本報告書は、日本の戦国時代、とりわけ遠江国(現在の静岡県西部)を舞台に活動した武将、飯尾連竜(いいのお つらたつ)の生涯と彼が生きた時代背景について、現存する諸資料に基づき、詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。連竜の出自から、今川家臣としての活動、そしてその悲劇的な最期、さらには彼の一族が辿った運命や後世に遺した影響に至るまで、深く掘り下げて考察する。
飯尾連竜は、駿河国(現在の静岡県中部・東部)の太守であった今川氏に仕えた有力な被官であり、遠江国引間城(ひくまじょう、後の浜松城)の城主として、同地域における今川氏の勢力維持に重要な役割を担っていた。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを境として今川氏の勢力が急速に衰退し、一方で三河国(現在の愛知県東部)から徳川家康が台頭してくるという、まさに激動の時代であった。このような状況下にあって、連竜の立場は極めて複雑かつ困難なものとならざるを得なかった。彼の生涯は、主家の盛衰に翻弄され、二大勢力の狭間で自らの進むべき道を見出そうと苦悩した、戦国乱世における地方国衆(くにしゅう)の生き様を象徴するものと言えよう 1 。彼の決断と行動は、当時の遠江国、ひいては東海地方全体の政治情勢を理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。
飯尾氏の歴史を辿ることは、連竜個人の生涯を理解する上で不可欠である。その出自は古く、遠江における地位を確立するまでには、複雑な経緯が存在した。
飯尾氏は、古くは「いいのお」または「いのお」と読まれたとされ、その出自は三善朝臣(みよしあそん)に遡ると伝えられている 3 。三善氏は、鎌倉幕府の初代問注所執事を務めた三善康信(みよしやすのぶ)を祖とする名門であり、その子孫が阿波国麻殖郡飯尾村(現在の徳島県吉野川市鴨島町飯尾)に居住したことから、飯尾の姓を称するようになったとされる 5 。飯尾氏は、元来、室町幕府の奉行衆の家柄であり、その事務官僚としての高い能力を買われて重用されていたことが記録からうかがえる 2 。幕府内での実務経験は、後の遠江における飯尾氏の活動基盤を形成する上で、少なからぬ影響を与えたと考えられる。
飯尾氏が遠江国に深く関わるようになるのは、飯尾長連(ながつら)の代からである。通説では、長連の代に駿河国へ下り、今川氏譜代の家臣となったと伝えられているが、より信頼性の高い史料とされる『宗長手記(そうちょうしゅき)』によれば、長連は三河吉良氏の家臣であり、遠江国浜松荘の代官を務めていたと記されている 6 。文明8年(1476年)、今川義忠(よしただ)が遠江に侵攻した際、長連はこれに加勢しようとしたが、義忠と共に駿河へ撤退する途上で討死したという 6 。
長連の子である飯尾賢連(かたつら、またはよしつら)の時代になると、遠江国の支配を巡る情勢はさらに複雑化する。浜松荘と引間城の支配権を巡って、賢連を支持する今川氏親(うじちか)と、遠江守護であった斯波義達(しばよしたつ)が支援する大河内貞綱(おおこうちさだつな)との間で激しい争いが生じた 6 。この抗争は、遠江国全体の支配権を賭けた今川氏と斯波氏の代理戦争の様相を呈した。最終的に、永正5年(1508年)に今川氏親が斯波義達から遠江守護職を奪い、永正14年(1517年)には斯波義達を捕虜として遠江全域を実質的に支配下に置いた。この結果、吉良氏は遠江における影響力を失い撤退し、飯尾賢連は今川氏親から浜松荘と引間城を与えられ、正式に今川氏の被官となった 6 。
この飯尾氏の主君の変更は、単なる個人的な鞍替えではなく、遠江国における守護権を巡る斯波氏と今川氏という二大勢力のパワーバランスの変動、そしてその狭間にあった吉良氏の勢力後退という、より大きな政治的力学の中で起こったものであった。飯尾氏は、この地域全体の勢力図が塗り替わる過程において、自らの生き残りと勢力基盤の確立を目指し、結果として今川氏の支配体制下で遠江における確固たる地位を築くに至ったのである。
