上杉景勝が治めた戦国末期から江戸時代初期にかけて、その家臣団には数多の英傑が名を連ねていた。直江兼続や本庄繁長といった武将たちの名は広く知られているが、その影で主家の存亡を賭けた戦いに身を投じ、多大な功績を挙げながらも、必ずしも正当な評価を受けてこなかった人物も少なくない。その筆頭格が、本報告書で取り上げる須田長義(すだ ながよし)である。
須田長義は、上杉家の会津移封に伴い、対伊達政宗の最前線である梁川城代に抜擢され、関ヶ原の戦いに連動した「北の関ヶ原」とも呼ばれる奥羽の戦役において、伊達政宗の大軍を退けるという輝かしい武功を立てた。さらに、徳川の世となってからは大坂の陣に参陣し、その鬼神の如き奮戦ぶりから、敵方の総大将であった将軍・徳川秀忠より直々に感状を賜るという、陪臣としては異例の栄誉に浴した。しかし、その武功の代償として負った戦傷がもとで、37歳という若さでその生涯を閉じた悲劇の武将でもある。
本報告書は、これまで父・須田満親や同僚たちの名声の陰に隠れがちであった須田長義個人の実像に光を当てることを目的とする。断片的に伝わる史料を体系的に整理し、その出自と複雑な家督相続の経緯、二つの大きな戦役における具体的な活躍、そして彼の死後における須田家の運命を詳述する。これにより、一人の武将の生涯を通して、戦国から江戸へと移行する時代の激動と、そこに生きた武士の「忠義」と「誉れ」の本質を浮き彫りにすることを目指すものである。
須田長義の生涯を理解する上で、彼が背負っていた一族の歴史と、家督を継ぐに至った特異な経緯をまず把握する必要がある。信濃の名門としての出自、そして父と兄が築き上げた功績と直面した危機は、若き長義の双肩に重くのしかかっていた。
須田氏は、信濃国高井郡須田郷(現在の長野県須坂市周辺)を本貫の地とした武士団である 1 。その源流は、平安時代後期に信濃に土着した清和源氏頼季を祖とする名族・井上氏の支族とされている 2 。この由緒ある出自は、須田氏が単なる在地土豪ではなく、信濃において古くから名門としての地位を確立していたことを示している。鎌倉幕府の公式記録ともいえる『吾妻鑑』には、建久元年(1190年)に源頼朝が上洛した際、その行列に信濃武士の一員として「須田小太夫」の名が見え、一族の古い歴史を物語っている 1 。
しかし、戦国時代に入り、甲斐の武田信玄が信濃侵攻を開始すると、須田一族の運命は大きく揺らぐ。当時の一族の当主であった須田満親とその父・満国は、信濃の雄・村上義清らと共に武田軍に抵抗したが、天文22年(1553年)に拠点を失い、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた 5 。この出来事は、須田家にとって故郷を失うという屈辱であったと同時に、上杉家から一族の存亡を救われるという決定的な体験となった。この時に生まれた上杉家への強固な恩義と忠誠心こそが、その後の満親、そして息子の長義の行動原理を貫く精神的な支柱となったのである。
長義の父・須田満親は、上杉家臣団の中でも屈指の猛将として知られていた。謙信・景勝の二代にわたり忠勤に励み、第四次川中島の戦いへの参陣 5 に始まり、越中戦線では織田方の佐々成政と激しい攻防を繰り広げ 6 、天正13年(1585年)には徳川家康と対立した真田昌幸を支援するため、上杉軍の総大将として第一次上田合戦に出陣するなど 8 、数々の重要な戦局で軍功を挙げた。その功績は豊臣秀吉にも認められ、天正16年(1588年)には主君・景勝や直江兼続らと共に豊臣姓を賜る栄誉に浴している 3 。最終的に満親は、北信濃の要衝である海津城(後の松代城)の城代に任じられ、1万2千石余の知行を得るに至った 3 。これは上杉家中の信濃出身武士としては筆頭の地位であり、彼の存在がいかに重きをなしていたかがうかがえる。
