最終更新日 2025-07-20

青山宗勝

青山宗勝の生涯 ― 丹羽家臣から豊臣大名へ、そして関ヶ原での没落

第一章:序論 ― 青山宗勝とは何者か

青山宗勝(あおやま むねかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてを生きた武将である。彼の名は、関ヶ原の戦いで西軍に与して没落した大名の一人として、歴史に留められている。しかし、その生涯を詳細に追うと、単なる敗将という一面的な評価では捉えきれない、時代の激流に翻弄されながらも主体的に生きた一人の武将の実像が浮かび上がってくる。

宗勝の経歴は、織田信長の重臣であった丹羽長秀の家臣として始まる。主家の栄光と浮沈を経験した後、天下人となった豊臣秀吉に見出され、越前丸岡城主として四万六千石を領する大名にまで昇り詰めた。これは、戦国乱世における立身出世の典型例と言える。だが、秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、豊臣家への恩義を胸に西軍に加担するという決断を下す。この一つの選択が、彼が築き上げた地位と所領の全てを失わせる結果となった。

本報告書は、青山宗勝という人物の生涯を多角的に検証し、その全体像を明らかにすることを目的とする。彼の出自を巡る謎、主君・丹羽家との強固な関係、豊臣政権下での飛躍の過程、そして運命を決定づけた関ヶ原での決断の背景を、現存する史料に基づいて丹念に読み解く。さらに、改易後の知られざる後半生と、彼の子孫たちが辿った運命にも光を当て、戦国末期から近世初期への移行期を生きた武士の栄光と悲劇を、宗勝という一人の人物を通して描き出す。

第二章:出自の謎と丹羽家臣時代

出自に関する諸説

青山宗勝の出自は、多くの史料において「未詳」と記されており 1 、その前半生は謎に包まれている。同時代には徳川譜代の青山氏や織田家臣の青山氏など、複数の同姓の氏族が存在するが 2 、宗勝の系統がこれらと直接的な関係にあったかを示す確たる証拠はない。しかし、断片的な記録から、いくつかの可能性を考察することができる。

最も有力視されるのは、父を青山正直(まさなお)とする系譜である 4 。正直は、はじめ稲田氏に仕えた後、丹羽長秀の家臣となった人物で、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、長秀によって丸岡城主に任じられたとされる 4 。宗勝が父の跡を継いで丹羽家に仕えたというこの説は、後代の編纂物に見られるものの、彼のキャリアの出発点として広く受け入れられている。

一方で、『丹羽歷代年譜附錄』には、宗勝を「戶田武藏守藤原勝成」と記す箇所も存在し、彼が戸田氏の一族であった可能性も示唆されている 6 。これが青山姓を名乗る以前の本来の姓であったのか、あるいは何らかの政治的理由で一時的に戸田姓を称したのかは不明であるが、彼の出自の複雑さを物語る一つの手がかりである。

丹羽長秀への仕官と初期の活動

いずれの出自であったにせよ、宗勝が丹羽長秀の家臣としてキャリアを歩み始めたことは確かである。天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と明智光秀が雌雄を決した山崎の戦いや、翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、主君・長秀に従い従軍したと考えられる 4 。賤ヶ岳の戦いの結果、柴田勝家が滅亡し、長秀が越前国を与えられると、青山家もそれに伴い越前に拠点を移した。前述の通り、この時期に父・正直が丸岡城主となっており、青山家は丹羽家臣団の中でも重要な地位を占めていたことが窺える。

丹羽長秀の娘・長清院との婚姻

宗勝の丹羽家における地位を決定づけたのが、主君・丹羽長秀の娘である長清院(ちょうせいいん)を継室として迎えたことである 4 。この婚姻は、単なる個人的な結びつきに留まらず、家臣団内における宗勝の地位を格段に高める政治的意味合いを持っていた。主君の娘を娶ることは、その家臣が絶大な信頼を得ている証左であり、宗勝を丹羽家の一門に準ずる「連枝」としての存在へと押し上げたのである。丹羽長重の妹(または姉)婿となったことで 8 、彼は家臣団の中核に近い存在となり、その後の発言力や序列に大きな影響を与えたと考えられる。