賢連の子、飯尾乗連(のりつら)の代には、飯尾氏は今川氏の家臣として、遠江におけるその地位を一層強固なものとした。
飯尾乗連(通称:善四郎、官位:豊前守)は、父・賢連の跡を継ぎ、今川義元に仕えた 7 。乗連は、永正年間(1504年~1521年)に今川氏の支城として曳馬城を築城し、その城主となって同地に一万石の知行を与えられたとされるが、この築城年代や経緯については異説も存在する 7 。また、乗連は信仰心も篤かったと見え、湖西市鷲津の本興寺から日禮上人を開山として招き、天文12年(1543年)に東漸寺(とうぜんじ、浜松市中央区)を開創したと伝えられている 9 。これは、乗連が地域の宗教的・文化的側面においても影響力を持っていたことを示唆している。
永禄3年(1560年)5月、今川義元は尾張国への大攻勢を開始するが、桶狭間の戦いで織田信長に討たれるという衝撃的な結末を迎える。この歴史的な合戦に、飯尾乗連も主君・義元に従軍していた。しかし、その最期については諸説があり、判然としない。織田軍の猛攻を受けて戦場で討死したとする説が一般的であるが 6 、一方で、乱戦の中から辛うじて落ち延びたという説も存在する 7 。さらに後述するが、息子の連竜が永禄8年(1565年)に今川氏に反旗を翻した際に、父子共に討たれたとする説も見られる 7 。
乗連の桶狭間での動向や没年に関する情報の錯綜は、当時の戦況の混乱ぶりと、それに関する記録の不確かさを反映していると言えよう。もし乗連が桶狭間で戦死していたとすれば、息子の連竜は比較的若くして家督を相続し、主君を失った今川家の動揺という極めて困難な状況の中で、曳馬城主としての重責を担うことになったはずである。仮に生き延びていた、あるいは後に連竜と共に討たれたのであれば、連竜が今川氏に対して反乱を起こすに至る背景に、父・乗連の意向や桶狭間での経験が何らかの影響を与えた可能性も否定できない。
父・乗連の跡を継いだ飯尾連竜の時代は、今川氏の没落と徳川氏の台頭という、遠江国にとって未曾有の変革期であった。彼の生涯は、この激動の時代に翻弄されつつも、自らの道を模索した一武将の軌跡として注目される。
表1:飯尾連竜 関連年表
年代(和暦) |
年代(西暦) |
主な出来事 |
関連人物・事項 |
典拠例 |
生年不明 |
不明 |
飯尾連竜、生誕 |
|
7 |
(推定)永禄3年頃 |
(推定)1560年頃 |
父・乗連の死(諸説あり)、連竜が家督相続か |
飯尾乗連、桶狭間の戦い |
7 |
永禄5年 |
1562年 |
連竜、徳川家康への内通疑惑により今川氏真に曳馬城を攻められる。防戦後、和睦。遠州忩劇の一環。 |
今川氏真、徳川家康、堀越氏延、天野景泰、井伊直親 |
3 |
永禄8年12月20日 |
1566年1月11日 |
連竜、駿府にて今川氏真により謀殺される(没年には永禄9年説、1565年説もあり)。嫡男・辰之助も共に殺害か。 |
今川氏真、松井宗親、飯尾辰之助 |
3 |
(お田鶴の方)生年不明 |
不明 |
お田鶴の方(連竜妻)、生誕(天文19年/1550年説あり) |
鵜殿長持(父)、今川義元(伯父) |
13 |
(お田鶴の方)永禄11年12月 |
1568年12月 |
お田鶴の方、曳馬城にて徳川家康軍と戦い討死。 |
徳川家康 |
13 |
表2:飯尾氏 主要系図(遠江飯尾氏)
Mermaidによる家系図
注:上記系図は主要な人物関係を示すもので、全ての家族構成を網羅するものではありません。今川義元とお田鶴の方は伯父・姪の関係。
飯尾連竜(いのお つらたつ、または、いいのお のりたつ)は、生年は不明であるが、戦国時代に活動した武将である 3 。通称は善四郎、官位は父と同じく豊前守を称した 4 。父・乗連の跡を継ぎ、今川義元、そしてその子である氏真(うじざね)に仕え、遠江国引間城主として地域の守りを固めた 3 。
