阿曾沼広郷は遠野阿曾沼氏の最盛期を築いたが、小田原不参で南部氏配下となり独立性を失う。この決断が息子の代の遠野騒動を招き、一族没落の遠因となった。天下統一期に翻弄された地方領主の典型。
陸奥国遠野(現在の岩手県遠野市)の地に、鎌倉時代の黎明期から約四百年という長きにわたり君臨した名門豪族、阿曾沼氏。その永続した支配体制の終焉は、奇しくも一族の歴史において「傑出した人物」と評される第十三代当主・阿曾沼広郷の時代に決定づけられた 1 。本報告書は、阿曾沼広郷という一人の武将の生涯とその決断を主軸に据え、一族がたどった栄光と悲劇の全貌を、史料に基づき多角的な視点から徹底的に解明するものである。
広郷は、内政を充実させ、近隣勢力に軍事侵攻を試みるほどの器量と野心を持ち合わせていた 1 。しかし、その彼がなぜ、豊臣秀吉による天下統一という時代の潮流を乗りこなすことができず、結果として一族を没落への道へと導いてしまったのか。この問いに対する答えは、単に広郷個人の資質や判断ミスに帰結するものではない。その背景には、個人の力を超越した時代の大きなうねりと、中央の政情から隔たった奥州という辺境の地が抱える、極めて複雑な力学が存在した。本報告書では、この中心的な問いを羅針盤とし、阿曾沼氏の興亡の軌跡を詳細に追っていく。
遠野阿曾沼氏の歴史は、平安時代中期の武将、鎮守府将軍・藤原秀郷にまで遡る。秀郷を遠祖とする藤姓足利氏の一族であり、その流れを汲む足利有綱の四男・四郎広綱が阿曾沼氏の始祖である 1 。広綱は下野国安蘇郡阿曽沼郷(現在の栃木県佐野市浅沼町)を本貫とし、阿曾沼姓を名乗った 1 。
日本の歴史が大きく動いた治承・寿永の乱(源平合戦)において、阿曾沼氏は重大な岐路に立たされる。本家にあたる藤姓足利氏の当主・足利俊綱が平家方に与したのに対し、広綱は父・有綱や兄の佐野基綱らと共に、いち早く源頼朝の麾下に参じたのである 6 。この的確な情勢判断と決断が、一族を鎌倉幕府の有力御家人としての地位へと押し上げ、その後の四百年にわたる繁栄の礎を築くこととなった。
文治五年(1189年)、源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼすべく、大軍を率いて奥州合戦を開始する。阿曾沼広綱もこの戦いに従軍し、軍功を挙げた。その恩賞として頼朝から与えられたのが、陸奥国閉伊郡遠野保、すなわち「遠野十二郷」とも称される広大な土地の地頭職であった 1 。この時をもって、下野国の武士団・阿曾沼氏と、遠野の地との間に四世紀にわたる固い結びつきが生まれたのである。
当初、広綱の嫡男・朝綱は下野国の本領を継承し、その弟である親綱が陸奥国遠野保を受け継いだ 6 。しかし、鎌倉時代初期においては、一族の当主が直接遠野へ下向して統治を行うのではなく、本拠地の下野から代官を派遣して所領経営を行う、という形態がとられていたとみられている 4 。これは、全国に散在する所領を遠隔支配するという、当時の鎌倉御家人に典型的な統治方法であった。
阿曾沼一族が、単なる所領としてではなく、生活と支配の拠点として遠野の地に根を下ろすようになるのは、十四世紀の南北朝時代に入ってからと推測されている 4 。それ以前の建保年間(1213年~1219年)には、親綱が遠野盆地に横田城を築いたとの伝承も残っており、徐々に在地領主化への道を歩み始めていたことが窺える 6 。
建武元年(1334年)には、南朝方の重鎮である陸奥国司・北畠顕家から遠野保の所有を正式に認められるなど 6 、中央の動乱を巧みに乗りこなしながら、阿曾沼氏は遠野における支配権を盤石なものとしていった。こうして、下野国から来た外来の領主は、長い年月を経て完全に在地化し、戦国時代に至るまで遠野に君臨する国人領主としての地位を確立したのである。
