室町時代から戦国時代にかけて、日本の宗教勢力の中でひときわ異彩を放った浄土真宗本願寺教団。その歴史において、中興の祖と称される第八世法主・蓮如の血を引く者は数多いが、その中でも六男・蓮淳(れんじゅん、1464年 - 1550年)ほど、教団の権力構造に深く、そして決定的な影響を与えた人物はいない。彼は父・蓮如から「賢息五人兄弟」の一人と評され、兄である第九世法主・実如からは「顧命の五子」の一人として、幼き次代法主・証如の後事を託された、まぎれもない本願寺の中枢人物であった 1 。
しかし、その歴史的評価は二つに大きく分かれている。一方では、近江の堅田本福寺が残した記録に代表されるように、自らの権勢拡大のためには手段を選ばず、政敵を容赦なく排除する「傲岸で強引な政僧」という側面が強調される 1 。他方で、教団の封建体制化に尽力し、戦国乱世を生き抜くための強固な組織を築き上げた「教団史上、不世出の人材」という高い評価も存在する 1 。この毀誉褒貶の激しさは、蓮淳という人物の複雑さと、彼が生きた時代の特異性を物語っている。
彼の評価がこれほどまでに分かれる根源は、その活動の地理的特性と、彼に敵対した勢力が残した記録の性質に求めることができる。蓮淳が主な活動拠点とした近江、伊勢、河内は、いずれも畿内近国の経済的・軍事的な要衝であった 1 。彼の進出は、必然的に琵琶湖の水運利権を握る堅田の土豪や寺院といった既存勢力との激しい利害対立を生んだ 5 。その結果、対立者側から描かれた『堅田本福寺記録』などが、彼の負のイメージを後世に強く刻みつけることになったのである 1 。
本報告書は、こうした二元的な蓮淳像に対し、彼自身の書状や本願寺側の記録、さらには近年の研究成果を多角的に検証することで、その実像に迫ることを目的とする。蓮淳の生涯は、単なる一個人の歴史に留まらない。それは、蓮如が再興した巨大宗教団体が、いかにして戦国大名と伍する政治・軍事勢力、すなわち「本願寺王国」へと変質していったのか、その激動の過程そのものを体現している。信仰と権力が交錯する戦国の世にあって、蓮淳が何を目指し、何を成し遂げ、そして何を残したのか。その軌跡を徹底的に追うことで、戦国時代における本願寺教団の本質と、蓮淳という稀代の権力者の姿を明らかにしていく。
蓮淳が本願寺教団において絶大な権力を握るに至った背景には、彼の青年期までに築かれた強固な基盤が存在する。それは、血縁という出自の有利さ、畿内の要衝を押さえるという地政学的な戦略性、そして次世代の権力構造を見据えた婚姻政策という、三つの柱によって支えられていた。
蓮淳の生涯は、生まれながらにして本願寺中枢に連なるという、極めて恵まれた環境から始まった。
蓮淳は寛正5年(1464年)、本願寺第八世法主・蓮如の六男として誕生した 8 。母は、室町幕府の政所執事を務める名門・伊勢貞房の娘である蓮祐であり、この高貴な血筋は、蓮淳が後年、政治の世界で立ち回る上での無形の資産となった可能性がある 8 。
彼の立場を決定的に有利にしたのは、同母兄である実如が、蓮如の法灯を継ぐ第九世法主であったことである 2 。蓮如には二十七人もの子女がいたが、その多くが教線拡大のために北陸地方へ派遣されたのに対し、蓮淳は法主の実弟として、本願寺の本拠地である山科に近い畿内を中心に活動する特権的な地位を与えられた 2 。これは、彼が早くから本願寺の権力中枢に関与し、政治的な影響力を蓄積する上で大きな意味を持った。
蓮淳の最初の重要な任務は、兄・実如の命による近江への進出であった。彼はまず、近江大津の近松に顕証寺(近松御坊)を構えた 2 。大津は京都の喉元に位置し、当時国内最大の物流網であった琵琶湖水運の結節点であり、経済的にも軍事的にも極めて重要な拠点であった 5 。さらに、弟の実賢(蓮如九男)らが早世すると、その後任として琵琶湖水運のもう一つの要衝である堅田の称徳寺(堅田御坊)の住持をも兼任することになる 2 。
この一連の人事は、蓮淳が単なる布教者ではなく、本願寺の地政学的戦略を担う存在であったことを示唆している。彼は、近江という経済・交通の要衝を抑えることで、本願寺の財政基盤を強化し、同時に畿内における教団の軍事プレゼンスを高める役割を担ったのである。
蓮淳の戦略眼は、東海地方への進出においてさらに明確になる。通説では、文亀元年(1501年)頃、蓮淳が伊勢長島に願証寺を創建したとされる 10 。長島は木曽三川の河口に広がる広大なデルタ地帯であり、水運の要であると同時に、網の目のように張り巡らされた河川が天然の堀となる難攻不落の要害の地であった 13 。
