本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期という、日本の歴史上類を見ない激動の時代を、陪臣、城代、そして浪人という多様な立場で生き抜いた武将、関盛吉(せき もりよし)の生涯を包括的に解明することを目的とする。通称を十兵衛、あるいは勝蔵、政盛とも称したこの人物は 1 、その生没年が共に不詳であるため 1 、歴史の表舞台に名を連ねる大名たちとは異なり、その全貌を捉えることは容易ではない。しかし、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせることで、織田、豊臣、徳川という三つの時代を渡り歩いた一人の武士の実像を浮かび上がらせることが可能である。
本報告書では、まず彼の出自である伊勢の名族・関氏の背景を明らかにし、次いで柴田勝家の養子・勝豊に仕えたキャリアの黎明期、名将・蒲生氏郷の下で飛躍を遂げた最盛期、そして主家の没落と兄・一政の改易に伴う流転の後半生を時系列に沿って詳述する。各章においては、彼が関わった歴史的事件や人物との関係性を深く掘り下げ、その時々の決断の背景と歴史的意義を専門的見地から考察する。これにより、単なる経歴の追跡に留まらず、時代の転換期を生きた中級武士の生存戦略と、その人物像に多角的に迫ることを目指すものである。
西暦(和暦) |
盛吉の年齢 |
出来事 |
関連人物 |
盛吉の身分・知行 |
不明 |
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伊勢国の国人領主・関盛信の子として誕生 1 。 |
父:関盛信、兄:一政ら |
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1579年(天正7年) |
不明 |
柴田勝豊の家臣として加賀一向一揆と戦う 1 。 |
主君:柴田勝豊 |
柴田勝豊家臣(1,000石) |
1582年(天正10年) |
不明 |
主君・勝豊が羽柴秀吉に降伏 2 。 |
柴田勝豊、羽柴秀吉 |
柴田勝豊家臣 |
1583年(天正11年) |
不明 |
主君・勝豊が病死 2 。その後、蒲生氏郷に仕える。 |
柴田勝豊、蒲生氏郷 |
蒲生氏郷家臣 |
1587年(天正15年) |
不明 |
蒲生氏郷配下として九州征伐で功を挙げる 1 。 |
蒲生氏郷、豊臣秀吉 |
蒲生氏郷家臣 |
1590年(天正18年) |
不明 |
氏郷の会津転封に従い、奥州へ移る 1 。 |
蒲生氏郷 |
蒲生氏郷家臣 |
1591年(天正19年)頃 |
不明 |
九戸政実の乱などの鎮圧後、猪苗代城代に任命される 1 。 |
蒲生氏郷 |
猪苗代城代(7,000石) |
1595年(文禄4年) |
不明 |
主君・蒲生氏郷が死去 5 。 |
蒲生氏郷、蒲生秀行 |
猪苗代城代 |
1598年(慶長3年) |
不明 |
蒲生家が宇都宮12万石へ減封。これを機に蒲生家を離れ、兄・一政の配下となる 1 。 |
蒲生秀行、兄:関一政 |
関一政家臣 |
1618年(元和4年) |
不明 |
兄・一政が伯耆黒坂藩主の時に家中内紛により改易される 6 。 |
兄:関一政 |
浪人 |
1618年(元和4年)以降 |
不明 |
幕府老中・土井利勝の食客となる 1 。 |
土井利勝 |
土井利勝食客 |
不明 |
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没年不詳 1 。 |
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関盛吉の生涯を理解するためには、まず彼が生まれた「関氏」という一族の歴史的背景を把握することが不可欠である。伊勢国に深く根を張ったこの武士団は、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、地域の有力な勢力としてその名を馳せていた。