この一族の発展を理解する上で、始祖・広綱の子である親綱が、承久の乱(1221年)の軍功により安芸国世能荘(現在の広島県広島市安芸区)の地頭職をも得ていた事実は見逃せない。こちらに土着した分家が、後に毛利氏の家臣となる安芸阿曾沼氏である 6 。同じ一族から分かれながら、遠野と安芸という全く異なる風土と政治環境の中で、それぞれが国人領主として独自の歴史を歩んでいく。この分岐は、鎌倉幕府の恩賞政策が、後世の地方勢力図をいかに規定していったかを示す、興味深い事例と言えよう。
世代 |
当主名 |
続柄・通称 |
主要な出来事・備考 |
初代 |
阿曾沼 広綱 |
四郎 |
文治五年(1189年)、奥州合戦の功により遠野保地頭職を得る。遠野阿曾沼氏の祖 6 。 |
2代 |
阿曾沼 親綱 |
次郎 |
広綱の子。遠野保を継承。安芸国世能荘も拝領し、安芸阿曾沼氏の祖ともなる 6 。 |
... |
(中略) |
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南北朝期に遠野へ土着し、在地領主化を進める 4 。 |
12代 |
阿曾沼 親広 |
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広郷の父。 |
13代 |
阿曾沼 広郷 |
孫次郎 |
天正年間に鍋倉城を築城し、一族の最盛期を現出。小田原不参により南部氏配下となる 6 。 |
14代 |
阿曾沼 広長 |
孫三郎 |
広郷の子。慶長五年(1600年)の「遠野騒動」により領地を追われ、嫡流は断絶 1 。 |
- |
倉堀 義政 |
隼人 |
広郷の子、広長の兄弟と伝わる。遠野騒動後、倉堀姓に改め遠野に潜んだとされる 16 。 |
- |
鱒沢 広勝 |
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阿曾沼氏の庶流。鱒沢城主。遠野騒動の首謀者 6 。 |
天正年間(1573年~1592年)のはじめ、遠野阿曾沼氏の第十三代当主として歴史の表舞台に登場したのが阿曾沼広郷である。彼は、四百年にわたる一族の歴史の中でも、特に武勇と統治能力に優れた「傑出した人物」として、後世の記録にその名を留めている 1 。広郷が采配を振るったこの時代、遠野阿曾沼氏はまさにその勢力の頂点を極めることとなる 4 。
広郷の治世における最大の事業の一つが、本拠地の移転であった。彼は、鎌倉時代以来の居城であった横田城(現在の遠野市松崎町光興寺)を離れ、遠野盆地を見下ろす要害の地、鍋倉山に新たな城を築いたのである 4 。この新城は、当初は旧名を引き継いで「横田城」と呼ばれたが、後に阿曾沼氏を追放した南部氏によって「鍋倉城」と改称されることになる 4 。
城の移転理由として、旧来の横田城が猿ヶ石川の氾濫による水害に度々見舞われたことや、勢力拡大に伴い手狭になったことが挙げられている 17 。しかし、この事業は単なる防災対策や規模の拡大に留まるものではなかった。平地に近く防衛上の弱点があった旧城に対し、鍋倉城は市街地を一望できる堅固な山城であり、領民や周辺の国人衆に対して領主の権威を視覚的に誇示する「見せる城」としての機能も意図されていた。これは、広郷が戦国末期の最新の城郭思想を理解し、それを自らの領国経営に活かそうとした、先進的な領主であったことを物語っている。この鍋倉城の遺構は、中世山城の姿を極めて良好に留めていることから、今日では国の史跡に指定され、その歴史的価値が高く評価されている 18 。
内政を固め、新たな拠点を得た広郷は、その力を背景に、近隣勢力への積極的な軍事行動を展開する。その最も象徴的な事例が、大大名・葛西氏の領地であった岩谷堂城への侵攻である 1 。