しかし、より詳細な研究によれば、願証寺は蓮淳による完全な新規創建ではなく、その地にもともと存在した法泉寺系の寺院に蓮淳が入寺し、本願寺の拠点として再編成した可能性が高いことが指摘されている 13 。この事実は、蓮淳が既存の宗教ネットワークや在地勢力を巧みに吸収・統合しながら、自らの勢力を効率的に拡大していく優れた組織者であったことを物語っている。
こうして成立した長島願証寺は、伊勢・尾張・美濃の三国にまたがる本願寺門徒を統括する一大拠点となり、後の長島一向一揆の舞台ともなる東海地方における本願寺支配の礎を築いたのである 10 。
蓮淳が自らの権力を盤石なものにするために打った最も重要な布石が、巧みな婚姻政策であった。彼は、兄・実如の後継者と目されていた甥の円如(実如の次男)に、自身の娘である慶寿院を嫁がせたのである 2 。
この婚姻により、蓮淳は単なる「法主の弟」から、「次期法主の舅」という極めて強力な立場を手に入れた。その後、円如は父・実如に先立って早世するという悲劇に見舞われるが、慶寿院は後の第十世法主となる証如を産んでいた 2 。これにより、蓮淳は次々代の法主の外祖父という、血縁に基づく絶対的な権威を確立することに成功した。これは、戦国大名が政略結婚によって同盟関係を強化し、自家の安泰を図る手法と全く同じ論理であり、蓮淳の政治家としての先見の明と周到さを示すものであった。この血縁関係こそが、実如の死後、彼が本願寺の全権を掌握する最大の正統性の根拠となるのである。
表1:蓮淳関連人物系図(簡略版)
世代 |
人物名 |
続柄・備考 |
本願寺第八世 |
蓮如 |
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┣━ (妻)如了 |
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┣━ (妻)蓮祐 |
伊勢貞房の娘 |
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┃ ┣━ 実如 |
第九世法主 。蓮淳の同母兄。 |
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┃ ┃ ┗━ 円如 |
実如の次男。蓮淳の娘婿。早世。 |
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┃ ┃ ┃ ┗━ 証如 |
第十世法主 。蓮淳の孫。 |
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┃ ┃ ┗━ (妻)慶寿院 |
蓮淳の娘。証如の母。後の鎮永尼。 |
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┃ ┗━ 蓮淳 |
本報告書の主題人物 。蓮如の六男。 |
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┃ ┃ ┣━ (妻)妙蓮 |
滋野井教国の娘 |
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┃ ┃ ┣━ 実淳 |
蓮淳の長男。顕証寺住持。 |
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┃ ┃ ┣━ 実恵 |
蓮淳の次男。願証寺住持。 |
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┃ ┃ ┗━ 慶寿院 |
蓮淳の娘。円如の妻、証如の母。 |
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┗━ 蓮悟 |
蓮如の七男。蓮淳の異母弟。大小一揆で対立。 |
兄・実如の死は、蓮淳にとって本願寺の権力を完全に掌握する絶好の機会となった。幼い孫・証如の後見人という大義名分を得た彼は、腹心である下間氏を駆使し、教団内部の反対勢力を一掃。一連の動乱を通じて、本願寺を法主を頂点とする中央集権的な支配体制へと作り変えていった。
大永5年(1525年)、第九世法主・実如が死去すると、その跡を継いだのはわずか10歳の孫・証如であった 17 。この権力の移行期において、後見人として名乗りを上げたのが、証如の外祖父であり、蓮如の子として絶大な権威を持つ蓮淳であった。畿内に強固な地盤を持ち、長年にわたり教団中枢で実務を担ってきた彼が実権を握るのは、自然な成り行きであった 2 。