関氏は、伊勢国鈴鹿郡関(現在の三重県亀山市関町)を発祥の地とする豪族である 9 。その勢力は鈴鹿、河曲の二郡に及び、一族は「関一党」と総称されるほどの規模を誇った 9 。
その出自については複数の説が存在するが、一般的には桓武平氏の流れを汲み、平清盛の嫡男・重盛の子である平資盛を祖とすると考えられている 9 。このため、関氏の家紋は平家が用いたとされる「揚羽蝶」であった 11 。鎌倉時代に入ると、関実忠が伊勢国の亀山城を築城し、初代当主となった 11 。彼は幕府の有力御家人である北条氏の被官(家臣)となり、鎌倉に居住しながら伊勢の地盤を固めたと伝えられる 11 。
室町時代には足利将軍家に仕え、その勢力はさらに拡大した。15代当主・関盛政の時代には、五人の子をそれぞれ神戸(かんべ)、国府(こう)、峯(みね)、鹿伏兎(かぶと)、そして本拠の亀山に配し、それぞれを城主とした。これらは「関五家」と呼ばれ、関氏の勢力圏を盤石なものとする礎となった 11 。このように、関盛吉が生まれる頃の関氏は、伊勢国北部において揺るぎない地位を築いていた名門であった。
盛吉の父は、関氏第17代当主・関盛信(-1593年)である 11 。彼は伊勢の国人領主として、近江の六角氏に属し、その重臣であった蒲生定秀の娘を正室に迎えるなど、巧みな婚姻政策によって勢力を維持・拡大していた 13 。
しかし、永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢への侵攻を開始すると、関氏の運命は大きく転換する。盛信は、神戸氏をはじめとする一族が次々と信長に降伏する中で、最後まで抵抗を続けた気骨ある武将であった 10 。だが、圧倒的な織田軍の力の前に抗しきれず、最終的には信長に降伏した。
降伏後、盛信は信長の三男で神戸家の養子となった神戸信孝(後の織田信孝)の配下に組み込まれた。しかし、元来独立性の高い国人領主であった盛信と、信長の威光を背景に持つ信孝との関係は良好とは言えず、両者の間には不和が生じた 10 。この関係悪化が信長の耳に入り、元亀4年(1573年)春、盛信は信長の勘気を蒙り、身柄を義兄弟である蒲生賢秀に預けられ、近江日野城に幽閉されるという屈辱を味わうこととなる 10 。
盛信が再び亀山城主として返り咲くのは、天正10年(1582年)の本能寺の変の後である。信長の死によって織田家の支配体制が崩壊すると、盛信は許されて本拠地に戻り、以後は天下統一の事業を引き継いだ羽柴秀吉に仕え、蒲生氏郷の与力大名としてそのキャリアを再開した 10 。
盛吉の兄である関一政(1564-1625年)は、盛信の次男として生まれた 6 。彼は当初、比叡山に入り僧籍にあったが、後に還俗して家督を継ぐ嫡男として扱われるようになる 6 。これは、本来の嫡男であった長兄・盛忠が、天正2年(1574年)の長島一向一揆討伐戦において、蒲生賢秀に従い討死したためと考えられる 8 。盛吉には、この一政の他に、一利や氏俊といった兄弟がいたことが記録されている 1 。
この関家の家督相続を巡っては、注目すべき伝承が残されている。それは、関家の後継者たるべき者は身体に「副乳頭」(乳房が四つある)を持つという特異な家憲が存在した、というものである 16 。『勢陽雑記』によれば、盛信は副乳頭を持たない次男の一政を溺愛するあまり、この家憲を破って後継者に指名しようとした。これに対し、副乳頭を持つ三男(盛吉本人か、あるいは「盛清」という別の兄弟か)を推す重臣・岩間八左衛門らが反発し、家中に深刻な不和の種が蒔かれたという 16 。