連竜の没年については、複数の説が存在する。永禄3年(1560年)とする説 7 もあるが、これは父・乗連の桶狭間での戦死説と混同されている可能性が高い。より有力なのは、永禄8年12月20日(西暦1566年1月11日)とする説 4 、あるいは単に永禄8年(1565年) 3 や1566年 3 とする記述である。後述する反乱や謀殺の経緯を考慮すると、永禄8年から9年にかけての時期が妥当と考えられる。
連竜が家督を相続したと推定される時期は、今川氏の権勢がまさに頂点に達し、そして桶狭間の戦いを境に急速に陰りを見せ始めるという、大きな転換期にあたっていた。彼の城主としての初期の活動は、まだ比較的安定していた今川氏の支配体制下で行われたと考えられるが、常に中央の情勢の変化、特に主家である今川氏の動向に細心の注意を払う必要があったであろう。桶狭間の戦い以前、今川氏は遠江国において安定した支配を築いていたが、その支配は飯尾氏のような現地の有力国衆との協力関係の上に成り立っていた。しかし、義元の突然の死は、この支配体制に深刻な動揺をもたらすことになる 1 。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いは、飯尾連竜、そして遠江国の運命を大きく左右する分水嶺となった。
今川義元が織田信長によって討たれるという衝撃的な敗北は、今川家の権威を著しく失墜させた。これまで今川氏の強大な軍事力と統治力のもとにあった遠江の国衆たちは、盟主の突然の死に大きく動揺した 1 。時を同じくして、三河国では今川氏の人質となっていた松平元康(後の徳川家康)が岡崎城で独立を果たし、破竹の勢いで勢力を拡大し始める。家康は三河を平定すると、次なる目標として隣国の遠江への進出を虎視眈々と狙っていた 1 。
このような、主家である今川氏の急激な弱体化と、隣国における徳川家康の急速な台頭という二つの大きな変化を前にして、遠江の国衆たちは自らの生き残りをかけて重大な選択を迫られることになった。飯尾連竜が徳川家康に内通したか否かについては諸説あるものの 3 、多くの記録がその事実を示唆、あるいは明記している 6 。今川氏の将来に見切りをつけ、新たな勢力である徳川氏に接近を図るのは、自領と一族の保全を第一に考える国衆にとって、ある意味では自然な流れであったとも言える。しかし、それは同時に旧主に対する反逆行為であり、発覚すれば厳しい制裁を免れない、極めて危険な賭けでもあった。連竜の内通疑惑は、単なる裏切り行為としてではなく、当時の遠江国衆が置かれた極めて不安定な状況下での、必死の生存戦略と捉えるべきであろう。
永禄5年(1562年)、飯尾連竜は徳川家康に内通したとの疑いを今川氏真に持たれ、ついに反旗を翻す。氏真は直ちに討伐軍を派遣し、連竜の居城である曳馬城を攻撃した 3 。連竜はこれを巧みに防戦し、容易には落城させなかった。この時期、遠江では連竜だけでなく、見付城主の堀越氏延、国人衆の天野景泰・元景、井伊谷の井伊直親なども今川氏に反旗を翻しており、この一連の騒乱は「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれている 10 。これは、今川氏の遠江支配が根底から揺らいでいたことを示すものであった。
激しい攻防の末、飯尾連竜は今川氏真と和睦するに至る 3 。一度は反乱を起こしながらも和睦が成立したという事実は、当時の今川氏真がこれらの反乱を完全に鎮圧するだけの軍事力を有していなかったこと、そして連竜側も、徳川家康からの支援がまだ確実ではない中で、単独で今川氏と敵対し続けることの困難さを認識していたことを示唆している。しかし、この和睦はあくまで一時的なものであり、表面上は平穏を取り戻したように見えても、氏真と連竜の間に生じた不信感は払拭されることなく、むしろ深まっていったと考えられる。
一時的な和睦は成立したものの、飯尾連竜と今川氏真の間の緊張関係は解消されなかった。