証如の蓮淳に対する信頼は絶対的であり、証如の治世は事実上、蓮淳による統治時代であったとまで言われている 9 。蓮淳の権力は、単に法主の外祖父という血縁的な権威にのみ支えられていたわけではない。彼は、自らの権力を教団の隅々にまで浸透させるための実務的な装置を必要としていた。その役割を担ったのが、本願寺の家政と軍事を司る坊官・下間氏であった。
蓮淳は、下間一族の中でも特に野心的で実行力に優れた下間頼秀・頼盛の兄弟を重用した 18 。彼らは蓮淳の意を体し、教団の中央集権化に抵抗する勢力を排除するための強硬策を実行する「手足」として機能した。蓮淳を「頭脳」とし、下間兄弟を「執行部隊」とするこの統治体制の確立により、蓮淳の意思は教団全体に迅速かつ強力に伝達されるようになった。この、自身の権威と実務官僚機構を巧みに結びつける手法は、蓮淳が単なる宗教家ではなく、卓越した政治家であったことを示している。後の動乱の責任を全て彼らに負わせ、冷徹に切り捨てる(暗殺させる)結末まで含めて考えれば、その政治手法は戦国大名のそれに酷似していると言えよう 19 。
蓮淳が掌握した権力は、享禄から天文年間にかけての二つの大きな動乱、「大小一揆」と「天文の乱」において、その真価と非情さを存分に発揮することになる。これらの動乱は、本願寺が宗教団体から政治・軍事権力へと完全に変貌を遂げる分水嶺であった。
蓮淳が直面した最大の内部抵抗が、享禄4年(1531年)に加賀で勃発した「大小一揆」である。蓮如の時代以来、加賀は「百姓の持ちたる国」と称され、蓮淳の異母弟である蓮悟(本泉寺)や、蓮綱(松岡寺)、顕誓(光教寺)ら加賀三ヶ寺の一門衆が門徒と共に統治する、半ば独立した「本願寺の分国」とも言うべき状態にあった 22 。
蓮淳は、この分権的な体制を解体し、加賀を法主を頂点とする本願寺中央の直接支配下に置くことを目指した。この中央集権化の動きに対し、現地の既得権益を守ろうとする蓮悟ら加賀三ヶ寺が激しく抵抗。ここに、本願寺のあり方を巡る内戦が勃発した。蓮淳が支援する超勝寺・本覚寺らを「大一揆」、対する加賀三ヶ寺方を「小一揆」と呼ぶ 1 。この争いは、蓮淳と弟・蓮悟という、かつて父・蓮如から共に後事を託された同母兄弟による骨肉の争いでもあった 22 。
対立の根底には、単なる権力闘争に留まらない思想的な隔たりがあった。蓮淳と彼が登用した下間頼秀らは、法主への絶対的な帰依を求める中央集権思想を掲げた。一方、蓮悟ら小一揆側は、現地の門徒衆による合議を重んじる共同統治の理念を護ろうとした 22 。
戦いは、蓮淳が派遣した下間頼秀らの軍事介入によって大一揆側の勝利に終わる。小一揆方は徹底的に弾圧され、若松本泉寺は焼き払われ、波佐谷松岡寺は陥落。蓮悟らは失脚し、加賀三ヶ寺体制は崩壊した 22 。この内戦の勝利によって、蓮淳は教団内の最大の抵抗勢力を排除し、本願寺を一枚岩の中央集権的組織へと再編することに成功した。それは、本願寺が「連邦国家」から「絶対君主制国家」へと移行した瞬間であった。
蓮淳の強権的な手法は、畿内においても発揮された。近江の琵琶湖畔に位置する堅田本福寺は、古くから蓮如を支えた有力寺院であったが、蓮淳が近江の支配権を確立する上で、その独立的な存在は障害となった 25 。
『堅田本福寺記録』によれば、両者の対立は永正10年(1513年)頃から始まり、蓮淳は本福寺第五世住持・明宗に対して執拗な攻撃を加えたとされる 7 。彼は明宗を讒言によって陥れ、本願寺から三度にわたって破門処分に追い込み、その寺領と門徒を奪い、本福寺を壊滅寸前にまで追い詰めた 7 。
この対立の背景には、琵琶湖の水運から得られる経済的な利権を巡る争いがあったことは想像に難くない 3 。蓮淳にとって、本福寺の排除は、近江における本願寺勢力の一元化と、経済基盤の掌握という二重の目的を達成するための、計算され尽くした政治行動であった。この事件は、目的のためにはかつての功労者すら非情に切り捨てる、蓮淳の政僧としての一面を如実に示している。
蓮淳による急速な権力集中と本願寺の勢力拡大は、周辺の世俗権力との間に深刻な摩擦を生んだ。天文元年(1532年)、本願寺の強大化を恐れた管領・細川晴元は、近江守護・六角定頼、そして京都の法華宗徒と結託し、本願寺への総攻撃を開始した。これが「天文の乱」である 26 。