この伝承は、単なる奇異な話としてではなく、盛信による家督継承の進め方が、伝統的な慣習や家臣団の合意を軽視した強引なものであったことを象徴的に物語っている可能性がある。父の個人的な意向が、古くからの家憲や長幼の序といった原理よりも優先されたことへの反発は、家中に根深い対立構造を生み出した。この内部対立は、後に織田家が分裂し、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いの際に、関家が二つに割れる遠因となったとも記されている 10 。すなわち、盛信と一政が秀吉方に付いたのに対し、盛清(盛吉)とそれに同調する家臣団は柴田方に心を寄せていたというのである。関盛吉の青年期は、こうした一族内部の深刻な対立の中で形成された。この経験が、彼のその後の人生における主家の選択や、兄・一政との複雑な関係性に影響を与えたことは想像に難くない。
伊勢の名家に生まれた関盛吉が、歴史の記録にその名を現し始めるのは、織田信長の天下統一事業が最終段階に入った1570年代後半である。彼は父や兄とは異なる道を歩み、まずは柴田家の陣営で武将としての第一歩を踏み出した。
関盛吉の武将としてのキャリアは、織田家の筆頭宿老・柴田勝家の養子である柴田勝豊に仕官したことから始まる 1 。この時の知行は1,000石であったと記録されている 1 。主君となった勝豊は勝家の甥にあたり、実子のいなかった勝家の養子となっていた 17 。天正4年(1576年)頃、勝家が越前一国を与えられて北ノ庄城主となると、勝豊もそのうち4万5,000石を分与され、越前丸岡城主となった 3 。盛吉が勝豊に仕えたのは、この時期であったと推測される。父・盛信が信長の命で近江に蟄居させられていた時期であり、盛吉が父兄と行動を共にせず、独立した道を模索していた状況が窺える。
盛吉が参戦した具体的な戦闘として、最初に記録されているのが天正7年(1579年)の加賀一向一揆との戦いである 1 。加賀国(現在の石川県)は、長享2年(1488年)以来、本願寺門徒が守護大名を追放し、「百姓の持ちたる国」として約100年間にわたり独自の支配体制を築いていた 18 。信長はこの強大な抵抗勢力の鎮圧を、北陸方面軍司令官であった柴田勝家に命じていた。盛吉が参戦した天正7年は、この長く続いた戦いの最終局面にあたり、勝家が一揆勢の主だった者たちを捕らえ、その支配を終焉させつつあった時期である 20 。盛吉も勝豊の配下として、この熾烈な戦いの一翼を担い、武将としての経験を積んだのであった。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、織田家の権力構造は激変する。信長の後継者を決める清洲会議の結果、盛吉の主君・勝豊は近江長浜城主に任じられた 2 。しかし、この頃から養父である勝家との関係が悪化する。勝家が同じ養子である柴田勝政を優遇し、勝豊を冷遇したことなどが原因であったとされる 3 。
この不和を好機と見た羽柴秀吉は、同年12月、大軍を率いて長浜城を包囲する。雪深い越前にいた勝家は援軍を送ることができず、孤立した勝豊は、秀吉の調略に応じて戦わずして城を明け渡し、降伏した 3 。これにより、勝豊は養父・勝家と袂を分かち、秀吉方に寝返ったのである。この主君の劇的な寝返りは、その家臣であった盛吉の立場にも決定的な影響を及ぼした。仕官して間もなく、主君が主家(柴田勝家)に反逆するという、織田家臣団の分裂を象徴するような事態に直面したのである。