この強固な血縁関係は、後に豊臣政権下で宗勝が独立大名へと抜擢される際に、その能力と共に「丹羽長秀の縁者」という出自が有利に働いた可能性を示唆する。そして、この絆は、関ヶ原で全てを失った宗勝の子らが、最終的に丹羽家に再仕官するという結末に繋がる重要な伏線となる。家の没落後も、血縁に基づく縁は容易には切れなかったことの証左と言えよう。長清院は寛文8年(1668年)に94歳で没したと記録されており 4 、宗勝の死後も長く生き、一族の変遷を見守った。

第三章:豊臣政権下での飛躍

主家の減封と豊臣直臣への道

天正13年(1585年)、宗勝の人生に大きな転機が訪れる。主君・丹羽長秀が死去し、跡を継いだ長男・長重の代になると、丹羽家は秀吉の政策により、越前・若狭・加賀にまたがる広大な所領から若狭一国15万石へと大幅に減封された 9 。この主家の縮小に伴い、秀吉は丹羽家の有能な家臣たちを召し出し、自らの直臣として取り立てる政策を推し進めた。

青山宗勝もこの時に秀吉に見出された一人であり、丹羽家家臣という立場から、秀吉に直接仕える独立した大名(豊臣大名)へとその身分を大きく変えた 9 。当初、彼に与えられた所領は越前国内で2万石であった 1 。宗勝の経歴は、豊臣政権が旧来の主従関係を再編し、能力と忠誠を基準に新たな支配階級を構築したことを示す典型例と言える。織田政権下では丹羽家の家臣という立場に固定されていた宗勝が、秀吉の直接登用によって独立大名へと飛躍した事実は、彼の忠誠の対象が旧主から新たな天下人へと移行したことを意味する。この「豊臣恩顧」という立場が、後の関ヶ原における彼の政治的決断に決定的な影響を与えたと考察される。

豊臣大名としての功績

豊臣直臣となった宗勝は、秀吉の天下統一事業において着実に功績を重ねていく。

まず、天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し 4 、豊臣軍の一翼を担った。具体的な武功を記した記録は乏しいが、この大規模な軍事行動への参加は、大名としての重要な奉公であった。その後、秀吉の権力の象徴であった伏見城の建設工事(普請)を分担し、これも完遂している 4 。これらの軍役は、豊臣政権に対する忠誠を示す絶好の機会であり、宗勝は着実に評価を高めていった。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、嫡男の忠元が父の名代として参陣し、豊臣秀次(秀吉の甥)の麾下で600人の兵を率いている 13 。また、それに先立つ天正16年(1588年)、後陽成天皇を聚楽第に迎えた歴史的な行幸においては、秀吉の前駆を務めた記録も残っており 13 、彼が豊臣政権の中枢近くで奉公する存在であったことがわかる。

栄誉と加増

一連の功労により、宗勝は従五位下・修理亮(しゅりのすけ)に叙任され、秀吉から豊臣の姓を賜る栄誉に浴した 4 。これは、彼が名実ともに豊臣家の家臣団の一員として公に認められたことを意味し、その地位を不動のものとした。

宗勝に対する秀吉の信頼は厚く、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した際には、遺物として名刀「兼貞」を拝領している 4 。これは、秀吉が特に目をかけていた限られた大名にのみ与えられた栄誉であり、宗勝が「豊臣恩顧」の中でも特別な存在であったことの証左である。

そして、秀吉の死の直前、慶長3年(1598年)または翌4年(1599年)に、宗勝は越前丸岡城主となり、知行も4万6千石へと加増された 1 。これにより、彼は丹羽家の一家臣から、北陸に確固たる地盤を持つ大名へと、その生涯で最大の栄光を掴むに至った。