連合軍の攻撃は凄まじく、まず蓮淳の拠点であった大津の顕証寺が六角軍によって焼き払われた 27 。そして、連合軍の主力は本願寺の本拠地である山科へと殺到した。壮麗を誇った山科本願寺は、三万ともいわれる大軍に包囲され、なすすべもなく炎上した 27 。
この未曾有の危機に際し、蓮淳が取った行動は後世、大きな非難を浴びることになる。彼は、法主であり自らの孫でもある証如の安否を確認することなく、いち早く戦線を離脱し、自らの第二の拠点である伊勢長島の願証寺へと逃亡したのである 2 。最高指導者である法主を見捨てて逃げたという事実は、彼の人物像における最大の汚点として語られることが多い。
しかし、この行動を別の角度から見ることも可能である。蓮淳は、山科で証如と共に玉砕する道を選ばず、自身が生き延びて反撃の拠点(伊勢長島)を確保することこそが、教団全体の存続にとって最善の策であると判断したのかもしれない。それは、名誉や感情よりも組織の存続という実利を優先する、極めて冷徹な政治的リアリズムの発露であったとも解釈できる。いずれにせよ、この逃亡劇と、それに続く石山御坊(後の大坂本願寺)への本拠地移転は、本願寺の歴史における大きな転換点となった 27 。
蓮淳の生涯は、権力闘争と動乱に彩られているが、その人物像は単に「強引な政僧」という一面だけでは捉えきれない。残された書状や記録からは、宗教者、文筆家としての多面的な顔が浮かび上がる。彼の死後も、その遺産は本願寺の行く末に大きな影響を及ぼし続けた。
蓮淳という人物を正しく理解するためには、対立する史料を比較検討し、その多面性に光を当てる必要がある。
蓮淳の負のイメージを形成する上で決定的な役割を果たしたのが、『堅田本福寺記録』である 1 。この記録は、蓮淳との抗争に敗れた本福寺の視点から書かれており、蓮淳は自らの権勢欲のために権謀術数を弄し、本福寺を不当に弾圧した極悪人として描かれている 1 。この記録は、敗者の視点から見た貴重な証言ではあるが、その記述を客観的な事実として鵜呑みにすることには慎重でなければならない。なぜなら、そこには敗者の怨念と、自らの正当性を主張するための意図が色濃く反映されているからである 1 。
一方で、近年発見・研究が進んでいる蓮淳自身の書状からは、全く異なる人物像が浮かび上がってくる。北西弘氏らの研究によって紹介された書状には、蓮淳が門徒の信仰(安心)を深く気遣い、「御文(おふみ)」の聴聞を熱心に勧め、現地の指導者(房主)に対して門徒への接し方を丁寧に諭すなど、熱心な宗教指導者としての一面が記されている 1 。
この姿は、「強引な政僧」というイメージとは相容れないように見える。しかし、彼の行動原理を「本願寺教団の維持・拡大と、法主を中心とした中央集権体制の確立」という一貫した目的に照らして考えれば、これらの側面は矛盾なく統合できる。つまり、政敵の排除や武力行使が教団統制のための「硬の手段」であったとすれば、門徒への丁寧な教化は、人心を掌握し教団の求心力を高めるための「軟の手段」であったと解釈できる。彼の行動の非情さも、宗教者としての熱心さも、すべては教団を統治するという大目的を達成するための、状況に応じた「手段」の選択であった可能性が高い。
蓮淳はまた、文筆家としての一面も持っていた。彼が著したとされる『蓮淳記』(『御若年ノ砌ノ事』とも呼ばれる)は、父・蓮如の若き日の苦労や言行を記録したものであり、蓮如伝研究における基本史料の一つである 31 。しかし、この著作には、父・蓮如を理想化・神格化することによって、その法灯を正しく継承する自らの権威を補強しようという、明確な政治的意図が込められていたと見るべきであろう 32 。
戦国期の本願寺においては、歴史叙述そのものが権力闘争の重要な武器であった。蓮淳と大小一揆で対立した顕誓もまた、自らの正当性を主張するために『反古裏書』などの歴史書を執筆している 32 。蓮淳による歴史叙述は、本願寺の「神話形成」の一環であり、彼の文化人としての一面と政治家としての一面が分かちがたく結びついていたことを示している。
さらに、自身の葬儀の次第を詳細に記した『蓮淳葬送中陰記』の存在も確認されている 34 。これは、自らの死をも客観視し、後世に範を示そうとする彼の自己認識のあり方を知る上で、極めて興味深い史料である。
蓮淳の権力基盤が、家族との緊密な関係にあったことは疑いない。父・蓮如からは「賢息」と評価され、兄・実如からは臨終の際に幼い証如の後事を託されるなど、その能力と忠誠心は高く評価されていた 1 。孫である証如との関係は、後見人として絶対的な影響力を行使する一方、証如自身も祖父を深く信頼し、その指導に全面的に従った 9 。この祖父と孫の強固な信頼関係こそが、天文年間の激動期における本願寺の方向性を決定づけたのである。
