須田盛久(すだ もりひさ)は、日本の戦国時代末期から江戸時代前期にかけて活躍した武将である。一般的には、宇都宮家臣から佐竹家に仕え、大坂の陣での武功により家老にまで昇進した人物として知られている 1 。しかし、その生涯は単なる武功譚にとどまらない。主家の改易、有力家臣への婿入り、そして巧みな閨閥形成を通じて、激動の時代を生き抜き、自らの一族を藩の重代宿老へと押し上げた、極めて戦略的な人物であった。
本稿では、須田盛久の出自から説き起こし、彼がいかにして佐竹家(久保田藩)内で地位を築き上げたのかを、軍事、藩政、そして婚姻政策の三つの側面から詳細に分析する。彼の生涯を追うことは、主君への忠節のみならず、家名の存続と繁栄をかけた武士たちのリアルな生存戦略を浮き彫りにするものであり、近世初期における藩政の確立過程と家臣団の力学を理解する上で、貴重な事例を提供するものである。
須田盛久の人生の第一幕は、佐竹家ではなく、下野国の名門・宇都宮氏の家臣として始まる。彼が「須田」姓を名乗るに至る経緯は、彼の出自と密接に関わっている。
須田盛久は、もともと玉生(たまにゅう)氏の出身であり、幼名は八兵衛と称した 1 。彼の父は、宇都宮氏の重臣であった玉生高宗(たまにゅう たかむね)である 1 。玉生氏は下野国塩谷郡を本拠とした塩谷氏の分家であり、宇都宮氏の家臣団の中でも有力な一族であった 3 。
父・高宗は、常陸国笠間城の城主を務めるなど、宇都宮氏の軍事・統治において重要な役割を担った武将であった 2 。天正13年(1585年)頃には、主君・宇都宮国綱のもとで宇都宮城の守備も担当しており、その武名は広く知られていた 7 。しかし、慶長2年(1597年)、豊臣秀吉による突然の宇都宮氏改易により、玉生氏もまた主家と運命を共にし、その地位を失うこととなった 2 。この主家の没落が、若き日の盛久(八兵衛)の運命を大きく変える転機となる。
主家を失った盛久であったが、元和2年(1616年)、彼は佐竹家臣である須田盛秀の孫娘と婚姻し、婿養子として須田氏の名跡を継承することになった 1 。この時、盛久は12歳であったと記録されている 1 。この婚姻は、盛秀の嫡男であった盛方(もりかた)が慶長14年(1609年)に既に亡くなっていたため、須田家の血筋と家名を存続させるための戦略的な養子縁組であった 1 。
この継承により、盛久は単に新しい家を得ただけでなく、佐竹家中で大きな影響力を持つ「須田」という名跡を手に入れた。これは、彼のその後の立身出世における極めて重要な布石となった。
養父(正確には妻の祖父)となった須田盛秀は、当時、佐竹家中でも特に名声の高い武将であった。もとは岩代国須賀川城主・二階堂氏の重臣であり、伊達政宗の侵攻に対して須賀川城で徹底抗戦したことで知られる 8 。落城後、常陸国の佐竹義宣を頼り、その家臣となった。義宣は盛秀の器量を高く評価し、新参ながら茂木城(栃木県茂木町)を与え、二階堂氏の旧臣ら約百騎を預けるなど破格の待遇で迎えた 8 。
関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽国へ転封されると、盛秀は慶長7年(1602年)に角館城、翌慶長8年(1603年)には横手城の城代という要職を歴任した 8 。盛久がこのような傑物の後継者となったことは、彼自身の能力に加え、極めて強力な後ろ盾を得たことを意味していた。
須田氏を継承した盛久は、久保田藩(秋田藩)の藩士として、軍事と藩政の両面でその才能を発揮し、着実に地位を固めていく。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣において、佐竹義宣は徳川方として参陣し、特に激戦地であった今福・鴫野の戦いで奮戦した 10 。この戦いで佐竹軍は家老の渋江政光を失うなど大きな損害を被りながらも、上杉景勝軍の援護を得て豊臣軍を退ける功績を挙げた 12 。この戦功により、徳川秀忠から感状を与えられた12名のうち5名が佐竹家の家臣であり、佐竹家の武名は幕府内外に改めて示された 12 。
須田盛久がこの戦いで個別の感状を受けたという直接的な記録はない。しかし、当時すでに須田家の後継者という立場にあった彼が、この重要な戦役に参加し、一族の武功に貢献したことは想像に難くない。ユーザーが事前に把握していた「大坂冬の陣で功を立てた」という情報は、須田家全体としての功績を指すものと考えられる。
盛久の具体的な軍事的功績として明確に記録されているのが、元和8年(1622年)の由利領受け取りである。この年、山形藩主最上義俊が改易されると、幕府は隣接する久保田藩に対し、最上領の一部であった由利郡の接収を命じた 1 。
この重要な任務において、須田盛久は藩主・佐竹義宣の従兄弟で大館城代の小場義成、佐竹一門の戸村義国らと共に、派遣軍を率いる四将の一人に任命された 1 。『梅津政景日記』によれば、盛久は滝沢城の引き渡しを担当する部隊を率いており、これは彼が藩の軍事行動において、独立した部隊を指揮するほどの信頼と地位を得ていたことを示している 1 。
寛永2年(1625年)、義父・須田盛秀が死去すると、盛久はその後を継いで第二代目の横手城代に就任した 1 。横手城は久保田城に次ぐ藩内の重要拠点であり、その城代職は軍事・行政の両面で大きな権限を持つ役職であった 14 。盛久は義父からこの重責を引き継ぎ、その後の須田家による横手城代世襲の基礎を築いた。
