国経営や、先祖代々の家臣団との固い結束にあったわけではありません。それはあくまで、時の天下人への「奉公」に対する恩賞という、属人的なものでした。徳川幕府という、より固定的で家格を重んじる社会体制が確立されるにつれて、個人の功績のみに依存した家の立場は、相対的に脆弱とならざるを得なかったのです。長谷川家の物語は、宗仁個人の成功譚であると同時に、「個」の能力が全てを決定した戦国の時代から、「家」と「組織」が支配する江戸の時代への、移行期の厳しさを示す一つの歴史的ケーススタディと言えるでしょう。

結論:長谷川宗仁という存在の再評価

長谷川宗仁の生涯を詳細に追跡すると、彼が単なる「文化人武将」という枠組みには到底収まらない、極めて複合的で近代的な特質を備えた人物であったことが明らかになります。

彼の本質は、その多才さにあります。商人としての経済感覚と交渉術、行政官としての緻密な実務能力、茶人・絵師としての洗練された文化的教養、そして時には冷徹な政治判断を下し、国家の意思を遂行する実行力。これらすべてを一身に併せ持ち、仕える主君や時代の要請に応じて、自らの能力を巧みに使い分けることで、激動の時代を生き抜きました。

宗仁の人生は、戦国時代から近世へと移行する時代の大きな変化を象徴しています。彼は、伝統的な武士階級の出身ではなく、出自の曖昧な都市の知識・経済階層から身を起こし、旧来の身分制度の垣根を越え、個人の持つ多様な「スキル」を武器に、時の権力者にとって不可欠な存在となりました。彼のキャリアは、武力だけでなく、情報、経済、文化、外交といった非軍事的要素が、国家の運命を左右する重要な要素として認識され始めた時代の到来を告げています。

本能寺の変の報を秀吉に伝えた情報伝達者として、フィリピン外交とキリシタン弾圧を一体のものとして遂行したリアリストとして、そして文化の持つ政治的価値を最大限に活用した戦略家として、長谷川宗仁は、日本の歴史が大きく転換する様を体現した、稀有な人物であったと言えます。彼の生涯を理解することは、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人々のしたたかな生存戦略を、より深く理解するための一つの鍵となるでしょう。

引用文献

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  6. 「長谷川宗仁」海外にも野心を示した武将茶人! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/249
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  18. 長谷川藩 | 日本の歴史ガイド~日本のお城 城跡 史跡 幕末~ https://www.jp-history.info/tag/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E8%97%A9
  19. 美濃長谷川藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E8%97%A9
  20. 長谷川守知 Hasegawa Moritomo - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/hasegawa-moritomo