当時、岩谷堂城主であった江刺重恒の家中では内紛が生じており、広郷はその好機を捉えて兵を動かした。この侵攻作戦自体は、江刺氏の頑強な抵抗に遭い、最終的には夜陰に乗じて兵を引き上げるという、成功とは言い難い結果に終わった 1 。しかし、この一件は、当時の遠野阿曾沼氏が、奥州の有力大名である葛西氏の領土にさえ野心を抱き、軍事介入を行うほどの勢威を誇っていたことを如実に示している。それは広郷の武将としての野心と、それを支えるだけの国力が阿曾沼氏に備わっていたことの証左であった。だが同時に、この侵攻の失敗は、阿曾沼氏の国力には自ずと限界があったことも示唆している。この、周辺の大勢力と完全に対等に渡り合うには至らないという現実が、後の天下統一の時代における彼の苦しい立場を予兆していたとも言えるだろう。
天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。中央では豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして、関東に覇を唱える北条氏を討つべく、未曾有の大軍を動員する「小田原征伐」を開始した 26 。秀吉は奥州の諸大名に対しても、この戦いへの参陣を厳命。これに応じるか否かが、各大名の存亡を左右する踏み絵となった。
一方、その頃の奥州では、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、破竹の勢いでその版図を拡大していた 27 。阿曾沼氏のような中小の国人領主たちは、西から迫る豊臣の巨大権力と、北から伸長する伊達の脅威という、二つの大きな圧力の間に置かれ、極めて困難な舵取りを迫られていたのである。
この歴史的な大動員に対し、阿曾沼広郷は参陣しないという決断を下した 1 。この不参が、鎌倉以来四百年にわたって独立を保ってきた遠野阿曾沼氏の運命を、決定的に変えることになる。
なぜ広郷は参陣しなかったのか。その理由については、複数の見解が存在する。
一つは、後世の評価として一般的な「天下の形勢の見誤り」という説である 1 。秀吉の権力と天下の趨勢を過小評価し、奥州の辺境にあって中央の動向に疎かったが故の判断ミスであった、とする見方だ。
しかし、当時の阿曾沼氏が置かれた状況を深く考察すると、この見方はあまりに一面的であると言わざるを得ない。より説得力を持つのが、「動きたくても動けなかった」とする地域事情説である 1 。江戸時代に阿曾沼氏の後裔によって書かれた『阿曾沼興廃記』などの記録によれば、当時の広郷は、一族内の有力者である鱒沢城主・鱒沢氏と激しく対立しており、領内は常に緊張状態にあった 4 。もし広郷が精鋭を率いて遠く小田原まで出兵すれば、その不在を突いて鱒沢氏や他の敵対勢力が蜂起し、本拠地である遠野を奪われる危険性が極めて高かったのである 4 。すなわち、広郷の不参は、天下の情勢に対する無知や楽観から来た「失策」ではなく、目の前に差し迫った領国崩壊の危機を回避するための、苦渋に満ちた現実的な「選択」であった可能性が高い。彼にとって、遠い中央の権威に従うことよりも、足元の領地を守ることの方が、より喫緊の課題だったのである。
天正十八年七月、小田原城は開城し、北条氏は滅亡した。秀吉はすぐさま奥州へ軍を進め、参陣しなかった大名に対する厳格な処分、いわゆる「奥州仕置」を断行した 30 。
この時、阿曾沼広郷も本来であれば改易、すなわち領地没収の処分を受けるはずであった。しかし、秀吉の家臣であった蒲生氏郷が、阿曾沼氏と祖先を同じくする縁からとりなしたことにより、改易という最悪の事態だけは免れたと伝えられる 4 。だが、その代償は大きかった。広郷は独立した大名としての地位を剥奪され、北隣の有力大名である南部信直の配下、すなわち「与力大名」となることを命じられたのである 4 。
これは、単に南部氏の指揮下に入るという軍事的な従属を意味するだけではなかった。鎌倉幕府の成立以来、遠野の地で独立した領主として君臨してきた阿曾沼氏の歴史が、事実上ここで終焉を迎えたことを意味していた。秀吉の奥州仕置は、奥州に根強く残っていた中世的な国人領主の独立性を解体し、彼らを豊臣政権を頂点とする近世的な大名・家臣団のピラミッド構造へと強制的に組み替える、巨大な社会変革であった。広郷の悲劇は、まさしくこの歴史の大きな構造転換の波に、否応なく飲み込まれていった地方領主の運命を象徴するものであった。