和睦後も、今川氏真は飯尾連竜に対する疑念を払拭することができなかった。そして永禄8年(1565年)12月(西暦1566年1月) 4 、あるいは永禄9年(1566年)1月11日 12 、連竜は氏真によって駿府(現在の静岡市葵区)へ召喚され、謀殺されるという悲劇的な最期を遂げた 3 。
その謀殺の具体的な状況については、いくつかの記録がある。一説には、氏真の命を受けた連竜の姉婿にあたる松井氏(松井宗親か)の誘いに応じて駿府に出仕したところ、駿府の自邸を今川勢に攻め立てられて誅殺されたという 11 。また別の説では、氏真の娘との婚約が整い、その礼のために駿府へ赴いたとされる。この際、連竜は身の危険を感じ、仲介役でもあった松井宗親に身辺の保護を依頼し、嫡男である辰之助を伴って駿府城へ向かった。しかし、氏真との対面は叶わず、待ち構えていた刺客によって、辰之助、そして松井宗親までもが共に殺害されたと伝えられている 12 。この後者の説が事実であれば、氏真は政略結婚という甘言を用いて連竜を誘い出し、周到な計画のもとに抹殺したことになり、その冷酷さが際立つ。
飯尾連竜が謀殺された最大の理由は、一度反乱を起こした彼に対する今川氏真の根強い不信感であったことは間違いないであろう 11 。遠州忩劇を一応は平定したものの、氏真にとって連竜は依然として危険な存在であり、虎視眈々と遠江への進出をうかがう徳川家康の存在を警戒する中で、連竜が再び徳川方につく可能性を何よりも恐れたと考えられる。また、氏真の娘との婚約話が事実であったとすれば、それは連竜を懐柔し油断させるための策略であり、その裏では粛清計画が着々と進められていた可能性も否定できない 12 。
飯尾連竜の謀殺は、今川氏真の政治的力量の限界と、その猜疑心の強さを象徴する事件と言える。有力な国衆を謀略によって排除する手法は、短期的には反抗勢力を抑え込む効果があるかもしれないが、長期的には他の国衆の離反を招き、さらなる勢力の弱体化につながる危険性を孕んでいる。連竜の死は、結果として今川氏の遠江支配の崩壊を早め、その没落を加速させる一因となった。また、仲介役であり姻戚関係にもあった松井宗親までも巻き添えにして殺害したとされる点は、氏真の冷酷さ、あるいは当時の彼が置かれていた追い詰められた状況を浮き彫りにしている。連竜を失ったことは、今川方にとって遠江における有力な抑えを一つ失うことを意味し、徳川家康にとっては、遠江攻略の好機が訪れたことを意味したであろう。
飯尾連竜の非業の死は、飯尾氏にとって大きな転換点となった。特に、残された妻・お田鶴の方の動向は、戦国時代の女性の生き様を示すものとして、後世に強い印象を残している。
飯尾連竜の死後、曳馬城の運命は、その妻であったお田鶴の方(おたづのかた)の双肩にかかることとなった。
お田鶴の方は、椿姫(つばきひめ)とも呼ばれ、鵜殿長持(うどのながもち)の娘であり、今川義元の姪にあたるという、今川家と極めて近しい血縁関係にあった 13 。夫・連竜が謀殺された後、彼女は幼い子を抱えながらも気丈に曳馬城を守り続けた 9 。しかし、その平穏も長くは続かなかった。永禄11年(1568年)12月、遠江平定を目指す徳川家康の大軍が曳馬城に迫ったのである 13 。
徳川家康は、城攻めに先立ち使者を送り、お田鶴の方に降伏を勧告した。その内容は、「城を明け渡せば、亡き夫の領地をそのまま安堵し、妻子共々面倒を見る」というものであったとされる 13 。しかし、お田鶴の方はこの勧告を毅然として拒否した。その際に彼女が述べたとされる「妾(わらわ)婦女と雖(いえど)も己に武夫(もののふ)の家に生(はべ)るものなり、おめおめ城を開きて降参するは妾(わらわ)の志にあらず」(私は女ではあるが、武士の家に生まれた者である。みすみす城を開けて降参するのは私の本意ではない)という言葉は、武家の女性としての誇りと覚悟を示すものとして、多くの記録に引用されている 13 。