この時代の大きなうねりは、盛吉に自己の進退を真剣に考えさせたに違いない。勝豊は秀吉に降ったものの、翌天正11年(1583年)4月16日、賤ヶ岳の戦いの直前に病死してしまう 2 。主君を失った盛吉は、新たな仕官先を探さねばならなくなった。彼が柴田方に戻るという選択をせず、最終的に秀吉麾下の武将である蒲生氏郷に仕える道を選んだ背景には、父・盛信と兄・一政が既に秀吉方として活動していた事実が大きく影響していると考えられる 10 。この一連の動きは、盛吉が単に主君に盲従するのではなく、一族全体の利害や天下の趨勢を冷静に見極め、自らの生き残りをかけて主体的に行動していたことを示唆している。柴田家から離れ、時代の勝者となりつつあった秀吉陣営に身を投じるという決断は、彼のその後のキャリアにおける大きな転機となった。
柴田勝豊の死により新たな主君を求めた関盛吉は、豊臣政権下で最も輝かしい武将の一人とされる蒲生氏郷の門を叩いた。この選択は、彼の生涯において最も実り多い時代への扉を開くことになる。氏郷という稀代の将の下で、盛吉はその武才を存分に開花させ、一介の陪臣から城代という重責を担うまでに飛躍を遂げた。
盛吉が次に仕えた蒲生氏郷(1556-1595年)は、織田信長の娘婿であり、その才能を信長自身に見出された人物であった 22 。彼は勇猛果敢な武将であると同時に、千利休の高弟「利休七哲」に数えられる一流の文化人でもあり、知勇兼備の将として内外にその名を知られていた 22 。
盛吉は、この氏郷の家臣団に加わると、早速その能力を発揮する機会を得る。天正14年(1586年)から翌15年(1587年)にかけて行われた豊臣秀吉による九州征伐において、氏郷軍の一員として従軍し、武功を挙げたと記録されている 1 。この戦役で氏郷は、前田利長と共に先鋒部隊を率い、難攻不落とされた島津方の岩石城をわずか一日で攻略するなど、目覚ましい活躍を見せており 24 、盛吉もその中で確かな働きをしたものと考えられる。続く天正18年(1590年)の小田原征伐にも、氏郷の配下として参陣した蓋然性が高い 25 。
小田原征伐によって後北条氏が滅亡し、豊臣秀吉による天下統一が完成すると、日本の権力地図は再び大きく塗り替えられた。秀吉は、奥州の伊達政宗ら有力大名を牽制するため、最も信頼する武将の一人であった蒲生氏郷を、伊勢松坂から会津92万石という破格の領地へ移封した 22 。これは、氏郷に対する秀吉の絶大な信頼の証であった。
関盛吉もまた、主君・氏郷に従って会津へと移った 1 。当時の奥州は、秀吉の仕置に不満を持つ勢力による一揆が頻発しており、予断を許さない状況にあった。天正18年(1590年)の葛西・大崎一揆や、翌19年(1591年)の九戸政実の乱など、大規模な反乱が相次いで発生した 28 。氏郷はこれらの鎮圧に奔走し、盛吉もその軍の中核として戦ったと考えられる。
これらの戦功が認められ、盛吉は氏郷から陸奥国猪苗代城の城代に任命され、7,000石という高禄を与えられた 1 。これは、柴田勝豊に仕えていた時代の1,000石から実に7倍となる破格の待遇であった。猪苗代城は、会津若松城の東方を守る極めて重要な支城であり 30 、この地を任されたことは、盛吉が氏郷から軍事的にも行政的にも深い信頼を得ていたことを物語っている。『新編会津風土記』には、後の蒲生秀行の時代に「関十兵衛」が猪苗代城代を務めたという記録が残っており、これが盛吉を指すものと考えられている 4 。
この盛吉の目覚ましい出世は、蒲生氏郷の家臣団運営の方針と深く関わっている。氏郷は会津への大領移封に伴い、従来の譜代家臣だけでは広大な領国を治めることができないため、身分や出自を問わず、有能な人材を積極的に登用した 32 。彼は家臣に対し、「知行(俸禄)と情とは車の両輪、鳥の翅(はね)の如し」と語り、働きに見合った報酬と、家臣への細やかな配慮の両方が不可欠であると考えていた 33 。また、自らが「銀鯰尾兜」を被って常に先陣を切るという逸話に象徴されるように、何よりも戦場での武勇を重んじるリーダーであった 34 。