南部氏の与力大名という不本意な地位に甘んじた後、阿曾沼氏の家督は広郷の子である孫三郎広長(第十四代)へと引き継がれた 1 。広長が当主となった時代は、豊臣秀吉の死後、再び天下が大きく揺れ動く不穏な空気に満ちていた。
慶長五年、徳川家康と石田三成の対立はついに天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。これに連動し、東北地方では「北の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦が勃発した。徳川方に与した南部利直は、上杉景勝を討つべく最上(現在の山形県)へ出陣。阿曾沼広長もまた、南部軍の一員としてこの戦いに従軍した 4 。
当主・広長が領地を留守にするという、この絶好の機会を狙っていた者がいた。かねてより宗家と対立していた一族の鱒沢城主・鱒沢広勝である。広勝は、鍋倉城の留守居役であった上野広吉、平清水平右衛門らと共謀して謀叛を起こし、主君の居城である鍋倉城をいとも容易く乗っ取ってしまった 4 。世に言う「遠野騒動」の勃発である。
この遠野騒動は、単なる阿曾沼一族の内紛劇であったのか、それともその背後で、宗主である南部氏が糸を引いていたのか。歴史的評価は大きく分かれている。
南部氏が黒幕であったとする説の根拠は、謀叛の首謀者・鱒沢広勝が南部利直の妹を妻としていたとされ、南部氏と極めて密接な関係にあった点である 17 。南部氏にとって、与力とはいえ遠野に依然として大きな勢力を持つ阿曾沼氏は、自領の安定を脅かす潜在的な脅威であり、目障りな存在であった。この機に乗じて阿曾沼氏を完全に排除し、遠野を直轄領化しようと企てたという見方は、状況証拠から見て極めて説得力が高い 1 。
一方で、「阿曾沼氏は終始南部氏に従順で、その意に逆らったという証跡はない」という慎重な見解も存在する 1 。この立場に立てば、南部氏が積極的に謀叛を画策したというよりは、阿曾沼氏の内部対立を好機と捉えて巧みに利用し、結果として「漁夫の利」を得た、と解釈することも可能である。直接手を下さずとも、鱒沢氏の動きを黙認、あるいは陰で支援することで阿曾沼氏の自滅を誘い、最小限の労力で遠野を手中に収めるという、より高度な政治戦略であったとも考えられる。
出陣先で自らの城が奪われたという凶報に接した広長は、遠野へ戻ることができず、妻の実家である気仙郡の世田米城(現在の岩手県住田町)へと落ち延びた。彼は、隣接する伊達政宗の支援を取り付け、失われた領地の奪還を試みる 4 。
広長は伊達の援兵や気仙勢を率いて、三度にわたり遠野への帰還作戦を決行した 4 。その戦いの過程で、謀叛の張本人であった鱒沢広勝を討ち取るという一矢は報いたものの 17 、ついに本拠地・鍋倉城を奪い返すことはかなわなかった。一説によれば、広長の妻子は鍋倉城から逃れる途中で殺害されたと伝えられており、彼の悲しみは計り知れない 4 。
全ての望みを絶たれた広長は、伊達領に身を寄せ、世田米の地で悲憤のうちにその生涯を閉じたとされる 1 。これにより、源頼朝から続くこと四百年、遠野の地を治めた名門・阿曾沼氏の嫡流は、ここに完全に断絶したのである。この遠野騒動は、突発的に起きた事件ではない。その根源は、広郷の代から燻り続けていた一族内の対立と、小田原不参がもたらした南部氏への従属という、二つの歴史的要因に深く根差していた。広郷が小田原に行けなかった原因そのものが、時を経て息子の代に再燃し、一族を滅亡へと導いたという、皮肉な因果関係がそこには存在した。
阿曾沼氏の滅亡により、遠野の地は名実ともに南部氏の所領となった。関ヶ原の戦いで東軍に属して勝利に貢献した南部氏は、戦後処理において徳川家康から遠野の領有を正式に認められている 4 。