その満親の嫡男が、長義の兄である須田満胤であった。満胤は、上杉家の執政・直江兼続の妹である「きた」を妻に迎えており 2 、家中の中枢と深い姻戚関係を築いた、本来であれば須田家の将来を担うべき人物であった。
しかし、慶長2年(1597年)、須田家に激震が走る。満胤が担当していた伏見城の舟入普請において不手際があったとして、彼は改易処分を受け、上杉家から追放されてしまったのである。この責任は父・満親にも及び、父子ともに連座して失脚するという事態に陥った 6 。これにより、将来を嘱望されていた満胤は京都で浪人となり 11 、信濃の名門・須田家は断絶の危機に瀕した。
兄・満胤の突然の失脚と、それに続く慶長3年(1598年)の父・満親の死という混乱の渦中で、須田家の家督を継承したのが、次男であった長義であった 2 。父・満親の死については、主君・景勝の会津への国替えに反対し、抗議のために海津城で自害したという悲劇的な説も伝えられている 5 。
天正7年(1579年)生まれの長義は 12 、この時まだ二十歳前後であった。彼の家督相続は、平穏な状況下での継承とは全く異なり、一族の不祥事と当主の悲劇的な死という、まさに存亡の危機における「緊急登板」であった。通常であれば、当主が改易されれば家そのものが取り潰されてもおかしくない状況である。にもかかわらず、上杉景勝と直江兼続が、若年の長義に家督を継がせたという事実は、極めて重要である。それは、彼らが長義の器量を高く評価し、単なる兄の代役ではなく、須田家の再興と、来るべき動乱の時代における重要な役割を託すに足る逸材であると見なしていたことの証左に他ならない。長義は、若年にして名門再興という重責を背負い、その武将としてのキャリアをスタートさせることになったのである。
表1:須田氏略系図(満親・満胤・長義の関係を中心に)
人物名 |
続柄・関係 |
備考 |
須田満国 |
満親の父 |
村上義清と共に武田信玄と戦い、敗れて上杉謙信を頼る 5 。 |
須田満親 |
長義の父 |
上杉謙信・景勝に仕えた猛将。海津城代。1万2千石余を領す 8 。 |
須田満胤 |
満親の長男、長義の兄 |
直江兼続の妹・きたを妻とする 2 。伏見城普請の不手際で改易 11 。 |
須田長義 |
満親の次男 |
兄の改易と父の死により家督を継ぐ。官位は大炊頭 12 。 |
直江兼続 |
上杉家執政 |
満胤の義兄にあたる。長義を抜擢し、重用した。 |
本庄繁長 |
上杉家重臣 |
継室に須田満親の娘を迎えており、須田家とは姻戚関係にあった 13 。 |
家督を継いだ長義を待っていたのは、上杉家の歴史的転換点と、それに伴う新たな重責であった。対伊達政宗の最前線司令官という彼の役割は、上杉家の安全保障の根幹をなすものであり、その期待の大きさは破格の待遇となって現れた。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は長年本拠とした越後を離れ、奥州会津120万石へと加増移封された 2 。この国替えは、徳川家康の勢力伸長を牽制し、奥羽の諸大名を監視するという、豊臣政権の天下統治における極めて戦略的な配置転換の一環であった 15 。
しかし、この広大な新領地は、北方に「独眼竜」伊達政宗の本拠地と隣接しており、両者の間に軍事的な緊張関係が生じることは避けられなかった。景勝と兼続は、この潜在的な脅威に対処するため、対伊達防衛ラインの構築を急務とした。その布陣は、要となる米沢城に直江兼続自身が入り、最前線の白石城に甘粕景継、福島城に歴戦の勇将・本庄繁長、そして伊達氏の旧領に深く楔を打ち込む形となる梁川城に、須田長義を配置するというものであった 15 。
この重要な布陣の中で、須田長義は陸奥国伊達郡の梁川城代に任じられ、2万石(同心給分3,300石を含む)という知行を与えられた 2 。当時の上杉家の家臣団の知行高を記した『会津御在城分限帳』によれば、この2万石という石高は、執政・直江兼続の3万石、大国実頼の2万1千石、甘粕景継の2万石に並ぶ、家中トップクラスの待遇であった 17 。家督を継いだばかりの二十歳前後の若者に対するこの破格の処遇は、彼個人への評価であると同時に、梁川城という拠点が持つ戦略的重要性の高さを物語っている。