降伏勧告を蹴ったお田鶴の方は、徹底抗戦の道を選ぶ。緋縅(ひおどし)の鎧に身を固め、薙刀(なぎなた)を振るい、少数の城兵や侍女たちと共に城門を開いて打って出るなど、獅子奮迅の戦いぶりを見せたという 12 。侍女17~18名も主君と運命を共にし、壮絶な討死を遂げたと伝えられている 12 。この曳馬城攻防戦は激戦となり、徳川方も数百名の死傷者を出したと記す資料も存在する 13 。しかし、衆寡敵せず、お田鶴の方は城兵と共に玉砕した。時に18歳であったとも伝えられる 12 。
お田鶴の方のこの勇猛果敢な戦いぶりは、単に夫への殉死という側面だけでなく、飯尾家の名誉を守り、今川一門としての意地を貫き、そして残された者たちを最後まで守ろうとする強い意志の表れと解釈できる。彼女の抵抗は、徳川家康の遠江平定戦における一つの象徴的な戦闘として記憶され、その悲劇的な最期は「烈婦」「女武者」として後世に語り継がれることとなった 13 。彼女の生き様は、戦国時代における女性が、単に家を守る存在に留まらず、時には武器を取り、一軍を率いて戦うこともあったという、多様なあり方の一つを示している。また、彼女が降伏を拒んだ背景には、過去に夫・連竜が今川氏真に攻められた際、徳川家康に臣従を申し出たにもかかわらず、家康が救援の兵を送らなかったことへの不信感や、仮に降伏しても飯尾氏にとって茨の道しかないという冷静な状況判断があった可能性も指摘されている 12 。
お田鶴の方の死後、その勇気と悲劇的な運命を偲び、彼女を祀る「椿姫観音(つばきひめかんのん)」が建立されたという伝承が、浜松市中央区元浜町に残されている 9 。この地に咲いた椿の花が、お田鶴の方の流した血のように赤かったという話も伝えられており、彼女の記憶が地域の人々によって長く語り継がれてきた証と言えるだろう。
飯尾連竜とお田鶴の方の死により、遠江における飯尾氏の嫡流は事実上終焉を迎えるが、その血脈が完全に途絶えたわけではなかった。
飯尾連竜とお田鶴の方の間には、辰之助(たつのすけ)、辰三郎(たつさぶろう)、義廣(よしひろ)、そして正宅(まさいえ、通称:弥太夫(やだゆう))といった子がいたとされている 4 。長男とされる辰之助は、父・連竜と共に駿府で殺害されたという説が有力である 12 。次男の辰三郎については、母・お田鶴の方と共に曳馬城で討死したとも伝えられている 13 。
一方で、次男(あるいは三男か)とされる飯尾弥太夫(正宅)は、この戦乱を生き延びたとされる。彼は後に天正年間(1573年~1592年)に、現在の東京都渋谷区原宿付近に移住し、その地を「源氏山(げんじやま)」と名付けたと伝えられている 4 。この名称は、飯尾氏が源氏を称したことに由来するとされるが、前述の通り、飯尾氏の本来の出自は三善朝臣(漢族系とも言われる)とされており 3 、この源氏称姓の具体的な経緯や信憑性については、さらなる検討が必要である。戦国時代から江戸時代初期にかけては、家の権威付けや由緒を飾るために、著名な氏族の名を借りる、あるいは自称することは決して珍しいことではなく、飯尾正宅の源氏称姓もその一例であった可能性が考えられる。
遠江国における飯尾氏の嫡流は、連竜の代で絶えたと見なされることが多いが 6 、飯尾姓を持つ一族は、他の地域にも存在していた。例えば、飯尾氏発祥の地とされる阿波国では、飯尾氏の一族が細川氏や三好氏の被官として活動しており 5 、その一部は江戸時代には農民として存続したことが記録されている 14 。また、織田氏の支族とされる飯尾氏も存在し、尾張国を拠点としていた 6 。これらの飯尾氏と、遠江の飯尾連竜の系統との直接的な関係は必ずしも明確ではないが、「飯尾」という姓を持つ家が各地に広がり、それぞれの地域史の中で独自の歩みを刻んでいたことを示している。
飯尾連竜の直系は悲劇的な結末を迎えたが、その名や一族の記憶は、形を変えながらも後世に伝えられている。特に、東京の「源氏山」の伝承は興味深く、戦乱で敗れた武将の一族が、新たな土地で再起を図ろうとした姿を彷彿とさせる。
飯尾連竜とその一族は、歴史上の人物としてだけでなく、浜松の地域文化や伝承の中にもその名を留めている。