第四章:越前丸岡四万六千石の領主

丸岡城主就任

慶長3年(1598年)頃、青山宗勝は父・正直がかつて一時的に城主を務めた越前丸岡城に、4万6千石の大名として正式に入城した 5 。これにより、青山家は丸岡藩の初代藩主家と見なされることになる 15 。丸岡城は、天正4年(1576年)に柴田勝家の甥である勝豊によって築かれた平山城であり、宗勝はその歴史ある城の新たな主となったのである 17

太閤検地と青山宗勝の知行地

宗勝の領主としての具体的な統治の実態を示す貴重な史料として、慶長3年(1598年)に越前国で実施された太閤検地の記録が挙げられる。福井県立文書館に所蔵される「越前国御検地御前帳」によれば、宗勝の知行地として複数の村名が確認できる 18

文書番号

村名

所在地(推定)

1

丸岡村

坂井市丸岡町

10

浜坂村

坂井市三国町

26

金屋村

あわら市金屋

30

前谷村

あわら市前谷

表1:慶長三年越前国御検地における青山宗勝知行村(一部抜粋) 18

この記録は、宗勝の支配が単なる抽象的な石高ではなく、具体的な村落に及んでいたことを明確に示している。彼の所領が、居城である丸岡城周辺だけでなく、日本海に面した坂井郡の港町や、あわら市周辺の農村地帯にまで広がっていたことがわかる。これにより、彼の統治の地理的範囲を具体的に把握することが可能となる。

領内統治について

宗勝が丸岡城主であった期間は、慶長3年(1598年)から慶長5年(1600年)の改易までと、わずか2年余りであった。そのため、城下町の整備や新田開発といった大規模な内政事業に関する具体的な治績を記した記録は、現存する資料からは見出すことが困難である 9

しかし、太閤検地への対応は、当時の大名に課せられた極めて重要な統治行動であった。検地を受け入れ、領内の石高を確定させることは、豊臣政権が主導する統一的な支配体制に組み込まれることを意味し、安定した年貢収取体制の基礎を固める上で不可欠であった 19 。宗勝の短い治世は、領国経営の基盤を固める途上で、関ヶ原の動乱という時代の大きな渦に巻き込まれていった。大規模な領内開発に着手する時間は、彼には与えられなかったのである。

第五章:関ヶ原の戦いと西軍への加担

北陸情勢の緊迫

慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を名目に大軍を率いて東国へ向かうと、その隙を突いて石田三成らが大坂で挙兵し、豊臣家をないがしろにする家康を弾劾する檄文を諸大名に発した。これにより、天下は家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を名目上の総大将に戴く西軍に二分され、全面対決は避けられない情勢となった 20

この対立は、北陸地方においても深刻な緊張をもたらした。東軍の主力格であった加賀の前田利長は、家康の要請に応じて大軍を率いて南下し、関ヶ原の本戦に合流しようと図った。これに対し、西軍の首脳の一人であり、越前敦賀城主であった大谷吉継は、前田軍の南下を阻止し、北陸に釘付けにすることを最重要の戦略目標とした 21

大谷吉継の調略と宗勝の決断

大谷吉継は、敦賀に帰還すると、直ちに越前および加賀南部の諸大名に対し、西軍に味方するよう精力的な調略活動を開始した 22 。吉継の説得は功を奏し、加賀小松城主の丹羽長重(宗勝の義兄)、加賀大聖寺城主の山口宗永、そして越前丸岡城主の青山宗勝らが、次々と西軍への加担を表明した 21