梁川城は、かつて伊達氏が本拠とした城の一つであり、伊達政宗自身も初陣の際にこの城から出撃するなど、伊達家にとっては父祖伝来の因縁深い地であった 18 。その地に上杉家の城代を置くことは、伊達氏に対する軍事的な牽制のみならず、強烈な心理的圧迫を加える意図があった。長義に与えられた2万石という知行は、単なる個人的な俸禄ではなく、伊達政宗という大大名の侵攻を抑止し、有事には即応できるだけの軍事力を恒常的に維持・運用するための、いわば「軍管区」の運営予算であったと解釈できる。彼は、一城代という立場を超え、方面軍司令官に等しい重責を担っていたのである。
この重圧の中、長義は城代として着実にその務めを果たした。蒲生氏・上杉氏の時代に進められていた城郭の大規模な改修を引き継ぎ、石垣を整備するなどして防備を一層強固なものとした 18 。彼が行った城下の整備は、現在の福島県伊達市梁川の街並みの礎を築いたと高く評価されている 23 。さらに、故郷信濃の須坂にあった一族の菩提寺・興国寺を梁川の地に移し、開基となっている 24 。これは、彼が腰掛けではなく、この地に骨を埋める覚悟で統治にあたっていたことの証であり、その精神的な強靭さをうかがわせる。
須田長義の名を不朽のものとしたのは、彼の武将としての類稀なる才能が遺憾なく発揮された二つの大きな戦役であった。慶長出羽合戦における知略と、大坂の陣における武勇は、彼が「智」と「勇」を兼ね備えた名将であったことを証明している。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍に与した上杉景勝と、東軍の伊達政宗・最上義光との間で、奥羽を舞台としたもう一つの関ヶ原、「慶長出羽合戦」の火蓋が切られた 26 。
関ヶ原本戦で西軍が敗れたとの報が届くと、徳川家康から与えられていた「百万石のお墨付き」(戦功次第で旧領回復などを認める約束)の実現が危うくなることを恐れた伊達政宗は、機に乗じて上杉領である伊達・信夫両郡の奪還を目指し、2万ともいわれる大軍を率いて南下を開始した 9 。伊達軍の主目標は、本庄繁長が守る福島城であった。政宗は福島城に猛攻を加え、城方は三百余名の死者を出す激しい籠城戦を強いられた 12 。
この戦況を、梁川城の須田長義は冷静に見極めていた。彼は、伊達軍の主力が福島城攻略に集中し、その背後が手薄になっていると判断。機は熟したと見るや、城兵を率いて打って出た。そして、阿武隈川を密かに渡河すると、福島城を攻める伊達軍本隊の背後、特に防御の脆弱な小荷駄隊(補給部隊)に狙いを定め、急襲を敢行したのである 12 。
この奇襲攻撃は完璧に成功した。不意を突かれた伊達軍の補給線は寸断され、全軍が動揺、混乱に陥り、ついに敗走を余儀なくされた 29 。この時、長義の部隊は伊達軍の小荷駄奉行・宮崎旨元を討ち取る功を挙げただけでなく、伊達家の権威を象徴する家紋入りの「看経幕(かんぎょうまく)」や「九曜の幕」といった貴重な陣幕を分捕るという、この上ない大金星を挙げた 9 。この勝利は、本庄繁長の堅固な籠城戦と、須田長義の機動的かつ知略に富んだ側面攻撃が見事に連携した結果であり、長義の卓越した戦術眼と大胆な決断力を示すものとして、後世まで語り継がれた。
この時の逸話として、慶長15年(1610年)に将軍・徳川秀忠が上杉家の江戸屋敷を訪れた際、主君・景勝は、わざと政宗の目の前で、長義が分捕ったこの陣幕を馬屋の前に飾り付けた。これを見た政宗は、かつての屈辱を思い出して大いに赤面し、迷惑そうな様子であったと、『東国太平記』などの軍記物は面白おかしく伝えている 9 。この戦いにおける長義の活躍は、単なる一戦の勝利に留まらず、宿敵・伊達政宗に拭い難い屈辱を与えたという点でも、大きな意味を持っていた。