現在も盛大に行われている浜松まつりの勇壮な凧揚げの起源として、飯尾連竜(あるいはその父・乗連)の長男の誕生を祝って、城下で大きな凧を揚げたのが始まりであるという説が広く知られている 3 。この逸話は、飯尾氏と浜松の地域文化との結びつきを示すものとして語られることが多い。しかしながら、この説の主な根拠とされている江戸時代中期の文献『浜松在城記』(酒井真邑著)については、後世の創作や偽作であるとの説も有力であり、その史料的信憑性には疑問が呈されている 16 。したがって、この起源説を歴史的事実として断定することは難しい。
飯尾連竜の墓所とされる五輪塔が、静岡県浜松市中央区の東漸寺(とうぜんじ)の境内にある 9 。この寺は前述の通り、父・乗連が開創したと伝えられる寺院であり、墓石は元々浜松城内にあったものが、江戸時代に堀尾吉晴が浜松城主であった慶長年間(1596年~1615年)に現在地へ移されたとされている 9 。また、東京都渋谷区原宿には、連竜の子孫とされる飯尾氏の墓があり、その地は「源氏山」と呼ばれている 4 。
そして、連竜の妻・お田鶴の方を祀る椿姫観音は、浜松市中央区元浜町にあり、彼女が曳馬城で壮絶な討死を遂げた後、その霊を慰めるために建てられたと伝えられている 9 。この場所は、お田鶴の方が住んでいた椿屋敷の跡地であるとも言われている。
浜松まつりの起源説の真偽はともかくとして、飯尾連竜という人物が浜松の地域史において一定の知名度を持ち、人々の記憶に残り続けていることは確かである。また、各地に残る墓所や椿姫観音といった史跡の存在は、歴史上の人物とその出来事が、単なる記録としてだけでなく、信仰や追悼の対象として地域社会に根付き、受け継がれていることを物語っている。これらは、飯尾連竜とその一族の歴史が、文献記録の枠を超えて、人々の口承や信仰の対象としても生き続けていることを示す好例と言えるだろう。
飯尾連竜の生涯とその一族の運命を振り返るとき、いくつかの歴史的評価が浮かび上がってくる。
まず、飯尾連竜の生涯は、今川氏という巨大勢力の衰退と、徳川氏という新たな勢力の台頭という、戦国時代の大きな転換期に翻弄された遠江の国衆の典型的な姿を映し出していると言える。主家である今川氏の弱体化に伴い、自領と一族の存続をかけて離反と和睦を繰り返すも、最終的には旧主の猜疑心によって謀殺されるという悲劇的な結末は、当時の地方武将が置かれた過酷な現実を雄弁に物語っている 1 。彼の行動は、忠誠と裏切り、あるいは自立と従属といった単純な二元論では評価しきれない。むしろ、激動の時代を生き抜こうとした一人の武将の、極めて現実的な選択とその限界を示す事例として捉えるべきであろう。
次に、その生涯が後世に与えた影響も見逃せない。連竜自身の行動は、結果として今川氏の遠江支配の崩壊を加速させ、徳川家康の遠江平定を間接的に助ける一因となったとも評価できる。また、彼の死後、妻であるお田鶴の方が曳馬城で見せた壮絶な最期は、彼女自身の武勇と共に飯尾氏の名を後世に強く印象づけることになった 13 。浜松まつりの凧揚げ起源説(その真偽は別として)や、浜松市内外に残る墓所や椿姫観音といった史跡は、飯尾連竜とその一族が、単なる歴史上の人物としてだけでなく、地域の記憶や文化の中に、今なお生き続けていることを示している 3 。
飯尾連竜は、戦国時代の変革期において、旧体制(今川氏)から新体制(徳川氏)への移行の狭間で苦闘し、最終的にはその歴史の大きな波に飲み込まれた人物である。彼の死と、その後の妻お田鶴の方の奮戦は、飯尾氏という一家の滅亡の悲劇性を際立たせるとともに、戦国という時代の非情さと、そこに生きた人々の強烈な意志を我々に伝えている。成功者だけでなく、歴史の敗者となった者たちの視点からも歴史を読み解くことの重要性を、飯尾連竜の生涯は静かに語りかけていると言えよう。彼の物語は、戦国時代の多様な人間ドラマの一幕として、現代に生きる我々に多くの示唆を与えてくれるのである。