宗勝の決断は、いくつかの要因が複合的に絡み合った結果と考えられる。第一に、彼が秀吉によって大名に取り立てられた「豊臣恩顧」であること。豊臣家を守るという西軍の挙兵の大義名分は、彼の心に強く響いたであろう。第二に、妻の実家である丹羽家をはじめ、周辺の有力大名が軒並み西軍に与したこと。地域全体の軍事バランスを考慮すれば、単独で東軍に与することは極めて困難であり、周囲と歩調を合わせることは合理的な選択であった。こうして宗勝は、息子の忠元と共に西軍の一員として、来るべき戦いに備えることとなった。

浅井畷の戦いと北陸戦線

8月、前田利長は2万5千の大軍を率いて金沢城を出発し、西軍方の諸城の攻略を開始した。まず山口宗永が守る大聖寺城を攻め落とし 24 、次いで丹羽長重が籠もる小松城へと進軍した。しかし、その最中、大谷吉継が海路から金沢城を攻撃するとの偽情報がもたらされ、利長は動揺の末、軍を金沢へ引き返すことを決断する 24

この撤退する前田軍を、丹羽長重の軍勢が小松城東方の浅井畷(あさいなわて)と呼ばれる湿地帯の細道で待ち伏せ、追撃した 21 。この戦いで前田軍は殿(しんがり)部隊が大きな損害を受け、辛うじて金沢への撤退を完了させた。

この一連の北陸戦線において、青山宗勝・忠元父子が浅井畷の直接的な戦闘に参加したという記録は見られない。しかし、彼らの役割は、丸岡城を固守し、前田軍の背後を脅かす「戦略的拠点」として機能することにあった。関ヶ原の戦いは、美濃での本戦だけでなく、各地で連動した局地戦(「もう一つの関ヶ原」)が同時に発生していた。大谷吉継の主目的は、前田利長の大軍を北陸に釘付けにし、関ヶ原の本戦場に到達させないことであった 26 。この大戦略を成功させるには、丹羽長重のような直接戦闘部隊だけでなく、宗勝をはじめとする西軍方大名がそれぞれの城に在城し、前田軍に「背後を突かれるかもしれない」という継続的な圧力をかけ続けることが不可欠であった。

結果として、前田利長は浅井畷の戦いの後、関ヶ原の本戦に参戦することができず、大谷吉継の戦略は完全に成功した。宗勝は、直接剣を交えることはなくとも、西軍の一員として自らに課せられた戦略的役割を全うしたのである。

第六章:改易、そして謎に包まれた晩年

西軍敗北と青山家の改易

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦において、小早川秀秋らの裏切りにより西軍は僅か半日で壊滅的な敗北を喫した。この報は直ちに全国に伝わり、各地で戦っていた西軍方の諸将の運命を決定づけた。

北陸戦線で前田利長を足止めするという戦略目標を達成した青山宗勝であったが、本戦の敗北により、その功績は水泡に帰した。戦後処理において、西軍に与した宗勝・忠元父子は、徳川家康によって所領四万六千石を全て没収(改易)された 11 。栄華を誇った越前丸岡城は、新たに越前一国の支配者となった家康の次男・結城秀康の所領となり、その家臣である今村盛次が新たな城主として入城した 9 。青山家は、大名としての地位を失い、路頭に迷うこととなった。

阿波徳島藩への寄食

改易後、宗勝は阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)を頼り、その客分として身を寄せたとされる 4 。この選択は、当時の武将社会の人間関係を考察する上で興味深い。妻の実家である丹羽家も西軍に与したため改易の危機に瀕しており、他者を庇護する余裕がなかった可能性が高い。一方で、蜂須賀家も宗勝と同じく豊臣恩顧の大名であり、秀吉の下で共に奉公する中で何らかの個人的な関係を築いていたと推測される 27 。関ヶ原後、多くの西軍敗将が、敵味方に分かれた旧知の大名を頼って助命や庇護を求めた例は少なくない。これは、政治的な対立を超えた、武将間の個人的な信頼関係や「武士の情け」が機能していたことを示している。宗勝の選択は、こうした戦国末期の流動的な人間関係を反映したものであった。