このような実力主義の環境下で、盛吉は一介の陪臣から7,000石の城代へと大出世を遂げた。これは、彼が単に縁故で用いられたのではなく、九州から奥州へと続く数多の戦場で、主君が求める武功を実際に挙げ、その信頼を自らの力で勝ち取った実力者であったことを何よりも雄弁に物語っている。関盛吉の生涯における最盛期は、間違いなくこの蒲生氏郷に仕えた時代であった。彼のキャリアは、戦国末期の流動的な社会において、個人の実力が如何に武士の運命を左右したかを示す好例と言えよう。
栄華を極めた蒲生氏郷の時代は、しかし長くは続かなかった。文禄4年(1595年)、氏郷の早すぎる死は、蒲生家、そしてその家臣であった関盛吉の運命を再び暗転させる。主家の混乱と弱体化、そして兄・一政の改易という度重なる不運の中、盛吉は武士としての生き残りをかけた、さらなる流転の道を歩むこととなる。
文禄4年(1595年)、主君・蒲生氏郷が京都伏見の屋敷で40歳の若さで急死した 5 。家督は、わずか13歳の嫡男・秀行が継いだが、あまりに若年の当主では、氏郷というカリスマ的指導者の下で辛うじて結束していた巨大な家臣団を統率することはできなかった 5 。
案の定、家臣団内部では、氏郷が新たに登用した家臣たち(蒲生郷安ら)と、日野以来の譜代家臣たち(町野繁仍ら)との間で深刻な対立が表面化し、遂には刃傷沙汰にまで発展する「蒲生騒動」が勃発した 5 。この内紛は豊臣秀吉の耳にも達し、事態を重く見た秀吉は裁定に乗り出す。その結果、慶長3年(1598年)、「御家の統率がよろしくない」として、蒲生家は会津92万石から下野国宇都宮12万石へと、実に80万石もの大幅な減封処分を受けることになった 5 。
この大減封により、蒲生家は氏郷時代に抱えていた多くの家臣を養うことが不可能となり、大規模な人員整理を余儀なくされた 38 。この混乱の中、7,000石の猪苗代城代であった盛吉もまた、蒲生家を離れるという決断を下し、当時信濃国飯山3万石の大名であった兄・関一政の許へと身を寄せた 1 。
この盛吉の退去は、単なる主家への不忠義と断じることはできない。当時の状況を鑑みれば、それは極めて現実的な生存戦略であったと解釈できる。同時代の武将である細川忠興は、蒲生家の度重なる内紛体質を「槌が軽くて楔の打ち方がなっていない」と手厳しく評しており 5 、氏郷という強力な求心力を失った組織の将来性に、多くの家臣が見切りをつけたとしても不思議ではない。盛吉は、弱体化した主家に見切りをつけ、大名として確固たる地位を築いていた兄・一政という、血縁に基づいた最も確実なセーフティネットを頼ったのである。これは、戦国武士が理想としての「忠義」と、一族の生活を守るという「現実」との間で、常に厳しい選択を迫られていたことを示す一例である。
兄・一政の許に身を寄せた盛吉は、しばしの安息を得たかに見えた。一政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、当初は西軍に属して犬山城を守備するも、途中で東軍に寝返り、本戦では井伊直政隊に属して武功を挙げた 6 。この功により、戦後は徳川家康から旧領である伊勢亀山への復帰を許され、さらに慶長16年(1611年)には伯耆国黒坂5万石の大名へと栄転した 6 。盛吉も兄の家臣として、これらの領地を転々としたと考えられる 1 。
一政は、慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参陣し、冬の陣・夏の陣ともに京橋口の攻防で首級を挙げるなどの活躍を見せた 6 。しかし、その武功も虚しく、元和4年(1618年)7月、一政は突如として幕府から改易、すなわち所領を全て没収され、大名の地位を失った 6 。