関ヶ原の戦いから14年後、豊臣家と徳川家の対立が頂点に達し、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発した。かつて豊臣五大老の一人であった上杉景勝は、徳川方として参陣するという、時代の大きな変化を象徴する戦いに臨むことになった 29 。
この戦において、須田長義は上杉軍の先鋒を任され、大坂城東方の激戦地であった鴫野(しぎの)口の戦いに臨んだ 33 。ここで上杉軍は、豊臣方の勇将・後藤基次や穴沢盛秀らの部隊と激突。長義は自ら先陣に立って敵中に突入し、敵将・竹田兵庫を組み討ちにするなど、鬼神の如き奮戦を見せた 33 。しかし、この激闘の中で、彼は二箇所に深手を負うことになった 6 。
この長義の比類なき働きは、徳川方の総大将であった将軍・徳川秀忠の知るところとなった。元和元年(1615年)正月、長義は水原親憲、黒金泰忠といった他の功臣たちと共に秀忠の御前に召し出された。そして秀忠から、その武功を称える直筆の感状と、名刀「来国光」を賜るという、陪臣としては破格中の破格ともいえる最高の栄誉を受けたのである 3 。この感状は、個人的な名誉であると同時に、関ヶ原で西軍に与した「旧敵」であった上杉家が、徳川幕府に対して武功をもって忠誠を示し、それが公に認められたことを意味する、極めて政治的な意味合いの濃い出来事であった。長義が戦場で流した血は、減封され苦境にあった上杉家の、徳川の世における立場を確固たるものにするための、大きな礎となったのである。
表2:須田長義 年表
年代(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
天正7年(1579) |
1歳 |
須田満親の次男として生まれる 12 。 |
慶長2年(1597) |
19歳 |
兄・満胤が改易され、父・満親も連座して失脚する 11 。 |
慶長3年(1598) |
20歳 |
父・満親が死去。須田家の家督を相続する 5 。主君・上杉景勝の会津移封に従い、陸奥国梁川城代に任じられ2万石を領す 2 。 |
慶長5年(1600) |
22歳 |
関ヶ原の戦いに連動した松川の戦いで、福島城を攻める伊達政宗軍の背後を突き、撃退する武功を挙げる 12 。 |
慶長6年(1601) |
23歳 |
上杉家の米沢30万石への減封に伴い、知行が6,666石に減らされるが、引き続き梁川城代を務める 6 。 |
慶長19年(1614) |
36歳 |
大坂冬の陣に上杉軍の先鋒として参陣。鴫野の戦いで奮戦し、重傷を負う 6 。 |
元和元年(1615) |
37歳 |
1月、大坂での戦功により、将軍・徳川秀忠から直々に感状と名刀を賜る 3 。6月1日、冬の陣で負った戦傷が悪化し、梁川城にて死去。享年37 6 。 |
最高の栄誉を手にした長義であったが、その代償はあまりにも大きかった。彼の早すぎる死は、武士としての誉れの頂点で迎えた悲劇であり、その後の須田家の歩みにも、栄光と没落の影を落とすこととなる。
大坂冬の陣で示した鬼神の如き武勇は、須田長義に最高の栄誉をもたらしたが、同時に彼の命を蝕む致命的な傷を残した。続く元和元年(1615年)の大坂夏の陣には、この戦傷が癒えぬため出陣することができず、代役として梁川城の留守居役であった岩井正満を派遣している 29 。最後の戦いに臨むことができなかった彼の無念は、察するに余りある。
そして同年6月1日、長義はついに力尽き、居城であった梁川城にてその短い生涯を閉じた 6 。享年37 6 。働き盛りの、まさにこれからという年齢での死であった。その亡骸は、彼自身が故郷の信濃から移した菩提寺、梁川の興国寺に葬られた 29 。現在も同寺には、父・満親と夫人と並んで長義の墓所が残り、その功績を静かに伝えている 25 。