その後、寛永四年(1627年)、南部宗家は一門である八戸(根城南部)の南部直義を遠野へ移封した。これ以降、彼らは「遠野南部氏」と称され、盛岡藩の支藩的な立場で明治維新に至るまでこの地を統治することになる 17 。阿曾沼氏四百年の歴史は、こうして南部氏の支配へと完全に塗り替えられた。
主君・広長を裏切り、南部氏に与した鱒沢氏であったが、その栄華は長くは続かなかった。謀叛の首謀者であった広勝は広長の反撃によって討たれ、その子・広純もまた、後に謀叛の疑いをかけられて南部利直から切腹を命じられ、鱒沢氏は滅亡した 6 。これは、目的達成のために利用した協力者を、後の禍根とならぬよう冷徹に排除するという、近世大名の非情な論理を示す典型的な事例である。
嫡流は悲劇的な最期を遂げたが、阿曾沼氏の血脈そのものが完全に途絶えたわけではなかった。主家を失った一族は、それぞれが新たな時代を生き抜くための多様な道を探ることになる。
このように、一族の物語は「滅亡」という一言で終わるものではない。ある者は新たな主君を見つけて武士として生き、ある者は土に生きる道を選び、またある者は姓を変えて故郷に留まった。これらは、時代の大きな転換期に主家を失った武士たちが、いかにして自らの血と家名を後世に伝えようとしたかを示す、多様なサバイバル戦略の証左である。
阿曾沼氏の歴史、特にその滅亡の経緯に関する記録は、勝者である南部氏の視点から編纂されたものが多く、阿曾沼氏にとって不都合な事実は闇に葬られた可能性が高い 1 。そうした中で、江戸時代中期に阿曾沼氏の後裔である宇夫方広隆によって著された『阿曾沼興廃記』は、失われた側の視点から歴史を語り直そうとする、極めて貴重な史料である 6 。これらの異なる立場から書かれた史料を比較検討することによってのみ、歴史の勝者によって埋もれさせられた真実の姿に、我々はわずかでも近づくことができるのである。
阿曾沼氏が遠野の地に残した遺産は、物理的なものと精神的なものの二重構造で今日に伝えられている。その最も雄弁な物理的遺産が、彼らが築いた城の跡である。
阿曾沼氏の遺産は、石や土といった物理的な形だけでなく、人々の信仰や物語という精神的な形でも受け継がれている。
政治的な支配者としての一族は滅びた。しかし、彼らの存在は四百年という長い歳月を経て、遠野の文化や人々の心象風景の中に深く刻み込まれ、形を変えながら今なお生き続けている。阿曾沼氏の歴史的影響は、単なる郷土史の枠を超え、日本の民俗学や文学の世界にまで、その影を落としているのである。
阿曾沼広郷は、領国経営と軍事の両面において優れた能力を発揮した、疑いなく有能な戦国領主であった。彼が築いた鍋倉城の堅固な遺構は、その卓越した戦略眼を今に伝えている。しかし、彼が生きた時代は、地方の論理が中央の論理によって容赦なく飲み込まれていく、日本の歴史における巨大な転換期であった。
本報告書で詳述してきたように、広郷の「小田原不参」という決断は、単なる戦略ミスや時勢への無知として断じるべきではない。それは、西から押し寄せる豊臣政権という巨大な権力と、北で膨張する伊達氏の脅威、そして足元で燻る一族内の深刻な対立という、三つの抗いがたい奔流の狭間で、文字通り身動きが取れなくなった地方領主の、苦渋に満ちた最後の選択であったと再評価されねばならない。
阿曾沼氏の興亡史は、戦国時代から近世へと社会が移行する過程で、数多の地方豪族がたどった運命の縮図である。天下統一という華々しい歴史の光の陰で、何百年と続いた自立性を失い、新たな支配体制の中に再編されていった無数の地域権力の悲劇を、彼らの物語は雄弁に物語っている。阿曾沼広郷という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、日本の近世社会がいかにして形成されたのかを、中央からの視点ではなく、翻弄された地方の視点から理解するための、極めて重要な鍵となるのである。