その理由は「家中内紛」とされているが 6 、この内紛の具体的な内容を記した史料は乏しく、詳細は不明である 6 。一説には後継者を巡る争いが原因とも言われるが 42 、大坂の陣が終結し、世が安定に向かう中で、幕府が外様大名に対する統制を強化する一環として、些細な問題を口実に改易に追い込んだ可能性も指摘されている 43 。いずれにせよ、この兄の改易により、盛吉は再び主君を失い、浪人の身に転落した。
兄の改易という、一族にとって最大の危機に直面した盛吉であったが、彼の武将としての人生はまだ終わらなかった。浪人となった彼は、江戸幕府の老中、後には大老にまで上り詰めた当代随一の実力者・土井利勝の食客として迎えられたのである 1 。
土井利勝は、徳川家康の落胤ではないかとの説もあるほど将軍家の信頼が厚く、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の治世を支えた幕政の中枢人物であった 45 。その利勝の食客となることは、単に生活の糧を得る以上の意味を持っていた。それは幕府からの公的な庇護を得ることであり、改易された大名の一族にとっては望みうる最高の待遇であった。
一介の浪人に過ぎない盛吉が、いかにして幕府最高首脳である利勝の知遇を得ることができたのか、その経緯は明らかではない。考えられる可能性としては、蒲生氏郷の家臣として各地を転戦した盛吉の武名や実務能力が、人材を求める利勝の耳に達していたこと、あるいは兄・一政の改易の過程で利勝と何らかの接触があり、その際に盛吉の身柄が引き受けられたことなどが推測される。利勝は、家禄の多寡にかかわらず有能な人材を登用する柔軟な方針を持っていたとされ 47 、盛吉のこれまでのキャリアが評価された可能性は十分にある。
この土井利勝からの庇護は、次章で述べる関家の家名存続に、間接的ながら極めて重要な役割を果たしたと考えられる。改易された大名の一族が、大老の食客として遇されているという事実は、幕府の裁定において決して無視できない要素であったはずだ。土井利勝の食客となったことは、盛吉の卓越した処世術の集大成であり、彼の武将としての能力と評判が、主家を失った後もなお社会的な価値を持ち続けていたことの力強い証左である。この最後の仕官先が、一族の危機を救い、その血脈を未来へと繋ぐための決定的な布石となったのである。
関盛吉自身の晩年は謎に包まれているが、彼の存在が関家の血脈を未来へ繋ぐ上で決定的な役割を果たしたことは間違いない。兄・一政の改易という絶体絶命の危機を乗り越え、関家はその名跡を江戸時代を通じて保ち続けた。その背景には、盛吉とその息子・氏盛の存在があった。
元和4年(1618年)、伯耆黒坂5万石の大名であった関一政は「家中内紛」を理由に改易された 6 。通常、改易は家の断絶を意味する厳しい処分であるが、関家は完全な断絶を免れた。幕府は、一政の養子となっていた関氏盛に対し、近江国蒲生郡内に新たに5,000石の知行地を与え、将軍に直接仕える旗本(寄合席)として家名の存続を認めたのである 6 。
この関氏盛こそ、関盛吉の長男であった 1 。つまり、兄・一政の家は改易されたものの、その家督を継ぐべき立場にあった養子(=盛吉の子)が旗本として取り立てられることで、関家の血筋は存続を許されたのである。これは、江戸幕府初期に見られた大名統制策の一環と見ることができる。幕府は、武家諸法度違反や内紛などを理由に多くの大名を取り潰す一方で、その一族に小禄を与えて旗本として存続させることで、大量の浪人が発生し社会不安が増大することを防ぎ、武士階級の不満を和らげるという巧みな懐柔策を用いていた 49 。盛吉が幕府の大老・土井利勝の食客となっていたことも、この温情的な措置が下される上で有利に働いた可能性は高い。
旗本となった氏盛は、幕府への忠誠を尽くした。寛永17年(1640年)には久能山東照宮の造営奉行を、その後も日光輪王寺の堂宇の造営や、幕府の御座船である安宅丸の修補奉行などを歴任し、その役目を果たした 48 。