没年・墓所の不明

阿波に身を寄せた後の宗勝の足跡は、歴史の記録からほとんど姿を消してしまう。彼がいつ、どこでその生涯を終えたのかを記す明確な史料は存在しない。法名は「清月道旬禅定門」と伝わるが、これも確実なものかは不明である。

蜂須賀家の菩提寺である徳島市の興源寺や万年山墓所には、歴代藩主や一族、重臣の墓が数多く現存しているが 28 、そこに青山宗勝の墓の存在は確認されていない。関ヶ原の敗戦で全てを失った武将は、その最期もまた、歴史の表舞台から静かに消えていったのである。

第七章:子孫たちの消息と青山家の再興

青山宗勝自身は失意のうちに生涯を終えた可能性が高いが、彼の子孫たちは、血縁を頼りに新たな道を切り拓き、家名を後世に伝えた。

嫡男・青山忠元

通称を伊賀守、虎といい、父と共に西軍に与して改易された 1 。その後の詳細な消息は不明であるが、父と共に蜂須賀家を頼った後、比較的早くに亡くなったとも考えられる。

次男・正次と三男・長勝の丹羽家への帰還

青山家の再興を成し遂げたのは、宗勝の他の息子たちであった。彼らの動向は、戦国から江戸への移行期における武家の生き様を象徴している。

宗勝の正室の子である正次(通称・助左衛門)は、父と共に改易された後、蜂須賀家を頼り「江崎隼人」と変名して雌伏の時を過ごしていた。しかし、寛永12年(1635年)、陸奥二本松藩10万石の藩主となっていた母方の従兄弟・丹羽長重に召し出され、500石の知行を与えられて家臣となった。後に青山姓への復帰を許されている 4

また、三男の長勝(通称・助兵衛)も、兄と同じく寛永12年(1635年)に丹羽長重に500石で召し出された。この際、長勝は主君・長重から丹羽の姓と「長」の一字を与えられるという破格の待遇を受け、「丹羽長勝」と名乗ることを許された 4

宗勝の息子たちが、父の庇護先であった蜂須賀家ではなく、母方の実家である丹羽家に再仕官したという事実は、極めて示唆に富む。宗勝の世代は、豊臣政権下で旧主家から独立し、大名間の水平的な関係を築いた。しかし、関ヶ原を経て徳川の世が安定すると、社会は再び固定的で血縁を重視する垂直的な主従関係を重んじるようになった。息子たちにとって、最も確実な仕官の道は、母方の血縁という強固な縁故を頼ることであった。丹羽長重もまた、姉(または妹)の子らを家臣として迎えることで、家臣団の結束を強化し、旧恩に報いたのである。

これにより、青山家は「大名」としての地位は失ったものの、「二本松藩の重臣」として家名を後世に伝えることに成功した。これは、時代の変転の中で多くの家が経験した栄枯盛衰と再起の物語の一つの典型と言えるだろう。

第八章:総論 ― 青山宗勝の歴史的評価

青山宗勝の生涯は、旧来の主家への忠誠と、新たな天下人への奉公という二つの価値観が交錯する時代を生きた、典型的な中堅武将の軌跡であった。丹羽家の家臣としてキャリアをスタートさせ、主家の浮沈を乗り越え、自らの能力と時流に乗ることで豊臣大名へと成り上がった前半生は、戦国乱世のダイナミズムを体現している。

彼の運命を決定づけたのは、関ヶ原の戦いにおける西軍への加担という一つの選択であった。この決断は、豊臣家への恩義に報いようとする「義」の精神と、丹羽家をはじめとする北陸諸大名と歩調を合わせた「戦略的判断」に基づいていた。北陸戦線において前田利長の大軍を足止めするという西軍の戦略に貢献したものの、本戦の敗北によって全てを失う結果となった。