須田長義の生涯は、上杉家の激動期と完全に重なっている。関ヶ原の戦後、上杉家は徳川家康によって会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封された 14 。この主家の苦境に伴い、長義の知行も2万石から3分の1の6,666石へと削減されたが、対伊達の要である梁川城代の職は引き続き務めており、その信頼の厚さがうかがえる 6 。
長義の死後も、須田家はその功績によって上杉家中で重きをなした。江戸時代を通じて、米沢藩の最上級家臣である「侍組」の中でも、特に家柄の高い「分領家」という格式を維持し、藩の要職である江戸家老などを歴任した記録が残っている 3 。長義が命を懸けて守り、高めた家の名誉は、その後150年以上にわたって子孫に受け継がれていった。
しかし、江戸時代中期、須田家に再び大きな転機が訪れる。安永2年(1773年)、財政破綻に瀕した米沢藩を再建するため、若き藩主・上杉治憲(鷹山)が抜本的な藩政改革に着手した。これに対し、旧来の特権を脅かされることを恐れた保守派の重臣たちが反発し、藩政の混乱を理由に幕府へ直訴するという事件、いわゆる「七家騒動」が勃発した。
この騒動において、当時の須田家当主であった須田満主(みつたけ)は、改革反対派の首謀者の一人と見なされ、切腹および家名断絶(改易)という最も厳しい処分を受けることになった 3 。後に須田家の再興は許されたものの、その家格はかつての分領家から「平侍」へと大きく下げられ、二度と往時の栄華を取り戻すことはなかった 4 。
ここには歴史の皮肉が見て取れる。須田長義は、主家が存亡の危機にあった戦国の世において、武功という形で忠義を尽くし、家と主君を守った。一方、その約160年後の子孫である満主は、藩が財政破綻という新たな危機に直面した際、旧来の家の格式や慣例を守ろうとすることが、藩全体の改革という新しい時代の「忠義」に反する行為と見なされ、断罪された。長義が命を懸けて守った「家」は、時代の大きな価値観の変化の波の中で、その子孫の手によって再び没落の憂き目に遭うという、非情な結末を迎えたのである。
須田長義の37年の生涯は、戦国時代の終焉と江戸幕藩体制の確立という、日本の歴史における一大転換期を駆け抜けた武士の生き様を鮮やかに映し出している。
彼は、一族の不祥事と当主の死という絶望的な状況下で家督を継ぎ、その若さで上杉家の命運を左右する対伊達政宗の最前線司令官という重責を見事に全うした。松川の戦いで見せた、敵の弱点を的確に突く知略に富んだ戦術は、彼が単なる猪武者ではなく、大局観を備えた「智将」であったことを証明している。一方で、大坂の陣で見せた、自ら先陣に立ち深手を負うことも厭わない鬼神の如き武勇は、彼が戦国武士としての「猛将」の魂を失っていなかったことを示している。この「智」と「勇」の融合こそが、須田長義という武将の本質であった。
彼の歴史的評価は、単に「本庄繁長と協力して伊達軍を退けた武将」というものに留まるべきではない。彼は、独自の戦術眼と決断力で戦局そのものを動かすことのできる、独立した指揮官であった。さらに、大坂の陣で彼が流した血と、それによって得た徳川将軍からの感状は、関ヶ原で敗者となった上杉家が徳川の世で存続していくための、極めて重要な政治的礎石となった。その功績は、偉大な父・満親に何ら劣るものではなく、むしろ時代の転換期における貢献という点では、より高く評価されるべきであろう。
徳川将軍から直接感状を賜るという武士として最高の栄誉を手にしながら、その栄誉の元となった戦傷によって若くして命を落とすというその最期は、武士としての「誉れ」と、時代の激流に翻弄される人間の「悲劇」を同時に内包している。須田長義の生涯を丹念に追うことは、戦国という時代が終わりを告げ、新たな秩序が形成されていく過程で、武士たちが如何に生き、如何に死んでいったかを理解する上で、極めて示唆に富んだ貴重な事例と言えるだろう。