87年という長寿を全うした蓮淳は、その最期に至るまで、本願寺の未来を見据えた政治家であり続けた。彼が残した遺産は、良くも悪くも、その後の本願寺の歴史を大きく規定することになる。
天文19年(1550年)、蓮淳は87歳でその生涯を閉じた 8 。彼の死に際しての遺言は、極めて政治的な意味合いを持つものであった。彼は、かつて大小一揆で敵対し、長年にわたり破門していた実悟(蓮如十男)や光教寺顕誓らを赦免するよう言い残したのである 9 。
この赦免の実現には、蓮淳の娘であり、法主・証如の母である慶寿院鎮永尼が重要な役割を果たした 37 。当時、顕誓は本願寺と対立関係にあった越前の朝倉氏のもとに亡命しており、鎮永尼は彼を赦免することが、朝倉氏との関係改善に繋がると判断した 37 。彼女は父の遺言を大義名分として、息子である証如に働きかけ、赦免を実現させたのである。
この一連の動きは、蓮淳の遺言が単なる晩年の悔悟や温情ではなく、自らの死後の教団の安定と、対外関係の修復までを見据えた、最後の政治的布石であったことを示している。同時に、法主の母である鎮永尼が、外交や人事にまで深く関与し、本願寺の最高意思決定に大きな影響力を持っていたことも明らかである。本願寺の権力構造を考える上で、こうした女性たちの政治的役割は決して看過できない。
蓮淳が一代で築き上げた、法主を頂点とする強力な中央集権体制と、石山を本拠とする強固な経済・軍事基盤は、彼の死後、孫の証如、そして曾孫の顕如へと引き継がれた。この蓮淳の遺産があったからこそ、本願寺は後に天下統一を目指す織田信長と10年以上にわたって互角に戦い続ける(石山合戦)ことができたのである 39 。彼が本願寺を「戦える組織」へと変貌させた功績は大きい。
しかし、その強権的な統治手法は、教団内部に深刻な亀裂も生み出した。大小一揆における兄弟間の争いや、本福寺への弾圧など、彼の政策によって恨みを抱いた勢力も少なくなかった。こうした内部対立の火種は、石山合戦後の顕如と教如の対立を経て、最終的に本願寺が東西に分裂する遠因の一つになったとも考えられる。
蓮淳の血脈は、彼の死後も本願寺の歴史に深く関わり続けた。長男の実淳は河内顕証寺を継いだが早世 9 。次男の実恵が伊勢長島願証寺の事実上の初代住持となり、その子・証恵、孫・証意へと受け継がれた寺は、やがて長島一向一揆の中核拠点となって信長と激しく戦うことになる 40 。また、河内顕証寺は実恵の子である証淳が継ぎ、石山合戦においても重要な役割を果たした 9 。蓮淳が各地に築いた拠点は、彼の死後も本願寺の最前線として機能し続けたのである。
願証寺蓮淳は、本願寺の歴史、ひいては戦国時代史において、極めて特異な位置を占める人物である。彼は、父・蓮如が「宗教」の力で築き上げた広範な門徒組織という基盤の上に、冷徹な「政治」の論理を持ち込み、本願寺を戦国大名と伍する巨大な権力機構へと再編した、まさしく「本願寺王国」の設計者であった。
彼の生涯を貫く行動原理は、法主を絶対的な頂点とする中央集権体制の確立と、それによる教団の永続的な安泰であった。その目的を達成するため、彼はあらゆる手段を行使した。畿内や東海の経済的要衝を抑え、婚姻政策によって次世代の権力を手中に収め、腹心である下間氏を駆使して教団を意のままに動かした。そして、自らの方針に抵抗する者は、たとえ肉親の兄弟であっても容赦なく粛清し(大小一揆)、教団の旧功者であっても非情に切り捨てた(堅田本福寺弾圧)。山科本願寺焼失の際には、法主である孫を見捨ててでも、自らが生き延びて反撃の拠点を確保する道を選んだ。
これらの行動は、彼に「強引な政僧」という評価をもたらした。しかし、その一方で、彼が残した書状には、門徒一人ひとりの信仰に心を配る宗教者としての一面も垣間見える。この二面性は、彼の目的と手段を分けて考えることで理解できる。彼の目的はあくまで教団の強化であり、そのための手段として、時には権謀術数を、時には丁寧な教化を使い分けたのである。
蓮淳の最大の遺産は、本願寺を「戦える組織」にしたことである。彼が構築した強固な支配体制と経済基盤がなければ、本願寺は織田信長の圧倒的な武力の前に、なすすべもなく解体されていたであろう。その意味で、彼は本願寺を戦国乱世で生き残らせた最大の功労者の一人と言える。しかし、その過程で、蓮如が説いた「同朋」の精神が、法主への絶対服従という封建的な秩序に置き換えられていった側面も否定できない。