歴史上、彼の名は「関ヶ原の敗将」として記憶されることが多い。しかし、その背景にある丹羽家との深い血縁関係、豊臣政権下での着実な立身、そして北陸戦線における重要な戦略的役割を丹念に追うことで、単なる敗者ではない、激動の時代を主体的に生き抜こうとした一人の武将としての実像が浮かび上がってくる。

そして、宗勝の物語は彼の死で終わらない。彼自身は失意のうちに没したかもしれないが、主君・丹羽長秀の娘との間に築いた婚姻関係が、結果的に息子たちの代での家名再興を可能にした。これは、個人の栄達だけでなく、「家」の存続を第一義とする武士社会のあり方を雄弁に物語っている。青山宗勝の生涯は、戦国乱世の終焉と、それに続く近世武家社会の成立という、日本の歴史における大きな転換点を、一個人の視点から鮮やかに映し出す貴重な事例であると言えよう。

引用文献

  1. 福井県の主要大名 http://gioan-awk.com/daimyou-18fukui.htm
  2. 青山氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E6%B0%8F
  3. 青山宗俊とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%AE%97%E4%BF%8A
  4. 青山宗勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%AE%97%E5%8B%9D
  5. 歴史 | 丸岡城 (公式) 北陸唯一の現存天守・奇跡の修復城 https://maruoka-castle.jp/history/
  6. 戶田勝成Toda Katsushige | 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/tokai/toda-katsushige
  7. 丹羽長秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E7%A7%80
  8. 丹羽長重 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E9%87%8D
  9. 丸岡城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.maruoka.htm
  10. 「北陸唯一の現存天守」をもつ丸岡城とをご紹介(後編)|ゆうさい - note https://note.com/shiro_asobi/n/n56e322052a3b
  11. 『信長の野望天翔記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/nobu06_data.cgi?equal1=9504
  12. 『信長の野望DS2』登場武将総覧 http://hima.que.ne.jp/nobu/ds2/nobu_ds2data.cgi?equal1=0000
  13. 青山忠元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%83
  14. 丸岡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B2%A1%E5%9F%8E
  15. 越前国 丸岡藩 - 全国史跡巡りと地形地図 https://www.shiseki-chikei.com/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E4%B8%89%E7%99%BE%E8%97%A9-%E5%9F%8E-%E9%99%A3%E5%B1%8B/%E5%8C%97%E9%99%B8%E7%94%B2%E4%BF%A1%E8%B6%8A%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%AB%B8%E8%97%A9/%E4%B8%B8%E5%B2%A1%E8%97%A9-%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C/
  16. 丸岡藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B2%A1%E8%97%A9
  17. 丸岡城のアクセスや現存最古とも云われる天守を紹介! https://okaneosiroblog.com/fukui-maruoka-castle/
  18. 慶長三年の越前国太閤検地関係史料 - 福井市 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615544.pdf
  19. 越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2015/02/blog-post_20.html
  20. 関ヶ原の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7045/
  21. 浅井畷の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E7%95%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  22. 大谷吉継 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/ootani.html
  23. 大谷吉継は何をした人?「親友・三成との友情を貫き敗軍を率いて関ヶ原に殉じた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshitsugu-otani
  24. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
  25. 浅井畷の戦い(1/2)北陸の関ヶ原、前田利長VS丹波長重 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/792/
  26. 光秀、下天の夢を見る - 52 謀略 https://ncode.syosetu.com/n7793hw/55/
  27. 蜂須賀家政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF
  28. 徳島藩主蜂須賀家墓所 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E8%97%A9%E4%B8%BB%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E5%A2%93%E6%89%80
  29. 興源寺 | Fun!Fun!とくしま - 徳島市観光 https://funfun-tokushima.jp/introduce/%E8%88%88%E6%BA%90%E5%AF%BA/
  30. 徳島藩主蜂須賀家墓所(万年山墓所) | Fun!Fun!とくしま - 徳島市観光 https://funfun-tokushima.jp/introduce/%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%B1%B1/