関氏盛の跡は子の長盛が継ぎ、その子孫は代々、近江国蒲生郡中山(現在の滋賀県蒲生郡日野町中山)に陣屋を構え、5,000石の旗本として明治維新を迎えるまで家名を伝えた 1 。現在でも、この中山陣屋跡を偲ぶ御城印が発行されるなど、その歴史は地域に記憶されている 51 。
さらに、関家の血脈は他家にも受け継がれている。盛吉の娘の一人は、同じく旗本であった大河内重綱の正室となり、その間に生まれた子・信久を通じて、大河内家にもその血を伝えた。この系譜は詳細に記録されており、盛吉から始まる血筋が幾重にもなって後世に繋がっていったことが確認できる 1 。
以上の生涯の軌跡から、関盛吉の人物像を以下のように再構築することができる。
第一に、彼は 卓越した武勇と実務能力を備えた武将 であった。柴田家臣時代の1,000石取りから、蒲生氏郷の下で7,000石の城代へと大出世を遂げた事実は、彼が単なる縁故ではなく、戦場での確かな功績と、城代という要職をこなすだけの統治能力を兼ね備えていたことを示している。
第二に、 時代の潮流を読む鋭い洞察力と、それを活かす処世術 に長けていた。主家が次々と変転し、崩壊していく激動の時代にあって、彼は常に有力な主君や庇護者を見出し、生き残りを図った。特に、兄の改易という最大の危機の後に、幕政の最高実力者である土井利勝の食客となったことは、彼の持つ人脈構築能力や、自身の価値を的確に売り込む能力の高さの証明に他ならない。
第三に、 結果として一族の存続に最大の貢献を果たした人物 であった。兄・一政の家が大名としては断絶の危機に瀕した際、皮肉にもその家督を継ぐべき立場にあったのが、盛吉の子・氏盛であった。盛吉自身の流転の生涯が、結果的に関家の血脈を旗本として江戸時代へと繋ぐ、最大の要因となったのである。
しかし、その生涯の最後は謎に包まれている。土井利勝の食客となった後の足跡は史料上確認できず、没年も墓所の所在地も伝わっていない 1 。これは、歴史の表舞台から静かに消えていった、多くの中級武士たちの運命を象徴しているとも言える。息子の氏盛の墓は東京都台東区下谷の広徳寺に現存するが 48 、その過去帳や墓石に、父・盛吉に関する記録を見出すことはできない 52 。彼は自らの役割を終えた後、歴史の記録からその姿を消したのである。
関盛吉の生涯は、戦国時代の終焉と江戸幕藩体制の確立という、日本史上最も大きな社会変革期を生きた中級武士の姿を、典型的に映し出している。彼は、織田信長の天下布武、豊臣秀吉の統一事業、そして徳川幕府の成立という巨大な政治的うねりの中で、主君を変え、知行を変え、身分を変えながらも、武士としての矜持と一族の存続をかけて巧みに立ち回った。
彼の人生は、大名として領国を経営するような華々しい成功物語ではない。むしろ、主家の内紛に翻弄され、主君の死や改易によって何度も浪人の身となるなど、苦難の連続であった。しかし、彼はその度に卓越した生存能力を発揮し、最終的には幕府中枢との繋がりを確保するという最善の道を見出した。そして結果として、彼自身の息子が家名を継ぎ、一族の血脈を旗本として後世に残すことに成功した。この一点において、彼の生涯は紛れもなく「成功」であったと評価することができよう。
生没年不詳という事実は、彼のような立場にあった数多の武士たちの記録が、歴史の奔流の中に埋もれやすいことを示している。しかし、残された断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、その行間を読み解くことで、乱世を渡り歩いた一人の武将の、強かで、そして人間味あふれる実像を浮かび上がらせることができる。関盛吉の生涯は、歴史の主役ではない人々の生きた軌跡を追うことの重要性と、その奥深さを我々に教えてくれる。今後の更なる史料の発見と、それに基づく研究の進展が待たれるところである。