盛久の藩政におけるキャリアの頂点は、家老職への就任である。寛文4年(1664年)、二代藩主・佐竹義隆の治世下において、幕府から藩主への領知判物(所領安堵状)が下付されるという藩にとって極めて重要な年、盛久は藩の最高執行部である家老の一員として名を連ねている。
この時の家老は5名で、須田盛久はその中でも「最古参の年長者」と記録されており、序列の筆頭格であったことがわかる 16 。彼の同僚には、渋江内膳光久、梅津忠雄、宇都宮帯刀光網、大越甚右衛門秀国といった藩の重臣たちがいた 16 。婿養子として他家から入った身でありながら、数十年の歳月をかけて藩政の中枢、そしてその筆頭にまで上り詰めた事実は、彼が卓越した政治手腕と実務能力、そして慎重さを兼ね備えていたことを物語っている。
須田盛久の成功は、個人の能力だけに支えられたものではない。彼は婚姻政策、すなわち閨閥(けいばつ)を巧みに利用し、須田家の地位を盤石なものとした。
盛久が佐竹家中で足場を固める最初のきっかけは、義理の兄弟である小貫頼久(おぬき よりひさ)の存在であった 17 。頼久は盛久の妻の姉(または妹)を娶っており、佐竹家の家老を務める有力者であった 17 。宇都宮氏改易後、盛久が佐竹家に仕官する上で、この頼久の存在が重要な橋渡し役となったことは間違いない。
盛久の閨閥戦略の集大成といえるのが、自らの娘と佐竹一門との婚姻である。国文学研究資料館所蔵の史料によれば、盛久の娘は、佐竹氏の御苗字衆(藩主一門)筆頭である佐竹南家の五代当主・佐竹義著(よしあき)に嫁いでいる 18 。
佐竹南家は、藩主に次ぐ家格を持つ分家であり、この婚姻によって須田家は単なる家臣の家から、藩主一門の姻戚という特別な地位を得ることになった。これは、藩内における須田家の発言力と影響力を飛躍的に高めるものであった。なお、盛久の娘は夫・義著の死後、出家して宝泉院(ほうせんいん)と号したことが記録されている 18 。
こうした盛久の活躍と戦略により、須田家は久保田藩における不動の地位を確立した。盛久の後は、子の盛品(もりしな)が横手城代を継ぎ、須田家は三代にわたってこの要職を担った 19 。その後、拠点を久保田城下に移し、代々「宿老」として藩政に深く関与し続けた 19 。
須田家の家名は幕末まで続き、特に最後の家老職であった須田政三郎盛貞は、秋田藩を勤王へと導き、戊辰戦争(秋田戦争)では軍事総括として活躍するなど、藩の歴史に大きな足跡を残している 20 。これは、初代・盛久が築き上げた盤石な基盤があったからこそ成し得たことである。
須田盛久の生涯を再構築する上で、いくつかの史料が重要な情報を提供している。
盛久の具体的な活動を伝える一次史料として、久保田藩家老・梅津政景が記した『梅津政景日記』が挙げられる。ここには、元和8年の由利領受け取りにおける盛久の役割が記されており、彼の軍事キャリアを裏付ける貴重な記録となっている 1 。
また、秋田県公文書館が所蔵する『秋田藩家蔵文書』や『諸士系図』などの藩政史料は、盛久の家老としての地位や、須田家の系譜を明らかにする上で不可欠である 22 。特に、寛文4年(1664年)の家老連名が記された記録は、彼のキャリアの頂点を示すものとして価値が高い 16 。さらに、国文学研究資料館所蔵の佐竹南家関連文書は、彼の娘の婚姻関係を証明し、その閨閥形成の実態を明らかにしている 18 。
史料において、須田盛久は「須田伯耆(ほうき)」あるいは「須田伯耆守(ほうきのかみ)」として頻繁に登場する 16 。伯耆守は律令制における官職名であり、武家社会においては高い格式を示す称号であった。彼がこの官位を名乗っていたことは、久保田藩内における彼の高い地位を象徴している。
須田盛久の正確な没年は、現存する史料からは特定できていない。義父・盛秀が寛永2年(1625年)に死去しているのに対し 8 、盛久は前述の通り寛文4年(1664年)の時点で家老筆頭として在職していることが確認できるため、それ以降に没したと考えられる。
須田家の菩提寺は、盛秀が建立した秋田県横手市の天仙寺(てんせんじ)である 19 。盛秀や、須賀川合戦で討死したその嫡男・秀広の墓所が同寺にあることから 8 、盛久自身も一族と共に同寺に葬られている可能性が極めて高い。
須田盛久の生涯は、戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の確立という、時代の大きな転換期を象徴するものであった。彼は、宇都宮氏家臣という出自から、主家の改易という逆境を乗り越え、婿養子として名門・須田家の名跡を継承した。そして、佐竹家(久保田藩)において、大坂の陣や由利領接収といった軍功を重ねる一方で、横手城代、さらには筆頭家老として藩政の中枢を担うまでに至った。
彼の成功の要因は、個人の武勇や知略に留まらない。義兄・小貫頼久との関係を足がかりとし、自らの娘を藩主一門である佐竹南家に嫁がせるという巧みな閨閥形成によって、藩内における一族の地位を盤石なものとした。その結果、須田家は幕末に至るまで藩の重職を担う名家として存続した。
当初の情報にあった「見識があり、慎重な人となり」という評価は、彼の華々しい経歴の裏付けとなるものであろう。須田盛久は、激動の時代を生き抜くための先見性と、着実に地位を固めていく慎重さを兼ね備えた、優れた武将であり、卓越した政治家であったと言える。彼の生涯は、近世初期の武士社会における立身出世の一つの典型を示しており、歴史研究において非常に興味深い人物である。