「強引な政僧」と「不世出の人材」。この二つの評価は、彼の行動の非情な「手段」を非難するか、教団を存続させたという「結果」を評価するかによって変わる、いわば表裏一体のものである。蓮淳は、信仰と権力、宗教と政治が複雑に絡み合う戦国の世にあって、本願寺という巨大組織を自らのビジョンに基づき作り変えようとした、時代を象徴する稀代の権力者として、再評価されるべきであろう。
表2:蓮淳関連年表
西暦 (和暦) |
蓮淳の動向 (年齢) |
本願寺・国内の主要動向 |
1464 (寛正5) |
京都にて、蓮如の六男として誕生 (1歳) 8 。 |
応仁の乱 (1467-1477) が勃発。 |
1470 (文明2) |
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蓮如、河内にて布教を開始 35 。 |
1496 (明応5) |
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蓮如、大坂に坊舎(後の石山本願寺)を建立 45 。 |
1499 (明応8) |
(36歳) |
父・蓮如が死去。兄・実如が第九世法主となる 7 。 |
c.1501 (文亀元) |
伊勢長島に願証寺を創建(または入寺)(c.38歳) 10 。 |
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c.1513 (永正10) |
近江堅田の本福寺との対立が始まる (c.50歳) 7 。 |
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1519 (永正16) |
娘・慶寿院が実如の嫡子・円如に嫁ぐ (56歳) 2 。 |
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1521 (大永元) |
娘婿・円如が死去。 |
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1525 (大永5) |
兄・実如が死去。孫の証如(10歳)が第十世法主となり、後見人として実権を掌握 (62歳) 17 。 |
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1531 (享禄4) |
加賀で大小一揆が勃発。蓮淳は大一揆を支援し、弟・蓮悟らの小一揆を破る (68歳) 22 。 |
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1532 (天文元) |
細川・六角・法華一揆連合軍により山科本願寺が焼失。蓮淳は伊勢長島へ逃れる (69歳) 27 。 |
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1533 (天文2) |
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証如、大坂御坊を本願寺の本山とする(石山本願寺の成立) 46 。 |
1534 (天文3) |
河内顕証寺(元・西証寺)の住持となり、寺号を改める (71歳) 44 。 |
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1550 (天文19) |
8月18日、死去。享年87。遺言により実悟、顕誓らを赦免 9 。 |
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1554 (天文23) |
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孫・証如が死去。曾孫・顕如が第十一世法主となる。 |
1570 (元亀元) |
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石山合戦が始まる。長島一向一揆蜂起。 |
1574 (天正2) |
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長島一向一揆が織田信長により壊滅させられる 11 。 |
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